027
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叩きつけられた衝撃は壁の一枚だけではなく、集合住宅の内部構造にまで浸透したようだった。手入れのされていない建物はすでに寿命が近かったのかもしれない。
罅割れた壁から欠片が一つ、二つ、四つ、八つと落ちると加速度的に連鎖崩壊は進み、ある一点を超えた瞬間に集合住宅のその全てが崩れ落ちる。
コンクリートに似た灰色の石材は、けれども鉄筋などの補強など入っておらず、まるで砂の城であったかのようにあっさりと、そして大量の瓦礫と粉塵を撒き散らしながら轟音と共に崩壊した。
瓦礫がまるで飢えた肉食魚のように地面を跳ね泳いで向かってくる。巻き上がった粉塵はさながら波濤のようだ。ランタンはその獰猛な瓦礫の波に追い立てられるように、それでいてその波飛沫に姿を隠すようにリリオンの手を引いて素早く戦場から逃げ出した。
逃げるのはあまり好きではない。憂いはすぐに断つべきだ、と思う。だが仕方がない。
粉塵はランタンの姿を覆い隠し、足音は轟音にかき消され、その気配は崩落に飲み込まれた。貫衣はランタンの姿を見失い、そして同時にランタンも貫衣の姿を見失った。そして姿を最後まで現さなかった弓男はもとより、屋上へと逃げた貫衣を再び探し出すことも難しい。
集合住宅が一つ無くなったとは言えまだ建物は乱立しているのだ。貫衣の壁に張り付く能力がどれほどのものかはっきりしていないまま、貫衣の足場になる壁に囲まれた場所を彷徨くのはリスクが高い。
尾行はされていないと思う。だが注意をすることに越したことはない。ランタンは時折後ろを振り返り、左右を確認し、建物の影に忍ぶよう歩いた。そして充分に戦場から離れると、天井と壁の半分がない廃墟の中に浮浪者が居ないことを確認して、するりと立ち入る。それからようやく安心したように一つ息を吐きだして、リリオンの手を放した。
「ランタン真っ白よ」
リリオンはそう言って笑うとランタンの頭に手を伸ばした。ランタンの黒髪はまるで粉砂糖を振ったように白くまだらに染まっており、買ったばかりの外套も灰白に汚れていた。
リリオンがランタンの髪をがさがさと揺らすと粉が舞い上がり、そしてそれに擽られたのか鼻をぴくぴくと震わせた。
「――っくしゅん!」
「きっ――」
たない、と言ったらリリオンは傷つくかもしれない。くしゃみを浴びせられたランタンは一瞬の判断で口を噤み無表情になって袖で顔を拭った。
リリオンがもう一度くしゃみをして大きく身体を震わせると白い塵が立ち上った。もともとの髪色が白いのでそれに紛れていたが、リリオンの長い髪にはその長さの分だけ粉塵が付着していたようだ。ランタンはくしゃみが止まらなくなったリリオンから一歩離れて、乱暴な手つきで自分の髪を掻き回して粉を落とし、外套を脱いでバサバサとそれを振り回した。
「うぅ、ランタン……くしゅっ」
「はいはい、ちょっと待って。――ほら、鼻かんで」
ランタンは外套を羽織り直すとポーチから端布を抜き取る。それをずるずるとグズっているリリオンの鼻に当てた。リリオンはランタンの手ごと端布に顔に押し付けるようにして勢いよく鼻をかんだ。
「ん、……ありがと」
鼻を赤くして目尻に涙を浮かべているが、リリオンはすっきりとした顔つきで笑った。ランタンは洟を包んだ端布をぽいっと捨てた。
まだリリオンの身体には粉が大量に付着している。
ランタンはリリオンを座らせた。そうしないときちんと頭に触れることができない。
「いっぱい息吸って、口と鼻を押さえて、目も閉じて」
