026
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空を掻く、細い指。
それを突き立てるべき敵を取り上げられて、リリオンの指先が身悶えるように戦慄いた。飛びかかる直前の歯を食いしばる表情をしたままリリオンがぽつりと言葉にならない声を漏らした。
霜が降りたように冷たい手を取るとランタンは自らの頬に導いた。赤子をあやすようにぽんぽんと撫でて、温めるために頬を寄せた。その手は逃げようとしたがランタンは離さなかった。
「だいじょうぶ、だいじょうぶだからね」
そこの言葉には何の根拠もない。それどころかリリオンの恐慌の原因もランタンには定かではなかった。だが取りあえずはまず、この子猫のように震える少女を安心させなければならない。
周囲には攪拌されたような有り様の死体が転がっている。足元に血だまりがあった。その奥でランタンが蹴り飛ばした男が芋虫のように這い寄ってこようとしていた。ここには死の臭気が渦巻いている。
それはちょっとした地獄の光景だったが、ランタンもリリオンもまるで気にした様子がなかった。ただランタンはリリオンを気遣い、リリオンはそれによって平静を取り戻しつつあった。
ランタンがリリオンの手に唇を寄せてもう何度目かの、大丈夫、を口にした。まるで花畑で蜂に刺された少女の指先から、毒を吸い出すように。
「ランタン……」
できる、だいじょうぶ、こわくない、とうわ言のように呟いて、そして言葉を失ったリリオンがようやくランタンの名前を呼び、そして頬をむにむにと揉んだ。
ランタンが手を離しても、リリオンはランタンの頬を触ったままでいた。
ランタンは小さく嘆息し、爪を立てられるわけでも肉を千切られるわけでもないので、暫くされるがままにしていた。リリオンはそこにあるランタンの優しさを摘み上げているようだった。
「どう、満足した?」
「……もうちょっと、――うん、やわらかかった」
リリオンは名残惜しみながらも、こくりと頷いて手を離した。そしてキョロキョロと辺りを見渡して、手からこぼれ落ちた剣を探した。男たちの装備品である剣に紛れても、その一振りだけ品が良いのでそれはすぐに見つかった。
リリオンは小走りでそれに駆け寄り拾い上げると、そしてそのまま走って戻ってくる。そしてすぐ足元に這い寄ってきた男の頭にそれを振り下ろした。
「うわっ!」
ランタンは顔を引き攣らせながらも反射的に、その振り下ろされた剣を戦棍で防いだ。
叩きつけるような斬り下ろしは戦棍をびりびりと痺れさせ、長袖の下でまた一つ皮膚が弾けた。乱暴だが、硬さが抜けて綺麗に振れている。それは恐慌状態から抜けたためだろうか、体重の乗った一撃だ。
ランタンが防がなければ、男の頭は熟れた西瓜のように切り裂かれたことだろう。
「なんで!」
「なんでじゃないよ」
「わたし、できるのに!」
また、できる、だ。
ランタンは唇を突き出してリリオンを睨めつけた。
できる、はきっと自分への呪いだ。行動に自信がないから自分自身へと言い聞かせているのだ。できる、という鎖を以って自分を縛り付け従わせている。
「リリオンは、あー……その、――暴力は嫌い?」
そう尋ねてから、馬鹿みたいな質問だなと後悔した。リリオンも戸惑うように眉根を寄せている。
ランタンはがりがりと頭を掻いて、いつの間にかすぐそこに這い寄って戦闘靴に指を掛けている男の顔面に蹴りを叩き込んだ。
「とりあえずは、まだ殺しちゃダメだよ」
ランタンはそう言って倒れ伏した男に爪先を引っ掛けて仰向けにした。
リリオンが不満そうに小さく頷いた。目の前の餌を取り上げられた犬みたいな顔だ。殺したくてウズウズしていると言うわけではなさそうだが、リリオンは暴力や殺人にあまり忌避感を持っていないように見えた。
