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カボチャ頭のランタン  作者: mm
11.Pray For You
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 ランタンの視線の先には凍った肉の塊がある。

 それは全身に棘のような霜を纏っており、根を張るが如く床に張り付いていた。

 ランタンはそれを油断無く、燃える瞳で睨みつける。

 凍った肉の塊、サラス伯爵が言葉を発した。

「素晴らしい」

 霜の棘がばらばらと脱落する。

「あれも、これも、人間というものは! やはり!」

 生命活動を許さない零度の殺意を真面に受けて、しかし発せられる声は凍てついた状況を意に介した様子がまったく見られなかった。

 魔精を介し、頭に直接語りかけられているのかもしれない。

「いいものを見せてもらった! 最後の最後までよく働いてくれたよ、あの子たちは! 私のためにっ!」

 棘が折れ、氷の根が剥がれる。

 それに合わせて伯爵の耳や鼻も頭部から脱落した。言葉を発するごとに唇が砕け、目元の笑い皺は深い亀裂となった。

 凍らぬ血が流れる。

 それは伯爵自身に施された延命治療の一つだ。不定型生物を元にした代替血液が血管を満たしている。

 目蓋が割れた。右の目は煮えたまま白濁し、残った左の目は伯爵の旺盛な欲望にぎらついている。

「精神は肉体の器に(したが)う――、だが、だが、どうだあの二人の献身は。顔を失い、内臓を失い、だが精神は、心というものはたしかに、きっとあるっ! 私は見たぞ。素晴らしい愛情じゃあないか!」

「――黙れっ!」

 吐き出される言葉は、彼女たちが守ったものに吐瀉物を浴びせるようなものだった。伯爵の下で働いていた彼女たちの行動は、どんな理由であれ全てが正当化されるわけではない。

