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カボチャ頭のランタン  作者: mm
02.Some Day My Prince Will Come
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023

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 ランタンは自分の銀行口座から金貨を引き出して、そのうちの一部をリリオンに手渡した。空になったポーチはすっかり補填されている。やはり貯金は大事だ。

 リリオンは両手を揃えて掌を上に向け、緊張した面持ちでランタンの顔だけを見つめている。ランタンは袋詰にされた金貨を差し出された掌にどさりと乗せた。だがリリオンはじぃっとランタンの顔だけを見つめ続けた。

「――ふぇ」

 リリオンがその重さにどういうわけか赤い色の舌を出した。それは笑うのを堪えているようにも見える。とりあえずランタンはそのペロリと垂れた舌を人差し指と親指でちょいと摘んでみた。なんとなく小生意気な感じがしたのだ。

「へひゃ!?」

 舌は温かくて(ぬめ)っている。それに加えてはぁはぁと漏れる吐息がじめっと微温(ぬる)い。リリオンはランタンにされるがままに涙目になっている。そこには生意気さとは無縁な従順さが溢れており嗜虐心を(そそ)られる表情と言うものは、これを指すのかもしれないとランタンは自分勝手に頷いた。

 リリオンは掌の上に金貨袋を乗せたまま動かず、袋の中の金貨はその掌の上で小さく震え、音を響かせている。

 笑うのを堪えているのではなく、震えるのを堪えているのか。

 ランタンはそう気がつくと舌を摘んでいた指を離し、そこに引いた糸を切ってリリオンの掌から金貨袋をひょいと取り上げた。

 緊張から解放された途端にがくがくと腰から崩れ落ちそうになるリリオンを支えて、大げさなことだ、と吐き出しかけたため息を飲み込んだ。

 袋に詰まっている金貨ははっきり言って今回の迷宮探索で得た利益から見れば端金(はしたがね)である。普通の探索班であれば暴動が起きるような分配率であるが、仕方のないことだった。

 リリオンはまず金貨に慣れなければならない。それを得ることにも、消費することにも。まずはそこからだ。

 ランタンはリリオンを一端(いっぱし)の探索者として扱おうと考えたが、よくよく考えればリリオンはまだ十歳の子供でしかない。子供であろうともその存在を尊重し一個の人間として扱うことは大切だが、だからといって尊重したその瞬間から大人のように振る舞うことを望むのは浅慮(せんりょ)である。

 迷宮の賃貸料や引き上げ代は探索班持ちであっても、武器の整備代や装備に関しては個人の懐で賄われる。だが、そのことを伝えた時のリリオンの表情は今まさに崖から落ちるような絶望的なものだった。

 それを思い出して、急いではいけない、と自分に言い聞かせる。

 リリオンはどれほどの期間か分からないが、おそらく少なからずの間、自由意思を奪われていたのだ。急に自分で考えて、行動を起こすことは難しい。

 結局は財布を共有化し、リリオンに欲しい物ものがある場合はそれを管理しているランタンにお伺いを立て、そこから支払われるというところに落ち着いた。またそれとは別に小遣いも与える予定だが、それはまさに子供のお小遣い程度の少額から始まることとなるだろう。

 しかしやはり貯金も必要である。親が子のことを思いこっそりと口座に貯金を積み立てるというような真似をできればそうしていたかもしれないが、残念ながら探索者ギルド銀行では入金でさえ当人に制限される。

「……ランタン」

「いいよ、ほら落着いて」

 ランタンはリリオンの胸元辺り(デコルテ)を擦るように撫でた。

 リリオンに渡した金は端金だが、それは探索者にとってはと言うことで、質素な生活をするのならば上街であっても数ヶ月は過ごすことができる金額である。リリオンは探索者だが、そこに根付いている金銭感覚はまだ一般市民以下のものでしかない。端金が、大金なのだ。

「例えばね、リリオン。僕が迷宮でひどい怪我をしてどうにか帰還をしたとするよ、――仮定なんだからそんな顔しない」

「……」

「でポーチに持ち合わせもない。お金がないからギルドの治療施設を使えない。そんな時にこのお金が銀行に預けてあったらどう?」

「……うん」

「このお金はもうリリオンのものだよ」

 ランタンは胸元から首筋へ、そして頬に手を伸ばした。

「そしてそれをどう使うかは自由なんだ」

「うん、……わたし行ってくる」

 リリオンは頬に添えられた手に自分の掌を重ねて頷いた。ランタンが金貨袋を差し出すとリリオンはそれを胸に抱いて、一歩二歩三歩とゆっくり受付に進んで振り返った。眉毛がハの字になっている。

