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カボチャ頭のランタン  作者: mm
09.Not Alone
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 さみしい、と思う自分を高いところから見下ろしている。

 今生の別れでもあるまいに、と思いながらもランタンは迷宮口を覗き込むのをやめられなかった。

 四つん這いになっている様子は赤子のようだ。

 頭上高くから降り注ぐ陽光は迷宮を照らさない。ほんの数メートル、壁面のオウトツを浮かび上がらせるだけだ。

 ここからでは霧の白さを目にすることもできない。

 金属ロープが巻き上げられる。

 降下速度はおよそ分速三十メートル。リリオンを迷宮に下ろし停止するまでに十分、そして巻き上げ機が再び動き出すまでに二十分。

 再び唸りを上げた巻き上げ機は降下時の倍近い速度でロープを巻き上げる。

 誰も吊していない先端がランタンの視界に映るまで五分ほどかかった。

 五百メートルに少し足りないぐらいだ。

「飛び下りるんじゃないぞ」

 思い詰めたような表情のランタンに、リリララが声を掛けた。ランタンは振り返りもしない。

 リリオンが行ってしまった。今ならまだ追いつける。五百メートル。重力加速度は迷宮によって多少変動することもあるが、この迷宮は体感としてそれを理解できるほどの異常はない。

 飛び下りたってどうにでもなる。重力の魔道を上手に使えば、壁に鶴嘴を突き立てて速度を殺せば、爆発によって逆向きの加速を掛ければ、ランタンは身体一つでリリオンを追いかけることができる。

「追いかけるなら、追加料金無しで受けるっすよ」

 ミシャが起重機から降りて、ランタンの背中にぽんと触れた。ランタンは反射的にびくんと身体を引いた。飛び込んでもいいと考えているのに、落っこちる恐怖に身体が反応したのだ。

