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カボチャ頭のランタン  作者: mm
02.Some Day My Prince Will Come
30/518

030 ☆

030


 帰り際に薬物中毒者の姿が目についた。

 煙草のようにぷかぷかと煙を(くゆ)らせながら嗜んでいる者もいれば、死体のように大人しくトリップしている者も、けたたましく笑い転げている者もいる。

 誰も彼もが怪しく見えたが、彼らはきっと前からもそこにいたのだ。ただ今まで気にも止めなかっただけで、おそらく。

 下街に転がっている薬物中毒者をいちいち気にしていたら、住処に帰るまでにノイローゼになってしまう。ランタンはすれ違う薬物中毒者から視線を外して溜め息を吐き出した。

 自分に比べてリリオンのなんと余裕のあることか。

 リリオンは繋いだ手を大きく振ってとろけたように頬を緩めている。

「ねねね、ランタン」

「なんだい?」

「わたしに聞いて」

「何を?」

「趣味は何って、わたしに聞いて」

 そう言ったリリオンは、なんとなく言い渋ったランタンの手を引いてもう一度、ねぇ聞いてよ、と甘えるような声を出した。

「……趣味は何ですか?」

 ランタンが嫌そうに聞くとリリオンはわざわざ立ち止まって、繋いだ手を離すとそれを胸に当てて、鼻をつんと上に向けた。そして勿体ぶるように一つ呼吸を置いて口を開く。

「――正義よ!」

 どうだと言わんばかりに言い放ったリリオンにランタンは生温い視線を送った。だがリリオンはその視線に気づきもせずに満足げな表情をしている。きっとその瞳にはテスの姿を幻視しているのだろう。

「どうだった? かっこ良かった?」

「んー普通」

「なんでよ!」

 ランタンが言うとリリオンは憤って声を荒らげるが、ランタンはそれを無視して歩き出した。リリオンは慌ててランタンを追ってその手を掴んだ。そして抗議するようにその手をぶんぶんと振る。

「テスさんはあんなにかっこよかったのに……」

 趣味を正義と言い放ったテスは確かに格好良かった。ランタンもその台詞を聞いた時には、少しばかり胸が高まったものだ。おかしいな、と唇を突き出すリリオンには残念ながら格好良さは微塵も感じられない。

 だが年相応の微笑ましさはある、とランタンはその横顔を優しげに見つめた。

「ねぇ、ランタンもやって!」

「嫌だよ」

「大丈夫、ランタンは格好いいから」

「いやです。そもそも僕の趣味は正義じゃないし」

 少しだけ真似したいなと思わなかったわけではないが、実際にそれをするかどうかはまた別の話だ。ランタンは恥ずかしさを隠すようにわざとらしくふんとそっぽを向いて歩調を速めた。

「ねぇねぇ」

 歩調を速めたというのにリリオンは平然とついてくる。身長差だけではなく、そもそもの腰の高さが違う。ランタンはふて腐れて結局歩みを緩めた。

「ランタンの趣味ってなに?」

「趣味? 僕の」

 ランタンは鸚鵡返しに聞き返して、そのまま沈黙した。リリオンはその沈黙を気まずそうに聞きながらランタンが口を開くのをしばらく待っていた。けれどランタンは口の中で音にならないほど小さな声で、趣味か、と繰り返すばかりなので、リリオンは困ったように腕を引いた。

「――ランタンって探索してない時って何してるの?」

「探索してない時は、――食べて、寝て、疲れを癒やす」

「他には?」

「探索の用意をしてる」

「えっと、他には……?」

「……何も」

 そう言ったランタンにリリオンは若干引いているようだったが、ランタンも自分で言ってあまりにも酷い生活を送っていた自分に気がついて落ち込んでいた。そこら辺の薬物中毒者だってもう少し人間味のある人生を謳歌しているだろう。

 今まで自分の生活を顧みるような真似をしたことはなかったが、まるで探索する機械のようである。

「ランタンは迷宮が、趣味?」

 恐る恐る尋ねるリリオンの言葉に頷くことは出来ない。

 迷宮に潜る際の緊張感や集中する事での高揚感は嫌いなものではないが、楽しんでいるわけではない。他にすることがないからひたすらに迷宮を目指しているのか、それとも迷宮に何か惹かれるようなことでもあるのか。