 だが、だがそれでも。

 ランタンは身の内にある怒りが、瞬間、全身を支配するのを感じた。

 怒りに身を任せて、その肉塊に戦鎚を叩き下ろした。

 伯爵の言葉に纏わり付く感情を、知りたくもないのに正確に理解してしまう。

 その事が堪まらなく不愉快だった。

 伯爵は本心から喜んでいる。ロザリアとシーリアの行動を賞賛し、しかしそれは目に見えぬものを確信させてくれたことへの賞賛である。

 お前の為じゃない。

 叩き付けた戦鎚から、冷気が感じ取れる。脂肪の柔らかさを欠片も残さぬほどに凍り付いている。

 ランタンの体温が上昇し、辺りに白い蒸気が揺らめく。よく晴れた冬の日に見上げた太陽が、白い環に包まれるように。

 シーリアはきっと伯爵を討ち取ったと思っただろう。そう確信して間違いがないほどの冷気が、まだ残っていた

 それでいい。逝くのならば、未練は少ない方がいいに決まっている。

 あとの始末は僕がやる。

 打撃音は極めて重たい。

 どのような部屋の造りをしているのか、床が深く陥没し、しかし抜けることはない。肉塊を覆う氷が弾け飛び、頭頂から股ぐらまでを深い亀裂が稲妻のように走った。

 だが。

 ぐるん、と左の目がランタンを見上げた。口角が耳まで裂けて、深い弧を描く笑みは欲望と不吉を孕んでいる。

「ならば、やはり、知りたい。私も、精神の、変容を。人の、可能性を。この身体の、最後の、楽しみ、を」

 代替血液が唾液のような粘性を帯び、断面の内側から噴き出して橋を架けた。

 亀裂を割り広げるように、伯爵の肉体が内側から膨脹する。

「楽しむだと!」

 それは脱皮や羽化、卵の内で育った生命が、ついにその殻を破るのに似ている。

「そうだ、とも。ああ、そうだとも」

 辿々しかった言葉が、不意に滑らかさを取り戻す。

 たっぷりと贅肉を蓄えていた伯爵は、もともと巨体であった。だが元の体積を遙かに上回るだろう、大きな肉体がぬるりと姿を現した。

 それは若いというわけではない。だが老いてもいない。肌に感じ取れるほど生命力に満ちているが、しかしそれは偽りの生命力である。

 その確信を裏付けるように、それが言葉を発する。

「もう、この身体も死する。ならば――」

 伯爵は人間として、当たり前の寿命を迎えようとしていた。不摂生を思えばずいぶんと長生きであったと言えるだろう。黒い卵の技術を用いたとしても、まだそれが限界だった。

 定命の理を脱するには至らない。

 ゆえに伯爵は決めたのだ。

 自らが半世紀以上も掛けて作り上げた箱庭、サラス伯爵領を余すことなく使い潰そうと。

 だが、そこに自分自身を含むことは。

 これまで他者を変えることばかりに終始してきた伯爵が、はたして直接的な自己変容を望むだろうか。

 微かな違和感。

 しかしじっくりと考えている暇は勿論ない。

 角、複眼、牙。

 獣毛、鱗、外骨格。

 爪、尾、蹄。

 精悍と言って間違いはない彫りの深い男の顔は満足気で、残忍な嗤いが浮かんでいる。

 その整った容貌は老いた伯爵の顔の面影はまるでなく、伯爵を若返らせたとしてもそうはならないだろう。

 左目は煮えたまま、だが淀み溢れるような欲望を孕んだ目付きだけは変わりない。

「はっ、はっはっはっ! 識る者は好む者に如かず、好む者は楽しむ者に如かず」

 全身を震えさせる。羊水のように身体に纏わり付くぬめぬめがばっと散って、冷気の残滓に凍り付いた

 拳を握るとぎゅうと筋肉が収縮するような音さえ聞こえる。鱗と外骨格が干渉し、かちかちと神経質な音を奏でる。

 拳を無造作に振るった。

 何という豪腕だろうか。触れた壁が古紙のようにごっそりと吹き飛んだ。外部からの攻撃に備えてあったのだろう、壁の厚みは一メートルにも達するというのに見る影もない。

 外気が流れ込み、冷気が白い靄となって可視化する。

 その靄の中で、伯爵の笑みが深くなる。確かめた力に満足するように。

「――最後まで、楽しむべきだろう!」

 その尾は牛のようであるが少し太く、床にたわむほど長い。

 よく見れば細かな鱗に覆われて、先端は房になっている。

 それが。

 消え。

 て。

 反射的に身体が動いた。身の内に暴れていた怒りが置いてけぼりになる。

 眼前にかざした戦鎚がびりびりと震え、先行して発生した破裂音が衝突音と混ざり合う。

 かっと掌が熱くなる。音速を超える一撃だった。鞭のようにしなやかで、鎚を叩き付けられたような重たさだった。

 だがランタンは一歩も退かなかった。

 肩から腕に奔った痺れを確かめるように、二度戦鎚を素振りした。

 不意打ちがまるで意味を成さなかったことに、伯爵が感心したように瞠目する。

