305
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館の改装が一先ずの落ち着きを見せたのはすっかりと夏になった頃だった。
館の顔でもある玄関広間は、まるで博物館のようになっている。
四方の壁を全て飾り棚にして、そこには迷宮由来品が並べられている。しかしまだまだ空の部分が圧倒的に多い。
職人たちによる仕事は終わり、ここからはランタンたちの暮らしによって家は作られていく。
「これ、全部埋めるつもり?」
「そうだよ」
角ある魔物の頭骨の骨格標本を手に取り、気味悪そうに眺めていたミシャがそれを戻すや振り返り、呆れるようにそう言った。
一角獣のものだろう頭蓋骨はぶ厚く、中身が失われていないのではと思わせるほど重い。側頭に穿たれた穴は、それが致命傷になったことを示している。
強く目を引く存在感だが、棚に戻せば無数のある内の一つでしかなくなる。
「おじいちゃんになるまで探索を続ける気?」
「そうだよ」
ランタンは素っ気なく頷いた。
老人になるまで探索者を続けられるものがどれほどいるだろうか。老いるためには迷宮から生き延び続けなければならない。多くの探索者はその前に命を落とす。例え実力者だろうと老いには勝てない。老人とまでいかずとも、中年にもなれば帰還率は下がる。
ランタンはふと思いついたように言う。
「さすがミシャだね」
「なんのこと?」
「エドガーのおじいさまに喧嘩売ってるんじゃないの? やっぱり運び屋は根性が違うな」
「滅多なことを言わないで……!」
ミシャは慌てて庭の方へと視線を向ける。その視線は壁に遮られるが、壁の向こう側ではエドガーとテスが遊びで剣を交えているはずだった。
「もう、ランタンくんは。言っていい冗談といけない冗談があるわ」
「言いつけないから安心してよ。それに、そんなに時間は掛からないんじゃない? 迷宮ってけっこう、まあ今さらなんだけど、面白いものがあるし」
飾りたいものがあるから棚を作ったと言うよりも、棚を作ったから何かを飾りたいとランタンは思った。
興味を持って迷宮を探索すれば、迷宮には面白いものが幾つもある。今まで探索者ギルドに売り払ってきたものもの中にも、惜しいと思えるものもあった。
「男の人ってそうよね。一度凝り出すとどうしようもないんだから」
今のところ博物館のようになっているのはこの玄関広間だけだったが、奥の大広間が浸食されるのも時間の問題だった。
「これはなんだ?」
レティシアが棚に幾つか並んでいる密閉瓶の一つを手に取った。
「それは黴、――発光菌の一種」
「黴?」
「うん、砂糖水を食わせると爆発的に増殖するよ。やってみる?」
砂糖水を垂らし、蓋を閉めて、内部全体に行き渡るように激しく振るとものの十秒で瓶の内側が黴で覆われる。ランタンがレティシアの手ごと瓶を包み込んで影を作ると、薄ぼんやりと発光しているのが確認できた。
「ほう、光源の代わりか」
「魔道光源より安くて、火を使うよりは簡単かな。ちょっと光量が足らないけど。面白いのは魔精を与えても光ることだよ。つまり砂糖は魔精だったんだよ」
「なるほど、――ってそんなわけあるか。騙されないぞ」
ランタンの頭を軽く小突いて、レティシアは瓶を戻した。
「しかし武器類が見当たらないな」
棚に飾られているものは雑貨ばかりで、レティシアの言う通り武器や防具はなかった。
迷宮由来品の主役と言えばやはり武具だ。伝説の、などと語られるものは大抵が迷宮由来品だった。
「お兄さまもシーロも迷宮探索へゆくたびに何かしらを持ち帰って自慢し合っていたぞ」
懐かしそうに目を細め、竜種の尻尾がゆらゆらと優雅に揺れる。
「花を持って帰ってきたことなどあったかな?」