「ちゃんと見ててね」

「いってらっしゃい」

 小さく手を振るとリリオンはしっかりと頷いて今度こそ確かに受付へと足を勧めた。ランタンはリリオンを視界に収めながらゆっくりとロビーの壁に背もたれた。

 人に何かを伝えるということはひどく精神を消耗する。ここ一年近くどころか、それ以前の生活でも自らの意思を言葉として口から吐き出すことは得意ではなかったのだ。ましてや子供でもわかるように、言葉を噛み砕くともなると未知の領域といっても良い。

「ふぁーあ」

 欠伸のようなため息のような倦怠を吐いて、しかしランタンはすっと目を細めた。リリオンの姿が見えなくなったのだ。それはランタンが視線を外したからではなく、またリリオンが視界の外に出たのでもない。リリオンの姿を隠すように人影が目の前に現れたのだ。

 ランタンは反射的に吐き出しかけた舌打ちを飲み込んで、壁から背を離して場所を変えようとした。

「おいおいランタンそりゃないぜ!」

 名前を呼ばれて、しかしランタンはそれを無視した。引き止めるように伸ばされた手を避けるようにして、数歩離れた先で再び壁に背を預けた。

 取り付く島もないランタンの対応に対話を諦める人間はこれだけで諦めるだろうし、そうでない人間はどれほど逃げても追いかけてくる。ランタンは表情を凍りつかせたまま、再び視線をリリオンに向けた。受付で背中を丸めて何かを書いている。もう少し時間はかかりそうだ。

「無視しなくたっていいじゃねぇか?」

 ランタンの名を呼んだ男は諦めない人間だったらしい。

 ランタンは渋々そちらに視線を向けた。男はランタンを知っているようだったがランタンは男の姿に見覚えがなかったが、ランタンにとっては慣れた事だった。

 男はくすんだ金髪を刈り上げていて、広い額を隠すように緑色のバンダナを巻いていた。バンダナが浅く膨らんでいるのは中に金属板を仕込んでいるからだろう。顎の下に髪と同じ色の短い髭を蓄えている。

 バンダナ男は心臓や脇腹などを金属で補強した革の軽鎧を身につけており、腰に幅広の曲刀を下げていた。三十歳前後だろうか、探索者と言うよりは山賊のような風体だった。

 バンダナ男は視線を向けたランタンに牙を剥くように笑いかけた。黄色い歯にランタンは渋い表情をいっそう渋くし、一歩近づかれたので一歩離れた。

「何かご用ですか?」

 声は顔ほど渋くはない。ただ明確な壁を感じさせるような素っ気無さを多分に含んでいる。バンダナ男はランタンに伸ばした手を引っ込めて、やれやれといったように肩を竦めた。しかしその浮薄な仕草とは裏腹にランタンを見つめる視線は粘つき、泥のような質量を感じさせた。

「ご用ですか、ってことはねぇだろう?」

 バンダナ男は唇に笑みを張り付かせたまま言った。

 ここが下街ならば喧嘩を売ってきたということにして臨戦態勢を取ればいいので楽なのだが、ギルドの建物内でただ話しかけてきた相手にそんなことをして騒ぎを起こせば罰則が課せられてしまう。

 残念ながらランタンに取れる手段は無視か、対話しかない。

「何か、ご用ですか?」

 ランタンは冷淡に先ほどと同じ言葉を繰り返した。

 バンダナ男の用事は察しがついていたが、わざわざランタンの方から話題を振ってやらなければならない(いわ)れはないのだ。それにバンダナ男が気分を害して去ってくれるのならば御の字だ、とも思っていた。

 しかしバンダナ男はランタンの挑発的な態度を面白がるように頬を歪めただけだった。

「うあっはっは」

 バンダナ男が大きく口を開けて笑い唾が飛んだ。ランタンは酸の息吹(アシッドブレス)でも躱すように大げさにそれを避けたがバンダナ男は気にした様子もない。

「なぁランタン、どうだウチの探索班(パーティ)に入らねぇか?」

 続けて提示された用事はランタンの予想した通りのものだった。

 ここ何ヶ月かは遠巻きにされていたが、それ以前のランタンはよく勧誘されたものだ。言葉の差異はあれど予測された台詞に、かつてはそれを吐き出す機械のようになっていたランタンは何ヶ月かのブランクを感じさせず言葉を吐いた。

