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カボチャ頭のランタン  作者: mm
12.Over The Hypernova
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 ハーディめ、とランタンはうんざりしながら思う。

 抱えたカボチャはとても大きく、とても重たい。

 わざわざ律儀に持って帰る必要もないのだが、ランタンの性格上その辺にほっぽり出してくることはできなかった。

 ハーディは土産だと言ったが、嫌がらせに違いない。理解した上で持って帰らざるをえないランタンを想像して、今頃一人でにやにやと酒杯を傾けているだろう。

 何が英雄だ。

 ランタンがえっちらおっちら歩いていると、親切な人が声を掛けてくれる。それを何かしらの仕事だと勘違いして、こんな子供に、と憤ってくれたり、荷馬車に乗せてやろうかと申し出てくれたりした。

 だが荷車を牽くロバは見るからに老いているし、睫毛の長い黒目の眼差しは、勘弁してくれ、と言っているような気がする。

 ランタンは礼だけ言って辞退する。

 もう数日後に近付く年明けを、いや巨人との決闘を待ちかねて、王都は俄な熱気に包まれていた。

 日に日に王都に訪れる人は増え、地方貴族や豪商豪農などのお大尽、各地の探索者や騎士の一行で宿はどこも満員御礼、先日ランタンがルーに案内された連れ込み宿でさえ、空き部屋がないほどだ。

 人は王都の外にまで溢れ、いくつかの集落を作っていた。

 そこでは市場まで開催されて、日用品から迷宮由来品、果ては盗品や決闘の観戦権利に至るまで取引されているという。

 人が集まれば、物と金が集まって、そうなるとそれを狙った悪人までやって来る。

 伯爵領からの移民問題を皮切りに、先日は地下で謎の爆発事件まで発生した王都の治安悪化は著しい。闘技場の建設も一段落ついて、職に溢れたものも多い。

 一見するとランタンは鴨も同然だった。カボチャで両手は塞がっているし、よくよく見れば身に付けているものはどれも上等で、重さに喘ぐ顔立ちは甘ったるい。

 掏摸(すり)ぐらいならば可愛いもので、親切を装って物陰に引きずり込もうとしたり、あからさまにそうしようとするものもいる。

 ランタンの相手ではない。物陰でカボチャを下ろす。カボチャと地面の間に男が一人いた。若い男の物盗りだった。

 営みとは、生活のことだろう。

 人に親切にしたり、あるいは弱みに付け込んだり。狼が家畜の羊を襲ったり、自らが飢えようともその肉を子に与えたり。羊飼いが嘆いたり、残った羊の世話をしたり。

 飛行船から見下ろした広い世界のことを思う。

 そして世界とはリリオンのことだった。ランタンにとって生活とはリリオンのことだ。リリオンが居なくては成立のしようがないとさえ思える。

「……どうしようかな」

 ランタンの独り言を男は誤解したようで、見逃してくれ、と喚いた。妻と息子がいて腹を空かせているのだとか言い訳をする。だからというわけではないが、ランタンがカボチャをどけると男は謝罪も礼も言わず走り去っていく。してやったりとする横顔を見るに妻も息子もいないだろう。

 男は逃げ去っていく途中で物陰に引きずり込まれた。

 本職の連中だろう。治安の悪化に頭を悩ませるのは表も裏も同じで、犯罪者にも規則がある。素人の勝手な仕事には何かしらの制裁が下されるはずで、今日日それは見せしめの色をより濃くしている。

 その脇道の前を人々が何も知らず通り過ぎていく。

 それぞれ種族の違う父母の間で、子供が繋がれた両手を振りきって走り出そうとしていた。父に襟首を掴まれ、母に頭上の三角耳を引っ張られて叱られる。

 路面に御座(ござ)を敷いて宝石を売っている胡散臭い老人がいて、その隣では老婆がその加工を請け負っている。若い男女が真鍮の指輪に宝石が嵌められる様子を仲睦まじげに見つめている。