逆さに吊された枯れた花束は、清涼感のある冷たい香りがする。ただ枯れているのではなく石化していた。逆さに吊しているのは、そうしないと花びらの重みで細い茎が折れてしまうからだ。
「武器はあっちにあるよ」
ランタンは右手側にある扉を指差す。
「入ったところはね、作戦室にしたんだ。探索者ギルドの大地図を再現したんだよ、それで、奥が武器庫になってる。そっちもまだぜんぜん少ないけど」
ランタンは自分が少し早口になっていることを自覚していなかった。隠しきれぬ誇らしさが言葉の端々にある。レティシアは微笑ましく思い、口元を緩めて頷く。
ネイリングの屋敷から少年が去って行ってしまったのは寂しいものだったが、こういう姿を見られるのは悪くはなかった。
この館がランタン色に染まっていくことが、よりいっそうランタンがこの世界に根付いたことの証拠であるように思える。
「戦鎚以外にも手を出すのか?」
「まあ色々使えることはいいことだし、一通りは使えるようにしておこうかなって。リリオンも意外と器用だし、ローサはベリレに武芸百般を仕込まれているし」
ランタンは少しだけ唇を歪める。苦々しく眉根を寄せた。
「苦労しているようだな」
「馬術がどうもね。乗ろうとすると馬が怯える。ローサも自分に乗れ乗れってうるさいし」
「乗ってやればいいじゃないか」
「遊びで乗る分にはいいけど。妹の背に乗る兄って心情的に最悪じゃない?」
「まあ、わからないではないか。必要なら軍馬だろうが竜種だろうが用意してやるぞ」
「ほんと? でも迷宮から一頭引っ張ってこようかって考えてるんだよね」
「そいつをまた飾るのか?」
「乗るんだよ」
「――おい、いつまで喋っているんだ」
広間の床には陶器の破片が広げられ、修復作業が行われている。
作業の中心人物は王権代行官であるアシュレイだった。床に座り込んで、黙々と破片を合わせる作業を行っている。隣ではルーとリリララも手伝っている。ミシャもしれっと作業に加わっていた。
レティシアが臣下の礼を取って作業に加わる。ランタンも腰を下ろした。
「これは結局なにが出来上がるんだ?」
「これは――」
レティシアの問い掛けに答えようとするとアシュレイが顔を上げて鋭い視線を寄越す。
「レティ、こういうものはそれを聞かないのが粋というものだろう」
「申し訳ございません」
「よろしい。では口ではなく手を動かすように」
どうやらアシュレイはこのような作業が嫌いではないらしい。
幼馴染みでもあるレティシアも知らない一面だったが、それもしかたがないことだ。アシュレイ自身も作業を始めるまで、これほど自分がのめり込むとは考えていなかった。没頭していた。
レティシアが完成している部分に目を向ける。
「四つ足の獣か」
既に仔馬の四つ足は膝上まで完成していた。
青白い陶器の脛、先端の蹄は三つに分かれてどこか鳥類を思わせる。ここから馬の姿を想像するのは難しいだろう。ランタンやリリオンでさえ復元したその形を見て自分たちが拾ったものが何だったのか疑わしくなったほどだ。
しかし専門家に頼らず、暇を見つけてはちょこちょこと作業をしていただけであるが驚異的な修復速度だった。
円柱状の足は強く弧を描き、破片であっても見分けが付きやすいので集中的に修復した。しかしそれにしてもよく直っているのには別の理由があった。
どうやら誰も見ていないところで、この仔馬は自然と修復しているようだった。
「自動修復か」
「ほんとに細かい破片とかは、もっと多かったもん。ほら繋ぎ合わせた罅が日に日に薄くなっていくよ」
「魔物として死んでいないと言うことか?」
「いや、魔精結晶は拾った。物質系は不思議だね」
「死して道具となったわけか。うーん、そういえば魔剣と剣型の魔物となにが違うのかという話を聞いたことがあるな」
