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変わらぬ日々を過ごす。
それは諦めであり、決意であり、望みである。
リリオンがランタンにそう宣言したのは、確かに少女の本心だったのだろうが、まったく強がりを含まないかと言えばそうではない。
リリオンがこれまで歩んできた道のりの中で、その独りぼっちの背に石を投げ付けられたことは一度や二度ではないのだ。
今でこそ人混みにあって頭一つ二つも突き抜けるリリオンであるが、出会う以前は人混みに埋没してしまうただの少女であることをランタンは知っている。
背が低いことを気にするランタンを慰めるような、わたしも小さかった頃があるという何でもない思い出話は、しかし治りきらない瘡蓋を剥がす自傷行為へと繋がる。
人族と巨人族の外見的な差異はその大きさだけであるが、その差は背が高いとか太っているとかそういった個性の範疇には収まらない種族を分ける違いである。
リリオンはむしろ人族に近く、幼いリリオンも人族の地に降り立って彼我の違いを見つけることはできなかった。
それでも、それでも少女は時に石を投げられ、怒鳴られ、追い回された。
疑問は募る。
自分が薄汚れて、母親も失い、いつでも飢えていて、哀れで不幸な存在だからだろうかとどん底の思考に陥ったこともある。
だがある日、唐突に気が付いてしまったのだ。
自分の中に流れる血のことを。
巨人の国にあっては人の血によって、人の国にあっては巨人の血によっていじめられるのだと。
王権代行官ブリューズに、未だ動きはない。
ネイリング家に対する口先だけの牽制であったのかと思い込みたくもなるが、レティシアが時折険しい顔を覗かせるので、そうではないのだと知る。
真綿で首を絞められるようだった。
外を歩く時、リリオンはいつも通りのように見えて、どこかに怯えがある。
スキップするように踊るように、太陽の下を歩くだけで楽しいというような子供っぽい歩き方は形を潜め、たった一人の幼い日にそうしたように道の端を静かに誰も邪魔にもならないように歩く。
ランタンはそんなリリオンを日向に引っ張り出したり、あるいは影の中を寄り添ったりする。
夜眠る時、眠りに落ちるまで時間を必要とするようになった。抱きしめてやってもなかなか落ち着かず、もぞもぞと身じろぎをする。
どうすれば落ち着くかと言えば、もっと甘やかすよりもランタンがリリオンに甘えると不思議と落ち着きを取り戻すのだった。
それは不思議な感覚だった。
黒髪を掻き分けて頭を撫でる五本の指の繊細さや、身体を抱き寄せる腕の力強さ。
それはランタンには未知のものである母性そのものであり、知らないはずなのにそれが母性であるとどうしてか確信することができた。
弱い存在を抱くことで、自分が強くなったように錯覚する。あるいは強くあらねばならないと身体に芯が通る。リリオンはランタンを抱きしめることで強くなり、夜を眠る。
そしてランタンもまたリリオンの細い腰に腕を回すことで、自分が男であることを自覚する。
甘えるのはあくまでもリリオンの夜から恐れを遠ざけるためであるという建前と、まだ表面的にではあるが異性の身体の気持ちよさを知ってしまった思春期の男の子らしい場を弁えない本能。
リリオンがようやく眠ったのを見届けた後、身体を離してもいいのに少女の胸元に顔を埋めたままでいるのはそういうことだった。
それでもリリオンよりも早く目覚めて、みっともないその姿を白日に晒さないのはせめてもの悪あがきである。
目覚めたランタンは胸の中で深呼吸をし、少女の匂いを胸一杯に吸い込む。
寝起きのぼんやりした頭がたちまち覚醒し、今日もまだブリューズによる暴露がないことを知る。
暴露があった時は深夜だろうが、風呂の最中だろうが、用を足している時だって無関係に伝えてもらえるように頼んであった。
報せによって目覚めなかったことに、ランタンはほっと胸を撫で下ろす。
気を抜くとまた眠りの中に誘われそうになる。
リリオンの身体の柔らかさと温かさは二度寝よりも誘惑的で、ランタンはどうにかベッドから這い出た。
