289
289
まだ新しい空色に塗られた天井と白い壁。
はっと目蓋が開き、闇の中でローサの目が突如輝いた。虎人族の金めく虹彩を縦に裂く瞳孔が、僅かな光を求めて散大する。
この薄暗さ。
まだ夜なのか、それとももう朝なのか。
その区別もつかないのは、眠っていた自覚が稀薄だからだ。
微睡みの気怠さは微塵もなく、かといって起き抜けの爽やかさも同様にない。自分はどの時間にいるのだろう。
空気に墨を垂らしたような薄闇はローサを不安にさせた。
解放感があるはずの空色の天井が、今は次第に沈み落ちてくるように錯覚した。
息苦しい。
狭い箱の内に閉じ込められるような苦しさがある。
初めてのことではなかった。時折こういうことがあった。
まただ、と思い出した。
初めてこの不安と出会った時から、不安には強烈な既視感が伴っていた。
ローサはこの不安を知っていた。だがそれがなんなのかを思い出すことは出来なかった。
それが己が硝子容器の中に浮かんでいた時の記憶だと知らない。
肺の中に満ちる魔精を飽和させた人工羊水の冷たさ。迷宮のように魔精を固定するぶ厚くも濁りのない硝子。
意識を持たない内側にいる自分と、硝子の向こう側にある眼差し。
ここはどこだろうかと思う。
自分は誰だろうかと思う。
ローサは不安から己を抱きしめる。
小さな温かさ。
「うぁ……苦し……」
胸の中で温かさが呻き声を上げた。
そこには小さな兄がいる。
眠たげな眼差しがローサを見上げている。
ローサは反射的に黒髪に頬を押しつけて、何度か深呼吸を繰り返した。それは教えだった。不安になったらそうするといい。そう教えてもらった。実際に不安がゆっくりと遠ざかっていく。
ランタンは邪魔くさそうにローサを押し退けようとしていたが、やがて諦めて背中をぽんぽんとあやす。
その手が背中とお腹に挟まれた。
ローサの背中側には背の高い姉がいる。
ちかちかとローサの視界が明滅した。
長い銀の髪。いや、それとも自分と同じ短い金の髪か。
透明な何かの向こう側にある眼差し。鏡を見るように、金めく虹彩の内側に縦に裂ける瞳孔の黒。そこに目を瞑るローサの顔が反射している。
はっと現実に引き戻される。
長い腕がローサごとランタンを抱き寄せた。
ぐうう、とランタンが呻いたきりぱったりと黙り込んだ。ローサの胸に顔を押しつけられて窒息している。
不気味だった薄闇が更に薄らぎ、室内の全容が明らかになってゆく。
兄姉の間に挟まれて、ローサはここが自分の部屋だと思い出した。
兄から貰った自分だけの部屋だ。好きなようにしていいと言われて、空色の天井に雲を描こうか太陽を描こうか、それとも蝶を描こうか鳥を描こうかと毎日考えて、結局はまだ何も手をつけていない。
けれど棚にはすでに宝物が飾ってある。
例えば宝石で飾られた貯金箱は硬貨を入れるといつの間にか増えている不思議な箱だった。姉から譲り受けた綺麗な人形もある。さまざまな形の石ころや、齧りついた骨付き肉の骨、陶器の欠片、錆びた歯車、染め糸で作られた鞠、もう枯れた花の一輪。
兄姉が迷宮に行っている間に飾り付けたものだった。それを見せびらかしたくてローサは自分の部屋に二人を招いたのだ。そして一緒に眠った。
そうだ。
思い出した途端に苦しみは遙か彼方に去り、既視感もまた急速に失せてゆく。その喪失は寂しさをもたらした。名残惜しく思える。だがその名残惜しささえも消えていった。
「あれ……、なんで、なんだったっけ……?」
ローサは小さく呟く。
目覚めてから、少しの時間が経過している。だがその少しの時間をどう過ごしたのかを思い出せない。思い出そうとすらしていない。小さく呟いた自分はもういなかった。
薄闇のほんの一時が、再び訪れるまで思い出せないのかもしれない。
「……どうしたの、ローサ? 怖い夢でもみたの?」
目覚めたリリオンが背中越しに囁く。ローサは僅かに黙り込み、胸の内で寝息一つ立てないランタンに気が付いた。
