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堰を切ったように魔精が室内に流れ込んできた。
どんどんと魔精が濃さを増していくのをランタンは肌で感じる。
ブリューズ曰く、ランタンはまだ臍の緒が繋がったままらしい。
自分がどのように生まれたのかランタンは知らないが、自分を取り上げ、臍の尾を切ってくれる産婆などいようはずもないことは確かだった。
母体たる迷宮はきっともう崩壊しているのだろう。そもそも自分が本当に迷宮から生まれたと、その可能性は考慮しても、ランタンはまだ信じていなかった。
しかし自分が他者よりも魔精と親和性が高く、またこの場に魔精が集まってくる一つの要因であることは肌身で理解していた。
しかし集まった魔精はいくらかランタンに吸収されていたが、場の濃度からするとそれはないに等しい程度であった。
すでに自分の容量がいっぱいになっているのか、それとも場になにかしらの仕掛けがあるのか。
おそらく後者だろう。
ブリューズはこの場にランタンを誘い込んだ。無策なはずがない。
魔精の濃さはこの場を人工迷宮と称するよりも、ツァイリンガー仮説で語られた魔精が迷宮になるより以前の、魔精溜まりと称する状態であるように思えた。
未だ何色にも染まらぬ、可能性に満ちた場所。
ブリューズを変化させたのはこの場にある魔精だろうか。それとも以前から彼が貯え続けたものが、男を変質させたのだろうか。
室内にあってブリューズは気候を操った。
その力は高位の魔道使いに匹敵、いや、それを上回るだろう。
ランタンはブリューズが放った雷を研ぎ澄まされた反射神経と肉体によって避けた。
しかしそれでも薄い産毛が針のよう逆立ち、黒髪が鷲掴みにされたかのように引っ張られる。
レティシアのそれよりも強力だ。しかもそれを間を置かず連発してくる。
空気が焦げる独特の臭気。沸騰し、膨らんだ大気がランタンの身体を揺さぶる。命中しなかった雷が、遥か後方に着弾し轟音を奏でる。
室内であるが、辺りに立ちこめる暗雲のせいで、どれほどの広さがあるのかは不明だった。果てまで広がっているようにも思えるし、振り返ればそこがどん詰まりのような気もする。
ランタンは熱された大気の膜を突き抜け、神兵が振り下ろした大斧をかいくぐり、ブリューズに肉薄する。
氷と炎が乱舞した。
ランタンが紅炎を纏う。
雹と呼ぶには大きすぎる槍のような氷塊が紅炎に炙られ昇華される。炎はより強力な紅炎に飲み込まれる。
爪先が触れる距離まで踏み込む。ブリューズの周辺環境はランタンに恐るべき牙を剥いたが、ブリューズそれ自体はランタンにとって案山子も同然だった。
ブリューズの姿は魔精によって刻一刻と変化している。それは魔眼に睨まれて、じわりじわりと石化していくのに似ていた。
背から生えた白翼は次第に銀の光沢を帯び、アシュレイと血のつながりを感じさせる金の髪はそれ自体が発光しているように輝いている。探索者顔負けに膨れあがった肉体は、彫像のような硬質さを増しつつあった。
どこか機械のような。
神さまってこんな姿だったっけ。
ランタンは男の姿に、場違いにもそう思ってしまった。
しかし玉座に座って似合わないこともないだろう。
男が身に纏う神聖さは、魔精が変質した結果であるが、しかし偽物ではない。
最終目標級の魔物だけが持つ強烈な威圧感や圧迫感に加えて、それに手を掛けることへの罪悪感や忌避感をランタンは憶えた。
しかしランタンはブリューズの爪先を踏み付け、神気の内に土足で踏み込む。
思ったよりも小さいな。
どの身体でそんなことを思うか、ランタンは上目にブリューズを睨み付ける。神聖さによって一回りも二回りの巨大に錯覚していたが、実際はリリオンよりも小さいぐらいだろう。
神さまだろうが知ったことか。
「ふっ――!」
頬を膨らませ、鋭く息を吐く。
ランタンは大げさに戦鎚を振りかぶった。ブリューズの視線がそちらに引き寄せられる。
突如、ランタンの身体が破裂した。そう錯覚するほどの光と衝撃が吹き荒れた。
ブリューズの懐で巻き起こった爆発は、相手がただの人間であったならば肉体を百に引き千切って足らない暴力的な威力だった。