「素晴らしい!」

 一歩、二歩。

 見た目よりも歩幅が狭いのは、脱皮前の肉体を憶えているからだろう。しかしそれでもランタンの一歩より遥かに長大な伯爵の踏み込み。

 固めた拳はランタンの頭部を二回りほど大きくしたもので、それは甲虫のような黒光りする外骨格で拳面を覆っている。

 打ち下ろし気味の、振り回すような乱暴な打撃。だが死を予感させるその威圧感に並の戦士ならば立ち尽くしてしまうだろう。

 ランタンはごく僅かな動きでそれを避けた。

 空振りした拳がごうと風音を立てる。黒髪が暴れるように靡き、それだけでその威力が充分に理解できる。だがランタンは少しも動じなかった。

 伯爵の強い踏み込みと対照的な、子供の一歩。

 適正な間合いに自分の身体を進め、伯爵の出足の脛を戦鎚で痛打した。具足のような鱗板がぱきんと拉げ、肉を押し潰して骨の感触がどうにも硬い。

 今の一撃では到底足らない。

 荒縄のように隆起する筋肉群。そして太く硬い骨格。

 それらは巨人族が巨大な自重を支えるために獲得した種族的特徴だ。そういった肉体はただでさえ頑強なのに、それに加えて獣毛や鱗や外骨格も備えている。

 生半な攻撃では、致命傷を与えることは出来ないだろう。

 打った右脛から出血が見られるが、たかだか擦り剥いた程度の傷でしかない。

 右足の蹄が形を変える。五指に分かれ、鉤爪となって床を掴んだ。脹ら脛と太股が膨らんで、鱗と外骨格の複合装甲が押し広げられる。

 出足の右が軸足へと入れ替わり、全身を引き寄せながら左脚が蹴り出された。

 退くには間合いが長すぎる。

 ランタンは一気に身体を沈めた。頭上を大斧のような左脚が通過し、身を固めなければ吹き飛ばされてしまいそうな風が吹いた。

 ランタンは腕も使い、難しい体勢から四足獣のように横へ跳んだ。

 一つ転がり距離を稼いで、油断無く立ち上がる。

 追撃はない。

 ランタンは深くゆったりとした、溜め息のような息を吐く。

 あらためて伯爵の姿を観察する。

 そう、探索者の戦いとはそういうものだ。止めを刺す時は攻撃に全てを捧げるが、そこに至るまでには充分に敵を見極めなければならない。

 それに迷宮攻略ほど単純ではない。ただ殺して、それでお終いではないのだ。この戦いは。

 顔の左目は白濁して煮えたまま、だが額に複眼があるのでさしたる障害にはならないだろう。鼻はあるが、耳はなく、巻き角が代わりに生えている。

 身に纏っていた法衣は脱皮とともに失い全裸であったが、下腹部にあるはずの男のそれも凍傷によって失ったままだった。生殖をもう必要としないためだろう。

 それ以外はすっかり傷も癒え、あるいは変化していた。

 しかし脛から流れる血の色が赤色をしている。それが何を意味するのか。

 それは姿が変わっても伯爵が人であると言うことだった。

 見た目はまったく魔物のようであり、人の名残を見つけることの方が難しい。

 だがそれは全体を見た時のことだ。伯爵の身体に現れているあらゆる特徴は、その一つ一つを見れば人が備えていて違和感のないものだった。

 人の可能性を集めたもの。

 その集大成かもしれなかった。

 ――この後に及んで。

 決して消えることのない怒りが、理性の手綱を焼き切り暴れ出そうとする。

 だが、いけない。

 感情に支配されることは、伯爵の思うつぼだった。

 この場には魔精が充満しすぎている。ともすれば迷宮よりも濃密で、迷宮にある魔精とは質が違った。

 願ったことが叶う。そんな伯爵の戯れ言が現実のものになりかねない。

 願いとは何か。人間は複雑だ。口に出した言葉、頭に思い描いたこと。それが自分の本質であるとは限らない。叶った願いは、自分が思いもよらないことかもしれない。

 だからこそ黒い卵たちは、精神を探し、そして人の自我を弄んだ。

 伯爵を筆頭に、ランタンを特別だ、と思い込んでいる一派がいる。

 意思を持ちながら意思に染まらぬ魔精。悩み、惑い、矛盾をはらんで存在する。まるで人のように。まさしく人のように。そのようなものだと。

 それが叶える願いを見ようとしている。

 奴()は。

 目的が不老不死であっても、伯爵の喜び、楽しみは他者の異形化にある。

 伯爵が自分の蒐集物をランタンに見せたり、ことさら魔精の作用について言及したりしたのはランタンの意識を誘導するためだ。

 魔精の可能性を信じれば、それだけ魔精は意識に反応しやすくなる。

 ランタンが人に絶望をすれば、人は今の人ではないものになるかもしれない。逆に人に希望を持つのも構わないだろう。そうすれば人の可能性は無限に広がり、いつしか不老不死に辿り着くこともあるかもしれない。

