211 ☆
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リリオンは笑ったかと思えば泣いて、泣いたかと思えばまた笑った。感情は右から左へと振り切れていた。
単独探索の後遺症だった。精神的に不安定になっているのだ。
早口で何かを捲し立てるのだが、会話にはならなかった。言葉の断片から、それが探索の話であることは理解できたが、どんな内容かは理解できなかった。
それはどことなくあの狂科学者ツァイリンガーを思わせる。頭に思い浮かんだ言葉を垂れ流しているに過ぎない。
この不安定さは固定されたものではない。少なくともランタンはそう思った。
リリオンはランタンからしがみついて離れなかった。なのでそのまま運んだ。ミシャに荷物を任せて、リリオンをお姫さまのように抱き上げて、ランタンは探索者ギルドへと人目も憚らず走った。
リリオンはその速さを楽しむようにきゃっきゃっと笑った。
そしてリリオンは薬で眠らされた。その間に治療を受け、屋敷へ運ばれて、目が覚めたのは二十時間以上あとのことだった。
リリオンは目覚めた直後から、まだ興奮していた。
あのね、あのね、とランタンの腕を掴んで離さず、やはり探索の思い出を捲し立てた。
昨日よりかなり正気に戻りつつある。もう一息という感じだった。
ふんふん、と鼻息を鳴らして、日に当たっていないからより白くなった頬を上気させて、涎で言葉をじゅくじゅくと言わせていた。
「うん、そうなんだ。がんばったんだね」
「うん。うん。それでね」
「ほら、ばんざいできる? いいよ、脱がしてあげる」
ランタンは要領を得ない、繰り返される言葉に辛抱強く頷きながら、リリオンを脱がしてやった。
リリオンが身に付けているのは手術着のようなものだ。ゆったりとしていて背中に四つのボタンがある。
ランタンが後ろに回ると、リリオンはランタンを視界から外さぬように首を動かした。
リリオンは起きてからずっと目の前から人が失われることを嫌がった。
「ほら、ちゃんといるから。大丈夫だよ」
ランタンは後ろから左腕でリリオンを抱きしめながら、右手だけで器用にボタンを外した。
単独探索の過酷さは、その肉体にありありと刻まれている。
頸椎、脊椎、腰椎。内側から飛び出そうとするように突起が浮かび上がっている。
リリオンはかなり痩せてしまっていた。削れてしまった、摩耗してしまったと言った方がいいかもしれない。それぐらいの急激な痩せ方だった。
鋭角な顎。華奢な首。浮かび上がった鎖骨と肋骨。萎んだ胸が膨らんで見えるほどぺたんこの腹。
「痛い?」
「ううん、平気、大丈夫よ。だってね、わたしね、ここにね、どんってされてもね、平気だったのよ!」
腹に大きな内出血がある。濃い紫色をしていて、触れるとリリオンは少し震える。
「すごいね」
「んふー! それでね! それでね!」
「お尻浮かせて、はい、みぎ、ひだりっと」
体重が落ちた身体を、リリオンは支えることが難しい。
座ったまま身体を傾けて、お尻のほっぺを順番に浮かせる。ランタンはするりと下着を抜き取って、少女の足をさすった。
筋肉が硬い。だが疲れているだけだ。痣はあるが、外傷はほとんどない。
ランタンはリリオンの爪先に口付けするみたいに、左の小指に触れた。爪がない。
どこかに落としたかな、と思わず足元を探し、ランタンは己の馬鹿さに呆れた。
いやリリオンと同様に、まだ不安定なのだ。
リリオンの到着予定時間を越した時、ランタンは迷宮に飛び込めなかった。はっきりと恐れたのだ。最悪の状況を確認してしまうことを。
爪はどうせ探索でなくしたのだ。そのせいで遅れたのかもしれない。しかし指がなくなるよりも百倍もましだ。指は生えてこないが爪ならば生えてくる。
一糸纏わぬリリオンをランタンは昨日と同様に抱き上げ、浴室へと運んだ。
屋敷で最も小さい浴室だった。それでももちろん足を伸ばせる湯船は薬湯で満たされている。
ランタンはあらかじめ用意しておいた椅子に少女を座らせる。
「それでね、わたしは狼と戦ったの! たくさんいたのよ。いっぱい! 千頭ぐらい! わーって、迷宮が埋まっちゃうぐらい!」