 二頭の馬の手綱を取る馬子がいて、その後ろを何人かの子供がくっついてゆく。三人が桶を背負っていて、他の子供たちが馬糞や道端に落ちている金になりそうなものを拾ってその中に分別もせずに投げ込んでいた。

 屋敷に着く頃にはランタンはすっかり汗だくになっていた。

 冷たい風が心地良いのは今だけで、すぐにでも風呂に入って汗を流したい。風は日増しに冷たくなる。

 屋敷に戻るとその気配を察知して、すぐにローサがやってくる。

「おにーちゃん、おかえり-、ぎゃあ!」

 どこからともなく姿を現したローサは、巨大なカボチャを一目見るなり悲鳴を上げる。上半身全部で抱えているので、ランタンの姿はカボチャの影に隠れてしまう。

「おにー、ちゃん……? おにーちゃんがへんなのに……」

「なってない」

「しゃべった!」

「足は見えてるだろ」

「あっ、ほんとう! おかえりなさい!」

 カボチャを下ろすと、ローサはランタンの腕を取ってその周囲を三周もした。ごつごつした岩のような表面を撫でたり、(つつ)いたりして、困惑した表情を作る。

「これなに? でこぼこ」

「カボチャ」

「かぽちゃ?」

「食べ物だよ」

「ふうん、たべもの」

 匂いを嗅ぎ、こんこんと叩き、そして大きく口を開けて(かじ)ろうとするところを引き止める。

 ランタンはかカボチャを再び抱えた。重たげに肘を伸ばして下の方に提げている。

「ローサがもってあげようか?」

「ありがと。でもローサには無理だよ。重たいから」

「むー」

「リリオンは?」

「おねーちゃん? おねーちゃん、あっち。ローサがごあんないしてあげる。でもおねーちゃん、あそんでくれないよ」

「知ってる」

「つまんない」

「うん、つまんないな。遊んでくれなくて」

 ランタンは肩を竦めようとして、カボチャの重さに邪魔をされた。

 ローサは運ぶのを手伝うようにランタンの背中を押す。両手を腰に当てて、額を肩甲骨の間に押しつける。

 そのまま裏庭の方へと回った。

 そこはすっかりとリリオンの特訓場と化しており、見事に整えられていた庭園はそこだけ黒々とした土も剥き出しになって、無骨な気配だけが漂っている。

 ランタンはあまりここに近付かなかった。

 リリオンのために密かに動き回りこそしたが、表立って、あるいは直接手を貸すことは王都に来てからはほとんどなかった。

 ローサでさえも、初めの頃はかまってもらおうと躍起になっていたが、今ではもう諦めて他の人にかまってもらっている。

 裏庭では幾人かの男たちが蹴散らされている。

 彼らはネイリング家の騎士であるが、鎧を身に纏わず冬だというのに上半身を裸になっていて、汗と土で身体を汚している様子はいっそ討伐された山賊だと言われた方が納得がいく。

 打ち据えられたのだろう多少傷を負っているものもいて、一人残らず肩で息をしていた。

 彼らの顔には疲労が浮かび、だがしかし満足気だ。

 リリオンにいたぶられて、ぐっとくる、ような変態は少なくないのかもしれない。

 リリオン親衛隊と揶揄されるだけはある。彼らはリリオンの特訓に付き合ってくれて、尚且つ脱落しなかった精鋭だった。手伝いの当初は日によって人が変わっていたが、いつしか顔ぶれは固定された。

 また、遅れて王都へとやって来たベリレもリリオンの特訓を手伝ってくれるようになった。

 親衛隊からはあまり歓迎されていないようだったが、リリオンは感謝しているようだ。

 二人は斬り結んでおり、リリオンが押していた。ベリレは意地で踏み堪えているという感じだった。上背も、身体の厚みも、騎士たちの中で誰よりも優れている。しかしそれでも。

