002
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下街でよくある揉め事を、よくある形で解決したランタンは、その後の始末を淡々とこなした。
男たちの死体から剥ぎ取った戦利品の多くは小遣いにもならない。その中でも唯一価値のあるものはリーダー格の男が指に装着していた命令指輪と女の首に装備されている奴隷首輪の一式だろう。魔道式の道具の価値はピンキリだが、この絶大な効果を持つ装飾品の価値は高い。上手く売りさばくことができれば荒らされた部屋の補償をし、戦鎚を除くランタンの装備品を全て上位更新しても尚、釣りがくるだろう。
ランタンは男から剥ぎ取った指輪を唯一フィットする親指に装備し、女の首輪を外した。女の首に巻き付く奴隷首輪は指輪を近づけると共振するように短く震えて、はらりと緩む。外してしまえばなんという事はない銀糸の首輪である。
ランタンはそれを含めた金目の物を背嚢にしまい込み、死体と女を見下ろしてしばらく逡巡した。死体はこのまま捨て置いておけば大鼠のような害獣が処理し、明日の朝には骨も残らないだろう。
問題は女である。
保護をしても良いが、積極的にそれをする理由はない。襤褸一枚を着た見窄らしい姿には、恩を売ったとしても見返りを期待する事は出来ない。女の身体能力は素晴らしいものだったが、仲間を嘱むつもりのない単独探索者のランタンには関係のないものだ。
しかし見捨てる事が出来ないのがランタンだった。
一年前、迷宮の底から這い出し、この下街で過ごした探索者としての生活はランタンの身体に随分と馴染んだ。だがそれ以前の世界で染み付いた甘やかな一般常識を全て失ったわけではなかった。この世界でランタンの持つ常識は美点ではなく欠点とも言えたが、それを忘れようと努めた事はなかった。
ランタンはぐったりとした女を肩に担ぎあげた。
女は痩せている割には軽くはなかった。皮膚のすぐ下にある骨が硬く軋む。骨格がランタンよりもよっぽどしっかりとしているのだ。
部屋に戻ろうと一歩一歩足を進めると、女の白い髪がランタンに絡みついてくる。乾燥して瑞々しさの一欠片もない髪だ。ランタンが鬱陶しげにそれを払うと蜘蛛の糸のようにはらはらと引き千切れた。
女の鳩尾に肩がめり込む度に蛙の潰れるような呻き声が聞こえたがそれを無視し、集合住宅の外階段を上がる。そして扉の傍らにある夕飯を見た瞬間、ランタンの腹が訴えるように鳴いた。女の体が一気に重さを増したように感じた。
ランタンは女を扉の横に座らせて、夕飯を手にとった。肉は冷たく、黒パンはさらに固く、スープは浮いた油が固まっている。ランタンは諦めのため息を一つ吐き出して、腰から細身の狩猟刀を抜き取った。
ランタンは刃でスープを撹拌すると、濡れた刃を拭うように黒パンを横に切り裂いた。そして肉を黒パンに挟み込むと、冷えた肉とパンはあっという間にローストビーフサンドイッチへと変貌を遂げた。
玄関扉を開け放つとランタンは煽り止めのように扉を背に座り込む。室内は窓がないので臭いが篭っている。他人の臭いと戦闘の残り香は飯のおかずには成り得なかった。
「いただきます」
ランタンはぽそりと呟いてサンドイッチに食らいついた。
肉は上街のものだけあってとても美味い。かすかに香る香辛料と塩の加減がうまく肉に馴染んでいる。だが黒パンは乾燥してざらついて、噛み締める度に口内の水分が失われる。ランタンはサンドイッチを飲み込む前にスープに口に含んだ。すると口の中でホロホロとパンが崩れていく。上品な食べ方ではないが、正しい食べ方である。
つい昼まで迷宮内での保存性と携帯性のみを突き詰めた素っ気ない食事をしていたランタンは、さらに空腹も相まってあっという間に食事を終えた。冷めているとはいえ探索食とは比べるべくもないご馳走であった。
食事を終えると、次にはすぐ睡魔が襲ってくる。探索者というだけあってランタンは迷宮内で何日か不眠不休で動く事も出来る。だがそれは緊急時に無理を押してという前提の話であるし、一歩外に出てしまうとその緊張感を保つ事は難しい。
ランタンは大きな欠伸を吐き出すと、眠気を置き去りにするように勢い良く立ち上がった。