「レティ」
アシュレイに名を呼ばれ、レティシアは誤魔化すような咳払いをして作業を始める。
意外な才能を発揮したのはミシャで、もしかしたら機械弄りと通じるところがあるのかもしれない、何気なく手に取った破片同士が合致する確率が高い。
レティシアはあまり細かな作業を好まないのかもしれない。
ふと顔を上げる。
「――何かいい匂いがするな」
「レティシア。まったく書類仕事ばかりさせすぎたか」
アシュレイは作業をしたままそう言って、鼻腔をくすぐる香ばしい香りに食堂の方を振り返った。
リリオンは厨房で料理を作っている。
収穫できた鱗芋は食材として優秀だった。生育がよく、一株から山と収穫できる。今のところ病気にも強く、芋自体も強固な皮に覆われて害虫、害獣を寄せ付けない。
包丁で切るとしゃりしゃりと林檎のような小気味よい音を立て、ぬるりと糸を引く。
山芋の仲間のようだった。
しかし硬い皮を剥かぬまま火にくべれば芋の持つ水分で蒸し焼きになり、食感はねっとりする。芋自体にはこれと言った味はなく、素朴な甘みだけがあって他の食材の邪魔をしない。
蒸したものに塩と油分を足して練り、他の蒸し野菜に絡めると一風変わったポテトサラダになった。甘みを入れて冷やすとデザートとしても十分通用する。
リリオンは丁寧に皮を剥いて、適度な大きさにそれを切ると大きなすり鉢の中に放り込んでいく。
すり鉢をクロエとフルームがしっかりと支え、ローサがすり粉木でそれを潰そうとする。
「わ!」
「ローちゃん気を付けて!」
「やさしくするのよ」
芋を潰そうとすると、ぬるりと鰻のように逃げてゆく。
「うん」
ローサは大きなすり粉木で、慎重に芋を潰す。
リリオンは鉢に投げ込む芋の大きさを細かくして、ぎこちなかったローサの働きぶりも次第に熟れていく。しゃりしゃりと音を立てていた芋が次第に滑らかさを帯び、空気を含んで綺麗な黄白色となった。
「それぐらいでいいわ」
リリオンの言葉にローサが動きを止め、額の汗を拭う。すり粉木を鉢から抜こうとすると、粘り気を増した芋が長く糸を伸ばした。鉢が引き寄せられるほどだ。
「わあ」
包丁を入れると、ぱつんと弾力ある切り心地がする。これにふるいにかけた小麦粉を加え、よくこねる。
パン生地だった。
すり鉢から出して、打ち粉をした調理台で更にこねてゆく。
「よいしょ、よいしょ!」
「二人とも上手ね」
小さな身体を目一杯使って体重をかけている様子は微笑ましい。
調理台はリリオンに合わせているので踏み台を使っているのだが、その上で爪先立ちになったり踵を下ろしたりする。これを極めてゆけば震脚の一つでも踏めそうだった。
「ほんと、リリオンさま? いつもお手伝いしているの」
「あら、えらいわね」
犬人族と猫人族の二人は双子のように同じ表情で笑った。お手伝いと表現しているが少女たちはこの歳でしっかりと働いていた。孤児院の子供たちは、教会が運営する探索者用の宿泊施設で日々さまざまな雑務をこなして給料を得ていた。やがて来る巣立ちの日のための予行演習でもある。
「ローサは?」
「ローサも上手よ。弾力が出るまでしっかりとね」
「うん!」
三人がせっせと生地をこねている間に、リリオンは膨大な量の食材を手際よく調理していく。ガーランドは火の様子を見ながら、ちらちらと少女たちに視線を配る。
取れたての夏野菜に、お土産の魔物肉。塩漬けされた牛肉をじっくりと蒸して、繊維状にほぐしてゆく。味見をすると少し濃いがリリオンは納得したように頷いた。
「おねーちゃんこれでどー?」
綺麗に丸めた生地に指を入れる。生地はへこむが、ゆっくりともとの形に戻ろうとする。
「うん、いいわ。じゃあ伸ばしていきましょう。綺麗にできるかしら」
