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カボチャ頭のランタン  作者: mm
12.Over The Hypernova
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 最初の、いちばん最初の、ふと顔を見合わせた気恥ずかしさが最大の問題だった。

 それさえ乗り越えてしまえば、もう怖いものは何もなかった。




 年が明けた。

 眠りから覚めると、その日が来ていた。

 今日も一日が始まる。

 空は高く、青色は薄い。

 何頭もの竜種が曲芸飛行をしている。時折、無駄に火を吐いたりする。祝いとはそういうものだ。

 薄荷の花のような小さく連なった雲が漂っている。

 王都は熱気に包まれている。

 例年、新年になると聖都から教皇がやってきてありがたい説法をして下さるので王都はそれなりの盛り上がりを見せるが、今年の熱気は例を見ないほどだ。

 冷たい風が人混みを駆け抜けてゆくのが心地良く感じる。

 過去ならば多数派だった教会に向かう信徒の一団も、今回ばかりは流れに逆らう反逆者のようだった。

 闘技場に人々が吸い込まれてゆく。すでに満員御礼で、闘技場から溢れた人々がその周辺に溜まっていて、露店市場が形成されていた。

 飯屋に土産物屋に予想屋に占いに拝み屋。見世物小屋あり、娼館あり。濁酒売りの横では乾き物を売っていて、回避不能の罠に引っ掛かった集団は既に出来上がっていて、赤ら顔で七回目の乾杯をしている。

 身体一つで勝負をする大道芸人もいれば、それなりの舞台をこさえた役者の一団もいる。男役をしている中性的な少女は髪を黒く染め、腰に戦鎚を差していた。

「これ旨いよ」

 ランタンが串から肉の一つを咥え取り、残りをリリオンに、そしてリリオンはまずローサに食わせてやる。たっぷりのライムで漬け込んだ肉は柔らかく、脂がしっかり乗っているがくどくはない。果物そのものの甘みが炭火で焦げて香ばしく、強めの塩胡椒が食欲をそそる。

「すっぱい」

 だがローサはあまりお気に召さなかったようだ。辛いなら辛い、甘いなら甘いというような単純な味が好みであるらしい。そして果実水で口をゆすごうとして目を瞬かせる。

「のどがしゅわしゅわする……!」

「辛いもの好きなのに炭酸はダメか」

「うん、おいしい。こっちの()()のも美味しいわよ、甘辛くて。あ、垂れちゃった」

「タレだけに」

「おにーちゃん、なにかいった?」

 朝っぱらからそこら辺の屋台で買い食いを繰り返し、途中から見た演劇に小銭を投げ渡し、闘技場の周囲に無秩序に形成された市場を三人はぶらぶらと練り歩く。

 とても目立っていた。

 すれ違う人は自分が何を見たのか理解できぬように立ち止まったり、振り返ったり、叫んだり、せっかく買った濁酒を一口も飲まぬうちから落っことしたりする。

 跳ねた濁酒に脚を汚されて喧嘩が起こり、一対一の喧嘩が周囲を巻き込んで集団抗争へ発展する。

 祝いとはそういうものだ。

 気を取られるのもしかたあるまい。

 なにせ一人は下半身が全く以て魔物同然であり、もう一人は王都で最も有名な少女である。最後の一人の少年はその二人に比べればさしたる特徴もないが、だがそれ故に二人を連れていることそれ自体が異質であった。

 ローサは状況を何も理解していない。

 他人から見られるのはティルナバンですでに慣れていたし、そもそも他人を気にする余裕などあるはずもない。市場はひっくり返したおもちゃ箱のようだった。店先に並ぶ商品、その辺りに転がる変な形の石、さまざまな人種の人々、荷を背負う見たこともない四足獣。

 ただ楽しい。

 どこからともなく魔物が湧いて、だがすぐに討伐される。魔物はその場で手際よく解体されて、各部位がさっそく売りに出される。皮、肉、骨、爪、角、内臓から血の一滴に至るまで、少しも無駄にはしない。