「おにーちゃんうごかない」
リリオンがゆったりと上体を起こした。身体を捻って、妹の向こう側にいるランタンを覗き込む。小鳥を撫でるように指先で頬に触れ、小刻みに痙攣する目蓋の、剃刀一枚分の隙間で視線が動いたのを確認する。
「寝てるだけよ。でも、あんまりぎゅーしたら、ランタンも苦しくなっちゃうからね」
言われてローサが腕を緩めると、解放されたランタンはさっそく寝返りを打って背中を向けた。背中が膨らむような大きな呼吸が何度も繰り返される。
兄を見る姉の眼差しは優しい。
「ほら、ローサももう少し寝なさい。まだ早いわ」
「うん、おねーちゃん」
姉。
そう口に出して一瞬、何かを思い出しそうな気配があった。首を捻る。それだけだった。
リリオンがローサを乗り越えた。兄を間に姉妹は向かい合う。
「おねーちゃん」
「どうしたの?」
「めいきゅうって、どんなところ?」
寝物語にせがむ迷宮譚はいつでもローサの想像力を掻き立てる。
山あり海ありの果てのない世界、極彩色の魔物という生物。だが今ふと思い描いた迷宮は、不思議と薄闇の中に煙っていた。
その向こう側に金色の瞳をした誰かがいて、ローサはその誰かに会いたいと思った。
リリオンが身を寄せてローサと額を合わせた。
姉の淡褐色の瞳の中にローサの顔が映り込む。羨むほど長い銀の髪をローサは一房手繰り寄せた。それを鼻の下に当てる。いい匂いがする。
「おひげ」
んふ、姉の鼻から息が抜けた。それから優しい手つきで、ローサの目蓋をそっと閉ざした。
視界が掌の闇に覆われるその間際に、リリオンが微かに笑んだのを見た。
「おやすみ」
暖かな闇に身を預けながら、ローサは胸の中で三度唱える。
めいきゅう、めいきゅう、めいきゅう。
少女は迷宮の夢を見ただろうか。
絵描きに会いに行く。
道中、春の陽射しは清々しい。太陽は中天、箒で掃いたような筋雲が空に被って陽射しの眩しさを和らげている。ティルナバンを行き交う人々の誰もが頬を綻ばせるようなうららかさだった。
そんな中でランタンはフードを目深に被って俯いている。
目立たぬようにと小さな身体をいっそう小さくするがまったくもって無駄な抵抗だった。
無理もない。ランタンはローサの背に騎乗している。
させられている、と言うのが正しい。出かけに乗って乗ってとせがまれたのだ。
「……さらし者かよ」
馬の背で行くのならば格好もつく。あるいは虎の背であってもこれほど悪目立ちはしまい。
何せローサである。
金の髪を綺麗に編んでやったのはランタンだった。春らしい淡緑の貫衣はリリオンに見立ててもらったもので、肩から斜めに掛けた綿布の鞄は何がしまってあるのかがしゃがしゃと音を鳴らし、腰に木剣、下肢はもちろん炎虎の四つ足である。
これに荷車も牽こうとしていたので、背に乗ることを是としたランタンもさすがに叱った。
隣にはリリオンもいる。往来の中でリリオンよりも視線の高いものは一人もいない。
「似合っているわよ。騎士さまみたい」
強靭で柔らかな毛並み。歩く度に大きく動く肩甲骨。逞しさや力強さを感じることはできるが、お世辞にも乗り心地がよいとは言えない。
ローサの跳ねる足取りに視線は波打つように上下して、股関節や尾てい骨の当たりがひりひりする。魔精酔いさえ我慢できるランタンが、何だか胸の悪さを憶え始めた。
新居の一番の問題は迷宮特区が遠くなったことだった。
探索の日はいつもよりも一時間も早く家を出なければならない。屋敷はどのようにも改装することができるが、さすがに特区を近づけることは不可能だ。
近隣には引っ越し当日に出会った探索者以外にも、いくつかの探索者集団が住んでいた。彼らは皆一様に徒歩以外の移動手段をもっていた。
件の絵描きは旧下街に住んでいる。迷宮特区の、さらに向こう側だ。
探し出してくれた商人曰く、もう使い物にならない、らしい。
