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カボチャ頭のランタン  作者: mm
09.Not Alone
207/518

207 迷宮

208


 リリオンは迷宮を進んでいる。

 枯れ葉に埋もれた二刀をどのように見つけ出したのか、少女はまるで憶えてはいない。

 血の気の失せた青白い顔は同様に表情も失い、二刀を提げる両腕は力なく鋒を地面に引きずっている。

 地面を切り裂く二刀の軌跡は遥か後方に伸びていた。

「……ランタンに会いたい、……もうやだ、もういや」

 呼吸は乱れている。時折しゃくりあげ、思い出したように溢れる言葉はどうしようもなく後ろ向きなものばかりだった。

 しかし口でそう言っていても、リリオンは迷宮の底に向かって歩いている。

 誘い込まれるように、転がり落ちるように。

 リリオンは前だとか後ろだとかを考えてはいなかった。

 ただ彷徨っているだけだった。

 行き場を失い、そうすることしかできない亡霊のように。

 ランタンに会いたいという目的は、少女の中で願望になっていた。

 どうやったら目的を果たせるのか、そのようなことは考えない。ただひたすら願いだけがあって、行動はそのための手段ではなかった。

 青白い顔の中で、リリオンの目だけが血走っている。

 リリオンは一種の錯乱状態にあった。

 水面は一見凪いでいるように見える。だが水底の深く、暗いところで苦しみ藻掻いている。

 それに気が付いて、優しい言葉を掛けてくれる者はいない。リリオンは自分が溺れていることに気が付いていない。

 日付は変わっている。

 予定ではもう就寝している時間だった。探索当初は頻繁に確かめていた時計を、リリオンはもうずっと見ていない。

 夕食どころか、水分補給もしていない。

 肉体は飢え、渇いている。だがリリオンはただ歩き続けた。

 リリオンの迷宮でのあらゆる行動、振る舞いはランタンの言葉に基づいている。それは呪いにも似てリリオンの行動を縛っていた。

 だが迷宮の恐怖は、その呪縛を上回っていた。リリオンは迷宮に囚われている。

 一角兎を倒してから、リリオンは立ち止まらず歩き続きている。

 秋の迷宮は乾燥をしている。

 少女の唇はひび割れて、血が滲んだ。

「帰りたい、帰る……ランタン……」

 呟く度に傷が裂け、広がる。微かな痛みをリリオンは感じた。一瞬、表情が蘇る。だがすぐにまた消えた。じくじくと染み出す血が、青い唇の一部を色づかせる。

 血は固まり黒くなり、だがすぐに痛みとともに赤が染み出す。

 迷宮は恐ろしい。

 だがその真の恐ろしさを知る者は極めて少ない。

 リリオンはまさに今その恐ろしさに触れていた。

 だが眠っている者が自らの眠りを自覚できぬように、リリオンはそうだと自覚することはできない。恐ろしさを知るためには、正気に戻らなければならない。

 単独探索、その最中に果てることは簡単だった。逃げ帰ることも、簡単ではないができないことではない。だが正気を取り戻すことは極めて困難だった。

 迷宮の恐ろしさを知り、それを伝えられる者は一人もいない。ランタンでさえ例外ではない。

 ランタンがリリオンに教えた恐ろしさや困難さは、すでに克服されたものでしかなかった。百万の言葉を重ねてリリオンに備えさせようと思っても、それは今リリオンを侵す恐怖への処方とはならない。

