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「だまれ」
ブリューズが血を吐くように呟き、ゆっくりと身を起こした。
男の身体に罅が入り、ぼろぼろと何かが崩れ剥がれる。それに実体はない。全身を透明な硝子で覆っていたかのように、何かが失われていくことはわかるが、それを目に見ることはできない。
虚飾された神聖さが剥がれ落ちた。
「きさまになにがわかる」
白磁の肌はただ血の気を失い青白く、血走った目が塗り潰したように赤くアシュレイを睨みつける。
瞳孔が小刻みに震え、拡大と縮小を繰り返した。
アシュレイは緩く息を吐く。吐息が微かに揺らいだ。
テスが刀を指先に弄ぶ。二刀の内の一つは失われ、残った一振りも刃毀れが著しく、先端は処刑刀のように失われている。
ブリューズを斬りたい、とそう思っているのだろう。ランタンも似たようなことを思っている。
失われた鋒がうずうずと揺れている。きっかけがあれば、それは即座にブリューズを狙うだろう。
止めを刺すまで油断はできない。
ブリューズは探索者からすれば無力な、ただの人の所まで戻ってきたように見える。
だがランタンのそれとはまったく正反対の、狂的な色に染まった瞳にはまだ恐るべき力が残されているような気がした。
錯覚ではないだろう。
ランタンは指先の震えを握り潰した。
掌や手首に痛みがある。戦鎚が危うくすっぽ抜けそうなほど、柄の後端を握っているせいだ。握り込んだ石突きが掌の皮膚を削っている。戦鎚の重さにも、殴った衝撃にも耐えられず手首を挫いてしまっていた。
痛みとは、こんなに痛いものだったか。
全身がずきずきと痛みを発している。
ブリューズから神聖さが失われたように、ランタンも奪われた魔精をまだ取り戻せないでいる。
この場にはこれほど魔精が満ちているのに、まるで他人のように素っ気ない。
疎外感を感じる。
これは自分の気持ちか、それとも魔精を通じて入り込んでくる誰かの感覚かどちらだろう。
ブリューズのことを笑えない。
心細さが背骨に差し込まれる。
自分の力は失われたかもしれない。
未だに戦場であるこの場にいることが、ひどく場違いなことのように思える。油断をすると歯の根が合わず、かたかたと音が鳴りそうだった。
テスにすべてを任せてしまえばよい。
彼女はこの上なく頼もしく、百の敵を切り刻んであまりある戦力を個人で有している。
この馬鹿みたいに重たい戦鎚を投げだしても、戦況に影響を及ぼすことはないだろう。
ランタンは指から力を抜いた。戦鎚の柄から一つずつ指を離してゆく。慎重に。
その様をテスがちらりと横目に見て、呆れたように溜め息を吐いた。
それは掃除を命じられた子供が箒をどうにか自立させようとするのに似ていた。
ランタンは戦鎚を自立させると、痛む手首をぐるりと回し、剥けて剥がれそうになっている皮膚をあるべき場所に戻し、張り付けるように強く押し当てた。
くっついた。
そう思ったがすぐに剥がれてしまう。ランタンは溜め息一つ吐き、邪魔なその皮膚を千切った。皮一枚、神経が近い。舌で舐めると塩味と痛みを同時に感じる。鉄の味は血の味ではなく、戦鎚の味だろう。
狩猟刀でスカートを切り裂き。掌にきつく巻いた。
ランタンは再び戦鎚を握る。痛みはそれを握っていることを強く実感させる。
戦いをテスに任せることはできる。
だが、しない。自分ができることは、自分でする。
ランタンはゆっくりと、深く息を吸う。せめてそうやって身の内に魔精を取り込もうとするように。
他人となった魔精だろうが、また知り合いや友人になることもできるだろうか。先程ブリューズに一撃食らわせた時は、仲間だったのにずいぶんとつれないことだ。
「兄上、幼かった私の目には、あなたは理想的な王のように見えました」
ブリューズの瞳に闇が濃くなる。
アシュレイがブリューズに近付く。彼女もまた上でかなりの戦闘を経験しただろうに、まったく無防備な戦いに無縁なお姫さまらしい接近だった。ルーが影のように付き従う。
