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リリララとランタンの身長差はそれほどない。垂れた耳をぴんと立ち上げればその限りではないが、それでも顔の位置は変わらない。
リリオンやレティシアを抱きしめれば甘えるように胸に顔を埋めることになるが、リリララを抱きしめると頬に相手の頬の温度を感じることになる。
締め切った夏の部屋は蒸し暑い。触れ合わせた頬に汗が浮く。
「もっと、強く」
リリララが告げ、ランタンは腕に力を込める。
引き締まったリリララの上半身は女らしい丸みに乏しい。それはリリオンのような幼さから来るものではなかった。蓮っ葉な振る舞いに騙されがちだが、いかにも華奢な少女の身体だった。
容易く肋骨同士が擦れ合って、リリララは熱っぽい息を吐く。
「もっと」
リリララはさらに言った。甘え求めるものではない。
ランタンは迷い、ふと腕の力を緩める。身体を離そうとするとリリララが背中に回した腕に、ランタンが力を抜いた分だけ強く力を込めた。
「もっとって言ったぞ」
「……なにこれ?」
叱るような口調に、ランタンは困惑の声で応える。
リリララは腕の力をそのままに大きく息を吐いた。身体を密着させているから、リリララの肺が小さく萎むのさえ伝わる。
「お前が私のお姫さまを、卵みたいにぐしゃっと潰しちまったら困るだろ? どれぐらい力を入れても大丈夫か、あたしで試すんだよ。だからほら、もっと強く」
リリララの本領はやはり土の魔道であり、あるいは兎人族特有の強靭な脚力だった。
腕力は少女のそれだ。リリララが隙間などなくなるぐらいぎゅっと抱擁を強めるが、ランタンは少しも苦しくなかった。
ひゅっ、とリリララが大きく息を吸った。
リリララがなにを言っているのかはよくわからないが、ランタンは望むように抱きしめる力を強める。万力をゆっくり締めるように力を込めていくと、リリララの鼓動が早くなっていくのを感じた。
このレティシアの忠実なメイドにして友人である少女は奇妙な癖がある。
日常的に身につける衣服は細い身体にさえきついものを好んだ。ランタンの手を取って、自らの首に指を回させたこともある。押さえつけられたり、締め付けられたり、そうしなければ肉体を保てないとでも言うように。
「もっと、もっと……」
息を吸って膨らんだ肺が肋骨に守られて、それでもランタンの腕力によって圧迫される。閉じた喉から酸素を消費した呼気が絞り出される。
心音はどんどんと早まっていく。リリララが本当に、子兎同然の小動物になってしまったかのように錯覚する。
それでもリリララはもっと強くすることをせがんだ。
「遠慮なんか、するな。ごしゅ、――ご主人さま」
言葉尻が震える。
他者を顧みない貴族の傲慢さを、例えばアシュレイやレティシアは有している。そしてそれは彼女たちにとってごく自然な振る舞いだった。傅く人々の後頭部を見下ろすことは、彼女たちにとって特別なことではない。
「あたしは、ご主人さまの、――あたしで、ためすんだ」
喘ぐような荒い呼吸。心臓の鼓動に身体が揺れる。リリララはランタンの背中に爪を立てる。抱きつくと言うよりもしがみつくような感じだった。
ランタンは背中に回した腕をそろりと下へ滑らせた。背中と尻の境目に、丸い兎の尻尾がある。ランタンはそれを優しく掴むと、押し込むみたいにして腰を引き寄せる。
これほどに密着するのは、もしかしたら顔を見られたくないからかもしれない。
リリララは頬を上気させ、肋骨の下で小さいままの肺に空気を送り込むためか唇はだらしなく半開きだった。息苦しさに瞳が潤んでいる。
向こうっ気の強いいつもの表情はない。
苦悶の表情の中には、間違いなく興奮が混じっている。
「まだ、強く。ううう」
爪を立てたまま拳を握った。ランタンの背中で服がくしゃりと皺になる。
リリララが震える声で囁く。
「レティは、――レティにも」
「うん」
「こんなにも強く……?」
「うん、そうだよ。リリオンはもっと」
「もっと――?」
リリララは無垢な子供のように繰り返した。
