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薄く雪が積もっていた。
半ば溶けて泥となり、やがて夜には氷になるかもしれない。
しかしそれでも暖かさを感じるのは、空があまりにも寒かったからだろう。
飛行船から降りると、誰もが大きく伸びをする。太陽から遠ざかったというのに、よりそれが近くにあるように思える。
ローサはさっそく外衣を脱ぎ捨てて半袖になってあたりを駆け回った。そして転んで身体中を泥まみれにして泣き喚いた。
ネイリング領に着いたのは空が茜に色づきはじめる頃で、そこで飛行船の旅は一旦終わりだった。
王都までは竜車での移動となる。
ネイリング領には長居しない。
風呂と食事、久々のまともなベッドで一晩過ごして、翌朝早くにはもう出発しなければならなかった。
出迎えてくれたのはレティシアの兄弟二人だったが、兄ファビアンはアシュレイへの応対もそこそこに済すませると、さっさと飛行船の方へと行ってしまった。
長距離飛行の記録にはそれなりに満足しているようだったが、実用化するにはまだ改良が必要なようだ。
例えば飛行船は嵐に巻き込まることはなかったが、それでも船体を眺めるとかなりの損傷があることがわかる。絶えず冷気に晒されているだけならばまだよい、太陽光や、他の要因によって発生する温度変化が、構成材に歪みを与えるのだ。
ガスが封入される浮揚体は冷気によって柔軟性を失って、膨らんだり萎んだりする際に大きく罅が入った。それを補修しながらの飛行だったらしく、乗船時に比べて継ぎ接ぎが増えていた。
よく墜落しなかったものだ。
接待役が弟のシーロであるのは、彼が次期ネイリング家の当主だからだ。
ランタンとしてはリリオンを取り合って戦ったこともある因縁の相手ではあるのだが、それほど苦手意識は持っていなかった。
何せその戦いには勝利を収めている。
完全無欠に。
ランタンはリリオンが自分のことを愛していると確信していたし、事実それは思い上がりではなかった。
そしてさらにだめ押しするならば、彼が密かに恋慕していたらしい実姉であるレティシアも自分に好意を抱いているのだ。
ランタンはシーロに対して、これでもかというほどの優越感を抱いている。ランタンがこういう感覚を他人に抱くのは珍しいことだった。
しかもその相手がシーロである。
久し振りに顔を合わせたシーロは、さすがにレティシアの実弟であるだけあって精悍な顔立ちのいい男に育っていた。
背も伸びていれば、胸板も厚く、体格がよくなっていた。大人びて、風格さえ持ち合わせはじめている。
背も伸びなければ、毛も生えないランタンにとっては劣等感を憶えて不思議ではない存在だが、今のランタンにとってはそのようなものは屁でもなかった。
優越感を顔に出すことはなかったが、雰囲気に漏れ出ていたかもしれない。
しかしシーロはアシュレイへの対応も、やや無骨さやぎこちなさはあるものの堂々とこなし、ランタンやリリオンに向ける視線にさえ私情の一切を挟まなかった。
大人になったな、としみじみ思う。まるで弟の成長を喜ぶ兄のように。
そして大人になっていないランタンの悪い癖が、うずうずと疼く。
何気ない挨拶を交わし、それだけで終わらせればよかったのに、言わずともいいことをつい思わず付け加えてしまった。
お義兄ちゃんと呼んでくれてもいいよ、と。
昨日の天気の話をするような口ぶりだった。
巧妙な話術である。
黒い肌に、青く透けそうなほどの太い血管が浮き、それが生き物のように脈動したのをランタンは見た。とても満足した。
さすがは武勇名高いネイリング家の跡取りである。売られた喧嘩を買わなければ、ネイリング家の男子に生まれた意味がない。跡取りならばなおさらのことだ。
もちろんアシュレイの目の前で殴り合いを始めたわけではないし、口喧嘩をしたわけでもない。
その場でのシーロは鋼の忍耐力を発揮し、接待役としての勤めをしっかりと果たした。
ランタンとシーロ。
二人が獲物片手に顔を合わせたのは深夜のことである。
リリオンはローサを寝かしつける内に自分も眠ってしまった。
レティシアとアシュレイは話し合いをしており、二人の従者であるリリララとルーはそれぞれ夜の闇に身を潜ませて、男同士の逢瀬を期待の眼差しで覗き見ている。