リリオンは口と鼻どころか洗髪を怖がる子供のように顔を全部、掌で覆い隠した。ランタンは後頭部で縛ったリリオンの髪を解くと、たっぷりと垂れた髪に指を通して大きく揺らすようにしてそれを梳いた。まるで脱皮だ。ごく小さな幾万もの鱗が剥がれ落ちるように髪から白い塵が零れた。
「よっし、もういいよ」
ランタンは言いながらリリオンの外套を剥ぎ取り、付着した粉塵を叩いた。塵の一粒も残さずに、と言うことはどうしたって無理だが恐らくもうくしゃみは出ないだろう。リリオンは恐る恐る顔から手を外して、濡れた犬がそうするように頭を揺らした。
「どう?」
「うん、もうだいじょうぶ」
座ったままのリリオンがランタンの顔を見上げた。ランタンは塵に水分を持っていかれてぼさっとした髪を一撫でしてリリオンに外套を渡すと、首の後ろで緩く髪を縛ってやった。
「あーあ、酷い目にあったよ」
集合住宅をぶち壊したのはランタンの拳だったが、ランタンは恨めしげに呟いた。
身体に付着した粉塵を一つにまとめたら簡易住居の一つでも建てられそうだ。ランタンは唇を皮肉げに引きつらせて笑った。
あの様子では薬物中毒者の死体を検めに戻ったとしても、まずは瓦礫の撤去をしなければならない。そして苦労して瓦礫を撤去したとしても、きっと死体は瓦礫に磨り潰されているか、大鼠などに食い荒らされ、その巣へと運び込まれているだろう。
ころころと太った大鼠だが、奴らはそのくせ小さな隙間にでも平気で滑り込んでゆく。腐食して柔らかくなっていれば金属だって齧る悪食相手に、たかだか痩せて薬物汚染されているだけの新鮮な肉を食うなと言うのは無理な話だ。
せめてあの弓男が射った高価そうな矢だけでも拾ってこれればよかった。ランタンに情報屋の伝手はないが、それでも何かしらの情報を得ることができたかもしれない。もし無駄骨だったらそれを売り払ってもいいのだから。
襲ってきた相手を返り討ちにすればその所持品は勝者のものだ。小遣い程度にしかならないが、それでも無いよりマシだ。今回は完全にタダ働きだった。
いまさら思っても無駄なことだな、とランタンは掌をズボンで拭いリリオンに手を差し出した。手を繋いで再び歩き出す。
「ランタン、これからどうするの?」
「んー、帰るよ。……少し遠回りしてね」
ランタンがつまらなそうに言うとリリオンは一つ間を置いてから、やっつけないの、と尋ねた。目を何度か瞬かせるその表情が、ランタンの答えが意外だったと雄弁に語っている。その顔をチラリと見てランタンは苦笑を漏らした。
この一週間でリリオンはランタンの優しげな佇まいの下にある、苛烈な性格を充分に理解したようだ。ランタンは苦く笑いながら、もう少し我慢強くなろう、と守れもしない決意を固めた。
暴力に即応することはこの世界で生き抜くには悪いことではないはずだが、それが少女の情操教育に悪影響を与えないとも限らない。
「やっつけられるならそうしたいけどね。相手がどこの誰かもわからないし」
「そっかー」
弓男は結局最後まで姿を表さなかった。遠く離れた建物に身を潜めながら、おそらくはあの薬物中毒者集団の指揮を執っていたのだろう。一度に三本の矢を放つ早打ちの技術、それでいてわかり易いほど精密な射撃。ランタンは最初、薬物中毒者に比べて弓男の危険度を一つ高く置いた。だが今ではそれ程、弓男を重要視していない。
弓男は薬物中毒者から情報を引き出されることを恐れてか、それに矢を打ち込んでその存在をランタンに知らしめた。薬物中毒者から、それこそ暴力以外の尋問術の一つも知らないランタンが引き出すことの出来る情報などたかが知れているというのに、弓男は恐れたのだ。
自らに繋がる情報の漏出を恐れるがあまり、自らの存在を晒すなど小胆という他ない。それともランタンを仕留められるとでも思ったのか、どちらにしろ彼我の実力差を把握できない指揮官など恐れるに足らない。
