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右手が燃える。
大気がぐらぐらと音を立てて沸騰し、ほんの一掴みの炎はどこかへ逃げ出そうとするように無数の火先をじたばたと暴れさせた。
ランタンは熱がる素振りも見せず、ぐっと右手を閉じたまま緩めることがなかった。
炎と同色の瞳でそれを睨み付け、やがてしばらくすると炎は落ち着きを見せ始めるが、一向に消える様子はない。
それはそういうものだった。
「……ふ」
ランタンは永遠に消えない業火の塊を、その辺にぽいっと捨てた。
それはあまりにも呆気なく、業火の塊は床を溶融し、地獄の底へ落ちるように真っ直ぐに落下していった。
ランタンは顎を突き出して、その穴を見下ろす。
赤々とした光が段々と黒ずみ、小さくなり、そして見えなくなった。
見えなくなったというのにランタンの瞳はまだ炎の色に染まったままだった。
その目には何が映っているのか、穴から外した視線は何もない中空を追うように地平の彼方に向けられた。
一つ、二つ、三つ。
東西南北へと一つ一つ確かめるように、ぐるりと視線を巡らせる。
魔精は遍在している。空のように、大地のように、海のようにどこまでも繋がっている。だからこそ意思の伝達が可能となる。
地獄の底へと落ちていった炎は永遠に燃え続け、まさしく業火としてその灼熱を彼方へ伝え続けるだろう。
十と七つ。
数え終えたランタンはふんと鼻を鳴らして、溜め息を吐いた。
その数はサラス伯爵の周囲に蠢いていた意識の数だ。
十と七つ。
嫌な奴は多い。十七が黒い卵の幹部の総数だと思えるほどランタンは楽観主義者ではないが、それでも少なからずを焼いてやったのではないかと思うと、それなりに満足感がある。
ランタンは大あくびをした。
太陽は地平の縁にじりじりと顔を出しはじめ、対照的に光の中心であった炎は地の底へ落ちた。
だと言うのに空はあの明るさをたっぷりと残している。
それは自分自身が作り出した眩しさだというのに、ランタンは猫のように目を細めた。
照らされた夜空の名残は手が届きそうなほど近くに広がっている。
星々とは違う、きらきらとした光の粒が大地と空の狭間に漂っている。
空から、一筋の黒い影が降ってくる。それは高度を下げるほどに色を帯び、すぐ目の前にあって鮮やかな紅だった。
紅い巻き毛の竜種、レティシアの愛竜であるカーリーだ。その背中にはもちろん愛すべき主人を乗せている。
羽ばたきは大きく緩やかで、風に顔を叩かれたランタンはうつむいて前髪を押さえる。
「――ランタンっ!」
ランタンにとってはたった一日だけのことであるが、それでも懐かしいと思える声に呼ばれて顔を上げる。
カーリーの背中からレティシアが、まさしく転げ落ちるように飛び降りて、案の定、尻餅をついた。その拍子に飛行帽が外れて、纏められていた紅毛が肩に、背中に溢れる。
レティシアは酷く疲労している様子だった。カーリーもそうだ。どれほど炎を吐いたのだろう、声枯れを起こしている竜種など初めて目にする。
レティシアは肩を上下させ、ランタンを見上げた。緑瞳にランタンの姿が反射する。息をのみ、顔から疲労の色が途端に失せる。
驚きいっぱいに目が見開かれる。
それは瞬き一つで消えてしまう幻を、永遠にするための悪あがきに似ていた。
泣きそうな目だ、とランタンは思う。
緑柱石の瞳がうるうるしていて、綺麗だなと場違いに思う。
「ひさしぶり、で合ってる?」
レティシアの感激振りもどこ吹く風にランタンはさらりと手を伸ばした。
う、とレティシアの喉が鳴る。
意表を突かれて息を飲んだようにも、しゃくりあげたようにも感じた。
どれだけ手綱を握っていたのだろう、丈夫そうな革の手袋は擦り切れている。レティシアは慌てた様子で手袋を口で外し、ランタンの手に触れた。
人の体温というものを、久々に感じたように思う。
レティシアはほんの一瞬、砂像に触れるような躊躇いを見せたが、次の瞬間には力一杯にランタンの手を握った。
ああ、と感極まって声を漏らす。
触れている部分だけが全てだとでも言うように、レティシアは尻餅をついたまま、まじまじと結ばれた手を見つめる。ふと指の力を緩めたかと思うと、執拗に揉んだり撫でたりを繰り返した。
もう一度、強く握られる。
「ちょっと痛い」
「え、あ。ああ」
