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リリオン視点の番外編みたいな話
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その夜、リリオンは窓に張り付いて外を眺めていた。
ぶ厚い雲に遮られて月も星の一つも出ていない。夜になお美しい屋敷の庭園も今は闇の中に埋没し、夕方から降り始めた激しい雨に打ち付けられるばかりだ。
窓硝子が吐息で白く曇る。密着させた額は向こう側からやって来る冷気に赤くなり、結露に濡れていた。
「雨やむかなあ? ねえ、ランタン」
リリオンは不安げな囁き声は、窓の曇りを濃くした。迷宮の霧のように。
返事はない。
振り返ると少年はベッドに横になり、サイドテーブルの灯りに目を細めながら本を読んでいる。それはレティシアに取り寄せてもらった、迷宮収斂仮説について詳しく記したものだ。
リリオンもちらっと目を通したが書いてある内容はちんぷんかんぷんだった。迷宮でアシュレイが教えてくれた時も、ほとんど理解はできなかった。興味も、実はそんなにない。
なんであれ迷宮は迷宮だと思う。
焦茶色の目に魔道光源の柔らかい光が反射している。
リリオンが興味あるのはやはりランタンのことだ。
四六時中一緒にいるが、ふとした時に新たな発見がある。
例えば今。
ランタンは本を読むのが好きだ。
ダニエラからしっかりとした教育を受けると、あっという間に専門的な単語さえも自由自在に読み書きできるようになった。
文字を追うランタンの顔も好きだ。
戦う時の情熱的な表情とはまるで違う。
唇を軽く閉じ、やや見下すように目を眇め、一見するとつまらなそうにしているのかと錯覚するほど冷たい表情をしている。
だが理知的な焦茶色の瞳だけが飢えを癒すように、貪るように文字を追っている。
親指の腹でずらすみたいに紙を捲る。乾いた紙の擦れる音が鼓膜をくすぐる。何十秒かに一度、機械的な瞬きをする。
あの目で見つめられたい、と思う。
「ランタン」
声は届かない。リリオンは跳ねるようにベッドに駆け寄り、飛び込むみたいにランタンに身を寄せた。
ランタンの視線が文字から剥がれる。
ランタンは本に栞を挟むと、それを閉じた。疲れを思い出したように深く目を瞑り、猫のように背筋を伸ばし、首を回す。
「あー、首痛い」
ちらっと横目にリリオンを見ると、凍えた額に触れた。
「でこ赤いけど、どうした?」
ちょっとだけ気怠げで、優しい眼差しだった。物足りないとは思わない。これはこれでいい。ランタンならば何でもいい。
「冷たいし、湿ってる」
「お外を見てたの」
「窓開けてないよな。見てただけで、何で濡れてるんだ?」
「知らない」
ずいぶんと長いこと窓の外を見ていたので、額の冷たさはもう麻痺してしまっていた。濡れていることにも気が付かなかった。ランタンの手が触れて、冷たさよりも温かさを実感する。
ランタンは半身を起こし、外を見た。ああ、と口元をほころばせる。窓にべったりとリリオンの顔や手の跡が残っていた。
「鼻もほっぺも赤いな。――ここも」
額に触れ、鼻に触れ、頬に触れ、ランタンはいたずらにリリオンの唇を奪った。
ほんの一瞬触れさせるだけだったが、不意を突かれたリリオンは顔を赤くする。焼けた鉄みたいに熱を発した。
「外になんかあったの?」
「……雨降ってる」
リリオンはランタンの背中に覆い被さった。布団でランタンを包み、動けない背中に顔をぐりぐり押しつける。
「知ってるよ。ばらばら聞こえてるもん。ひどくなったな」
ランタンはくすぐったそうに身体を捩り、布団の中から腕を引き抜くと髪を撫でるようにして少女を引き剥がした。
「寒いから入りな」
ランタンは布団を持ち上げて、リリオンを招き入れた。
向かい合って横になる。