手櫛で寝癖を押さえつけ、水盆で顔を洗い、水差しに直接口をつける。うっくうっくと喉を慣らして冷水を飲み、唇の端から溢れた滴を肩口で拭う。
変わらぬ日々を過ごそうと心に決めたとしても、それはまったく状況を無視することにはならない。
怒り狂い、泣き喚き、悲嘆して蹲るようなことはしない。
水盆の鏡面のような水面に反射するランタンの面構えは、少女の胸の中にあった時とはまるで別の顔をしている。
水面の中にあって黒髪も艶やかで、焦茶色の眼差しはどこか赤みを帯びている。
唇の隙間から獲物を狙う獣のごとき呼気が漏れ、しかし水面に浮かんだ波紋は底から浮かび上がった気泡によるものだった。水盆から湯気が立ったかと思えば、ぐらぐらと沸騰し、底が抜けたかのように水量が失われていく。
ランタンは潜めるようだった呼吸を大げさな溜め息に替え、盆に差し水をした。
ついでに指先を濡らし、ランタンはリリオンの寝顔に水滴を引っ掛けた。
「――ひあっ!」
リリオンははっと目を覚まして、ランタンの顔を呆然と見上げる。
「なあに、なにしたの? ちゅべたい、つめたい」
「おはよう。さあ……雨漏りかな?」
ランタンは空惚けて天井を見上げ、リリオンもそれにつられて上を向く。天井には水滴どころか染み一つない。リリオンは視線を窓の外に向ける。
「お外、晴れてるよ」
「天気雨でも降ったのかな。天気雨の日は狐の魔物が嫁入りするとかって話知ってる?」
「知らない」
「僕も知らないんだけど。誰かから聞いたんだったかな、……まあ、いいや」
リリオンは疑いの目をしてランタンを見つめて、ランタンは証拠を隠滅するように濡れた手でリリオンの顔を拭う。
「うぷ、ううー、むー」
目脂を取ってやり、涎を拭う。そして文句を言われる前に、轡を噛ませるみたいに水差しの先端を咥えさせた。
リリオンはされるがままに水差しをちゅっちゅと吸った。
「はあー、つめたい」
「ちゅべたい?」
「つめたいって言ったもん」
頬を膨らませて、それから思い出したように、おはよう、とリリオンは言う。
「ようやく起きたか」
ランタンは悪戯な笑みを浮かべ、二度目のおはようを言った。
「今日は何の日?」
ランタンが謎かけをするみたいに問い掛けると、リリオンはちょっと悩んだ素振りを見せたがそれは演技に違いない。唇には思い出し笑いみたいな笑みが浮かんでいる。
「お姉さまのお家に遊びに行くの!」
王家の末姫、ブリューズの妹、名ばかりの王権代行官補佐アシュレイの館に招かれているのだった。
「お姫さまん家に行くんだから、こんな髪ぼさぼさじゃ格好悪いぞ」
「そうだわ! たいへん、たいへん、おめかししないと!」
リリオンはベッドから飛び降りて、自らの尻尾を追いかける犬みたいに一度回った。
「でもランタン、その前におしっこ」
「行ってらっしゃい」
「ついてきて」
「ついてってどうすんだよ」
「いいからくるの。しゅっぱーつ!」
リリオンはランタンの後ろに回り込み、両の肩に手を置いて背中を押して歩き出した。
リリオンはばっちりおめかしをして懐剣を忍ばせるばかりで、ランタンはいつもと変わらぬ探索装束の腰に戦鎚を差している。ネイリング邸の前につけられた馬車はアシュレイが寄越したもので、それはレティシアが普段使いする馬車よりも質素だった。
リリオンはいそいそと馬車に乗り込み、ランタンは高台によじ登るのを助けるみたいに目の前の小さな尻を押し込んだ。
リリオンがくるんと身を翻して椅子に座り、手を伸ばしてランタンを中に引きずり込む。それを手助けするみたいにランタンの小さな尻をレティシアが押し込み、二人の乗った馬車は二頭の退役軍馬に引かれてのろのろと動き出した。
「レティも一緒に来ればよかったのにね」
「忙しそうにしてるからなあ」
「ざんねん」
リリオンは馬車の窓を開けると身を乗り出して手を振った。レティシアはまだ見送ってくれているらしい。
この無邪気さはランタンが少女の胸の中で見せる甘えと同質のものだった。
