237
237
身体から湯気が立ち上った。
絞ったタオルを肩に掛けて脱衣所に戻る。ランタンはリリオンの身体を拭いて、リリオンはランタンの身体を拭いた。二人とも照れたり遠慮したりすることはなかった。リリオンは少し、よりももう少し深く腰を屈める。
「あ」
リリオンは素早くランタンの首筋にタオルを当てたかと思うと、それを胸の中に隠した。
湯に浸かって皮膚がふやけたのか、塞がっていた傷口が開いてタオルを血で汚した。
ランタンは胸の中にあるタオルを一瞥すると、子供の世話をするみたいに屈んだリリオンの唇に人差し指を押し当てた。
リリオンが息を飲み込む。
内緒話をした後、念を押すように視線を合わせる。少女は目蓋の力を抜いたみたいに、ふっと目を伏せた。
睫毛の上から珠の汗が転がり落ちる。眉間から鼻筋を滑り、唇に押し立てた人差し指にぶつかって形が崩れた。
リリオンは頷き、塞がれた唇を内から押し割った舌先がランタンの指を突いた。
ランタンは唇から指を離し、その指で頸動脈の上を走る傷跡をなぞった。
今日、つけられた傷だったが痛みはもうなかった。傷口を焼き固めると、失った痛みを思い出す。鋭いひりつきだ。
「大した怪我じゃない」
「うん」
リリオンはランタンの身体を乾かした後、他に怪我がないか確かめるように少年の身体を撫で回した。
きめの細かい肌。脂肪も筋肉も薄く、儚さすらある。出会ってから、少しの変化もない肉体だった。治りきらぬ傷跡はあるが、それも時間とともに失われるだろう。どれほど深い傷であっても、それは変わらない。
ランタンは自分の身体をリリオンの指が好き勝手に動き回るのを、少女の気が済むまで好きにさせていた。タオル一枚なくなっただけで、触られた感じはまるで違う。
リリオンの考えがわかるようだった。
リリオンは傷跡を見つけるとそこに唇を押し当て、何度か舌でなぞった。
ランタンはされながらリリオンの髪を乾かす。
リリオンはふと溜め息を吐く。
ランタンの身体は何も変わらない。見慣れた少年の美しい肉体そのままだった。見慣れたが、いつまでも飽きることはない。リリオンは名残惜しく、ぺたぺたと平らな腹を撫でる。
「いつまでそうしているつもり? いい加減にしないと風邪引くよ」
「だいじょうぶ。わたしが包み込んであげるから」
腹にあった手を背中に回し、リリオンはランタンを抱き寄せた。風呂上がりの身体は火を飲んだように温かくて、せっかく乾かした身体に再び汗が噴き出す。リリオンはランタンの首筋に顔を埋め、できたばかりの火傷に舌を這わす。
ぴちゃぴちゃと水音が響く。
不思議といやらしさを感じさせなかった。大きくて綺麗な、それでいてまだ幼い動物が水辺で一生懸命に喉を潤しているみたいだった。
こういった振る舞いにはしたなさを感じさせない純粋さを、リリオンは永遠に失わないのではないかと思う。ランタンはリリオンの髪に指を通し、背中を撫でた。
背中の滑らかさに思わずおののく。
ランタンは自分のいやらしさに嫌気が差す。性欲に支配された男は、ランタンの最も嫌いな生き物の一つだった。
ランタンは優しくリリオンを引き剥がした。視線を遮るみたいにタオルを顔に被せた。
「そんなにしたら首がなくなっちゃうよ。ああ、汗掻いちゃった。また風呂に逆戻りだ」
それでもいいよ、とリリオンは呟いたかもしれない。
二人はそれぞれすっかり汗を拭うと寝衣を身に纏った。夏の装いの上に一枚、ランタンは羽織に袖を通す。リリオンは肩に掛けただけだった。
リリオンの髪を緩く縛って脱衣所を出る。
廊下の大窓。外は夜だった。昔は寝ていた時間だし、ここ最近はまだ戦っていることが多い時間だった。
空にはぶ厚い雲が渦巻いており、月も星も隠している。だがそれ自体が発光しているように、雲は鉛に似た重たい照りと、灰白の明るさを持っていた。雲の明るさを立ちこめる濃い夜霧が反射して、外は妙に明るい。
二人が向かった先は寝室ではなく、レティシアの執務室だった。
ノックはするが返事を待たずに扉を開く。
むっと濃い匂いがした。生活臭と金属臭、紙とインクの匂いがこもっている。空気は粘度があるみたいに澱んでいる。