「だから、きさまはおろかだというのだ」
「ええ、あなたの苦しみを理解できるようになったのはもう少し大人になってからです」
アシュレイの声にはどうしようもない哀愁がある。
「当時の私はまだ幼く、それ以上に愚かでした。愚かなりに世を儚んでいた。憧れた探索者にもなれず、すぐ息の上がる身体は煩わしく、いつ死ぬともしれぬ哀れみからこの地へ寄越された自分の情けなさが。あなたは私に目もくれず、遊び相手にもなってくれなかった」
アシュレイが肩を竦めた。
白い背中に魔道式が刻まれている。王家の血が流れる彼女の身の内には、どれほどの魔精が蓄積されているのだろうか。
ランタンは少し泣きたくなった。たぶんアシュレイが泣きたくなっているからだろう。
魔精が囁く。
感情が剥き出しになり、どうしようもなくすべてをさらけ出してしまう。
「そんな私を尻目に、あなたは生き生きとしていた。多くの困難があなたの前にあった。だがそれをものともしなかった」
ランタンはアシュレイの言葉を聞きながら、粘着く唾を飲み込んだ。
もし自分が迷宮から生まれたのだとしたら、殺した魔物どもは自分の兄弟姉妹だったのだろうか。
手をかける時、哀しみを感じることはあっただろうか。戦うことは喜びでも、殺すことは喜びではなかったように思う。命を奪うことに躊躇いを感じることもあるが、それは哀しみではなく恐れだったはずだ。
自分が生き残ることに必死で、哀しみなど感じる暇はなかっただろう。
言葉を重ねる分だけ、躊躇いを感じる。
神どころか、魔物ともブリューズの姿は似つかない。黄金の髪はアシュレイのそれと同じだ。
「綺麗事だけでは国家運営はままならない。今日に至るまで私ごときでは理解し得ない苦しみがあったのでしょう。私は王権代行官補佐としての役目を十分の一も果たせはしなかった。あなたはただ一人、孤高だった」
「わたしに、――おれにあわれみをむけるなっ!」
「せめて、その苦しみの一握りでも共有できたなら」
ブリューズが吼えた。魔精は未だ十全。大気が震え、それは地震のように足元を覚束なくさせた。
反応が遅い。ランタンは自分がひどく無力であることを理解する。
それは一瞬、尾のように錯覚した。ブリューズの背後から何かが飛び出してきた。それは腕だった。あの探索者のような三本目の腕がブリューズの背から生え、猿のように伸びてアシュレイを狙った。
ぬらりとして銀に濡れているのが目の端に見える。指が五本、爪は獣じみて尖っている。
次に見えたのは、それが肘で断たれて、血を撒き散らしながら地面に転がるところだった。
テスが素っ気なく刀についた血を振り落とす。刃毀れに脂肪が絡みつき、関節を狙ったのはそれ以外では刀が持たないからだろう。
ルーがアシュレイを抱いて背後に跳ぶ。こちらを見たテスに、ランタンは狩猟刀を投げ渡した。
膝を抜き、崩れ落ちるようにして身体を沈める。ランタンの頭上を腕が通り過ぎていった。それらはブリューズの背から生えている。無数の腕がブリューズの背を突き破って生まれる。
「があっ!」
「兄上っ、あなたが正しいことだけをしてきたわけではないことを私は知っているっ! だがそれは必要なことだった。他に手段はなく、あなたは疑いようのない王の器だった! それがどうして!」
アシュレイの五指が空を引っ掻いた。もともと優れた魔道使いだ。身の内に充ち満ちる魔精が呼応する。
指先が描いた弧が、白々とした細い光の線になって空間を奔った。アシュレイを追い縋る無数の腕が、その光に触れるとばらばらに切断される。
「このようなことになるなんて!」
「ひつようなのだっ! みちびくためにはちからがっ!」
「だとしても、これは本当にあなたの望んだやり方か!」
這うようにして避けていたが、一つの手がランタンの首に触れた。冷たい。死体の手だ。
物凄い力で締めてくるが、やり方は力任せだった。頸動脈を外れている。呼吸はできないが、血流の遮断に比べれば意識を失うまでに余裕はある。