肌を合わせなければわからないことがある、と言うのをランタンは信じていなかった。
かつてはそんなものは幻想で、男の都合よく用いる言い訳の一つだと思っていた。
しかしそう言うこともある、と今は思う。まだ確証は得られていないが、少なくとも分かったような気にさせられる時がある。もちろん、例えばリリオンに愛されていることの、その点に於いてはまったく疑いの余地なく信じていたが。
相手の気持ちを察するというのは、言い換えれば相手の気持ちを決めつけることに等しい。
リリララを抱きしめると、この兎の少女の心が流れ込んでくるような気がした。
もともとは暗殺者として育てられた少女である。さらわれたのか、売られたのか。まだ幼い時にネイリング家の長兄であるヴィクトルを狙い、そしてその時一緒にいたまだ幼いレティシアに切り伏せられた。
それからリリララはヴィクトル預かりの従者となり、そして現在はレティシアの従者である。
誰かに従うことが、リリララの人生だった。そしてそれはレティシアの傲慢さに似て、もうすでにリリララの一部となってしまっている。
それは呪いのようでもあり、祝福のようでもある。
そういう自分の側にはいつでも堂々たるレティシアがいて、もしかしたらリリララはレティシアに憧れのようなものを抱いているのかもしれなかった。
ランタンはふいに腕の力を緩める。リリララは裏切られたかのように虚脱し、解放された肺は本人の意思とは無関係に空気を取り込んだ。
リリララはランタンの肩に顎を乗せるように体重を預けた。
強い力で拘束されることは、リリララにとっての背骨のようなものだ。ないと不安になり、あると安心する。
「はっ、はっ、はぁっ、はぁ、どうして、やめたんだ? まだあたしは」
「満足できない?」
ランタンはリリララの顔を見ない。支えるように腕を回し、頬を重ねたままにする。言葉を発するたびに頬の筋肉の働きを感じる。
体温が高い。夏の陽射しは部屋の中にあるもの全てを蒸すかのようだった。
「名前にリリがつく子は甘えん坊になるのかな?」
「なっ、なにを」
リリララが動揺する。動揺するほどにリリララはランタンにしがみつく。支えを欲する。
「あたしで――、なんて言い訳でしょ?」
人は誰でもそうだ。支えられると安心する。けれどそれをなんの衒いもなく求めるのは恥ずかしい。そう思ってしまって、つい取り繕ってしまう。言い訳が必要になる。
「レティは素直だよ」
リリララは黙り込む。垂れた耳がぴんと立ち上がったかと思うと、くたりと垂れる。
「知ってるよ。お前の話をする時のレティはいつだって幸せいっぱいだから」
「どんなこと言ってた?」
「教えない。あたしは、あんな風にはなれない」
「角まで生えちゃったからね」
ランタンは冗談めかして言って、笑いを噛み殺した。
「じゃあ、リリ繋がりでリリオンみたいには?」
「なれるわけ――っ!」
「してみてよ。リリちゃん」
ランタンが少し強い口調で言うと、ううう、とリリララは恥ずかしそうに呻く。
「あの子は抱きしめてほしかったら、こう言うよ。ぎゅーしてって」
「そんなの……あたしが、言うわけないだろ」
「そんなことはないよ。さっきはとても素直だった。もっと、もっとって。卵みたいにぐしゃって潰しちゃうかと思ったよ。ほら、リリララ」
「……して」
リリララが蚊の鳴くような小さな、小さな声で囁く。
ランタンは子供の残酷な無邪気さをこういう時に発揮する。
「なんて言ったか聞こえないよ」
リリララは強くランタンにしがみつきながら、絞り出すように言葉を放つ。
「――ぎゅーって、して」
ランタンは望みの通りリリララを抱きしめた。しかしただ抱きしめるだけじゃなかった。薄べったい上半身と違い、しっかりと丸みを帯びた兎人族の下半身を支え、抱きかかえる。
「な、なっ、おいっ!」
リリララを抱っこする。ランタンの両腕はリリララの尻を支えている。リリララは慌てるが、まさしく地に足が付かない。だからどうしたってランタンに強くしがみつくしかなかった。