下街で生活するにはいい傾向だ。下街は塵から悪党を生み出す生産拠点があるのじゃないかと思えるほど人間の屑が多く生息している。そんな悪党相手にいちいち慈悲を抱くようでは長生きできない。
「リリオンはさ、何が怖いの?」
できる、だいじょうぶ、が自信の無さの現れならば、こわくない、はそのまま恐怖の現れだろう。暴力でも、殺人でもなく、リリオンが恐れることはなんだろうか。
ランタンは爪先で男を小突きながらリリオンに聞いた。
「わたし、こわくないったら!」
「あーはいはい」
こわくないを証明するようにリリオンが剣を鳴らしたので、ランタンは呆れ半分にそれを制した。恐いからといって尻込みせずに克服しようと行動に移す様子は健気でもある。だが、ランタンも人のことを言えないが、いくらなんでも直情的すぎる。
「それで、リリオンは何が恐くないの?」
「わたし、――……男の人なんか怖くないんだから!」
そう叫んで剣を振り上げたリリオンの手をランタンは掴み損ねた。だが振り下ろされた剣をどうにか払い、男の頭から逸らすことだけはできた。鋒が地面にはじけて硬い音をたてる。
ランタンがリリオンに出会ったとき、リリオンは男たちから一方的な暴力を受けていた。身体の自由を奪う魔道装飾品によって抵抗の意志を剥ぎ取られ、受け入れるように嬲られていた。それはランタンが見たその瞬間ばかりの出来事ではなく、きっとそれより以前からリリオンは恒常的な暴力の嵐に身を晒していたはずだ。
なんでそんな当たり前のことを考えもしなかったのか、とランタンは無自覚な酷薄さに嫌気が差した。
多感なこの少女が、それの暴力を平気な顔で受け流していたなどということはないはずだ。ただひたすらに耐えていたのだ。
暴力の痛みは痣が消えたあとでも、恐怖の爪痕としてリリオンの精神に刻みつけられたままなのだろう。ランタンの優しさに触れ、また状況の変化に戸惑っている間は一時だけリリオンの精神に平静をもたらしたのかもしれないが、恐怖の傷は容易にその痛みを思い出させたのだ。
恐慌の原因はここか、とランタンはぺろりと唇を舐めた。そう言えば武具工房でも怖がっていたような、と思い出し首を傾げた。
「なんでじゃまするの!」
「殺しちゃダメだって、さっき言ったよ」
がうと噛み付くリリオンの腕を優しく撫でると、リリオンは鼻を鳴らしてようやく剣を鞘にしまった。その様子に目を細めながらも、僕も男なんだけどな、とランタンは拗ねるようにして助けた男に視線を投げた。
リリオンの恐慌の原因が判ったからといっても、その対処法などランタンは知らない。男を寸刻みにしてリリオンの恐怖が昇華されるのならランタンは喜んでそれを実行させるが、積み重ねるようにして肥大化した恐怖は、そう簡単に拭い去ることは出来ないのだろう。
時間が解決してくれると言うのは希望的観測にすぎないが、一先ずは平静を取り戻したので下手に刺激を与えないようにしよう。ランタンはいい子だからね、とリリオンを宥めて這いつくばる男に視線をやった。
貧相な男だ。
薄くなった髪が脂っぽく頭皮に張り付いている。落ち窪んだ眼はチラつくように震え、折れて曲がった鼻から垂れる血がどす黒い。ランタンは男の顔を覗きこみ、その頬を戦棍で張った。乾いてひび割れる唇に笑みが浮かんでいる。
「おい、おーい?」
ランタンの声に表情は反応しない。だが、だらりと弛緩していた右手が突如、別の生き物になったように足に絡み付こうとした。ひょいとその手を躱し、面倒くさそうに肩を踏み砕いた。男はヘラヘラ笑っている。
「んー、やっぱり薬物中毒者だよね」
下街では違法薬物を入手することは難しいことではない。さすがに大っぴらに看板などは掲げていないが目抜き通りにさえ幾つも露天が立ち並んでいるし、廃墟の影をひょいと覗き込めば石の下の昆虫のように蠢く薬物中毒者を見つけることもできる。違法薬物の中には銅貨一枚で購入できるものもあるらしく貧者の娯楽として流通している。