ランタンは降船後にさっそく駆け回るローサと、それを追いかけるリリオンを見守っていただけだった。
あそこで一緒になって駆け回っていたら、この呼び出しを無視していたかもしれない。
ずっと船内に閉じ込められていたので、体力は有り余っている。
シーロからの呼び出しは渡りに船と言えた。あるいはもしかしたら、今この状況を作るために悪癖を制御しなかったのかもしれない。
ともあれ旅は身体を錆び付かせる。
飛行船からほとんど完成している闘技場を見ることができた。
王都の西側に横たわるそれは、かつて天を突くといわれた巨人の墳墓のようにすら思える。見事な建築物だったが、どこか陰惨な雰囲気はぬぐい去れない。
不吉さ、と言い換えてもいいかもしれない。
王都では何があるかわからない。そう感じさせるような。
錆び付いた身体を研ぎ直すためにシーロは手頃な相手だった。
そしてそれはシーロにとってもそうだったのだろう。
強さのみを追い求めるネイリング家の頂点は、しかしただ強いだけでは成り立たない。跡取りたるべくための勉強の日々は、それなりに窮屈だったのだろう。
「あ、は、は、は、は、は、は、は――っ!」
月明かりさえ揺れるような哄笑は、互いの喉からどうしようもなく溢れたものだった。
互いに、手加減無用に殴り合える相手などそうはいない。
シーロの手にする剣は、ネイリング家に伝わる宝剣である。時と場所を超えて相応しいものの手中にある万物流転という銘を持つ刃は、ランタンの喉笛を薄皮一枚切り裂いて通り過ぎる。
反らした上体。足元から振り上げられる戦鎚は、その鶴嘴の先にシーロの腹肉を抉り取って、ランタンを引き起こす。
互いに後ろには引かない。上体の傾きと、踊るような、地団駄を踏むような複雑な足運びに己の座標を固定する。
一呼吸の間に十を下らぬ鋼のやり取りを繰り返し、それは火花と血飛沫となって二人の周囲を取り巻いた。
刃が爆炎を切り裂き、鎚が雷撃を殴りつける。
それは殺し合いに程近く、だが同時にじゃれ合うようでもあった。
闇の中で息をひそめる女二人は瞬きを失う。何か見てはならぬものを、とてつもなくいやらしいものでも目にするように身体の芯を熱くしている。
その場に釘付けになった。
その戦いとはそういうものだ。
その二人とはそういうものだった。
爆発と閃光、雷光と激震。
兄弟喧嘩と言って相応しい。シーロはもちろん、あるいはランタンもちょっと嫌な顔をするかもしれないが。
それは夜半まで続き、その決着は曖昧だった。
どちらかがくたばるまで終わらないわけではないし、かといってどちらかが参ったを言うわけでもない。
ただ何となく、ふと飽きてしまったように、示し合わせたようにすっきりと終わった。
健闘をたたえ合うことはない。
ふと今し方、道端でばったり出会ったみたいに立ち話をして互いの近況を知り、それから余波で少し壊してしまった飛行船の言い訳を口裏合わせして、さよならもおやすみも言わずのその晩は別れた。
翌朝も、会話はない。
アシュレイや姉へ挨拶をするシーロを横目に、ランタンはさっさと竜車に乗り込んでうつらうつらとする。
あの後にすぐに眠りについたのだが、単純に睡眠時間が少なかった。
竜車は二連結された大型のもので御者台にリリララ、車両後部にルーが控えており、こちらの二人は一睡もしていなかった。目を真っ赤に充血させており、主人たちに心配される始末だった。
だが索敵、護衛の仕事はしっかり果たすだろう。
さすがに王家とネイリング家の旗章はためく竜車に喧嘩を売るような馬鹿はいないだろうが、昨晩の話ではあの戦争以来、どこもかしこも治安は緩やかに、だが確実に悪化している。
ランタンは船を漕いで、なにかに頭をぶつけてはっとする。
眠ってしまっていたようで、竜車はもう動き始めていた。リリオンが子供を見るような目でランタンの顔を窺い、促すように己の太ももを叩いた。
膝枕は誘惑的だったが、向かいにレティシアとアシュレイがいるので我慢をする。
大きな欠伸をすると、その小さな口の中を向かいの二人が覗き込んだ。
「見える? ちょっと焦げたよ」
ランタンは舌先を尖らせる。赤い舌にひび割れのような模様が浮かんでいる。それは剃刀で書いたように細く複雑で、口腔に雷撃をぶち込まれてできた火傷だった。
