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「なんでよ!」
女は今までのしおらしさをどこにやったのか、カッと頬を赤く染めて火山のように声を張り上げた。握り締めたナイフの柄に罅が入りそうなほど手に力が入っている。
水筒の水だけでこれほど回復をするとは、探索者向きであるとも言えた。
「あ、いや、……なんでですか」
「もう敬語はいらないから、普通に話せばいいよ」
はっと我に返り慌てて畏まる女に、ナイフが危なそうだな、とランタンは鞘を渡した。木製の簡素な鞘はナイフの格とは吊り合わない。後から別で用意したものなのだろう。
女は気を落ち着けるようにそっとナイフを鞘にしまった。
ランタンは女の膝の上に置かれた水筒を掴むと、水精結晶に衝撃を与えてその中を水で満たした。声を張り上げたせいで女の喉はまた枯れかけている。ランタンは女に飲むように促した。だが女はそれを受け取っただけで、口を付けはしなかった。じっとランタンの瞳を見つめて、ランタンが口を開くのを待っている
「僕は単独探索者だから……運び屋は必要ない。理由はそれだけ」
ランタンが簡潔に理由を告げると、女はキッとランタンを睨んだ。
「あなたはわたしのことを馬鹿にしているの!? いくら単独だからって、たった一人で迷宮入りする馬鹿はいないことぐらい、わたしだって知ってるわ!」
ランタンは嘘を言ってはいないが、女の言うこともまた真実であった。
本来、探索者は集団を組み迷宮を探索するものだ。何が起こるか判らない迷宮での様々な事態に柔軟に対処をするためには個人の技量を高めるよりもまず、数を揃えることが重要だった。各々の得意な役割を以って、他者の不足を補う。これが探索者集団の基本である。もっとも集団の人数が増えれば、その分だけ頭割りに収入は目減りしていくので多くても集団が十人を超えることは稀であるが。
そんな探索者の中にあって単独と冠する者の人数は少ないが存在する。だが真に孤独を伴って迷宮に探索する者を、ランタンは自分の他に出会ったことがなかった。
集団での探索とは違い、単独で迷宮を探索する為にはまず己を高めることが重要であった。急な魔物の襲撃や迷宮道の天然罠に対処するためには荷物は枷でしかない。だが探索道具を持たずに、着の身着のままで迷宮に入るのはただの自殺でしかない。
故に単独探索者であっても、運び屋は連れて行くのが常のことだった。ならば何故単独と言うのかと言えば、運び屋は探索者ではないので、これを伴っても探索者集団ではないという言葉遊びのようなものだった。
ランタンはどうしたものかと肩を竦めた。勢いで馬鹿と言われたが、真実なので気にはならない。たった一人で迷宮に潜るランタンは、馬鹿以外の何者でもない。
だが馬鹿なりに言葉を弄しなければ女は納得しないだろう。
「まぁ仮に、僕が運び屋を連れ立つとしよう」
「……」
「君を選ぶ利点は何がある?」
「わたし、お給料はいらないし、料理は結構得意よ! がんばります!」
ランタンは上から下まで女の姿を見回した。
痩躯に襤褸。靴だけは比較的まともだが、探索を行うには頼りない。女を迷宮探索に連れて行くには、時間と少なからずの金銭投資が必要だ。頭の天辺から爪先までの装備品一式を揃えて、探索に耐えうる体を作るために何日か食事を用意してやらなければならないだろう。
ランタンは探索から帰ってきたばかりで休養が必要なので時間的なことは問題はないが、女をまともにするために必要な金銭を使うのならば、その金でギルドで自らを運び屋として売り出している探索者見習いを買ったほうが手っ取り早い。
それに迷宮で手の込んだ料理を作る余裕はないし、ランタンが持ち込む食料の殆どは探索者ギルドが販売している未調理で食べることができる探索食である。
「……外の迷宮に何度かもぐったことがあるわ。あなたには迷惑をかけないから!」
女は言葉を絞り出すように言う。