超人的な力はない。ランタンの力は、まさに子供のそれだ。だが指の外し方は心得ていた。魔精を失っても経験は失われない。小さな関節は、やろうと思えば赤ん坊だって破壊できる。ランタンはブリューズの指の二本を一掴みにして、横倒しにするように折った。
そして手首に戦鎚を絡め、前腕を圧し折る。腕はまさに手折られた草花のように萎れた。
首に指の跡が青く浮かぶ。息を大きく吸う。ランタンは戦鎚を蹴り上げて肩に担いだ。一歩一歩を大きく、戦鎚の重さを前進するための力に利用し、身体を揺らして大回りに走った。
死者の手から絶望が伝わってきた。
人への絶望。
わからないではない。自分の思い通りにならないものほど、邪魔くさいものはない。
もう息が上がる。噛み付かれた胸の傷からの出血は一向に治まらない。流れ落ちる血が蔦草のように太股に絡みつき、転びそうになる。この鈍くさい、思い通りにならない肉体に絶望し、超人的な肉体がほしくなる。
だが今のこの身を捨てるのはもったいない。あの子が好きだと言ってくれたから。
「起きろっ! 戦えっ!」
ランタンはギデオンを踏み付け、その背を駆け抜ける。ぐえ、とギデオンが呻く。テスにズタボロにされたのか、それとも共闘したのかは知らないが、ギデオンは襤褸雑巾のようになっている。
蜘蛛の群のようにギデオンの身体を手が這った。
「なんだっ――!?」
しかし目覚めてしまえば反応は早い。四肢を使って獣のように身を起こし、自らの毛が毟られるのも厭わず身体に纏わり付く手を剥がす。
「――っ、ブリューズっ! これは本物かっ!」
襲いかかってくる腕をはたき落とし、へし折り、噛み付く。狼の顎門が骨を砕いた。
「なぜ、きさまはっ」
ブリューズの赤い瞳がアシュレイからランタンへと移動する。
幾つもの腕が伸びる。青白い死者の腕が、ランタンに近付くにつれて赤味を帯びる。不意に指を合わせた。祈るように指が組まれ、ランタンを殴りつける。
ランタンは担いだ戦鎚を眼前にかざして一撃を受ける。腕と言うよりも、背骨でそれを支えた。
炎が膨れあがった。ランタンの前髪が少し焼ける。頬の辺りがぴりぴりと痒い。ランタンは光を見つめた。人差し指と親指の間が絹のように裂ける。
ブリューズのその腕は、確かに導くための手だったのかもしれない。
「兄上っ、あなたは自らの至らなさを恥じていたはずだ! だからこそ、自らが神になることを望んだのではないかっ!」
腕を押し返すことはできない。ランタンは前に転がるように拮抗を抜け出す。
ブリューズが何かを吼えた。妹に応答したのだが、肯定とも否定ともつかない。その両方が複雑に入り交じっている。恥じ入る自分を否定し、しかし神へ変態を肯定する。
ブリューズは人に失望し、絶望し、けれどもそれを諦めきれなかった。
命令通りに動く機械仕掛けの神兵と自立する探索者の魂。
人は愚かである。正しい方向へ導こうとしても、すぐに寄り道をしたり、立ち止まったり、後ろに進んだり、迷ったりする。
栄光と挫折。戦いと疲労。信頼と裏切り。
人間の裏表。
上手く人を導けないのは、自分の能力が足らない所為なのではないだろうか。あるいはもっと別の欠落か。
生来、彼の持つ傲慢さは、その能力の高さゆえに年を重ねるごとに成長していった。肥え太ったのか、それとも逞しく育ったのか。
誰もが認める、わかりやすい道標になることをブリューズは望んだ。
たった一人、誰も寄せ付けず、誰もが見上げ、愚かであろうとも理解することができる強大な存在に。
なれば人は正しく、さらなる発展へと付き従うと。
自分が変わることを、それだけをブリューズは望んだ。
「ふあっ!」
ランタンは身を起こし、再び肩に担いだ戦鎚を重たげに振り下ろした。自分の力はむしろ邪魔だ。ただ掴んでいるだけでいい。あとはこの重さが迫ってくる腕を叩き落としてくれる。
「なぜあのようにおぞましいものに手を出したのですか! あれは、本当にあなたの意志か!」
掌から五指が外れる。それは何かの幼虫のように見える。骨髄の内を喰らうような。
あれは物理的に人間の精神を変質させる。
それはしばらく蠢いたかと思うと、繭を解くように消失した。撒き散らした青い血が地面に染みこむようになくなった。