「……どうして、……どうして」

 どうして自分がこんな目に遭わないといけないのか。

 リリオンの無垢な心から、黒い感情がにじみ出す。誰かのせいにしたかった。だが責任を負わせる相手はいない。誰もここにはいない。進む度に心が摩耗していくようだ。

 炎の色をした紅葉が光って揺れている。

 かさかさ、かさかさと音を立てて揺れ、枝から切り離され舞い落ちる。

 その音は何だか蠢く昆虫の群を思わせる。リリオンは進みながら、相変わらず血走った目をして、びくびくと左右を見回した。

 ふっと一枚の枯れ葉がリリオンの頬を掠めた。

「――ひっ」

 リリオンは全身を痙攣させ、跳び上がった。

 ばね仕掛けの人形のように慌ただしく足を蹴り出し、一面に積もる落ち葉を払う。

 どこかに昆虫が潜んでいるかもしれない。そう思った瞬間、リリオンはそれが真実に違いないという思いに囚われた。

 昆虫が隠れる場所は辺り一面にある。ここは獣系迷宮だが、昆虫系の魔物が出ないとも限らない。落ち葉と落ち葉の間に、あの影に、樹皮の溝に、幹の(うろ)に。

 心臓が肋骨を叩く。

 呼吸があっという間に慌ただしくなった。柄を握る手が白くなるほど力が込められる。

 中指の爪が、親指の付け根を抉った。それは一角兎と戦う時に、同じように傷つけた傷口だった。その傷口をリリオンは抉っている。だが気が付くことができない。

「どこっ!?」

 リリオンは急に叫ぶ。表情が憤怒に歪む。唾を飛ばし、渇いた喉が鉄の味を滲ませる。

「いるのはわかっているのよ! どこにかくれているのっ!」

 引きずっていた竜牙刀が突如リリオンを追い越して斬り上げられた。

 土と落ち葉が舞い上がる。それは血飛沫に似ていた。

 昆虫などどこにもいない。露出した地面には蟻の巣穴一つない。

「どこっ、どこっ、どこにいるのよ!」

 それでもリリオンは叫び、怒鳴りながらやたら滅多らに二刀を振り回し、落ち葉を蹴立てて迷宮を早足に進む。

 どこかにいる。百万匹、百億匹の蟲が自分を見て、狙っている。

 二刀は落ち葉を掻き混ぜ、楓の幹を叩く。乱雑な太刀筋が樹皮に弾き返されてリリオンの手を痺れさせた。

 それでもリリオンは正気に戻らなかった。発狂し、妄想に囚われていた。

「どこっ、どこっ、どこよっ、ねえどこなのっ!」

 びりびりと痺れる銀刀が、重い金属音を響かせる。

「はっ、はっ、はっ、はっ、はっ――……」

 過呼吸寸前の速い呼吸にリリオンはさらに追い詰められる。身体が氷のように冷たい。

 何度も後ろを振り返り、逃げるように、追いかけるように走り、二刀を振り回してあらゆる影を光に晒す。

 掌に肉刺ができ、それが潰れて血が滲む。

 刀は何度も幹や地面を叩き、音色が幾重にも重なりいんいんと響く。

「隠れてないで出てきなさいよっ!」

 威勢のいい言葉とは裏腹に、リリオンの歯の根は噛み合わずかちかちと鳴っていた。空気を噛むような呼吸。涙が出ないほど乾燥している瞳は、黒目が小さくなり小刻みに震えている。

 自分の足音に追われる。

 ぴたりとくっついてくる影がいつか起き上がり、襲いかかってくるんじゃないかと思う。妄想の中の昆虫は、いつからか人の顔をしている。影からじっとこちらを見て、にやにやと笑っている。

 金属音は空から降ってくるみたいに一向に鳴り止まない。

 それは一人の夜に聞いた獣の遠吠えだ。

 昆虫はどこにもいない。

 獣がいる。

 野犬か狼か、それは飢えた獣だ。いつの間にか自分の周りを取り囲み、ぐるぐると回っている。

 それはかつてリリオンが旅の途中で経験した事実だった。

 人目を避けるように街道を離れて歩いていた。道無き道の先に、探索者という目標があるのだと信じて疑わず、ただ歩いていた。空腹のあまり、木の根を囓って飢えを凌いでいた。立ち止まればひとたまりもなく行き倒れてしまう。