「大丈夫、大丈夫、大丈夫」

 リリオンへの祈りか、それとも自分に言い聞かせているのか。ランタンは念仏のように三度唱えて、億劫そうにゆっくりと立ち上がった。膝の汚れを払い、澱んだ吐息を漏らす。

 ランタンはいつも小さいが、それにもまして一回り小さく見えた。

「強がっちゃって」

「ちょっと、やめてよ」

 リリララは乱暴に肩を組んだかと思うと、そのまま捻り倒すみたいにランタンを脇に抱える。そしてそのまま髪をぐしゃぐしゃに掻き回した。そして乱れた髪をミシャが整える。

 飴と鞭だった。

 ランタンは首を引き抜き、二人から距離を取った。警戒する小動物のように。

「……ミシャはさ」

「なんっすか?」

「ミシャは、僕が一人で迷宮に行ってた時にどうしてた?」

 自惚れた質問だった。ランタンはそれを自覚しているのだろう、恥ずかしさを拗ねるような態度で誤魔化している。

 ミシャは小さく笑う。

「仕事してましたよ。私の顧客はランタンさん一人じゃないっすからね」

「――そうなんだ」

「仕事に手がつかないぐらい、心配して欲しかったっすか?」

「いや、それはない」

 ランタンは断言して首を横に振った。ミシャは大きく微笑む。

「リリオンちゃんもきっとそうよ。それとももう一度、ぎゅっとしてあげようか?」

 ミシャは悪戯な笑みを浮かべたまま、迎え入れるように腕を広げた。

 つなぎの下に押し込めている胸が、ボタンを弾き飛ばしそうなほどに主張している。その誘惑は魅力的だったし、今ならきっとリリオンの残り香もあるだろうと思った。

「違うよ、ミシャ」

 ランタンは大きく、首を横に振る。

「地上では、そんな風に言えるんだ。二人以上で迷宮にいる時にも。あれは、あの感覚は一人の時じゃないとわからない」

 ランタンは再び迷宮口を見下ろした。

 真っ暗な闇、深淵が澱のように積もっている。迷宮は地上世界とは別の場所だ。地に続き、彷徨い歩けばいつか誰かに会えるわけではない。どれだけ求めようとも、一人だ。

「迷宮は怖いよ」

 そう口に出して、ランタンはかつての記憶が浮かび上がってくるのを感じた。項の毛が逆立つ。

 リリオン。

 あの少女が現れなければ、自分は未だに単独探索者だっただろう。あの孤独な世界を一人で彷徨い歩いてただろう。亡霊のように。

「ああ、本当に。やっぱり一人で行かせるんじゃなかった」

 弱々しく、切実な響きの言葉だった。

 あんなに寂しいところに、あの寂しがり屋の女の子を一人で行かせるんじゃなかった。

 ランタンは単独探索のこつをリリオンに教えた。

 技術論は重箱の隅を突くような細かなところにまで及んだが、それは全体から見ると少なく、教えた多くのことは精神論だった。

 いかに孤独に耐えるか。

 時に目を逸らし、時に誤魔化し、時に立ち向かう。

 単独探索で最も恐ろしいのは孤独の不安だ。それは絶望に似た感覚だと、今になって思う。あれは容易に自分自身を見失わせる。

 自分以外の、単独探索に挑み未帰還となった探索者はもしかしたら魔物との戦闘によってそうなったのではなく、帰ることを諦めてしまったがゆえに迷宮に取り込まれたのではないか。

 あの虚無へと引きずり込まれるような、押し潰されるような、自分が消えてしまうような感覚は地上では得られないと思う。

 ミシャが広げた腕を力無く下ろした。

「リリオンちゃんは、ちゃんと帰ってくるよね?」

 ランタンが脅かしすぎたのか、ミシャは一転して不安そうに尋ねる。

「帰ってくるよ」

 ランタンはあれだけ不安を煽ったくせに、確信を込めて答えた。

「ちゃんと教えたもん。帰ってくる方法を」

「なんだよそれ?」

 リリララも迷宮口を覗き込む。こちらも不安になったのか、落ちつかなげに身体を揺らしていた。

 不安は伝播するものだった。そして一人の時は増大し、振り払うのが難しいものでもある。

「簡単な話だよ。迷宮の攻略を諦める」

 ランタンが言うと二人はぽかんとした。

「いやダメだろ、諦めちゃ」

「生きるのを諦めるのはだめだけど、攻略は諦めたっていいよ。あんなもん。攻略しなけりゃ死ぬっていうんなら別だけど、攻略しようとするから死ぬんだよ、探索者って。だから無理だとか、面倒だとか、やんなったら帰ってこりゃいいんだよ」

 ランタンはどこか投げやりに言った。

「帰るって決めると気が楽になる。ほら、僕も結構帰ってきてたでしょ? 最近はちゃんと攻略してるけど」

「――途中で帰ってくる時は大抵は死にかけてたじゃないっすか!」

「話だけなら簡単なんだけど、引き際を見極めるのは難しいんだよ。迷宮にいるとどうしても攻略というか、進まないとって気になる。あの義務感って何なんだろうな。五体満足だと、なかなか引き返す気にならないし」

「じゃあダメじゃねえか」

「生きて帰ってくることが重要だって口を酸っぱくして言い聞かせたから」

「リリオンちゃんは単独探索に失敗する、の?」

「さあ、それはわからない。意外とあっさり攻略しちゃうかもしれない。けどまあ、帰ってくるよ。こっちに大切なものがあるからね。迷宮の攻略よりも」

 ランタンは胸を張る。二人は声を揃えて、それって、と呟く。

「僕」

 ランタンが言い切ると、二人は真剣な顔をして損したというように、大きく溜め息を吐いた。

「ちょっと突き落としてやりたいんだけど、どうする?」

「今なら誰も見てないっすよね」

「それにトライフェイスだかに罪を被せられる算段が高い。やっちまうか」

「ええ、そうしましょう」

「――そうしないでよ」

 じりじりと近寄ってくる二人に、ランタンは犬猫でも追っ払うかのように手を振った。

「でも冗談じゃなくて、それが大事だよ。僕が最初の探索に成功したのは、子供扱いしてくる引き上げ屋さんを見返すためだったもん。今、思えばね。――これだけ待って信号弾も打ち上がらないってことは探索を始めたな」