この男も、死んだ男たちもそういったよくいる薬物中毒者の一部だろうか。ランタンが戦棍で頬を強めに頬を押すと顎が砕けた。しかしヘラヘラ笑うのをやめない。
男はどう見てもラリっている。
痛みに対する感覚が麻痺しているようだったし、ヘラヘラと笑う口元は薬物に依ってもたらされた多幸感のせいだろう。薄汚れて痩せているのは、そういった身だしなみに使う金を薬物に使用しているからだ。下街にはよく転がっている手合と同様に。
薬物中毒者が錯乱して襲い掛かってくるなんて掃いて捨てるほどある話だ。
だからこれは、もしかしたら中毒者集団が薬物パーティでもしている所にランタンが運悪く通りかかってしまった、と言うだけの話なのかもしれない。それならばここでこの男の息の根を止めれば、それでお終いだ。
だが腑に落ちない。
薬物中毒者の攻撃性は無指向に発露されるはずだ。だがこいつらの行動には一貫性があった。
薬物によって完全に廃人になっているなら目的を持つ動的な行動は取れない。襲ってきたからにはある程度人格を残しているはずだ。
「ふむ」
ランタンは男の胴を跨ぎ、男の喉元に戦棍を置いて、その顔をゆっくりと覗きこんだ。
重力に引かれて髪が垂れ、ランタンの表情を影の中に覆い隠した。
「ねぇ」
言葉は柔らかでも、男の目を覗きこんだランタンの視線はぞっとするほど冷ややかだ。細い針を瞳孔の中心に突き入れるようにランタンが視線を合わせると笑う男の口元が、次第に引きつり始めた。
ランタンがゆっくりと戦棍に体重を掛けていた。
「ねぇ、聞こえてる?」
戦棍を通して男の震えが伝わってくる。痛みは感じないようだが、息苦しさはあるみたいだった。それとも身体の内側から聞こえる、喉仏の悲鳴でも聞いたのだろうか。薬物に依って鈍化していた恐怖心が、目の中に現れるのをランタンは確かに見た。
「聞きたいことがあるんだけど」
薬物によって混沌としていた頭蓋骨の中身が覚醒していく様子が手に取るように分かった。男の荒い息遣いや心臓の鼓動が戦棍を通して聞こえてくる。恐怖に追い立てられる男の精神が、まさに手の中あった。
「ふっ――」
ランタンが男の喉元から鋭く戦棍を振った。まるで喉を切り裂くように。そして後ろに跳んだ。
「ランタンっ!」
「はいよ」
戦棍では喉など裂けないし、血も吹き上がっていない。
ただ矢が飛んできてそれを撃ち落としただけだ。男が何か口を開きかけた瞬間に、見計らったように矢が三本飛んできた。
一つはランタンを狙い、一つは男を貫き、一つは後ろに跳んだランタンを追った。男を貫いた矢はこめかみから脳髄を的確に射抜いて絶命させている。
ランタンは頬を大きく歪めて嫌らしく笑った。
やっぱりいた。
薬物中毒者を統一された目的の元に動かした司令塔。
薬物中毒者から得られる情報などたかがしれているというのに、大急ぎで口封じをしてその存在を晒すとはなんとも小胆なことだ。
ランタンは再び撃ち込まれた三つの矢を戦棍の一振りで撃ち落とした。
飛来した矢は安物の錆びた金属製ではない。矢尻は黒い金属で箆は炙ったような色の木製で矢羽は矢尻と同じ色をしていた。洒落たデザインの高価そうな矢だ。
射られた矢は三本だが、射手は三人ではなく、おそらく一人の射手による早撃ちだ。なかなかの強弓であり、それでいて正確に急所を狙ってくる。つまり要注意人物は剣男ではなく、この弓男だったと言うわけだ。
ランタンは無防備に身体を晒しながら鋭く目を細めた。廃墟の影から移動したのか、それとももともとそこに居なかったのか。強く殺意を感じるが、弓男の姿を見つけられない。
慎重なのか、臆病なのか。面倒くさい相手だ。
「見えない、――な!?」