 リリオンは彷徨っていた。

 獣は自分が力尽きるのを待っている。賢しい野生の知恵だ。どんな相手であろうと戦うことは危険だと知っているのだ。

 ああ、やはり人の顔だ。獣の身体に人の顔。涎を垂らして自分を見ている。歌を歌っている。早く倒れてしまえと、早く死んでしまえと、その肉を差し出せと祈り踊っている。

「ううううううううう」

 リリオンの口から言葉にならない言葉が苦悶の呻き声となって溢れた。

 かつての記憶は、どこまでが真実か。

 リリオンは暗い怯えた目をして、過去から現れた獣と対峙していた。

 一頭、二頭、三頭、四頭。

 それは妄想が見せる幻覚か、それとも真実か。

 獣が足を踏み出す。落ち葉が砕ける。実体があった。

 赤い落ち葉と同じ色をした狼だった。

 積もる落ち葉の山が、それぞれ意思をもって変化したように、どんどんと数が増えていく。

 血が滴るような長い毛をしていたが、額には毛がなかった。皮膚が硬質化して盛り上がっている。角と呼べるほど尖ってはいないが、それが狼の角だった。

 リリオンの現実は、妄想に浸食されている。妄想でも現実で、目に見えるそれが今のリリオンの真実だった。

「ううううううううううううううううううう」

 狼が唸るように、リリオンも唸る。

 探し求めていた敵が目の前に現れた。昆虫のことなどもうすっかり忘れていた。自分は最初から狼を探していたのだと思っている。

 だが狼を見つけたリリオンは、それを喜ばなかった。

 立ち止まった途端、膝ががくがくと震えた。自重を支えたのは脛当てだった。肩を丸め身体を小さくする。二刀を盾のように使い、リリオンは隠れた。

 迷宮路の真ん中で。

 肺が握り潰したみたいに小さくなる。背中が汗で濡れる。

 どうすれば、なにをすればいいのか。

 身を隠し、立ち竦む。

 リリオンは自分がうまく隠れられていると思い込んでいる。

 揃えられた二刀には荒ら屋のように大きな隙間があり、そもそもリリオンを覆い隠すには幅も長さも足りていない。

 だがリリオンは狼に見つかっていないことを願っている。

 ここまま狼たちは自分に気が付かず通り過ぎていく。あるいは気が付いても自分に襲いかかりはしない。

 なぜって自分はこんなにもかわいそうで、哀れで、不幸だから。これ以上酷い目に遭うはずなんてない。

 そうだ。

 そうに決まっている。

 根拠のない勇気が湧く。

 狼は飢え、涎を垂らし、歌を歌っている。悪意と呪いの歌を合唱している。合唱に参加する狼はどんどんと数を増やしていく。

 殺してやる。そう思っているのは自分か、それとも狼か。

 魔精に溶ける意思が混ざりあっているのかもしれない。リリオンは自分を失っている。

 楽観的な勇気がたちまち萎み、失望と入れ替わる。失望を種に、殺意の花が咲く。だがすぐに枯れてしまう。

 リリオンの頭の中は正気と狂気の妄想が鬩ぎ合い、混ざらずに絡み合っている。支離滅裂な思考が肉体を混乱させている。身動きが取れない。

 狼が動いた。

 二刀の隙間からリリオンはそれを見ている。目を背けることができない。

 自分に向かって駆けてくる。左右に分かれ、楓の幹を蹴って側面に回り込む。蹴られた楓から、枯れ葉が舞い落ちる。火の粉のように。狼が口を開ける。紫の舌が、白い牙に黒く見える。