 探索はあくまでも仕事であって趣味ではない、と思う。

「あっ、風呂は好きだよ。毎日、入れるわけじゃないけど」

 背嚢の中には今日、買ったばかりの風呂用品が納められている。この世界にあって個人での風呂は高級な嗜好品であり、これを嗜むことは趣味と呼んで差し支えないはずだ。

 ランタンは自分に趣味があることを大げさにもそれが人間であることの証明であるかのように大いに安堵して、けれどすぐに失敗したと表情を歪めた。

「ランタンお風呂好きよね」

「うん」

「わたしも一緒にはいるからね」

「……うん」

「約束だものね」

「そんなに言わなくてもわかってるよ」

 生きていれば身体は汚れる。眠っていようとも汗は掻くし、垢も出る。汗の臭いは酸っぱく眉を顰めたくなるし、皮膚の上に薄く糊を伸ばしたようなべた付きは不快と言う他ない。汚れた身体は気持ち悪い。

 汚れた身体を清めたいと思う気持ちは避けがたい欲求である。

 その強烈な欲求は、濡れた布で身体を拭くだけでは満足させることはできない。そしてその欲求は、風呂を知ってしまったリリオンにも少なからずある。

 それならば二人一緒に入れば風呂水の節約になるので、二人で一緒に入ってもなんらおかしいことはない。安物な水精結晶と言っても無料ただな訳ではないのだから。

 一緒に風呂に入るのはそういう理由である。

 決してテスとの会話を終えた後に、狙われているかもしれないと言う推測を黙っていたことに憤るリリオンを宥めるために、少女の言い分をそのまま飲み込んだわけではない。五つも年下の少女に言い負かされたわけでは決してない。ただ、少し譲歩しただけで、ランタンの方が年上らしく身を引いただけで。

「ねぇねぇ、ランタンの趣味は何?」

「風呂――、ってもうやらせないでよ恥ずかしい」

 リリオンは帰宅後の風呂を待ちかねるように鼻歌を歌いながら、はやくはやくとランタンの手を引っ張った。まだ住処までの帰り道も覚束ないリリオンに手を引かれるのは不安だ。ランタンは前を行くリリオンを、その繋いだ手を手綱のように操って住処まで誘導した。

 住処までに厄介事に巻き込まれることはなかったが、それでも夕食を始めても良いほどの時間になっていた。

 ランタンは部屋に戻ると、どさどさと背嚢を下ろしその中身を取り出して整理するように並べる。その背中にリリオンがべたりと身体を預けて、整理するランタンの邪魔をしてくる。

「重いんだけど」

「先にご飯にする? それともお風呂にする?」

「それとも――わ、た、し?」

「……なに言ってるの?」

「何も言ってないけど、風呂にしよう」

 ぽつりと呟いたランタンに、リリオンは怪訝そうな声を上げた。ランタンは首をかしげるリリオンを無視して風呂用品を取り出した。

「食べてすぐ風呂に入ると消化に悪いんだよ」

「なんで?」

「たしか内臓を動かすための血が、皮膚の方に集まっちゃうんだったかな」

「ふぅん、よくわからないわ」

 ランタンは言いながら用意を終えると、背中に張り付くリリオンを引っぺがして立ち上がった。

「ほら、リリオンも用意して。それとも後で一人で入る?」

「待って、わたしもすぐ用意するから」

 リリオンと風呂に入ることが嫌なわけではない。ただ少し恥ずかしいだけだ。

 リリオンは座り込んで背嚢の中をがさごそと漁っている。ランタンは、人の気も知らないで、とその楽しげな背中を眺め、なんとなく後頭部で縛ってあった髪をするりと解いてみた。脂で濡れた髪は重たそうにもたりと広がった。

 それを見てランタンも自分の頭を掻いた。指先にべたりと油が纏わり付いて、爪の間に皮脂が入り込んだ。不潔なのはリリオンばかりではなく、同じように生活をしていたランタンもまた同様に薄汚れている。

「なにするの。もう、いじわるなんだから」

 視界に掛かる髪をリリオンは掻き上げて、胸に風呂の用意を抱きしめて立ち上がった。

 浴室として使っている隣の部屋はこの時間帯になるとさすがに薄暗い。天井に開いた穴からは仄暗い夕日が、まるで傷口から零れる血液のように染み出している。

「リリオン、これ。壁のフックにかけて」

「うん」

 リリオンに魔道光源(ランプ)を手渡して、その間にランタンは浴槽に小さなテーブルを引き寄せて水筒やタオルを置き、ばきんと水精結晶を砕いた。あふれ出た水が浴槽を満たしてゆく。浴槽半ば程度に水が溜まると、ランタンは爆発でそれを熱した。