「ごめんなさい。お断りさせていただきます」

 一考する素振りも見せず、ランタンはにべもなく断ったがバンダナ男は引き下がらなかった。

 壁にどんと片手を伸ばしてランタンが逃げ出せないように退路を塞いで、女を口説くように詰め寄ってきた。軽鎧はきちんと整備されていたが、半袖の袖口の隙間から縮れた腋毛が覗いている。二の腕は筋肉が張ってよく鍛えられていたが、筋肉に刻まれた深い彫りや肘関節に垢が浮いていた。

「嫌です」

 ランタンは壁に預けていた背を、いっそ壁に同化するほどに貼り付けておぞましく頬を震わせていた。黄色い歯の間から舌苔の密集する白い舌が見え隠れしている。ランタンの言葉が喉に張り付くように引きつったのは、鼻呼吸を止めたからだ。

「無理です」

 ランタンの素振りは鋼鉄の処女(アイアンメイデン)のように頑なだったが、バンダナ男の目にはそれがただの初心な乙女(ヴァージン)のように映ったらしく、バンダナ男は更に勧誘の強引さを増した。

 必死であるバンダナ男の心理も理解できなくはない。

 多くの探索班は常に前衛戦力を求めている。

 深く険しい迷宮の探索は万全の状態を期して行われるが、それでもやはり万事が上手く行くわけではない。

 迷宮の経路に仕込まれた天然罠や、魔物との戦闘などによって班員(メンバー)が怪我を負うことは往々にしてあり、熟練の探索者であっても避けられないものは避けられない。

 即死以外の怪我は魔道薬やあるいは治癒魔道によって治療可能であるが、全ての探索班が瀕死の怪我を癒すほどの恐ろしく高価な高品質の魔道薬を購入できるわけではなく、また死の淵にある生命を引き寄せることを可能とする治癒魔道士は希少であり、そんな人員を抱え込むことのできる探索班は滅多に存在しない。

 はっきり言ってしまえば前衛戦力は消耗品である。

 迷宮内で命を落とすこともあれば、命はあろうとも四肢の欠損などの不可逆的な傷を身体に負えば探索者としての仕事を行うことはほぼ不可能と言ってもよく、また廃業の要因となる傷は肉体的なものばかりではなく精神的なものに由来することも多々ある。

 それは一人前に程遠い新人探索者ばかりの話ではなく、多くの探索を繰り返し心身ともに強靭になった探索者であっても逃れられない呪いのようなものだった。

 前衛戦力は常に不足しているというわけではないが、常にそれを失う可能性を有している。

 その備えが探索者見習いの運び屋(ポーター)である。

 探索班に所属する探索者が増えれば増えるほど利益は頭割りに少なくなってゆくので、余剰戦力を抱え込むということは少ない。故にいずれ失われるであろう前衛戦力の予備として探索者見習いを一定の給金で雇い、育てるのである。

 そうして雇われた探索者見習いは予備らしくその探索班で失われた探索者の代わりになることもあれば、あるいは衰えた探索者に取って代わることもある。また別の探索班に欠員が出た場合に金銭を以って取引される。

 探索班に欠員が出ずに、見習いと言う名の尻尾が取れたのならば独り立ちをすることもあるだろうし、そういった探索者が集ってまた新たな探索班は生まれる。

 とは言え、そのように悠長に探索者見習いを育てている暇などない場合の方が多い。戦力が失われる場合は不意であり、一瞬である。そして迷宮から引き返す、――逃げ帰るような不測の事態が起こったとき失われた探索者が一人で済めばそれは幸運と言ってよかった。

 探索に足る戦力がなければ、探索者見習いを育てることもできない。

 多くの探索班は即戦力となる戦力を求めている。

 それもできることならば若く、実力が確かで、金に卑しくなく、人間性も良い、完全なる探索者を。

 だが、そんな探索者は伝説の中にさえ存在しない。

 若ければ経験が足りず、経験は実力に直結する。実力が確かならば金銭の大切さを知悉(ちしつ)している。そして人間性が良ければ既にどこかの探索班に所属しているか、そもそも探索者などという職業に所属していない。

 そんな中でランタンは珍しくも若く、いくつもの迷宮を単独攻略した実績を引っさげていた。人間性は外面から察することしかできなかったが、ランタンは少なくとも卑しい顔つきなどはしておらず、探索帰りであったとしてもなんとなく清潔感があってお上品な感じがした。