 ただただ楽しい。

 ローサは何にでも吸い寄せられるので、ランタンとリリオンの二人がかりで手を繋ぐ。

 これならば迷子にもならない。ローサは脳天気な顔で、目をきらきらさせている。

 あくまでも穏やかだった。

 何気ない日常の一幕のように。

 盛り上がりに誘われると、そこでは決闘の前哨戦とばかりに野良試合が繰り広げられていた。

 元々は家畜の競りをしていたのだろう、広々とした囲いに今はもう山羊の一匹すら居らず、二人の男がいるばかかりだ。

 ランタンは呆れた。

 英雄と呼ばれる男が大人気なく勝ち星を積み重ねていて、あと四つほど勝てば百連勝となるらしい。

 だというのに勝負を挑む馬鹿が絶えないのは、勝てば参加費として支払われた金品が総取りになるからだ。

 ハーディの首は安くはない。慎ましくしていれば今年一年は働かずに済む。万に一つ勝てるものならば。

 また一つ、大人気ない勝ち星が煌めく。

「さあ俺の首を取ろうというものはないのか! 傷一つで金貨一枚! 首を落とせば総取りだ!」

 三人は人集(ひとだか)りを掻き分けて柵に寄り掛かかり、ハーディの戦い振りを観戦する。これだけ一人勝ちなのに、場が白けていないのはハーディの持つ雰囲気が華やかだからだろう。

「リリオン、やってきなよ」

「え、やあよ。負けたらどうするの。幸先が悪いでしょ。ランタンはどうなの?」

「僕もやだよ。知らなかったっけ? 喧嘩は嫌いなんだ」

「うそばっかり」

 ランタンとリリオンが暢気に言葉を交わしていると、また一人挑戦者が散った。見事な装備をした探索者だったが、鎧袖一触という感じだった。頭上高くに投げ上げられて、くるくる回転して、鎧が反射する太陽光が万華鏡みたいで綺麗だった。

 ローサが呆けたように視線で追う。どさり、と地面に跳ねてぴくりとも動かない。

 指をさす。

「ローサもやりたい! あれ、やりたい!」

「え」

 ランタンとリリオンがぎょっとする。

 ローサは子山羊のように跳ねながら、やりたいやりたい、と連呼する。

 好奇心旺盛だとは思っていたが、闘争心も旺盛なのかもしれない。と思ったが、どうやらそうではないらしく、あのくるくる回転するのをやりたいようだった。

 ハーディと相手の戦力差がありすぎて、ローサの目には戦いとして映っていない。

「ダメだよ。ローサ酔いやすいもん。どうせゲロって終わりだ」

「やだー!」

 ローサが騒いでいると、さすがのハーディも気が付いたらしく振り返り、ランタンの姿を見つけて目を輝かせる。

「おお、ランタン! ちょうどいい、やろう! 勝負しよう! お前なら参加費無料だ」

「やだよ。それに何がちょうどなんだ。ああもう、ローサ――」

「次で百勝目なんだ、いいだろ。ちょうどだぞ」

「――あばれるなって! 僕が出たらちょうど百勝目にはならんだろう」

 ランタンがローサを押さえつけながら執拗なハーディの誘いを断っているその横で、リリオンはにこにことしてその様子を見つめていた。

 そんなリリオンにちらりとハーディが視線を向ける。

「この腰抜けの代わりに、あんたでもいいんだぞ」

「わたし?」

 リリオンは小首を傾げ、しかしどこか好戦的な光を瞳の中に湛える。

 だが。

「いいわけ、ないだろ!」

 背後からリリオンの肩を掴んでそう言ったのはレティシアだった。ベリレを筆頭に、ぞろぞろと騎士を従えている。着飾ったその身なりとは裏腹に、疲れるような、呆れるような表情をしていた。