弓術も優れてはいるがそれだけだ。致命的な恐怖は感じない。それに弓男に割いていた注意は、それを大きく上回る脅威によって上書きされている。
一言も言葉を発しなかった正体不明の、あの貫衣。
ランタンは思い出して奥歯を軋ませた。
蹴りを受け止めた腕にまだ衝撃が残っている。躱すことが出来ないほど鋭かった。重く粘つくような痺れが骨にこびり付いていて、引き千切れた皮膚のその下から色のない体液が染みだして肌着を僅かに湿らせていた。反応が間に合わなければ顔を砕かれていたかもしれない。
昨日の今日でギルド医に世話になったら、きっと怒鳴り散らされるどころではすまないだろう。そうならなかったのはあらゆる意味で僥倖だった。
ランタンの身体は完璧ではなかった。骨折した骨は仮止めであったし、探索の疲労は抜けきってはいない。装備だって代替え品だった。リリオンも似たようなものだ。細い体の中にある精神は恐慌から立ち直ったばかりの不安定なものだった。
だがそれでもランタンとリリオンの二人を相手取って致命傷どころか直撃を避けるあの体術と鼻を砕かれても呻きの一つも漏らさない落ち着き様は不気味だった。
薬物によって精神を安定させていたのかもしれないが、それでいて一つ一つの動作は機敏だった。最後に鼻を潰した蹴りも、本来ならば頭蓋が砕けるか、首が引っこ抜けるような一撃だ。
ランタンは不機嫌そうに唇を歪めた。
貫衣がリリオンを捕らえた時、ランタンの頭は氷を入れたように冷たくなっていた。それは冷静だったというわけではない。頭の中にあったのは怒りだった。貫衣に対する、そして自分に対する。
もし貫衣がその気だったのならばリリオンの首はぽきりと折られていただろう。
「ランタン……ちょっと、いたい」
「あ、――ああ、ごめん」
リリオンは立ち止まると、小さく、申し訳なさそうに呟いた。はっと深く沈みかけた意識の底から浮かび上がったランタンは、それでようやくリリオンの手を強く握りしめている自分に気がついた。まるで失うことを恐れるかのように。
ランタンは慌てて強ばる指先を引き剥がし、リリオンの手を放した。手の甲にランタンの指の跡が白く浮かんでいる。
「ううん、いいの」
リリオンは小さく首を振り、指跡を逆の手で包み込んだ。塞き止められていた血が流れ出すと、それは直ぐに薄赤く押し流されて消えた。リリオンは手の甲を一撫ですると、改めてランタンに差し出した。
再び痛みを求めるように、そこにあった痛みが名残惜しいとでも言いたげな物欲しそうな表情で。
ランタンは恐る恐るその手を握った。リリオンはその手をゆらゆら揺らしている。
ランタンは深淵を覗きこむようなおっかなびっくりとした顔つきでそっとリリオンの顔を盗み見た。手を繋いだことで満足したのか物欲しげな表情はすっかりと失せ、口角の端がごく僅かに持ち上げて満たされた顔をしていた。
ランタンはしばらくその横顔を見つめて、やがて諦めたように視線を下ろした。
喉が白い。貫衣に捕らえられた首は痣一つ無く、綺麗なものだ。肩が痩せているせいか、少し首が長く見える。それは小さな顔でさえ重たげで、花を擡げる百合の茎に似ている。
ぼんやり眺めていると、それがさっと隠された。
「……あんまり見ないで」
リリオンが浅く下唇を噛むようにして恥ずかしげに呟いた。こちらに顔を向けずに睫毛を伏せた眼差しだけが、ひっそりと気配を探るように眼窩の中でちらちらと動いた。
ランタンはバツが悪そうに慌てて視線を逸らした。繋がれた手の中で汗が浮き出たような気がしたが、手を振りほどくことは出来なかった。
裸を見られても平気なくせに妙な所に羞恥を感じる繊細さに、ランタンはその羞恥が伝染したかのように耳を赤くし、また混乱していた。
少女の精神構造は男なんかには解き明かすことのできない混沌だ。