ランタンが諦めきれず矢の飛来する先に目を凝らしていたら、その姿にリリオンが悲鳴を上げてランタンを抱きしめた。
射手の腕は優れていると言ってよかったが、ランタンの命を脅かすほどではない。射線に身を晒してその射手の位置を特定しようとしたのだが、リリオンには自殺するかのように見えたのかもしれない。
戦闘開始時にも同じことをしていたのに、とランタンはリリオンを鬱陶しげに見つめたが、それだけリリオンの視野が広がったのだと思うことで文句の言葉を飲み下した。
リリオンは自らの身体を盾にするようにランタンを抱え上げると、引きずり込むように廃墟の影に身を隠した。
「あんまり危ない真似はしないでよ」
「ランタンのバカっ!」
ランタンがリリオンに抱きかかえられまま言うと、リリオンはこっちの台詞だとでも言うように声を張った。
噛み付かれそうなほど顔が近いな、と思っていたら実際に首元に噛みつかれた。逃げ出そうにもリリオンは両手でがっちりランタンを抱きしめている。リリオンは抗議するように何度もがぶがぶと口を動かし、その怒りの分だけ涎塗れになった。
「ごめん、ごめんって」
ランタンはリリオンの髪をクシャクシャに撫でてあやした。
いくら強弓といえども石材は貫けないようで矢が打ち込まれることはなかった。そして身を隠す直前、リリオンがランタンに覆いかぶさったその時から射撃が止まっていた。矢が尽きた、という事ではないだろう。
狙いはこの子か。
ランタンはことさら優しくリリオンの頭を掻き抱き、そして鋭く視線を空に向けた。廃墟に切り取られた長方形の空に黒い影があった。
廃墟の影に隠れてそこから一向に出てこないランタンに痺れを切らしたのか、廃墟の屋上から二人を分かつように手刀が降ってきた。伏兵は弓男だけではなかったのだ。
ランタンは咄嗟にリリオンを突き放し、自らも小さく後退した。
それは頭巾を目深に被り、さらに布を巻いて顔を覆い、体型を隠す、ゆったりとした貫衣を着ていた。男か女かも定かではない。
だが強い。
手刀を振り下ろしたその体勢から、次の瞬間に貫衣の裾がはためいたかと思うと鉄靴に覆われた足がランタンに突出されていた。戦棍で受けると柄がしなり、それを手放してしまった。巨大な鉄球がぶつかったような衝撃にランタンは吹き飛ばれ、廃墟の影から弾き出された。
その瞬間に矢が打ち込まれる。ランタンはそれを転がりながら避けて、ポーチから一つ球を引っこ抜いた。それは手の中に握り込めるほどの大きさで、中には薬物が満たされている。それを地面に叩きつけて割ると、空気に触れた薬物が一瞬で気化しその体積を膨張させた。
あたりに広がった煙幕がランタンを覆い隠した。濃く重たい白い煙幕は完全にランタンの姿を弓男から遮ったようで、打ち込まれた矢がランタンの影を貫くだけで当たりはしなかった。
「あぁ、くさい」
生温い熱を持った煙幕の酸い臭いに顔をしかめながら、その煙の中をランタンは体勢を低くして移動して、廃墟の影に再び滑り込んだ。弓男に構っている暇などなかった。
そこではリリオンと貫衣が戦闘している。
リリオンの振り下ろした剣を貫衣が半身になって避けて、返すようにリリオンの首筋へ手刀を走らせた。
左右が壁に囲まれていて、リリオンは剣を振り辛そうだ。貫衣の手刀も速度はあるが、やはり、殺意がない。
二人の戦いは微妙な均衡を保っている。
リリオンは踏み込んで肩で手刀を受けて、そのまま膝を突き上げた。貫衣は膝蹴りを掌で受け止めると、ふわりと後ろに跳んだ。そこにランタンが貫衣の着地際を狙って足元から振り上げる強烈なアッパーを放った。
貫衣に殺意がなかろうとランタンには関係のない話だ。固めた拳は鋼のように硬い殺意を纏っており、戦棍さながらの凶器と化して貫衣の腰椎を狙った。
「なっ!?」