 むわりとした獣の呼吸。生臭さと血の臭い。

 痛みと死の臭い。

 怖い。

「わああああああああああああああああああああっ!!」

 リリオンは悲鳴を上げて逃げ出した。真っ直ぐに、路を塞ぐ狼の群に向かって走り出した。

 それは選択した行動ではなかった。

 だがリリオンを生き長らえさせる唯一の選択だった。すでに向いている方へ向かって、ただ走り出す。単純ゆえに最速の行動が、迫り来る死の顎門からリリオンを救った。

 群の中に割って入る。交差させた二刀が群を押し退け、全身から発せられる悲鳴は鬨の声となって狼たちを文字通り狼狽させた。赤ん坊が泣くような、生命の咆哮だった。

 獣の合唱が乱れる中で、一つの独唱があった。群が混乱から立ち直る。一斉にリリオンの背を追った。だがすでに少女の背中は十歩以上も離れている。

 狼が駆ける。獣の速度に落ち葉が高く舞い上がる。だがリリオンとの距離はなかなか詰まらない。

 リリオンは一心不乱に駆ける。落ち葉に足を取られて滑り、転んでもすぐに立ち上がって、一向に引き離せない群の足音と歌声に追い詰められる。

 なんで。

 どうして。

 リリオンの中で二つの言葉が繰り返される。

 なんで。

 どうして。

 なんで自分がこんな目に遭わないといけないのか。

 どうして自分がこんな目に遭わないといけないのか。

「なんで、なんで、なんで――」

 逃げ続ける。ひたすらに。

 だがここは迷宮だ。逃げ場なんでない。逃げ切れる訳なんてない。やがて終わりはやって来る。辿り着いてしまう。

 最下層。

 真白い霧が、壁のように立ちはだかってリリオンの退路を塞いだ。

 逃げ込む。あの霧の中へ。

 本当にそんなことをするのか。妄想に囚われるリリオンですら、あの霧の向こうに救いがないことを知っている。足が竦む。絶望が咲き乱れる。

 死ぬ。

 死んでしまう。

 自分はここで死んでしまうのだ。

 霧の向こうに潜む恐ろしい魔物に殺されてしまうのだ。

 追いつかれた狼にがぶがぶと食べられてしまうのだ。

 もうランタンには会えないのだ。

 どうしてランタンはわたしのことを助けに来てくれないの。

 どうして。

 その時、胸がちくりと痛んだ。猛烈な恥ずかしさと、甘い痛みだった。

 膨らみかけの少女の胸の先端が硬く尖った。まったく無防備な、幸せそうな表情をした少年の顔がはっきりと思い出された。戦場において鬼のように強い少年の、触れることを躊躇うほどの脆い一面を。

 思い出した。

 自分の肉体は、自分のためにあるのではない。狼に食わせるためにあるのではない。

 この肉も血も、ランタンに捧げた。あの時に、少年のどうしようもない幼児性に触れた時、そう決めたのだ。

 死んでたまるか。

 こんな所で死んでなるものか。

 髪の一筋、血の一滴でさえ、貴様らに食わせてなるものか。

 心臓が燃える。

 爆発する。

「ぶっ殺してやるわっ!」

 リリオンは振り返って叫び、再び狼の群に飛び込んだ。

 まだ狂気の中にいた。だが狂的な母性を軸に自我を取り戻しつつあった。

 何頭いるのか、数を数える余裕はない。十、二十では済まない。本当に枯れ葉の山から生まれたのかもしれない。迷宮兎と同じ性質を有しているのかもしれない。

 群の中に押し入ったリリオンは、やはり二刀を乱雑に振るった。

 刃物の使い方ではない。棒きれを振り回すように二刀を振り回す。

 鈍い音立てて狼の骨が砕ける。ぎゃんと悲鳴が上がり、合唱が乱れる。折れた骨が内臓に突き刺さっているのか、のたうち回る。リリオンはそれを踏み潰し、四方八方から襲いかかってくる狼を殴り飛ばした。

 膝下に衝撃が走る。脛当てに狼が噛み付いている。僅かにへこんだが、牙が貫くことはない。

 銀刀の柄で狼を打った。リリオンの上体が下がる。狙い澄ましたように、首を狙って狼が跳ぶ。逆袈裟に斬り上げた竜牙刀が狼に食らいつく。身体が捻れる。無防備な脇腹に狼が突進する。

