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「雑だな、まったく」
折れた指を見るなり医者の男は舌打ちを一つ漏らしてそう呟いた。
「で、傷は他にもあるんだろ。どこだ?」
そう続けたギルド医はゴツゴツとした人相をしていた。怪我を見せてみろ、と差し出された手に金銭をせびるような獰猛な雰囲気が漂っている。探索者ギルドには引退した探索者も多く務めているので男もその内の一人なのだろう。治すよりも傷つける方が似合いそうだ。
ランタンがのそのそと上着のボタンを外し、それを脱ごうとし手間取っていると背後でその様子を窺っていたリリオンがそっと袖を引き抜くのを手伝った。そして甲斐甲斐しく肌着にも手をかけそれも脱がせる。
清潔感のある白々とした魔道光源の光にランタンの裸の上半身が晒された。
ランタンが右手を差し出すと医者は前腕に巻かれた包帯を解いた。体液が染み出した包帯が傷口に張り付いていたが、ギルド医の太い指はまるで痛みも感じさせずに傷口からそっと剥がした。
あらためて見ると傷口の酷さが目に付いた。背後でリリオンが息を呑んだ。
皮膚を削ぐように斜めに切られた傷口が手首から肘にまで無数に刻まれている。出血は止まっているが、それ故に剥き出しになった傷口は出来損ないの果物彫刻のような有様だった。繋がったままの皮膚がふやけて捲れ上がり、その下にはピンク色の肉が覗いている。
背後から注視していたリリオンの視線が外れるのを感じた。またランタンも平気なふりをしてはいたが、実は焦点を合わせないようにしていた。見るだけで痛みが増すような気がしたのだ。
「傷薬をつけ過ぎだ。まったく、傷口が塞がるのを邪魔してる。パテじゃないんだぞ。――少し染みるからな」
ギルド医は濡らして絞った布で皮膚を引き千切らないように患部を拭いた。ランタンはきつく瞼を閉じて呼吸を止め、奥歯を噛み締めた。傷薬を塗ったのは自分なので自業自得だが、少し染みるという言葉は完全に嘘で、詐欺で訴えれば勝てそうなほどの痛みだった。
ギルド医は指に巻き付けた布で傷口を埋める軟膏を掘り返したのだ。ランタンの額にじわりと油っぽい汗が浮かんだ。
ランタンが拷問のようなその時間を耐え切り疲れきった様子で瞼を持ち上げると、ギルド医は太く笑った。それは内心はどうであれ悲鳴一つ漏らさなかったランタンへの称賛だった。だが正直な所そんなものよりも痛み止めがほしい、と思った。
「傷口は深くはないから縫わなくてもいいだろう」
ギルド医はそう言うとアルコールの染みこんだガーゼで腕をあらためて拭いた。剥がれた皮膚を傷口に貼り付けて、その上から薄い膜を被せるように薬を塗る。淡い桃色の軟膏ですべての皮膚を傷口に固定すると、その上にガーゼを置いて新しい包帯で腕を包んだ。
「まぁ若いからこれぐらいなら寝て起きれば治るだろう……完治じゃあないからな。二、三日は皮膚が引っ張られるように感じるだろうが生活には支障がないはずだ。あと今夜は痒くなるが掻いたら皮膚が剥がれるから我慢しろ。いいな?」
「はい」
「探索は絶対するなよ」
頷いたランタンをギルド医は半眼で睨んだ。
疑惑の視線に晒されて、素直に頷いたというのにも拘らず一体どういうことなのだろう、とランタンは腑に落ちない顔をしていた。が、その実ランタンには同じようなことを言われたがそれを無視して探索をした過去がある。その時にはもう少し酷い怪我をして医務室で大騒ぎをしたものだ。その時の担当医は目の前の男ではなかったが、そのことを知られているようだ。面倒なことだ。
「ふんっ」
「いっ――」
ランタンは白々しく内心でそんなことを考えているとギルド医は無言で左の手首を掴んだかと思うと、折れた二指を握りしめて一気にそれを伸ばした。骨伝導で骨が擦れる嫌な音が全身を駆け巡り、次いでなんとも気持ちのいい、まさにパズルのピースが嵌ったとでも言うべき音が響いた。