女の首根っこを掴んで部屋の中に引きずり込み、扉を締める。そして鍵を掛け、ドアノブに女の両手首を革紐できつく縛り付けた。
ランタンは女を助けたが、女はランタンに助けられたと思うとは限らない。そのまま逃げ出す程度ならば構わないのだが、助けられた事はそれとして寝首を掻こうとする可能性もある。
たとえ疲労にまみれて眠っていてもランタンは近づくものを感知でき、また襲われても対処をする自信があったが、女の身体能力は未知数だ。負けるつもりはないが、助けた者を殺すのも馬鹿らしい。
枷を嵌められた囚人のような姿は窮屈だろうが、女は客ではなく、今はまだ侵入者の生き残りでしかない。死体となった男たちとの違いは、ランタンが女を哀れに思ったという、ただそれだけの気紛れである。
女が目覚めるまで女の処置を決める事は出来ない、と言うよりはランタンはもう考える事が面倒くさくなるほど眠気に支配されていた。部屋を、ただ瞼が落ちているだけなのか、睥睨して床に散らばったゴミ屑を蹴り飛ばすように足で部屋の隅に纏めた。
ベッドまで辿り着くとそのまま身投げするように身体を横たえたかったが、ベッド上の惨状はゴミ溜めといって差し支えなかった。ランタンはまず、たった三日の間に加齢臭の染み付いた枕を苛立ちの赴くままに壁に投げつけて、ベッドマットからシーツを剥ぎとった。食べ滓や乾いた泥土がざらりと床に散らばるが、ランタンからはもう溜め息さえも出ない。
背嚢を下ろし武器をベッド脇に立てかけると、ランタンは靴だけを脱いで剥き出しのマットレスに、ようやく身体を放り投げた。迷宮内の硬い地面でとった仮眠に比べれば天上の寝心地だ。自分の匂いを確かめるようにぐるりと外套に包まると、ランタンは一瞬にして穏やかな寝息を立て始めた。
だが、どうやら今日はランタンにとっての厄日であったらしい。
寝息だけが響く部屋に、無粋な金属音が響いたのだ。
ドアノブを壊さんばかりにガチャガチャと揺する音が、ランタンの意識を急速に覚醒させた。女が目覚めたのだ。
ランタンは外套に包まったまま、しばらくその無遠慮な音をじっと聞いていた。どうやら女は革紐の拘束から逃れられないようである。あの恐ろしい反射速度ほどの腕力は持ち合わせていないようだ。それならばこのまま放っておいてもよいかもしれない。五月蝿い事には五月蝿いが、そこに危険が伴わなければただの雑音だ、と無視を決め込んで再び眠りに就く事もできる。
ランタンは薄く開いた瞼を静かに下ろした。
女はしばらく拘束を外そうと努力を続けていたが、次第に金属音が弱々しくなっていった。革紐が手首に食い込んで痛いのか、音に小さな呻き声が混ざり始めた。
「だ、れかぁ……たすけ、……ぁ」
掠れた声だった。夕飯の黒パンのような、水気のないパサパサとした女の髪のような。ぶちぶちと千切れた声が、女の喉から零れ落ちるように発せられていた。
女は何度も何度も、辿々しい助けを求めている。時折咳き込み、引きつった荒い呼吸。声が震え、次第に言葉に湿り気が混ざり始めた。
女は外套に包まり微動だにしないランタンを、ベッドに置かれた荷物か何かと勘違いしているのか、その存在に気がついていないようだった。女が発する助けは、ランタンに向けられたものではない。迷子の泣き声のように、腹から広がる不安が無指向に発露したものだ。
ランタンは断熱性の高い外套に包まれながらも、鳩尾の辺りから身体が冷たく、嫌な気持ちが浮かび上がるのを感じた。過去に見覚えのある身に沁みた孤独の不安が、再びランタンを溺れさせようとしている。
目を瞑れば瞼の裏に過去の孤独が鮮明に映る。それは悪夢そのものだ。
ランタンはもう眠るのを諦めた。金属音はただの雑音だが、女の泣き声は精神攻撃そのものだ。耳の奥底で反響し、脳を掻き回す。こんな状況で眠る事は出来ない。
このままでは女と同じように、泣きだして動き出せなくなってしまう。ランタンはそうならないように、もぞりと身体を起こしてまだ少し眠たげな眼をそのままに女に視線を向けた。
女は一度ビクリと体を震わせて、身体を氷のように硬くした。光源の落ちた室内は真っ暗で、その表情を窺い知る事は出来ない。
ランタンは小さく喉を鳴らして苦笑した。