 肩甲骨が寄せられて、背筋が苦しげに痙攣している。

 位置的に、おそらくリリオンの視界にランタンたちは入っただろう。だがリリオンは少しも集中力を失わなかった。

「うがっ!」

 ベリレが逆転を狙った。

 全身のばねを総動員して腕を突っ張る。壁を押すみたいに自らを背後に弾き、その腕力を下肢に通して地面を蹴った。

 地脈から力を吸い上げるように、跳ね返った腕力を制圧力に転換する。

 その圧力を、女の身体は苦にしない。

 柔らか。

 リリオンは上半身を僅かに後ろに反らすだけで圧力を透かした。

 力の終着点を失ったベリレの腰が浮き、反転、リリオンは竹がしなるように一気に押し込む。

「――おねーちゃああああん!」

 真剣な空気をまるで無視してローサが全身を使って呼びかけ、悲鳴にも似た声にさすがのリリオンも意識を割かれる。

 ベリレにとっては天から降ったような隙が生まれた。全神経がその隙に集中する。

 ぐるる、と熊の喉が鳴る。その隙以外、他はなにも見えてはいない、

 その無防備な背中にランタンはカボチャを投げ付けた。

「げえ――っ! なにすんだ! せっかく勝てそうだったのに!」

 背後から大重量をぶつけられて、ベリレは押し倒されるように転んだ。振り向いて怒鳴る。

 ランタンはけろりとした顔で、わざとらしく耳を塞いだ。

「相手をしてくれてありがとう。そのお礼をあげようと思って」

 ベリレは鼻頭に皺を寄せ、苛立ちながら呼吸を整える。親衛隊とは違い、ベリレは特訓とは言え負けが込んでいることには耐えられないようだ。

「……これは?」

「これはね、かぼちゃ!」

 ランタンに尋ねたベリレに、意気揚々と答えたのはローサだった。ベリレの顔から苛立ちがすとんと失せて、眉が八の字になった。

「たべものなの、こんなにかたくておおきいのに。すごいねー、ローサしってるんだ」

 胸を張るローサに、ベリレは曖昧に笑う。幼い子供の相手をするように大きく頷いた。

 ランタンはローサの子守をベリレに任せて、戸惑うリリオンに歩み寄った。

「リリオン、――ひさしぶり」

「なあに、ランタン。ひさしぶりじゃないでしょ。朝も会ったわよ」

 リリオンは幼く笑った。頬が林檎みたいに赤く、吐いた息が白い。

「ひさしぶりだよ」

 その表情をランタンは見上げる。

 また背が伸びたように思う。それはきっと、日頃の特訓で鍛えられたからだろう。姿勢がよくなった。真っ直ぐな背筋に、一つに纏められた銀の髪が垂れる。

 近付くと湿っぽい熱気が感じられる。後れ毛が張り付く(うなじ)がきらきらして、額から頬を流れた汗が顎先から滴った。

 リリオンはぐいとそれを拭って、カボチャを指差す。

「あれ、なに?」

「あれはカボチャ、食べ物」

「知ってるわよ、もう。カボチャぐらい。そうじゃなくて」

「もらった」

 ランタンはぶっきらぼうに言って言葉を切った。

 リリオンは左手に抜き身の銀刀を握っている。ランタンはもう一歩近付く。リリオンの匂いがする。汗の匂いではなく、もっと素肌のような。

 懐かしく思える。

 やはり久し振りなのだと思う。

 リリオンは、どうしたの、という顔をした。ランタンはふとリリオンの腹に触れる。稽古着は汗に濡れて、ぺたりと肌に張り付いている。呼吸に腹筋が引き攣っている。

「どうしたの。ねえ、ランタン」

 リリオンの声が甘い。

 親衛隊の連中が餌を横取りされた犬のように顔を顰める。彼らは明らかに、ランタンを邪魔者として見ていた。嫉妬だ。ランタンは無感動な視線の一瞥を送る。

「特訓は、もうお終い」

 リリオンは目を瞬かせる。

「おしまい?」

「うん、お終い」

「でも、まだ。わたし」

 昼を過ぎたぐらいだった。毎日、リリオンは日が落ちるまで特訓を続けている。それだけに没頭していた。それが最近のリリオンの生活だった。

 準備は、どれだけしても足りない。

 誰もその邪魔をすることはなかった。屋敷の全てはリリオンを中心に動いているといっていい。