レティシアは心配するよりも先に嘆息した。
「うちの弟はだいぶ焦げていたぞ」
「僕、知らないよ。ファビアンさんに雷落とされたせいじゃないの?」
壊れた飛行船に気が付いたファビアンの怒声は夢の中で聞いたような気がする。口裏を合わせた言い訳はまったくの無駄で、ランタンは竜車という逃げ場があったが、シーロの逃げ場はどこにもなかった。
アシュレイがあきれ顔をして見せる。
「弟御と仲が悪いのか? まったく、嘘をつくと舌を引っこ抜かれるぞ」
「へえ、ひりひりするし、味もわからないし丁度いいですね。新しいのに交換してもらおうかな」
「まったく、こいつは」
ランタンは眠たそうに微笑む。
頭の先から爪先まで、毛の一筋から血の一滴までランタンの肉体は研ぎ澄まされた。
「ちょっと寝てくる。はあ――」
再び欠伸をして中腰を浮かせ、あ、と一声呟く。
「――そう言えばリリオン」
「なあに?」
「ほんとに戦うんだよね?」
何気なく尋ねた言葉に、リリオンは面食らったように目をぱちくりさせて頷いた。百度も尋ねられた質問にうんざりするみたいに頷く。
「そんな顔をしなくてもいいだろ。ちょっと確認しただけだよ」
何か言いそうな唇を塞いで、その柔らかさを確認すると呆気に取られる三人を残して後部車輌に移った。
「おーい、生きてるか?」
車輌の全部を使って、ローサがぐったりと横たわっていた。
飛行船は大丈夫だったので、どうやらこの少女は車輪のある乗り物との相性があまりよくないようだ。朝食を控えるように言ったのに、山盛り一杯食べていたせいもあるだろう。
ローサの顔色は生白い。
目元に絞った濡れタオルを当ててやり、毛に覆われた腹を撫でるが無反応だ。
ランタンはそこを枕にして目を瞑った。
シーロから面白い話を聞いたことを思い出す。
王都には噂を聞きつけた猛者が集まっている。
その中には諦めの悪い奴もいて、なんでも英雄狩りという言葉が広まっているようだった。
要は強者に喧嘩を売って、これを打倒することで名をあげ、王侯貴族の目に止まろうという単純な考えだ。
大通りや路地裏、酒場や果ては娼館など場所を問わず決闘がはじまることもあり治安維持を統括するドゥアルテは頭を痛めている。
そんなことをしても選ばれることはないと宣伝しているが効果は薄い。
こういう馬鹿な考えは伝播しやすい。
新年に行われる闘技会の前哨戦として楽しんでいる野次馬たちもいて、人だかりの近くに行けば賭け事をしているのは当たり前で、予想屋までも立っているのだから商魂たくましいという他ない。
英雄狩りで、最も狙われるのは最終選別にまで残っている英雄たちである。
それらには大抵護衛が付いているし、護衛など必要の無いほどの強者揃いであるが、シーロの話ではすでに三分の一度ほどが血祭りに上げられていて、ランタンたちが王都に辿り着いたときにはその数が半数を超えていた。
だが不思議なのは、それによって名をあげた者がいないということだった。
負けを語ることなどできないのだろう。敗北者たちが口を噤むのは理解できる。
だが英雄狩りの本質は、名をあげることただ一つであり、ならば勝者が名乗りを上げないのはまったくもって意味不明だった。
勝者を騙る者は何人かいたようだが、もちろんそんな口だけの奴はその日の内にぶっ殺されてしまって、そんな風に殺されるような奴らに負ける英雄は一人もいるはずがなかった。
ならば誰がそれをしているのだろう。
「行ってくる」
「いってらっしゃい」
アシュレイとレティシアが揃って会議に向かってゆく。
そこに候補者は呼ばれてはいない。まったくもって今回の闘技会そのものが政治的なものであると知れる。
もう三度目だった。残りの対戦者候補の数はランタンとリリオンを除けば三人で、形勢は第一王子が後ろ盾となっているハーディが優勢であるようだ。
ほぼ決定といっていいほどに優劣が決まっているようで、それをどうにか覆そうとアシュレイたちは奮起しているが、根回しは充分に済んでいるらしくこの牙城を崩すのに難儀している様子だった。
次点は第五王子が後ろ盾をしているガーランドという有鱗種族の戦士であり、実力は折り紙付きだが正確な種族や雌雄も明らかにしていないという点が不審がられ、三番手のフリュクレフという魔道使いに至っては英雄狩りに嫌気がさして帰ってしまったという。