 ランタンはちらりと笑った。

「ぎゅっとしてあげようか? なんて子供扱いだよ。大人に言うみたいに言い直して」

「え、えっと――」

「約束は守るもんだよ」

 ランタンが戸惑うミシャに迫ると、ミシャはリリララに助けを求めた。だがリリララはあっさりと共闘関係を放棄する。

「そういえばあたしはご褒美がもらえるんだった。突き落とすのはやめておこう」

「ええっ、そんな! えー、えっと、その、うーん。抱き、抱きし、だ、だ、――抱くわ」

「……」

「……」

「何を言わせるのよ!」

 ミシャは顔を真っ赤にした。

「言わせてないよ。言いがかりだよ。ねえ?」

 リリララは視線を逸らした。ミシャはぷりぷりと怒っている。

「ばかっ、私はもう次の現場に行きますからね! ランタンくんなんか、私がどんな気持ちだったか味わえばいいんだわ!」

「抱いてはくれないんだ」

 起重機に向かって歩き出したミシャは、石にされたように動きを止めた。

 きっと怒らせるだろうな、と思いながらランタンは言う。

「冗談だよ」

 ミシャはやっぱり怒った。




「あれはあんまりよくないよな。さすがに。結構マジで怒ってたし」

 ミシャが去った後も、ランタンはしばらくその場に留まっていた。

 迷宮口に脚を投げ出して座り、ぶらぶらとゆらしている。

「そうかも。やっぱり少し不安定だな」

 リリオンは、ランタンという存在の一部になっている。一時的に失うことで、精神的な安定を欠いていた。そう言う自分に悪くない気もしているが、良くないなとも思う。一人の時はもっと安定していた。

「自覚があるんなら遠慮なく抱きしめてもらえばよかっただろ」

「そうだね。おしいことした」

 ランタンは肩を竦める。

「ほら、いい加減立てよ。見てて冷や冷やする」

 リリララはランタンの脇に腕を通し、胸の前で手を組み抱え上げるように身体を引っ張り上げた。

「それともここで帰ってくるまで寝泊まりするか?」

「それもいい。けどミシャの言うとおりに過ごすことにするよ。久し振りに単独探索してもいいし」

「やめてくれよ」

 リリララはあからさまにげんなりし、ランタンの尻の土汚れをぱっぱと払った。

「二人同時になんてあたしやレティも身が持たない。ミシャはきっと泣いて止めるぜ」

「怒らせた上に泣かせちゃ悪いな」

 この場にいても自分がやれることは祈ることだけだった。

 その祈りがリリオンの下へ届かないことをランタンは知っている。

 開始された探索は、地上からでは毛筋ほどの影響も与えられない。ランタンばかりではなく、探索をするものならば誰でも、そして帰りを待つ者もみんな知っていた。

 知っていながら、祈らずにはいられないことも。

「取り敢えず襲撃者どもに金を流してる大本の所に行こうかな。暇だし」

「確証はないぞ」

「かまをかけるだけだよ。それで手を出してきてくれたら楽だけど」

 ランタンの眼差しに冷徹な色が宿ると、リリララは満足気に頷く。

 迷宮特区をだらだらと歩いていると、ランタンはやはり声を掛けられる。リリオンのことを聞かれたり、あるいはリリララを見て、新しい女だ、鬼の居ぬ間に何とかだ、などと好き勝手に言ってくる。

「ちょっと離れようか?」

「いいよ、このままで。好きに言わせておけば」

「ん」

 ランタンは適当に探索者たちをあしらう。かつてほどとげとげしさはない。もうだいぶ慣れたものだった。

「あ、ランタンだ。なあ、おい聞いたか?」

「聞いてない」

「トライフェイスがよ、単独探索に挑むんだってさ」

「へえ」

 自然とランタンの隣に並んだ探索者は、ランタンの知らない顔だが物凄く馴れ馴れしく話しかけてきた。

 ランタンはちらりとリリララに視線をやる。リリララは小さく首を振った。トライフェイスの単独探索の情報は知らなかったようだ。

「いつ?」

「それが今日なんだよ。ギルド前で壮行会開いてすっげーの」

「邪魔そうだな」

「はは、言えてる。それでよ、その単独探索に挑むのがこの前ランタンに突っかかってた奴でさ」

「猫人族の? 中年の方か?」

「いや、若い奴」

 へらへらと野次馬根性丸出しだった男は、急に眉を顰めて声を落とす。

「なあ、どうなんだ?」

「なにが?」

「いや、……その成功するか」

「知らない。知らない人のことだし」

「そりゃそうだけど。ほら、あいつらお前に煽られただろ? その鼻を明かしてやろうってことで、無理くり行かされてんじゃないかって思うんだよ。いくらなんでも単独探索なんて、なあ?」

「ギデオンさんはどうなってる? あの人が許したんなら、それなり見込みがあるんじゃない?」

 トライフェイス副団長のギデオンという人物を、ランタンはあまり知らないが、それでもそれなりに信頼していた。迷宮崩壊戦の折、短い時間であるが肩を並べた。その時の印象は悪いものではなかった。