ランタンとしては、確かにあの陶片に描かれた模様は綺麗なものだったが、それほどの執着はなかった。そもそも食器に対するこだわりが稀薄である。
しかし僕の城とは、つまりリリオンの城でもあるとランタンは思っている。
家族とはそういうものだ。
そして例えば今日も改装工事の終わらぬ風呂場がランタンの縄張りであるのならば、厨房、食堂近辺はまぎれもなくリリオンの縄張りだった。リリオンが望むのならば、絵描きを脅しつけることも考えている。
「きょうはこことおっていいの?」
背に乗るランタンを振り返ったローサがそのまま尾を追うように一回転する。
「回るな回るな。昼飯が出ちゃうだろ」
「どこから?」
「口からだよ。――通って良し。でも僕らと一緒じゃないとだめだからな」
「やったー!」
目を輝かせてローサが迷宮特区へ続く門を見上げる。
クロエとフルーム、孤児院に暮らす友達たちの所へ遊びに行く時、ローサには迷宮特区を避けてぐるりと大回りに行くようにと言い聞かせている。
かつてほど他人を信用していないわけではないが、それでも特区には死角が多すぎる。
地上に湧出した魔物の進行を遅らせるため迷路状に張り巡らされた壁は、悪意が蠢くには充分な日影を生み出す。
探索者を狙う襲撃者や、それと区別のない探索者、討伐を逃れた魔物もあるいはいるかもしれない。
そもそも街にはランタンに恨みを持つ者が少なからずいる。ランタンに敵わぬと知って近しいものに悪意が向けられることは充分に考えられた。
かつあげ程度ならばよいがローサの軽い財布を狙うようなものはいない。その異なる肉体にこそ価値があった。
ランタンはリリオンと目配せをする。
「走ったらダメよ。ちゃんとわたしについてくるんだからね。迷子になったらもう二度と出られないわよ」
リリオンに脅かされて、ローサは何度も頷く。自然と腰の木剣に手が伸びた。
悪意がなくとも勘違いが生まれることもあった。これから迷宮に行く、あるいは帰還した探索者は気が立っている。
肉体を変異させたものと不意に鉢合わせして、探索者の本能として刃傷沙汰が発生することは最近では珍しくはない。
「あんまり余所の迷宮を覗くんじゃないぞ」
他者が契約をする迷宮をじろじろと見ることは不作法とされる。探索者狩りの品定めをする襲撃者と勘違いされても文句は言えない。
すれ違う起重機。荷車に積まれる迷宮の品々。晴れ晴れしい顔をした探索者と項垂れる探索者。
「薬効覿面この蝦蟇の油を裂け目に塗りますればご覧この口の回りの滑らかさ――」
ちんどんと練り歩く薬売り、探索者の未練を搾り取る商売女、聖句を一節ごとにばら売りをしている生臭坊主、出張買い取りの商人に、剣斧槍鎌包丁鋏縫い針よろずの研ぎ直しの幟旗が壁の向こう側ではためいている。
地面に点々とする血の色は赤と青、そしてそれらの混じり合う紫だった。
荷車から尻尾だけがはみだしている魔物の姿を想像しているのかローサは口をあんぐりと開けている。
巨大な狼の尾だったが、しかしそれに繋がる胴体が狼であるかは定かではない。
右に曲がり左に曲がり、それでも迷うことなく迷宮特区を抜ける。
「かえりもこことおる?」
門から離れてもローサは名残惜しそうに何度か振り返った。
旧下街の街並みは新しいが活気は少ない。
それは商店の少なさの所為かもしれなかった。
ブリューズはここを住宅街として設計していた。
闇市を営んでいたものたちだろう、露天商や屋台がそこら辺で逞しく店を広げているが、あの荒廃した景色の記憶が強いランタンにはどうにも奇妙な感じがした。
「ふうん、こんな感じか」
「あんまり来ないものね、なんだか変な感じ、ティルナバンじゃないみたい」
「昔住んでた所ってどのあたりかな」
「あっちのほうじゃないかしら?」
「そうだっけ。うわ、記憶ってこんなになくなるもんか」
「それ、ランタンが言う?」
「そうだった」