伸ばされた指が開放されて、ランタンは内心物凄くドキドキとしていたがそれを隠して軽く拳を握った。まだ腫れがあるので上手く握り込むことはできないが痛みは全くない。乱暴なように見えて完璧な骨接ぎだった。
「あたり前だがくっついてる訳じゃねぇからな」
「はい、わかってます」
素直に頷くランタンに先ほどと同じ視線を寄越したギルド医は、骨接ぎした指を一本ずつ非伸縮性のテープで固めた。
「……ったく。で、肋骨もだな。くそっ、痛み止めを塗りすぎだ。その内効かなくなるぞ」
肋骨に触れると悪態をついた。その悪態に背後のリリオンがビクリと震えたのでランタンは小さく笑った。これを塗ったのはリリオンだ。
「ゆっくり息を吐いて腹をへこませろ。――まったく、まぁよくもこれだけ折ったもんだな。内臓に刺さってないのは幸運だが、もうちっと気をつけろ。そのままへこませて、――息を止めろ」
言われるがままに呼吸を止めて、痛みに備えた。
当直の医者により腕の善し悪しや処置の方法は変わるが、その多くで痛みを伴うことをランタンはよく知っていたし、腕や指の治療を体験し目の前のギルド医が充分に荒っぽいことはすでに実感していた。
ギルド医は指を滑らせてランタンの肋骨の状態を確かめると、太いその指をいきなり肋骨の内側に刺し込んだ。
「――っ」
来るべき痛みに覚悟を決めていたのに。
この世界でも医術はある程度体系化していたが、これはそこから逸脱している。迷宮内での素人なりの応急処置から、あるいは魔物を破壊する技術からその枝葉を伸ばし形作られたのかもしれない。
ランタンは声のない悲鳴を上げて大きく跳ねた。だがリリオンによって肩を押さえつけられ、その場から逃げることはかなわない。一体いつの間に医者の手先になったんだ、と叫びたいが声は出なかった。痛みの強弱で言えば戦闘での痛みのほうが余程強烈だ。だが医務室での痛みは、質が違う。
胴に張り付く皮膚がまるで柔らかいゴムにでもなったように、ギルド医は人差し指から小指までをずぶりと鳩尾に押し込んだ。ずれた骨を内側から引き出して、それを親指でそっと押し付けるようにして鳩尾から背骨までをぐるりと形を整えていった。
まるで花器でも練り上げるような繊細かつ大胆な指使いは洗練されていて芸術的でさえあったが、ランタンはその技に感心している余裕はなかった。身体の内部を弄られる気持ちの悪さとえづくような痛みが過ぎ去るのをただ耐えるばかりだ。
「――よしっ、と。嬢ちゃん、もう放していいぞ。いい仕事だ」
治療に耐えた自分ではなくリリオンを褒めるギルド医をランタンは軽く睨んで、胸を張るようにゆっくりと身体を伸ばした。悔しいことに痛みの残滓は治療によるもので、骨折自体の不快さは消えている。なまじ腕がいいだけに、もっと優しくできるのではと思ってしまう。
「肋骨は固定できないから――わかってるな。骨は寝て起きてもくっつかないからな!」
怖い表情のギルド医に、もう三度目だよ、と内心で零しランタンは拗ねた顔付きで頷いた。
迷宮を一つ攻略し終えて区切りがついたのだから、わざわざリスクを背負ったまま無茶なことをするつもりはなかった。もし独りであったのならば分からないが、少なくともリリオンを連れている間は。
「……大丈夫ですよ。わかっています。無理はしません」
ランタンはそう言うと床を蹴って回転椅子を回してリリオンを振り返った。手を差し出して、服と一言呟いた。そして手渡された肌着に袖を通そうとした。だが背後から、おい、とギルド医に声を掛けられたのでその手を止めた。
「何だぁその頭は」
ギルド医は振り返ろうとしたランタンの頭をむんずと掴かみ、ざんばらな襟足を指で弾いた。外側の髪だけが多く残ったランタンの襟足はまるで鋏みの短いクワガタのようでみっともなかった。
「なんだと言われましても」
名誉の負傷だと嘯きたいところだが、涼しげになった首筋のそれは結局のところはただの油断の現れだった。
