227 ☆
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地上に戻り、領主館から充分に距離を取ってルーと別れた。
ルーは主であるアシュレイの居館へと帰っていった。ランタンたちも、ルーもいつ帰れるかわからないと事前に告げてはいたが、それでも日を跨ぐなどとは思っていなかった。
別れ際にルーから、いつか遊びに来てアシュレイに顔を見せてくれ、と頼まれた。
その内、食事でもたかりに行こうと思う。
空腹だった。
氷室のように低温の場所に、何十分もこもっていた所為だった。体温を上げるために肉体が、体力を削って熱を生み出していた。
アシュレイの居館は領主館と同じくティルナバン北部の高級住宅街に建っているが、郊外に近い古い区画に居を構えていた。
領主館は高台にあり、その裏手からは館を囲む深い緑と、争いの時代の名残である尖塔の先を目にすることができる。一見すると森に囲まれた古城といった趣であるが、領主館と比べると遥かにこぢんまりとしている。
王族の血脈の住処にしては普通だった。
そう思えるのはランタンたちが暮らすネイリングの屋敷が立派であるからだし、すぐ側で見る領主館が極めて威圧的であるからかもしれない。
領主館は二重の堀と人工林で囲まれており、林の中には見張りと番犬が巡回している。
ランタンたちは木々に登り、木からまた別の木へと猿か、はたまた鳥のように移動してこれに見つからず林を抜けた。ルーがいなかったら、発見されていたかもしれない。
なにせリリオンとリリララがすっかり役立たずになっているからだった。
リリオンは夜も遅いのでもう眠気の頂点にあった。歩いている間は大丈夫だったのだが、地中に埋もれてじっとしている間に、リリオンの子供の部分が顔を出した。
家に帰るまでが探索だと言いつけてきたが、まあ仕方がないだろう。迷宮探索とはまったく勝手が違ったのだから、集中力が途切れるのも理解できる。
ランタンの集中の糸も、もう擦り切れる寸前だった。
リリララに至っては集中の糸は完全に切断されて、それどころか半死半生の状態だった。
地下、おそらく百メートル以上の深くから、地上へ向かって凍り付き、圧縮された土を魔道で掘り進んだ所為だった。
ただ邪魔な土を避けるだけの単純作業ではない。
四人が存在する空間が崩落に巻き込まれて生き埋めにならないように、周辺を強化しつつ、上に空間を広げた分だけ、足元をかさ上げして四人を地上に押し上げたのだ。
魔道による土木工事は効率的だが、それが戦時や災害時など限定された状態にのみ使用されるのは、魔道使いの消耗が著しいからだった。炎や水を生み出す他の魔道と違い、すでにあるものを操作することは特段に集中力を要する。
そして更にサラス伯爵の騎士二人の重圧にも耐えなければならなかった。リリララは文句なしに一流の魔道使いだが、鏡面の騎士シーリアはその上をゆく。
あの冷気、今でもぞくりとする。
リリララが選択肢を間違え、逃走ではなく戦闘を選んでいたとしたらと思うとぞっとする。見つからなかったのは奇跡的だ。
リリララは屍蝋のように肌を青ざめさせ、ぐったりとしてリリオンに抱かれている。魔精薬の濫用と、魔道の過剰行使による弊害は甚だ大きい。
領主館の地下でリリララは何を見たのだろうか。はたして目が覚めた時、それを憶えているだろうか。それほどに消耗していた。
迷宮であれば、空間内の魔精濃度が高いためにこれほど酷い結果にはならないのだが。
「……地上の迷宮化、か」
古道や領主館の地下は、ある意味迷宮のようであっても、しかし迷宮ではないのだ。
まだ。今は。
ランタンは胸騒ぎの理由を求めるように領主館の威容を振り返り、リリオンの手を強く握った。
リリオンは片腕でリリララをしっかりと抱き上げているが、ランタンが手を引かなければ歩かなかった。
ランタンはぐずる子供を急かすみたいに、少し強引に手を引いて早足に歩いた。ランタンの早足は、リリオンの普通の一歩だが、眠りかけている今はちょうどよい。
時間も時間であり、さすがに人の通りはないが、ちらほらと夜警が立っている。林の中にいた連中とは、種類か部署か、そういったものが違う連中だった。