もしかしたら弓男はその深淵の謎に挑むべくリリオンを求めたのかもしれない。ランタンは羞恥を誤魔化すようにくだらないことを考えて、そのくだらなさに幾許かの冷静さを取り戻した。繋いでない手でガリガリと頭をかいた。
ランタンは胸の中に残るモヤモヤとした熱を太く吐き出した。
リリオンが狙われた理由はなんだろうか。それを考えるとまた胸のあたりに熱が篭る。モヤモヤとした中途半端な熱ではなく、心臓に火を入れたような身を焦がすような熱さ。ランタンは息を吐きだしたついでに、大きく息を吸い込んだ。
空気が冷えていた。夕焼けの赤はいつの間にか紫に色を落とし、吹いた風は夜の到来を告げるような静謐な冷たさを孕んでいた。それは心地よい。外套が巻き上がり、その内側で風が折り返して身体を抱きしめるようだった。
「リリオンってさー」
「なぁに?」
欠伸をするような気だるげな声にリリオンが首を傾げた。
「実はどこぞの国のお姫様だったりしない?」
「なにそれ?」
「なにか重要な秘密を握ってたり――」
「しないけど……」
「財宝の在処を――」
「しらない」
「まぁ、そうだよね」
ランタンはさも知っていましたとでも言うように肩を竦めると、今度こそ本当に欠伸を漏らした。弓男がリリオンを狙う理由など、どれほど頭の中で思考をこねくり回そうとも真実に辿り着けるわけではない。
例えば狙われたのが自分自身だったら、幾つか当たりをつけることはできる。
暴力が好きではないので自分から喧嘩を売りに行ったことはないが、実のところ売られた喧嘩のその殆どを一括購入している。恨みが残らないようにきっちりと殺したとしても敵討に何処からか湧きだした仲間がやってくることもあるし、慈悲を掛けて半殺しにしたらお礼参りをされたこともある。
それに単独探索者としてそこそこ顔が売れているので襲撃者も稀に襲ってくるし、ランタンの顔を知らない悪党には小さなその姿は下街をぶらつく世間知らずの子供にしか見えない。
だがリリオンは、どうなのだろう。
他人の頭の中なんてわからない。
ランタンは小さく唇を付き出した。理解不能の数式を前にした学生のように、そのまま眉根を寄せて思考を諦めた。
次に絡まれた時に直接、聞けばいいだけの話だ。
その頃には戦鎚も仕上がっているし、きっと狩猟刀も出来上がっている。それらがあれば頭の中を覗きこむのにも、腹を割って話をするのにも苦労はないだろう。
「リリオン」
リリオンに呼びかけ、ランタンは一つ勿体ぶるように間を置いた。
「多分、暫くはないだろうけど、あいつらはまた襲ってくるよ」
「そうなの?」
「そうなの」
予想はしていたがリリオンは自ら狙われたことに気がついてはいないようだった。薬物中毒者たちはまともに言葉も喋ることのできない廃人だったし、貫衣は石のように無口だった。リリオンもその精神に状況を見る余裕は持ちあわせてはいないので、それは仕方のない事だ。
ランタンは口を開いて、一瞬言葉を探した。
「あれだけの規模の兵隊を集めるのは大変だからね」
本当はリリオンに、狙われているから気をつけてね、と言おうとした。だがその瞬間に恐慌に剣を振り回した硬い横顔や、それを止める時に掴んだ手の冷たさを思い出した。今はせっかく落ち着いているのだから、無遠慮に心に触れるような真似をするべきではないのではないかと思った。
襲われる時はランタンもまとめて襲われるのだ、その事だけに気をつけておけば良い。リリオンが狙われている、と言うのはある意味、戦場では生命の安全を約束されているようなものだし、そもそも狙われていると言うのはランタンの予測にすぎないのだから。
ただの予測で、この繊細な少女にいらぬ気を揉ませる必要はない。
ランタンは自分への言い訳を表情も変えずに飲み込んだ。そして気を揉ませない程度の予測をリリオンに伝えた。
