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「ブリューズ王子はすでにお待ちである。アシュレイ姫もよろしいか」
ブリューズは今日、この時に四人が訪れることを予見していたようだった。
おそらくどのような理由で四人が訪れたかも承知しているのだろう。
そしてその上で、四人を館の内に招き入れようとしている。
一体、何を考えているのだろうか。
ずらりと兵士を並べて迎え撃つわけでもなく、ギデオン一人を案内役として寄越しただけである。館内に準備万端で待ち伏せをしているのだろうか。しかしそういった気配は微塵も感じられない。
人の気配は稀薄だった。ギデオンから戦いの匂いはするが、軍隊が勢揃いしているような人間と鉄の入り交じった獣臭は存在しなかった。
あるのは魔精の匂いだけだ。
予測はつかないが、もう退くことはできなかった。
探索者が恐るべき力を身の内に秘めるように、ブリューズもまた超常の力を身に付けているのかもしれなかった。
力を持ったからにはそれを使わずにはいられないのが人の性だ。ここで引き返せば碌なことにはならないだろう。だからこそアシュレイは決意をしたのだ。
ランタンはスカートの裾を蹴るようにして歩く。面倒臭くなってギデオンの誤解は解いていないが、ギデオンの意識はすでにランタンには向いていなかった。
狼人族の尻尾は、テスのものと違ってひどい癖毛で波打っている。ジャックのそれに似ているが、それよりも硬そうだった。尻尾が揺れないからこそ、そう思うのかもしれない。
足取りは力強く、肩はいかにも男らしく揺れているが、腰の位置が油断無く一定だった。
掴めないな、と思う。
ランタンに注意を払ってはいないが、ギデオンの周囲を取り囲むように剣気が漲っている。それに触れた瞬間に手首が落ちそうな気がした。
近衛兵としての自覚からの油断の無さだろうか。
背には似合わぬ長銃、腰に吊っている剣は飾りではない。鞘こそは美術品のようだったが、その内に秘められているのは殺しの道具だ。血の臭いがする。
過敏になっているな、とランタンは鼻を擦った。神経が研ぎ澄まされている。感覚の鋭敏化は、魔精による強化の一つだ。魔精酔いと紙一重の鋭敏化だった。
「由緒あるトライフェイスの副長が、まさか自ら首輪を繋がれに行くとはな。独立独歩こそがお題目だったんじゃなかったか」
「なんとでも言うがいい。時代は変わるものだ。それに団長の誘いを断ったお前に、トライフェイスの重みがわかるとは思えんな」
団長というのは現団長の貴族の三男坊のことではないだろう。前団長はいわゆる亜人族にとっての金看板のような男であったそうだ。
「私の主は私が決めるよ」
「たいそうな口を利く。それで選んだのが探索者ギルドだというのか?」
「くはは、さてどうかな。給金を得ている以上、雇い主であると言うことは確かだが。しかしその質問はそっくりそのまま返させてもらおうか。そこまで耄碌したわけでもあるまいに、なぜ王子だ?」
「なぜ、か。……やはりそこが要だからだろうな」
独り言のようにギデオンが呟く。
「だからこそ、貴様も来たのだろう」
「やはりわかった上で招いているのか。止めなくていいのか?」
「案内するように申しつけられている」
ぴりと首筋に剣気が触れた。手を伸ばせば尻尾に触れられる、すぐ後ろにいたはずのランタンが、気が付けば距離を空けていたから意識の範囲を広げたのだろう。
先頭を歩いていたギデオンにテスはいつの間にか肩を並べており、アシュレイと並んで二列目にいたランタンはルーと位置を交換して、一人で最後尾を歩いていた。
博物館を訪れた子供のようにきょろきょろとあたりを見回す。
館内に充ち満ちている濃密な魔精によって、空間は変質していた。もう驚くことはない。これぐらいのことは予想していた。
領主館内は迷宮化していたが、安定している。
天井が高い。外から見た館の屋根よりも、恐らく高いだろう。
今、思い出せば探索者ギルド内にもこの技術は使用されていたかもしれない。迷宮核の査定を行うあの奥まった部屋と、そこに至るまでの通路はここと雰囲気が似ている。だが規模は桁違いだ。