こんな時間に高級住宅街を探索者がうろついていれば、けんもほろろに追い返されるか、泥棒や強盗の嫌疑をかけられてしょっ引かれた挙げ句、二、三日牢にぶち込まれたりもするのだが、さすがにランタンたちがネイリングの客分であることを知らない者はもういなかった。
途中で馬車でも拾えればよかったが、さすがにこんな時間に客を待っているような馬車はいなかった。馬だって眠っているだろう。
しかし屋敷の窓からは光が溢れていた。
探索帰りならば裏門から入るのだが、明かりもついていることだし不寝番をしている門番に門を開けさせ表から入った。
大げさなことにメイドが三人の帰還を待ちわびていた。
くたくたになった三人を見て、驚きと安堵の表情を見せる。死んだと思った人間が帰ってきたみたいに。
メイドの一人はスカートを翻して、大急ぎにレティシアの元へ駆けていった。
リリララを別のメイドに任せる。二人がかりで上半身と下半身を持ち上げて医務室へと運んでいった。本当に死体を運んでいるみたいだった。
また別のメイドはランタンとリリオンから外套や荷物を受け取って、風呂の用意ができていることを告げた。
「ああ、ちょっと待って」
ランタンはメイドに渡した背嚢の中から不定型生物を捕まえた瓶を取り出した。不思議そうな表情をしたメイドが、その内容物が動き出したのを見てぎょっとする。
「大丈夫だから。風呂の用意ありがとう、でもその前にレティに会うよ」
「ご心配をしておりました」
「うん、でもこの子はお願い」
目蓋も半分落ちかけているリリオンをメイドに任せようとしたが、少女はしなだれかかるようにランタンの腕に抱きついた。
土の匂いと汗の匂いと香の匂いが混じって、喉に張り付くような埃っぽい臭いになっている。
「んーん」
甘えるように呻く。
「嘘。僕がやるからいいや。ありがとう。リリオン」
ランタンの心を読んだみたいにリリオンは首を横に振った。ランタンは、そうか、と頷く。
「レティはどこ?」
メイドの目が優しくなって、ランタンは視線を逸らした。
「大食堂に。皆さまとご一緒でございます」
「食堂?」
「――しょくどう」
リリオンが寝言みたいに繰り返した。
大食堂。なぜこんな時間に。それに皆さまと一緒にとはどういうことだろう。
リリオンが食堂という言葉に反応して歩き出した。
眠たく、しかし空腹で、半分眠っているので理性よりも欲望によって肉体が動いているのかもしれない。
くっついているところから少女の腹の虫がぐるぐると喚き散らしているのが感じられる。
腹を撫でてやってもそれは治まらない。
大食堂では、まさにその場所が使用されるに相応しい大晩餐会とでもいうものが開催されていた。
喧噪と、食器の擦れる音、そしてなんとも美味そうな匂いに満ちている。
朝、レティシアと一緒に出かけていった老家臣たちが、常ならば寄る年波に負けて眠りについている頃だろうに、まるで戦の前の若武者のように料理を貪っていた。
ついに老人性の痴呆でも始まって、戦場に出ていた頃まで退行してしまったのか、それとも理性の箍が外れてしまったのだろうか。
ランタンは暴食の宴に眉を顰める。
ランタンに幾十もの老人たちの視線が注がれる。あるいはリリオンに。
ランタンも多少は眠たかったが、その眠気が吹き飛んだ。リリオンもはっと目を開いてランタンの背中に隠れた。
どこからか気まずそうな咳払いが聞こえる。リリオンがおずおずと顔を出し、眠たそうに瞬きを繰り返し、再びランタンの背中に隠れた。
視線に物理的な圧力があるようだった。数の問題ではなく、老人たちの怒りや苛立ちの所為だと思われる。
「ただいま」
「おかえり」
レティシアは老人たちの中にいた。長机を組み合わせて四角形が作られていて、一番奥に座っていた。
「リリララも一緒だったよ。ちょっと疲れたみたいだから、寝かせてる」
「ああ、聞いている」
老人たちに囲まれるレティシアはちょっと野盗の親玉のような風格があった。
傍らに食べかけの巨大な骨付き肉があるからだろうか。唇が脂に濡れててかてかしており、絹の衣の袖口にそれを拭ったのだろうべったりと染みがついている。
「なんにせよ、無事に帰ってきてくれて嬉しい。怪我はないか?」
「ご覧の通り」
ランタンは戯けるように腕を広げた。十本の指、二本の腕、二本の足。何一つとして欠けていない。背後にはリリオンもいる。