 湯の中からするりと手を取り出して、ランタンは指先から水を払った。湯気には何か甘い匂いがあるような気がする。ランタンは水面を覗き込んで、その湯気を顔に浴びた。何時もより湯量が少ないせいもあり、少し熱くなりすぎたかもしれない。

 爆発能力はどうにも匙加減が難しい。

 ランタンは熱めの湯が好きだが、リリオンはどうだろうか。

 ランタンが振り返ると白い裸体があった。何一つ恥ずべき事がないとでも言うように、何一つ隠していないリリオンが仁王立ちをしている。驚くよりも何よりも先に呆れてしまった。

「なんでもう脱いでるの?」

「ランタンも、ほら、わたし脱がせてあげるわ」

「いや、いいから」

「ねぇ、もう入って良い?」

「だめ。まずは身体洗ってからね。自分で洗える?」

「洗えるわ!」

 前に風呂に入ったときは自分では出来なかったくせに、とランタンは肩を竦めた。そんなランタンにリリオンは頬を膨らませながら手を伸ばした。

「でもランタンはわたしが洗ってあげるからね、だからランタンはわたしを洗って」

 ランタンはぐいぐいと服を脱がせようとするリリオンを押し止め、自分で服を脱いだ。

 露わになった引き締まった腹筋から、つつつと擽るようにリリオンの視線が上がっていくのを感じる。肌着から頭を抜くと自然と目が合った。リリオンが微笑み、ランタンがズボンを脱ごうとするとその視線は下に動いた。

「リリオン」

「なに?」

「ちょっと目(つむ)って」

「どうして?」

「ちょっとでいいから」

 瞼を下ろした隙にランタンは全裸になって、買ったばかりの櫛を手にして腰を下ろすリリオンの背後に立った。

 全裸で少女の背後に佇む。

 これはこれで変態的だな、と奇妙な背徳感に襲われながらランタンはリリオンの髪を一房手に取った。

 それを合図にするようにリリオンは瞼を持ち上げてランタンを振り返ろうとしたが、ランタンがその頭を掴んでそれをさせなかった。

「大人しくしててね」

 そう言い聞かせるとランタンはリリオンの髪を(くしけず)った。絡まった髪を(ほど)き、雲脂(ふけ)や汚れを落としてやるとリリオンは気持ちよさそうに甘い声を漏らす。

「髪を洗うのに、どうして髪を()かすの?」

「こうしてから洗った方が綺麗になるんだよ。よし、お湯かけるよ」

 湯船を一度かき回し桶にたっぷりと掬ってリリオンに浴びせると、それだけで白い髪は色を深くした。不思議な色の髪だ。雪のように白くも見えるし、薄桃にも薄紫にも、時には銀にも見える。

「今日は石鹸もあります」

「ランタンすっごい真剣にえらんでたもんね」

「まぁね」

 それは象牙色(アイボリー)の綺麗な石鹸だ。花の精油から作ったのか、それとも香料を使っているのかさわやかな香りがする。この石鹸は高級品だ。一度安い石鹸を試しに買ってみたら、えぐみのある臭いがしてランタンにはとても使えるものではなかった。リリオンに石鹸を泡立てたタオルを渡すとわぁと嬌声を上げた。

「良い匂い」

「髪洗ってる間に身体洗っちゃいな」

 ランタンは桶に湯を少量掬うととその中に石鹸を溶かし、その石鹸湯をリリオンの髪に馴染ませた。揉むように頭皮を洗い、そこからゆっくりと毛先に向かって手を動かしてゆく。少しだけ髪が軋むような感じがするが、その為の髪油もきちんと用意してある。

「痒いとこない?」

「んー? おへそ」

「それは自分でどうにかしろ」

 なんだか毛足の長い獣でも洗っているかのようだ。リリオンの長い髪を洗うのは手間でもあり、なかなか楽しくもある。手間に楽しみを見つけるなんて、もしかしたらこれは趣味と呼べるのかもしれない、とふと思った。