 三人を、あるいはリリオンを捜し歩いていたらしい。

「まったく、こんな大事な日に何をしているんだ」

「買い食い」

 これ見よがしな溜め息を吐く。

 寒さに白んだ息は、彼女の額に生える角と相まってそういう色の炎に見える。さんざんっぱら暴れていたローサでさえもすぐに大人しくなった。

「何が仕込まれてるかわからんものを食べるなとあれほど口酸っぱく――」

「はいはい、ごめんって。リリオンのお腹痛くなったらそんときゃ代わりもいるから。ね。百勝目指して頑張ってくれ」

「お、本当か? やった。うわあ、どきどきするぜ」

「そんな話がまかり通るか! 馬鹿言ってないで行くぞ。ああ、もうリリオン、なんだこれは。何の染みだ」

「タレがたれちゃったの」

「つまらん駄洒落を言ってる場合か。装備の前に着替えもしなければ」

 レティシアは生来の心配性ぶりを発揮して、苛々とリリオンの手を掴んだ。騎士たちの間を割って、ずんずんと進んでいく。その背中をランタンはローサの背中に乗って追いかける。

 その先には巨大な闘技場が待ち構えている。

「ねー、おねーちゃんこれからなにするの?」

「戦うんだよ。巨人と」

「へー、……きょじんってなあに?」




 闘技場は満員で通路まで立錐の余地はない。

 女手総掛かりでリリオンを着替えさせ、顔に化粧まで施して、そして戦うための装備を身に付ける。

 髪だけはランタンが結った。

 根元から毛先にまで何度も繰り返して櫛を通し、どうしようかと少し考えてから前髪をきちっと編み込んで右から左へ、カチューシャのように渡してゆく。耳の上辺りで大輪の花のようにくるりと纏めて、ランタンは咥えていた簪で留める。

 簪には赤い宝石が嵌められている。露天商の胡散臭い老人から購入した偽物の紅玉で、その隣で御座を広げていた老婆に簪に加工してもらったのだ。二人は夫婦であるらしい。もう四十年も連れ添っているのだとか言っていた。

 手付かずだった後ろの髪を結局、いつも通り丁寧に三つ編みにする。

 リリオンは知らず嬉しそうに鼻歌を奏で、ランタンは黙々と指を動かす。

 例えばあの時、あの荒廃した下街、廃虚の一室で少年が少女の髪を編んでいる。

 慣れぬ手つきと、控えめな鼻歌。

 ランタンはずっと優しい、とリリオンは思う。

 ランタンはきっと女の子の世話を焼いたことなどなかったはずで、だからこそ、自分ができる限りのことをリリオンにしてくれたのだろう。何をどうしていいか、どれぐらいやればいいのかもわからないから、一生懸命に。

 ランタンは溜め息に似た吐息を漏らした。

 鏡に映るランタンを、リリオンは見つめる。

 唇の片端だけを歪めた面倒臭そうな表情も、見ようによっては愁いを帯びているようで色気があった。身の内で燃えさかるこの感情は、すべてを鮮やかに彩ってくれる。

 どきどきする。

「はい完成」

「ありがとう。どうかしら」

「綺麗だよ。いつだって」

 ランタンは投げやりに言って、それでもやはり嬉しい。

 鎧は脛から膝を、右腕を竜骨の腕甲で覆っている。腕甲は蛇腹状になっていて動きを制限しない。身の守りはそれだけだった。

 巨人相手ではあってもなくてもさして変わらない。巨人の攻撃を完全に防ごうと思えば、一歩も動けなくなるような重装鎧で身を固めなければ足らない。

 腰に銀刀を差す。

 ランタンにキスをする。離れる時に、自切するような勢いが必要だった。その次の快楽を知ってしまったから。

 ランタンが囁く。

「終わったらね」

 リリオンは頷く。

 控え室を出て、舞台に至る通路を歩く。訓練に付き合ってくれた親衛隊や早々に顔を見せなくなった騎士の面々がいて、ベリレがいて、リリララがいて、ルーがいて、レティシアがいて、ローサがいる。