「はーい」
三人は三つ子のように返事をした。
調理台に再び打ち粉をして、綺麗に丸めた生地を棒状に伸ばし、一握りほどの大きさに切り分けてゆく。それを手を広げたほどの大きさに薄く円形に延ばしてゆく。
なかなか綺麗な円形にはならない。
「食べちゃえば同じよ」
四人は秘密を共有するみたいにくすくすと笑いあった。
焼き窯はすでに火が入れてあった。種火はランタンが生みだしたものだった。釜の内部は高温になっており、パン生地を入れるとものの数秒で焦げ目がつく。
程良いところで取り出すと、何とも香しい香りが漂う。
「あちち。熱いから気を付けるのよ。はい、はい、はいローサもどうぞ」
「いーの?」
「いいのよ。味見は作る人の特権なんだから。ガーランドさんもね」
リリオンはいたずらっぽく笑う。
焼きたての薄焼きの芋パン。縁はかりっとしているが、全体的にしっとりとした焼き上がりだった。焼くと生地の黄色がやや濃くなる。生地内の空気が膨脹して、ところどころ膨らんでいた。
それにリリオンが作った具材を乗せ、くるくると巻いてかぶりつく。
「んう」
パン生地のもちもちとした歯ごたえと、不思議と軽い口当たり。芋と小麦の甘さが食材の味を引き出し、また具の濃い味付けが生地の甘さを引き立てる。鼻にふかし芋のような甘い香りが抜ける。
「わあ、おいしい!」
「リリオンさま、お料理上手!」
「でしょう。んふふ、三人も一緒に作ったのよ」
ローサは二口で食べてしまったので、頬をぱんぱんに膨らませている。
感想を言いたいのに言えなくて、表情一杯に美味しさを表現していた。
「さあ、じゃんじゃん焼くわよ」
「おー!」
四人の少女が拳を突き上げる。
ガーランドはそのノリに乗りきれない。ひっそりと下げた手を拳にする。
「みなさーん、お料理ができたわよ-! もうおしまい!」
庭では無数の探索者がざわざわしていた。
彼らはランタンとともに迷宮探索をした探索者たちだった。
土産を渡すや、館にも入らずなにをしていたかと言えばエドガーとテスの手合わせを観戦していたのだ。
二人はそれぞれ抜き身の刀を二振り手に、一足一刀の距離を空けて対峙していた。殺し合いをしていたわけではない。二人とも傷一つなく綺麗なものだった。
「これぐらいにしておきましょうか」
「うむ、そうだな」
「わがままに付き合っていただき感謝します」
テスは軽やかな動作で二刀を腰の鞘に納め、折り目正しく一礼をする。
その姿を見た探索者が響めいた。なにせ彼女は全ての探索者に畏れられる探索者ギルドの武装職員テス・マーカムである。
エドガーは駆け寄ってきたベリレの捧げる鞘の内に刃を納める。
「付き合わせてしまったのはこちらの方だろう。せめて五体満足ならば、……それでも老いには勝てんかな」
ぎこちなく左の義手を動かし、言い訳を口にする己を楽しむような苦笑を浮かべた。テスは何も言わずただ笑みを返すだけだ。
ランタンはつい二人の足元を見た。地面に刻まれた足跡は複雑で、どのような戦いが繰り広げられたのか想像が付かない。
「もう、テーブルの用意ができないじゃない。これじゃあ、お料理をどこに置けばいいのかわからないわ」
「ちゃんとしないとダメでしょ。おとななんだから」
リリオンが叱るように言うと、ローサとクロエとフルームがそれに同調した。
少女たちに叱られた探索者たちが大慌てでテーブルを用意する。
ローサがその背中に乗せて運んできた大量の料理を手分けをしながらテーブルの上に並べていく。
遅れてアシュレイがやってくると探索者たちが動きを止めて、膝を折ろうとする。
「よい。今日は諸君らと同じ一人の客である。楽にしてくれ」
アシュレイが制止し、探索者たちはそれぞれ顔を見合わせると作業の続きに戻った。