いつも綺麗に整えられていて、花の匂いさえした部屋は見る影もなく散らかっている。ふかふかの絨毯は踏み荒らされて潰れており、机には報告書が山と詰まれ、それは床にまで溢れている。
「さがれ」
「はっ、失礼します」
二人と入れ違いに、レティシアから指示を受けたらしい男が部屋から出ていった。部屋から一歩出た瞬間に駆け足で去って行く。この慌ただしさも、もう見慣れたものだった。
「よく来たな」
レティシアはにこやかに二人を迎え入れ、濃い疲労を滲ませる溜め息を吐き出した。腰も重たげに立ち上がり、ソファに座り直す。濃い肌の色のおかげで目の下の隈は見つけられないが、ほんの少し目が落ち窪んでいるようだった。
邪魔にならないように纏めた髪が油じみている。紐を解いても、髪型はそのままだった。レティシアは苦笑して髪に指を通した。竹を割るみたいに束になった髪をほぐす。紅い髪は炎のようだ。
「髪、してあげようか?」
「いい。触られるのは恥ずかしい」
「そう?」
レティシアは手櫛で整えると、低い位置で髪を結び直した。左の肩の上を通して胸元に垂らし、指遊びをするみたいに毛先を捻り、ソファで手を拭った。
ランタンが向かいに腰を下ろすとふと笑う。
「昔の人はたいそう働き者だったんだな」
「なに、急に?」
リリオンは棚から茶器を取りだして、慣れた手つきで紅茶を淹れてからランタンの隣に座った。レティシアの前にカップを出す。ランタンは盆から自分で取った。
レティシアは紅茶に角砂糖を五つも入れ、半分ほどを一気に飲んだ。
「戦争の事前準備がこれほど大変だとは思わなかった。その辺の匪賊を討伐するのとはわけが違うな。まったく戦後の事後処理など、勝たねばまったくもって無駄になると言うのに」
レティシアは底に沈殿した砂糖を混ぜるみたいにカップを揺らす。
「きっとあれだな。昔の人はこれが面倒だから、さっさと戦争を終わらせようと頑張ったに違いない」
「――疲れてるんだね」
ランタンは角砂糖を一つ口の中に含んだ。寝る前にもう一度歯を磨かないといけない。
「しかし、そうも言っていられない。せっかちな子が目の前にいるからね。いつまでも待たせるわけにも行かないし、時間も残されていない」
ランタンは単独でブリューズに会いに行こうとしたが、レティシアがそれを抑えた。
理詰めでランタンは納得しなかった。理によってランタンは動いていなかったからだ。
行動原理はまったく探索者らしいそれであったし、もっと言ってしまえば子供の駄々と大差なかった。ともかくとしてランタンはじっとしていることにもう我慢がならなかった。
レティシアはランタンの気持ち汲んでくれたが、黙って見送ることはできなかった。
ブリューズとの対決は避けられないと覚悟を決めてはいたし、レティシアとブリューズが対立関係にあるのは市民の噂にもなっているほどだった。だがだからといっていきなり殴りかかるような行いは、貴族には許されなかった。
たかだか一貴族が王族、つまりは国家と戦火を交えて無事には済まない。だが国の方もただでは済まないだけの軍事力をネイリング家は有しており、それ故にその行動には重い責任が生まれた。
だがランタンにはそんなしがらみは関係がない。国が滅ぼうが、世界が破滅しようが知ったことではない。
衝動を抑えつけたのは、レティシアの苦しみを理解したからだった。
「――もう一杯頼む」
「いっぱい?」
レティシアは残りの紅茶を飲み干した。溶けきらなかった砂糖をざりざりと噛み締めている。リリオンは空のカップになみなみいっぱい紅茶を注いだ。レティシアは口から迎えに行くようにカップに口を付ける。
甘さを飲み干した。ランタンも熱い紅茶で唇を湿らせた。
「手伝えなくてごめんね」
「気持ちだけ受け取っておこう」
遠回しな拒絶だった。妙な知識が豊富なランタンであるが、戦争計画ともなるとまったくの門外漢である。金勘定ぐらいはできるかもしれないが、ランタンにそんなことをさせるのは大器小用と言わざるをえない。ランタンは戦場に置いてこそ役に立つ。
「僕だって紅茶ぐらいは淹れられるよ」
「ふむ、茶ばかり頼んで仕事にならないかもしれないな。そうだ、リリオン。もう一つ、カップを出してくれないか」
立ち上がろうとしたリリオンの膝に手を置いて、ランタンは立ち上がった。