 皆が応援してくれた。

 皆が優しくしてくれる。

 ローサはすっかりめかし込んだリリオンにいたく感激したようで、天井に頭をぶつけそうなぐらいに跳ねる。

「おねーちゃんいまからなにするの?」

「今から、お姉ちゃんは戦ってくるのよ」

 リリオンはローサをぎゅっと抱きしめる。少し苦しそうにしても、離してやらない。

「もー、なにするの!」

 ローサは怒ったような口調で、それでも顔は笑っていた。

「うふふ、ごめんね。さ、がんばらないと」

 朝目覚めて、ランタンに挨拶をして、ローサを起こした。顔を洗って、食事をして、街の中を散歩して、屋台で買い食いまでした。天気が良くて、風が冷たくて、ランタンが髪を結ってくれた。

 それは、いつだってそこにある日常だ。

「じゃあ、いってきます」

「行ってらっしゃい」

 ランタンがリリオンの尻を引っぱたく。

 リリオンは戦いに行く。

 それも日常の一つ。




 何万という視線が、一身に注がれる。

 無遠慮に、好奇心に、残酷に、視線が物理的な圧力すら感じさせて突き刺さる。

 平気だ、とリリオンは思う。

 かつてリリオンがもっとも孤独を感じたのは母を失い、強さを求め、独りぼっちで行く当てもなく野を彷徨い歩いていた時ではない。

 すれ違う人もなく、獣の影すらなく、とぼとぼと歩いた寂しさは確かにあった。

 だが最大の孤独は野にはなく、街の中にこそあった。

 寂しさから街を訪れた。

 街には人がたくさんいて、そこには暖かな生活があって、だが結局リリオンは誰一人とも口を利くこともなく街を出た。

 孤独の惨めさをあれほど思い知ったことはない。集団の中にこそあって、一人は孤独となる。

 惨めさに追われるように、惨めさから逃げ出すように、リリオンは街を出たのだ。

 リリオンは戦いの舞台でたった一人だった。

 それでも寂しくなければ、惨めでもなかった。観客たちが自分のことを見て、何か言っているが気にならない。あの時は、きっと悪口だと思ったのに。

 舞台上に巨大な構造物がある。それは棺を立てたような形をしている。鉛と複合石材で構築されていて、表面に形式張った魔道式が彫られている。

 封印だった。

 顔を隠した王宮魔道師が大げさな身振りでその封印を解いた。

 棺の構造が(ほど)けるように崩れる。砂状か、はたまた液状か。それは波紋のように舞台上に広がって厚みを失う。舞台の一角に黒と鉛色の斑模様の染みができる。

 その中心に()は現れた。

 何万という人が一斉に息を呑んだ。身動き一つできず、静寂は耳に痛い。

 巨人族の男だった。

 観客にとって性別は関係ない。巨人族がそこにいる。そのこと自体が衝撃だった。恐怖は染みついている。静寂の中に、かたかた、と硬い物がぶつかり合う音が次第に数を増やして広がっていく。人々の歯の根が合わないのだ。

 極北の地から連れて来られた哀れな戦士。

 襤褸(ぼろ)切れのような粗末な身なりは、冬の寒さにまったく不釣り合いだが、集落の暮らしでもそうだった。彼の地では着るものもままならない。

 今思えば、自分はとても大切にされてきたのだと実感する。

 リリオンはその威容を懐かしく見上げた。

 体格差は三倍近い。二階建ての家ほどの身長がある。これほどに大きかっただろうかとリリオンは思う。かつて巨人の集落で暮らしていた時、リリオンは母親以外との交流をほとんど持たなかった。

 遠目に見るのと、近くで見上げるのでは感じ方がずいぶんと違う。

 なるほど恐ろしい、と思う。魔物とは別の怖さがある。大きさ以外は、まったく人と同じ姿をしているからだろうか。

 自分が恐ろしがられるのも頷ける。

 リリオンの唇が笑んだ。

「ふふ」

 歳はそれほどいってはいない。きっと二十歳前後だろう。だが頬から顔を覆う無精髭と、落ち窪んだ眼窩が二十も三十も老けているように見せる。

 名こそ知らないが、きっと彼を遠くから見たことがあるはずだった。巨人の数はそれほどに少ない。

 連れて来られて満足な食事も与えられていないのだろう肋骨の浮いた肉体は、しかし脆弱さを微塵も感じさせない。大蛇が絡みつくような筋肉のうねりが、些細な身動ぎに軋むような音色をあげる。