机と椅子、料理と酒を用意し、最後に夏の強い陽射しを和らげるような荒織りの天幕を張って席に着く。
「ではランタンに挨拶を」
それぞれが酒杯を手にし、皆は自然とアシュレイに視線を向けるが当のアシュレイはあっさりとランタンにその視線を誘導した。
「え、いやだ」
「いやだ。ではない。それは主人の勤めというものだ」
「いよっ、ランタン」
「うるさいよ」
テーブルの一席から飛んできた野次に睨みを利かせ、ランタンは本当に嫌そうな顔で渋々立ち上がる。
「ええっと迷宮の攻略と、怪我の完治、それから――」
「長えぞ!」
「――それから夏の空と美味しそうな食事と顔を出してくださったアシュレイさまに。乾杯!」
「乾杯!」
「かんぱーい!」
探索者がそれぞれ手にした酒杯を一息で空にして、アシュレイの前だというのに獣のように食べ始める。ごつい男の探索者が乙女のようにもじもじとエドガーに話しかけ、勇ましい女の探索者はアシュレイに声を掛けられて少年のように頬を赤らめる。
「怪我治ってよかったですね」
「肺は一個潰れたがな」
重傷からようやく復帰した虎の戦士は何事もなくそう言った。
「探索は止めるが、探索者は続ける。ギデオンに声を掛けてもらったんだ」
「へえ」
「下を指導してほしいそうだ。俺の持ってる知識や技術をくれてやれだとよ。そうやって続いていくんだな人間ってのは。おっと悪いな」
ランタンが酌をすると、戦士は美味そうに酒を飲み干す。
急にランタンの肩を抱くものがいる。既にかなり酒臭い。
「おおい、ランタンてめえよお。リリオン料理上手くていいなあ、もうなんだよー。くそう、女紹介してくれよお、う、ううう」
絡み酒だった。ランタンは爪を立てて肩に置かれた手を退かす。
「アシュレイさま紹介してって言ってなかった? だからお呼びしたんだけど。声かけてきなよ」
ランタンが冗談ともつかぬ顔でそう言うと、涙ぐんでいた赤ら顔からさっと血の気と涙が引いた。
アシュレイは女の探索者たちに囲まれている。探索者の女は一見粗野だが、それでもやはり美しさというものへの憧れは捨て難くあるようだった。宮中の逸話を聞いてうっとりとしている。
言葉を交わしているアシュレイは探索者の中にあってひたすらに優雅だ。嫉妬も抱けない。それはいっそ幻のようである。
ランタンたちの会話を聞いて睨みを利かせる女探索者と違い、余裕の笑みを浮かべる。
「おや、私の夫となろうという男がいるのか」
さして大きな声ではない。しかしよく通る声だ。百戦錬磨の探索者たちが圧倒されて黙り込む。それを見てアシュレイは、まったく、と溜め息をつく。
「だらしがない。我こそはと言うものはいないのか」
「では俺が!」
「よろしい。では我が騎士に見事打ち勝てば考えてやろう」
「ええええええええええええええええええええ!」
テスが立ち上がると、挙手した男は騙し討ちを食らったみたいに悲鳴を上げる。
「骨は拾ってやるぞ!」
「男を見せろ。玉砕しろ!」
「探索者の恨みを晴らしてこい!」
「おいジャック弱点教えてくれ」
「ない」
無責任な応援を背に、男は半泣きでテスに挑みかかって瞬殺された。ランタンに絡んでいた男は既に身を隠している。
「……お姫さん、一生独り身でいるつもりか?」
「もったいねえ」
「じゃあお前行けよ」
「無茶言うなよ。相手は狂犬だぞ。命が七つあっても足りねえよ。そんなこというならお前行けよ」
「裸で迷宮行く方がましだ。よし呑もう」
「そうだな」
諦めた男たちがアシュレイを盗み見ながらやけ酒を呷る。実際、アシュレイやレティシアは見ているだけで酒の肴になった。
「あの絵描きのお兄ちゃんはいねえのか?」
声を掛けたが、宴会にアダムスは不参加だった。
「あの人、また迷宮行ってる」
