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二日目、朝食を済ませるとさっそく神殿を後にして一路、宮殿を目指す。
死神との戦闘の影響もあり、昨日のような落ち着いた雰囲気はない。ランタンはもちろん、ジャックも経験豊かな探索者であるので既に切り替えは済んでいた。
だがバロータたちは神経質な雰囲気があった。
彼らは死神の出現に怯えて身動きを取れずにいた。彼らの実力からすれば仕方のないことだ。だが精神的に打ちのめされている。自分たちはもっとやれるはずだ。そういった自信が脆くも崩れ去った。
そのせいもあり口数も少なく、黙々と進んでいる。
ランタンは荷台で、リリオンの膝枕で横になっていた。
一戦を終えたものの特権である。だが目蓋こそ瞑っているものの眠ってはいない。
リリオンはそんなランタンの偽りの寝顔を見つめながら、時折頬を撫でたり、鼻を抓んだり、耳を引っ張ったりちょっかいをかけていた。
荷台には死神の大鎌が積まれていた。腕と共に増殖した方は討伐と同時に消失したが、リリオンが手に握っていた大鎌はその手に残った。
リリオンにさえ大振りだが、その切れ味は凄まじく、不死系魔物に対する特効性を有していた。魂を切り裂くものである。形を持たないものさえ、あるいはそれこそを切り裂く。
迷宮産出の品々はそれなりに市場に出回っている。熱を発する、冷気を発するといった単純な特殊能力を有するものならば、高価だがそれほど珍しくはない。
だが例えばジャックのナイフのように鉄さえ溶かすほどの威力を発揮するものや、魔物を捕らえるアデルの杖のように魔道による再現が現時点で不可能、あるいは困難な能力を有しているものは希少性も相まって恐ろしく高価になる。
そもそも一般的な市場には出回らない。だいたいは研究目的でギルドに収蔵されたり、お大尽や貴族に購入されたりして倉の片隅で埃を被る羽目になる。
探索者は買うよりも迷宮で出会うことを求め、これもやはり希少であるがゆえに使用するのを躊躇って、魔剣の類いを鞘から抜かぬまま未帰還となる話は酒場の笑い話として馴染みのものだが、実話でもある。
妖刀魔剣の主に不幸が降りかかるというのは、そういった所に端を発しているのかもしれない。
ランタンは寝返りを打った。
リリオンの膝枕は心地良いが、添い寝をする大鎌は冷ややかな気配を発している。刀身を布で巻いているが、その鋭さはそれでも肌に感じる。
それに輪を掛けて、まとわりついてくる視線が鬱陶しい。
「――ランタン」
寝返りを打ったことをきっかけと思ったのか、アダムスが声を掛けてきた。ランタンは目蓋を開いた。頭をリリオンに預けたまま、なに、と眠気を感じさせぬ声で言う。
「これ、返すよ」
アダムスは手帳を差し出す。ランタンは身体を起こした。顔を覗き込むリリオンと危うく額をぶつけそうになる。リリオンは人目も気にせず背中に抱きついた。手帳を受け取ってぱらぱらと捲るのを肩越しに盗み見る。
「何か描いた――ん?」
ダメ出しをされた鱗芋の次のページに、びっしりと何かが描かれて、いや書かれていた。
「これは?」
「あの奥の建物の中で見つけたものだ」
「死神が発生した奥の院か」
「ああ」
「ふうん、絵を描けばいいのに」
それは迷宮文字だ。
一括りに迷宮文字といってもその形態は多種多様で、既知のものもあれば未知のものもあり、読めたとしても意味の通じない文章であることがほとんどだった。だが、中には特別な薬の配合法や、金属の加工法、哲学や魔道式の記述など、有益な情報をもたらすこともある。
ランタンは難しい顔をして文章を見つめる。
「読めるの?」
ううん、と喉で唸るランタンにリリオンが尋ねた。
「読めなくはないけど」
ランタンが言うと反応を示したのはヤナとアデルの二人だった。
「本当ですか、ランタンさま!」
歩いていた彼女たちは荷台のすぐ傍に駆け寄って、そのまま小走りでついてきた。
「正確には読めるところと読めないところがある。そっちでこれの解読は?」