「げえっ」

 口の中が酸っぱくなる。狼の丸い角は固めた拳だ。肝臓が打ち抜かれ、呼吸が失われる。あっという間にリリオンの顔が青く、唇が紫になる。

 痛い。生きている証拠だ。ランタンに捧げるべき肉体はここにある。

「ふっ!」

 腹筋を引き締め、詰まった呼吸と迫り上がってきた胃液の塊を吐き出す。

 引き足。腰を回す。

 二刀が荒れ狂い、数頭の狼が襤褸雑巾のように斬り払われる。真っ青な魔物の血がぶちまけられ、まるで煮立った鍋を倒したみたいに濛々たる湯気が広がる。

 狼の数は減らない。ペッと吐いた唾液が切れず、唇から足元まで糸を引いた。血溜まりを踏み付ける。振りかぶった銀刀に狼が噛み付く。膝が痛い。足が滑る。

 銀刀が手から離れる。その時、ずるりと掌の皮膚が剥けた。竜牙刀を両手で握る。

 体勢を立て直し、その場で旋転する。一回転の間に、何頭もの狼が竜牙刀の餌食になる。

 牙に肉の塊が突き刺さる。

 重い。まるで焼いた鉄を握るように掌が痛む。

 リリオンは竜牙刀を振り抜いた。

 肉の塊は血を詰めた袋だった。

 血溜まりが腰まである沼のように思える。それは刻一刻と深さを増している。

 赤い落ち葉と赤い毛皮と青い血が、辺り一面に散乱している。

 臭いがない。鼻が馬鹿になっている。肌に触れる温かさが、生と死の合わさったもののように思う。

 自分はそこに立っている。

 生と死の境界上にいる。

 だが死の淵に追い詰められたのではない。死のまっただ中から、ここまで戻ってきた。

 ぎりぎりとリリオンの奥歯が軋む。食いしばると牙を剥くように唇が捲れる。狼と同じ顔になる。

 リリオンは獣のような身のこなしで次々に命を奪っていく。

 下肢の痙攣が治まらない。立ち止まると力が抜ける。いつしか髪はほどけ、銀の髪は青い血を吸って重い。

 返り血がリリオンの表情を彩る。突き刺さった屍ごと、竜牙刀が振り回される。

「があああっ!」

 リリオンは吼える。

 それがあるいは少女に流れる巨人の血の資質なのかもしれない。

 暴力の化身のごとく、荒れ狂う力に身を任せる。戦い方を知っていた。生まれながらに身に付いていた。

 肉が軋む。腱が軋む。骨が軋む。

 だが人を超越する暴力は、やはり未だ少女でしかない柔らかなその肉体には収まりきらぬほど大きなものだった。

 人差し指と中指がなくなった。

 竜牙刀を振り抜く途中で、リリオンはふとそう思った。刀がすっぽ抜ける。白い牙の刀身はもとより、柄の先まで青い血に濡れている。

 なくなったと思った二指は脱臼していた。左も右も、あらぬ方に反り返っている。

 狼はまだたくさんいる。この手では指を折って数えることもできない。

 背後に霧を背負っている。

 狼たちはまだ歌っている。ようやく、ようやく、ようやく飢えが満たせると。肉の塊となった同胞たちを踏み付け、取り分が増えたと歓んでいる。狼たちの赤い毛皮も、元の色がわからぬほど青い血に濡れている。

 身体を震わせ、絡みつく血を吹き飛ばす。駆ける。羽が生えたかのように飛び掛かってくる。

 身体が自然に動いた。

 外れた二指に引っ張られ、薬指の自由もなかった。親指と小指で抓むように、ベルトに差した魔道結晶を抜き取った。太股の銀帯に叩き付け、投げることができずに足元に転がる。それを蹴り飛ばす。

 迷宮に小さな太陽が生まれた。少年の祈りが込められた結晶だった。

 衝撃と閃光に、意識ごと五感が吹っ飛ぶ。だが呼吸も苦しくなるような高熱にすぐさま現実に引き戻される。

 世界がぐらぐらと煮えている。目の前に光と炎の塊がある。衝撃にへし折れた枝が、まるで身を投げるように炎の中に飛び込んでいく。

 炎の揺らめきの中に、色の濃い影がある。

 それは炎の向こうから飛び込んでくる最後の一匹。同胞の血に全身を濡らし、それによって炎を防いだのか。子馬ほどの大きさをした赤い狼。

 脚が動かない。

 リリオンは反射的に腕を突きだした。

「――――っ!!」

 右の前腕に噛み付かれる。灼熱の激痛がある。革の篭手を貫通して、牙が肉に埋まっている。リリオンの身体が引き攣る。狼が首を振る。牙が深く埋まり、肉が抉れる。腰が抜けそうになる。膝の感覚がない。身体ごと腕を引きそうになるが、リリオンは倒れるように前に進む。そういう教えだった。

 左の腕で狼を抱え固定する。噛まれた右の腕を押し込む。牙が骨に触れる。狼の首が真後ろに仰け反る。ぎしぎしと互いの骨が軋む。首の骨がなかなか折れない。狼とリリオンは、互いにもたれかかり支え合っている。