 事実、悪評もちらつくトライフェイスの中にあって、ギデオンの評判は上々だ。彼がいるからトライフェイスに入ったという亜人族の探索者は多い。

「ギデオン? 今は迷宮だろ? 竜系かなんか、えっれえ高難易度迷宮に挑んでるはずだぞ。もういい歳なのにやるよなあ。ばりばり第一線でさ。単独探索を主導したのは、ほれ、さっきの中年の方だよ」

 彼に欠点があるとするのならば、現場主義者というところにあるのかもしれない。

 その昔、亜人族は差別階級であり、魔物と同列に考えられていたこともある。人として認められてからも、例えば探索者としてはその身体能力の高さから斥候という名の捨て駒や、運び屋としての役割しか許されなかった。

 トライフェイスはかつて不遇の時代に亜人族たちが身を寄せ合わせて自己を防衛するために、亜人族の地位を向上させ、尊厳を取り戻すことを目的に設立された探索団だった。

 ギデオンはその理念を体現しているように見える。勇敢で、我慢強く、常に先頭に立って戦いに挑んでいる。探索班の指揮者としては申し分のない逸材だ。

 だがトライフェイスそのものが今もその理念を最優先としているかと言えば、多少疑問がある。

 トライフェイス内部の種族比率は七割以上を亜人族が占めており、やや人族を見下す傾向が強くなっているし、女探索者との間にも口にはしがたい不和が生じているという話も聞いている。迷宮内で女としての役割を求めた、あるいは強制したというような。

「団長はなにをしてるの。ノーマンだったか」

「あれは、どーせ貴族の遊びだろ? 餌代もらえるったって、付き合わされる方はたまらんぜ」

 ルーの話では、探索班の構成は平等だ。もちろん先のような問題も出ているが、亜人族も人族も、ただ個人の能力によっておおむね適切に運用されている。

 だが地上の要職を固めているのは、人族に片寄っている。

 適材適所と言えば、まあそうだ。亜人族は身体能力が高い。ならば迷宮で活躍するべきだろう。そしてそうではない人族は地上で探索の成功を祈ればいい。

「本人の意思であればいいんだけど……」

 ランタンは思わずぽつりと呟く。

「なにが?」

「単独探索。あんなもの他人に強制されるものじゃない。人にやらせるぐらいなら自分で行けばいいんだ」

「お、さすが単独探索生還者。金言だな。お前の女も自分から行くって? うわあ、根性据わってる。やな女だな。浮気してて大丈夫かよ」

 男はちらりとリリララを見た。リリララは勝ち気に唇を歪ませる。

「いい女の間違いだろ。公認だよ」

 男は浮薄な口笛を吹いた。

「俺も単独探索しようかな。そしたら少しはモテるかも。っと噂をすれば三つ首の団旗が見えるな」

 男は敬礼するみたいに額に手をやって目を細めた。ランタンは身長が足りず、特区の壁に阻まれてその団旗を見ることはかなわない。

「見に行くか?」

「行かない」

 素っ気ないランタンに、流石に肩透かしを食らったようで男は肩を竦めた。

「じゃ、俺は見に行こ。ランタンの言葉伝えておいてやるよ」

「――よろしく」

「人に行かせるな、自分で探索しろだっけ?」

「うん。あとはほどほどに頑張ってねって」

「お優しいこって」

「それと根性無しの臆病者って付け加えておいて」

「よっしゃまかせろ。根性無しの臆病者、命ぐらいはてめえのを張れやこの玉無し野郎、だな」

「そう」

 ランタンは頷くと、男は喜び勇んでトライフェイス団旗が見える方の壁を乗り越えていった。

「いいのかよ。あの様子じゃ一周回って求婚でもするんじゃねえか」

「知った事じゃないよ」

 ランタンは本当に、トライフェイスなど一顧だにせず迷宮特区を出た。

 どこかで襲撃でもあるかと考えていたが、あくまでもあれはリリオンの妨害であってランタンの排除は目的としていなかったのだろう、何事もなかった。




 ブラックウッド商会。

 材木商として莫大な財を築いた豪商は、商いを手広く広げ、今では探索者に出資することで探索者ギルドの専売特許であった鉱業や結晶業の利権にも僅かながら食い込んでいる。

 農業にかんしてはサラス伯爵領とその流通や販売においてかなり良好な関係を結んでいた。

 現当主のエリックは商人ギルドのギルド長であり、さらにいえばかつては父も祖父もその地位に就いていた。ブラックウッド家はティルナバン経済界の王家である。

 もちろん議会にも顔が利く。

 ティルナバン騎士団は身に纏う装備から食事、はては明日の下着の一枚までブラックウッド商会が手配しているという。治安維持及び軍事予算の何割かが、最終的にこのブラックウッド商会に流れ着くようになっている。ちなみに探索者における犯罪率の増加著しい昨今は、その予算が比例的に増加傾向にありブラックウッド商会は潤っていた。