 親衛隊は、精鋭だった。それでも彼らとの特訓は、案山子を相手にするに等しい。

 巨人との戦いとはそういうものだ。

 彼らが相手をしてくれたからリリオンがここまで研ぎ澄まされたのかと言えば、そうではない。リリオンはきっと一人で剣を振っていても、こうなっていたように思える。

 あるいは親衛隊もそう感じていたのかもしれない。

 それでもなお、何か手を貸さずにはいられなかった。

 誰も巨人族と戦ったことなどない。だが誰でも、その重圧がとてつもないものだと理解していた。この世界にとって、巨人とは恐怖の化身そのものだ。

 遊んでいる暇などない。休んでいる暇などない。

 極限まで鍛え上げなければならない。

 ランタンのあんまりな言葉に、親衛隊の一人が声を荒らげようとした。邪魔をするなとか、馬鹿なことを言うなとか、たぶんそのようなことを言おうとしたのだろう。

 馬鹿なことを言おう、とランタンは思う。

「リリオン、特訓はお終い。お風呂に入ろう。一緒に。僕、リリオンと一緒にお風呂に入りたいんだけど」

 親衛隊の声が出だしから掠れて、少しも音にならなかった。ただ、何を言っているんだこいつ、と言うような顔をして、怒りでも困惑でもなく、不安げに眉を寄せる。

 ほんの小さく、銀の髪が揺れる。

「うん」

 頷いた。

「……入る。ランタンと一緒に」

 親衛隊が、迷子のような絶望の表情になる。ランタンは何となく、彼らに向かって舌を出したい気持ちになる。でも、それはあまりに子供っぽいので止めた。悪くない判断だった。

 どん、と背中に柔らかな衝撃。

「ローサも!」

 耳元で叫ばれて、鼓膜が痛い。

「ローサもいっしょにおふろはいりたい!」

 ランタンは小さく笑って。意地悪な声で言い放つ。

「ローサはすぐに上がりたがるからな。泳ぐし」

「かたまで、ちゃんと、かたまでつかってひゃくかぞえるから!」

 ランタンはローサを背中にくっつけたまま、リリオンの手を取ろうとする。

「ちょっと待って。ちゃんとしないと」

 リリオンは銀刀を鞘にしまい、呆ける親衛隊にきちんと頭を下げた。一人一人の名前を呼んで、感謝を伝え、それからもう大丈夫だと、もう大丈夫だから来なくていいと告げる。親衛隊はあからさまにがっかりして、リリオンは照れくさそうに謝った。

 彼らの次の仕事は庭の復元だ。

「ベリレくんも、ありがと」

「ああ、いや、いいよ。あんまり手伝えなかったし、むしろ俺の方が鍛えられたかも。それにそろそろ疲れ抜かないといけないからな。あと、――それ。エドガーさまが贔屓にされている研ぎ師を知ってるから、ばっちり仕上げてもらえるように頼んでやるよ」

「ほんと? ありがとう! じゃあお願いね」

「あ、その前にリリオン」

 ランタンが口を挟む。銀刀を受け取ろうとするベリレの手を軽く叩いて、リリオンを見上げた。

「これ、斬ってみて」

「カボチャを?」

 リリオンは不可解な願いに小首を傾げ、だが一つ頷いて刀を抜いた。

 カボチャにはローサが遊んだ後があった。表面に傷がつけられている。

 それは目と鼻と口。

 カボチャ頭だ。

「えいっ!」

 リリオンはカボチャを斬った。へたの当たりから刃は入り、斜めに拔けた。

 皮がぶ厚く、どこが可食部かよくわからない。親指ほどもある種が多くて、なるほど煮ても焼いても食べられそうにない。

「特にぐっとはこないな」

「これでいいの? 変なランタン」

 ランタンは呟き、リリオンは小首を傾げたままベリレに銀刀を手渡す。

 自分の作品を斬られたローサはあんぐりと口を開けて、しばらく現実を受け入れられない。




「こらっ、飛び込んじゃダメっていつもいってるでしょ」

 リリオンの声が浴室で反響して、助走をつけていたローサは立ち止まろうとするが、濡れた床には四つ足の爪を立てても無駄で、つるつる滑ってしまう。モザイク模様のタイルにひっかき傷を作りながら、足をばたつかせ結局、素っ転んだ。