 あるいはランタンがただ怒りに支配されれば、ランタンの肉体は怒りの様相を表すかもしれない。

 それは可視化した精神そのものだ。

 最後の喜び。

 個人的な趣味欲求が満たされることを、伯爵は望んでいる。他者を踏みつけにして顧みない自分勝手な欲望を最後まで追求している。

 ――なにもかも、思い通りにはさせない。

 伯爵が再び腕を振りかぶりながら、ランタンへと振り向いた。

 肉体そのものの能力は凄まじい。巨人族ほど巨大ではなくとも、それに比肩する膂力を宿している。全体的な身体は最終目標(フラグ)をも上回るだろう。

 だが動きそのものは拙い。知識や経験が、行動に連結していない。

 つまりは戦いなれていないと言うことだった。

 ただ力が暴れている。暴力そのものだった。

 最短を走る。

 拳が振り下ろされる前に伯爵の肩を打った。跳ね返された戦鎚を引き戻し、腰を回して横に振る。手首を返し、鱗の隙間を狙って鶴嘴を打ち込む。脆弱な肋骨の下端がぽきりと折れる。即座に引き抜いて、再び上を狙った。

 鎖骨。

 半歩の踏み込みで、振り下ろされた拳を避け、同時に前進力の全てを戦鎚に乗せる。相手の突進力さえ利用して、太い生木のような鎖骨をへし折った。

「――かっ!」

 痰を吐くように伯爵が呼気を吐き出す。

 牙の並ぶ口腔、舌先は二つに割れている。

 揺らめき。

 光が屈折する。

 ランタンは素早く離れて爆発を放った。

 両者から放たれた衝撃波が互いを打ち消し合った。僅かに残った冷気が瞬く間に失せて、室温が一気に上昇する。呼吸が湿っぽく、肌に結露して頬が濡れた。

「底が知れぬ。まだまだ、そんなにも余裕があるのか」

 ランタンの背後には三人の女が無防備に横たわっている。たった一人だけ、苦しげにだが胸が上下している。その身体にだけは冷気が残っていた。無惨な火傷を覆うように。

 ランタンは、任せろ、とそう言った。

「いぃい気分だぁ――」

 無防備な鳩尾を抜き、くの字に折れ曲がった背骨を伸ばすように爆発を放った。伯爵の巨体が吹き飛び、しかし掴まえようと伸ばされた腕が効果の低さを物語っている。

 伯爵は身体を捻り、四つ足で着地をしてすっと立ち上がった、かに見えて、僅かによろめく。

 本人も気付かぬほどの、重心の揺らめきをランタンは見た。尾が無意識に身体を支える。

「これが、それが、探索者の肉体か。なるほど、なるほど」

 伯爵は陶酔するように低く呟き、爆発を受けた腹部を軽く払った。焼けた獣毛が払い落とされ、その下から胸甲のような外骨格が顔を覗かせる。焼いた鉄の光沢を帯びるが、ほとんど無傷だった。