都市が管理する区域以外に生まれる迷宮のことを鄙迷宮と言い、その攻略難易度は管理迷宮よりも比較的低いことがほとんどだ。ランタンは侵入者の男たちの装備を、金目の物を回収する際に改めたが、その装備から推測するに女が潜ったことのある鄙迷宮は、引き上げ屋を使用しなくても第一階層に降りられるような緩やかな入り口を持つ、ごく低難易度の迷宮だろうと予想された。
それを迷宮ではないとは言わないが、その迷宮の浅い階を彷徨いたぐらいで迷宮に潜ったと吹聴するのは詐欺のようなものだ。
「僕に案内役をさせるつもりなの?」
金銭によって探索者を雇い、迷宮を案内させるというのは珍しい話ではない。
未熟な探索者集団が熟練の探索者を雇い迷宮内での実践指導を受ける新人養成に始まり、金持ちの道楽として探索者を護衛として雇い、日常にはない危険や探索者と魔物との戦闘を間近で楽しむという迷宮探訪まで、案内役の需要は様々にある。
女はさしずめ新人養成といったところだろう。だが複数の探索者が金を出しあって、ようやく一人の熟練探索者を雇う新人養成は無一文の女には縁遠いものだ。
「そんなっ、つもりじゃない!」
女は駄々を捏ねるように頭を振って、必死にランタンの言葉を否定した。
「でも事実、君は素人みたいなものだよ。装備も、金もない。下街にわんさかいる孤児たちと変わらない」
「でも……!」
「探索者になりたい?」
ランタンが言葉を続けると、女は頷く。どういう理由かは知らないが、女は探索者になることに固執している。
「探索者になりたいんなら、そこの巾着を握りしめてギルドに行けばいい」
そうすればすぐにギルドが、あなたは今日から探索者です、と探索者証を発行してくれる。それはまさに最も判りやすい探索者の証だ。
「わたしが、なりたいのは……」
名前だけの探索者ではないのだろう。ランタンは言葉が少し突き放し過ぎだった、と唇を舐めた。そういえばこんなに長く人と会話をするのは久しぶりだ。ランタンは少し喉に痛みを感じ始めていた。
「探索者証を買ってそれで終わりにするかどうかはきみ次第だよ。……きみは、今はちょっと痩せすぎだけど、体格だって悪くないし、身体能力だって、多分優れてる。探索者としての適性がどうかは知らないけど、きちんと肉をつけて、それなりに身奇麗にすれば運び屋として雇ってもらうこともできるはずだ」
ランタンは女の手から水筒をすり取ると、一口水を呷った。女の視線が顕になったランタンの白い喉を追った。
「そこで、さっききみが言ったみたいに頑張れば、そのままその集団に勧誘される事もあるだろうし。そうではなくとも、まともな経験を積むことができる。そうすれば少なくとも素人からは抜け出せる」
ランタンは女が受け取らなかった収奪品を指さした。
「なんなら少しぐらいならそれに加えて、何日か分の生活費を与えてもいい。僕の運び屋に、こだわる必要はないさ」
ランタンは女の身体能力のその片鱗を垣間見ただけだが、その力を十全に発揮することさえ出来れば多くの探索者集団からの勧誘があるだろう。運び屋としてではなく探索者としての勧誘が、だ。
女は静かにランタンの説明を聞いていた。先程までの怒りや戸惑いを全て腹の中に収めています、といったように顔を澄ましていたが、眉や瞳に抑えきれない感情が見え隠れしていた。だがそれは腹に収まった感情ではない。また別の感情が浮かび上がっているのだ。
女の眉間には浅い皺が寄り、眉尻がわずかに下がっている。そして女は柔らかく口を開いた。
「あなたはとても優しいわ。わたしのこと、すごく気をつかってくれてる」
ランタンは黙っていた。女が言うほど自分を優しいなどとは思っていなかったが、肯定も否定も口に出すほどのことではない。
「ねぇ、わたし、探索者になれると思う? ギルドで証をもらうんじゃなくて、探索者としてやっていけるって思う?」
「僕は他人に評価を下せるほど、偉くはないよ」
「……なんとなくでいいの、教えて」
女はランタンが探索者に向いていない、と告げたとしても探索者を目指すだろう。今までのやり取りでランタンはそう感じていた。
「きみのこと、何も知らない」
それでもランタンは重たげに口を開いた。真摯な女の瞳が痛い。