「リリオン洗えた?」

「うん」

「じゃあ流すからね」

 趣味リリオンの世話、なんて洒落にならないな。ランタンはくつくつと笑いながらくだらない思考を泡と一緒に洗い流した。

「ん、綺麗になったね」

「ありがとう。じゃあ次はランタンね。わたし洗ってあげる」

「自分で出来るから良いよ。先に入ってて」

 ランタンはそう言って、ほらどいて、と追い払うように手を振る。するとリリオンは拗ねるでも怒るでもなく、はっきりと傷ついた顔をした。せっかく綺麗になった顔を暗く歪めて、わたしできるのに、と小さな声で呟いた。

「――あー、じゃあお願いしようかな。髪を洗ってもらおうかな」

 ランタンは慌てて頭からざばりと湯を浴びた。

 何なんだ一体、と背後の気配を探っていると、そろりと石鹸湯が頭に垂らされて、リリオンの指が髪を掻き分けて頭皮に触れた。爪を立てることなく、指の腹で柔らかく頭皮を揉んでいる。

 思わず声が漏れた。

「あぁ……これは、――気持ちいい」

「ほんとう?」

「うん、すごい上手かも」

「えへへ、ランタンもすごい気持ちいいのよ」

 リリオンは髪の付け根から頭頂に向かうように頭皮を揉み、耳の後ろまでしっかりと指を這わせた。それはランタンの髪の洗い方そのものだった。ランタンは眠たくなりそうなほどの気持ち良さを堪えながらどうにか身体を洗った。指先で皮膚をこするとぽろぽろと垢が剥がれた。

「かゆいところはない?」

「……へそ」

「わかった!」

「冗談だよ! ばっ、やめ、ひぃ」

 背後から伸ばされた手が(へそ)に向かってくる。リリオンは脚ばかりではなく腕も長い。おまけに石鹸を纏いつるつると滑るので捕まえることが出来ない。だがこのままでは臍を貫いて内臓を掻き回されそうだったので、ランタンはすんでの所でそれを押しとどめた。

 冗談を言うのにも命がけだ。

「じゃあランタン目つむって」

「はぁ、お願い」

 たっぷりの湯で身体を洗い流すと、その肌は黄金に輝いている。薄皮を一枚剥いだように皮膚は柔らかくすべすべとしている。その身体を後ろからリリオンが抱きすくめた。

「ね、わたしできるでしょ?」

「うん、そうだね。ありがとう。放して、すぐに、今すぐ」

「だいじょうぶ、わたしが入れてあげるからね」

 まるで幼子が人形を相手に世話を焼くようにリリオンは有無を言わさずにランタンを抱え上げた。ちょこんと浴槽に爪先を入れて、あつい、と小さく声を漏らす。

「水でうめるかい?」

「……だいじょうぶ」

 リリオンは意地を張るようにそのまま浴槽に身体を沈めた。浴槽には湯が半ば程まで張ってあるだけだが、二人一緒に入るとそれは肩まで迫り上がった。

「う゛あ゛ー」

 確かに湯の温度は熱い。皮膚がぴりぴりと痺れるような感覚がある。ランタンは低く喉を震わせて呻き、リリオンは熱に痛みでも感じているのかランタンの身体にしがみついた。

 熱いなら熱いと言えばいいのに。

 ランタンは呻くような笑うような声を漏らしながら手を伸ばしてテーブルの上から小さめの水精結晶を取ると、それを湯の中に沈めて砕いた。結晶は音もなく砕けて、溢れ出た水が湯の中に混ざった。結晶の破片が水中で数秒間きらきらと光っていたが、それはやがて氷のように溶けてなくなった。

 ぐるりと一度湯をかき混ぜると、表面張力が働くほどになった水面が浴槽の縁からこぼれ落ちる。

 リリオンはそれでようやく気持ちよさそうな声を漏らして、強張らせていた身体から力を抜いた。それだけでびっくりするぐらいリリオンの身体は柔らかくなった。

 ランタンはもう開き直り、それが高級な背もたれであると自己暗示をかけてリリオンに身体を預けた。ランタンがもたれ掛かるのと同じように、リリオンもまたランタンの肩に顎を乗せて力を抜いた。

 互いに互いの身体を支え合ってしばらく微睡(まどろ)むように大人しくしていると、湯の中に在って、その湯に浸かった身体にさえもなおじっとりと汗が噴き出すような感覚があった。