先程までのローサのようにランタンもリリオンも物珍しげにしている。
「あ、そうだ。あっちにも入ったらダメだぞ。――その顔、入っちゃったのか」
「はいってないっ。はいってないよ、ほんとうだよ。クーちゃんとフーちゃんと、ちかくにいっただけ、ほんとだよ」
ローサは慌てた様子で首を横に振る。
「そうか。なら、えらい」
胸を撫で下ろす。
旧下街には第二迷宮特区がある。
昔からある第一迷宮特区よりも一回り小さく、これが探索者ギルドの管理下にあるのに対して、第二迷宮特区は王権の管理下にあった。
そしてその上で、アシュレイはこれの管理を探索者ギルドに委託している。この判断は批判も多かったが、迷宮の管理に対する経験量が議会とギルドでは比ぶべくもない。今は探索者ギルドのもとで人材を育てている最中だった。
「探索者も何となく毛色が違う気がするな」
「そうかしら?」
絵描きの住み家は第二迷宮特区の近くにある。地図を頼りに進むと、一つの集合住宅が建っていた。リリオンと出会った当初にランタンが住んでいた建物によく似ている。荒れ具合は天と地の差があるが二階建ての飾り気のない建物だった。
「ここ?」
「そう。一階の右端」
「みぎはこっち」
建物に人の気配は稀薄だった。住人はどこかに働きに出かけているのだろうと思う。
ならば廃業した絵描きも、日銭を稼ぎにどこかに出かけているのかもしれなかったが、働きもせず飲んだくれていることはすでに知らされていた。
「いるのかしら?」
「物音は聞こえるな。でも、なんだ」
少なくとも酒盛りをしているわけではあるまい。扉に近付くと、それが誰かが七転八倒しているような音だと言うことがわかる。住んでいるのは男の絵描き一人のはずで、しかし一人でこれほど大騒ぎにはならない。
「――ぎゃあ!」
扉の向こうから響いた悲鳴は女のものだった。
鍵がかかっていない。
ランタンが踏み込むと、掃き溜めかと思う汚い部屋が広がっていた。うっと息が詰まるほどの酒と、生々しく甘ったるい化粧の臭気で満ちている。
その中で男と女がもつれ合っている。男は髪の長い痩せた絵描きであり、女は丸々と太った裸身を晒している。そして悲鳴を上げたはずの丸い女の方が絵描きを組み伏せていた。
「……ええっと」
ランタンは頭を抱えた。
「リリオン、とりあえずローサを目隠し。って言うか、ちょっと散歩しておいで」
修羅場であることは間違いない、と思う。
「この下手くそっ、役立たずっ、お前がっ、お前のせいで――ぐええ」
「大丈夫よ、アダムス。あなたならできるわ。あ、ちょっと硬くなったわ。ほら、できるできる」
唾を撒き散らし罵詈雑言を喚く男の首を、女の腕が圧迫した。この体重差であるなら首をへし折れそうなものだが、女の腕に巻き付いた柔らかな脂肪がそれを妨げている。
二人はランタンが踏み込んだことにも気が付いていないようだった。
女の腕が少し緩んだ瞬間、男の上体が跳ね上がった。どん、と鈍い音がして額が女の目元に激突し、丸々とした女が後ろに仰け反った。
さすがにこうなると躊躇ってはいられない。ランタンはさっと外套を外して女の裸身を隠し、女を退けた絵描きの下半身が剥き出しであることに気が付いて眉を寄せた。
どうやら女は商売女であるらしい。しかし情事の最中と言うには無理があるように思う。
女は言葉もなくランタンを見つめ、ようやく気が付いた絵描きが不健康そうな顔を怒りに赤らめる。
「な、な、なんだお前は。どこから入ってきたっ。金ならないぞ!」
「扉から」
ランタンはテーブルを二度叩いた。
「ノックは、ちょっと遅れたかな」
商売女、マリの片目が塗ったように黒くなった。
あれほど激しくぶつかったのだ。無理もない。白目も充血しているが、一時的なものだろう。しかし下手をすれば失明していた。
それでも女はアダムスという絵描きを怒りはせず、それどころかやってきたランタンを迎え入れるために茶を入れてくれた。