弓男たちは帰り道を狙ったのだ。探索を終えて、その疲れも癒しきらないその帰りに、準備万端で待ち伏せをしていた。だと言うのに弓男は、そこでランタンを仕留められなかったばかりか目に見える傷の一つも負わせることできずに、ただ徒らに戦力を失った。そこで弓男は引けばよかったのにその存在を知らしめたことで、ランタンに再襲撃への心構えさえも植え付けてしまったのだ。
この襲撃の失敗を贖うためには、今回よりも多くのあるいは強力な戦力を用意しなければならない。時間をかければかけるほどランタンから探索の疲労は抜け、傷も癒え、その力を増すのだから。
だが使い捨ての薬物中毒者とは言え、一度に十一人も失えばその補充は手間だろう。先ほど失って、今晩再び襲撃をかけるということはない筈だ。
「じゃあ、じゃあ! 次はいつ来るの?」
「さすがにそれは判んないよ。どうせなら宣戦布告の矢文でも射ってくれればいいのに」
「ねー」
「ほんとに気の回らないことだよ」
いつ来るか判らない襲撃にびくびくと怯える日々を過ごすような繊細な神経を持ち合わせてはいないが、それでも鬱陶しいものは鬱陶しい。
下街の東南には下街の中でも更に貧しい物の住まう貧民窟があり、その更に奥には罪人窟とでも言うような掃き溜めがある。例えばそこの住人を一人残らず皆殺しにして罪人窟を更地に変えてしまえば、おそらく襲ってきた相手もやっつけることはできるだろうが、鬱陶しいからという理由でそんな大規模作戦を一人で成功させるようなことができれば治安維持に四苦八苦する衛士隊の苦労はない。
「基本は待ちの一手かな。だから次来たら殺しちゃダメだよ、――ちゃんと色々聞いてからならいいけどね」
「うん、わかった」
わかったのか、なんとも怖いことだ。情操教育を施すには、少し時機を逸してしまっているのかもしれない。素直に頷くリリオンにランタンは苦笑した。この残酷なまでに理解のいい少女を狙うのはなかなか骨の折れる仕事だろうに、とランタンは苦笑を皮肉げに歪めた。だからと言って襲ってきた相手に同情の一欠片も抱きはしない。
だがこの理解の良さは、もしかしたらただの強がりなのかもしれない。男への恐怖は一時的に治まっているだけで、小さな火種がまだ残っているだろう。再び悪意ある男たちと対峙したときリリオンは大丈夫だろうか。
「わたし、できるからね」
ランタンの心配を敏く感じ取ったのかリリオンがつんと鼻を上向きにして呟いた。男たちを切り刻んだことで自信をつけたのだろうか、どこか誇らしげに胸を張ってみせた。なんにせよ強がれることは良いことだ。
ランタンは小さな胸の奥にしまい込まれた魂を見たように、眩しげに目を細めた。
空に月が出て、星が散らばっている。もうすっかり夜になった。星月は足元に影を落とすほど明るい。
「ランタン、こっちで合ってる?」
リリオンが不安そうに呟いた。念のために遠回りして、全く人の姿ない道を選んで歩いたせいだろう。ランタンが首を左右に振ると、リリオンも真似をして辺りを見回した。それからやはり不安そうな顔のままランタンの手を強く握り直した。
「合ってるよ、もうすぐだから」
廃墟と影の間の道のない道を進む。そしてようやく開けた場所に出るとリリオンが急かすように尋ねてきた。
「ねぇ、まだ?」
「リリオンって、あんまり場所を覚えるの得意じゃないね」
もう目の前に住処にしている集合住宅があった。ランタン以外の住人はいないのでしんと静まり返って、探索に出た時と変わらずにそこにある。リリオンが場所を覚えられない程度には分かりづらいところ建っていることもあり、住処の場所は割れてはいないようだ。だからこそあんな中途半端な場所で弓男は待ち伏せしていたのだろうが。