「だけど……ぼくの前に立ちはだかった時、あの時の動きは素晴らしかった。ぼくの戦鎚を避けられる奴は、そんなにいない。……同業者の中にもね」
探索者になれるかどうかの判断を、女の問にどれほど真剣さがあったとしても、ランタンは軽々しく明言はできなかった。世の中には探索者の仕事を迷宮遊山などと揶揄する者もいるが、探索者の仕事は命がけだ。女に太鼓判を押すまではいかなくとも前向きな評価を下すというだけで、ランタンには断崖の先端で女の背を押すような気分になる。
ランタンは女の能力を買っていたが、これがランタンに言える最大限の言葉だった。
「やっぱり、わたし、あなたの運び屋になりたい。……わたしそんな風に、すばらしいなんて、初めて言ってもらったわ」
女はランタンの言葉を包み込むように胸の前でそっと指を絡めた。
「……堂々巡りだね。ぼくは単独だ。……運び屋を連れて行かない馬鹿な単独探索者だよ」
ランタンが唇に薄い冷笑を浮かべた。童顔なので酷薄さも迫力もないが、女は小さく震えた。女の色の薄い唇が一文字に横に引き伸ばされ、唾を飲み込みこんだ喉が音を立てる。女が旋毛を押されるように、頭を下げた。
「ごめんなさい。……そんな人を聞いたことがなかったから、その……でも今はあなたが嘘を言っていないって、信じられるわ」
髪がざらりと滝のように流れて、床に折り積もった。そのまま言葉を探しているのか女はしばらく頭を下げたままでいた。頭のその奥に頚椎が皮膚を押し上げて浮きだして見えるのをランタンはぼんやりと、女が頭をもたげるまで眺めていた。
「ねぇ」
口を開いた女の白い頬が響くように震えた。
「ねぇ、どうして? どうして運び屋をやとわないの?」
「それは」
「なにか一人にこだわる理由があるの?」
「それは――……」
ランタンは言葉を詰まらせた。
ランタンは一年程前にこの世界に這い出てから、常に一人であった。
ここに来る前にいた生まれ育った国やその国がある世界から、ランタンは自分の意志とは関係なく落とし穴に落ちるように、急にこの世界の迷宮に放り出されたのだ。気がつけばそこは攻略された迷宮の中で、今まさに崩落している最中だったのを覚えている。
この世界に落とされたことは不幸だったが、ランタンは幸運にも生きて迷宮から這い出し今日まで命を繋いできた。
一人で生きてきた。
世界も常識も、何もかもがランタンの知らないことばかりで、頼る事のできる人間は一人もいなかった。ランタンは金も知識も行動力も、何も持ち合わせていなかった。
一時的に奴隷身分に置かれたこともある。清潔で、大人しく、常識知らずで、悪くはない顔をしていたランタンは気がついたらそんな状況に陥っていた。恐怖のあまり従順だったのが功を奏したのかそれほど手酷い扱いは受けなかった。それどころか白痴のように物を知らなかったランタンはこの世界の常識を教えられた。
危険な世界で天涯孤独。それがランタンの認識した当時の状況だった。
奴隷を抜け出し探索者をやっているのは、力を得たからだ。努力して身につけたものではない。この世界に放り出されたその時、頭の中から名前を失い、その隙間に寄生虫のように入り込んできたその力は、暴力的で探索者向きだった。
探索者ギルドに登録をすると、徒党を組んだり、運び屋としての契約を求めたりする同じ探索者見習いたちを横目に、ランタンはその日から一人で迷宮に潜り続けた。
「なんでだ……?」
ランタンは小さく呟いた。両手で頭を抱えて、ガリガリと爪を立て、髪の毛をグシャリと掻き回した。
一人で居ることは当たり前の事だったので、今まで考えてみたこともなかった。この世界の常識や秩序は野蛮だが、そこに生きる人々が信用のならない人間の屑ばかりではないことをランタンはもう知っている。思い返せば探索者集団に勧誘されたこともあるし、女のように運び屋をやると言った者もいた。その時も考えもせず誘いを断っていた。
頼る人間を知らなかった最初とは違う。
奪われるだけで力の無かった奴隷時代とは違う。
何が真実かを知らなかったあの頃とは違う。