大気の急激な膨脹は雷の比ではない。
あたりにあった雷も氷も炎も、すべてを打ち消して、ランタンの足元では地面が陥没しひび割れ、そして捲れ上がって吹き飛んでいく。背後から迫った神兵もその余波だけで近付くことができない。
だと言うのに踏み付けた爪先の感触が確かなままだった。
光、炎、衝撃。あらゆる暴力がブリューズに襲いかかった。だがそれらはブリューズの身体に触れることがなかった。
見えない鎧を纏っているように、すべてが打ち消された。
魔道的な障壁、ランタンの知るどれよりも強力なものがブリューズを守っている。神気のなせる技か。
いや、上書きされた。あたりにある魔精が、力の顕現を押し潰した。
「不敬なり」
轟音がまだ消えぬのに、それはランタンの耳にはっきりと聞こえた。見えない手に頭を掴まれ、地面に押しつけられる感覚がある。
身体の自由が。
ランタンは内頬を噛んだ。ぞりと歯が肉を削る。痛みと鉄の味が、自分の役割を思い出させる。
気を抜くと、神気に当てられ精神を冒される。
振りかぶった戦鎚がまだ残っている。それは爆発を当てるためだけの、見せかけではない。
ランタンはすでにそれを振り下ろしていた。肩を大きく回し、背から飛び出るみたいに振り回された戦鎚は半円を描き、突如急激に角度を変える。
遠心力に引っ張られる肘を引き戻し、手首を走らせた。
戦鎚は頭蓋を砕く角度でブリューズに迫る。
白金の額。年相応に皺もあった男の額は、今や仮面を嵌めたようだった。
だが戦鎚が迫ると、仮面に罅が入るように眉間に皺が寄った。それだけでずいぶんと人間臭く思える。
しかしその表情も、髪一重で滑り込んできた翼によって隠された。
戦鎚は水面を打ったような硬い手応えを掌に伝え、頭蓋を砕くはずの衝撃は広がる波紋となって霧散した。
翼はブリューズの意思とは別に動いている。翼は戦いの素人であるブリューズを守る産衣である。
額との間に滑り込んだ翼は見る間に厚さを増し、羽ばたくようにしてランタンを押し返す。
ランタンは唇を尖らせ、唾液で伸ばした血を吐き出した。まるで墨を吐いたようだった。
水銀の翼にそれは飲み込まれる。黒い血が銀に溶けて、混ざり合う。
「こう、か」
無感情ではないが、冷たく硬質な声が翼の向こうから聞こえた。背筋がぞわっとする。猛烈によくない気配がした。
ランタンは羽ばたきに抗うのをやめ、むしろその力を利用して大きく後ろに跳んだ。身体を捻り、背を向ける。
神兵が待ち構えているが、知ったことではない。
閃光がランタンを追い抜き、熱と衝撃が背中に追いついた。
それはランタンのそれに似た爆発だった。
耳鳴りによって聴力は失われ、掻き混ぜられた内臓と脳が吐き気をもたらす。剥き出しの肌が焼けてじんじんと痺れた。
ランタンは地面に投げ出され、ぐるんと横転し、猫のように跳び上がった。爆風で乱れたスカートを直す間もなく神兵の攻撃が降ってくる。
ブリューズからの追撃はなかった。
疑問が浮かぶ。しかし攻めてこないのなら、多く意識を割く必要はない。ランタンは最低限だけの警戒をブリューズに残して、迫り来る神兵への脅威へと対応する。
雷によって数を減らしたのだろうか。
それらはちょうど十体だった。瘴気のように暗雲を身に纏っている。弓、剣、斧、槍、棍がそれぞれ二体。一斉に振り下ろされる剣斧槍棍をランタンは神兵の股をくぐって避ける。
弓兵は互いに対角線上に位置を取り、ランタンを常に挟んでいる。
神兵たちの巨体は三メートルを超えている。その巨体は天を突くような巨人よりもよほど現実味がある大きさだった。
身体は石造り。だが関節部分や、動作そのものに物質系魔物らしい不思議な柔軟性はない。鎧のように関節部分が干渉し合わないように造られている。
くぐり抜け様に足首に触れる。石の感触。体温はないが不思議な振動がある。
それは爆発によって簡単に砕けた。内部には複雑な機構が納められていた。
機械だ。
片脚を失った神兵が体勢を崩しながら振り返る。手に持った棍の重さを利用して身体を回す。ランタンに影が差した。頭上の棍に一瞬気を取られる。
本命は。