最終目標による魔道の行使を早々に、ないと決めてつけてかかったのはランタンの見通しの甘さに他ならない。ランタンがリリオンに対して先輩面をできるのはリリオンが何も知らないからであって、ランタンの探索者としての能力は、戦闘力に多少は秀でているかもしれないがまだ青い未熟さに溢れていた。
「切ってやるから動くなよ」
ギルド医に後頭部を晒している、と言うことはリリオンと向かい合うことと同じである。
リリオンはランタンの上着を大事そうに抱えたまま、じっとランタンを見下ろしている。その瞳の気遣わしげな雰囲気がランタンの羞恥心を掻き立てた。
逃げ出したくなるほどに恥ずかしい。だがもし逃げ出したら襟足が今よりもっと恥ずかしいことになってしまう。袖を通しかけた中途半端な肌着がまるで手枷のようにランタンを縛っている。
ランタンは大胆に入れられる鋏に無駄な襟足が切り取られ、するりと形が整っていくのを感じていた。こんな風に簡単に、体裁を整えられたらどれほど楽だろうか。
「よっし。まぁこんなもんだろう」
ギルド医が首筋に散った毛を払いながら言った。ランタンは襟足を一撫でして、椅子ごとくるりと回転した。
「どう? リリオン」
「――さっぱりして、わたしそのほうが好き」
そう言ったリリオンはランタンの首に顔を近づけてまだ残っている毛をふうと吹いて、背に零れた小さな毛筋を一つ一つ指先に摘んだ。
「……それはよかった。――リリオンも毛先だけでも揃えてもらったら?」
ランタンは首を切り落とされることもなかったので、再び身体の向きを変えてリリオンに提案してみた。
それはリリオンの手から上着を受け取る代わりに、ただなんとなしに手渡した言葉だった。リリオンも嵐熊によって髪を切断されている。見栄えとしてはランタンほどひどくはないが、短くなった三つ編みを解けばやや右上がりに斜めになっている。
「いい」
だがリリオンの答えは明確な拒絶だった。
「わたしは、いいわ」
リリオンは空になった手を硬く握りこんでいる。ランタンは浅い角度で首を傾け、ほんの少し訝しげな視線をリリオンに向けた。
そして再び襟足に触れ、小さく安堵の息を吐く。ランタンが気がつかなかっただけで実は散髪が失敗していたのかもしれない、と思ったのだが特にそんな事はないようだ。
「ま、時間もないしね」
ランタンは爪が掌に食い込むその拳を優しく叩いて、ギルド医に向き直った。
人相が悪いのでリリオンは怖がったのかもしれない。ランタンは鋏をしゃきしゃきと鳴らしたギルド医の顔を見みつめた。髪を梳き、切り取るその指先自体はとても繊細だったが、顔が同じ視界に入ると途端に耳でも削ぎ落とされるんじゃないかという気がしてくる。
思考を読まれたのかじろりと睨まれたランタンはわざとらしく視線を逸らし、膝の上に丸めていた上着をきれいに折りたたんだ。上着は右袖がズタボロの血まみれで、迷宮内ならまだしも一度脱いだからには再び袖を通す気にはなれなかった。
ギルド医が鋏を手放し、書類にサラサラと文字を走らせてそれをランタンに渡した。ランタンは相も変わらず文字は読めなかったが、それが癖字だということだけは判った。この世界でも医者の書く字は絡まった糸のように崩れている。
「治癒促進剤出しとくから寝る前に飲めよ。患部が傷んだ場合は薬に頼らず冷やせ」
「はい、ありがとうございます」
きちんと感謝の念を込めてランタンは頭を下げた。しかし顔を上げるとやはり半眼のギルド医の表情がある。
「あと栄養剤もください、二つ」
ため息を吐いたギルド医はそろりと指を伸ばしてランタンの左胸を強く突いた。
「髪も切ってやるし、怪我も治してやれるが、死んじまったらどうにもできねぇからな」
怪我の痛みはなくなったというのに、なんとも耳の痛い話だ。ギルド医はランタンから書類を奪い取ると書き込みを加えて、出て行けとでも言うようにそれを乱暴に押し付けた。
「嬢ちゃんも、髪切りたくなったらいつでも来な。べっぴんさんにしてやるぜ」
ギルド医は精一杯の笑みなのであろう、にっと笑ったがどうにも牙を剥いて唸る肉食獣にしか見えない。リリオンはその笑みに震えるように頷いた。