暗闇の中に浮かぶランタンのシルエットに、どんな想像を膨らませているのだろうか。ランタンは屈強な人相体格の多い探索者の中に在って珍しく大人しい容姿をしている。その姿を侮られる事は多くとも、恐れられる事は皆無だ。
カタカタと小さくドアノブが震える音が鳴り出して、ランタンはベッドから降りると天井にぶら下がった魔道光源を指で弾いた。衝撃を受けた光源が柔らかいオレンジ色の光を室内に広げた。
「ひゃっ」
不意の光に瞳を焼かれた女が小さく鳴いた。女は腕で顔を隠すように身体を縮こませている。ランタンがそちらへ歩いてゆくと、甲羅の中から辺りをうかがう亀のようにそっと顔をもたげた。
恐れと不安に引き攣っていた顔が、ランタンの顔を見た途端にほのかに和らいだ。赤く充血した瞳がまっすぐランタンを捉えている。
さてどうしたものか、とランタンは一瞬思案し、口を開いた。
「おはよう」
女は零れ落ちそうな瞳を大きくパチリと瞬かせた。瞬く音が聞こえそうなほどの沈黙が広がり始めた瞬間、目を覚ましてまず言うべき言葉はこれだろうと、ランタンは再び、おはよう、とゆっくり繰り返した。
繰り返したランタンの首が仄かに赤い。もしかしたらランタンなりの精一杯のユーモアであったのかもしれない。
「……お、おはよう、ござい、ます」
じっと見つめるランタンに根負けしたのか、それともランタンのユーモアに気がついたのか女はついに目覚めの挨拶を口に出した。ランタンは満足気に小さく頷き、腰を屈めて女と視線を合わせた。
「さて、いくつか聞きたい事があるんだけど、まず最初に一つ」
ランタンはぴんと人差し指を立てた。
「嘘偽りなく答えるのならば、それは外してあげる」
立てた指で手首を拘束する革紐を指すと、女は縋るような瞳で必死に頷いた。
「うそ、は……言わない、わ。ほ、んとよ……」
絞り出した声が痛々しくひび割れている。ランタンは指さした指を今度は唇に当てて黙るように促した。女はすぐに察して口を噤んだ。
「ま、簡単な質問さ。その拘束を外したら、きみは暴れる? 頷くか、首を振るだけでいいよ」
女は噛み締めるように唇を真一文字に結んだまま、首を横に振った。ばさりと白い髪が女の顔を覆い隠した。女はその髪に目隠しされ、ランタンを伺う事が出来ないのを嫌がったのか何度も頭を動かした。
「動かないで」
女はびたりと動きを止めた。その様は外した筈の奴隷首輪が未だに効力を発揮しているかのようだった。ランタンにはこの女が嘘をつけるとは思えなかった。
ランタンは手を伸ばし、リボンでも解くかのように女の手首を革紐から解放した。女は自由になった手でそっと自分の首に触れて、確かめるように何度も撫でた。手首の赤く擦り切れた痕がちらりと覗いた。
「あ、あ、ありが、とう、ございま、す」
だが女はその傷を気に掛けず、ランタンに頭を下げて感謝を述べた。一体何に対しての感謝なのか、ランタンは胸がざわつくのを感じた。ランタンは差し出された女の後頭部を耐えるように見つめていたが、すぐに目を逸らした。
「別に、そういうのは要らない」
差し出された感謝を押し返したランタンは、女の眼の前に手を差し伸べる。
「立ち上がれる?」
女は目の前にあるランタンの手に困惑しているようだった。女はランタンの手には掴まらず、生まれたての動物のように何度も立ち上がろうと蠢いたが、結局立ち上がる事は出来ずにいる。そして再びランタンの手を見つめて、震えながら手を伸ばした。まるで自らの汚れを恐れるように。
「誰が、ここまで運んできたと思ってるの?」
「あっ――」
我慢しきれなかったランタンは強引に女の手を掴むと、胸に収めるようにあっという間に女を引き寄せた。この調子では肩を貸して部屋の奥に連れて行くだけで夜が明けてしまう。そう考えたランタンは有無を言わせず女を胸に抱きかかえた。
骨ばった体が腕に食い込み、毛虫のように女を包む髪がランタンの口を塞ぎ、鼻を擽る。女の体からは、様々な臭いがする。蝋のような甘い臭いから、獣のような獣臭まで。この世界の人間はランタンの常識からするとほぼ全員不潔だったが、この女も大概だ。
ランタンは放り出したい気持ちを堪えて、女をそっと床に下ろした。