「一番上のやつだ。その金の縁取りの」
棚からカップを取り出すランタンの背中をリリオンとレティシアは見つめ、顔を近づけて声をひそめる。
「目の保養にはなるが、やはり仕事にはならんな」
高いところにあるカップに背伸びをして手を伸ばすランタンの後ろ姿を二人は妙な目付きで見つめる。
「ついでに棚の一番上にあるのも頼む」
ノックの音が響いたのは四つ目のカップを手にランタンがソファに戻った時だった。
レティシアが立ち上がる。リリララが扉を開けて、入ってきたのはアシュレイだった。背後にルーを従えている。リリオンが驚いたように、おねえさま、と呟いた。
「レティ、座ってくれ。二人とも久しいな」
「お久しぶりです。いつこちらに?」
「ついさっきだ。闘技場の明かりは上からでもよく見えたぞ」
「はい、お紅茶です」
「ありがとう。目覚めの一杯というやつだな。二人が風呂に入っている間、少し眠らせて貰った」
アシュレイは王都に出向いていたはずだった。本当についさっき帰ってきたばかりらしく、旅装のままだった。自分の屋敷には帰らず、そのままネイリング邸に乗り付けたのだろう。解いたばかりらしい髪がレティシアほどではないが波打っている。
だがそれでも気品は損なわれていない。
紅茶に口をつけて、満足そうに一つ頷くと顔を上げた。
ランタンとリリオンは無意識に背筋を伸ばした。そういう雰囲気を持っている。
「兄には消えて頂くことにした」
アシュレイは唐突に言った。レティシアはすでに聞かされていたようだが、それをあらためて耳にした時、何とも言えない光が瞳に滲んだ。
ランタンはようやくか、と思う。それをいつ、どうやって実行するかというのが問題なだけだった。レティシアの疲労は最後を詰めるためのものだろう。
アシュレイも疲れているようだった。頬が少しこけている。美しい女だったが、硝子のような鋭さと脆さが同居して、奇妙な凄味を醸し出していた。
覚悟を決めたからだろう。
「だが王の助力は得られない」
「断られましたか?」
「いや、王はこのところ体調が優れず伏せておられる。側には常に人がいて、内々の話をできるような状況ではなかった」
王はもう老年だった。年齢から来る体調不良だという話だったが、毒を盛られている可能性もあった。脳食いの被害を王都に見つけることはできないが、サラス領の食料は王都にも輸入されているし、他の兄たちがブリューズと繋がっていないとも限らない。迂闊なことを口にはできなかったようだ。
アシュレイは自嘲する。
「これは都合がよいことなのだろうな。伏せる王を見て、王に子殺しを納得させるだけの言葉を私は持たないことに気が付いたよ」
しかしアシュレイの中には、実の兄を殺害するだけの根拠があった。
このティルナバンの地で、王権代行官補佐として兄の背を見続けてきたからのものだろう。実の兄への不信感をずっと育て続けてきたアシュレイの心を計り知ることはできない。
違和感でしかなかった不信感を、ついに確信に変えたのは、このひと夏の内のブリューズの行動だった。
奇跡とも呼ばれるティルナバンの発展は、一歩引いた目で見れば異常である。常人のなせる技ではない。
「これで公に行動することはできなくなったが、おかげで行動方針は決まった」
少数精鋭での暗殺だった。
大事になればネイリング家がかかわっていることが公になる。そうでなくとも誰かに殺害されたとなればランタンやリリオンは疑われるのには充分だった。事故死か病死か、ともあれそのように処理できるようにしなければならない。
「兄が何を成そうとしているのか、その全容は依然として不明だ」
かつては父の目に止まる、国を引き継ぐ後継者となることがブリューズの目的のように思えた。だが今のブリューズはそれだけでは止まりそうもない。
「今のティルナバン、この状況に類似する状況が過去に存在している。ツァイリンガー博士が行った、初期の人造迷宮創造計画だ」
それは表向きの歴史からは抹消されている。集落が一つ消し飛んでいる事件に王家がかかわっていることが広まるのは国家の威信に傷が付く。それに被害者はすべて死んでいるし、それにかかわった者も一部を覗いて無事では済まなかったから、情報統制をするのはそれほど難しいことではなかった。