力比べをするみたいに握り返してやると、はっとしてランタンを見上げた。
ランタンは一気にレティシアを引き起こした。
そのまま覆い被さるようにレティシアが小躯を抱きしめる。
「無事で良かった……!」
女の身体からは戦場の臭いが漂ってくる。
戦装束に身を包んだレティシアの身体は硬く、胸甲に押しつけられた頬に接合部の鋲が食い込んでランタンは困った顔をする。
落ち着かせるように背中を叩くが、鎧越しで伝わるかどうか。
「僕にとっては一日のことなんだけど」
ランタンが言葉で伝えると、悪い冗談を言われたみたいに怒り出しそうな表情になった。けれどランタンの困り顔を見ると、その表情もすぐに失せる。
「……あの日から、もう二週間にもなるんだよ」
ランタンの肩に手をやり、その行動が痛みを伴うように、ゆっくりと身体を離した。
「二週間? 聞いていたよりもちょっと多いな」
ブリューズが死んだのが十日前、と聞いたのはほんの数時間前のことだ。いや、ブリューズが死んだという報せが届いたのが、だったか。まあいいや、とランタンは思う。
「じゃあ、早いところ帰らないと」
ランタンは少しも焦った様子も見せず、そう呟いた。
「ああ、早く帰って安心させてやれ」
レティシアは汚れてもいないランタンの顔を手で拭った。頬に掌を当てて、親指の腹を目頭から目尻に向かって滑らせる。
「そうする」
「聞かないのか、リリオンのこと」
「ん? んー、そうだね」
ランタンは目を閉じて、肩を竦めた。
顔はすぐに思い浮かぶ。それだけで少し幸せな気持ちになる。
少女はベッドの上にぺたんと座り、眠るように目を閉じて祈っている。神さまなんてどれぐらい信じているのか知らないが、それにしても熱心に祈っている。
ランタンは目蓋を開いた。
「聞いたってね。側にいなきゃどうにも出来ない。こればっかりは」
自分は悪い奴だ、と思う。
リリオンのことを考えると、少女のために何ができるかよりも、自分がリリオンに何をしたいかということばかりが思い浮かぶ。
ランタンはそわそわと身体を揺らした。
自分は悪い奴だ、と思い、誤魔化すようにレティシアに問い掛ける。
「レティが僕に聞きたいことは?」
「たくさんある。だが、全ては帰ってからだな」
レティシアがどのような立場でこの場所に来ているのかは知らないが、貴族の娘としてそれなりに責任がその両肩に乗っているのだろう。
戦争の首謀者である伯爵が死亡した今、その全容を明らかにすることは難しい。ランタンは戦いの中心人物であり、知っていることを伝える責任があった。
だが今はそんなことをしている暇はない。
レティシアは顔を上げて周囲をぐるりと見渡した。
四方の壁は一切合切吹き飛び、領主館を包んでいた氷壁も幻だったように消滅している。
カーリーが警戒するように、あるいは暇を持て余すように部屋の中をうろついて、横たわる三人を突いたり、瓦礫の隙間に鼻先を突っ込んだりしている。だが業火の生み出した穴には、近寄ろうともしなかった。
空には竜騎士たちが旋回していた。
「一つだけ」
「なに?」
「戦っていた化け物は?」
「――ずるい質問だ」
「思わず、一つ、と言ってしまったからな」
「一つ、化け物はサラス伯爵。一つ、化け物は殺した」
「終わったと言うことでいいんだな」
「一段落は着いた」
頷くと同時に、レティシアは再びランタンを抱きしめた。
「お疲れさま」
そのあまりの力強さにランタンが呻く。
息が出来ず、酸欠になりそうなほどだった。苦しく、三半規管が平衡感覚を失い、足元がぐらりと揺らいだような気がした。
「あれ……?」
気のせいではない。
実際に領主館が傾いているのだ。あれほどの戦闘を経たのだから無理もない。
これまで崩壊を免れていたのは、伯爵の臆病さと慎重さ、そして蒐集物への執着が設計に反映されていたからに他ならず、止めを刺したのはもしかしたらランタンがぽいっと投げ捨てたあの業火の塊なのかもしれなかった。
「僕のせいじゃないよな」
「は?――あっ、うわっ!」
ランタンが誰にともなく言い訳をし、レティシアが驚嘆の声を、カーリーがきゅるるるると掠れた警戒音を発した。
その先はあっという間だった。
傾くどころではない。
領主館が砂のように崩れた。
「ランタンっ!」
「あとで拾って」
「おい!」
レティシアはカーリーに飛び乗り、カーリーは三度の羽ばたきで浮力を得た。