女は一人で立てはしているものの、ランタンの支えが外れると風に吹かれるカカシのようにふらついている。ランタンは部屋の隅にある一人掛けのソファを引きずってきて、押さえつけるように女を座らせた。女は慌てたように極浅く腰掛る尻の位置をずらして、自らの接地部分を出来るだけ減らそうと努力している。
ランタンが呆れた視線でその姿を見ていると、それに気がついた女がそっと目を伏せた。艶のない髪や張りのない肌、貧相な痩躯は女を老いているように見せるが、振る舞いや恥じらう姿はどこか幼さを感じさせる。
「ちゃんと座って、変に気を使わなくていいから」
「……はい」
ランタンは女が必死に背筋を伸ばして背もたれを使わないようにしながら深く腰掛けるのを確認すると、探索に使った水筒にまだ水が入っているのを確認してそれを女に手渡した。
「水飲んでいい……いや、飲め。ゆっくりね」
女は両手で掴んだ水筒に口をつけて、それを傾ける。ランタンが言った通りにゆっくりと水を口に含み、染み込ませるようにそれを飲み込む。余程に喉が渇いていたのだろう、初めはチラチラとランタンを気にしていたが、すぐに乳を吸う赤子のように必死になっている。
ランタンはベッドに腰を下ろした。
「んっ」
女が空気を飲み込んで小さく呻いた。水筒の中の水を全て飲み干したのだ。女は悲しそうに何度か水筒を振ってみせて、そして怯えた瞳をランタンに向けた。水を全て飲み干した事を咎められるとでも思っているのだろう。
「水は足りた? 足らないのなら絞りだすけど」
女に渡した水筒の底には人工水精結晶が嵌めこまれている。天井にぶら下がる魔道光源と同じく特定の衝撃を加える事により、その力を発揮する。光源は光を、水精結晶は水を放つ。水筒に嵌めこまれているのは安物水精結晶で、結晶は暗く濁っていてその力をほとんど失っていたが、あと一度程度の水を吐き出す事は出来るだろう。
「大丈夫、です」
女が遠慮をしているのが判ったが、ランタンは何も言わなかった。
ひび割れていた女の声に瑞々しさが戻ってきている。枯れていた時は金属を削り取るような不快な音だったのだが、今では鈴を転がすような響きがあった。可憐、と形容して違和感のない声である。
「あ、あのっ」
「なに?」
女が視線をランタンに向けた。思いがけない力強い視線が目に痛い。
「助けてくれて、ありがとう、ございます」
「……いらないって、言ったよね、そういうのは。別に、助けたつもりはないし」
ランタンはそっぽを向こうとしたが、絡みついた視線がそれを許さない。女の目は真剣だ。
「わたし、覚えてるわ。あなたを足止めした時の事。……すっごく怖かった。あいつの腕が吹っ飛んだ時、わたしもおんなじみたいになるんだって、そう思って、……イヤだイヤだって思っても、あの、……あの首輪がわたしを」
女の爪が神経質そうに水筒を掻いている。言葉遣いも、下手な敬語から、地が滲み出してきていた。怒りか、苛立ちか、あるいは恐れか、女の精神が揺れている。
「でもあなたは、わたしを殺さなかった。殺されてもおかしくないのに……!」
「……殺されてもおかしくないって事は、きみは男たちの仲間の一員でいいんだね」
奴隷首輪により無理矢理従わされてはいたものの、女の意識はきちんと自分を侵入者の一員だと認識している。
「うん、わたしは……」
女は泣きそうに眉を歪めて、言葉を詰まらせた。ランタンは女が言葉を探しだす前に、口を開いた。見定めるように、すっと目が細まる。
「――おまえらは襲撃者か?」
「ちがっ、う、ます」
女は間髪入れずに否定をした。
襲撃者は探索者にとっては魔物よりも優先順位の高い殺害対象である。ランタンは単独探索者であったがそれでも、同業者に手を掛けたものを生かしておく訳にはいかない。
「わたしは最近、あいつらの仲間、になったの。それより前の事は知らないけど……、あいつらは探索者よ」
「きみは?」
「……わたしは探索者見習い……の運び屋、見習い、です」
運び屋とは、探索者の代わりに荷物を運ぶ者である。迷宮探索には様々な物資が必要であり、その物資は命綱と言い換える事も出来るほど重要な品々だ。しかしその物資を増やせばそれはそのまま探索での枷となり、探索に付き物の戦闘行為では命取りとなる。また持ち込み物資が増えれば増えるほど、持ち帰る事の出来る戦利品が目減りしていく。その問題の解決として雇われるのが運び屋だ。