レティシアが自分のためにあらゆる情報を収集しブリューズの動向を探ってくれていることをリリオンは知っていた。彼女と彼女を支える臣下たちは屋敷に籠もって、もたらされる情報の精査に追われている。
感謝は一度して、それ以上のものをレティシアは嫌がった。
アシュレイの館へは遊びに行くわけではなく、ランタンたちは情報を携えた使者のようなものだった。
もっとも山と料理を作って待っているという誘い文句を受け、リリオンが本心から涎を滴らせたのも事実だったし、この日のために無駄に着飾ったのは少しでもリリオンを楽しませ、気晴らしをしてもらうためでもあった。
リリオンの見せる無邪気さは精一杯の強がりと、自分は平気であると言外に伝える気遣いだった。
「お化粧した?」
「これだけしてもらった」
薄桃色と薄橙色が混じったような淡い色の口紅をつけている。ちゅっと突き出された唇は脂物を食べた時とはまた違う艶やかさがある。それだけで少しばかり大人っぽく見える。
「ちゅーする?」
口を開かなければ。
「しない」
「誰も見てないわ」
「跡がついちゃうだろ。それだと」
「あ、そっか」
残念、とリリオンはこてんとランタンの肩に頭を預けた。食事を邪魔しない程度、ふんわりと香水の匂いもする。
見事に結い上げられた髪は宝石をあしらった簪が突き刺してあって重たそうだった。
「跡、つけていい?」
「見えないところなら」
リリオンは簪の重さに逆らわず膝枕のように身体を横たえると、外套の中に潜り込んでシャツを捲り上げた。
臍の隣にくすぐったさが何度かあった。
リリオンはそのままランタンのシャツの中にしばらく頭を突っ込んでいた。怖いものから隠れるみたいに、大人しくしている。
屋敷に着いた。門を潜り敷地内にまで馬車で入ると、出迎えをしてくれたのはルーだった。
「ようこそいらっしゃいました、――?」
馬車の中でもたもたしていた二人を急かすこともなく迎えてくれた笑顔が、ふいに意味深なものに変わる。
ルーはそっと腕を伸ばすと、ズボンの中に入ってしまっていたランタンの外套の端を抜き取った。
「アシュレイさまがお待ちですので中にどうぞ。お菓子に果物、たくさん用意しておりますわよ」
ルーは外套のことには触れず屋敷へと案内をする。艶本の中に、あるいは実際に存在する破廉恥貴族のように馬車の中でいかがわしいことをしていたわけでもないのに、ランタンは言い訳をする機会を失ってなんだか気恥ずかしかった。
リリオンは蜜に誘われた蝶のようにルーを追いかける。
ランタンは振り返り年老いた御者に礼を言った。御者はたいそう畏まって首を振る。
「アシュレイさまをよろしくお願いいたします」
御者が手綱を緩めると老馬はゆったりとした足取りで裏手の方へと回っていった。
アシュレイの館はたっぷりの緑を塀の内側に茂らせていた。
鬱蒼している緑は濃密で、湿った涼しさがあった。木陰に幾つも花が咲き乱れていたり、苔生した幹に蛇のような蔦が巻きついていたり、木々の梢から怪鳥の囀りさえ聞こえる。
密林迷宮に迷い込んだみたいだった。
「ランタン、どうしたの? お腹いたいの?」
庭に見とれているランタンをリリオンが大声で呼んだ。リリオンはもう館の中にいた。閉じようとする扉を背中で押し止めて、大きく手を振っている。
「お呪いがついてるから大丈夫」
リリオンに駆け寄ったランタンは、臍の横を指差す。
そして直々に出迎えてくれたアシュレイに頭を下げた。
「本日はお招き頂き――」
「堅苦しいのはいい」
「――なんとかかんとかございます。お腹ぺこぺこでやって来ました」
「よし、よく来たな。探索者どもの腹を満足させられるかはわからんが料理をたんと用意してあるぞ」
「わあい!」
アシュレイは暗色の衣装を身につけていて、庭や館の外観の雰囲気と相まって魔女のようにも見える。甘い菓子を餌に幼気な子供を誘い込み、大鍋でぐらぐら煮てしまうような。
と言うには美しすぎるか。
王族ならばどこに行くにしても従者がいてもよさそうものなのに、アシュレイの傍らにはルーしかいなかった。館の中に人の気配は稀薄だ。