「あまり進んではおりません」
「まあ、そりゃそうか」
文字の解読は困難を極める。既に解読されたものならば解読表に照らし合わせればいいだけだが、一から解読をするとなると数年かかることもざらにあり、百年以上も解読されていない文章も各ギルドに大量に存在していた。
「ねえねえ、何が書いてあるの?」
「んー、なんか王さま死すべし! とかそう言うこと。王家と神殿で対立があったのかな。これ一部抜粋だよね?」
「ああ、全て書くには手帳のページが足りない」
「ふうん、読めたわけでもないのに。それでここを選んだのは勘がいいのか」
読めない文字は絵も同然だ。アダムスの写し書きは、なるほどランタンの絵に文句をつけるだけのことはある。石に彫られていたのだろう文字のざらつきや、炎の光に落ちる影の揺らぎさえも感じ取れる。
その文章は二種類の文字が使われている。意味を表すものと、それらを繋げるものだ。
「上手く描いたもんだな」
「――そこにあるべきものを正しく表現しなければならない」
「なにそれ?」
「よくそう叱られた、……俺の師匠の言葉だ。この世界は神の手によって創られている。砂粒の一つに至るまで精緻に、美しく。全てには意味がある。一つでも違えば、全ては崩壊する。絵筆によって神の創り賜うた世界の一部を再現することは、この複雑精緻な世界を理解する手がかりになる。我々の仕事とはそういうものだ」
「理解ね。探索によって僕らが迷宮を識るようにか。描いてきて何かわかったことはあった?」
「師匠は探究者だったように思う」
理解の実感は難しく、絵を描く理由は遠のき、現実は残酷であり、この絵描きは打ちのめされて苦悩した。
「……俺は」
「女のヒモ。今のところはな。これからはどうか知らないけど。――ねえ、目録みたいのあったよね。この迷宮の研究目録みたいなの。あれ見せて」
ランタンがリリオンを押し退けて言うと、アデルが進む荷台の縁に手を掛けて、思いがけぬ身軽さで飛び乗った。荷台に備え付けられている箱の中から、分厚い紙の束を引っ張り出す。
「目録はこちらに」
「どうも。論文は」
「同様に。簡略化したものですが」
「その方がいい。全部はどうせ読めないし、――乗ってりゃいいのに」
アデルはすぐに飛び降りる。リリオンはすぐにランタンにくっつく。
「何を調べるの?」
「全てに意味があるなら、この迷宮がこれだけ文明的なのも何か意味があるんだよ」
「――それはただの画家の、何も知らない老人の言葉だぞ!」
ランタンの不意の言葉にアダムスは立ち上がった。
「立つと危ないぞ」
ランタンはアダムスが盛大に転んでからそう言った。いじわるね、とリリオンが咎めるが、転んで大怪我をしないように大鎌を退かすぐらいのことはしていた。
「老人の言うことは聞くもんだよ。エドガーさまの言うこと聞いたら戦鎚の振りが良くなったし」
「エドガー、……竜殺し!」
自分の師が伝説と同様に語られてアダムスはおののいている。二日も酒を抜けばずいぶんと表情が豊かになるものだ。恐れ以外の表情が出るようになってきた。
「最終目標はあれだし、この文章と合致するところもある。取り敢えず半分はリリオン」
「どうするの?」
「魔物関連の研究探して。出現傾向が纏めてあるやつ」
「はーい」
「ジャックさん!」
「なんだ?」
「ちょっとやることあるから、戦闘はお任せしていいですか?」
「最初っからそのつもりだよ。さあ、ランタンのお守りだぞ」
崩壊した自信の再構築をジャックが促した。カールがやけくそに返事をする。空元気もいずれ本物になる。それに負けじとケールが叫んだ。
ランタンは足で押し退けるみたいに荷物とアダムスを端に寄せて、目録に目を通すとそこから気になった論文を荷台いっぱいに広げる。
魔物が出現しても、ランタンはそれに没頭する。
最下層たる宮殿に辿り着いたのは夜だった。
ランタンはずっと迷宮解読に没頭しており、昼食さえも荷台の上で摂った。戦闘後よりもよほど疲れた顔をしており、しきりに目頭を揉んだり、大鎌に顔を押しつけてその冷たさを堪能したりする。