話半分に聞いても五百頭か、とランタンは聞き流しながらリリオンの髪を梳く。
迷宮環境による乾燥もあるのだろうが、リリオンの髪からは水分も脂っ気も酷く抜けている。高熱に炙られたのだろう波打ってうねり、櫛を入れる度に禿げ上がってしまうんじゃないかと心配になるほど抜けたり、切れたりした。
「でもね、わたしはぜんぜん平気だったの! やあっって、とりゃあって、よいっしょーって、狼をやっつけたのよ。こう! こうやって、こう! くるくるして、とんっ!」
「へえ、そうなんだ。すごいね」
ぜんぜんわからん。
興奮して身体を揺らすリリオンの肩をそっと掴んで大人しくさせる。
足元には無惨なほどリリオンの髪が散乱していた。ランタンは一通りリリオンの髪を梳ると、湯で床を流した。
「でもね、でもね。狼も必死なの! わたしをがぶがぶ食べちゃおうとするの! 口がね、こんなに大きいの? こーんな、こーんなに大きいのよ!」
「こわいねえ」
「こわくないよ!」
わんわんと浴室の天井の声が響いた。リリオンは自分の声の大きさに驚いたように、一瞬黙った。
「こわくないのか。すごいね」
「――うん、こわくないのよ。だってね、わたしにはね、ランタンがくれた結晶があったからね」
リリオンは再び興奮して喋り続ける。
ランタンはリリオンの正面に回った。タオルに濡らして、きつく絞る。そしてリリオンの顔を拭ってやった。
「目、閉じて」
がしがしと顔を拭いてやる。白い白いと思っていた顔も、しかしタオルがあっという間に黒くなるほど汚れている。
目元をほじくり返し、鼻筋を擦り下げ、ついでに洟をかんでやった。獣の毛と煤が混じった黒い鼻水が出た。タオルを丁寧に濯ぎ、唇を拭う。
「どかーんって、爆発が、どっかああんって」
ぐにぐにと唇が歪むが、リリオンはお構いなしにしゃべり続けている。
「でもね狼はまだ生きていてね、それでね、わたしはね、狼の首に噛み付いたの」
それには流石のランタンもびっくりした。
タオルの端を指に巻き付けて、少女の口の中に突っ込む。前歯から奥歯まで、歯の裏側から下の裏まで隅々まで磨き上げる。
「へね、わはしは、ほほかみほ、あうあうひへえ、ほほひをほんなほの」
「――口ゆすいで。ぐちゅぐちゅ、――飲むなよ。ぺっしなさない。もう一回。ぐちゅぐちゅ、ぺ」
タオルが青く染まれば、吐き出したものも薄く色づいている。
魔物の血を飲む。ランタンにもその経験はあった。どれほど渇いていてもあれはなかなか喉を通らない。
「魔物の血ってまずくない?」
「まずい」
温かく、どろりとして、臭いだとか鉄の味だと言うよりも、まずもって気持ちの悪い塩の味ばかりが舌先に思い出される。
水精結晶は充分に持たせたが、すべて使われてしまっていた。しかしリリオンのこれまでの話の中で水精結晶の大量利用はまだなかった。
右腕に穿たれた咬傷は、きっとその狼によるものだろうが、話の中のリリオンは狼を一方的に千切っては投げ千切っては投げ、英雄のような活躍によってこれを撃退している。
話半分、それとも十分の一か。
ランタンは内心苦笑する。
百分の一、ではさすがにかわいそうか。しかしこんなに上手く行くはずがないとランタンは思う。単独探索とはそういうものだし、リリオンの身体が過酷さを物語っている。
「なんだか懐かしいな」
ランタンが思わず呟く、リリオンは正気に返ったみたいに口を閉ざし、小首を傾げた。
「初めてお風呂入った時もこんな感じだったね」
ランタンはリリオンの唇を拭ってやり、懐に潜り込むように顔を近付け、少女の喉笛に鼻を押し当てた。
目を瞑って鼻から息を吸い込むと、下街のあの薄汚い一室を思い出さずにはいられない。
二人で入るには小さな湯船、罅と黴に侵された壁、天井と床に空いた穴。
がりがりに痩せこけた、酷く汚れた女の子。
初めはおっかなびっくり、次第にやけっぱちになって遠慮がなくなる男の子。
「獣のにおいがする」
「がおー」
「なにそれ?」
顔を離すと、赤らめたリリオンの顔が目に映った。
「身体、流すよ」
洗っていない体臭を嗅がれたことによる、女の子らしい恥じらいだった。