「うーっ!」

 炎虎の下半身はしなやかに受け身を取ろうとして、上半身は無様だった。捻れた腰が心配になる。こういう咄嗟の時、ローサには二つの魂が宿っているのかもしれないと思う。

 ローサのために炎虎は命を差し出した。ロザリアや、シーリアも。

 これでもかというぐらいに突っ伏して、腕の隙間から漏れ出た呻き声は世の理不尽さに対する怨嗟のようにも、産声のようにも聞こえる。

 リリオンは手を差し出すが無視されて、しかたがないので腋の下に腕を差し込んで軽々と抱き起こした。

「飛び込んじゃダメだし、走ってもいけないのよ。怪我をしちゃうからね」

 ぶつけた頭を撫でてやり、瞳にいっぱい溜まった涙を拭ってやる。ローサはうんうんと頷いて、裸身のリリオンにしがみつく。

 まずローサの虎毛に櫛を通してやって。それから掛け湯をする。ふわふわとした虎毛がぺたんと寝て、黒い縞が色を濃くする。

 今度はローサがリリオンに湯を掛ける。リリオンはちょっと腰を屈めて、ローサは湯を満たした桶が重たそうに腕を震わせながら、ちょろちょろとリリオンの肩から湯を掛け流す。

 湯は細い筋となって身体をつたった。

 たっぷりと汗を掻いたリリオンは物足りなさそうだ。結局は自分で、豪快に頭から湯をかぶった。ローサが歓声を上げてその真似をする。

「ぷはっ、あは。おにーちゃんも、したげる!」

「え、いいよ」

 ローサが桶を抱えて突っ込んできて、案の定足を滑らせた。投げ出された桶を受け止め、だが中から(あふ)れた湯をまともに浴びて鼻がつんと痛む。ランタンはローサの前肢の間に、痛みを堪えながら一歩を踏み込んで爪先でタイルを掴んだ。

「走るなって言われたばかりだろ」

 身体全体で受け、ランタンはローサを抱き止める。少女の柔らかく、重い肉体が布一枚隔てず触れた。ローサの胸はリリオンよりも豊かだった。だがランタンはただ肉付きがよくなったこととか、背中の火傷痕がほとんど目立たなくなったことだけが嬉しい。