「お勉強しすぎて頭がおかしくなったのか?」
ランタンがむくりと顔を上げる。
「え、なに?」
「耳がおかしくなるのか。くっくっくっ」
ジャックは喉を揺らして笑う。
ランタンの目元が氷を押し当てたみたいに薄ぼんやりと赤くなっていた。大鎌の形を転写したそれは、そういう目隠しを巻いたようにも見えてなんだか間抜けだ。
ランタンは言い返すのも面倒なようで、大きな欠伸をしたかと思うと大きく背伸びをした。背骨がばきぼきと小気味よい音を発する。
「ああ、疲れた。なんかいっぱい人がいるね」
「最下層だからな。――にしても、少し多いか?」
ジャックは訝しげな顔になり、ヤナとアデルに視線を向ける。
迷宮最下層は、その迷宮の極地であるがゆえに研究対象として最優先される。
例えば強大な力を有する最終目標の存在はもちろんのこと、それを封じる最下層の力場の解析はやがてアデルの杖の再現へ至るかもしれない。
最下層を観測する研究者の数は神殿の比ではなく、二十四時間体制で最下層内の観測をしているのだろう、魔精の霧の前に組み立て式の魔精鏡が複数台設置されている。
研究者だけではなくやはり探索者もいるのだが、何か揉め事が起こっているようだった。
「確認してきます」
アデルが駆けてゆき、ランタンたちは少し距離を空けて停止する。宮殿前は広場になっており、その周辺にある住宅は貴族屋敷だった。その内の一つがランタンたちの宿営地として用意されている。
「先にあちらへ行かれますか?」
ヤナが気遣わしげに言い、ランタンは首を横に振った。ちらりとジャックに視線を向ける。
「あの感じ。どう思います?」
「功名心ではなさそうだが、さてどうかな」
魔精の霧を前にして探索者が通せ通さないの押し問答をしている。
その探索者の集団は最下層に入りたい、つまり最終目標と戦いたがっているようだった。通ろうとしている方が探索者なら、それを止めているのも探索者だ。
「僕としては代わりにやっつけてくれるんなら楽でいいんだけど。下手に死なれたら面倒だからな」
アデルが駆け戻ってくる。長い髪が乱れて、一筋だけ口に含んでいる。
ランタンは無意識にそれを払う。
「髪食ってる。で、どうだった?」
「――どうやら敵討ちをしたいようです」
「敵討ち。最終目標にやられた探索者の知り合いか」
「ええ、そのようです」
「説得するのは難しそうだな」
ジャックがその探索者への理解と同時に、うんざりとした心情を表情の中に同居させる。
「わたしがお話ししてこようか?」
「リリオンが? どうやって説得するんだよ」
「これで!」
「却下」
荷台から大鎌を取り出すリリオンの尻を引っぱたく。
「まったく」
鼻息を鳴らして腕組みをするランタンを、白々としたジャックの視線が貫く。
「なんですか」
「……リリオンの言うことも一理ある」
「ええ? 皆殺しが?」
「物騒なことを言うな。そこまで言ってねえよ。だが実力を示すってのはいい案だ。迷宮ではそれが絶対だからな。さ、大将行って来い」
ランタンは露骨に面倒臭そうな顔をする。ジャックに背を押され、リリオンがそれを加速させるように肩に手を置く。
「それ持ってくの?」
まず気付かれたのはやはりリリオンだった。ただでさえ目立つのに大鎌を手にしている。これほど目立つ少女もいまい。
そしてリリオンの存在は、その近くにランタンがいることの証拠である。不意に吹いた冷たい風が、やがて激しい雷雨を連れてくるような。
「……ランタンだ」
「ランタンが来たぞ」
「ランタンが来たぞーっ!」
響めきが警鐘のような大声に変じ、ランタンの伝法な舌打ち一つに集まっていた集団が震え上がった。
「……人をなんだと思ってるんだ」
「ふふ、いいじゃない。ランタンのことはみんなが、ランタンだって思ってるのよ」
「なんだそれ」
ランタンは少し笑う。
最下層へ押し入ろうとしていた探索者は六名からなる集団だった。人族と亜人族、男女の混合でぴりぴりとした雰囲気を発している。