 それに単独(ソロ)探索者というのもランタンの価値を釣り上げる要因だった。

 即戦力の補充を求める場合、その多くは他の探索班からの引き抜きである場合がほとんどだった。迷宮の林立するこの都市では使える探索者を遊ばせるような余裕はないのだから、戦力として数えることのできる探索者はすでに探索班に所属している。

 例えばそこに班員(メンバー)間での人間関係の軋轢や、あるいは金銭関係などの問題(トラブル)で揉め事が起こっている場合は厄介払いの体でスムーズに移籍が決まるが、大抵は現所属よりも好条件であること、大抵は利益の分配率つまりは稼ぎがいいことを餌に引き抜くのだ。

 金貨の輝きに目が眩むのは仕方のないことだ。それだけ自分の価値を認めてくれているということなのだから。

 だが引き抜かれた探索班からしてみればたまったものではない。

 引き抜きは戦力の低下を意味し、戦力の低下はそのまま稼ぎの減少へと通じる一本道である。利益が減少すれば生活の質を落とすこととなり、生活の質の低下は苛立ちへとつながる。苛立ちはそのまま人間関係に悪影響を及ぼし、仲良しこよしの探索班であっても散り散りになって各個、別の探索班に吸収されるということなりかねない。

 なので引き抜かれる側の探索班は、可能な限りそれを阻止しようとする。相手方から提示された条件と同等かそれ以上の条件を提示し、あるいは今まで苦楽を共にした経験から発生する人情に働きかけて引き止めを行う。

 だが無事に引き止められたからといって、一件落着というわけではない。最低でも引き抜かれる側と引き抜く側の探索班間には軋轢(あつれき)が生まれ、血の気の多い探索者同士の軋轢は火の着いた導火線と言い換えても差し支えなかった。なまじ戦闘力があるものだから、小競り合いが殺し合いに発展しかねない。

 人間関係とは無縁な傭兵探索者もいるが奴らはその多くが守銭奴で、それを恒常的に雇うことはまずない。

 探索者の移籍には様々な問題が付随するのだ。

 その点、単独探索者(ランタン)にはそう言った問題とは無縁だった。

「なぁ、いいじゃねぇか! 探索も今よりもずっと楽になるぜ!」

 男の大きな声にランタンは顔を顰めた。大げさな身振りで振り回した手が鬱陶しい。腕の先にくっついている手がゴツゴツとして、爪は白い部分が長く伸びていて間に黒い汚れが挟まっている。ランタンはそこから目を逸らすように視線を下げた。

 この男と一緒にいることで何か楽になるようなことは確実に無いとランタンには断言できた。現に、文字通り息が詰まる思いだった。

 ランタンは完全に横を向いて視界から男を外し、肺の中で淀んでいる空気を入れ替えるように大きく深呼吸をした。

 その視線を外した一瞬に、バンダナ男の手が肩を抱こうとするようにランタンへと伸びた。首元へと向かってくる手をランタンは避けるよりも先に、反射的に身体が動いていた。バンダナ男の手首を取って、肘を、肩を捩じ切ってやる。ランタンの手が鎌首をもたげる蛇のように静かに狙いを定めた。

「――やめたまえ」

 だが、ランタンがバンダナ男の腕を破壊することはなかった。

 ランタンの物ではない手がバンダナ男の腕を掴んで止めたのだ。ランタンは一歩分バンダナ男の間合いから離れた。

 バンダナ男の腕を掴む、その手には磨かれた銀の篭手が嵌められている。ランタンはその手から腕を伝って顔まで視線を(さかのぼ)った。

「嫌がっているじゃないか、まったく――」

 銀の篭手から伸びる指は白く、けれど剣を扱うに相応しく節立っていた。だが爪が綺麗に切り揃えられているせいかスラリとして見える。篭手と揃いの銀の腕鎧は鏡のように磨かれており、顔までを防御するように立ち上がった左の肩鎧には精緻な浮き彫り(レリーフ)が施されていた。

「――大丈夫かい?」

 バンダナ男の腕を掴みながらもランタンを気遣う声は甘く、その顔もまた甘い。

 後ろに流した濃い栗色の長髪が波打っていて、額に一房いやらしく垂れている。パッチリと二重で髪と同じ色の瞳が、上下ともに長い睫毛の間で微笑んでいた。鼻梁が細高く、顎も細いが軟弱な雰囲気がないのは口が大きくて唇に野性味のある表情を携えているからだろう。