ランタンはそんなリリオンが可愛くて、手桶に湯を汲む振りをして後ろに回り込むと、少女の髪を持ち上げてその項に再び顔を寄せた。リリオンが身を捩ってそれを避ける。
「やだあ」
「どうして? リリオンがいつも僕にすることでしょ?」
リリオンの精神の一部は、まだ迷宮にあるのかもしれなかった。
ランタンは身体を捩るリリオンを掴まえて、少し強引に顔を押しつけ、聞こえるように鼻を鳴らした。リリオンはますます嫌がった。
くさい。洗っていない動物の臭いがする。
「だって、ランタンはいい匂いがするけど、わたし……」
「変な臭いはしないよ」
「だって、けもののにおいって、言った」
これが日常かと思えば少し笑えてくるが、こういったいつもの行動がリリオンを真に迷宮から日常へと引き戻すきっかけになった。
リリオンは振り返って、いじらしくランタンを睨み付ける。内股になって膝を閉じて、肩を丸めていた。それが精一杯の抵抗であるらしかった。
「もうしないで」
「しないから、前向いて」
「ほんとに?」
「ほんとう」
「本当にもうくんくんしない?」
リリオンは念を押して尋ねてくる。ランタンは尋ね返す。
「洗い終わったら、してもいい?」
「――それならいいわ」
ランタンは手桶に湯を汲んで、ゆっくりとリリオンの背中を濡らした。
「右腕は濡れないようにね」
「うん」
リリオンは右腕を前に伸ばして、それを左手で支えた。
一糸纏わぬリリオンだが、その右腕だけは装具で固定されている。
リリオンの右腕は、危うく切断しなければならいほど酷い有様だった。
骨が完全に砕けていて、それが硝子片のように肉に突き刺さり、溜まった血が腐りかけて、危うく壊死するところだった。
それをぎりぎり免れたのは、腕に穿たれた二つの穴のおかげだった。狼の咬傷である。
リリオンの腕からは血が流れ続けていた。咬傷は骨まで達していて、それが運良く腐った血を最低限だが排出したのだ。
しかしそれでもその腕が繋がっているのは奇跡的なことである。
外科的な処置だけでは骨は元通りにはならず、かといって魔道だけでもやはり骨は変形したまま固定されてしまう。
そのため探索者ギルドの医者たちは、まずリリオンの腕を魚の腹でも開くかのようにぱっくりと開き、粉砕された骨を肉から掘り起こし、驚くべき忍耐力と集中力でそれをパズルのように組み上げた。そして治癒魔道をまず骨にだけほどこし、少しの衝撃で再び崩壊してしまいかねない骨を固定したのである。
その後、挽肉のようになった肉を同じように治癒魔道で修復し、血管や神経を外科的に縫合し、皮膚を閉じたのだ。
表面的なところはランタンが、リリオンの身体に大きな傷跡が残るのを嫌がったので縫合はしていない。
寄生型魔物の唾液から作った特殊な接着剤で閉じてあるだけだった。
そのためちょっと力を入れるとぱっくりと裂けてしまうし、湯の中に入れたら接着剤が溶け出してしまう。
そのため手首から肘の手前までをぐるりと覆う装具によって傷口は密閉圧着されている。
この装具はまた別の機能もあって、断続的に微弱な電流が流れるようになっており、固定されたとは言えまだ脆い骨や傷の治癒を促進するようになっていた。
ギルドはどうにも怪我をした探索者を、あるいは怪我をしていない探索者すら、実験体か何かのように思っている節がある。
訪れる度に何やら怪しげな最新技術を施されているような気がする。
その効果の程は疑問だが、しかしランタンは魔道的なものにはできるだけ疑問を抱かないように、最近はしている。
魔道の技術というのは、いわば儀式のようなものだった。あえて複雑な手続きを踏んだり、それらしい理由付けをしたりするのは、その術式が信頼できるものだと信用し、また信用させるためだった。
リリオンの腕は治る。また探索者として活躍できる。
「髪、濡らすよ」
ランタンは後ろから左手でリリオンを目隠しし、銀の髪をたっぷりと濡らした。蜘蛛の糸のように痩せていた髪が、たったそれだけで膨らんだように見える。
永遠に触っていられる。ランタンはリリオンの髪に指を通しながら思う。濡れた髪はどうしてこんなに官能的なのだろう。
「ランタン」