見上げるほど高い天井は染み一つなく真っ白な光で満たされている。白水晶の床から跳ね上がった靴音が反響してどこか鐘の音のようだ。
領主館は歴史ある建物で、戦も経験していたはずだ。だがそういった古さもなければ、こういった建物に付きものである敵の侵攻を阻むための複雑な回廊構造は失われて、堂々たる廊下が果てまで伸びているようだった。
左右の壁には巨人建築様式の円柱と神話の戦士のような厳めしい彫像が交互に並んでいる。
威厳と風格に満ちていた。なんだか自分がひどく矮小な存在であるように思えてくるほどだった。神聖さすら感じさせる。
魔精によって実現したのならば、これはブリューズの心象風景なのだろうか。
一本道は迷宮を思い出させる。これほど神聖な気配は満ちてはいなかったが、こういった雰囲気の迷宮を攻略したこともあった。それらは大抵、物質系か死霊系の魔物が出現した。
ランタンは歩みを緩めて、右手側に並ぶ戦士像の脛を叩いた。
戦士は沈黙している。
振り上げた石造りの剣を振り下ろすこともなければ、台座から足を引き剥がして動き出すこともない。染み出すように戦士の亡霊が姿を現すこともなければ、振り返った背後で自らの影か起立して首を絞めに来ることもなかった。
冷ややかな石の感触があるだけだ。硬化性不定型生物で造られたものでもなさそうだった。
手汗や脂を吸い取って、小さな手形の汚れが鱗模様の脛当てに浮かび上がっている。
ランタンは悪戯っ子よろしく、右手を伸ばしたまま小走りで前に追いついた。ずらりと並んだ戦士像をだらららとすれ違い様に撫でていく。
手はすっかり乾燥してしまって、水分や油分と交換するみたいに、白く汚れてしまった。
「……何をしてるんだ?」
そんなランタンの奇行に、アシュレイが振り向いて怪訝そうな顔をする。
「なんにもしてないですよ。歩いてるだけです」
ランタンは悪さを誤魔化す子供のように無垢な顔で首を横に振った。
アシュレイは納得いかぬというように不可解そうな顔をしたまま、再び前を向いた。ランタンは一歩大きく踏み出し、アシュレイの尻をぺんと叩いた。
「なぁっ!?」
「どうした?」
テスが足を止めて振り返る。アシュレイは口をぱくぱくさせてランタンとテスの顔に視線を往復させたかと思うと、大きく溜め息を吐き、咳払いをする。
「いや、なんでもない。気にしないでくれ」
テスは最後にランタンへ視線を寄越してから、ギデオンを促して再び歩き出した。
「おい、ランタン。いくら何でもおいたが過ぎるぞ」
アシュレイが前を向いたまま、背後のランタンに言った。
「緊張をほぐして上げようと思って。手と足が一緒に出てましたよ」
「む。しかし他にやりようがあるだろう」
「抱きしめて、よしよしってしてほしかったんですか?」
リリオンはいい子で留守番しているだろうか。
「いらん。まったく探索者というのは。肝が据わっているのは頼もしいが」
「緊張して得することはないし」
「これだから探索者は」
アシュレイは姫君らしからぬ荒い鼻息を漏らした。
「探索者だからというわけでもないですよ」
現にルーはかなり緊張している。
ランタンがちょっかいを掛けるみたいに背中を突いても無反応だ。
水中を歩くような、圧力すら感じさせる濃密な魔精にあてられているのだろう。ランタンは感覚の鋭敏化で済んでいるが、あるいはルーは魔精酔いを引き起こしているかもしれない。
「大丈夫ですか?」
「……――ええ、大丈夫です。ランタンさまは、感じておられますか?」
「魔精を?」
「そこに溶ける意思を」
「鼻につく独善的な感じなら」
「……アシュレイさま、探索者で一括りにされるのはやはり荷が勝ちますわ」
ランタンはついでにルーの尻も引っぱたいた。
二人の尻に細い指の形が白く浮かび上がる。
ランタンは指先を確認して、すっかり汚れが落ちてしまっていたので再び戦士像の脛を撫でたり叩いたりした。
館というよりも宮殿だな、と思う。
現れたのは巨大な扉だった。
これは境界だ。最下層へ至る白い霧を扉の形にしたものだと思う。
精緻な浮き彫りが刻まれている。
死生図だ。あらゆる生命の一生が彫刻の中で輪廻している。趣味がいいとは言いがたい。
再び汚れた白い指先を、ランタンはアシュレイのスカートで拭ったが、アシュレイは振り返りもしなかった。