床はもう斜めと言うよりも縦に近く、ランタンはそこへ真っ直ぐに駆け寄る。
ロザリアとシーリアは床を滑り、すでに落下を始めている。そして炎虎と融合した少女は四肢に備わった鋭い爪が絨毯を引っ掻いて、ずりずりと滑りながらもどうにか持ち堪えている。
ランタンは虎の少女を肩に担いだ。成体の炎虎はランタンよりも五倍も六倍も重量がある。そんなランタンが担ぐ様子は、むしろ虎に押し潰されているかのようだった。
もう手は空いていない。
首の裏に炎虎の心臓の鼓動がはっきりと感じられる。呼吸に膨らむ肺や、空腹に震える腹や、ぽかぽかと暖かい体温が。
「あとは任せな」
ランタンは強く床を蹴った。最後に残った足場は固めた灰のように砕け、瓦礫の隙間を縫って飛んできたカーリーがランタンを鷲掴みにし、その重量にがくんと一つ高度を落としながら、その場から離れる。
「ぐえ」
「おおっと。ランタン、無事か? ――それは、……虎?」
「質問は一つじゃないの?」
「至極当然の疑問だろう」
「それもそうか。これは女の子だよ。そこで拾ったの見てなかった?」
カーリーの背から見下ろすレティシアには、虎模様の背中しか見えないだろう。ランタンの言った、女の子、という言葉を生物学的な雌雄の区別と捉えたかもしれない。
ランタンはどうにか首を動かして、領主館を振り返った。
備えられた地下に至るまでが、ごっそりと崩壊しているようだった。沈み込むように建物が消滅する。
立ちこめる濛々たる土煙はしばらく消えることがないだろう。まるで火山が噴火するようだった。
誰もが立ち尽くし、天まで届くその煙を見上げている。
怒りも憎しみも一時忘れ、武器をほっぽり出して立ち尽くす人々を見て、ランタンは戦いの終わりをあらためて実感する。
それから二日かかった。
レティシアは部隊を置いて一人帰ることが出来ないので、ランタンは一人先にティルナバンに帰った。
戦場にはベリレやリリララも来ていたようだが、会うことさえしなかった。
竜種を使わせてもらったが、どの竜種も戦列に出ていたのでそれなりに疲労をしていた。その中でも比較的体力が残っている三頭を乗り継いで、辿り着いたのは夜のことだった。
ランタンのもたらした光は、あれからまだ残っていた。あの光はどこまで届いたのだろうか。空の上で過ごした二日間、ランタンは暗い夜というものを見ることがなかった。
夜だというのにティルナバンは明るかった。
実際にそれを見たことはないが白夜と呼ばれる現象は、こういうものを言うのかもしれないとランタンは思う。
ランタンはそういう現象を知っているし、そもそも光の原因でもあるので平然と受け入れられるが、それを知らない人々はこの光をどのように思っているのだろう。
竜種をかっ飛ばして帰ってきたランタンだが、どうやら戦いは終わったらしいと言う噂話はもっと早くティルナバンに届いているようだった。
終戦の原因をこの光に求める者もあれば、訪れぬ夜を世界の終わりだと喚く者もいる。月神が臍を曲げたとか、陽神が荒ぶっているとか、ともあれ教会の周辺には夜だというのに人集りが出来ていた。
おかげでランタンはネイリングの屋敷に騒がれることなく帰ってくることが出来た。
「ありがと、――水と餌と充分の休息を」
突然の帰還に驚く使用人に竜種の世話を頼み、討ち入りかという風に乱暴に屋敷の扉を開けた。
戦いが終わった直後は落ち着いていたのに、二日間の空の旅でずいぶんと焦りが生まれた。そのまま焦りに身を委ね、我が物顔でずんずんと進んでいく。
ただ自室の扉の前で、その勢いが不意に失われた。
あれ、と思う。
少しだけ緊張しているかもしれない。
自分の部屋なのだからノックなど必要はない。なのにランタンは扉をノックして、大きく息を吸って吐いて、返事が返ってきてから、自分の部屋の扉を開けた。
眩しい。
カーテンは開けられて部屋の中は光で満ちている。
ベッドの上でぺたんと座っている少女はどこにもいない。
きらきらの銀の髪。幽霊みたいに足が床から浮いているのは自分の胸に飛び込んでくるからだった。
「おかえりっ!」
部屋に入るどころか廊下に押し出されてしまった。
ランタンは大股で二歩下がり、尻餅をつきそうになるのをどうにか堪えてリリオンを抱きとめた。
「ただいま、リリオン」
「おかえりなさい、ランタン」
緊張なんて、どこにもない。