まず避けられないと思った一撃を、貫衣は避けた。ランタンの表情が驚愕に歪む。
この貫衣、ほんとうに強い。
貫衣が着地する寸前に身体を捻りランタンの拳をあしらうと、捻った腰の勢いに足が振り抜かれていた。斧のような回し蹴りが爪先で壁を削りながら、しかしその勢いを衰えさせずランタンを襲った。
「くっ」
ランタンは咄嗟に腕を交差させてその一撃を受け止めた。
ばちばちばち、と鋼条が千切れるような音を立てて張り付いた皮膚が一気に弾けた。皮膚だけではない、衝撃でくっつき始めていた肋骨も嫌な音を立てた。
一撃が馬鹿みたいに重たい。鉄靴だけではなく、骨も肉も血も皮膚も、その全てが鋼であるかのようだ。
貫衣の背足が腕に張り付くようにそこにあった。粘つく嫌な蹴りだ、とそう思っていたら貫衣の逆足が振れるのに気がつくのが遅れた。まるで鋏のようにもう一つの足がランタンの側頭部に叩き込まれようとしていた。
「ランタン!」
「ちぃ!」
リリオンの悲鳴を聞きながらランタンは交差していた腕を振り解くと、手を閃かせて貫衣の足首を掴んだ。思いの外、その足首は細い。余程太らない限り肉の付かない手首や足首は骨の形がそのまま浮き出る。
なんとも華奢な骨だ。
燃やせば灰も残らないような。
ランタンがその手の中で爆発を起こそうとした瞬間に、貫衣の蹴りが回りこむような蹴りから突き飛ばすものへと変化していた。一直線に最短距離を走った突き蹴りがランタンの肩に刺さって、ランタンの手の中から貫衣の足が引っこ抜かれた。
泣きそうなほど痛い。折れてはいないが骨の芯に響いた。
悪態をつく暇もなく、そこにリリオンが剣を構えて突っ込んできた。
「やぁっ!」
高速の直突きが貫衣目掛けて疾走る。リリオンの身体には男たちと戦った時のような恐慌がなかった。男か女か確定していないのならば、たとえその頭巾の中身がどうであろうとも関係無いのか、それとも恐慌に陥るだけの余裕が無いのか。
貫衣はランタンとリリオンに挟まれている。左右は壁で逃げ場はない。だと言うのに声の一つも漏らさないこの落ち着き様はなんとも不気味だ。男たちと同じように薬物に依って精神的な揺らぎを麻痺させているのかもしれない。
だがリリオンの相手をしながら、ランタンへの警戒も充分にある。
貫衣はリリオンの突きを腕で軽く弾いた。手首を滑らせるように鋒を逸らして、袖が浅く裂けた。
ランタンは苦々しく表情を歪めた。
裂けた袖から腕輪が覗いている。薄汚れた銀のそれはランタンにも馴染み深い。
探索者ギルド証だ。
犯罪の片棒をかつぐ探索者は珍しくはない。
元々の性質として歪んだ人間の多い探索者は、魔精によって一般人よりも強力な腕力を得ることによって自制を失うのだろう。探索者の怨敵、襲撃者にさえ探索者崩れが紛れ込んでいるのだからたまったものではない。
衛士隊や探索者ギルドはそう言った探索者崩れに苦慮しているらしい、と言うのを聞いたことがある。
貫衣はリリオンの剣を逸らすと、その腕を振り回してリリオンの首に巻きつけた。リリオンの首を絞め、もう一方の手でリリオンの手首を掴んで剣を手放させた。
リリオンは抵抗し必死に暴れたが貫衣はその身体をあっという間に押さえ込んだ。暴れ牛を御するカウボーイのようだ。リリオンの筋力を技術によって押さえ込んでいる。
ぐっと喉を絞められてリリオンの顔から表情が失せた。血流が止められ失神寸前だった。
貫衣がそのままリリオンを盾にするように身体を入れ替えた。人質を取ったことで貫衣の気が緩んだのだろうか、その間隙にランタンが飛び込んだ。
貫衣はリリオンを殺しはしない。怪我も可能な限りはさせないだろう、と今までの戦いを見てそう思った。そう思うことによって、ランタンは躊躇うことをしなかった。
それならばリリオンは人質ではなく、ただの枷だ。
ランタンの目が凶悪に光った。橙を通り越して赤く、燃える鉄のように。ランタンの身体が爆ぜ跳んだ。