「迷宮!? 探索者にでもなったのか?」
「魔道ギルドに雇われてる」
アダムスからその話を直接聞いたのは、ランタンが立て替えた借金分の絵皿を完成させて持ってきた時だった。
その時のアダムスは少し肉付きと血色がよくなっており、絵を描くことを続けるとランタンやローサに宣言した。そうやって生きていくことを。
「迷宮の様子を絵に残す仕事なんだって。魔物やなんかは持って帰ってこれても、迷宮は持って帰れないからね」
「へえ、迷宮に取り憑かれた男がまた一人。いったいなんなのかねえ、迷宮って」
パンは既になくなりつつある。男は魔物肉の甘辛煮を素手で口に運ぶ。
「迷宮だけが理由でもなさそうだけど」
「なんだ? ガキでもこさえたのか?」
マリはアダムスが立ち直るや、彼の下から去って行った。
どうやらマリはそういう女性らしい。くすぶっている男が大好きで、そこから男が脱却するや離れていく。
彼女は売れっ子の娼婦である。彼女によって立ち直った男は数知れず、しかし彼女から離れられない。あるものはマリを聖女と呼び、あるものは女神と呼んだ。虜になった男たちはしっかり稼いで、彼女を振り向かせようと入れあげる。魔性の女である。
「迷宮より怖いな。女って」
声を潜める男たちに、ランタンは同意も否定もしなかった。アダムスが立ち直ったのは事実だ。本当にダメになりそうな時、それを支えきった女の強さである。
「おにーちゃーん。んー、んふふふ、なにのおはなししているの?」
ローサがランタンの背中に甘える。背中に擦りつけられた顔がはっきりと熱い。ローサの口元を汚していたのは迷宮苺で作ったジャムだった。ランタンの背中が赤くなる。
「どうしたんだよ。あ、お酒飲んだな。ダメじゃないか」
「おさけー? おさけってなーにー? あはははは」
「明るくていい酒じゃないか。見込みがある。酔いを覚ますには迎え酒が一番だぞ」
「わあ、ありがとう。おじさん」
「おじ……」
冗談で差し出された酒杯を奪うや、ローサは止める間もなく空にする。赤ん坊のような小さなげっぷをして、それには小さな炎が混じっている。
「ねえ、ローサ、たんさくしゃになりたいんだけど」
「おー、いいじゃないか。なれなれ、探索者証代ぐらいなら出してやるぞ」
ローサは蛇のようにランタンに纏わり付く。
「けちけちするなよ。ランタン」
ランタンが困っている様子が面白くて、探索者たちは無責任なことを言った。
「おにーちゃんがなってもいいよっていってくれないとだめなの」
ランタンはローサと向かい合って、酒に火照った頬に手を触れさせる。
「そんなに探索者になりたいか」
「うん」
「探索者になるには、よく食べて、よく寝て、よく学ばないといけないよ。大変なことも沢山あるよ」
「おにーちゃんやおねーちゃんがいるからへいき。ローサたんさくしゃになる」
ランタンは一瞬リリオンの方を見た。リリオンは淡く頷く。
「なるか。探索者に」
「ほんと!?」
ローサは燃えさかった。
「ローサたんさくしゃになっていいの?」
「いいよ。でもちゃんと約束は守るんだよ」
「うん! よくたべて、よくねるよ!」
ローサは満面の笑みを浮かべるや、さっそくテーブルの上に残った料理に挑みかかった。
天幕にローサの炎が燃え移った。
仔牛を一頭乗せられるような大皿に残った料理をローサは猛烈な勢いで平らげる。
大皿はアダムス渾身の一作だ。
宮殿前で宴会をする探索者たちが色彩豊か、表情豊かに描かれている。
見ているだけで腹が減りそうな賑やかな絵が現れて、ローサがびっくりしたように叫んだ。
「めいきゅうだ!」
天幕が焼け落ちる。灰が花びらのように舞った。
真っ青な夏空にぎらぎらした太陽が浮かんでいる。
探索者がまた一人、産声を上げる。