レティシアは大きく頷いた。
「これ。お土産。鉄砲と、不定型生物。あ、あと」
ランタンは振り返って、リリオンのズボンのポケットに手を突っ込んだ。体温で生暖かく、少し湿っていた。ランタンが遠慮無くがさごそ漁ると、少女は尿意を我慢するみたいに内腿を擦りあわせた。
「動くな。あ、あった。これ、謎の肥料」
食堂の片隅で大人しくしていたベリレが率先して側にやってきて、ランタンの手から土産を受け取り、レティシアの元へ届ける。
レティシアは興味深そうに瓶を光に透かせた。不定型生物は、瓶の底にへばり付いている。
「これは、貧民街で?」
「鉄砲と肥料はそう。不定型生物は、人の身体の中から。もちろん貧民街の」
「何があった」
「人気のない迷路状な貧民街と、謎の塔と、大規模な武器工場と、不定型生物に寄生されてる労働者と地下五十から百メートルぐらいのところに張り巡らされてる地下道と、狂信者と、教会と、魔物と、領主館地下でのリリララとの再会。そっちは?」
ランタンは捲し立てて、あらためて大食堂の惨状を一瞥した。
「この有様は何? お食事会じゃなかったの? こんな時間に脂っぽいもの食べたら太るし、肌も荒れるよ。おじいさま方も、いつもあっさりしたもの食べたいあっさりしたもの食べたいって食事係の人を困らせてるのに、ずいぶん食欲旺盛なことで」
胸焼けになっても知らないよ。
ランタンはテーブルにあった、誰かの飲み止しのグラスを呷った。微発泡する酒だった。温くなっているが、口当たりが軽く、すっきりとした味わいだった。だが空きっ腹に響く。
「食事は出たが手はつけなかったんだ。ランタンも、よかったらどうだ?」
食料庫を空にしそうな勢いで、料理が運ばれてきていた。
レティシアは食べかけの骨付き肉に噛み付いた。みしみしと言わせながら骨から肉を剥ぎ取る。骨には血が滴っている。かなり生っぽいがレティシアは気にした様子もない。それどころか頬に跳ねた肉汁が下品にならない獣のような美しさがあった。
いい食べっぷりだった。リリオンがそれに触発されたみたいに手近にある肉の塊を手に取った。そしてがぶがぶと食らいつき、汚れた指をしゃぶった。
レティシアのそれと比べると天と地の差のある振る舞いだが、ランタンにはそれさえも微笑ましく見える。二人っきりだったら、少女の指を舐めていたかもしれない。
「嫌いな物でも出された?」
「いや、豪勢なものだったよ。だが少しばかり話が違ってな。我らとブリューズ王子の会食ではなかったのだ」
「と、言うと?」
「――あんの若造がなめくさりおってからに!」
老家臣の一人が、老人斑の浮かんだ額にびきびきと筋を浮かび上がらせてテーブルを叩いた。
食器が飛び上がってがしゃんと音を立てて、酒瓶が踊りを踊るみたいにぐるんぐるんと回転し、テーブルから身を投げた。絨毯の上で瓶がごとんと鈍い音を立てる。中身はほとんど飲み尽くされているらしく、赤い滴が瓶の口から数滴跳ねただけだった。
「落ち着け。――まあ、いわゆる代行官派の貴族が勢揃いしていたわけだ。奇襲をかけたつもりが、準備万端で迎え撃たれた。なかなか悔しいものだな、これは。――しかし解せんことも幾つかある。議員貴族どもはさておき、周辺領主たちはいつティルナバン入りした?」
「僕に聞かないでよ。お腹空いて苛ついてるの?」
ランタンが嘯くとレティシアは口元を緩めた。
「地下で貴族には会わなかったか? 狂信者でも、死んでもいない奴だぞ」
「ちょっと見なかったかな」
「そうか、だが詳しく話を聞かせてもらえるか?」
「いいよ。でもリリオンを寝かしてからね」
ランタンはリリオンを振り返る。
少女は口の中いっぱいに肉を頬張っており、破裂しそうに膨らんだ頬をランタンは強く押した。リリオンがごくんと頬袋の中身を飲み込んだ。ほっそりとした頬を内側から舌が撫でている。
「かまわない。なんなら明日、……いや今日の朝からでもよいが」
「一度、寝たら昼過ぎまで起きれないよ。夜更かしだもん」
「そうか。なら本当に明日にでもするか?」
「風呂から出て、ダメそうならそうする」
レティシアは頷く。
ランタンは肩を竦めて、涎塗れのリリオンの手を取った。
「ほら、寝るならベッドで。立ったまま寝るなよ、どうせ倒れて横になるんだから」