 だが均衡が崩れる。足が滑る。

 リリオンは狼を組み伏せるように倒れ込む。体重を浴びせる余裕もなかった。

 衝撃に息が詰まる。呼吸に口を開く。

 大きく、大きく。

 リリオンは大きく開いた口を狼の首に埋めた。噛み付く。

「うううううううううっ!」

 耳の下がじんじんと痺れる。抜けそうになる力を、必死で維持する。

 小さな犬歯が穴を空ける。リリオンは更に力を込める。口の中一杯に獣の臭気が満ちる。どろどろと血が流れ込み、塩気を感じる。リリオンはもっともっと深く喉笛に食らいつく。

 あの夜を思い出す。四頭の獣、リリオンは血を啜って生き延びた。

 まさしく獣のように食い破った。リリオンの口元が真っ青に染まる。喉が上下に動く。

 血の塊を飲み込んだ。命を喰らった。

 右腕を咥える咬合から次第に力が抜けていく。股に挟んだ胴体から、呼吸の収縮が失われていく。

 喉笛の出血が沸騰するみたいにぼこぼこと泡立つ。歌声が止む。

 リリオンはそっと、牙から腕を外す。左の二指を深く口に咥え、噛み付いて固定する。指を伸ばし脱臼を嵌める。口から抜いた指は青く染まっている。右の指も同じようにする。

「生きてる」

 リリオンは呟く。

「わたし、生きてる」

 夢から目覚めたように、リリオンはどこか呆然と呟く。




 背後に霧があり、股の下と眼前に狼の死体と血溜まりがある。

 肉体には痛みと疲労がある。

 つまり夢ではなく、事実だった。

 ついに迷宮最下層、その手前まで来てしまった。

 自分は本当に探索をしてここに辿り着いたのだろうか。ただ怖がり、怯え、不安がっていただけのように思う。

 探索前に夢想した勇敢な探索など少しもなく、現実感のある悪夢を見たような、生々しい不確かな感覚があるばかりだった。

 リリオンはようやく探索の作法を思い出したように、痛む身体を引きずって回収できるだけ狼の魔精結晶を回収した。

 爆発によって半分以上ダメになってしまって、残った大半も血に汚れていたが、二十個以上もの結晶が手に入った。

 リリオンは防具を外し、服を、下着さえも脱いで生まれたままの姿になった。失禁したみたいに下着まで汗でぐっしょりと濡れ、どういうわけか靴下まで魔物の血で汚れていた。

 足の裏では肉刺が潰れている。靴下を脱ぐと、小指の爪が剥がれた。

 脛当ての下には噛み付かれた痕が青痣になっている。

 脇腹はどす黒く変色し、両肩は背嚢の重さに擦り傷ができている。

 両の掌は皮膚が捲れ、脱臼した指は熱を持って倍に腫れた。

 前腕の咬傷はまだ血が止まらない。傷の深さは骨膜まで達していた。

 リリオンは純水精結晶の首飾りを外すと、その紐で二の腕を縛り止血をした。結晶を噛んで発動させる。

 溢れ出た水が傷を清める。リリオンは歯を食いしばり、染みる痛みに耐え、傷口をよく洗った。それから全身に水を浴びる。口を濯いで、ついでに飲む。銀の髪から青い血が溶け出す。汗が流れる。冷たさが気持ちいいことに気が付く。

「はあ」

 裸のまま、リリオンは傷の治療を始める。咬傷に止血剤を押し込み、溢れた分を掌に揉み込む。ガーゼを当て包帯で押さえる。牙は篭手を貫通したが、貫いたのは最も鋭く太い二本だけだった。