魔精に還ったのだと、ランタンは感覚的に理解する。迷宮で目を離したものが、人知れず掻き消えるように。
立ち止まってそれを見下ろした。肩で息をする。
「何をしているっ!」
襲いかかる無数の腕をギデオンが蹴散らした。ランタンはそれを知っていたみたいに、そしてそれが当然のことのように無防備だった。
ちらりと視線を動かす。喋るのも億劫なほど疲れている。頬を掻くと、火膨れを起こした皮膚が剥がれる。
「考えてる。あれをどうするか」
あのテスでさえ、怒濤と押し寄せる腕の波にブリューズに近づけないでいた。ルーはアシュレイのお守りに手一杯で、アシュレイは涙を流す代わりにその指先から魔道を放ち続けている。
ブリューズの姿は、どこか大樹のようだ。
水銀の翼の代わりにブリューズの背を埋め尽くさんばかりに生える腕は、重なり合って太い幹のように見える。ランタンたちに伸びる飛びだした腕の数々は天を覆わんばかりに旺盛する枝のようだった。
「身体の具合は?」
「見た目ほどではない。ここは、なんだ――」
ギデオンは言葉を迷った。息を吸う。肉を食らうように飲み込む。
「――それほど悪い地獄じゃない」
口の端から血が垂れる。腕を噛み千切ったせいだ。吐息に混じる生臭い獣臭がランタンの鼻腔をくすぐる。硬い獣毛、爪は金属的に鋭い。指が長く、手の甲に骨が浮くが掌そのものはぶ厚い。
「革命戦士か」
ギデオンが苦く口の端を歪ませる。
「……復讐さえもどこにあるのか、今はただ戦いが目の前に」
近衛に送り込んだトライフェイスの探索者たちの行方をランタンは知らない。この場に落ちてこなかったということは、つまりそう言うことなのだろう。
「僕に構わなくていい。自分のことは自分でする。男だから」
「男――?」
「スカート似合ってないだろ」
ランタンは裾を揺らし、髪を耳に掛けた。
反応が遅い。ならば一手、早く。徒手格闘。人体の突起は涎が垂れるほどの狙い目だ。死者の指が耳に触れる。ランタンは蓋をするようにその指を押さえる。同時に身体ごと頭部を回した。
ランタンが腕をへし折るのを見届け、ギデオンは戦いの中に戻っていく。
ぞわっと肌が粟立つ。強大な力のうねりを感じた。それはアシュレイのものだ。
大きな光が、ランタンの視界を一瞬奪った。魔弾と呼ぶにはあまりのも巨大な、光線と呼ぶにはあまりにも太い光がブリューズを直撃した、
ブリューズまでの道のりに溢れていた腕が一掃された。光が消えるよりも早く、黒い影がその空間を駆け抜ける。
テスだ。
刀が顎下に潜り込む。テスは躊躇なくそれを振り抜いた。細く高い金属音。鋸のように刃毀れした刀身が喉笛を切断しきれずに破断した音だった。テスは即座に狩猟刀で追撃を入れようとする。だがそれよりも早く、腕がブリューズを守った。
テスが突き飛ばされ、押し返される。
「―――肉を斬った感触じゃない。ぶよぶよ、ぐずぐずしたなにかだ」
喉の切断面に闇が覗いている。もう血は流れない。あれほど赤く血走っていた瞳が白濁していた。
「あれはもう人ではないな。アシュレイ、もう言葉は届くまいよ」
テスは舌打ちを一つ、押し返され様に食い破った肉を吐き出す。
愛刀を放り捨て、狩猟刀を利き手に持ち替える。
アシュレイの声は枯れていた。途切れ途切れに感じるランタンよりもはっきりと、アシュレイはブリューズと繋がってしまったのだろう。声を嗄らして語りかけた言葉は、しかしブリューズに届いているだろうか。
「わかっている。もとよりそのつもりだったんだ」
しかし殺そうと思ったから、殺せる相手でもない。
ランタンとやり合っていた時よりも、ブリューズは面倒な相手になっていた。それは自然現象のような、ある種、まさしく神を感じさせるものかものようだった。
「ルー、ランタンの下へ行きなさい」
「しかし」
「これのお守りは私がする。もう、よちよち歩きではないしな」
ランタンは少し虚を突かれた。少し離れたところで一人、どのようにしようか考えながら盗み聞きをしていたからだ。