顔も丸ければ身体も丸い。胸も腹も大きな柔らかそうな身体を安っぽいドレスに押し込めている。
ランタンの外套では女の裸身を完全に隠す布が足りなかった。膨らませたように皺一つない顔は若いようにも見えるが年齢は定かではない。
だが愛嬌のある顔だった。内出血の黒でさえ、そういうひょうきんな化粧をしたように見せてしまう人懐こさがあった。
テーブルの向こう側でアダムスが貧乏揺すりをしている。
筆洗いに注いだ屑茶をまずそうに飲んで、一見すると睨むような、しかし隠しきれない臆病な視線をランタンに向けている。
「それで、アダムスにどんなご用かしら? ね、間違ってたらごめんなさい。あなたランタンでしょう。探索者ランタン。違う?」
「違わないです」
ランタンが頷くとマリは両手を叩く。
「ほらやっぱり! ねえアダムス、やっぱりあなたの才能は本物よ! ねえ、お仕事の依頼なんでしょう? この間来たじゃない。憶えていないかしら? 酔っ払ってたから、でも来たのよ。商人ギルドの人が」
ずいと寄ると大きな顔がより大きい。満月みたいな顔だと思った。
「あなたが絵付けた食器が欲しい。お願いできないだろうか」
ランタンがマリから視線を逸らしていうと、アダムスは唇を戦慄かせた。
「おれは、もう二度と、絵は描かないっ! 帰れっ!」
筆洗いに入った茶をランタンに浴びせかけるが、易々と浴びせられるランタンではない。右手の一払いで茶がまるで布のように払いのけられた。ランタンは指先一つ濡れていない。
目を丸くするマリと言葉を失うアダムス。
ランタンは何事もなかったかのように平然とした様子で言う。
「その理由を聞いてもいいか? あれだけ描けるのにもったいない」
「――絵なんか描いて何になる!」
アダムスが両手をテーブルに叩き付けて立ち上がった。
「アダムス落ち着いて。あなたの絵はとても素晴らしいのよ。あなたを求めている人がいるの。それはとても素敵な事よ」
「うるさいうるさいうるさいっ! おれが絵を描いたところで誰かが救われるとでも言うのか! くだらないっ! おれの絵に意味なんて無いんだ!」
アダムスはテーブルをひっくり返そうとして、だが絵筆しか持ってこなかったかのような細腕ではそれをすることも適わなかった。苛立ちまぎれに空の筆洗いを床に叩きつけ、奥の部屋に去って行った。
閉ざされた扉を見るマリの目が一瞬だけ曇る。
それでもそれは本当に一瞬だけだった。床で砕けた筆洗いの破片を転がりそうになりながら拾い集め、椅子を軋ませてテーブルにつく。
「ごめんなさい。悪い人じゃないの。優しい人なのよ、本当は。ねえ、お願い。きっとアダムスに描かせるから、説得するからちょっと時間をくれないかしら?」
「結局、描かない理由は何なんですか?」
アダムスはもともとどこかの貴族の雇われ画家であった。
ティルナバンに流れ着いたのは、つい最近のことだ。
サラス伯爵の没落の影響は大きい。彼の地からもたらされる肥料によって、多くの領地に豊穣がもたらされた。その肥料が途絶え、またそればかりではなく食料そのものの輸出も途絶えた。
畑を耕すことを知らぬ画家は職を失い、そしてティルナバンに流れ着いた。
アダムスは曲がりなりにも宮廷画家の端くれである。
辻での似顔絵描きなどは矜恃が許さなかった。職を探しもしたが、自分に見合う待遇のものはまるでない。皿の絵付けはマリの見つけてきた仕事だったが、長く保たなかった。
なけなしの貯蓄を切り崩し、遂に辻の絵描きとなるやいなやアダムスは筆を折った。
文字通り筆を折った。その残骸は部屋の隅に散らばっている。陶片や、破いた紙や、あるいは汚れた壁は描いた絵を消した後だった。
「気付いてしまったの。身体が変わってしまった人々に。アダムスはそれを見て凄い衝撃を受けたみたい。絵を描いて何になるんだって。絵を描いていていいのかって。わたしのお腹に顔を埋めて、赤ちゃんみたいにわんわん泣いたわ」