「ええ、どうも、ありがとうございます」

 そこらへんの町娘ならば目を奪われるようなハンサムな男だが、そのほほ笑みもランタンには無価値である。だが助けてくれたことには感謝していた。ハンサム男が来なければ、今頃は屈強な武装職員にバンダナ男共々地面に組み伏せられていたかもしれない。

 ランタンは頭を下げてハンサム男に礼を言い、ついでに磨かれた銀の鎧に自分の表情を映した。

 バンダナ男とのやり取りは十分に満たない程度でだったか、まるで三日間飲まず食わずであったかのように目が落ち窪んでいる。唇の端が乾いて、少し罅割れているのは口呼吸をしていたせいだろう。

「んだっ、テメェ! 関係ないやつはスっこんでろよ!」

「いいや、関係なくなんかはないさ。私は前からランタンくんに声を掛けていたんだ」

「なんだと! 俺だってそうだ!」

 頭上で飛び交う応酬にランタンは小首を傾げ、ちらりと瞳だけを動かして二人を見上げた。どちらにもランタンを勧誘した過去があるらしいのだが、ランタンにはさっぱり二人の記憶はなかった。

 いや二人どころか、とランタンは過去を思い出そうとしてそれを諦めた。

 過去、ランタンを自らの主催する探索班に勧誘した探索者は多くいたが、ランタンはその殆どを覚えてはいなかった。もともとそれほど記憶力の良い方ではないし、探索者を一人一人抜き出して見れば強烈な個性が目に付くのだが、その数が増えてゆけばゆくほどに個性は(なら)されてゆき、ランタンは個人を区別しうる差異を見失ったのだ。

 当時はひっきりなしの勧誘にうんざりしていたり、そもそも他人の顔を覚えるほどの余裕をランタンは持ち合わせていなかった。そしてそれは今もそうである。

 久々の勧誘にはうんざりしていて、余裕もなかった。

 ランタンは視線を巡らせてリリオンの姿を探した。リリオンは受付台の上で空になった金貨袋を畳んでいる。振込が済んだのではなく、職員が金貨の枚数やそれが偽造金貨ではないことを調べていてリリオンは暇なのだろう。羨ましいことだ、とランタンは拗ねながら視線を戻した。

 男たちは未だに言い争っており、ランタンから意識が逸れていた。この機を逃す手はない。ランタンは二人を注視しながら、静かにすり足で場を離れようとした。

 だが悲しいかな、その試みは何かに阻まれてしまった。

「ぶ」

 猫が透明なガラスに気づかずに悠然と歩み寄りそのまま頭をぶつけるように、ランタンは自らの頬を何かに押し付けてしまった。それは固く冷たく、やや丸みを帯びていて脂と血の臭いがした。板金鎧(プレートメイル)だ。

「ごめんなさい」

 ぶつかった相手にランタンはまず謝って、それから顔を見た。

 それは突き出た鼻と、口から(こぼ)れる二本牙の(たくま)しい猪人族の男だった。濃い茶色の髪から三角系の耳がピンと頭上に立っていて、ランタンが見上げると意識するようにぴくぴくと震えた。

「いや、こちらも申し訳ない」

 謝ったランタンに猪男はゆっくりと首を振った。

「だがこれも何かの縁だ、よかったら向こうで話さないか?」

 牙も剥き出しの荒々しい顔だが猪男の声は艶のあるテノールだった。猪男は女をエスコートするようにそっとランタンの背中に手を添え、ごく自然にロビーの奥にあるラウンジへ導こうとした。服越しにも猪男の岩のように硬い掌の感触が伝わってくる。猪男の腰には両刃の手斧が二振り抜身でぶら下がっていて、がちゃがちゃと音を立てていた。

「おいおい、テメェ自分からぶつかっておいて白々しい!」

 手斧の擦過音を払いのけて、ハスキーな声が飛び込んできた。ランタンの背に添えられていた手が払われ、別の手がそこに収まった。

 ランタンは古いブリキの玩具のように重たげに首を回した。

 猪男の岩のような手に変わってランタンの背を支えた手は、指先まで白く短い毛に覆われていた。形良く尖った爪にピンク色のマニキュアを塗っている。

 猫人族の女だ。ランタンは猫という愛らしいものではない虎や獅子を思わせる野性的な雰囲気の漂う猫女の顔を見上げた。

 短毛種の白猫をそのまま人の金型にはめ込んだような猫女は瞳孔の縦に割れた目をランタンに向けて柔らかく微笑んだ。だがどうしてもその直前に猪男を睨みつけた苛烈な視線がちらついてしまい、ランタンはただ愛想笑いを浮かべた。微笑んだ猫女の口からは太い針のような犬歯が覗いている。隙を見せれば喰われそうだ。