しかし呼ばれて、我に返った。リリオンが正気に戻りつつあるのに、逆に己が陶酔してしまっては意味がない。ランタンは少女の髪を絞って髪油を塗りたくると、獣の耳の位置で二つのお団子にしてまとめた。
「ぴかぴかにして」
ランタンがタオルを泡立てると、リリオンは甘えるような口調でそう言った。
「前は自分で――……」
「できないわ」
右腕はあの様だし、左腕は右腕の世話に取られている。
なるほど確かにそうだ。
ランタンはおっかなびっくり慣れた背中を洗い始め、次第にやけっぱちになってリリオンの前に回った。
しかし流石に遠慮がちに視線を逸らし、ついに硬く目を瞑って少女の膝の間に身を屈めた。
見ずとも、リリオンの身体の輪郭はわかっている。ランタンは躊躇いを捨て、手を伸ばした。
「ランタンも一緒に入りましょ」
リリオンを風呂に入れようとして、ランタンはこのままではいけないことに気が付いた。
裸の少女を抱き上げたとて、風呂に入れるにはまず自らが湯の中に入らなければならない。洗うだけなら袖を捲るだけで充分だったが、このままでは下着まで濡れてしまう。
「わたしが脱がせてあげようか」
「腕も動かないのに?」
「できるよ。こっちきて」
リリオンは左手だけで、しかも親指と薬指と小指だけで、前のボタンを外した。
指がボタンともどかしそうに格闘して、ようやくどうにか一つ外すことができたが、これではリリオンの身体が冷えてしまう。
「いいよ、自分でする」
ランタンは心を無にして裸になって、脱いだ服を丸め、最後の羞恥と一緒に脱衣所の方へ放り投げた。
リリオンは少し拗ねたような顔をしている。どうやらランタンを脱がせたかったようだ。
だがランタンが少女を抱き上げると、嬉しそうに背中に腕を回してしがみついた。
ランタンの無心は一瞬にして煩悩に塗れる。裸で抱き合うことは、どうしてこんなに気持ちがいいのだろう。
「ランタン、いい匂いがする」
「リリオンも泡の匂いがするよ」
「がおー」
「泡の匂いだっつってるだろ。がおーじゃないよ。こら、噛むな」
このまま投げ込んでやろうか、と思うが、右腕を濡らしてしまうのはよろしくない。ランタンは首に噛み付かれたまま、リリオンをそっと座らせる。そしてその右腕を革で作った浮き袋の腕に置いた。
「はあああ、気持ちいい……」
薬湯は僅かに緑も混じった乳白色に濁っている。湯に沈んだ身体の影すら映さない。
うっとりと呟いたリリオンは目を細め、ランタンにもたれ掛かった。
すっかりと身体から力が抜けている。
探索終わりに浴びる風呂は、あの乾燥した秋の迷宮を探索した後ということもあって、その気持ちよさはひとしおなのだろう。
リリオンはしばらく軟体動物みたいにだらけていたが、ふと思い出したように呟いた。
「わたし、どこまでお話したっけ?」
「物凄く格好良く千頭の狼をやっつけるところまで。しかし、ずいぶんと順調な探索だったんだね」
「…………うん」
リリオンは気まずげに視線を逸らした。
わかってはいたことだが、ずいぶんと話を盛っているようだった。ごにょごにょと言い訳をするみたいに、腕を噛まれたけど、と付け加える。
「千頭に?」
「ううん。おおきい、一匹の狼に」
「それで、そんなになっちゃったの?」
「ううん。その時は穴が空いちゃっただけ」
リリオンは狼と戦った後一眠りして最終目標と戦ったのだった。
「あの斧槍は最終目標から?」
「うん。おへそから下がお馬さんのオスなの、でもおへそから上は人間でおっぱいがいっぱいあったのよ」
「千個ぐらい?」
「ううん、五つか六つぐらい」
「……? ぜんぜんよくわからんな。くわしく」
「あのね」
最終目標、人馬の姿を聞いて、ランタンはその存在にもしかしたらリリオンの意思がかかわっているかもしれないと少し思う。
出会った当初のリリオンは男に対してやや恐怖心を抱いていた。下腹部で隆起していたという獣の性器はその男への恐怖心と迷宮への恐怖心が結びついた結果の具現化かもしれない。
複数の胸は獣系迷宮であることと、単純に母性の象徴だろう。
となるとリリオンはやはり迷宮で母親を求めたのか、とランタンは想像する。さみしくなって、最後の最後に最も強く求めたのはやはり母親の存在なのだろう。