音もなく、重さも感じさせず巨大な扉が内に開かれる。
風が吹いたように錯覚した。
絵に描いたような謁見の間が広がっている。
白々とした光に満ちた広間に、血を流したような赤い絨毯が敷かれている。その左右には近衛兵が並んでいる。白銀の鎧を身に纏っており、通路に並んでいる戦士像を彷彿とさせた。
彼らは物言わず微動だにしない。
絨毯が伸びる先は階段状に何段も高くなっており、一番上には玉座があった。玉座の左右には近衛兵ではない騎士が二人控えている。
重装の騎士であるガウルテリオと、四腕の騎士であるクァールだ。近衛兵との対比のせいか、二人の鎧姿はひどく禍々しいもののように目に映った。
そして玉座にはブリューズが座っている。
異形の騎士のせいか、二人の間に坐すブリューズの姿に妙な印象がある。この世ならざるもののような。
「……なんだ?」
ランタンは立ち止まって、微かに呟き、目を瞬かせた。ブリューズには表情がない。目が霞んだかのように、その顔だけを見ることができなかった。
ランタンは目を擦り、ひどい近視のように目を細めた。
見覚えのあるブリューズの顔だ。
一体何だったのか、釈然としないものを感じながらも、ランタンは四人に続いた。
ランタンは後ろ髪を引かれたように一度振り返り、境界を跨いだ。
「よく来た」
ひゅ、とランタンの喉が鳴った。
眼前にブリューズがいた。玉座に座っていたはずの男が。
扉を通過した先に広がっていた謁見の間は霞のように消え去っている。数多くいた近衛兵の姿も、異形の騎士二人も、ギデオンも、テスも、ルーも、アシュレイも目の前からいなくなってしまっている。
ランタンは猫のような身のこなしで、後方に跳躍して距離を取った。その存在を忘れてしまっていたように慌てて戦鎚を握る。
状況に理解が追いついていなかった。
「……みんなをどこにやった」
迷子になった子供のように隠しきれぬ不安を隠すような気丈さが言葉に滲んでいた。
「心配することはない。もとより招いたのはお前だけだ。愚かな妹とその付き添いは俺の影と戯れている」
霧の門もなく、どのような力を用いたのか、自分一人だけ転移させられたのだ。
ランタンは精神をじわじわと蝕む不安を押し殺しながら、周囲の気配を探る。まるで迷宮のような、それ以上の魔精の濃さだ。先程までよりも更に濃い。
ランタンは左手に戦鎚を持ち替えて、右手の指先を擦りあわせた。女の肉の柔らかさが微かに指先に思い出される。繋がっている。魔精を通じて。
天井を見上げる。当たり前だが空はない。暗雲のような闇が天井に、あたりに満ちている。
だが空が世界の果てまで続いているように、魔精もまた世界に満ちている。
魔精を通じて、ほんの微かだがアシュレイとルーの存在を確認することができた。気のせいかもしれなかったが。
ブリューズの言葉を信じるかどうかは別にして、ランタンは彼女たちの強さを信じることにした。物理的に距離が空いてしまえば、もとより祈る以外にやることはほとんどない。
「ここがどこだか知らないが、こんな所に呼び出して一体僕に何の用だ」
「前にも言ったはずだ。――お前の力を、私のために用いよ」
「平等な世界のため」
「憶えているのならば、二度も言わせるな」
不満げな言葉を、しかしブリューズは満足気に呟き、ランタンに手を伸ばした。
「う」
それは自分の口から漏れた呻き声か。他に誰もいないのだからそうに決まっているが、信じられなかった。
ランタンは急に胸が気持ち悪くなるのを感じた。
耳鳴りと、喉奥に酸味を感じる。吐きそうになるのを堪えて、粘着いた唾液を苦労して飲み込む。耳鳴りが遠くなったが、まだ細い糸を弾いたような音が残っている。
「ランタン、貴様はよく知っているはずだ。驕り高ぶった人の行く末を」
「なにを……」
ブリューズを睨んでいるのに、視線が交わらない。目を見ているはずなのに。
「迷宮よりもたらされた知識を持っているのだろう。言ったはずだ、私は知っていると。お前がどこから来た、何者かを」
「僕は、そんなものにもう興味は」
「ない、と本当に言い切れるか。お前は勘違いをしている、自らの由來と意味を」
言い返そうとした言葉が痰になって喉に絡んだ。息がぜいぜいと掠れる。