 リリオンの顎からから垂れた滴が、ランタンの鎖骨の窪みを満たす。リリオンの吐き出す息が熱っぽく耳朶を舐めた。

「リリオン水飲んどきな。湯あたりする前に」

 リリオンがもぞりと動いてテーブルから水筒を取った。唇の零れる水がランタンの背中を濡らした。その冷たさもまた心地よい。少しのぼせかけているのかもしれない。ランタンはリリオンから水筒を受け取り、自らも喉を潤した。

 リリオンの膝に手をかけてランタンは立ち上がった。肌を滝のように水が流れ濛々と湯気が立っている。惰眠暴食の三日間に少し脂肪を蓄えたランタンの身体は引き締まっていながらも少し柔らかそうで、熱されて仄かに桃色になったその身体にリリオンが小さく唾を飲んだ。

 ランタンは排熱するように太く息を吐いてテーブルに水筒を戻すと乾いたタオルで手を拭いた。そしてそこに重ねられた紙の束を手にとって再び湯の中に身体を沈めた。

 そうすることが当然であるかのように、リリオンの股の間に尻を納めて、そのちょっと膨らんだ胸に背を預けた。

「ランタン、それって」

 紙の束は司書から貰った手配書だ。持ち出し厳禁の製本されたものではなく複写らしく紙の質はあまり良くない。暇つぶしに持ってきたが、もしかしたら湯気にでさえ溶け出してしまうかもしれない。

「リリオン、読める?」

「わたし読めるよ! 読んであげようか」

「じゃあお願いしようかな」

 ランタンはそう言って白々しく手配書を広げた。

 弓使いを抜粋した手配書だが、黒い部屋で最初に見せられた手配書の束を思えば驚くほどその枚数は少ない。それは弓使いに善人が多いと言うわけではなく、ただ単に探索者に弓使いが少ないだけだ。

 探索者の馬鹿げた膂力と、その膂力を以てしか引くことの出来ない強弓は千メートル以上の長距離射撃をも可能にするが、迷宮の構造はたいていは閉所であり、そもそも千メートル以上の直線をとれるような迷宮は滅多に見ない。

 あるいはその半分の五〇〇メートルであっても、魔物によってはものの数秒、下手をすれば一瞬で詰められる距離であり、一射外せば、どころか複数の魔物が現れた時点で、その戦闘はほぼ詰みだ。

 それに探索者の膂力で振り回せば打撃武器としても十分な威力を発揮する剣などの近接武器とは違い、弓はどうしても相応の技術の習熟が必要である。即物的である探索者にはそんなまどろっこしい時間を耐えられる者は少ない。

 無論、弓が全く役に立たないわけではない。魔物から見つかっていない場合には一方的に戦闘を進めることも出来るし、ランタンの大嫌いな飛行能力を持った相手にも大いに役に立つ。高位探索者にも弓使いはいる。が、やはりそれは突然変異のような稀である。 

 結局は副武装として取り回しの良い短弓を持つ者がせいぜいだ。

 ランタンがぺらりと手配書を捲ると、リリオンがその内容を読み始める。

「ばいろん・おーるてぃす。人族。身長およそ一七〇センチ、体重八十キロ。三七歳。へいしゅ探索者。髪色が金。目の色が茶。みぎきき。背中にくさり模様の入れ墨あり。ざいじょう、傷害、強盗、殺人――」

 少しもたつきながら手配書を読み上げるリリオンの甘い声を聞きながら、ランタンはその声に導かれるように文字を追った。知っている単語の数が絶対的に足りていないな、とランタンは自嘲するように目を細めた。

 はっきり言って、これを見たところで弓男の正体が判明するなどとはこれっぽっちも思っていない。行動を起こさないことへのもどかしさを少しだけ和らげ、弓男の雰囲気をある程度想像するのに役に立つくらいだろうか。

「さぎ、殺人。――迷宮侵入。――きょうはく、放火、殺人。――ギルドへのぶじょく行為。――殺人。――通貨ぎぞう、殺人。――人身売買」

「しっかし、人殺しばっかりだね」

 探索者ギルドが手配書を書く基準がどこにあるのかは知らないが、少なくとも殺人が禁忌であることは間違いないようだ。探索者ギルドが人道的な組織なだけなのか、それとも。

 ランタンは水面から手を出したまま鼻先まで湯の中に沈んでぶくぶくと泡を吐いた。人の命が軽いとはいえ、やはりそれが罪であることに変わりはないのだろう。

「まだ読む?」

 ふて腐れたようなランタンの姿にリリオンがそっと囁いた。どうやら気を遣わせてしまったようだ。リリオンはランタンの腹を撫で(さす)っている。

「ありがと、もう良いよ。弓使いには碌な奴がいないね」

 手配書に善人が載っていたらそれもまた驚きだ。ランタンはひひひと笑いながらふやけて波打ち始めた手配書をテーブルに戻し、そんなランタンを見上げるリリオンの頭を撫でた。リリオンが大きく瞬きすると睫毛に乗った汗が涙のように垂れた。