 ランタンは抱擁を解いたが、ローサはむしろべったりと引っ付いてくる。

 そういう振る舞いに懐かしさを憶え、脳裏に今よりも少し幼いリリオンの姿が思い浮かんだ。

 ローサは悪びれもせずにあどけなく笑って、濡れたランタンの髪に指を通した。自分がリリオンにそうして貰ったように、慣れぬ手つきで額に張り付く前髪に触れる。

 リリオンは長い髪を纏めて、一足先に湯船の縁を跨いだ。ランタンがそれに続き、ローサはどうしても飛び込みたいらしい。四つ足を器用に揃えて、湯船の縁に上った。

 ねだるような目つき。ランタンは思わず、いいよ、と言いそうになる。

「ダメよ」

 リリオンは言い聞かせるように言ってローサの両手を取り、ローサは導かれるままに縁から湯へと。最後、後肢が軽く縁を蹴ったところに諦めの悪さを感じる。

 ランタンとリリオンが肩まで湯に浸かってもそうはならない。ローサが中に入ると、ざあと音を立てて湯が溢れ、洗い場をたっぷりと濡らした。

「あー……」

 三人揃って気の抜けたような声を上げる。二人は足を伸ばし、ローサ伏せるようにして肩まで浸かった。

 ざぶざぶと顔を洗って、全身から力を抜いた。

 ローサがじっとしていられるのは最初の数分だけで、すぐに動き回り始めた。大きい緩やかな波が起きて、気を抜いているランタンは海藻のように揺さぶられる。

 リリオンがランタンのすぐ隣にやってきて、繋ぎ止めるように湯の中でぎゅっと手を握った。

「ローサ。あんまり動き回らないの」

「んー」

 ローサは甘えた声を出す。湯を蹴り立てて二人の傍にやってきて、伸ばした足の上に身体を横たえる。足を動かすと、くすぐったそうに笑う。

「ちょっとお湯、熱い?」

「へーき」

「ねえ、ローサ。今日は何をしてたの?」

 リリオンが尋ねると、ローサは目を輝かせる。

「あのね、ローサね。あさはまずおしゅうじでしょ。それからね、おひるはまどうのおべんきょうもしたの。それからあみもの! いとをこうやって、こう!」

 ローサは大げさに身振り手振りをして、どのように編み物をしたのかリリオンに報告する。リリオンはそれを何度も頷きながら聞いてやって、ローサは嬉しくて堪らないというように自らの生活を余すことなく披露する。

 今日のことばかりではない。今日までのことを。

 思い出はどのようにしまわれているのか、時系列はばらばらだった。

「――あとね、まりがこわれちゃってね、でもなおしてくれたからありがとうって。あとね、あとね、おばけはかいぞくなの。かいぞくってしってる? うみでくらしていて、おふねをおそうの。うみっていうのはね、おふろよりもおおきなみずたまりなの。しおからくて、こんなふうになみが――」

 ローサは身体を揺らして大きく波を立てる。波は壁に跳ね返ってより膨らみ、ローサの顔を濡らした。

「ローサ。王都(こっち)の生活はたのしい?」

「うんとねえ、ふつう」

 真面目くさった顔でそう答えたので、ランタンは思わず笑ってしまった。

「ふつう、なの?」

 ローサはさすがにのぼせてしまったようで湯船から出て、洗い場にぺたんと横たわった。タイルの冷たさが心地よさそうに目を細める。

 リリオンも縁に腰掛けて、足先が湯を掻き回す。

「ええっと、たのしくはない?」

「フーちゃんもクーちゃんもいないんだもん。だって、おねーちゃんも、おにーちゃんもあんまりあそんでくれないから、……さみしい」

 ころころと表情がよく変わる。泣いたかと思えば笑い、笑ったかと思えばしょげる。ローサは頬を小さく膨らませて、大人っぽい溜め息を吐き、幼気な瞳でリリオンを見つめた。

「だからいま、いっしょのおふろうれしいの」

 やはり、よく似ている。

「だからばしゃーんしていい?」

「ダメよ」

 記憶の中のリリオンと。

 そして幼いリリオンに似ているローサと、ランタンはまったく同じ気持ちだった。もやもやした感情が、ローサの口を借りて言葉になった。

 さみしい。

 遠くまで見ているリリオンに、かまってもらえなくて寂しい。

 だからあんな馬鹿みたいな誘い方をしてしまった。一緒に風呂に入りたい。その言葉は嘘ではないが、状況は限定されすぎていた。

 ただリリオンと一緒にいたかった。

 それから三人は身体の洗いっこをして、しゃぼん玉をたくさん作って遊んだ。身体が冷えてしまったので、再び湯に浸かり、のぼせる前に上がった。

 風呂の後、散歩に出かけた。早めの夕焼けに路地が赤く色づく。ローサはようやく屋敷の外に出られて嬉しそうで、だがあまり遠くには行けなかった。それでも帰る頃には息を弾ませていた。