「――あれ?」

 リリオンが思わず声を上げた。

 巨人は右手に剣を持っている。杖をつくように鋒を下に向けていて、その剣には複雑な紋様が刻まれていた。

 この勝負は一種の儀式だとアシュレイとレティシアから聞かされていた。

 巨人族を打倒することでの国威高揚。さまざまな問題からの視線逸らし。

 そして巨人の血が流れるリリオンが巨人を打ち倒すことで、少女がまさしく人に属するものであると確認させる。

 彼女らの考えではない。だが二人はその醜悪さを隠そうとしなかった。それが社会を統治する貴族としての誠実さだった。

 だからこそ戦う相手である巨人は断食させられ、窮屈な封印に閉じ込められ、そして無手のはずだった。

 こういうこともある。

 ランタンは世を拗ねているところがある。

 人の悪意を信用している。だからリリオンはその可能性も聞かされている。

 リリオンに巨人を殺させるのは、ある種リリオンのためでもあった。

 だが、この戦いにはまた別の思惑もある。

 例えば巨人族を大暴れさせて、世論に絶滅政策を後押しさせようだとか、あるいは面子を潰された報いとしてリリオンを亡き者にしてしまおうとか、そういう考えも。

 それとも、ただ素手で戦わされる巨人を哀れんだものがいるのかもしれない。

「まあ、いいわ」

 やることは変わらない。

 リリオンは戦うためにこの場に出てきた。

 相手が巨人であろうと、そうでなかろうと、どういう思惑が渦巻いていようとも、リリオンは戦うしかない。

 戦う姿を見せたいと思った。

 銀刀を抜いた。しゃらんと鞘が鳴る。

 その高音と対をなすように巨人が低く唸った。

 巨剣の紋様が力を発する

 魔剣だ。

 強化。いや狂化なのだろう。太鼓を力任せに打つような心音が肌に触れる。

「がああああああああああああああああああああっ!!」

 世界が震えるような咆哮を上げて、巨人が剣を振り上げた。

 観客たちが声を取り戻す。それは悲鳴だった。助けを請うような、それだけが唯一できる抵抗のような。

 力任せに振り下ろされる剣の質量が、容易に舞台を割った。

 終わった。

 リリオンが死んだと、ほとんどが思った。

 そして次は自分の番だと。座席から腰を浮かせ、顔色を失う。気絶しているものもいれば、失禁しているものもいる。

 立ちこめる粉塵の中に、銀が煌めく。

 身体の絞りを一気に解く。巨大な魔剣を真横に切り払い、巨人が左によろめく。

 悲鳴と歓声の区別がつかない。

 だが追撃は不可能だ。あれほど特訓をしたのに、と思う。磨いでもらった銀刀の刃が一気に潰れてしまった。柄を握った掌に痺れがある。

 よろめいた巨人は足を踏み鳴らし。下草を刈るように剣を回転させる。風圧だけで身体が千切れそうだった。大地が抉り取られる。

 大なるものに小なるものが挑むのならば、その懐に入るのがランタン流だ。

 リリオンは勇気を持って踏み込む。恐ろしい。でも踏み込む。

 寿命が縮む。

 だが相手の親指を踏み潰すみたいに、深く。

 その巨人に親指はない。リリオンの母もそうだった。頭を撫でてくれる手に、指は五本揃っていなかった。冷厳な土地は肉体を容易に奪ってゆく。その巨人の右足は親と小が欠けている。残った三指も黒ずんでいる。

 足首の継ぎ目を狙い、リリオンは銀刀を走らせる。

 寒さが水分を奪い、皮膚は厚く角質化し、それは巨木の樹皮のようだ。銀刀が皮膚に食い込む。血は流れない。踏み締めた足はびくともせず、巨人の逆足がリリオンの真横を通り過ぎて遙か彼方に遠ざかる。