棍の神兵の肩が爆ぜた。仲間の身体を目隠しにして、槍が打ち込まれる。鯨をも一突きにしそうなそれをランタンは辛うじて戦鎚で弾いた。全身に痺れが走った。重く鋭く、そして的確だ。
視力ではないものでランタンを認識している。
踏ん張った瞬間を狙って、地を薙ぐように斧が続く。
爆発で身体を浮かした。
ランタンはそれに飛び乗る。斧に乗ったランタンはそのまま棍の神兵に叩き付けられそうになる。
斧の腹を蹴る。斧は棍の神兵に直撃した。
骨材や歯車、真っ黒な機械油が辺りに散らばり、きらきらとしたガスが噴き出した。
人を模した機械。
それはブリューズの潜在意識の一部だろうか。
ランタンは斧の神兵の手首を砕き、肩に飛び乗った。眼球がぎょろりと動いた。
睫毛どころか虹彩まで精緻に削り出されている。それでランタンの位置を把握しているわけではないのにもかかわらず目があった。
「吹っ飛べ」
掌を額に押し当てて、ランタンは頭部を破壊する。
もちろん脳はなくやはり部品と機械油を撒き散らしただけだった。だがまだ動いた。首から上を失って、右の手首を斧ごと落っことしてなお、残った左の手がランタンを鷲掴みにした。
「ぐっ」
機械油の流出を防ごうとするように、自らの首を締めるようにランタンを押さえつける。
吼えた。頭部を失ったくせに神兵が咆哮する。言葉ではなかったが、もろとも殺れ、とそう言っているのがわかる。
こいつ。
ランタンはぎょとする。
剣の神兵が左右から躍りかかってきていた。おおお、とこちらも吼えている。機械の唸りだが、人の感情を感じさせる。
覚悟、哀しみ、喜び。
ランタンは自分をつかまえる親指と人差し指をねじ切って、身体を抜いた。斧の神兵の背中に回り込む。一つの剣が腰を断って、もう一つが背骨を割った。割れた背骨の隙間を縫って矢が飛び込んでくる。
噴き出したガスが矢羽根によって三筋の線を描く。
身体を捻って辛うじて躱す。矢羽根が肌を裂く。眼前まで迫る棍に手を添え、破壊と同時にその場から脱する。
着地したところに矢が撃ち込まれた。
「――は」
危うく女になるところだった。縫い止められたスカートの裾を引き千切り、ランタンは這うようにして体勢を立て直す。
こいつ、いや、こいつらは探索者だ。
姿形は厳めしい神像だが、戦い方でわかる。
同士討ちをしたのは仲間意識が希薄だからではなく、あるいは機械であるからでもなく、目的のために命を使うことが当然であるからだった。
「この世のあらゆるものは、神によって作り出された。自然も、生命も。それらは精緻に造られた機械に過ぎない」
「いい歳してお人形遊びが趣味か?」
黒い卵の研究によってどれほどの生命が刻まれただろうか。
心臓はポンプに過ぎず、血液は機械油に過ぎず、血管はホースであり、筋肉や腱はバネであり、脂肪は緩衝剤でしかななく、魂とは封入されたガスでしかない。
機械であるのなら、一定の規則に基づいてそれらは作動している。ゆえにすべては予測可能であり、その規則を少し変えることによって望んだ未来をもたらすことができる。
「迷宮を通して何を見た。ままごとか、それとも機械論哲学でもかじったか」
亡霊ですらない。あのきらきらのガスこそが探索者の魂だ。
しかしきらきらのガスになっても、魂であることは失われなかった、
「それを潰せ」
多少哀れとも思えど、囚われた魂を解放してやるなどと崇高な考えはない。
ランタンは破壊した棍の破片を手に取ると同時に弓兵へと投げ付ける。牽制にしかならない。神兵はランタンに殺到して、小さな身体を踏み潰そうとする。身体が大きいのでひどく窮屈そうだ。
こいつらが探索者ならば、指揮者がいるかとランタンは考えた。
だがブリューズの命令にすぐその考えを捨てる。
「指揮者失格、零点」
魔道は、未だに安定しない。
威力は大きいが、同時に自分への負担も大きい。だがこの好機を逃す手はない。
ランタンを中心に火球が膨らんだ。その火球の中に突っ込まれた足が、一瞬で形を失う。溶融し。石の皮膚も、鋼の骨も、歯車も、バネも一緒くたになってどろどろに混じり合う。
足を失ったことで、潰すという命令も同時に失ったのか。
各々手に持った武器を即座に逆手に持ち替える。体格差の所為もあるだろう、倒れる敵に止めを刺すようにランタンにそれらを突き込んでくる。