だが歴史を完全に消し去ることはできない。
「ウィリアム兄さまが方々に手を尽くして調べてくださった」
机に積まれている資料の内のいくつかはツァイリンガーの考えを纏めたものだった。彼が喚き散らした言葉を、他人が書き留めたものなので解読は容易ではない。
ツァイリンガーそのものを研究している者の手で翻訳されたものもあるが、正確に翻訳したものほど内容は突拍子もない。
魔精の移動における生命の役割。魔物の発生条件と魔精濃度の相関。迷宮内魔精濃度の増減と迷宮の崩壊について。意識の並列処理が及ぼす魔精への影響。魔精結晶の高濃度化実験。魔精結晶から魔精を抽出する方法と、その保存法。魔精と液体の親和性。不定型生物と魔精の相似。魔物進化論。
彼の言葉は散らかっているが、解読を進めていく内にツァイリンガーは魔精を信奉していることがよくわかった。
こういった文章の中には、かつて教会に焚書されたものもある。その写しすらここにはあった。
神の存在証明と題名をつけられたそれは、そこだけ見れば教会の権威を裏付けるもののように思える。だがその内容は、魔精を用いれば人の手で神を生み出すことが可能であるがゆえに神は存在する、というとんでもないものだ。燃やされるのも当然だろう。本人が火炙りになっていないのが不思議なくらいだった。
アシュレイは父王と言葉を交わすことはできなかったが、兄ウィリアムの協力を得ることはできたようだった。
ウィリアムはレティシアの兄であるファビアンと懇意にしており、ツァイリンガーを保護している。もし弑逆が公になった場合、ウィリアムとネイリング家が時間を稼ぐ手筈になっている。
「代行官は特大迷宮でも作ろうって言うの?」
ティルナバンのすべての命を飲み込んだ迷宮ならばきっと他に類を見ないものになるだろう。だがそれを造ってどうするのか。崩壊させて地上に迷宮を溢れさせるのか、それともそこから更なる魔精を求めるのか。
ブリューズが行ったであろうことを思い出す。人体の複製にはじまり、人工迷宮の創造及び魔物の創造、そしてその使役、人の傀儡化。議員貴族や周辺領主の半数近くは、おそらく脳食いと不定型生物の寄生によって傀儡にされていた。
そしてこれから成そうとすることは、平等な世界の実現だ。そうブリューズはランタンに言った。魔精によってそれを実現するとしても、あまりにも規模が大きすぎる。
「ツァイリンガー博士の言葉を、我々は正確に理解することはできない。だが博士に現在のティルナバンの状況から何ができるのか尋ねたところ、こう返事が返ってきた。――なんでもできる、と」
「耄碌してるんじゃないの」
思わずランタンは吐き捨ててしまった。おじいちゃんなんだからしかたがないわよ、とリリオンがたしなめる。主たちの背後に控えるリリララとルーが笑いを堪えるように顔を背けた。
ルーが、はう、と息を抜いた笑い声を漏らし、溜め息に混ぜて誤魔化した。眦の涙を拭い、口を開く。
「口を挟んでもよろしいでしょうか?」
「なんだ?」
「ランタンさまはすでにお気づきのはずです。わたくしはこれがあるから気が付くことができましたが」
ルーは胸に手を当てた。皮膚の上を這う魔精を集め、溜める魔道式を。
「今やティルナバンには迷宮と等しく魔精が集まっております」
一夜干しを酒の肴にとグラン工房へ持っていった時、グランが呟いていた。
ここ最近、商品の品質が安定しない、と。上手く行き過ぎる、と。
熟練の職人であるグランにはそれが魔精の影響であることが一目瞭然のようだった。
彼の人生のすべては、それを制することにあった。同じように作り出しても品質が異なることが、グランには不思議でしょうがなく、我慢のならないことだった。
材料の純度と比率、燃料に炎の温度、焼き入れに使用する液体と温度、叩く回数、圧力、その日の気温に湿度。
同一の状況下ならば、同一の存在ができなくてはならない。
魔精は人の意思を飲み、それを叶える。
良い物を作ろうと思ったから、良い物できた。結果だけを見ればそれは素晴らしいことかもしれない。
だが、そんなあやふやなもんは技術じゃねえ、それじゃあ俺がやる意味がない、とグランは吐き捨てた。