そしてリリオンは、巨人族との決闘であるのにもかからず、巨人の血が混じる者を歴史的決闘の舞台に上げるなど歴史的な汚点であるなどと難癖をつけられる始末だった。
だが少女はそんなことを気にもとめず、朝早くから素振りをしたり、ドゥアルテに融通してもらった幾人かの騎士を蹴散らしたりして、来たるべき日に備えている。
「ローサもいきたい。おそとにいきたい」
二人を見送るとローサが駄々をこねる。
ぐったりしながらも竜車から覗き見た王都の光景は少女の好奇心を存分にくすぐるもので、車酔いも醒めるとすぐに探検に行きたがったが彼女には外出禁止令が出ていた。
ティルナバンでも、初めてその姿を見せた時は騒ぎになったものだ。状況が状況なので大人しくしてもらうしかない。
「ダメだ」
リリララが耳を引っ張る。
「魔道の訓練が何日もサボりだっただろ」
「ししょー……」
「おら、行くぞ。出来始めが肝心なんだからな。ここで固めとかなきゃあとあと苦労するぞ」
「くんれんおわったらあそんでくれる?」
「おーおー、終わったら遊んでやろう。終わったらな、さあ頑張るぞ。魔道の修行は一生続くんだからな、なんたって魔の道だ」
ローサが寂しそうな顔をして、ランタンに視線を向けた。
「おにーちゃんは?」
「僕はやることあるから無理」
瞳が潤んだ。
顔を近づけて、ローサの潤んだ瞳の中いっぱいにランタンが反射する。
ローサが息を呑んだ。
「泣くな。――うん、いい子にしてたら土産を買ってきてやろう」
「うん」
頷いたローサに笑いかけると、リリララが赤錆の瞳を細めた。
「いくらなんでも節操がなさ過ぎる」
「なんのことかわからないな。それともローサに嫉妬してる? だからって、いじめちゃダメだよ」
ランタンはローサに向けた笑みとはまったく別種のそれをリリララに向けて黙らせる。
そしてリリオンが汗を流している裏庭の方へ軽く視線を向けた。今頃ばったばったと騎士たちを蹴散らしているだろう。
「さて、じゃあちょっと行ってくる」
ランタンがアシュレイの王都宅を出ると、ルーが門の前で待っている。
「調べはついてるね」
「はい、もちろん。ご案内いたしますわ」
王都は相変わらずの賑わいを見せており、人混みを縫って歩くと、ここにも変化した人々の姿はちらほらと見られた。
距離的にティルナバンよりも伯爵領が近いからだろう。
戦争に参加した探索者というよりも、伯爵領の元住人たちが難民化して王都を頼ったようだった。
生活基盤をまだ確保できていないのだろう。身なりは汚れ、物乞いをしている者も目立つ。そういった者たちは、これ見よがしに変化した部位を晒して同情を引こうとしていた。
全てが彼らのせいではないが、彼らが流入してから犯罪の発生率は上昇傾向にある。
経済的困窮と心理的負荷は衝動的な犯罪に人を駆り立てる。
「そういう風にできてるんだと思う」
「できておりますか」
「うん。野の獣がそうでしょ。お腹が空いたから狩りに出る。お腹ぺこぺこ時の方が凶暴だよ。生き死にがかかってるから」
「それはまあ、そうですが。しかしそれは獣のお話でございましょう? 人も同じでしょうか」
「人も獣だよ。多少、賢しいかもしれないけど」
ランタンは慣れた様子で掏りの手を躱した。躱しただけだった。かつてならその瞬間に手首を外すぐらいのことはした。
「哀れだと思うし、それが子供だともっとそう思うよ」
大きな通りから細道へと入り、裏へ裏へと回ってゆくと鼻を突くような異臭が濃くなる。
日の差し込まない細道は影と冷気のたまり場となっており、汚水が凍り付いて黒い氷となっていた。
「足元お気をつけてくださいまし。もう、すぐ先でございますわ」
それを飛び越えると、どこからか切り取ってきたような三つ辻が幻のように現れる。
中心には蓋をされた下水道への出入り口があり、見るからに怪しげな風体の男がその上に片膝を立てて座っている。右手に鋲打ちの金棒を握っている。
門番だった。
それとも蓋番とでも言うべきだろうか。
のたりと立ち上がった。
大男だ。足が三本、と思ったが真ん中の一つはもちろん尾であり、それは蠍の尾だった。
こきこきと首を鳴らしながら、穏やかな、しかし威圧的な口調で尋ねてくる。
「さて、何の用だ? 普通の奴には来られないようになってんだが」
「下に用がありますの。通してくださるかしら?」