嘆き。
ああ、くそ。
そんな悪態が聞こえるようだった。
この探索者たちの元の肉体はもう滅んだのだろう。もしかしたら肉体など元もとなく、探索者の行動原理を参考に魂だけで造られたものかもしれない。
だがガス状物質になっても、探索者が探索者であることをやめるのはできないのだろう。
力は、自分の自由になるから楽しい。
命令に従うにしても、自分が納得しなければ従わない。
なんという我の強さか。
ブリューズは決してこの探索者たちに認められたわけではないのだ。
心臓の音が早い。血液が沸騰したように熱く、爆発の反動で全身から汗が噴き出し、指先が痙攣する。武器はどれもランタンにあたらなかった。だがそれは檻のようにランタンを取り囲んでいる。
連続して矢が撃ち込まれる。躱しようのない必中必殺の矢だ。七回は死ねる。
邪魔がなければ。
矢を邪魔したのはブリューズの雷だった。ランタンは再び放とうとしていた爆発を引っ込めて、檻の中から抜け出す。この時ばかりは小さな身体が役に立つ。お腹を精一杯へこませて隙間を抜けた。
「ははっ」
ランタンは思わず笑ってしまう。途端に雷火が雨あられと降り注ぐ。
「地獄耳め。いいこと教えてやる。命令したんなら最後まで任せるべきだったな」
ランタンを打ち据えることができない雷が、足と武器を失った神兵たちを容赦なく打ち据えて破壊した。
残された二体の弓兵は一瞬だけ顔をブリューズに向けた。表情に変化はないが、不満が伝わってくる。
もし迷宮だったら、背中から撃たれているだろう。仲間殺しはご法度だが、使えない指揮者を迷宮に葬るという話は聞かないわけではない。
苛立ち。
それはブリューズのものか、弓兵のものか。まるで自分の感情のように、思念が漏れ伝わってくる。
しかし弓兵はすぐさまランタンに向き直った。暗雲の中から矢を引き出し、一瞬でつがえて放ってくる。
しかし接近を妨害する前衛職がいなくなった今、弓兵などたいした脅威ではない。
背後を取り続けるもう一体に一応の注意を向けるが、ブリューズが闇雲に放つ雷火によって射撃は邪魔をされている。
接近すると弓兵は弓そのものでランタンを殴打しようとするが、ランタンはそれをあっさりと躱して身体を吹き飛ばした。
零れ落ちた歯車を手に取り、手裏剣のようにしてブリューズに放る。翼がブリューズを覆い隠した。雷火が途切れる。
そしてその隙に、もう一体の弓兵も同じように破壊した。
掌に熱。爆発の威力が、いつもと同じぐらいになっている。だが消耗がひどく激しい。
きらきらのガスが、暗雲の中で銀を撒いたように漂っている。
それらは一所に集まり、色を濃くする。
魂は神像に囚われているのではなく、この場に囚われている。
「追加でも来るのか?」
ランタンは軽く言いながら呼吸を整える。熱によって割れた唇を赤い舌で湿らせて、風邪を引いたみたいに重い身体にうんざりする。
ここはこんなにも魔精が濃いのに。
爆発によって消費されたそれが補充されない。爆発の威力はまだ実用に耐えるが、消費量に比べれば釣り合わない。そして消費を抑えようにも制御は利かない。
肉体の重さ。
もしかして自分は本当にただの人に成りつつあるからだろうか。
ランタンは唾を吐く。色は紫。それを横目に、暗雲の中の銀の塊に意識を向ける。
それは機械の身体を持っていなかった。
よく引き締まった肉の身体は全裸であったが雌雄はない。一筋の毛もなく、しかし身体中に目や鼻や口があった。手に剣を持っている。足運びは淀みない。
恐ろしい姿だが、恐ろしくなかった。
探索者だ。
魔精によって受肉したのだろう。
一人一人の意識では成しえなかったものが、十集まって叶ったのか。
動揺は自分のものではない。
それはブリューズの思念だ。ブリューズはそれに機械の身体を用意していたのかもしれない。しかし探索者の魂はそれを好まなかった。
「ら、んた、ん」
幾つもの口が一斉に囁いた。
「僕じゃなくてあいつにいけよ」
ランタンはブリューズを指差したが、探索者はすべての目や口で笑っただけだった。