「ねぇランタン」

 猫女は少し掠れた甘い声で名前を呼んだ。

「あそこに班員がいるんだ。一緒にお茶でもしないかい?」

 顎をしゃくってみせた猫女の視線の先には、三人の女探索者がいた。ランタンが視線を向けると優雅に手を振って見せる。人族が二人と、猫人族が一人。目の前の猫女からは年齢を推し量ることはできなかったが人族と同年代だとすると二十半ばぐらいだろうか。

 大人の女性からのお誘いは男どもの誘いよりは魅力的だったが、その誘いを受けるつもりは毛頭なかった。猪男のお話も、猫女のお茶も、その先に待っているのは悪徳商法のような勧誘であることは明白だった。

 勧誘をしてきた人間の顔は覚えていないが、見えない縄に拘束されるような苦痛の時間はよく覚えている。ランタンはこっそりと手首をさすった。

「ねぇどうだい? あの女にいったい幾らで雇われたのかは知らないけど、うちに来ればもっといい思いをさせてあげるよ」

 曖昧な表情を浮かべるばかりで煮え切らないランタンに、猫女の尻尾が大胆にランタンの太腿に絡みつき内腿を挑発的に擽った。

「やめてください」

 ランタンはそっけない素振(そぶ)りで尻尾を払ったが、正確に言うならば引き剥がしたと言うのが正しい。猫女の白い尻尾は靭やかに見えたが、まるで大百足(おおむかで)のようにランタンの太腿にしがみついていた。

 猫女が言ったあの女とはリリオンのことだろう。

 リリオンは身長だけは一人前にあるので少女ではなく女性だと思われているようだった。勧誘者たちはランタンとリリオンの関係を雇用者と被雇用者だと勘違いしている。リリオンがランタンを案内役(ガイド)指導教官(インストラクター)として雇ったのだ、と。

 そして今まで頑なだったランタンが何処ぞの誰かに雇われたという、その変化に勧誘の可能性を見出したのだろう。

 予想はしていたことだが、予想よりも動き出しが早い。ランタンは眉間に皺を刻んだ。

 ――僕はあの子と探索班を組んだので、あなた方とは組めません。

 リリオンをちょっと指さしてそう言えば場を切り抜ける理由になる。ランタンはそう思っていたし、この勧誘を予想した時に言い訳のセリフを頭の中で何度か繰り返した。だがいざその場面になったら、それを口にすることができなかった。

 それはまるでリリオンを言い訳に、生贄にするかのような行いに思えたのだ。

「おいっ! 後からしゃしゃり出て好き勝手言ってんじゃねぇぞ!」

「きみはもう()られたんだ諦めるんだな。そしてきみたちも」

「ふんっ貴様のような惰弱な男が随分と偉そうにものを言う」

「はっ、このホモ野郎どもが。男娼(ガキ)が欲しいんなら色町にでも行きなっ!」

 ランタンが口篭っていると勧誘者たちは次第に声を荒げ、表情を歪めて言い争いを過熱させはじめた。相手を出し抜くよりも、蹴落とす方を選んだのだろう。そして罵声はギルド建物内に敷かれた防音魔道から漏れるほどに大きく響いた。

 ロビーにある視線が集まるのを感じた。

 そして地面に落ちた硬貨の音色に貧者が集うように、わらわらと探索者たちが集まってきた。なんだなんだとニヤつくような野次馬もいたが、ランタンの姿を見つけると乗り遅れたとばかりに口論に身を躍らせる者もいた。

 ランタンを求める者は多かった。探索者としての実力を買っている者も、単独探索者を麾下(きか)に加えることに価値を見出している者もいた。ランタンはすっかり探索者に取り囲まれてしまった。

 その人の壁の隙間からリリオンの姿が見えた。

 リリオンは探索者の集団から離れて立ち竦んでいた。縋り付くように空の金貨袋を握りしめて、囲まれるランタンを見つめていた。唇を噛んで黙っていて、瞳が重たくなったようにゆっくりと俯いている。

 ちゃんとできたんだね。よくやったね、と撫でることはできなかった。

 ランタンは押し寄せ、渦を巻くような探索者の波に飲み込まれてしまった。

 

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