かつてランタンが王都を訪れた時、地下下水道は黒い卵の実験場を内包していた。
それから下水道は集中的な捜索を受けることになったのだが、下水道住人たちによる好き勝手な増改築の結果、複雑怪奇な魔窟と化したそこにはまだ光の届かぬところがあった。
単純な見落としはもちろん、然るべき立場の人間にとって目に付かぬ場所は都合がよいために意図的に見逃された所もある。
「お姉さん、この下にゃ連れ込み宿はねえぜ。男娼を連れ込むような場所じゃあねえ」
おほほ、とルーが思わず笑いだし、ランタンは嫌な顔をして溜め息を吐き出した。久し振りのことだった。女探索者に買われた少年だと思われたのは。
ランタンは外套の下でそっと戦鎚の柄に触れる。ルーは眦に浮いた涙を拭う仕草をして、その手でランタンを制した。
「それは残念。ですが用は別ですのよ。英雄狩りの英雄さまにお会いしたく存じますの」
英雄狩りの本質は名をあげ、闘技会の代表者に選ばれることにある。
だがその狩りをしている本人がすでに英雄であるのならば、名を上げる必要はない。相手を叩きのめしてしまえば、それがそのまま選別となるからだった。
「今日はもう満員御礼さ。そっちのちっこいのだけなら隙間もあらぁが、姉さんの入る余地はないぜ」
男は鍛え上げられた、しかし女の丸みをたっぷり備えたルーの身体に視線を滑らせる。
「怪我しないうちにさっさと帰んな」
「どうしたら通してくれますの?」
「あー、そうだな。名のある英雄になればいい。そうすれば自然と招かれるぜ。ここを見つけられるんなら筋がある。それなりに腕がなけりゃ、ここには来れないからなあ。それとも、姉さん――」
「あ」
ランタンがまったくもって子供の無邪気さで、あらぬ方を向いて声を発した。
大男が何事かと顔を向ける。
ルーが滑るように大男に肉薄した。
「ごめんあそばせ。わたくしも、ちょっといいところを見せたく思いますの」
ルーの掌底が男の顎を捉え、そのまま男の巨体を持ち上げた。男の挙動が崩れたのは、そこにある重力が変化したからだろう。
持ち上げたのではない。
浮いたのだ。
ランタンがそう気が付いたのは、ルーの手を離れた男がその場でぐるぐると回ったからだった。
水月よりも少しだけ上のあたりだろうか。針の穴を通すような中心を軸に、やたらめったら回転している。
どうにか体勢を立て直そうとするが、
腕の一振り、足の一振り、有尾種族にとって尾は己を操作する三本目の足であるのにもかからず、それを一振りするだけで回転はより複雑さを増してどうしようもなくなる。
もう天地の区別もないだろう。
男は半ば白目を剥いている。
ルーは最後にだめ押し、男の額に鉄鎚を叩き込んだ。
見えぬ糸がふつりと千切れたように、男の身体が落下した。後頭部が地面に叩き付けられ、首は急角度に曲り、男は自らの胸板に口づけるような形のまま痙攣して、大の字になる。
「ランタンさま、きっかけ、ありがとうございます」
「まさかあんな古典的な手に引っ掛かるとは思わなかったけど。あれいいね。無重力」
「あら、本当ですか?」
「今度、僕にもやってよ。楽しそうだ」
「ええ、もちろん。いつでもどこでも、させていただきますわ」
取り敢えず男に息のあることを確認して、ランタンはそれを壁側に横たえる。
ルーが重たげに下水道への蓋を外し、そこから漂ってくるのは下水の異臭ではなかった。
血と汗の臭い。
戦いの臭いだ。
「なるほど、自然と招かれるってのはよくわかる」
戦いを求める者が、どうしようもなく引き寄せられる臭いだった。
洞窟の奥から風鳴りが聞こえるように、低く野太い音が響いてくる。それはまぎれもなく人の声が重なったものであり、そこには体温が感じられた。
かなりの熱狂が、そこには渦巻いているだろう。
「ずいぶんと盛り上がってるみたいだ」
わたくしが、と先に降りようとするルーを制して、ランタンはその穴の中に飛び込んだ。
英雄狩りの本質は、自分がたった一人の英雄になるためにある。
候補者がたった一人になれば、それで全ては解決する。
そのたった一人が、巨人族と戦う栄誉を得られるからだ。
自分もつくづく甘いなあと思う。
だが、しかたがない。
リリオンのためならば、なんだってせずにはいられない。
「さあて、英雄狩り狩りだ」