ランタンはそのちぐはぐなやり取りを面白く思いながらも、場の空気はリリオンにも医者にも決して良いものではなかったのでリリオンの腕を取って医務室を後にした。丁寧に医務室の扉を閉めて、ランタンは笑いを堪えて溜まった肺の空気を入れ替えるように大きく息を吐いた。
「あー、顔の怖いお医者だったね」
「うん」
「でも腕は確かだったよ」
こっちの方も、と付け加えて髪を指すとリリオンは手を伸ばして襟足を撫でた。犬を撫でるような擽ったげな感触をリリオンは楽しんでいるようだったが、やられているランタンからすると鬱陶しい。摩擦熱で燃えそうだ。
「――リリオンも切ってもらえばよかったのに」
ランタンがそう言うとリリオンは項垂れるように手をおろした。
「だって、――怖かったんだもの」
それではしかたがない、とランタンは肩を竦めた。怖がるリリオンをからかうよりも、医務室内でそれを口に出さない分別を褒めたい気分だった。
外套の裾をこねていたリリオンはその指先を甘えるように伸ばしたが、しかし何時もならば摘むことのできる上着や外套をランタンは装備しておらず、結局リリオンは弛みのない肌着の表面を悔しげに撫でるだけだった。
ランタンはその手を軽く叩き落として、支払い済ませてくる、とギルド医から渡された書類をヒラヒラとさせた。
「わたしも行く」
リリオンは振り返ったランタンのスボンのベルトをはしと掴んで引き止めた。
「お金払うだけだよ」
「行くから」
見ていても楽しいものではないだろうが、ついてこられて困るものでもない。ひっつき虫状態はまだ収まっていないようだ。ランタンは後ろを離れずついてくるリリオンの気配を感じながら受付台に書類を提出し、提示された診療報酬と薬代を支払った。そして小さな紙袋と二本の小瓶を渡される。
「どうも」
紙袋の中身は医者の言っていた治癒促進剤だ。透明なカプセルに透明な液剤が詰められている。
ランタンは紙袋をポーチにねじ込み栄養剤の一つをリリオンに渡した。
「やたら甘いから後で水割りにして飲もう。飲めば明日の筋肉痛が幾らかマシになるから」
ランタンは栄養剤を受け取るのを躊躇うリリオンにそれを押し付けた。
「うん、……薬って高いのね」
「これでも探索者値段だよ、それに治療代も一緒だからね」
ここで購入できる薬は購入数を制限されているし、取り揃えている種類も多くはなかったが、普通に買うよりはわずかに割引がされていた。さすがに魔道薬などは処方箋なしに購入することはできず、治療に使われた場合には稼ぎの少ない探索者などは破産するほどの金額を請求されることもあるがそんな例は稀だ。魔道薬と言ってもピンキリであり、今回処方された治癒促進剤も魔道薬だがキリなので破産しない。
診療報酬もおそらく高くはない、と思う。ランタンは他の治療施設を教会の経営する救護院しか知らなかったが、あそこは治療代がお布施などという有耶無耶したものだったので明瞭会計を好むランタンはどうにも馴染めなかった。
「命の値段だからね。安いぐらいさ」
ランタンは言ってギルド内を進んだ。
今からその命をかけて得た物を金に換えるのだ。各種手続きは面倒くさくもあるが、自分の働きが明確な数字になるのは判りやすくて好ましい。いや、そういった些細なことに楽しみを見出さなければやっていられないのだ。
ランタンの足取りは知らず重たくなっている。
今は時刻が遅い時間帯なので買取施設は半分眠っているような状態だった。複数ある受付台は半数以下しか稼働しておらず、それでも余るほどしか探索者はいない。時間を持て余している受付嬢にランタンはギルド証である腕輪を渡した。
「ほらリリオンも」
その様子を後ろから見ていたリリオンを促して、同じようギルド証を提出させる。
どの探索者が何を持込みどれほどの金額を取引したかはギルドに記録され、探索者の等級を定める際の指標の一つとされる。丙種から乙種へ、乙種から甲種へと位が上がればギルドから受けることもできる恩恵の品質も上がるのだ。