「迷宮は異界に通じている。それはある意味正しいが、お前の考えは正解ではない。――お前はどこから来た?」
ブリューズが一歩近付いた。
ランタンは身体を打たれたような衝撃を感じる。じりりと足が後退する。踏み堪えようとした大腿が痙攣する。
「荒れ狂う海から発生した人族が支配する、この世よりも遥かに文明の進んだ世界か?」
視界の端に何かが走ったような気がした。
首が動かない。焦茶色の瞳が微かに震えながらそれを追う。
車だった。起重機ではない。銀色で箱形をした乗用車だ。それが形を変えて鉄道列車になり、鋼鉄の大型船へと変化し、旅客機となって空を飛んだ。ごう、と大気を切り裂く音が聞こえたような気がする。
だがそれは網膜に映った光に過ぎない。魔精が見せた幻だった。
「これほど高度な文明を有しているのにもかかわらず、やはり人は争いを捨てることはできないのだな。人の本質はやはり殺戮にある。しかし殺し合うことによって、あの高度な文明が生まれたというのならなかなかそれも捨てたものではない」
「なにが、いいたい」
ランタンは声を絞り出した。喉奥を縦に裂いたような痛みが走る。
「迷宮は異界に通じている。それは正しい。だが貴様は異界より来た異邦人ではない」
「それが――っ、どうかしたかっ!」
血を吐くようにランタンは叫び、動かぬ身体を無理矢理に動かした。関節を曲げると、曲がらぬ骨を折り曲げたような音が鳴り、全身が砕けるような痛みがあった。
ブリューズまで四歩の距離。酸を浴びたような脂汗が額に伝う。
足元から跳ね上がった戦鎚が、あたりの闇に絡め取られる。ランタンはそれを無理矢理引き千切って、ブリューズに殴りかかった。
消えろ。
鎚頭に纏わり付く噴火のような爆炎が、しかしブリューズに届くことはない。部屋を崩壊させるような熱量があたりに漂う暗雲に飲み込まれ、目を灼く光が押し潰される。
「無駄遣いをするな。それは私のための力だ」
ひゅっ、と鋭く息を吐き、臍下に力を入れる。地面に張り付いたような足を引き剥がして旋転し、後方へ戦鎚を振り回した。
声は耳元で囁かれたように感じたのに、ブリューズは四歩離れた距離に立っていた。
「お前は迷宮より来た。だが異界より、迷宮を通じて来たわけではない。迷宮は流れ込んだ意識に基づき構築された世界に過ぎない。魔精は遍在するのだ。時と空間を超えて」
よろこべ。
いんいんと脳の内側に声が響いた。
「お前は人である。だが女の股より生まれたのではない。お前は迷宮から生まれた。人として。――お前の意識も、記憶も、懐かしさも、すべて魔精より生まれたものに過ぎない」
「だから、それがっ、どうしたっ!」
腑に落ちてしまったことが、どうにも耐えられなかった。ランタンは苛々と心が波打つのを感じる。
今朝まで感情に呼応して無自覚に発生し、時には己すら焼いた炎が、蝋燭の火のように力無く掻き消えた。
重圧。この重圧はブリューズからもたらされるものか。
ランタンは鯨を思い出した。海面から飛び出した、あの巨大な生き物を。ただ泳ぐだけで、一つ跳ねただけで海はその様相を一変させ、小さな生き物たちはそれに巻き込まれ抗うことさえ許されない。
ブリューズはまさにそれだった。
ほんの些細な身じろぎが、空間に満つる魔精に大きな影響を与えている。そしてランタンはその影響を大きく受けていた。
魔精から生まれたからか。
しかし魔精の変容は不可逆なはずである。魔精を以て受肉したとして、肉はすでに肉であり魔精ではない。
「どうした。喜べ。お前はそれを知りたがっていたはずだ。自らの由來を。ならば次は意味を教えてやろう」
ブリューズがゆるりと歩く。ランタンを中心として。魔精が掻き混ぜられる。ランタンは竜巻の真ん中に放り込まれたように感じる。目眩がした。頭がぐらぐらする。
「お前のよく知る世界は、高度な文明を有している。戦争によって発展した世界だが、この世界よりも遥かに平和で、洗練されている。人々に教育が施され、高度な知識を子供ですら有している。素晴らしいことだ」
戦鎚が重たく感じる。柄をしっかり握ったままだったが、肩と肘が落ちて、鎚頭が地面でごとりと音を立てる。
「だが、それでも。――どこの世界でもやはり人は人に過ぎない」