 一緒に料理を作って、レティシアとアシュレイが帰ってくるのを待ってから皆で食卓を囲んだ。

 それは幸福な日常だった。

 リリオンの視線の先にあるものは、これかもしれない。飛行船から見た世界のように、ただ果てまで続く。森羅万象を紡ぎながら。

 リリオンと編み物の続きをしていたローサが大きな欠伸をした。

「ここまでにしましょうか。続きはまだ今度」

「うん」

 もう数日もしないうちに、恐るべき戦いが待っているとは信じられないほど穏やかだった。

「どうするの?」

「……レティのおねーちゃんとねる」

 この前はリリララの所に泊まりに行った。ルーの所にも、アシュレイの所にも、ベリレの所にさえローサは泊まりに行ったことがある。レティシアと一緒に寝るのは何度目かのことで、だからそれが嫌なわけではない。

 ただ久し振りにリリオンにかまってもらえたから、ちょっと心が揺らいだのだ。

 ローサは涙を拭うみたいに目を擦ったが。それは眠気のせいだった。

「やくそくだもん」

 ローサは生真面目にそう言って、自分を納得させるように頷いた。

「じゃあ、明日はわたしといっしょに寝ましょう。約束よ」

「やくそく、うん。ぜったい。おにーちゃん、おねーちゃん、おやすみなさい」

「おやすみ。レティによろしく」

「おやすみ。よふかしをしたらダメよ」

「はあい。じゃあ、いってきます。ばいばい」

 ローサは扉を閉めるその隙間から、名残惜しく手を振った。




 リリオンと二人っきりになって、その事実が妙に生々しい現実として意識された。

 当たり前の二人きりではなかった。

 編み物の道具を片付けて、ベッドに腰掛けるランタンのすぐ隣に、リリオンがそっとやってきた。

 まだ石鹸の香りが充分に感じられる。拳一つ分の隙間があるのに、息遣いや体温まで。

 黙ったまま、しばらく時間だけが流れる。

 頭の中で無数の言葉が浮かんでは弾けていく。

 何となく顔を見られないでいると、リリオンも妙な恥ずかしさを思っていたのだろう前後に身体を揺らした。

 ランタンがちらりとそちらを見ると、はっきりと視線が交わって言葉を失った。

 たくさん話したいことがあったはずなのに、それが全てなくなってしまい、ただ一つだけが残った。

「リリオン」

 百万の言葉に勝る。

 それだけで充分だった。

「ランタン」

 そこにはランタンとリリオンだけがいた。

 互いに引き寄せられるように顔が近付き、そのまま唇が触れ合って、それでも更に近付くように深く押しつけ合った。

 さみしいから、ではない。

 柔らかな唇、浅く開いた隙間で互いの舌が触れあう。

 呼吸が苦しく、喉元が震えた。それでも止められなかった。止まらなかった。

「ん」

 甘い声が舌先で転がり、ランタンは全身がどうしようもなく熱くなる。

「あっ……」

 口付けの強さのままに、リリオンをベッドの上に押し倒した。身体が跳ねて、ようやく唇が離れる。

「リリオン。僕は」

 声が喉に絡んだ。

 それは特別なことだと思っていた。

 何度か、何度もしようと思って、けれどその度にどうしてか邪魔が入って、だからきっとそれは特別なことで、特別な日にしかできないようになっているのかもしれないと、半ばやけっぱちに、半ば本気で思っていた。