「難しい話をしてたよな。レティと」

「ちょっと相談されたから。役に立ってるかはわからないけど」

 古い記録を読み解くと増大した予算もかつての半分以下でしかない。百年近くの昔、無数の諸国がひしめく群雄割拠の戦国時代。当時の経済活動の規模は今よりも遥かに小さいが、しかし各国が膨大な軍事費を計上していたのが確認できる。

「なんだったか。なんとか集合体みたいな」

「軍産複合体」

「そう、それだ。金儲けのために議会に働きかけて戦争を起こすね。ちょっと信じられねえな。もうちょっとこう、志っつうのがあるだろうよ。あたしを仕込んだ糞野郎どもだって、それなりの考えはあったわけよ。貴族社会の転覆とか、届け市民の声みたいなさ。それが金儲け、……金儲けねえ、世も末だな」

「主義の一つとしてはありだよ。これがないと食っていけないし。戦争じゃなくてもいいよ。もうちょっと治安が悪化するとか、それぐらいで。迷宮崩壊事件とか、探索者ギルド、探索者の犯罪とか、魔物の襲来とか。治安維持の予算は上がるし、武器も売れる。その武器が訓練いらずで探索者が殺せるとなったら飛ぶように売れるよ。ま、悪く物事を考えた結果の悪口みたいなものだけど」

「そういや鉄砲持ってる奴がいたな。あたしとしてはあの二酸化炭素ってのが怖いけど。色も匂いもないなんてどう避けるんだよ」

「普通は使われないよ。液化するの大変だし。まあもう商業利用はされてたけど」

「どこで?」

「王都で炭酸ジュース飲んだでしょ? あれだよ」

「……飲んで大丈夫なんだろうな。窒息とか」

「してないじゃん。それにそれぐらいで窒息してたら、うかうかキスもできないよ」

 リリララはちらりとランタンの柔らかそうな唇に視線を向けて、充分に見つめてから視線を逸らした。

「なんで?」

「呼吸は酸素と二酸化炭素の交換だから」

 ランタンが少し笑いながら言うとリリララはむっと眉を顰める。

「んだよ」

「ちょっとリリオンみたいだなって。なんで、なんでってすぐ聞いてくる」

 それは些細な相似だった。だがそんな些細なところにリリオンの存在を見つけようとしている。

「あー、はいはい。もう聞かねえよ、馬鹿」

「目的地だしね」

 地上三階建てのそれは、探索者ギルドからも近くの一等地にある。暗めの煉瓦造りをしていて、ブラックウッド商会とゴールドウッド銀行の看板が控えめに掛けられている。いかにも老舗という感じがした。

 ここでは鉄鉱、材木、結晶などのブラックウッド商会が扱う品の書面上の取引や、金の貸し借りや決済代行など金融業が営まれている。

「あたしはぐるっと回ってくるわ」

「僕は中に。たぶん追い出されるだろうけど。小道具貸して」

「荒っぽいことはするなよ。レティが(けつ)拭いてくれるからって」

「するよ。探索者だもん。でもレティの手は患わせないよ。ほどほどにする」

 ランタンはリリララから小道具を受け取ると、軽い足取りでブラックウッド商会に足を踏み入れた。

 外観を思うと新しい雰囲気のする清潔な室内。だがどこかの工房かと思うほど金臭い。貨幣の臭いだ。

 ここでは売る側の力が圧倒的に強い。ブラックウッド商会に仕入れを頼っている商店や工房は少なからずある。そう言った力関係が一目で見て取れた。

 ランタンには縁の無さそうな雰囲気があったが、すぐに一人の男が近付いてきた。

「これはこれは甲種探索者ランタンさま、よくぞお越し下さいました。今日はわたくしどもブラックウッド商会に何かご入り用でしょうか? ――口座開設、それとも融資でしょうか? 迷宮由来鉱石や魔精結晶の取引なら系列のジェットウッド鉱業を紹介させて頂きますよ」