そのため探索班で得た物を抜け駆けして個人で持ち込むというようなこともあるらしく、それを引き金に探索班が解散するとこともあるようだ。あるいは解散寸前だからこそなのかもしれないが。
またシビアな値段付けをするギルドの買取施設に獲物を持ち込むか、それとも他の買取施設に持ち込むかも探索者にとっては悩みの種らしい。もっともランタンにはあまり関係のない話だった。複雑な人間関係や、知らない店などには可能な限り近づきたくもない。
医務室に行く前にここにはすでに一度立ち寄って要件は伝えてある。迷宮核の持ち込みはこの買取施設で取引される物の中で最も特別な物の一つだった。これを持ち込む探索者は夜遅くだろうが朝早くだろうが歓迎される。
受付嬢はギルド証を白い手袋で一撫でして、深く一礼した。
「はい、乙種探索者ランタン様、丙種探索者リリオン様ですね。ご用意はできておりますので奥のお部屋へとお進み下さい」
頷いたランタンはさも当然そうに受付嬢に腕を差し出し、受付嬢もその差し出された腕にまるで下女のようにギルド証を嵌めた。
リリオンも真似をするように腕を差し出したが、炎に触れるかのようにおっかなびっくりしている。そんなリリオンに受付嬢は安心させるように微笑んだ。ギルド証の情報からリリオンが新人で、さらには買取施設も初めてだとバレているのだろう。
「あ、……ありがとう、ございます」
「――良いお取引であることをお祈りしております」
書類を受け取り、受付嬢に見送られて買取施設のその奥へと足を進めた。
「あっちじゃないの?」
物珍しげに視線を彷徨わせるリリオンは、他の探索者が足を向ける個室が連なる通路を指さした。
「普通の買取はね。迷宮核の持ち込みは別」
やや紫がかった褐色で木目も美しい重厚な扉が買取施設の奥にある。扉の脇にはギルド職員が一人待ち構えている。ランタンたちが近づくと職員自体が扉の一つの部品であるかのように、滑らかな動作で扉を開いた。
リリオンがお化け屋敷にでも入るかのようにランタンの腕に縋りつき、頭を下げるその職員の脇を抜けて扉を潜った。
まず感じるのは足の裏に伝わる柔らかさと、視界を白く染める眩しさだ。扉の奥の通路には生い茂る芝生のような赤い絨毯が敷き詰められていて、天井には葡萄の房に似たきらびやかな装飾照明が光を放っている。広々とした廊下にはきっと高価なのであろう彫刻や絵画が飾られていて、リリオンは誘蛾灯に引き寄せられる虫のようにそっと手を伸ばそうとした。
「壊したら破産だから気をつけてね」
「ひっ」
何気なくそう言うと強力な磁石で引き寄せられたようにリリオンはひっしとランタンにくっついて、美しいその美術品がまるで醜悪な汚物であるかのように怯えた様子を見せた。
「傷つけなきゃいいだけの話だよ」
そんなふうにランタンは言ったが、ランタン自身もこの品々に触れる気にはなれない。ランタンは芸術に対する教養などこれっぽっちも持ち合わせてはいなかったが、この場の雰囲気だけでもこれらがただ事ではない品々だということだけは肌で感じることができる。
扉の外側の実務的な買取施設に比べて、ここはまるで貴族の館のようだった。
一定の温度に保たれた清潔な空気。称えるように降り注ぐ魔道の光。踏みつけることで己が偉くなったかのように錯覚させる柔らかな敷物。物言わぬ美術品が、まるで洗練された召使いのように頭を垂れて出迎えている。
「あぁ、あそこだ。リリオン離れて」
通路には充分な距離を置いてぽつりぽつりと扉が備えられている。それはこの通路に通じていた扉によく似ていたが、より一層重々しい雰囲気がある。それは暗い金色のドアノブのせいなのかもしれないし、その扉の奥に待ちかまえている面倒をランタンが知っているせいかもしれない。
ランタンは扉のノックしようとして躊躇った。扉を開くことには、妙な緊張感がある。
「どうしたの?」
そんなランタンにリリオンが声を掛けた。