ランタンはそのままリリララを影に落ちる壁際に押しつけて、ようやく身体を離した。離れた頬の替わりに、鼻先と額をくっつけた。
赤錆の瞳と視線が絡む。
ランタンはリリララという名のメイドに傅くことさえ許さなかった。色んな感情が綯い交ぜになった瞳は、うるうると潤んでいる。
「次はどうしてほしいか、言ってごらん?」
ランタンは偉そうに言った。
リリララは顔を赤くする。
素直に答える。
リリララは上機嫌で帰路につく。
帰り道は屋根の上だった。民家の屋根から屋根へと、メイド衣装のままに疾走する。その足取りは軽い。兎人族の面目躍如たる跳ねるような、飛ぶような足取りだった。だがその姿を気にかけるものはいない。
リリララはメイドにして隠密である。気配も足音も殺していた。
ランタン邸でひとっ風呂浴びたが、屋根の上を駆けている内に再び汗が吹き出してくる。
帰り際に頬張った氷は、大事にしていたのにもう溶けてしまった。
日の長い夏だが、街はすでに夕闇に包まれている。西の果てに夕焼けの赤が這うようにへばり付いており、蒸し蒸しとした暑さはしかし街にたっぷりと居残っている。
しかしあの部屋の暑さに比べたら、なんと言うことはない。
リリララは思い出して、恥ずかしい気持ちになる。しかしそれは少しも不愉快ではない。
浮かれているのが自分でも分かった。
レティシアはリリララの憧れだった。
主人であり、友人であり、魔道の弟子でもある。初対面の自分を問答無用に切り伏せた相手でもあった。その傷跡は今も身体に残っている。
そしてその瞬間にリリララはレティシアに憧れたのだ。自分を真っ直ぐに射貫いたあの緑柱石の瞳の美しさに。
しかしレティシアの真似をした自覚などない。
だがもしかしたら、例えばリリララの初恋はレティシアの今は亡き兄ヴィクトルだった。それは幼いレティシアの恋心を真似たものだったかもしれないと、ふと思う。レティシアも実の兄に淡い気持ちを抱いていた。
いやヴィクトルもいい男だった、と思いだす。真心から惚れるのも無理はない男だ。ネイリング領の女たちはみんなヴィクトルに熱を上げていた。あの恋心は決して真似ではなかっただろう。
ならば今この胸を焦がす衝動も、きっと真似事ではないはずなのだ。
「節操ないのもいいよな」
リリララは独り言ちる。ランタンとヴィクトルには似ているところがあった。それもその一つだ。
もしかしたらヴィクトルの落とし胤の一人や二人は、ネイリング領を探せば出てくるかもしれない。しかしヴィクトルはそういう振る舞いをして悪評が立たない得な性格をしていた。
女を泣かせたという話も聞かなかった。未帰還の報によって、男女関係なく多くの人々が涙を流したが。
そういう意味では、生きている分だけランタンに分がある。
リリララはしみじみ頷いた。
たん、と一つ大きく足音を立てて跳ぶ。通り一つ分を跳び越える跳躍だった。スカートが翻り、花のように膨らむ。肉付きの良い引き締まった足が一瞬だけ根元近くまで露わになる。
「おっと」
着地が少し乱れたのは、屋根に用いられた瓦が少し浮いているからだった。気分の良いリリララはその瓦を踏み付けて固定すると、鼻歌交じりに魔道でそれを直してやった。
住人が物音に気が付いたのか窓を開け、屋根の方を見上げて首を傾げる。リリララの姿は見えない。
リリララは小さな鼻を動かした。
「夕飯の匂い」
窓の向こうから夕飯の香りと、家庭の声が聞こえてくる。小さな子供のいる家だった。
帰り際にリリオンは夕飯を作っていた。
リリオンは素直で甲斐甲斐しい。リリララにとってあれも一つの憧れであることは間違いないだろう。言い訳などまったく不要な強い魂を持っている。あんな恥ずかしい台詞、平気で言えるなんて信じられない。
友人を送り届けてきたらしいローサと入れ違いに、リリララはランタン邸を後にした。
ローサは帰るや否やリリオンを手伝いに行った。二人揃って夕飯に誘ってくれたが、レティシアが待っているからと断った。
ランタンが門の外まで見送ってくれて、少年が少し恥ずかしそうにしているのが愛らしく思えた。氷を頬張り、頬を丸く膨らませるランタンはローサよりも子供のようだった。