どうしてルーを自分の所に寄越したのだろう。
「僕は一人で平気だよ」
「そのようなことをおっしゃらずに。ランタンさまを失うわけには参りません」
ルーが言うが早いかランタンを抱え、幾つも重なり太い一つになった腕から身を躱す。
ずいぶんと身体が冷たい。ある一部の亜人族の種族的な特徴である低体温だが、それだけではなくひんやりとした。
女の身体からは魔精の匂いがする。
「ランタンさまは、いつでもあたたかくありますわね」
身体に回された腕が、ランタンの胸の傷に触れた。じくじくと染み出す出血を止めようとするようにルーは掌を押し当てる。
「……血が止まらない」
「普通だよ、それが」
ランタンを身の内に抱いて、ルーは天地の区別なく縦横無尽に駆ける。コップに注いだ液体みたいに、ランタンの身体の中身が揺れ動く。しかし気持ちの悪さはもうない。そういう感じはもう通り過ぎてしまっていた。
ただ妙に頭が冴えている。
「普通なものですか。普通ならば泣き言を言って、縋り付くべきです」
「王子さまの上に落っことしてくれればいいよ」
「ランタンさま」
批難めいた口調で名前を呼ばれた。
「なげやりになっているわけじゃないよ。あれはもう空っぽだ」
大樹のごときと形容したブリューズの姿であるが、むしろブリューズそのものは大樹の苗床のようであった。巨大に育ったその大樹の重みに、ブリューズはその場から動けなくなっている。
腕の大樹は、ブリューズを養分としてずいぶんと育った。
「しかしランタンさまは」
「弱くたってやるんだよ。一発食らわせたけど、まだ足りない」
ぎゅうと抱きしめられる。なんとなくリリオンに抱きしめられる時を思い出した。不器用な抱擁だった。
「あなたは太陽のように光り輝き、温かく、その身に触れるのが少し畏ろしく、けれどどうしても手を伸ばさずにはいられない」
ルーの冷えた身体がぽっと温かくなる。そしてその熱がランタンを温めた。
「わたくしはあなたにならば灼かれてもいい」
「――ルー!」
ルーの身体が濡れた。発熱した女の全身を冷や汗が覆った。だがそれはすぐに体温と同じ熱を得る。ぺたぺたとした独特の肌触りが、まるで裸で抱き合っているみたいに感じられる。
ルーの身体と溶けて混ざるみたいに。
ルーの背中から血が吹き出た。避けることはできただろう。だがそれをせずルーは爪の一撃を背中に受けた。
彼女の身体に書き込まれた精緻な魔道式が、五爪に掻き毟られる。書物を破り捨てるみたいに。
その魔道式の意味は。
ルーの身体に溜め込まれた魔精が溢れた。そして一つ残らず、ランタンに与えられる。それは有無を言わせるものではなかった。
祭壇で自らの首を切り落とすように、赤子の口に胸の先を含ませるように。
問答無用に捧げられる魔精がランタンを満たした。
ランタンはルーの背に手を回した。べったりとした血で濡れている。抱かれる姿から抱きしめるように体勢を変え、宙を駆けるように身を翻す。
「お離しになって」
痛みに呻く声に混じるその願いを、ランタンは無視した。
傷口に触れる掌に、ルーの心臓が感じられた。どくんどくんと血が流れる。
小さな身体に、巨大な星のような引力がある。その身に、その光に触れたものは、もう離れがたく引き寄せられてしまう。ルーは言葉ではそう言っても、ランタンから身を離そうとはしなかった。
「足らないな」
ランタンは素っ気ない口調でそう呟く。ちらと唇を舐め、青白い顔のルーを見つめた。冴えた焦茶色の瞳に生意気な光が宿ると、ルーは束の間、痛みを忘れたようだった。
四方八方から蛇の群のように腕が群がってきた。ランタンの赤い瞳は、生命の色だったが、血の色ではなかった。それは千変万化し絶えず表情を変える炎の色だ。
襲いかかるように、縋り付くように、掴みかかるように、祈るように殺到する指先がランタンに触れることなく燃え上がった。
冗談めかして言ったが、ある種の本心でもあった。一度失ったことで、自分がずいぶんと大食らいだったことを自覚する。口いっぱいに食べ物を頬張るリリオンのことを呆れたり、感心したりしたものだが、自分もなかなかどうして意地汚い。