「んー、んぅ……、まだ、ねない」
「もう寝てるよ。七割ぐらい」
「でも、……おふろ、はいらないと」
「確かに汚れたけれど」
「はいらないと、きらわれちゃうから」
ランタンに、と続いた言葉は夢の中で呟かれた。
少女の目蓋は閉ざされている。
眉間や目蓋に、薄い緑色の血管が浮いていた。長い睫毛が時折、震える。
「寝てる?」
「おきてる」
どうにか、と言うように目蓋が持ち上げられ、淡褐色の眼差しがランタンを見つめる。
「ぬがしてくれる?」
「じゃあ両手挙げて」
ランタンが言うと、リリオンは重たげに両手を挙げて、言ってもいないのにお辞儀をするように頭を下げた。
ランタンは慣れた手つきでボタンを外し、上着を脱がせる。その下に着ている肌着が少女の膨らみも露わに肌に張り付いていた。汗でほんのり湿っている。それを腕から抜いてやり、身体を撫でると汗が冷えて冷たく、べたべたしていた。
あの冷気の冷たさであり、リリララの冷たさでもある。
白い腋をくすぐると、リリオンは腕を引っ込めた。
ランタンは視線を降ろし、ズボンからベルトを抜いた。
「肩に掴まって。右足、次は左。こっちこっち、右足二本生えてないだろ」
皮膚の一部みたいになっている靴下を引きずり下ろして、下着を丸めて洗い物入れに放り投げ、リリオンをすっかり裸に剥くとランタンもまた一糸纏わぬ姿になった。
リリオンの目蓋が、その時はっきりと持ち上がる。ランタンはそんなことには気が付かず、ああ髪を纏めないと、などと独り言を呟いてあまりにも無防備に少女の髪を纏めてやった。
「よし、――あれ、起きてる?」
「おきてるよ、ずっと」
リリオンはランタンにくっつく。ランタンの肌も汗でべたべたしていた。二人の肌が吸い付くように張り付く。それは妙な感覚だった。
「ちょっと、転ぶよ」
「へーき」
背中を押されるように浴室へ入った。
湯気に濡れたタイルは滑りそうだった。ランタンは背中に張り付くリリオンを横に引っ張りだし、その腰を抱いてやった。
古道の教会もタイル張りで、それを見た時も風呂場を思い出したが、ここと比べればやはり雲泥の差である。
寸分の狂いもなく貼り付けられたタイルの幾何学模様は、ちょっと酔っ払っている時に見たら天に召されそうなほど精緻だ。
教会のそれはもし素足で歩いたら足の裏がずたずたになりそうなほどだったが、ここではそんなことはない。
リリオンがタイルの床に腰掛けた。硝子に似た冷たさにリリオンの尻がきゅっとなり、身を竦ませる。
すらりとした太股、くの字に折り曲げられた膝に、丁寧に揃えられた白い脛、足先。なんだか優美な海の生き物のようだった。足首に巻き付く靴下の跡さえ、そういう鱗の模様に思える。
「はい、どーん!」
ランタンは手桶に汲んだ湯をリリオンにぶつけるみたいに浴びせた。
「わあ!」
さすがにリリオンも完全に目覚めたようで飛び上がる。
「なにするのよう」
「そのままだと溺れそうだったから。ほれ、洗ってやるからこっちは自分で」
ランタンはシャワーを手に取り、自分の足先で湯の温度を確かめる。冷水が、温水へと変わるまで二十秒と言ったところだった。充分に温かくなってからリリオンに手渡す。
リリオンはまず自分の顔にそれを浴びせた。ぎゅっと目を瞑り、そのまま片手で猫のように顔を洗い、それからそのままうがいをする。
鼻歌を歌いながら、身体に湯を浴びる。
ランタンはその余波に身体を濡らしながら、リリオンの身体を擦ってやった。
リリオンは嬉しそうに笑う。腋とか、脇腹とか、内股に手が触れると笑い声が堪えられないようで身を捩った。
慣れないなあ、とランタンは思う。
このすべすべした感じや、柔らかな手触りはどうにもランタンを落ち着かなくさせる。
一個の身体であるのに、場所によってそれぞれ柔らかさの質が違う。ふっくらしていたり、ふんわりしていたり、ふかふかしていたり、あるいはぷるんとしていたり。
腰の硬さと、尻の柔らかさの違いたるや。
「ここにはあんまり肉がついてないなあ」
「ほね」
「骨だね」
「ルーさんはやわらかそうだった」
「あ、これ尻尾の名残だ。んー、どういう進化の歴史を辿ってきているのか」
「わたしにも尻尾があるの?」
「ないよ。昔あった、んだと思う。すごく昔のご先祖さまには」