「ちょっと暗いからわからなかったの。朝ならわかるわ、本当よ」
「そうだね、月も星もこんなに出ていて暗いからね」
「もうっ」
ランタンが意地悪く言うとリリオンは拗ねたような声を上げて強く腕を引っ張った。
「階段は危ないから、引っ張らないで、狭いし」
リリオンは縦一列になろうと手を離したランタンの肩を抱いて、一人分の横幅になるようにしっかりとしがみついた。無理に引き剥がすと外套が破れそうだ。リリオンはまるでこの集合住宅が、ただ似通った別の建物であるかのように、少し怖がっているようにも思えた。
明かりのない建物は確かに少し不気味ではある。だがだからと言って外に光源を置けば、集まってくるのは蛾ばかりではない。そうしたらランタンの楽園は一瞬で浮浪者に蹂躙されてしまう。
ランタンは扉の前で立ち止まりそれが施錠されていることを確かめると、それからようやくポーチから鍵を抜き取って開錠した。がちゃんと響く金属音は、まるでそれこそがランタンの身体を縛っていた鎖の鍵だとでも言うように、それを聴いたランタンの小さな身体が安堵から弛緩した。
扉を開くと出かける前と全く同じ部屋の景色が見える。床を這うように落ち着いた空気の中に自分の匂いを見つけ出してランタンはゆっくり息を吸った。
「ただいまー、おかえりー」
ランタンは誰にともなく言いながら部屋に足を踏み入れた。歩きながら外套を脱いで、背嚢を降ろして、戦棍を壁に立てかけた。狩猟刀を外そうとして空を掴み、その手で腰に巻いたポーチを外すとどかりとベッドに腰掛けた。このまま倒れこんでしまいたい、と思ったがリリオンが扉の外に佇んでいた。
「どうしたの?」
家に帰るまでが探索だ。それは最後の最後まで気を抜くなというただの戒めに過ぎないが、リリオンにとってこの瞬間こそが初探索の達成なのかもしれない。
ランタンはベッドのバネを軋ませて立ち上がると、一度萎えてしまった気力を奮い立たせた。ランタンは部屋の真ん中で仁王立ちになると、腕を伸ばして両手をリリオンに差し出した。
「ほら、おいで」
それから優しく微笑みながら呼びかけた。
「おかえり、リリオン」
「……――ただいまっ!」
リリオンは大きく一歩踏み出して敷居を跨ぐと、そのまま走ってぎゅうとランタンに抱きついた。ランタンの再起動させた気力ではリリオンの喜びに耐えきることができずに、吹き飛ぶように押し倒された。
「うぉぉ――うぐ」
部屋の中央から一気に壁際のベッドまで。
リリオンはランタンの柔らかな髪に顔を埋めるようにしてずっとランタンに抱きついたままだった。リリオンはランタンを胸の中に抱き込み、背中と腰に腕を回して、足さえも絡めた。
「ああ! 靴脱いで。ほら、外套も、背嚢も、ポーチも、剣も。――リリオン、聞いてる?」
されるがままどうにか動く左手で宙を掻きむしりながらランタンはリリオンの心臓に語りかけるように顔を胸に埋めながら言った。だがリリオンは全く反応しなかった。
一瞬で眠ってしまった。
「まったく、しょうがない。――がんばったもん、しょうがないね」
ランタンは静かに身体を捻り蛇のようにリリオンの腕の中から抜けだすと、少女の身体から探索道具を剥ぎ取った。靴も靴下も脱がせて、髪も解く。そしてその長身をベッドの中に押し込むとランタンもまた身軽になった身体を少女の隣に横たえる。
ベッドの柔らかさに触れると、途端に身体は鉛のように重たくなった。
色々あったが無事に探索は終わったと言っていい。リリオンが初めての探索を無事終えたように、ランタンも初めての一人ではない探索を無事終えたのだ。
ランタンは無垢な少女の寝顔に祝福のようにそっと呟いた。
「おやすみ、リリオン」
二人は自然と互いを抱きしめ合いながら、そのまま夜の安息に沈んでいった。