「どうもしないよ。……さぁ行くか」
肚を決めたランタンは二度小さく扉を叩き、できるだけ堂々とゆっくり扉を開いた。
ため息が出るような部屋だ。
落ち着いた真珠色の壁に囲まれた広々とした部屋は洗練されている。
窓がないのに圧迫感がないのは天井が高く、壁にかけられた風景画がまるで窓を開け放ったかのように真に迫っているからだろう。調度品は格調高く、そこに収められる鑑定道具も通常の個室に置いてある物よりも光り輝いて見える。絨毯は更に柔らかく脛まで沈み込むかのようだ。
ランタンは靴の泥でも落とすかのように足元の感触を確かめていたが、それは逃避行動だった。部屋の中央には水晶を削り出した見事な机があり、その奥にはギルド職員が三人も座っている。
一人は初老の鑑定士だ。灰銀の髪を綺麗に撫で付け、穏やかで理知的な細い顔には年齢の分だけ皺が刻まれている。雰囲気から察するに探索者上がりの鑑定士ではないのだろう。魔精結晶を鑑定してもらうことには何も問題はないが、この老人に使えなくなった戦闘服の鑑定させることには多大な羞恥を伴いそうだ。
一人は女の魔道職員だ。象牙色の魔道衣に身を包んでおり、そのゆったりした衣の上からでも分かるほど痩せていた。神経質そうな氷色の瞳でランタンたちを眺めている。魔精を読むことに特化した瞳に見つめられると衣服どころか、皮膚を透過して魂を見られている気分になる。気分のいいものではない。リリオンもそれに感づいたのかランタンの背に隠れた。
彼女の役割は鑑定士と協力して迷宮核を鑑定することと、ギルド証の情報を読み取り探索の記録を露わにすることにある。どれほどの情報をどれほどの精度で読み取られるかを探索者は教えられなかったが、少なくとも攻略の成否を隠し通すことは不可能であった。
最後の一人は迷宮管理部の職員だ。この三人の中でも最も癖のない顔をしている。やや仕事疲れをした隈のある目に、パラパラと撒いたように生える顎の無精髭がみっともない。これといって特筆するべきところのない男だが、だからこその進行役であり、質問者でもある。
リリオンの背後で扉が閉まるとほとんど同時に男は立ち上がり、二人を出迎えた。
「ようこそおいでくだいました。お疲れでしょう、どうぞお掛けになってください」
お疲れなのでそのまま回れ右して帰宅したかった。腰を下ろしたが最後、疲労は更に積み重なるだろう。笑うような声に促されランタンはゆっくりと椅子に腰を下ろし、書類を机に滑らせた。
「リリオン、背嚢下ろしな」
「どうぞお座りください。自分の家のように楽にしてくださって構いませんよ」
椅子に座っていいものかとどぎまぎしているリリオンからランタンが脱がせるように背嚢を奪うと、すかさず進行役が定型句を飛ばした。
リリオンはランタンを見て、ランタンが頷くと恐る恐る椅子に座った。椅子には通路にあった美術品に加えてもいいような見事な刺繍が背もたれから座面にかけて施されている。象嵌細工の肘掛けを避けて固めた拳を太腿においたリリオンはどこまでも沈むようなクッションに怯えていた。
その様子はとても楽にしているとは言いがたいが進行役は次の段階へと進んだ。
「本日は二六二迷宮の迷宮核をお持ちいただいたということで――」
進行役の男は台本を読むようにランタンたちを褒め称え、迷宮に散った過去の探索者たちを悲しみ、これを攻略したことを喜んだ。
舞台の幕を開けるための前口上だったとしても、ひどくお粗末な茶番である。リリオンなどは怯えながらも何のことか判らない顔をしているし、ランタンもつまらない表情を隠さなかった。
ランタンは長々としたその口上を最後まで聞き終えて、それからようやく背嚢の中身を机の上に広げた。
戦鎚を振り回すだけで済む最終目標と戦う方が気が楽だ。ランタンは魔精結晶を机の上に並べながら憂鬱なため息を吐き出した。
鑑定士と魔道職員がゆっくりと身を乗り出して、二人はランタンが魔物と対峙するときと同種の笑みを口元に浮かべるのだった。