「なあんだ、尻尾があったらランタンはよろこんでくれるのに」
「あっても別に、よろこびはしないよ」
「そうかしら。よくベリレくんの尻尾を引っぱったりしてるじゃない」
「よろこんで引っ張ってるわけじゃないし」
「でも、わらってるよ。ランタン」
「ベリレは怒ってるだろ」
「怒られてもするんだから、好きなのよ。それが」
ランタンは纏めきれなかったリリオンの項の後れ毛を引っ張った。
「やあん、もう、なにするの」
もう一度。
「んーっ」
リリオンは振り返って、ちょっと目の端に涙を浮かべてランタンを睨む。
「しかたないじゃん。好きなんだもん」
目の端に浮いた滴は、シャワーの水滴だったのかもしれない。
「ランタンって」
「なに?」
「ちょっとずるいかもしれないって、ちょっとだけ思ったの」
リリオンが槍のように手を伸ばし、ランタンは海老みたいに逃げた。
「なんだよ」
「しかたないでしょ、わたしだって好きなんだもん。だからランタンの尻尾をひっぱるのよ」
「尻尾なんかない」
「生えてるじゃない。ほら」
「あほ」
リリオンはシャワーをランタンに向けて目潰しをした。ランタンが目を閉じた瞬間、跳ねるように立ち上がって、飛び掛かってきた。
シャワーを片手に。
「ぎゃん!」
ホースの長さを忘れていたのか、リリオンが繋がれた犬のように後ろにひっぱられた。その上、洗い流しきれなかった泡が少女の足を滑らせ、摩擦力がまったくなくなるほど磨き抜かれたタイルが少女を加速させた。
誰かに投げ飛ばされたみたいにリリオンが突っ込んでくる。
ランタンはそれを受け止め、しかし支えきれず二人まとめて湯船の中に転がり込んだ。手放されたシャワーが暴れ狂う蛇のようにのたうち回っている。がつん、がつんとタイルを叩き割ろうとする。
まずランタンが湯面から顔を出し、シャワーの放水を止めて、再び湯船に戻って沈むリリオンを引き上げる。リリオンは唇を突き出し、洗い場に向かってぴゅうと湯を吐き出した。
「風呂場で走るな。あぶないから」
「はあい」
「あと僕の尻尾らしきものも引っ張るな」
「どうして?」
「それは……あぶないからだよ。お互いにとって」
「かむ?」
「噛みはしないけど、……突き刺さったりするって言うし。特に女の子に」
「やさしくしてあげてもダメ?」
優しくされるとつけあがるらしいからな、とランタンは聞き覚えの知識を自信無さそうに、リリオンに聞こえないほどの声で囁いた。
なに、と聞き返してくるリリオンの声に被せるような、大きな声で言う。
「取り敢えず! 然るべき知識を取得し、然るべき時が来るまでこの話題は封印する。わかった?」
「わかった」
「じゃああったまろう。泡も流れたし」
「お湯よごしちゃった?」
リリオンの周りには、少女の身体に張り付いていた石鹸の泡が、芥子粒のように渦巻いている。
「この程度ならすぐに希釈されるだろう」
「きしゃく? ランタンって、むつかしいことを言うから困っちゃうわ」
「薄まるってことだよ。ほら、肩まで」
「わたし、およぐ」
「なんで」
「わかんない」
リリオンは一度肩まで浸かって、それから泳ぐというか漂いだした。仰向けになって、たまに思い出したように手足をばたつかせる。だがすぐにランタンに側に戻ってきて、まとわりつく。
身体を擦りつけたり、跨いだり、耳や肩を噛んだり、指を絡めたり、寄り掛かったり、尻尾を掴もうとしたり。
ランタンもそれに応戦して髪を引っ張ったり、頬を抓ったり、抱きついて湯の中にもろとも沈んだり、そのまま唇を奪われたりした。
それは眠気の山を通り過ぎたことによる一時的かつ衝動的な行動力だった。
二人はすぐに大人しくなった。
ランタンは湯船の縁にもたれかかりうつらうつらとして、リリオンはそんなランタンに覆い被さるみたいに体重を預け、完全に眠っていた。
ちゃぷちゃぷと湯面が波打つ音だけが聞こえてくる。二人の身体は液化の最中みたいに汗まみれになる。
ランタンもすっかりと湯の温かさと、触れ合う肉体の安心感に夢の中に誘われていた。
ランタンが目覚めた時、隣にはリリオンがいた。
二人ともきちんと寝衣を着用し、ベッドに寝かされていた。
もちろん昼を過ぎている。
自然な流れによる入浴シーン。
唐突ではない。