固めた拳が流星のように燃えている。リリオンの耳をちょっとだけ炙って、赤熱の尾を引く拳が貫衣の顔で弾けた。
手応えはない。貫衣の顔を消し炭に変えたわけではなかった。
貫衣がリリオンから手を放し、爆風に煽られて後ろに吹き飛んだ。それは重量を感じさせず風に煽られる枯れ葉のようにひらめいていた。大きく距離を取り貫衣はふわりと着地して、熱に炙られた顔を隠すように片手で覆っている。なかなか良い頭巾だ。爆発の熱に炙られても少し焦げただけだ。
ランタンは追撃せずリリオンを抱きしめて、貫衣に捉えられていた喉に優しく触れた。そこについた穢れを払うように。
「大丈夫?」
「げっ、……こほっ、へいき」
「――良かった」
ランタンは少し赤くなってしまったリリオンの耳の先を食むように小さく呟き、リリオンが頷くと、次の瞬間には貫衣に肉薄していた。赤い瞳の残影が尾を引いて、獣じみた跳躍の軌跡を描いた。
ごうと音を立てて振り抜いた拳を貫衣は這いつくばるようにして躱し、間を置かず振り上がった爪先を仰け反り後ろに転がるように避けた。
「うらぁ!」
振り下ろされた踵が転がった貫衣を追い、けれど地面にめり込んでランタンの怒りそのままに爆発した。
閃光が周囲を白く染め、そして濃い橙色の爆炎が二人の間に巻き起こった。
ランタンはさっと身体に外套を巻くとその爆炎の中に飛び込んだ。自分の起こした炎だが熱いものは熱い。浅く開いた唇に熱波が滑りこんで喉を焼いた。
炎の壁を突破すると、爆発に煽られて身を強張らせる貫衣がいた。ランタンが笑みを浮かべる。乾いた唇に一筋罅が入り、血が零れた。
ランタンはその血を噛みしめるようにきつく唇を結んで、無防備にさらされる貫衣の顔面に手加減なく蹴りを叩き込んだ。
まただ。
蹴り足に伝わる衝撃が思ったよりも軽い。鼻骨を折った手応えはある。だがそれだけだ。
首から上を消し飛ばすつもりで蹴ったのだが、貫衣の頭は形を保っている。貫衣が後ろに跳んで衝撃を逃したのではない、と思う。
感覚としては人頭大の石を蹴ったと思ったらそれが紙風船であったかのような、気持ちの悪い手応えの無さだった。
ランタンの目が訝しげに貫衣を追った。
貫衣は錐揉みしながら高く吹き飛び、そして着地した。廃墟の壁にべたりと張り付いたのだ。そこが地面であるかのように。
亜人の中にはそう言った種族的特性を持つ者もいる。特殊な指先を持つ爬虫類系亜人や昆虫系亜人がそうだ。あの貫衣の下にはそういった姿が隠れているのだろうか。
ランタンはきつく拳を握り締めると、まるで観察するかのように見下ろしてくる貫衣を睨んだ。頭巾の奥にある視線が皮膚を舐めるようだった。
「――あーもう、くそ。鬱陶しい」
ランタンは小さく吐き捨てると握った拳を壁に叩きつけた。
貫衣が張り付く、その壁がまるで硝子材であるかのように罅が入った。叩きつけられた拳を起点に壁に広がった罅は、大輪が咲いたように放射状に走った。
するとさすがの貫衣も慌てた様子で逃げていった。
「あー、……やっちゃった」
それは貫衣を逃したことへの呟きではない。
罅が一つ音を立て、壁が一欠片だけ剥がれ落ちた。罅は壁一面に広がっている。崩壊のカウントダウンはどう見ても始まっている。それも早送りで。
ランタンはリリオンを振り返り誤魔化すように笑ったが、リリオンは顔を引き攣らせていた。
ランタンはリリオンに駆け寄り、戦棍を拾うと何時もみたいに尻を引っ叩いた。
「リリオン」
「な、なにっ!?」
「逃げよう」
ひひひ、と悪びれることなく笑い開き直ったランタンはリリオンの手を引いて駆け出した。
背後では小降りの雨が、次第にその勢いを増すように罅割れからばらばらと壁の欠片が吐き出され、そして轟音を上げながら廃墟は崩れ落ちた。