「明日までにやむかなあ?」
「やまないんじゃない。すごい降ってるし」
興味がないと言わんばかりの素っ気ない物言いに、リリオンはむっとする。
明日は迷宮探索もないしランタンと買い物に行く予定だった。何を買うと決めているわけではないがリリオンは物凄く楽しみにしていたのに、ランタンはそうではないのだと思うとさみしくて腹立たしい。
「やまなかったらどうするの?」
「どうするって、本読んでるよ。雨の日に出かけたくないし」
「むー」
リリオンは唇を尖らせた。抗議の気持ちと少しの期待を込めて。でもランタンは心を見透かすみたいな意地の悪い笑みを浮かべだけだ。
「それ、……そんなに面白いの?」
「面白いよ。色々書いてある。収斂仮説のことも、迷宮魔精溜まり説のことも。しかも魔精溜まり説があとなんだよ、説が生まれたのは。でもこれに対する反対意見で、迷宮生物説って言うのもある。僕としてはこっちの方が面白いな」
ランタンは拗ねるリリオンをあやすように、子守歌を歌うみたいに言葉を紡いだ。
迷宮生物仮説。迷宮を植物の根っことか、キノコとかに例えるのは不思議で面白い。キノコというのは木の根元に生えているのはほんの一部に過ぎず、土の中には野にいっぱい、山いっぱいに菌床を張り巡らせているらしい。つまり迷宮はキノコと同じように目に見えないところで繋がっていると聞くと、なんとなくなるほどと思う。迷宮発生は萌芽であり、崩壊は種である魔物の散布。
だが探索者による攻略が選択圧となって迷宮の進化を云々、と言われてもリリオンにはよくわからない。ランタンはリリオンが理解しなくてもあまり気にした様子がない。
けれど面白いような気がする。
言葉にしながら頭の中を整理するような、たまに上目遣いになって言い淀むランタンを見ていると、リリオンの尖った唇は気が付かぬうちに解けている。
理解できなくても面白いのは、ランタンが面白そうにしているからだろう。
憎らしかった雨音が心地いい。ランタンの穏やかな声音と調和している。
ランタンの体温が温かく、同じ石鹸を使ったのにいい匂いがする。
目蓋は重い。ランタンはおやすみのキスをしてくれる。
幸せな気持ちに包まれて、リリオンは睡魔に引き込まれる。
夢の中でランタンは赤ん坊で、リリオンはその小さい身体を膝の上に乗せ本を読み聞かせていた。
夢の中のランタンはリリオンの体温にうとうとしている。
本には見向きもしなくて、とてもかわいい。
雨は結局やまず、ベッドの上でランタンは手紙を読み、リリオンは窓に張り付いている。
灰銀の雲はぶ厚く、右から左まで目を凝らしても毛筋ほどの切れ目もない。
今日の雨は昨夜よりも酷い。
大粒の雨が世界を塗り潰して、音はびりびりと窓硝子を震わせた。外に存在するものならば王さまから乞食まで大雨は差別なく等しく打ち付ける。
雨粒一つが弾け、仄白い靄になる。それが百、千、万、億と積み重なり、都市は真白い霧に沈んだ。
窓を開けただけで溺れそうなほどの雨であり、霧だった。
リリオンは昨晩と同じように額を窓にくっつけて、硝子の向こう側を見つめている。
だがその目に憎々しさはない。どこか期待するような、そわそわとして落ち着かない眼差しだった。
「まだ当分帰ってこないよ」
物言わぬ背中が、しかし喚くよりも遥かに効果的にランタンの邪魔をした。
リリオンは振り返って、ランタンに歩み寄る。
「それにそっちじゃないし、玄関」
「わかってるもん」
窓の外に立ちこめる真白い霧は、レースのカーテンが掛けてあるのかと見間違えるほどだ。
こんな中、レティシアとリリララは議会に出かけていった。リリオンはその二人が帰ってくるのを待っているのだ。
リリオンはベッドに登り、はいはいでランタンを跨ぎ、サイドテーブルに手を伸ばした。そこには昨晩と同じ位置に栞の挟まった本と、一瓶の液剤がある。
リリオンはそれを手に取った。