必要最低限の使用人だけがいて、衛士の一人も見かけることはなかった。ブリューズと反目しているせいで古い館に追いやられているというような印象すらある。
だがアシュレイはここが気に入っているようだった。
「庭の植物、あれって迷宮産ですか?」
「わかるか」
声が僅かに弾んだ。
探索者が迷宮から持ち帰ったものを買い取ったり、テスが手土産に持ってきたものを植えたりして育てたのだそうだ。
定着したものもあるが、その倍にして足らない数の植物が芽も出さず枯れてしまって、鬱蒼と茂る庭はアシュレイの苦労の賜だった。
「苗から育てるのも種から育てるのも面白い。どんな芽が出るのか、どんな花が咲き、実を結ぶのか。知ってるか? 迷宮産の林檎は渋くて酸っぱい」
「甘いのもありますよ」
ランタンはいつか潜った迷宮でもいだ果実の味を思い出す。あれは林檎だったはずだが、梨のように瑞々しかった。
「今度見つけたら引っこ抜いてきてくれ」
「木を丸ごとですか?」
「ルーを貸してやろう」
通された部屋には大きな円卓があり、その上には隙間なく菓子や果物が並べられていた。果実はどれも瑞々しく、季節外れのものでさえしっかりと熟れて蜜を蓄えている。迷宮産ではなさそうだ。
「あ、チョコケーキ!」
リリオンが手掴みでケーキの一切れを口に運んだ。三角に切り取られたそれを二口で口の中に押し込み、口紅ごと舐め取るみたいに唇を舐める。
「おいしい!」
「それはよかった。何せランタンのお墨付きだからな」
「僕の?」
それはかつてアシュレイが司書さまであったころ、世話になったランタンが土産に持っていったケーキだったらしい。へえ、と他人事のように呟くランタンに思わずルーが苦笑する。
給仕は無口な男で人数分の茶を用意するとあとをルーに引き継いで、礼儀正しく一礼して下がっていった。
菓子をつまみ、果物をつまみ、口の周りどころか顔いっぱいを汚してしまうリリオンの世話をしながら情報を交換する。
ネイリング邸の地下に古道は伸びていないこと。この館の庭にももぐらの巣穴ほどの穴が空いていたが、それはリリララが地下を調べた名残だった。古道は都市の地下を植物の根のように伸びている。領主館地下にある施設は、その古道とはまったく別に作られたものであり、繋がっているのはたまたま偶然かもしれない。
貧民街はブリューズの勅命で完全封鎖された。忍び込もうと思えば忍び込むこともできるが、誘い込むための罠のように思えて手出しができない。
貧民街の封鎖にあたる騎士たちは皆、長銃を装備している。その銃はあの塔内工場で製産されていたものに酷似している。
今はまだ試験運用だが、近々銃が騎士の正式装備になるらしい。
やはりブリューズがあの施設にかかわっていることは間違いがない。
レティシアが出所を秘して持ち帰った銃を突き付け問い詰めたところ、ブリューズはあっさりと関与を認めた。
銃という武器の製法はちらほら出回っているが、まだごく一部に留まっている。ブリューズは逆にその有用性と危険性をレティシアに説き、施設を秘したことを正当化した。
探索者の犯罪者化、また犯罪者の探索者化は都市の治安を著しく悪化させる要因であり、それはかつてから問題になっていることだった。
探索者を取り締まるには、これを上回る武力がどうしても必要で、銃はその力になり得る。
「お兄さん、一体何をしようとしているの?」
お兄さんという言い方にこそ、アシュレイは眉根を寄せたのかもしれない。
リリオンと半分こにした季節の果物のパイ包みをたいして味わいもせず飲み込むと、甘ったるい溜め息を吐く。
「話だけならば、都市をより発展させようという為政者としては至極真っ当な志をお持ちのように聞こえる」
「信じてない?」
「腹違いとは言え半分血は繋がっているからな。――領主館の地下はもともとあった施設だ。こういう土地柄、何代も前から領主が収集した迷宮由来品が収蔵してある。兄上はあまり興味が無さそうだったが、ここ何年か急にその収蔵品が増え始めている。金と物の動きを調べると、どこからか迷宮由来品を買い込んでいるようだ」