来るべき戦いに備えて整備して貰った戦鎚は新品の頃よりも重く、硬い。それは自分の肉を練って作り上げたみたいに手に馴染んだ。
「どうして僕ならわかると思ったの? 探索者なら隣にもいるけど」
「……わたし、わからないわ」
「しかたがありません。わたくしも王都からこちらへ戻って、ようやく気がつけたぐらいですから」
ルーがぽつりと呟いたリリオンを慰める。
「ランタンさまはわたくしよりも多くの魔精をお引き寄せになるでしょう? お身体の調子は大丈夫ですか?」
ティルナバンに魔精が満ちていることに、ランタンもすでに気が付いていた。
空を覆うぶ厚い雲も、都市に立ちこめる霧の中にも魔精が渦巻いている。だがそれは迷宮にあるような純粋な魔精ではない。人々がそれを雲だと思い、霧だと思っているから。
「調子は、良すぎるくらい」
ランタンは今日も戦ってきた。試合は早々に決着した。相手が弱かったのではなく、ランタンがあまりにも強すぎたせいだ。今日のランタンはいつものように観客の目を意識した試合運びをしなかった。
熱量が定まらない。高熱になりすぎた。
食うために戦う獣のように、容赦がなかった。
リリオンが止めに入らなければ、危うく殺してしまうところだった。
相手もまた容赦がなかった。ランタンに感化されたのか、それともそんな恐ろしいランタンと対峙して生存本能が働いたのか、それとも魔精の影響を受けていたのか、相手はいつも以上に死力を尽くした。
勝者の名誉も何もない。戦いに純化した試合であった。止めに入ったリリオンへの批判は聞こえなかった。
魔精は人の獣性を掻き立てる。
もしも魔精が本当に人の願いを叶えるだけのものならば、人の本性はきっと悪なのだろうとランタンは思う。
「それならば良いのですが。ブリューズ代行官だけならば、ランタンさまの相手ではないでしょう。ですが代行官の側を固めるのはどれも手練れですので」
ルーは黄色の瞳を心配げに絞った。ランタンは焼き塞いだばかりの首筋の傷跡を撫でる。痛みはすでにまったくなく、リリオンの舌のぬらぬらした感触ばかりを思い出した。
「行動に移すのは早い方がいいと思う。――ただの我が儘じゃなくて」
ティルナバンはすでに魔精の坩堝と化している。人の意思に染まり、どのように暴発するかわかったものではない。すでに所々で煙が上がっている。
迷宮都市の雰囲気は変わってきている。熱狂の時期は過ぎ去り、混乱が訪れている。移民と市民の対立は思いの外、根深い。探索者ギルドと迷宮管理局の間にある対立は、そのままそこに属する探索者の意識に大きく影響を及ぼしている。
殺し合いに発展するような小競り合いも頻発していたし、迷宮から生け捕りにされた魔物が街で暴れることもさして珍しいことではなくなった。
治安維持のために新設された銃士隊の高圧的な態度には反感も大きいが、鉛玉を貰っては堪ったものではないので大っぴらに文句は言わない。
これを好き勝手にさせているブリューズへの文句がちらほら聞こえるようになった。市民たちが掌を変えるのはあまりにも早い。
もともと治安のよい都市ではなかったが、争いの質がより感情に寄り添っている印象があった。
都市を魔精で満たすことがブリューズの目論む何かに必要なことならば、迷宮都市に魔精が満ちるのはそう遠いことではない。
すべての生物は魔精を移動させる運び手に過ぎない。ツァイリンガーの言葉だった。
「ああ、すでに動いている」
アシュレイが神妙な顔で頷いた。
「テスさんですか?」
探索者ギルド治安維持局の部隊長でありながら、なかばアシュレイの私兵、と言っても上下の関係があるわけではないようだったが、のようなテスは傀儡にされていると思われる地方領主たちを消しに行っているらしい。
「あれに暗殺者の真似事をさせるのは申し訳ないのだがな。なにせ人望がなくてな」
「量より質ですよ」
「どの歴史を見ても戦争は数の有利が絶対だ」
「あの人は例外になりますよ」
「君もか」
「ええ」
ランタンは大真面目に頷いた。アシュレイは膝を叩いて笑った。
「テスは発散させなければ先走りそうだったのだが、ランタンは充分に溜め込んでいる分、余計に頼もしいな」
テスはどういう訳かサラス伯爵の騎士ロザリアに執着があるらしかった。