 引き足。それだけで辺りのものが舞い上がる。身体を持って行かれないように踏ん張るせいで、リリオンは身動きが取れない。

 たった一歩でリリオンの間合いから巨人は失せ、そして巨人の間合いのただ中にリリオンはいる。

 引き打ちだった。

 リリオンに向かって真っ直ぐ振り下ろされる。

 舞い上がった瓦礫がリリオンを打ち付け、小石の一つが眼球に刺さった。

 瞬きをしない。

 銀刀を合わせた。ここしかないという角度と、瞬間だった。銀の刃の上を魔剣が滑る。擦れ合った部分が瞬く間に赤熱化し、魔剣に深い欠けを作った。

「やるじゃない」

 リリオンは思わず呟く。それは自分に対する褒め言葉だった。

 どっと身体が濡れた。二合打ち合っただけで、全身から汗が噴き出した。せっかくランタンが髪を結ってくれたのに、きっともう崩れてしまっただろう。

 巨人は暴れる。闇雲に剣を振り回されると、もう手の出しようがない。付け入る隙がない。

 剣によって狂された。

 人によって狂わされたのだ。

 リリオンは回避に専念する。

 銀の三つ編みが竜の尾のように翻る。剣風に汗が剥離する。

 これほど強いのに、と思う。

 ――なぜわたしはママを失わなければならなかったのか。

 極北の地で巨人は労働を強制させられている。極寒の地に育つ巨木の伐採と氷土に眠る鉱石掘り、更に北に広がる氷の砂漠から砂岩を切り出すのが主な仕事で、それは永遠に終わりがない。

 巨人の大半は労働者で、戦士はほんの一握りだった。

 母親は戦士だった。

 彼の地にも迷宮はあった。巨人が探索をするためには迷宮口は小さすぎて、半巨人のリリオンの母だけが迷宮に下ることが辛うじてできた。だが迷宮の探索をしていたわけではない。崩壊した迷宮から湧き出た魔物を倒すのが戦士の仕事だった。

 だが母は迷宮へ下った。

 あとから知って、それが最後だった。帰ってくることはなかった。

 哀しく、辛い。

 なぜ見殺しにしたのかと、怨みを持った。

 やっつけてやる、とそう思った。そのために強くなろうと。

 ママはわたしのために戦った。

 迷宮から魔物が溢れれば、もしかしたらリリオンが留守番する家にまで被害が及ぶかもしれないから。

 そして巨人族のために戦っていた。魔物は誰にとってもひとしく危険なものだから。

 きっとそうなのだと思う。

 巨人の流す汗が滝のように地面を濡らす。

 一振りごとに巨大な心音が跳ねて、それが命を削っているのだと知る。

 乱撃の一つを選んだ。

 狙いは巨人ではなく、狂化の魔剣そのもので、リリオンは糸目のような溶融痕に刃を合わせた。

 どんぴしゃ。

 巨人の横振りに刃を交差させ、十字を作る。竜骨の腕甲で峰を支える。あとは巨人の腕力が魔剣を自壊させるだけだった。強固な竜骨に罅が入る。罅が広がる。刃が剣に食い込む。

 半ばまで、もっと深く。

 魔剣が壊れる。

 急いたかもしれない。

 柄と刃元が残るばかり。

 破断することで(つか)えを失った剣はむしろ高速で振り抜かれた。

 音が置き去りになって、大気が目に見えて歪む。手の指も薬小の二指が足りていない。それでも柄を握る巨大な拳から、何か白く恐ろしいものが馬鹿みたいな速度で広がってゆくのをリリオンは見たかもしれない。

 その衝撃波は戦いの舞台を木っ端微塵に砕いた。

 リリオンは吹き飛ばされ、しかしそれをしたのは白ではなく見慣れた炎色だった。

 簪の宝石がひび割れて、紅蓮を撒き散らしてリリオンを弾いた。結った髪はすべて解けて、銀をまぶしたように塩の結晶が肌に浮き、熱は引っぱたいたみたいに少女の頬を赤らめて、しかし焦げ目の一つも付けなかった。