ランタンは顔から表情を消して、床に落ちる自分の影と顔を突き合わせていた。口の中で言葉にならない言葉を小さく呟き、頬を引き攣らせ、苦笑し、まるで自分自身と相談事をしているようだった。
「わからない」
ランタンはグシャグシャになった髪をかきあげるのと同時に顔を上げた。その瞳の中には苛立ちと困惑があった。
「一人で居ることに理由なんかない」
拗ねるように唇をつき出すと、童顔のランタンがさらに幼く見える。
女はそんなランタンを見てパチリと目を瞬かせるとニコニコと表情を崩した。それを見てランタンはさらに嫌な顔つきを作ってみせた。
「ね、それならいいじゃない。一人の理由がないのなら、二人だっていいはずだわ」
「だけど……」
女の言葉にランタンは口を開いたが、その先が続かなかった。ランタンはわざわざ頭を悩ませて否定の理由を探している自分に気がついたのだ。
「逆に聞くけど、ぼくに拘る理由って何があるんだ。探索をするなら、もっと大勢が所属してるところに行ったほうが安全だよ」
ランタンはどうにか言葉を吐き出して、その薄ら寒さに自分でも嫌気が差していた。謝る機会を逸して意固地になる子供のような気分になった。いや、まさに今のランタンは歳相応の少年だった。
「わたしを恩知らずにさせないで……わたし、がんばるから!」
女の真っ直ぐでひたむきな言葉もさらに、ランタンを切り裂くのだ。ランタンはもう、女の瞳をまともに見られなくなっていた。視線が枷を嵌められたように重たく沈む。
皮を剥いだ木材のように白く硬い、女の首が目に入った。わずかに膨らむ胸が、鼓動を刻み上下に動いている。膝の上に固く握り締めた指が、色を失って震えていた。
女はランタンの言葉を待っている。緊張ではなく、恐怖を握りしめながら。
その固くこわばる拳に見覚えがあった。行くあてがなくて座り込んだ下街の薄暗い路地で、軟禁された奴隷小屋の狭苦しい一室で、初めて潜った迷宮の安全地帯で、ランタンも同じように拳を固めた。
孤独に耐えるように、恐怖に叫ばないように。
「ああ、くそ」
ランタンは拳を固めて、二度三度、自分の額を打ち付けた。
急なランタンの行動に女が慌てて椅子から立ち上がり、縺れ転がるようしてランタンの手をとって、包み込んだ。温かい手だ。
女がすぐ目の前にある。
白く線を引くような傷跡が見えた。紫に染まる痣や、赤く腫れる痕が露出した皮膚に浮き上がっている。相対したり、引きずったり、抱きかかえたり。ランタンは何度も女の傍らにあったが、それらの傷を今はじめてそれを見たような気がした。ずっと見えていたのに、気にもしていなかった。
探索で付いた過去の傷、私刑でついた新しい傷。
女が探索者崩れの輩と行動を共にしていた理由は。奴隷首輪を嵌められた経緯は。家族は。これまでの日常は。
女の境遇は、この世界では、ありふれているとは言わないが珍しい話ではない。笑い話にするか、同情するか。でもそれで終わりだ。困っている誰彼に手を差し伸べていたら体が引き裂かれてしまう。そんなことは聖人か、狂人か、馬鹿のすることだ。
ランタンは女の姿に自分を見た。
ランタンだって求めていた筈だ。自分を救ってくれる何かを、強く願っていた。誰も彼もが恐ろしく感じて、元いた世界に帰りたいと何度泣いたか。自分を通り過ぎた人間を、何度心の中で呪い罵倒したか。
ランタンは女を眩しく感じた。
ランタンは恐ろしくて、助けを言葉に出すことはできなかった。それでいて誰かに助けられたかった。女は不器用だが、ランタンに手を伸ばしている。求めるものをランタンはよく知っている。
元の世界で人に優しくするのは当たり前のことだった。ランタンにとってそれは当たり前の事のはずだったのだ。出来る事、出来無い事は様々あったがそれでも、一度拾った捨て猫を無理だったからと何の感情もなく放り出すような真似は恥じるべきものだと知っていた、筈だ。
出来ないことの多かった過去とは違い、今のランタンには力があった。
女を暴力の渦から引き上げた力が。魔道の拘束をとき解いた力が。助けを求めた女の手を取る、その力が。
「ねぇ、急にどうしたの? だいじょうぶ?」
女の声にランタンは、前を向いた。