「……それで絵を描かず、女に手をあげてたら世話はないな」
「そんな言い方しないで、一度だって手をあげられたことはないわ。だってあの人へなちょこよ」
「に、してもな」
ランタンが苦くそう言うのも無理はない。
今のアダムスはマリに養って貰っている。
マリから与えられた金だけでは済まず、酒や女を買う金を借金で購ってすらいた。
そろそろリリオンたちが散歩を終わらせるころかと扉の方を見るや、それを蹴破ったのはどこからどう見ても借金取りの二人組だった。
「アダムスぅ-! おらあ、いるのはわかってんだぞぉ!」
「おおマリ、アダムスどこだ? ――おめえよう、呆れるぜ。節操ないとはこの事だな。貢ぐ相手が屑なら、稼ぐ相手は子供かよ」
「待って!」
マリは立ち上がって丸い身体を目一杯に広げる。それはまぎれもなくランタンを守るべく身を挺しているのだった。
「今、大事な話の途中なの。借金は必ず返すから――」
「聞き飽きたぜ、その言葉」
平手だったのは借金取りのせめてもの情けなのかもしれない。ぱあん、と高い音を響かせた。
男の掌は戦鎚を打っていた。金属の塊を打って、男は悶絶した。
「まあ、待て」
ランタンは借金取りの間に割って入った。
「この――」
「待てと言っている。聞こえない耳ならいらないか?」
鶴嘴の先端が耳の穴に突っ込まれていた。鼓膜に触れる金属の冷たさは、脳を凍えさせる。
「借金の証文見せな。ちんたらしてたら貫通させるぞ」
懐から取り出された借用証文をひったくりざっと目を通す。
「これで全部?」
「い、いや、他にも色んな所から。おい、頼む。俺らは別に」
借金取りは別に悪いことをしているわけではない。金利も多少高いかもしれないが、法外なほどではない。商人ギルドの印もある。おそらく偽造印ではないだろう。
借りるだけ借りて返さないアダムスがどう考えても悪い。
「とりあえず叩くなら男の方にしろ。それなら止めない。――でだ、提案がある。この借用証文は僕が買い取る。それから他の色んな所とやらの証文も買い集めてこい、そうしたらそれも駄賃つきで買い取ってやる」
この生意気さ。小躯の黒髪に、戦鎚。
「取り込み中かしら?」
そして銀の髪の乙女に、虎の少女。
「もうすぐ終わるよ。さて、僕は信用ならないか?」
「いえいえいえいえいえ、滅相もない。使いっ走り大好きです!」
「そうか、なら行け」
それがランタンであると理解した借金取りの態度は一変した。
取り敢えず彼らの分の借金を手持ちの金で肩代わりすると、さっそく愛想笑いに指紋がなくなるような揉みてをして、一礼するや風のごとく駆けていった。
「散歩はどうだった?」
「まあ、ふつう」
「ふつうだった」
「そうか。まあ普通が一番だな。さて」
ランタンはマリを振り返る。
マリは目を零れ落ちそうなほど丸く見開いている。
「見ての通り僕は彼らより怖い。借金は絵で払ってもらう。何が何でも、そうしてもらう。よろしいか?」
「すごい、すごいわ! 私、絶対説得するわ! ええ、ぜったい!」
マリは毬が跳ねるように翻ると、アダムスがいる部屋の扉を身体全部を使って叩いた。
「アダムス、アダムスっ! 出てきて、お願いよっ! ねえ、アダムス!」
リリオンが恐る恐る部屋の中に入ってきて、ランタンの耳元で囁く。
「……ランタン、どういうこと?」
「絵描きが絵を描きたくないんだって。で閉じこもってる」
「どうして?」
「さあな。芸術家の考えることはよくわからない」
ローサは床に散らばって紙片の一つを拾い上げ、描かれた下描きを光に透かしている。
「やかましいっ!」
扉が開き、マリが尻餅を突いた。
アダムスは憎々しげに首を巡らせながら怒鳴る。
「いいかっ、どれだけ言われたっておれは――」
自らの絵に見惚れるローサの姿にアダムスの顔は青ざめる。