 痣に軟膏を塗り込み、ついで関節にも塗り込んでいく。手を包帯でぐるぐる巻きにする。まるで鍋掴みのようだ。リリオンは笑ったが、表情は動かなかった。

 鎮痛剤の錠剤を、魔精薬と活性薬のちゃんぽんで流し込む。

 その頃には、髪はまだ濡れていたが、肌はほとんど乾いていた。

 ようやく新しい下着に足を通し、新しい肌着に袖を通す。着替えはそれだけしか持ってきていなかった。

 正直なところ、もうなにもしたくはなかった。それは探索中に思った、もういやだ、とは別の感覚だ。

 時計を確かめると昼に近かった。一日以上動き回っていたことになる。最下層への予定到着時間を大幅に早まっている。滅茶苦茶な探索だった。

 疲労の極地にある。

 だがこのまま枯れ葉をベッドにして、身体を横たえるわけにはいかない。

 それが単独探索だった。

 食事の用意をして、それを食べて、寝床を造り、武器の手入れをして、戦闘服を着られる状態に洗濯して、干して、狼の毛皮を剥ぎ取り、霧の向こうを確認して、それから、それから。

 リリオンは頭の中で考える。本当は口に出して確認したかったが、それをすることすらできなかった。

 リリオンはのろのろと湯を沸かし、その中に茶葉と大量の砂糖をバターとビスケットを砕いて放り込む。どろどろになるまで煮込む間に、バターを一かけ口の中に入れて飴のように舐めた。鍋に少し水を足し、ビスケット粥が完成する。

 リリオンは泥水のような見た目のそれを、鍋から直接食べた。

 リリオンはものの一分で食事を終え、食べ終わった鍋に水を注ぎ、スプーンでぐるぐると掻き回した。鍋にこびり付いた食べ残しが浮かび上がる。リリオンはそれを飲み干した。洗い物を十秒で済ませる。

 もうダメだった。

 武器の手入れはできないし、洗濯なんてもっての外だし、毛皮なんて剥ぎ取りたくないし、霧の向こうなんて知ったことではない。

 リリオンは地面に毛布を二枚広げる。

 それから背嚢をひっくり返し、底に隠していた布を取り出す。もうどうしようもなくなった時のために、ランタンに隠して持ってきたものだった。

 それはシャツだった。リリオンはマフラーのように首に巻く。リリオンの身体には小さすぎて袖を通すことはできない。

 それはランタンのシャツだった。洗濯する前のものをくすねてきたので、たくさんランタンの匂いがする。

 リリオンは顔の下半分をシャツに(うず)めると、崩れ落ちるみたいに横たわり毛布を被った。これにもランタンの匂いがある。この前の探索の名残だ。

 リリオンがじっとすると、やはり静けさが際立つ。鳴り止まぬ枯れ葉の舞い落ちる音は静寂を強調するだけだ。

 霧があり、狼を殺した。もう襲いかかってくる魔物はいない。本当にそうか。疑惑が湧き、リリオンはランタンの匂いを胸一杯に吸い込んで不安を押し出す。

 どうして自分はたった一人で迷宮にいるのか。

 ランタンのことをもっと知りたかったからだ。一人で迷宮に挑むことがどんなことか、ランタンの経験した感覚を自分も感じたかった。

 ランタンの孤独を、少しでも共有したかった。

 本当に眠っても大丈夫かと、狼の亡霊が囁くように歌う。

 迷宮は恐ろしい。一つ乗り越えたリリオンだが、やはりまだそう思う。乗り越えたからこそ、強く思う。恐れが完全になくなることはない。

 迷宮は孤独だ。

 リリオンにとって孤独は、むしろ人の中にいる時感じるものだった。

 留守番している時、外から聞こえる笑い声。雑踏の中を一人で歩いている時。平原で遠くに街の灯りを見た時。

 それは疎外感だった。誰かと比べて、自分は寂しく惨めなのだというような。

 だが迷宮にある孤独は、そのようなものではない。

 誰と比べることもできない、どうすることもできない、足の竦むようなたった一人だ。

 ランタン。

 自分の中には助けがあった。かつての旅の最中に、そして今回の探索の最中にリリオンを救ったのは積み重なった過去だった。出会ってきた人々との楽しい思い出。縋り付くべき幸せな記憶。

 過去を失ったランタンの孤独を思うと、リリオンは胸が苦しくなる。愛さずにはいられなくなる。なにもかもをしてあげたくなる。

 本当にたった一人で迷宮を探索した強靭さは、むしろ哀れむべきものかもしれない。

「帰る」

 リリオンは祈るように呟く。

「絶対に、帰るわ。ランタン、待ってて」

 声は掠れ、リリオンは失神するみたいに眠りに落ちた。

 

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