運び屋の多くは女が言ったような探索者見習いである事が多い。探索者見習いは運び屋をする事によって、探索者との繋がりを結び、迷宮内でのいろはを先達から盗み出し、経験を積んでいくものだ。だが運び屋は荷を運ぶ代わりに最小限の自衛手段しか持ち合わせていない。運び屋を失った探索は撤退するしかなくなり、戦利品を得たとしてもその多くを放棄せざるをえない。運び屋は雑用であると同時に護衛対象でもある。
「運び屋見習いね……」
「うん、あいつらが、お前は使えもしないから。運び屋の、見習いから始めろって。わたし、探索者になりたくて、どうしても……」
「……見習いってのは何をやるの? 運び屋とはまた別?」
探索者見習いは運び屋と同義である。だが、ランタンもそれほど知識のある方ではないが、運び屋見習いというのは初めて耳にする言葉であった。
「わたしたちは、街の外にある小さい迷宮を探して、潜っていたん、です。わたしのためだって、浅い階層を行ったり来たりでしたけど。あいつらの荷物を持って、一緒に探索をしました」
「それは普通の運び屋だね」
「……他にも、ご飯の準備をしたり、あの、弱い魔物でしたけど、引き付けたり誘き寄せたりも、しました」
「……それは、普通の運び屋の仕事ではないね」
「はい、わたしを鍛えて一人前にするためだって、言ってました」
緊急事態でもないのにも拘らず戦闘を行う運び屋や、それをけしかける探索者の話は、酒場で吹けば物笑いの種だ。命綱に自ら切れ目を入れる馬鹿は居ない。
そもそも魔物の注意を自らに引き寄せるのは、前衛職の、一人前の探索者の仕事だ。
いや、とランタンは小さく頭を振った。
難易度の低い迷宮の浅い階層と女の反応速度を鑑みれば、その荒業も可能だろう。だが荷物を背負ったままでその仕事を行うとなれば、並の事ではない。まっとうな探索者に雇われていれば、相応の給金を得ることが出来ただろうが、女はおそらく、見習い、という言葉に騙されて安く扱き使われていたのだろう。
「お金は持ってる?」
ランタンが聞くと、女はいよいよ顔を暗くして、予想通りに首を振った。
「見習いだから、もらえるのは食事だけで、お金はないです。わたしは、お荷物でした」
女の顔にあるのは悔しさと、納得だった。男たちとの探索生活で、女は否定され続けたのだろう。女の自己評価はあまりにも低い。自らの力に気がついていないのだ。
「僕にはきみを裁く権利がある。始末は自分でつける。それが下街の仕来りだ」
「……はい」
女がまるで死刑囚のように覚悟を決めた目つきでランタンを見つめたので、ランタンは肩の力を抜くように首を鳴らして、場を掻き混ぜるように手を振った。
「落とし前はもうつけたよ、あの男たちの命でね。きみは好きにしたらいい」
ランタンの瞳を見つめる女の目がはっと見開いて、潤んだ。ぽろぽろと玉のような雫が頬を伝う。
最初から罰するつもりのなかったランタンは、予想以上の女の反応にあたふたする内心を抑えこむのに必死だった。泣いている女の対処法など知らない。ランタンはじっと静かに涙が収まるのを待つばかりだった。
女は鼻をグズグズ鳴らして、何度も手の甲で顔を拭った。まだ湿り気の残る瞳をランタンに向けて、口を開こうとして躊躇った。女は口を、あ、の発音系に半開いた所で慌てて口を抑えた。
ランタンが要らないと切り捨てた、ありがとう、を口の中で何度も転がしているようだった。女はただそっと眼差しを伏せた。思いがけず長い睫毛が、ランタンを扇いだ。
「それで、きみはこれからどうするの?」
「わたしは――探索者になりたい」
だろうね、と口の中で小さく呟く。女の答えはランタンの予想していたものだ。
女が運び屋見習いという怪しげなものに身を窶したのは探索者に成りたいが故のことだろう。
国の管理する迷宮区や稀に野外に生まれる迷宮は、魔精結晶を生む宝箱のようなものだ。低難易度の迷宮を専門にして日銭を稼ぐ探索者もいるが、高難易度の迷宮の奥深くに潜り、これを攻略する高位探索者ともなれば莫大な財産だけでなく地位も栄誉も手に入れることができる。