探索者はブリューズの支配下から逃れている。だと言うのにランタンと戦いたがった。こいつだけではない。ティルナバン郊外の闘技場、ランタンと戦いたがる者はいくらでもいた。
それはいったい何故だろうか。
ランタンは探索者から一瞬だけ視線を切って、ブリューズを見た。翼が男の姿を包んでいる。卵のように覆い隠していた。
「――っ!」
その一瞬の内に探索者は距離を詰めていた。
鋭い斬りを仰け反って躱し、反発するように跳ね上がった剣先が股関節を狙う。ランタンは戦鎚を差し込む。火花が散った。
半身になり、手首を返して剣を巻き上げる。そのまま喉へ戦鎚を突き込む。探索者は躱し、膝がランタンの水月へ跳ね上がる。ランタンはそれを肘で受け、戦鎚の後端で鎖骨を狙う。探索者は強引に一歩前に出て、ランタンに体当たりをした。胸に開いた口が、ランタンに噛み付く。服の上から肉を食い破られた。鎖骨を砕き、互いに押し合って離れる。
楽しい。
探索者からそんな感情が伝わってくる。
「僕はぜんぜん楽しくない」
だが戦うランタンの姿は、どうしようもなく魅力的だった。そう宿命付けられているかのように。
胸の口が血を吸って赤く染まっている。赤い血だ。傷口がひどく痛む。服を一枚挟んでいるから、肉を持って行かれることはなかった。ランタンは掌で傷口を押さえつける。
「楽しんでるところ悪いが、終わりだ」
意識を集中する。胸元の口。血によって紅を塗ったように赤い唇。
探索者の胸が爆ぜた。さしたる威力ではない。だが左の肩を付け根から吹き飛ばす程度の威力は有している。肉の身体は柔らかい。
「あ、ああ」
名残惜しそうに探索者が呟く。魔精が渦巻く。欲望を叶える、色のない魔精が失われた肉を復元しようとする。もっと強く、もっと。左腕が二股に分かれ。
だがそれは成しえなかった。
――その肉の器が、そうさせるのか。
ブリューズの翼が蔓のように探索者を絡め取って呑み込んだ。探索者は暴れたが為す術なく取り込まれてしまう。
「人は、やはり間違いを犯す。人間だけが、どうしてか自由意思を有している」
翼の内から声が聞こえる。
ランタンはブリューズに接近した。足がずいぶんと遅いと思う。
「やはり導くものが必要なのだ」
「この後に及んでまだ言うか!」
爆発が、やはりブリューズに届かない。仮面の表情に笑みが浮かぶ。
「百戦錬磨のお前でさえも戦場で間違いを犯す。もう遅いぞ」
「――僕から、奪っているのか」
「あるべき場所に収まっているだけだ」
ランタンの肉体から知らず魔精が分離し、魔精はこの場にある魔精溜まりの一部に収まっている。爆発の使用にかかわらず、魔精が抜け出ていたのだ。神兵との戦いは、その時間稼ぎに過ぎなかったのかもしれない。
そしてこの場にある魔精をブリューズは支配している。
「言ったはずだ、神の座に座ると。さあ跪け。直々に腸を絞ってやる」
重力が増したように思える。ランタンは膝を突きそうになるのをどうにか堪える。戦鎚を杖のように使い、だが手がじりじりと滑った。
息苦しい。初めて迷宮に潜った時、初めて最終目標と相対した時を思い出す。
「一体どれほども魔精を無駄に消費したのだ。予定外の無駄な戦いであった。だがこれからはそのようなことはない。私によって生と死は完全に支配される。戦いを望むものには有意義な戦いを用意してやる。三本腕、それもまた進化の一つか」
「どこまでが、予定外だ。今、お前の」
舌が引き攣った。生意気な口を利くなと言うことなのだろう。
「その姿は予定通りか。違うだろう? ちょっと怒ったら、思わず変身しちゃったんじゃないか? その力、まったく、使いこなせてないだろう」
ブリューズが一歩前に出た。リリオンよりも大きくなっている。ランタンの頭を掴み、力任せに地面に押しつけた。
「ぐ――っ、……怒りっぽい神さまだな。人間みたいだ」
頬の肉が潰れ、頬骨が軋む。ランタンはそれでも言葉を重ねる。
「ははは、魔精を何だと思っている」
地面に顔を押しつけられて鼻血が出た。戦鎚を口に咥え、両の掌を地面に押し当てる。
「ふぐっ」
ランタンは腕に力を込めた。頭は押さえられたまま、しかしそれでも立ち上がった。
邪魔くさそうにブリューズの手を払いのける。涎塗れになった戦鎚を右手に握り、鼻血を左手で拭う。