 眉の細い男だった。張り付けたようないやらしい笑みを浮かべて、語尾に合わせて左の眉だけをぴんと跳ね上げた仕草もまたいやらしい。

「その用はない。けど別の用がある。一番偉い人はいる?」

「一番、といいますと……?」

「エリック・ブラックウッド」

「エリックさまはご不在でございます」

 両の目が糸のように細くなった。戸惑いを笑みに隠しきれていない。

「ご用件を伺っても――」

「――俺が聞こう」

 どこからか現れたのは、三十過ぎほどのがっしりとした体格の人族の男だった。

 探索者やあるいは戦士ではない。重心が低く、背中が厚い。肉体労働者の身体付きだ。だが身なりはしっかりとしている。やや窮屈そうではあるが。

 男が視線をやると、細眉は小さく頷いてその場を離れた。

「オルマル・ヨッヘン。ゴールドウッド銀行、次席番頭である。エリックさまの留守を預からせて頂いている」

「次席?」

「不服か。……一介の探索者風情が」

「まあ、いいや。次席でも」

 オルマルは表情を変えなかったが、皮下を走る血管が意思を持つように脈打ったのがわかった。

 ランタンは極小さく、唇を動かす。

「臭いな。血の臭いがする」

「なんだ?」

「いいえ、何も。――さっそく本題に入らせてもらうけど、これに見覚えは?」

 ランタンは小道具を指に引っ掛けて、オルマルに見せた。

「探索者証だろう。馬鹿にしているのか。知らぬ者はいまい」

「ついさっき、これの持ち主に襲われたんだ」

「それがどうかしたのか? 珍しいことではないだろう」

「これを持たない者たちにも。まあ、それも珍しいことじゃない」

 ランタンは指に引っ掛けた探索者証をくるくると回す。それは所々赤黒く変色し、傷ついている。

「珍しいことじゃないけど、理由は聞かないといけないからね」

「衛兵に引き渡すのが筋だろう。拷問にでもかけたのか? 野蛮な探索者らしい」

「それは想像にお任せする。それで何名かがブラックウッド商会の名前を出した。心当たりは?」

「ない」

 オルマルは間髪を容れずに答えた。

「だが珍しいことではない。商売上、当商会を逆恨みする者は多い」

「つまり名を騙られただけだと」

「そうだ。我々には探索者を襲う理由がない。そんなことをしても得にはならないからな」

 オルマルの表情はやはり変わらない。血管も浮き出てはいない。

 襲撃犯に渡った金額は、簡単にひねり出せる額ではないことは判明している。だが実際にブラックウッド商会から流れているという確実な証拠はない。

 傘下の商会の暴走かもしれないし、実際にブラックウッド商会に恨みを持つ者が彼らを嵌めようとしている可能性もある。

「なるほど、今はそれを信用するとしよう」

 ランタンは回している探索者証を鷲掴みにすると、一気に握り潰した。

 オルマルの表情が流石に曇る。探索者証が異様に硬いことぐらい、この街に暮らす者なら誰もが知っている。

「……証拠品では、ないのか」

 オルマルは絞り出すように言った。

「まだ沢山あるからいい」

 ランタンはそう言って、破片を手の中に握り締める一瞬でそれを焼き尽くした。指を解くと一握りの灰があるだけだ。ふっと吹き飛ばす。灰は大気に溶けて見えなくなる。

「言いたいことはそれだけ。さようなら、次席番頭さん」

 ランタンは挑発的な眼差しでオルマルを一瞥し、その場を後にした。

「お待たせ。あれ壊しちゃった」

「いいよ、真鍮製の安もんだし。騙されてくれたか?」

「微妙。煽れはしたけど。濡れ衣だったら悪いことしたな。そっちは?」

「こりゃ要塞だな。特に金庫のある地下はがちがちだ。ちょっと手出しはできない。まあお前がまた中に入って一撃必殺に皆殺しにするんなら話は別だが」

「そんなことはしません。……挑発に引っ掛かってくれればいいんだけどな。早くても今日の夜かな」

「ま、気長に待とう」 

 ぼんやりと呟いたランタンを慰めるように、リリララが薄い背中を叩いた。

「リリオンが戻ってくるまで、まだたっぷり時間はある」

 ランタンは余計に落ち込んだようだった。


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