例えば複雑な機構をした機械系魔物の一部、雷を発生させる宝石、高純度の火薬、毒にも薬にもなる植物、天使の遺骸、預言を口にして死んだとされる人面牛の生首、炎にくべると雛鳥の生まれる灰、蜂蜜漬けにされた彷徨う者と化した探索者、水晶に閉じ込められる二首の九官鳥、幾つかの生きたままの魔物。
「どこから?」
「サラス伯爵領、魔道ギルド、複数の探索者の一団、その他不明」
給仕代わりのルーが、力及ばず、と項垂れアシュレイが慰める。
「迷宮に興味があるのか、それで迷宮由来品のために探索者ギルドを? だけど」
しかし探索者ギルドは、国有化の話に首を縦に振ったことは一度もなく、内部工作にも頑として抵抗している。
これはレティシアもアシュレイも複数の手段をつかって確認をしたことだ。探索者ギルドを強権的に国有化するなど、狂気の沙汰だ。下手をすれば各都市の探索者ギルドが蜂起するだろうし、探索者ギルドばかりではなく他のギルドだって危機感を抱くはずだ。
ギルドとの関係悪化は王家の望むところではない。
「そんなことをすれば父上の覚えも悪くなる」
「じゃあ口だけって可能性は?」
「低い。あれで実行力はある。無能ならばありがたいが、商業ギルドを手中に収めた手管は褒めるしかない。だがしかし、口にしていることを実行しようとしているとは思えない」
アシュレイは眉根を寄せ、ランタンは腕を組み黙り込む。
リリオンは無邪気な子供の振りをして、美味しい美味しいと菓子と果物の一番合う組み合わせを探している。
「はい、ランタン」
「ん」
リリオンの指ごと葡萄を頬張る。舌と歯を使って口の中で皮を剥く。甘さが脳に染みるようだった。
リリオンが巨人族であることを暴露していったい何の意味があるのか。ただ無駄な混乱と憎悪を呼ぶだけではないのか。
「わからん」
うんざりしたように呟き、リリオンはせっせとランタンの口に甘いものを運ぶ。
風が吹いて木々が鳴った。鳥の羽ばたきが聞こえた、まず気が付いたのはルーだった。
不吉を察したように扉に視線を向け、誰の耳にも慌てたような足音と何事か騒ぐ声が聞こえた。
ランタンは椅子を立ち、戦鎚に手を掛ける。リリオンがアシュレイを壁際に誘導する。
ノックもなく扉が開かれた。
「何者か! 無礼な!」
血の臭気。それは巨大な鎧に身を包んだ一人の騎士だった。サラス伯爵に仕える四騎士の内の一人だった。木目のような縞模様のある大鎧は隙間なく、一筋の肌も見ることはできない。
アシュレイの叱責に僅かな動揺もなく、入室直後を狙ったランタンの一撃を右の掌で受け止めている。
それだけで力量がわかる。地中深くに根を張った大樹を打ったようだ。
止めただけで反撃はない。洗い流せぬ濃密な血の臭いとは裏腹に攻撃の意思は感じられなかった。
ランタンは騎士から距離を取った。戦鎚は納めない。
騎士が道を譲るように横にずれるとその背後には精悍かつ傲慢な、そしてその傲慢さがよく似合う顔をした男がいた。
「無礼はどっちだ。愚かな妹よ」
「兄上……」
それは王権代行官ブリューズだった。リリオンの背に守られる妹に顎を向けて鼻で笑う。
アシュレイはむしろリリオンを背に守るように一歩前に出た。だがブリューズは妹から興味を失ったように視線を逸らす。
「お前に用があるのではない」
ランタンを見下ろした。
「久しいな探索者。貴様に用がある」
「――僕に? 王権代行官さまが一体何のご用でしょうか?」
言葉遣いだけは丁寧だったが、ランタンは王族相手にまったく不遜な態度でブリューズに相対する。
「私は、お前がどこから来たのかを知っている。これは慈悲であると知れ。取引だ。お前の力を私のために用いよ。さすればお前の望む物をくれてやろう」
唐突で一方的な言葉だった。
一瞬どきりとした。心臓に刃物を突き立てられたようだった。
走馬燈のように記憶が遡る。深い霧の中を手探りで歩くような不安と、そして握った手の温かさを。
「――残念ながら、取引にはなり得ません。それは僕に不要なものです。どこから来たのかは不確かだけど、僕は自分が何者であるかは自覚している」