僕はそれになれないしな、とランタンは思う。もっともリリオンにとっての誰かの代わりになるつもりなどさらさらないのだが、少しさみしく思ったのはなぜだろう。
「うん、わたしママのこと考えてたわ。でもランタンのことも考えてたのよ。わたしランタンのママになりたいって思ったの」
「結構です」
「もーランタンはすぐそう言うんだから」
リリオンは取って置きの秘密を明かすみたいに胸を張る。
「わたし、もう大人になったのよ」
「大人ねえ」
「本当よ、だってわたし、もう赤ちゃんができるようになったのよ!」
疑わしげに呟いたランタンに、リリオンはまったく予想外の言葉を返してきた。
「赤ちゃんが産める……?」
ランタンは言葉の意味がうまく理解できず目を丸くする。
あれ、でもまだ僕そういうことしてないし。おかしいな、まだ童貞のはずだよな、と触ってもわからないのに湯の中で自分のものを揉んだ。
キスすると赤ん坊ってできるんだっけ。まさか、そんな馬鹿な話もない。いやしかし魔精という存在がある限り、そう信じれば赤ん坊は鸛が運んできてもおかしくはない。
いやいや、言葉を正確に思い出せば、赤ちゃんが出来たではない。できるようになった、だ。
つまりその準備が整ったということだ。
リリオンは今この場でそういう大人なことを望んでいると言うことか。そんな過激な考えをリリオンが持っているなんて、迷宮の過酷さは純真無垢な一人の少女を本当に大人にしてしまったのか。
ランタンは無表情の下で全力疾走するみたいに思考を働かせる。風呂に入ってまだそんなに経っていないが、のぼせたみたいに脳が熱かった。
「だってね。その。あのね」
リリオンは急に恥ずかしがって、ランタンに耳打ちをした。
ランタンは正気に戻る。ほっとしたような、していないような溜め息を長く吐いた。
「――血尿」
「え?」
「それは血尿。僕もやったことあるけど。お腹、痣になってただろ。あれのせい。腎臓がぶっ壊れてる」
「……そうなの? まだわたし、まだ赤ちゃんできないの? なあんだ」
リリオンはがっかりしたように肩を落とした。
「はい、この話はお終いです。ちゃんとその時になったらまたするから、今はお終い。最終目標の話して」
ランタンはざぶざぶ顔を洗って、話を戻した。
「うん、あのね。えっとね。それでね。人馬を見て、これはちょっと勝てないかもしれないって思ったの。だからね、作戦を立てたの」
「作戦」
それはリリオンに似つかわしくない言葉だった。
リリオンは大きく頷く。
「あのね、わたしは腕を怪我しちゃったでしょ。だからね、その時わたしが出来る一番すごいことはランタンの爆発だったの」
「うん」
「その爆発をね、もっともっと強くするためにね。お水をね、電気でね、あれにするの」
「どれ?」
「爆発するのの元にしたの」
明確な言葉が出てこなくてもどかしかったが、辛抱強く聞いているとランタンはようやくリリオンが何をしたのか理解が出来た。
「――電気分解か」
「そう、それ!」
リリオンにそんな話をしたかな、と思わなくもないがたぶんしたのだろう。
「食塩水か……たしかに導電率は上がるか」
小鍋一杯分の食塩水は、はたして四方から発生した大量の水に一瞬の内に溶け広がるだろうか。電極は小鍋と斧槍で代用するとしても、瞬間的な大電流はどれだけの水素を発生させるだろう。
リリオンはそうやって発生させた水素に爆発結晶を投下して、相乗効果で大爆発を発生させたと認識している。
様々な幸運がリリオンの作戦を完成させたのかもしれないし、あるいは魔精が願いを叶えたのかもしれないし、もしかしたら爆発結晶の威力のみによって作戦は成功したのかもしれない。
「そうなんだ、すごいな」
しかしランタンは単純にリリオンを褒めた。
いつもの最終目標攻略戦の作戦はランタンが組み立てる。リリオンは聞いて、頷くだけがほとんどだ。そんなリリオンが理論的に作戦を組み立て、これを実行して成功させたことは素晴らしいことだと思った。
「じゃあそれで最終目標をやっつけられたんだ」
「……」
リリオンは下唇を巻き込むみたいに唇を噛んで、小さく首を横に振った。
「でも、じゃああの斧槍は?」
「あのね、わたしは勝てないと思ったの。だからね。戦って、逃げて、生き残ろうと思ったの」