小さな爆発が左手の血汚れを消し飛ばした。
まだいける。
「魔精は便利だが、お前が思っているほど万能じゃないし、素直でもない」
「なにを」
ブリューズは硬質な神の似姿を得たが、精神はまだ人のそれだ。
魔精は意思の溶媒であり、意思とはつまり精神であり、万能なる神は魔精など必要としない存在のことだった。
「お前はこれを支配しきれていない。この部屋には色んな意識が感じられる。上は、もう戦闘が終わったか?」
テスたちは、どうしているだろうか。彼女たちが本当に上にいるかをランタンは知らないが、ブリューズはまんまとそちらに視線を向けた。
やはり戦い方を知らない。殺せる時はさっさと殺せばいい。お喋りをしている暇なんてないのだから。
ランタンが生意気に笑う。
水銀の翼、それに取り込まれた血液。
魔精は遍在する。どこにでもある。自分の内にも、水銀の翼の中にも。魔精は意思の溶媒である。万能ではないが、便利なものだ。迷宮で慣れ親しんでいる。それはいつだって僕の味方だ。臍の緒も繋がっているし、僕は迷宮で生まれた。
魂を絞れ。
もうすでに啖呵は切っている。
僕は、やるといったら、やる。
ランタンの瞳が燃えた。
ブリューズの水銀の翼が、突如、内側から引き千切れるように爆ぜた。
爆音が幾つも重なって聞こえる。視界が狭まったが、ブリューズはぴかぴかしているので見失うことはない。ブリューズの背は高いが、この顔に届かなければ、もっと大きくなった時のリリオンの頭を撫でることができなくなる。
ランタンは力一杯に踏み切って、目一杯手を伸ばしブリューズの顔面に思いっきり一撃を食らわせた。
ブリューズの仮面のような表情に、正真正銘の罅が入る。
悲鳴は、しかしブリューズのものではない。上から聞こえてくる。
「きゃあああああああああ!」
「――おい、うるさいぞ」
「うっ、ふぅ、……お怪我はございませんか?」
降ってきたのはテスと、ルーに抱きかかえられたアシュレイだった。
ランタンはブリューズの存在を一時忘れ、思わず天井を見上げる。
穴が空いているわけではない。だが、また何か降ってきた、瓦礫やギデオンや、サラス伯爵の二騎士だ。それらはまともに落下する。ギデオンが微かに呻いた。二騎士はぴくりともしない。
「お久しぶりです」
「ランタン、なんだひどい有様じゃないか。どこに行ったのかと思ったら。しかし死んでなくてよかった。リリオンの下に返してやるといっても死体では格好がつかない」
「僕よりひどい有様のようですが。特にそっちの二人は」
「さっきまではそうでもなかったんだがな」
アシュレイとルーの服は、ランタンに負けず劣らずひどくぼろぼろだった。上でもかなりの激戦が繰り広げられていたのだろうか。
「何があったんですか?」
「よくわからん。二人が急に爆発したかと思ったら、ここに落ちてきた」
「……急に」
「ランタンのせいか?」
「いや、知らないです。なんで僕がお二人を爆破する必要があるんですか」
「それもそうだな」
ぼろぼろなのは主に背部だった。尻の辺りで巻き起こった爆発によって背を炙られるとあんな風になるかもしれない。
ランタンはそれを見て驚いた。
ルーの背に魔道式が刻まれていることはすでに知っている。だがそれに似たものが真っ白なアシュレイの背中にも刻まれていた。
縁にまだ赤味を帯びていることから、入れたばかりであることがわかる。
「ランタン、……あれは兄か?」
アシュレイは少し哀しそうな目をしている。ランタンは頷く。
「背中のそれは」
「役に立つかと思ってな。魔精を使ってどうこうしようと言うのはわかっていたから、半分ぐらいは横取りできるかと思ったが、どうにも胸焼けするな。しかし魔精というのは厄介なものだ。人の気持ちがわかりすぎるというのも、思いを巡らす余地がなくなって不便なものだ――、ああ、気持ち悪い」
「ここの魔精は、ある因子に引き寄せられるようだ」
アシュレイがふらつき、ルーがそれを支えた。
アシュレイは哀れむような視線をブリューズに向ける。
「王家の血。それがすべてではないでしょうに、兄上」
「だまれ」
ブリューズが血を吐くように呟き、ゆっくりと身体を起き上がらせる。