 今度は向かい合うようにランタンが湯船に身体を沈めると、リリオンは身を乗り出して、その頭をランタンの胸に寄せた。まるで心臓の音を聞くように。

「どうしたの?」

 甘える仕草に、ランタンは湯ごとリリオンの髪を掻き上げる。リリオンが唇を動かすと、唇の端が皮膚に触れていることが感じられた。

「どうして、わたしなのかしら」

 なんで狙われているの、と重ねられた言葉にランタンは一瞬口を噤んだ。出会った時とは比べものにならないほど肉のついた身体が、胸の中で再び小さく細くなったかのように感じた。

「さぁなんでだろうね」

 髪を撫でた手をゆっくりと首に、そして肩に回した。沈みそうなほどのリリオンの身体を抱えなおして、ランタンはもう一方の手で額に張り付いた髪を剥がしてやった。

「お金だとか、弱そうだからだとか、気に入らないだとか。もしかしたら理由なんて無いのかもしれないね。テスさんも言ってたけど、どうにも悪い奴は多いみたいだし。ただ何となくってことも無いわけじゃない」

 何せ相手は薬中の阿呆共とそれを取り纏める弓使いなのだから。

 ランタンは胸の内から顔を見上げるリリオンの形の良い丸い額を指で擽る。リリオンは、なにするの、ランタンを見上げて眉尻を下げた。

 ランタンはふと真面目な表情を作って、リリオンの淡褐色(ヘーゼル)の瞳を覗き込んだ。

「リリオンが可愛いから(さら)いたくなったのかも」

「へ? わぁ、なに急に!?」

 さらりと言ったランタンにリリオンは慌てて視線を逸らした。そして顔を隠すようにランタンの胸に額をぐりぐりと押しつけた。そんなリリオンにランタンは真面目だった表情を一変させて、してやったりと笑ってみせた。

「うー……でも、それなら、ランタンの方が狙われちゃうわ」

「なんで?」

「だってランタンはかわいいし、小さくて持って帰りやすそうだもの」

 そう言ってリリオンは胸の中でころころと笑い声を上げた。

「小っちゃくないよ」

「ランタンが捕まったときはわたしが助けてあげるね」

「捕まらないって、小さくないから」

「あら、どうかしら?」

 リリオンは意味深に微笑むと、不意にランタンの背に腕を回してその身体を抱きかかえて立ち上がろうとした。

「ほら――、あ、あれ?」

「ほら、大丈夫でしょ?」

 立ち上がろうとしたリリオンはびくともしないランタンに目を丸くした。ランタンは片手で浴槽の縁を掴んでおり、その指先がまるでめり込んだようにランタンの身体を浴槽内に固定していた。

 リリオンが片手をランタンの背に添えたまま、もう一方の手で腕を撫でて縁を掴んだ手に忍び寄った。そしてその掴んだ手を剥がそうとしてかりかりと爪立てて引っ掻いた。

「取れない……」

 伊達に来る日も来る日も迷宮に潜り続けて、戦槌を振り続けて、魔物を殺し続けて、その青い血に染まったわけではない。リリオンは良い匂いがすると言ってくれるが、ランタンはたまに生臭い鉄が香る気がする。

「リリオン」

「ううう、なあに?」

 リリオンはいよいよ両手を使い縁を握った手を外しにかかり、ランタンの呼びかけになおざりに答える。その必死な姿にランタンは頬を緩め、その指先も緩めた。

 そしてその手でリリオンの手を掴んだ。

「わ、なに、ランタン?」

「大丈夫」

 ランタンは掌を合わせるようにして指を絡めた。

「こうしてれば離れることはないよ」

 迷宮探索は趣味ではないし、志があってのものではない。

 だがこうして役立てることがあるのなら、今までの行いは無駄ではなかったのだろうと、そう思った。


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