青い炎のような一見して冷たく見えるランタンの眼差しに映るのは、嘲るように唇を歪めるブリューズだった。
「言ったはずだ、慈悲であると」
硝子のような視線でリリオンを一瞥する。
「差別のない世界を約束してやろう。貴様が力を貸せば、それが成しえる」
「王権代行官さまの力でですか」
「そうだ」
「まったく根拠がない。僕はそれを信じることはできない。あなたが貧民街にしたことを思えば」
「ふっ、蜥蜴の囀りはやはり貴様の入れ知恵か。一体何の問題があると言うのだ?」
「人をあのように使うなど度が過ぎている。正気じゃない」
「人? おかしなことを言う。あれは我が庭に住み着いた害虫どもだ。放っておけば腐臭と病を撒き散らし、世界を汚す。少し慈悲を見せれば何を勘違いしたのか権利を主張し、あまつさえ私と対等のように振る舞う。度し難く愚かだ。害しかない奴らの生に意味を与えてやったまでのことよ。そもそも貴様が人を語り、人を思うか」
一種の無邪気さのある口調だった。己の正当性をまったく疑っていない。
「人とは、そうだ、人とはすぐに道を誤る。ならば正しく導く者が必要だろう」
森羅万象の原理原則を語るようだった。
「つまり私だ。人も、亜人も、巨人も、すべて等しく我が足元に跪かせてやろうではないか。大事なのだろう、そこの混ざり物が。ならば何度も言わせるな。貴様は力の使い方を知らん。私が正しく導いてやろう」
リリオンを混ざり物と呼んだな。
ランタンの瞳が熱を帯び、戦鎚を握った掌に己の爪が食い込む。
事後の処理を少しも考えなかった。正気の選択ではない。
戦鎚がブリューズの胸を打って弾けさせた。ランタンの顔のすぐ脇を短剣が通過する。リリオンが投げた懐剣だった。少女はランタンが動き出すより先に、これを投げたかもしれない。
だが驚きはそこにはなかった。
人間の八割ぐらいは水分でできている。だがそれにしても水を打ったような感触だった。
源初の魔物。不定型生物。
追撃をしようとした瞬間、ブリューズの肉体を突き抜けて騎士の攻撃があった。神がかり的な反応を見せて、ランタンが背後に跳ぶ。
ぽっかりと胴体に空いた穴が塞がる。顔面に埋まった短剣がごとりと落ちて、ブリューズの笑みは貴族のそれだ。
「兄上、いつから魔物に身を落としたのか」
「ふっはははは、だからお前は愚かなのだ。アシュレイ。玉たる我が身を魔物の前に無防備に晒すと思うか?」
「身代わり……、しかしその知性は」
ブリューズは蝿でも追い払うように手を振ってアシュレイの話を打ち切った。
変わらぬ顔でランタンを見下ろし、変わらぬ声で口を利く。
「その無礼、一度は許そう。その愚かさも、しかたのないものだ」
硝子の瞳。混じりっけのない透明な液体を固めたような。
ブリューズの顔の色が目元から広がるように失われていく。
「だが後悔するといい。貴様がいくら愚かだとしても、現実を目の当たりにすれば状況を理解することぐらいはできよう。私が寛大である内に跪きにくるがいい」
肉体のすべてから色が失われ、人の形をした不定型生物となったその内側に頸椎に似た核が浮いていた。
騎士が延髄を抉り取るように、その核を抜き取った。
途端に輪郭を失って不定型生物はただの液体となって絨毯を汚した。
あまりにも色んなことがあって、状況を整理することができなかった。
「おいっ、どこへ行くっ!」
出ていこうとした騎士を呼び止めたが、呼び止めたその後の行動が思い浮かばず、そのまま背を見送ることしかできない。
追い打ちをかけるように大きく館が揺れた。
「きゃあ!」
悲鳴を上げたアシュレイをリリオンが抱き支え、ルーが寄り添う。
揺れたのは館ではなく、都市のすべてだった。
ランタンが発するそれよりも遥かに大きな爆発音が遅れて響く。
これは。
「魔精の……」
どこからか途端に魔精の気配が濃密になった。ランタンですら魔精酔いを発症しかける。
爆発音は迷宮特区、いや、その向こう側の下街、もっと奥の貧民街の。
「迷宮崩壊、でしょうか」
ルーが絞り出すように言う。
その衝撃は世界が変わるきっかけだった。