 伯爵は戦いを楽しんでいる様子だった。

 精神は肉体の器に随う。

 自らの言葉の通り、戦うための肉体に伯爵は影響を受けている。一人で立ち上がることもままならぬほど肥えていた老体の時には思いもよらなかっただろう。

 肉体が精神に、そして精神が肉体に影響を与えるのならば、その作用は加速度的に高まってゆくはずだ。

「ますます、気になる。その肉体」

 伯爵はランタンを指差す。

 伯爵と、他のどの探索者と比べても、まったく戦闘に不向きそうな少年の肉体は、しかし伯爵を圧倒していた。技術だけでは埋められぬほどの体格差を、まるでものともしない。

 伯爵の爪が厚みと鋭さを増した。

 少年を蹂躙するための厚みであり、少年の腹を開いて中を覗き見るための鋭さである。

「この、ここここここの、目を、奪った力を」

 クダンというあの魔物のように、他者に干渉する力の可能性を潰れた左目が示している。

 知りたい。欲しい。

 伯爵に備わる貪欲な探究心は、増大する闘争心に押し潰されることなくあり続ける。

 ――いや。

 ランタンの瞳に映るものは、実体を持つものばかりではなかった。

 それは酷く複雑で、絡み合い、あちらこちらに飛び交って混沌極まりない。朝、目が覚めた時、瞬きの度に視界に映る光の筋に似ている。それをもっと、もっと複雑にしたもの。

 それは意識かもしれない。

 無秩序に飛び交うそれらの中で、いくつか自律的なものがある。それは伯爵と意識のやり取りを行っている。

 伯爵の自我は肉体に合わせて変化し、闘争それ自体を目的とし始めている。今まで保ち続けていた強固な自我も、相応に老いていたのかもしれない。

 だがそれでも探究心を保ち続けるのは、流入する黒い卵の意識によって支えられているからに他ならない。

 伯爵は肉体の死期が近くにあることを悟っていた。ゆえにただ死ぬのではなく、自らも実験の材料にした。しかし、その選択ははたして本当に伯爵だけの意思に基づくものだろうか。