虎人族の女騎士はつい先頃までティルナバンでたびたび目撃されていたが、ある時期を境にふっつりと姿を消してしまった。伯爵領に戻ったようだったが、それまでは探索者用の宿泊施設へと姿を変えたあの孤児院に何度か姿を現していた。
運営当初の孤児院はランタンとの関係を問題視され、大なり小なりの嫌がらせを受けたらしいのだがエドガーの一喝によりそれもすっかりと収束して、今では空き部屋がないほどの盛況ぶりだった。
ロザリアは宿に泊まるために孤児院を訪れたのではなかった。訪れる際には常に炎虎を連れて来ていたらしい。
炎虎はもう成獣となっていたがそれに子供たちはたいそう喜んで、それを子供たちとひとしきり遊ばせると栄養のある食べ物を置いて帰っていったそうだ。
ロザリアは何も怪しい動きはしなかったそうだ。
子犬と子猫の二人はねこを連れて来てくれたロザリアに特に懐いたらしく、屋敷を訪問した際には、たくさん遊んでもらったと話していた。
暇があると孤児院に顔を出しているベリレから聞いたところに寄ると、二人が一方的に纏わり付いていただけらしいが、ロザリアはそれを追い払うこともなく許していたという。
まったく想像できない。ランタンの中のロザリアは抜き身の刀のような印象だ。
ベリレは何が目的かとロザリアを一度問い詰めたらしいが、ふんとそっぽを向かれて何も答えはなかったらしい。
ロザリアはブリューズと同じぐらいに不思議な女だった。
リリララを始めとする者たちが情報収集に奔走してくれたが、ロザリアの過去だけはどれほど調べても見つけることはできなかった。鏡面の魔道騎士シーリア、重装騎士ガウルテリオ、四腕の騎士クァール。例えばこの三名ならばいずれも肉体の一部を失った後に、伯爵領に流れ着いたものだった。だがロザリアの肉体のいずれも失ってはいない。
サラス伯爵がブリューズに協力していることは明白だったが、二人の関係に上下があるのか、それとも対等なのかを知ることはできない。
伯爵がティルナバンから離れても四騎士の内の二人、ガウルテリオとクァールは都市に残りブリューズの護衛をしている。伯爵が貸し与えたのか、それとも押しつけたのか、ブリューズが求めたのか、それとも命じたのか。
ともあれ二人は常にブリューズの側に控えているらしかったし、近衛兵に大探索団トライフェイスの精鋭たちが抜擢されたことはすでに市民の知るところにあった。
領主館にこもるブリューズを討つには建物ごと一気に破壊してしまうか、厳重に警備された館の中に忍び込むしか方法はなかった。地下に張り巡らされた古道は塞がれてしまっている。おそらく硬化性の不定型生物を流し込んだのだろう。爆殺してしまってもよかったが、それではブリューズの真意は永遠に失われる。
招かれているランタンは、表から堂々と入り込むことができる。
だがランタンが訪れて、代行官が死んだとあっては言い訳のしようがない。
「行くのは私とルー、テスとランタンの四人だ。顔を隠し、上手く入れてやる。テスが戻ってきたら、行動を開始する。レティシアには万一の事態に備えて貰う。息の掛かった探索者が蜂起するかもしれない。探索者ギルド長にも話はつけてある。サラス伯爵に動きがあるかもしれない。その場合は本家と連携して――……」
リリオンがランタンの手を握る。爪が手の甲に食い込んだ。
リリオンはどうしても目立ちすぎたし、顔を隠せても身体を隠すことはできない。
リリオンは迷宮から帰ってから、色んなことを言った。
やっぱりわたしも付いていく。
帰ってくるのを待ってるからね。
わたしが一人で行くから、ランタンは待ってて。
どこにも行かないで。二人でずっと一緒にいましょう。
ランタンはリリオンの手を口元に寄せて、淡く口付けをした。高い音が響いて、アシュレイの声が止まった。視線が集まる。
ランタンは素知らぬ顔をする。
半分飲みかけの紅茶を飲もうとカップを手に取ると、紅茶はなくなっている。焦げ付きだけが残っていた。
「あ」
柄が溶けて、カップは机の上に落ちて割れない。
粘土のように歪み、机を焦がす。ランタンはそれを素手で掴み、皿の上に戻した。芥子粒のように小さな火種を指で押し潰す。
リリオンがその指を口に含んだ。