何も怖くない、と思った。
リリオンはランタンが帰ってくるのを知っていたみたいに、不安よりもただ待ち遠しさと、会えない寂しさばかりを胸に抱いていたのかもしれない。
帰ってきたランタンを見つめる瞳は、純粋な嬉しさに溢れていた。
レティシアが泣きそうだったから、もしかしたらリリオンはわんわんと泣くかもしれないなんて思っていたけれど、そんなことはまったくなかった。
リリオンとランタンはくっついたまま部屋の中に入った。
互いの足が絡み合うぐらいにくっついてベッドの上に座って、なんだか色々と話したいことがあるのに、どれから話し始めていいかわからなくて思わず黙り込んでしまった。
自分の嬉しさが、相手に伝わってしまうことへの気恥ずかしさがあった。
「――あ、そうだ」
なんともわざとらしくて、ランタンは変な顔になる。
「なに? なになに?」
けれどリリオンは途端にその言葉に食いついてくる。
「これ、ちゃんと無くさず、壊さず帰ってきたよ」
ランタンは首から水精結晶の首飾りを外した。ほら、と少女の首に手を回す。
「傷一つない」
首飾りをかけてやる。
「約束守ったよ。ちゃんとか、どうかは自信がないけど」
リリオンは水精結晶を目の前に持ち上げて、初めて目にするように好奇心いっぱいの瞳で眺める。口角がきゅっと上がり、一つ頷くと大切そうに胸元にしまった。
「ちゃんと約束守ってくれたよ。帰ってきてくれたもん。ちょっと遅かったけど」
「けっこう急いで帰ってきたつもりだったんだけどな」
「でもいいの」
リリオンはえいとランタンに身体をぶつけてきた。そういう子供っぽい愛情表現が懐かしく思うので、リリオンの言う、ちょっと遅かった、は気を使った表現なのだろう。
ランタンはそのまま身体を倒して、リリオンはその上に乗っかった。
「痩せたね。急いで帰ってこなかったら、ぺらぺらになっちゃってたかも。食事はちゃんととってた?」
「うーん、どうだろう」
「何、その答え」
ランタンは見上げた少女の顔、目の下にうっすらと隈があることに気が付く。降りかかる銀の髪、体温と一緒に少し濃い体臭が感じられる。
「僕がいない間、ちゃんとしてた?」
「してたよ。でも、うん、色々考えて決めたことがあるの。聞いてくれる?」
「聞いてあげよう」
ランタンが言うと、リリオンは淡く微笑んだ。
「あのね。わたし決めたの」
「なにを」
「あのね、あのね。わたし、ランタンと一緒にごはんを食べるのよ」
ランタンはきょとんとして目を丸くし、くっつけた少女のお腹からぐうと音が鳴った。
リリオンは少し恥ずかしそうにして、身を捩った。
「ランタンと一緒にお風呂に入って、ランタンと一緒に寝るの。それからね、ランタンと一緒に起きて、ランタンと一緒に探索に行ってね、ランタンと一緒に戦うの」
「うん」
「わたし、ランタンと一緒に生きていくって、決めたのよ」
あ、とランタンは声を出した。
今の感情を、正しく口にすることは不可能だと思った。
リリオンはそんなランタンの反応でも、充分に満足したみたいに満面の笑みを浮かべた。
自分で言った言葉に照れて、頬がさっと色づいている。下唇を丸めてはにかみながら、リリオンは目を逸らさない。
「じゃあ、今まで飲まず食わず? 寝てなくてお風呂も入ってないの?」
ランタンはどうにか言葉を絞り出した。そんなことが言いたいわけではないのに。
「んーん、ご飯はちょっと食べたし、寝たし、身体もきれいにしたわ。だってランタンに会うんだもの」
「ああ、そう。えっと」
「ランタンは?」
「え、あー、そうだね。ちょっと食べて。寝てはいないかも。風呂はぜんぜんだな」
リリオンはランタンの首筋に顔を埋めて、胸一杯に息を吸い込んだ。うっとりとして顔を上げる。
「じゃあ、どうしましょう。まず、ご飯? それともお風呂? それとも寝ちゃう――?」
ランタンは身体を回して、あっという間にリリオンと上下を入れ替えた。
組み伏されたリリオンがくすくすと笑った。ランタンからようやく視線を外し、窓の外を見て、あ、と声を上げる。
あれほど明るかった空が、すっかりと闇を取り戻している。煌々とした光は役目を終えたように失せ、星々の光が空に撒かれるばかりだった。
「ランタン、お空が夜に――」
ランタンはリリオンに口付けをする。
まず初めに、愛することから。
すべてはそれから。