 黒い卵。他者を顧みぬ、残酷で貪欲な探求の徒。

 まだ足らぬ。

 もっと、もっとこのランタンという存在を確かめようと。

「ききき刻んでも、元に戻るのならららららららっ――」

 その後は言葉にならなかった。

 嬌声にも似た絶叫をあげて伯爵が動く。

 床が爆ぜ、踏み込みは一歩と三分の一。

 先ほどよりも素早い。身体の使い方が少しだけ上手くなっている。

 鋭い爪が床を削り、掬い上げるように振り上げられた。躱す。だが爪が伸びた。顎先が裂ける。ぱっと散ったのは血と見紛う赤い炎であった。

 意味不明。

 ランタンは他人事のように思う。噴き上がった炎は視界を遮って邪魔だ。すると前髪を焦がした炎が途端に血に変わった。

 砕いた鎖骨の影響で肩の可動域は狭い。身体の捻りが甘いのは、折れた肋骨が影響しているからだろう。

 そして、そこはがら空きだった。ランタンは再び肋骨の下端を狙った。

 それは誘いだった。

 打ち込んだ鶴嘴が筋肉に締め付けられる。容易に抜くことは出来ない。

 振り上げた腕が、肘打ちとなって振り下ろされる。右手と尾が左右からランタンを挟み打つ。

 ランタンはあえて爆発を使わなかった。

 力を使えば使うだけ、その情報が外に流れるからだ。

 誘いであることを知っていた。これまでどれほどの知識を蓄積してきたのかは知らないが、踏んだ場数が圧倒的に違うのだ。

 ランタンは靴底を伯爵の腹に押し当て、まったく躊躇なく一気に膝を伸ばした。

 ぶち、と生々しい破断の音が響く。肉と皮を突き破り、骨を引きずり出して鶴嘴が抜ける。

「刻む?」

 体勢を崩されても、尾の動きだけは崩れなかった。的確にランタンを狙い、だが最低限の動きで戦鎚に絡め取られる。

 ランタンは腰と肩を同時に後ろに回して、一気に肘を引き伸ばした。

 ぱん。

 誰かが手を叩いたような音だった。

 ランタンは引き千切った尾を爆発で焼き払い。赤熱化した鎚頭で残った右の目を灼いた。

「がああああああああっ!」

 さすがに悲鳴が上がる。その声に、その声を発生させたものに魔精が反応し、現象が発現するまでの須臾(しゅゆ)の間隙をランタンは動いた。

 伯爵の頸部を砕いた。

 ランタンは瞬き一つせず、伯爵から距離を取った。

 床が刺々しく隆起した。埃っぽい、乾いた土の臭い。

 石造りの床が荒れた大地のように赤茶け、土埃が舞った。魔精と意思の結びつきがあまりにも敏感だった。これが伯爵の原風景なのかもしれない。

 土埃の中を影が泳いだ。

 千切ったはずの尾が再生している。それは蠍の尾に似ていて、しかし先端は蜂針のよう真っ直ぐ尖っている。それは大きく弧を描いてランタンを背後から強襲した。

 しかしランタンは背後に目があるようにそれを避けた。

 先端が濡れている。毒針だった。

「ふっ!」

 戦鎚で針を折り、器用にそれを打ち返した。矢のように飛んだそれが、伯爵の肉体深くに打ち込まれる。伯爵は一度大きく痙攣し、しかし抜く素振りも見せない。

 冷。

 熱。

 伯爵から相反する二つの衝撃波が放たれた。蓄積された経験が漏出するようだった。

 シーリアの冷気、ランタンの爆発に似ている。

 だが、ただ似ているだけだ。

 ランタンは戦鎚の一振りにその衝撃波を打ち破る。

 うぅ、うぅ、うぅ、と唸り声が聞こえる。牙の隙間から涎が長く糸を引いて滴る。

 白濁した両の目には何が映っているのだろうか。もしかしたらランタンの命の形かもしれない。それは炎によって赤く、魔精によって蒼く、あるいは彼らが望むように黒いのかもしれない。

 額に備えられた複眼が、蝿のように小刻みに動く。

「すすす素晴らしいいいいいいい、そそそそそその肉体がががあがあがあが」

 一つの傷もないランタンの小躯。冷気で負った裂傷も、炎を噴いた顎の傷も、今はもうない。袖を染めた血の赤色がまるで絵の具のようだった。

 嫉むように、羨ましがるように煮えた瞳がランタンに執着する。

 異形を求め、だが不老不死もその目的の一つなれば。

 長命の法はあれども、不死の法は未だに見つかってはいない。若返ることが出来ても、それは限定的なものだ。

「あああああああああああああああああ」

 伯爵の頭部に黒髪が生えた。一気に伸びて床に折り重なるほどである。それは似ても似つかないが、ランタンの黒髪の模造だった。

 伯爵の手が伸びる。すぐそこにある少年は、探し求めた不老不死そのもののように思えた。

 ランタンは素っ気なく、その手を叩き落とした。戦鎚は炎の形も見せず、伯爵の手首から先が消し飛んだ。黒々と炭化した断面からは血の一滴も流れない。

「お前は、自分よりも下に思えるものを作って悦に浸っていただけだ」

 ひぃあぁ、と伯爵の喉が鳴った。

 耳鳴りが先にあった。青い雷が部屋の中を走り、身体が内側から焼かれるような灼熱感を憶える。

 ランタンは咄嗟に腕を交差させ衝撃に備えた。

 光が膨らんで、辺りにあるものを全て吹き飛ばした。

「無駄だ」

 天井がすっかりとなくなり、領主館を覆っていた強固な氷壁にも罅が入る。

 周囲を飛行していた竜種たちが高度を上げる中、巻き毛の紅い竜種はそれを好機とばかりに白いほどの炎を吐き出し、同じ紅毛の騎手は何かを叫んでいる。

 ランタンはそれでも無傷だった。背後にある守るべきものも、同様に。竜種に視線を向け、雷火の継ぎ目に親指を立てた。無事を伝えるためでもあるし、高度を取れと伝えるためでもある。

 氷を透かして見る夜空は色が薄い。星はすでに数えるほどしか見えず、地平には太陽の気配が感じられる。

 薄明に照らされる戦場は、地獄に等しい。

 大穀倉地帯である伯爵領。田畑は踏み荒らされ、畝は血で溢れている。

 人々は戦いをやめない。疲労は極致に達しているのにもかかわらず、戦いを終わらせる術を失っている。

 恐怖と疲労、憤怒と絶望、諦念と憎悪。

 一人一人に蓄えられた魔精が死によって解放され、サラス伯爵領の全土に満ちている。

 共感覚による意識の共有が負の感情を連鎖増大させる。きっと戦いは止まらない。闘争は生命の本質だ。例え伯爵が死んだとしても、実験は続いてゆく。

 黒い卵の螺旋は、不老不死を実現させるまで。

「お前らの思い通りにはならない」

「しししししししっているるるるうるうるうるうううう」

 それはどこか嘲笑うような響きを伴っていた。いつ朽ちてもおかしくない肉体を保つのは、この地に満ちる魔精を貪っているからだ。肉体は記録装置。情報を取り出すまで、死んでもらっては困る。そういうことだ。