探索者になること自体は簡単だ。探索者ギルドに赴き幾ばくかの金を払えば探索者として登録され、特区の迷宮に挑戦する許可を得ることが出来る。また在野にはギルド登録せず管理外の鄙迷宮を専門にする自称探索者というのもいる。自らを探索者と名乗り、迷宮に挑むものは全て探索者となる。
だがそうやって毎年蜘蛛の子のように生まれる探索者が飽和し、迷宮が枯渇することはない。運び屋の多くは探索者見習いであるが、探索者初心者が全て運び屋をやるというわけではない。己の力を過信し、迷宮を侮り、あるいはただ不幸にも、迷宮から帰還できない探索者は数知れない。それは初心者に限った話ではない。どんな熟練探索者であっても未帰還の危険は常に付き纏うものだ。
だがそれでも命を対価に一攫千金を狙い、探索者になる者は多い。
女も、理由はなんであれ、またその大勢の一人に過ぎない。
「探索者ね、危険な仕事だよ」
ランタンは真剣な声で女に忠告をした。探索経験が一年未満のランタンであったが、それでも迷宮に潜る度に大小様々な怪我をし、死を覚悟したことも少なくはない。同業者との繋がりもそれほど多くないにもかかわらず、顔見知りから未帰還者も出ている。
「それでも、わたしは探索者になりたいです」
女の瞳に宿る意志は固い。
ランタンの忠告は、純粋な善意から出た言葉だった。だがランタンは、女の瞳を見て少しホッとしていた。ランタンがどんな甘言を弄しようと、女の意思を変えることは出来ないだろう。
もし女が捨て猫のように無力ならば、ランタンはある程度までの援助をするつもりだったが、女には明確な目標があり見た目からは想像もできない反応速度もある。体が万全の状態ならば、きっとその身体能力はさらに冴え渡るだろう。それは体が資本の探索者にとっては大きな武器となる。多少短慮ではありそうだったが、今回の件を教訓にすればまた騙されることもないだろう。
「……お金も、なにもないのに?」
「それは……」
女は襤褸を一枚纏っているだけだ。いくら性能のいい体を持っていたとしても、それだけでは探索者をすることは出来ない。先立つモノがなければギルド登録すら叶わないし、女の容貌では運び屋として自分を売りだしても、それを買う探索者は居ないだろう。
ランタンは床に下ろした背嚢を引き寄せると、侵入者たちから回収した品々を取り出した。屑鉄の剣や革の外套や手袋。価値の無い装飾品と小金の詰まった巾着。
「さすがにあの首輪と指輪は渡せないけど、これらはきみが持っていけばいい。そこのお金があればギルドに登録できるだろうし、登録すればギルドでそっちの道具を買い取って貰えばいい」
探索者としての装備を一式揃えることは出来ないだろうが、襤褸をまともな服装に変えることはできる。下街で暮らす分には、多くの浮浪児が住み着いていることからも判るが、最低の生活ならばほとんど金はかからない。住みやすさはさておいて雨風を凌げる廃屋はそこら中に存在しているし、食料は大鼠を捕らえて食べてもいいし、教会が時折開く配食会に並んでもいい。
「ひっ」
冗談のようなタイミングで天井から、ランタンが吹き飛ばした男の腕がボトリと落ちて、女が小さく悲鳴を上げた。天井に突き刺さっていた刃がようやく抜けたのだ。落ちた衝撃で握っていた手から高品質のナイフが零れる。ランタンはベッドから降りてそれを拾うと、刃を摘んで女に柄を差し出した。
「これもあげる。これを売れば鼠の肉を食わなくてもすみそうだね」
女は引きつった顔でランタンの顔とナイフを見比べ、恐る恐るそれを受け取った。ランタンには握りが太く感じたが、女の手には少し細いようだ。だが筋張った指には重たげである。
「……あなたは探索者なの?」
女はナイフをお守りのように胸に握りしめ、そっとした声でランタンに尋ねた。
「まぁそうだね。それが何?」
嫌な予感がする、とランタンは思った。
「このナイフも、お金もいらない」
ランタンは難しい顔をして黙っている。
女は気にせずに言葉を続けた。
「わたしを運び屋として雇って、ううん。わたしを……わたしを使ってください!」
「いやだ」
間髪入れないランタンの拒否に、女はぽかんと顔を歪めた。