「はあ、……はよ帰ろ」
呟き、屋根の棟を小走りに駆ける。
家を一つ二つと通り過ぎ、リリララはふと背後に気配を感じて振り返る。
夜が迫っていた。星も見えない夜空が、最後の夕焼けを塗り潰そうとしている。
遮るはずのない屋根に不思議と影が落ち、リリララは後ろに跳んで距離を取る。
「よく育った」
男の声がすぐ近くで囁かれる。
リリララの耳が、それがまやかしであることを看破する。自分の居場所を攪乱するいやらしい技術だ。
リリララは身動ぎ一つせず油断無く構える。普通に生きていたら必要としない技術だった。探索者にも必要ない。
影が人の形となった。暗色のぶかぶかした貫頭衣に身を包んでいる。顔は見えない。
「誰だ」
答えが返ってくるとも思わず問い質したが、予想に反して答えがある。
「育ての親だ」
それは幼児期に刻み込まれた呪いの一つだった。薬も魔道も用いていない。ただの技術であるがゆえに、気付くのが難しい。
リリララは心音が一つ跳ねるのを感じる。眠気に似て頭が重くなり、鋭く睨んだ瞳が半眼に緩む。
「指令に失敗したときはさすがネイリングと思ったが、そのまま殺しもせず、娘の傍に置くとはなんと愚かなことだろうか」
貫頭衣の男は、懐かしげにそう言った。
男は各地から子供を集めて殺しの技を教え込む組織に属している。暗殺者ギルドの亜流にあたる組織だった。組織で育った子供たちはその技を必要とする人や集団に売り払われたり、あるいは組織に持ち込まれた依頼をこなすための道具とされたりする。
リリララは後者だった。使い捨ての道具である。道具であるがゆえに、少しの遠慮もなく使い潰すように仕込まれていた。組織に忠実たれ。それが心の奥深くに刻み込まれた暗示だった。
「信頼を得るのがこの仕事では一番難しい」
言葉には二つの意味がある。依頼をこなし依頼主の信頼を得ること。そしてそのための最善手、暗殺対象の信頼を得ること。
「――よ」
聞き取れない。それが組織におけるリリララの名前だった。
「当時の狙いはドゥアルテだったな。指令の変更だ。レティシアの命を奪え」
冷酷な言葉が告げられる。それはリリララの胸に浸透した。
美しい主の顔を思い出す。
ふと顔を上げる。
一切の予兆なく、男の足元にある瓦が変形した。それは虎挟みのように男の足首に食い込む。そしてぎりぎりと食い込んだ鋭い牙が、肉を食い破りながら蔦のように絡み左右の足を縫い付ける。
避けることなどまったく不可能だった。
「が――」
そればかりではない。腕を、そして口さえも縫い付ける。
リリララは唇に人差し指を当てる。
「しっ。家族の団欒を邪魔するんじゃねえよ。飯食ってるその上で、まさかおっさんが穴だらけになってるなんて気味悪いだろ。せっかく美味い飯作ってくれたお母ちゃんに悪ぃよ」
屋根の下には平和な家庭がある。
自分はやはりなかなか素直にはなれはしないと思う。殺しの技を教えた師をすっかり騙し込んだ演技はなかなかのものだった。
十年余りの年月は自分を成長させた。教育の恐ろしさは今でも憶えている。芋虫のように這う男は教師の内の一人であるらしい。当時は見下ろされただけで身体が震えたものだ。
「残念だったな。お前みたいなやつを一人残らず皆殺しにするのがご主人さまから与えられた私のお役目なんだ」
レティシアはもちろん、ランタンも、リリオンも、そしてローサも、完全な平和の中で生きているわけではない。
彼らを狙うものたちは多くいる。例えばガーランドのメイドとしての役割には、今リリララが行っているようなことも含まれており、その役目を充分に彼女は果たしている。
リリララは男のフードを毟り取った。そこにはどこにでもいそうな髪の薄い中年の男の顔がある。人混みの中で埋没する、暗殺者向きの顔だった。
リリララは男の耳に泥を注ぎ込み、男の目を泥で塞いだ。
塞がれる寸前の男の目が雄弁に語っている。
「なぜって? あたしの心はとっくにお前らのもんじゃない。そしてあたしのものでも、もちろんないからさ」