 伯爵の肉体に備わる自我が寿命を迎え、微かな残り香となり、その内にある情報を取り出すべく様々な意識が殺到する。死体に群がる蝿のように。

 彼らは挑発するように囁く。

 知っている。知っている。

 寿命による死を、首の骨が折れるのも、窒息も、切り離されるのも、凍り付くのも、溺れるのも、毒に苦しむのも。

 お前に焼かれるのも、すでに知っているぞ。

 ゆえに恐怖はない。これまで経験したことを、再び体験するだけのことだ。

 まるでそう宣言するように。

「お前らの、思い通りには、ならない」

 黒い卵の意思には、いちいち苛立ちと怒りが募る。人への失望や絶望も、嫌が応にも湧いてくる。汚染された魔精は見たくないものも、聞きたくないものもランタンに知らせてくる。

 ――さっきから、ずっと声が聞こえてくる。

 それからどうすればいいかをずっと、頭の片隅で、そしてそれこそを目的に考えてきた。

 ランタンは戦鎚を伯爵に突き入れた。限界を迎えた肉体は、強固な鱗や外骨格が風化するように崩れ、荒縄のようだった筋肉は泥のように戦鎚を受け入れた。

 ルーの魔道を元にした、重力の魔道式。ランタンの手によって行われるそれは、ランタンの本質の一つと深く結びついて変化する。

 引力。どうしようもなく人を魅了し離さない、それは魔性の力かもしれない。

「燃えろ」

 ぼっと伯爵の肉体が燃えさかって、松明と化した。

 炎の牢獄だった。

 薄明の中、その瞳だけが煌々と明るい。だが同時に幽玄であり、少年の姿を危うく思わせる。

 それをカボチャ頭の幽鬼であると言った者がいる。死神であるとも、あるいは陽神の化身であると言った者もいる。ただの子供であるとか、凄腕の探索者であるとか、ほかにも色々と好き勝手に。

 ランタンは炎の中に手を突っ込んだ。肉体の気配はすでに無く、小さな手の中に何かを掴み取る。子供が珍しい昆虫を逃がさぬよう、潰してしまうことなどお構いなしに拳を握るように。

「僕は自分がどこから来たのか、何であるのかを未だに確信が持てない。だが帰る場所は知っている」

 さっきから、ずっとずっと声が頭の中に響いている。

 ――ランタンが無事に帰ってきますように。

 大好きなあの子の、祈りの声が。

 怒りに支配される暇なんかないぐらいに。

 真っ直ぐひたむきな祈りが、ずっと。

「そのためにも、やるべきことはやらないといけない。あの子にこんなに心配をかけると、あとが面倒だからな。……――いいか、お前たちの思い通りにはならない。もう二度と、決して。僕は、やると言ったらやる。魔精がどうのとかは関係ない。僕がやるんだ」

 手の中に握り込むものは、まだどこかに余裕を残している。

「不老不死にどこまで近付いているのか知らない。お前らが何人いるのかも。それでもいいさ。関係ない。僕に焼かれたことがある? 自慢するほどのことじゃない。そんな奴は何人だっている。だが、今、この瞬間の僕に焼かれたことがある奴は一人もいない」

 炎の中、拳はそれよりも遥かに高温となった。一つの星が自らの重力に絶えきれず、光を放ちながら崩壊するような、それに匹敵する力だった。

「知りたいなら知るがいい」

 お前たちはここでお終いだ。

「永遠に死に続けろ」

 眩しくて、立ち止まり、見上げることしかできない圧倒的な存在。

 それは長い夜と戦いを終わらせる光。


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