ランタンはゆっくりと息を吐く。暗い感情が、足元から這い上がってくる。足底から感覚が消失する。雲の上に立っているみたいに、平衡感覚が失われる。杖のように戦鎚を地面に押しつける。
この感情は自分のものではない。意識の共有、あるいは一方的な押しつけだ。
ブリューズは自分を染めようとしている。言葉と、魔精によって。
自己の存在を意識する。魔精は人の意思によって変質する。今の自分は、自分をただの人だと思っているのかもしれない。魔道も使えず、戦鎚も重たい、無力な少年のように。
「かつて英雄と呼ばれ持て囃され、今は裏切り者と呼ばれ石を投げられる気分はどうだ? 奴らは意識など何もない、水面に広がる波紋に過ぎぬ。そのくせ権利意識だけは旺盛だ。その果てにあるものが何かわかるか?」
うるさい。
内的意識に神経を集中しようとするが、ブリューズが言葉でもってそれを邪魔する。小動物を嬲るように。ランタンが内心で抗っているのを見通しているのかもしれない。
「民主主義だ。支配階級と被支配階級の垣根が崩れ、神性なる政に土足で踏み込んでくるようになる」
その時、これまでガラス玉のように安定していたブリューズの眼差しに狂的な怒りが滲んだのをランタンは見逃さなかった。
「んぅ」
ランタンの口から、甘さすら感じる呻き声が漏れる。百の脚を持つ地虫が這うように、自らの内に入り込んできた不愉快な感情に、もっとわかりやすく明快かつ苛烈な感情が混じった。焼きごてを押し当てたような。
痛みと熱だけを意識する。
「奴らに神聖な行いの何がわかる? 奴らは政を自らの利益誘導のためにしか用いぬ。人はあまりにも利己的だ。口では何とでも言おうとな。あの男、ギデオンと言ったか。我が足元に跪いたあれさえも、その実は私の首を取ろうとする刺客に過ぎぬ。亜人族の地位向上か。それも結局は人族との上下を決める争いだ。もっとも愚かであるがゆえに、よく働いてくれはしたが」
くつくつくつ、と喉を鳴らして笑った。
「玉体に手を掛けようという不遜な考えが、どうして出ようというのか。……それは権力が借り物である所為だろう。私には義務がある。黄金の血が流れるがゆえの義務が」
かつて神のものであった政は、やがて人のものとなった。だがそれでも間接的に神は関係している。神官を通じて人々へもたらされた言葉が、やがてその権力を教会を通じて王へと全権委任されることになった。
王の権力の保障は、教会が行っている。王は神の代わりに統治を任され、そしてブリューズは王権代行官として、その権力を又貸しされているに過ぎない。
それがこの男は不服なようだ。
「愚者どもから神性なる政を取り戻す。神により完全管理された社会こそが理想的な世界だ。そのために迷宮の落とし子たる貴様の力が必要なのだ。感じるだろう、貴様も。この地に満ちる膨大なる魔精を。すべての生命は、魔精を貯える器に過ぎない」
絶えず生まれ、崩壊する迷宮を内包する二つの特区。迷宮を攻略し、力を蓄える探索者。そこで生まれ生け捕りにされ運び出される魔物たち。ティルナバンの増えた人口は、そこに留まる魔精の総量の増加そのものだ。
「臍の緒がまだ繋がったままだ。貴様は迷宮と離れがたく結びついている。溢るることのない魔精の器よ。――くはっ」
不意に、噴き出すようにブリューズが笑ったかと思うと、大きく溜め息を吐いた。
首を微かに傾け、暗雲立ちこめる天井を見上げる。何を見ているのか。
「……あれと血が繋がっているかと思うと、絶望もひとしおだ。黒い卵と手を組むだと。――この世すべてのものは私の管理下にあるべきだ。なあ、そうだろう」
ブリューズが三つ歩いて、ランタンの顔を乱暴に掴んだ。頬に爪が立ち、皮膚を破ったのを感じた。傷口を引き裂き、広げるように手が離れる。ブリューズはその手を眼前に持ち上げる。
ブリューズの指先が血で汚れていた。濃い紫色をしている。リリオンが咄嗟にタオルで包み隠した染みよりも、かなり濃くなっていた。そう、あの時すでにランタンの血は紫に染まっていた。
リリオンの裸身を思い出す。だが眼前に映るのが、傲慢な男でランタンはがっかりする。
空から見下ろしたティルナバン、きっと今は魔精の渦は重なっているだろう。