「ああ、大丈夫。……ちょっと死にたくなっただけだ」
「えっ! ね、ほんとにだいじょうぶなの!?」
女の声がランタンの顔面にぶつかって弾けた。まるで頬を張られたようだ。気持ちがピリッと引き締まる。
女の顔が、睫毛が絡まりそうなほど近い。ランタンは女を押しのけて、大きく一つ深呼吸をした。
「……大丈夫だよ。きみと迷宮に潜らないといけないしね」
ランタンが頬を緩めながらそう言うと、女は惚けた。一切の表情が消えた顔は赤子のように無垢だ。その無垢さは一瞬で喜色に染まった。花が咲くような笑みを浮かべて、そして押しのけたランタンの腕をかい潜り、ランタンの頭をその胸にかき抱いた。迷宮に潜った時が楽しみになるような、素晴らしい動きにランタンは反応できなかった。
「ほんと?」
「本当だよ」
「うそじゃない?」
「うそじゃないよ」
「なんで急に?」
「なんとなくね」
「わたしがんばるから!!」
「がんばってね」
このままだと女はランタンを持ち上げてぐるぐると振り回し踊り出しそうだったので、ランタンは体を捻って蛇のようにするりと女の腕から抜けだした。
手品のように腕から消えたランタンに女が目を丸くする。
「……! すごい!」
声を上げた女に、ランタンは照れるように笑った。
興奮した女は、新品の靴を買ってもらった子供のように、今すぐにでもランタンの腕を引いて迷宮特区へと飛び出しそうな勢いだった。だがランタンは袖を掴む女の手を、羽虫でも払うかのように軽く叩いて、どさりとベッドに腰を下ろした。
女はきょとんとして、首を傾げてみせた。
「その格好で、何処行くつもり?」
ランタンが言うと、女は自分の姿を見下ろした。まるで愛玩動物の毛並みを整えるように自分の髪を手櫛でガシガシと掻き回し、部屋中の掃除をした雑巾を仕立てたような一張羅の皺を伸ばした。
「どう……かな?」
女ははにかんでランタンに問いかけた。
「動く死体って感じ」
「ひどい!」
詰め寄ろうとした女をランタンは追い払い、椅子に座るように示した。
動く死体は見た目だけの話ではない。
女に限った話ではないが、この国では庶民はほとんど風呂にはいるという習慣がない。七日に一度、濡らした手拭いで体を拭くか、よっぽど酷ければ水浴びをするかと言う程度だ。上街には公衆浴場も存在したが、それは高級な娯楽施設で一般的なものではなかった。
女の鼻は馬鹿になっていて自分では気づいていないだろうが、控えめに言っても濡れた犬以下の臭いがした。だが動く死体と言われて既に傷ついている女に、更に追い打ちを掛ける必要はないので黙っていた。
ランタンは大きく欠伸をした。
「まずは身奇麗にしないといけないけど、まだ店は何処も開いてない」
腰のベルトにぶら下げた時計を外して文字盤を女に向けた。月が沈み始めて、地平が薄ぼんやりするような時間だ。
ランタンの欠伸に釣られたのか、女も同じように欠伸をして目を擦った。
「だからまずはやれることをやろう」
「うん、わかった」
「じゃあ――」
「自己紹介ね!」
寝よう。
目をトロンとさせていたランタンは、一瞬で目を覚まし、頬を引き攣らせた。女の提案にではなく、自己紹介という行いすら思い浮かばなかった自分の孤独加減にだ。ね、の形で開いた唇の形が頬に引っ張られて歪な笑みを作った。
一緒に迷宮に潜ろう、などと言ったくせに女の名前すら知ろうとしなかった。
「わたしの名前はリリオン。もう、きみ、なんて呼ばないでね」
女――リリオンは胸に手を当てて自分の名前を名乗った。家名を言わないのはそれをもともと持っていないのか、あるいは何か理由があるのか判らないが、リリオンのことを、きみ、と呼ぶ度に少しだけ気取っているような恥ずかしさを感じていたランタンには名前だけで十分だった。
「りりおん、リリオン」
ランタンが確かめるように何度か名前を口に出すと、リリオンは名前を呼ばれた犬のように喜んだ。
「ぼくはランタン、です。これからよろしく」
差し出した手を女が握った。
女の細く痩せた指は力強く、ランタンもまた自らの握り締めたものを確かめるように、二人の手は固く結びついた。