 だが、違う。

 それは特別なことではない。

 それは営みだった。

 もう一度、軽く口付けて見つめ合うと、リリオンは小さく、はっきりと頷いた。

 指が震えそうになる。ランタンは丁寧に、リリオンの寝衣のボタンを一つ一つ外し、前を開いた。

 鍛えられ引き締まり、それでも少女の丸みを失わない肉体には、うっとりするような膨らみが二つもある。真っ白な身体に、先端の淡い色づきが浮かび上がるようだった。

 喉がからからだった。

「きれいだ」

 初めてそれを見たかのように、ランタンは言う。

 リリオンは恥ずかしそうに顔を背けながら、消え入りそうな声で囁いた。

「……ランタン、さわって」


 触った。

 少しだけ掌からはみ出るぐらいで、信じられないぐらい柔らかい。

 こんなふうに露骨に触ることを、ランタンはこれまでしなかった。向こうからやって来たり、たまたま触れてしまったりすることはあっても。

 そういった時とは、まったく感触が違うようにさえ思える。ずっと触っていられる。指を動かすたびに形を変えて、先端が硬くなる。

 それをランタンは口に含んだ。びくんとリリオンの身体が跳ねる。口の中に唾液が溢れた。からからだった喉が潤う。舌先で触れる。なんども。

 細い首筋が恥じらいに赤く色づいて、それは鎖骨のあたりまで広がっている。リリオンが必死に声を押し殺している。

「ん、――っ、……、あ。ああ、あっ、あっ」

 だが一度溢れてしまったものを、リリオンは塞ぎ直せなかった。

 初めて聞く声に、ランタンはどうしようもなく興奮する。

 下半身に血が集まって、痛みを感じるほどだった。

「リリオン、腰、浮かせて」

 ランタンが言うと、リリオンはそっと腰を浮かせる。下着まで一緒に脱がせてしまう。

 太ももを通り、膝を抜け、脹ら脛から足首に、爪先から外れる。あらためて驚くほど脚が長い。長くて、綺麗な脚だ。

 ランタンはその内側を。

 リリオンは真っ赤になって、脚を閉じた。瞳が潤んでいる。

「ランタン、ずるい」

 子猫が唸るみたいに、リリオンが呟く。

「ランタンも、はだかになって」

「うん」

 リリオンは身体を起こし、シーツを手繰り寄せ腰に掛ける。ぺたんと座って、膝の上に枕を抱き、けれど少しも落ち着かぬように、瞬くこともなく穴が空くほどランタンを見つめる。

 ランタンは手の震えを悟られないように、慎重に上着のボタンを外す。いっそ引き千切ってしまいたいほど、もどかしい。

「……じっと見られると、脱ぎづらいんだけど」

「じゃあ、ぬがしてあげる」

「いいよ、むこう向いていてくれれば」

「ぬがしてあげたい」

 上を脱いで、ランタンはベッドの上に立ち上がる。肩幅に足を開く。リリオンは三歩膝行し、手を伸ばす。自分がそうされたみたいに、下着も一緒に脱がせて、目を丸くした。

「――かたちが、いつもとちがう」

 きょとんとして呟く。

 ランタンの顔と、それを何度も視線が往復した。

 覚悟を決めたとは言え、そうまじまじと見られてはさすがに恥ずかしい。だが顔を赤くするだけの血は残っていない。一滴残らず、そこに集中しているように思える。

 息が触れた。

「顔、ちかい」

「あっ、ごめんなさい。でも、不思議、男の子ってそうなの?」

「そうなの」

「そうなんだ、……不思議」

 それからリリオンは改めてランタンの全てを見て、息を呑んだ。一つの傷跡もない身体が、今までどれほど傷ついてきたかを知っている。肉体の全てを傷で埋め尽くし、それ故になにもないように見えるのかもしれない。

 小さく、華奢で、いっそ愛らしいと思っていたそれが。

 ランタンはその時、まぎれもなく男の身体をしていた。余すところなく鍛え上げられている。

 リリオンは自らの身体を隠すシーツを自らの手で外した。

 全てを見せ合って、裸になって抱きしめ合って、互いに身体を触り合う。お風呂での洗いっことはまったく違う。

 それのために、そのために身体に触れ合っている。

 指で、掌で、唇で、身体の全てをつかって。

 何もかもが初めてだった。

 どうするか、を知識として知っていても、実際にするとなると戸惑うことは多い。

 だが二人に戸惑いはなかった。

 唇を合わせながら見つめ合って、ただ抱きしめるようにランタンはリリオンの深部に触れる。

 その分だけ、空気が押し出されるみたいにリリオンは短く息を吐いた。ランタンは動きを止める。気遣うようなランタンの眼差しに、リリオンは蕩けるような笑みで応える。

「ランタン。わたし、とてもしあわせ」

「僕も、そうだよ。リリオン」

 二人は愛し合う男女だった。

 そして若く、底なしの体力を誇る探索者でもある。

 その夜はあまりにも短い。

 だが、ただの最初の夜だ。


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