魔精が集まっていた一つは屋敷であり、そしてもう一つはランタンのその身がそうだったからだ。
「はあ、まったく一体どれほどの無駄遣いをしてきたのか。魔精は人の意思を呑み、願いを叶える。だと言うのに、お前はその力の使い方を知らなかった。望んだのは何だ。探索者として迷宮を生き抜く力か? くだらんな。私が正しく活用してやろう」
暗雲がランタンを取り囲んだ。頬から流れ落ちる血が、じわりじわりと色を濃くしていく。それは墨が垂れるように黒く、そして液体の持つ艶やかさが失せて、そこだけ色が抜け落ちたように黒く。
黒い卵。それは秘密結社の組織名であり、誰も目にしたことのない超高濃度高品質の魔精結晶の異名である。
あらゆる願いを理論も課程もなくただ叶えてしまう、願望の卵。
「完璧な、人間にでも、なるつもりか」
ランタンは喉を絞めたまま、絞り出すように言葉を吐いた。
「人間になど、今さら興味はない。――曖昧な神の座に私が座ろう。神による直接統治、完全管理によって我が足元にすべての生命を跪かせてやる。管理された戦争と平和によって、人に更なる繁栄を約束してやろう。人族も、亜人族も、巨人族も区別はしない」
「……なぜ、リリオンを、哀しませる、必要があった」
「それで理解できただろう。度し難き人の性を」
――服従せよ。
唇は動かなかった。だが先程までよりも圧倒的な意識の奔流が身体の中に流れ込んできた。今までは鯨がただ泳いでいるだけに過ぎなかった。明確な意思を持ってブリューズはランタンを屈服させようとしていた。
視界に自分の姿が映った。
黒髪、青白い顔、頬の傷と、流れる黒い血、女の服に身を包んだ雌雄も曖昧な幼身。
ブリューズの視界だった。
自分自身と目が合った。大人しい焦茶色の瞳。
「――なぁっ!?」
指先が柄を握りなおした瞬間、戦鎚が跳ね上がった。ランタンは自分自身に殴りつけられた。
視界が戻る。
生身ならば首から上が消し飛ぶ一撃を受けて、しかしブリューズは無傷だった。ただ三歩踏鞴を踏んで後退り、頬を張られた女のように自分の顔を押さえている。
「格好悪ぃ。くそ、鏡で見るよりひどい。ああ、もう、あああああああああああああっ!」
ランタンが喉を揺らし、獣のように吼えた。怒りが胸を満たした。
身勝手なブリューズに対する、それ以上に自分自身に。
なんだあの情けない顔は。よくあんな顔をした奴が、リリオンに信じろなどと生意気なことを言えたものだ。思わず殴ってしまった。
左手で胸元に触れる。微かに濡れているのは、首に下げた水精結晶が涙を流したからだった。ランタンは痛みを感じるほど、それを胸に押し当てた。
濡れた服が乾く。結晶のまま水精結晶が沸騰したかもしれない。
「人が利己的なのは当たり前だ。僕はお前を叩きのめしに来た。理由はリリオンを泣かしたからだ。だけどリリオンのためじゃない。僕がお前をぶちのめしてやりたいからだ。人をやめたいなら好きにしろ。だがそれはお前の力だけでやれ」
「探索者風情があっ!」
暗雲に稲光が光った。
怒りに満ちたブリューズの肉体が隆起した。魔物のごとき変容ではない。探索者をも上回る堂々たる肉体美、そこに金属的な光沢が生まれ、背から肩甲骨が飛び出したかと思うとそれは鶴のごとき白翼となった。
天使。いや、それよりももっと神々しい。
ブリューズが稲光を掴み取った。それは剣かそれとも槍か、ともあれ強大な力を秘める神器であることは間違いなかった。
戦士像にどこか似ていた。だがそれよりもずいぶんと絢爛豪華だ。
「ならばその人の皮を剥いで、その内なる力を大願成就の贄としてくれる! 後悔してももう遅いっ!」
「はっ、それはこっちの台詞だっ!」
魔精が活性化したかと思うと暗雲から横殴りの雹が吹きつけ、雷が乱舞し、肌を裂くような嵐が巻き起こった。そしてランタンから吹き荒れた紅炎は、まさしく太陽のそれであり、天災に等しい乱撃を打ち払った。
暗雲が晴れる。そこには神兵が隠れていた。通路に並んでいた戦士像だ。
「やれっ!」
ブリューズの号令に、それらが一斉に襲いかかってくる。
それは神々の戦いの再現かもしれなかった。
「ぶっとばしてやる!」
だがランタンの顔つきは、好きな女の子を泣かされた少年のそれである。