「戦って、逃げて、生き残る」
「うん。あのね――」
ランタンはそれにこそ感動した。
リリオンは迷宮攻略を諦めた。
あの秋の迷宮はまだ攻略されていない。
ランタンは驚かなかった。むしろはっきりと攻略したと聞いた方が驚いただろうし、疑っただろう。
しかし、リリオンはその上で最大限の戦果を求めた。
最終目標から武器を奪い、戦場から離脱する。次の戦いのために、戦力を奪う。探索者として理想的な行動をした。
リリオンの作戦はそれを実現するために組み立てられたものだった。話を聞けば聞くほど、リリオンが頭と身体を最大限に使っているのが理解できる。
敵の攻撃を正面から受け止めるための簡易複合装甲。背後に霧を構え続けるために捨てた右腕。べたべたの樹液手袋。
水素爆発も最終目標への威力を増すためではなく、その爆風に乗って霧の外へ吹き飛ばされるための布石に過ぎない。
ランタンの脳裏に、リリオンの戦う姿がはっきりと思い浮かんだ。
「……ランタンは、がっかりしてないの?」
「なんで」
「だって、迷宮攻略できなかったから」
「迷宮攻略は出来なかったけど、迷宮探索は成功だよ。攻略できないと判断した時点で、戻ることを考える。しかも最終目標から武器を奪って。そのために立てた作戦を、しっかり成功させて、戻ってきた」
僕の所に。
「探索は成功した。それにそもそも、最初っから攻略が目的じゃなかったんでしょ?」
「あ、そうだったわ」
リリオンは思い出したように頷く。滑るようにランタンの側に寄った。
「ランタンってすごいね」
急に言われて、ランタンはなぜだか物凄く嬉しくなった。
単独探索への賞賛は嫌と言うほど浴びてきたが、どうしてこれほどリリオンの言葉が素直に嬉しいのだろう。
それはきっとリリオンが、リリオンだけが同じ苦労を知っているからだった。
「迷宮、さみしかった?」
「……うん。ほんとはね、さみしかった」
リリオンは内緒話をするように耳元で囁いた。
「でも、わたしにはランタンがいたから、ちょっとだけよ」
唇が頬を滑り、リリオンは額を合わせる。汗が絡まり合って、二人の鼻筋を落ちていった。
「ランタンは、わたしがいなくてさみしくなかった?」
「んー、あんまり」
拗ねる顔が見たくて、意地悪をしたのにリリオンは微笑んだ。
「よかった。わたし、ランタンがさみしくないのがよかったから」
ランタンはちょっとした後ろめたさに苦笑した。言わなければならないことがあった。
「ほんとは少しさみしかったよ。でも、みんな優しくしてくれたから。――レティはキスもしてくれたし」
「そうなの?」
「うん」
「じゃあ、わたしともキスしてね」
リリオンはそのまま唇を近づけて、ぺたりと重ねた。重なった唇が、そのまま笑みの形に変わっていく。
「んふふ」
「……それだけでいいの?」
「もっとしていいの!?」
ランタンは、怒らないのか、という意味で聞いたのだが、リリオンはまったく別の意味で捉えたらしく再び唇を重ねて、そのまま舌を入れてきた。
「んーっ、んはっ。えへへ、それからね、あとね、お帰りのちゅーと、頑張ったねのちゅーと、ご褒美のちゅーも! 頭も撫でて! ぎゅっとして! いっぱい、いっぱいして!」
次々繰り出される要求を、ランタンは一つ一つ確実に叶えてやった。
「じゃあ、あとわたしのおっぱいに」
「しない」
「――もう一回単独探索したら、ご褒美にしてくれる?」
「しない。それにその腕じゃ、しばらくは探索自体が無理だよ。完治まで早くても一ヶ月」
「じゃあ人馬はどうするの?」
「それは僕が殺す。リリオンをそんな目に遭わせる奴は、欠片も残してやらない」
「じゃあ、じゃあ、ランタンが戻ってきたら、わたしがご褒美にしてあげるね。キスして、撫でて、抱きしめて、それでね、ランタンのおっぱいを――」
「リリオン」
「なあに?」
「それはさすがに引くわ」
ランタンはざばっと風呂から上がり、リリオンを残して脱衣所に引っ込んだ。
「ランタン、一人にしないでえ-!」
せめて一分ぐらいは放置してやろうと思ったのに、ランタンはリリオンの叫びを聞いてほんの三秒で踵を返した。
来月は3回更新かもしれません。