「もうっ!」

 リリオンだってそうする。ランタンが危なくなれば、やめてと言っても聞いてやらない。どんなことだったやる。相手の都合なんて知ったことではない。

 それはそういうものだ。

 戦う。

 リリオンは銀刀を担いだ。振り抜いた拳に巨人の腰は引き千切れんばかりに捻れている。

 疾走する。

 暖かな爆発はまだそこにありありと残っていて、リリオンはそれを跳び越える。熱が生んだ上昇気流が、リリオンを押し上げる。錯覚かもしれない。だがリリオンはそう感じた。

 どこまでも飛んでいける。

 強くなければ生きていけない。

 優しいからこそ戦うのだと思う。

 ランタンはわたしに優しくしてくれた。

 いつだってそうだ。

 だからわたしが戦えば、きっとローサはいつか困っている人を助けるだろう。

 そうやって世界は回っていく。

 巨人の眼前に跳び上がったリリオンは、銀刀を振り抜いた。




 雨が降る。

 空は青く、雲はほとんどない。

 太陽光を反射して、きらきらとした細い雨が音もなく降っている。

 振り抜いた銀刀は、その平らな面で巨人の横っ面を引っぱたいた。

 まるで目を覚ませと言うような、強烈な一撃だった。

 空高くに響いた破裂音はいっそ清々しい。

 巨人は首がねじ切れるように左を向いて、遅れて身体ごと三度も回転して、ゆっくりと尻餅を突いた。今までの恐ろしさとは裏腹に、その一連の動きはどこかコミカルですらある。

 一度起き上がろうとして、大の字に倒れ込む。

 銀の雨に打たれて、ただ上下する胸と口から吐き出される白い息だけが命の熱量を感じさせる。

 リリオンは転ぶように着地をして、ようやく雨に気が付いたみたいに空を見上げる。湿った髪を掻き上げて、右腕がひどく痛むことに気が付く。

 再び銀刀を肩に担いだ。

「殺せ!」

 誰かが叫んだ。その一声は瞬く間に闘技場を埋め尽くす大合唱へと変わっていった。

 リリオンはゆっくりと歩を進める。

 巨人のそばは温かい。

 冷たい雨が、彼の体温に(ぬく)まれる。足元からその首筋へ、八歩もかかってしまった。頸動脈の緑が濃く透けて見える。とくとくと脈打っている。

「殺せ!」

 呪いあれ。

 リリオンは銀刀を地面に突き立てた。

 幸いあれ。

「いやよ」

 さして大きな声ではなかった。ただ堂々としていて、それはどうしてか隅々にまで届いた。

 まさかそんな風に拒否されるとは思わなかった。

 まるでそんな風に観客が黙り込んだ。

 状況を理解していないのはただ一人。

「ああ、こらっ、まて!」

「やー!」

 ランタンの慌てた声が聞こえて、リリオンは思わず振り返る。

 ローサがランタンの制止を振り切って、雨の中に飛び出してきた。

「おねーちゃんすごい! かっこいい!」

 リリオンの周りを興奮した様子で飛び跳ねる。

 きらきらの金の髪を振り乱し、炎虎の被毛はめらめらと燃えさかって、やたらめったらに振り回した腕は空想の刀を振り回しているのかもしれず、満面の笑みをあたり構わず振りまいている。

「ローサね、おねーちゃんみたいになる! すごーい!」

 ローサは喜びの踊りをおどる。

 憎しみを知ることがそれほどに簡単なのならば、愛すること知るのだってきっとそんなに難しくはない。

 雨はあっという間に通り過ぎて、青空には虹が架かる。

 倒れる巨人と、戦いの痕跡。

 刀を鞘に収めたリリオンはランタンを手招きし、ランタンは恥ずかしいから嫌だと一歩も動かない。

 観客の視線を独り占めにして、ローサはいつまでも踊り回る。


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