最も年齢のいった探索者は虎人族の男で黒い縞模様こそまだ色濃いものの、全体的には枯れ葉のような褪せた色合いをしていた。
彼が指揮者だろうかと思ったがそうではないのかもしれない。
その虎人族を押し退けてランタンの前に立ったのは、二十そこらの人族の女だった。大柄でも小柄でもないが、骨太そうながっしりとした体格で、小麦色の肌をして、勝ち気な目をしている。細かく波打つ茶色の髪を、旋毛の位置で短く結んでいた。
腰に大振りな直剣、背に円形の盾を背負っている。
「ピレアよ」
「はじめてまして。僕はランタン、こっちは――」
「ランタンとリリオン。この迷宮で知らない奴はいないわ。話は聞いている。魔道ギルドからの依頼で最終目標の討伐に来たんだって」
ピレアは早口で捲し立てる。そこには明確な焦りがあった。
「僕の方も聞いてるよ。敵討ちがしたいらしいね」
ランタンはピレアの呼吸を見計らって口を挟んだ。ゆっくりとした口調だった。
ランタンの言葉にピレアが微かに笑むような、ほっとしたような表情を見せた。
「なら話は早いわ。お願い、私たちに最終目標と戦わせて!」
「それは少し難しい」
「なぜ!?」
ただでさえ勝ち気な目が釣り上がって、獣のようになる。並の男ならば震え上がるかもしれないが、ランタンは並ではない。
「あなたたちが勝てるという確証がない」
「必ず敵は討つわ!」
「そう言って探索者は死んでいくんだよ。それにあなたは兎も角として、後ろのお仲間はそれに納得してるの?」
「してる!」
「って言ってるけどどう?」
ランタンは虎人族の男に問い掛ける。男はぐるぐると喉奥で唸った。
「納得はしている。奴らは俺たちの友人だった」
「指揮者は?」
「私よ」
ピレアが言う。
「なるほど指揮者の言うことは絶対だからな」
「何が言いたいの? 私が無理矢理に」
「死地に突っ込んで仲間たちを殺そうとしている。敵討ちを言い訳にして」
ランタンはピレアに言葉を突き付けた。
近しいものの死は人を感情的にさせる。虎人族は友人だと言ったが、ピレアにとってはより深い仲の相手が死者の中にいたのかもしれない。だがその感情に指揮者が引きずられてはいけない。指揮者は仲間の命を背負っている。
小麦の肌がかっと赤くなった。剣の柄に手を掛ける。まだ抜かない。だが、まだ、抜いていないだけだった。
「敵討ちをするにあたって、最終目標のことをどれほど調べた? 宮殿で偉そうにしている騎士王さまのことを」
「あいつは私の友の死を愚弄している! 何が王だ! 汚らわしい死霊術士が!」
最下層には死んだ探索者が囚われている。魂はいずこか。だが道中の家々に存在した守護霊のように、探索者の肉体は最終目標の守護をさせられている。
「おしい、――でも正確にはちょっと違うと思う」
「何を――っ」
「でも、あなたたちが無謀にも突っ込んで、殺されてしまうと向こうの戦力を増強することになるのは、あなたの認識でもそう変わりはしない」
「私は敵を――」
「無理だ。これが避けられないようじゃ」
それは一瞬の出来事だった。ピレアは既に柄に手を掛けていた。何かのきっかけがあればそれを抜き打っていただろう。だが何もできなかった。
ランタンの戦鎚がピレアの喉元に押し当てられている。いつ抜いたのか。それを認識できた探索者はこの場にどれほどいるだろうか。戦鎚の丸みが触れ、金属の冷たさがピレアの呼吸に混じる。赤くなった小麦の肌から、さっと血の気が引いた。
「なっ、きさま――」
ピレアは身動きが取れない。
そして仲間の探索者が戦闘態勢をとることすら許さないのがリリオンだった。
「ダメよ。喧嘩はダメ」
死神の大鎌が、抱擁するように彼らを包んでいる。リリオンが少し腕を引けば命が間引かれる。
それは単なる脅しで、リリオンには少しも彼らを傷つける意思がない。だからこそ淡く笑む少女の表情が、彼らは心底恐ろしく感じたのかもしれない。
「この場まで来た心意気は買う。でも敵討ちは僕らに任せて」