ランタンは意識を失ったルーをテスの下に運んだ。ギデオンもそこにいた。
アシュレイはほとんど砲台のようであり、テスとギデオンはその砲台を守る盾のようだった。
「ランタン」
「もう一発殴ってくる。死体を殴るような真似になるけど」
「そうか、もう、やはり兄上は」
掠れた声は、喉を嗄らしただけではなく、絶え間なく魔道による攻撃を続けている影響もあるだろう。向こうは無尽蔵と言うべき魔精を支配している。あの大樹は切り落とされた枝をまた自ら取り込み、たった一人で循環しているのかもしれなかった。
持久戦はどうしても不利だ。
孤独な大樹、それを支えるもの。
「探索者ギルドに身を寄せたのは、探索者たちが興味深かったからでもあるが、私が知るものとはまったく違う経営思想に興味があったからだ」
「別れを告げる時間ぐらいはまだあるかもしれない」
銀の光が、迫り来る腕を焼き払う。アシュレイは唇を結ぶ。
撃ち漏らしをテスとギデオンが迎撃した。
「――鉄砲の使い方、それであってる?」
ランタンはギデオンに視線を向ける。ギデオンは一緒に落ちてきていた銃を見つけたようで、それを棍棒のように使っている。
「虎の子はあと一つだ」
「ちょうだい」
ランタンは飴をねだるように子供のように言った。
「テス、五秒だ」
ギデオンは言い、すでに込められている弾薬を取り出してランタンに渡した。弾を込めたまま殴っていたのか。暴発したらどうするんだ、と思わなくはない。やはりこの男に銃は似合わない。
「どうする気だ」
「おい、もう六秒だぞ!」
「銃の威力は弾の重さと速度で決まる。あと硬さ。でもそれはどうしようもない」
さすがにアシュレイの身体を裂いて更なる魔精を得ようとは思わなかった。それではブリューズと同じになってしまう。
満腹までには足らないが、それでも充分だ。
ランタンは弾丸の先を噛んで、ぐりと螺旋模様を入れた。おまじないでしかない。
ランタンは親人中の三指に弾丸を摘まんだ。腕を真っ直ぐ伸ばし、戦鎚を杖のように身体を支える。
ルーの魔精だ。特異な重力を操る魔道の源。ランタンの戦鎚に刻まれた重力の魔道式は、ルーのそれを解析して刻まれたものだった。
親指ほどもない弾丸の重量が、真っ直ぐ水平に伸ばした腕を下ろしかねない重さになる。
両目で照準を合わせ、息を止め、身体の震えをなくす。
指先から火が噴き、弾丸は指から離れたその瞬間から重力魔道の影響を脱する。だが小さな弾丸に込められた大質量が失われるよりも遥かに素早く、ブリューズの額に直撃した。
顎が跳ね上がる。絶え間なく動き続けていた腕が一瞬、動きを止める。白濁した瞳が細められ見上げたものはランタンだった。
拳を固める。手の中に戦鎚を握り込む。
背後から呼びかけられる。
「……――ランタン」
アシュレイだった。
ランタンは拳を緩めた。ブリューズがやったことは許せないが、これを殴ってももう意味がないと思った。自分でも言った通り、彼はもう空っぽだった。魔精が意思の溶媒であるのならば、魔精を吸い尽くされた彼にもう意思はないのかもしれなかった。
「兄上、あなたの背中を見て、その先に広がるこの街を見て、私は自分の国がほしいと思った」
希望。身体の弱い少女が胸の内に抱いた。
狩猟刀がテスの手から、アシュレイの手に渡っている。ランタンはその刃に触れて、こびり付いた血脂を灼き拭った。
「行ったことの報いは受けなければならない。誰であろうとも、かならず」
ブリューズの顎が力無く落ちる。差し出すように項垂れた項に、アシュレイは刃を入れる。狩猟刀の切れ味に因らず、それはまったく抵抗無く肉を貫いた。ほんの少しの切れ目。それだけで頭部の重みに耐えかねるように、首が落ちた。
ひどく軽い音がした。
血も流れず、闇を湛える断面に白々とした骨が見える。
そこから肥太った虫が一匹。
アシュレイはそれを踏み潰した。
「報いは、かならず」
大樹は倒れ、部屋を覆う暗雲はまだそこにあり、ランタンは二騎士の死体がどこにもないことにいち早く気が付く。