透明度の高い厚い硝子に納められている液体は綺麗な緑色をしていた。春の色だ、とリリオンは思う。
これはランタンが読んでいた手紙とともに屋敷に届けられた薬だった。
運んできたのはルーで、手紙の主はアシュレイだった。
ルーはすでに探索者に復帰していた。傭兵探索者として様々な探索班と行動を共にし、彼らに対価分の戦力を供給することと、アシュレイやテスに探索中に仕入れた探索者の内情を伝えることが主な仕事だった。
アシュレイは確信に近く、ブリューズへの疑惑を抱いている。彼の支配欲求を信頼していると言い換えてもいいかもしれない。その欲求は迷宮だけではなく、黒い卵、あるいは国や世界にも向いていると。
アシュレイは探索者ギルドと協力関係にある。
その関係をブリューズに悟られぬよう、アシュレイは不出来な末姫を演じるために探索者ギルドで働いていたのかもしれず、あるいは結局、その事については口を噤んだが本当に探索者に憧れていたのかもしれない。
手紙の主はアシュレイだが、薬の出所は探索者ギルドで、テスが関係していた。
「これ本当に効くのかなあ?」
「そう手紙には書いてあるけど」
遡行薬、あるいは退行薬と手紙には書いてあった。
呼び名の通り精神、記憶を遡らせる効果を持つこの薬は、もともとは無垢な意思を作るために試された薬品の一つだった。
だが結局、黒い卵はこれを実用せず、精神の破壊という野蛮な方法をとった。薬は探索者ギルドによって解析され、今は破壊された精神を、破壊される以前に遡らせるための改良を加えられた。
これを服用すればランタンの失われた記憶は取り戻せるかもしれない。
そう手紙には記してある。薬はランタン用に調薬されているが、しかし安全性を完全に担保するものではない。その旨も記載されている。
効果である精神、記憶の遡及は、被害にあった被験者を助けるためではなく、彼らが有しているだろう情報を得るためという側面が大きいからだ。遡り、元に戻らない可能性もなくはない。
「五、六年、か……微妙なところだな」
ランタンはそう言ったものの服用することは朝のうちに決めていた。
それを表立てることはあまりないが、やはりランタンはそれだけ自分のことを知りたがっているのだ。
何かあった時のためにレティシアには自分が帰ってくるまで待つように言われている。
ランタンは朝からずっと手紙を読み返している。不安や待ち遠しさといったものを、冷静な表情の下に隠していた。
「じゃあ、その時だけわたしよりも年下になるのね」
「……そうか、そういうことになるのか。ううん」
「不安?」
「多少は。……いや、でも」
ランタンは口元を隠しながら、何か呟く。
「年下か……」
眉間に皺が寄った。
リリオンが顔を覗き込むと、それをするりと躱して、手紙の裏面に何か書き始めた。いくつかの文章を流れるように記す。
リリオンが諦め悪く後ろからそれを覗き込もうとすると、四折にたたんで隠した。
リリオンは頬を膨らませた。けどランタンがそれを差し出すと、目を輝かせる。
「わたしにお手紙?」
「まあ、そんなところ。僕が薬を飲んで、効果が出たら僕に手紙の内容を見せて。内容は見ないで」
「わたしにじゃないじゃない」
リリオンが裏返すみたいに表情を変えると、ランタンは触れさせるだけのキスをした。
悪戯っ子みたいに笑い、ランタンは瓶の蓋を外した。
リリオンは目を丸くする。
「まだレティが帰ってきてないわ」
「まだリリオンより年上だし、薬ぐらい一人で飲めるよ」
「でも」
ランタンは聞かず、それを一気に呷った。
「まっず」
ランタンは唇を拭うと、枕を腰の下に当て、腕組みをして目を瞑った。
「なんで」
リリオンは呟き、しかしランタンの言動が意味わからないことは珍しくもないので、そのままランタンの横に寄り添った。
すぐに固く閉じた瞼と組んだ腕が緩んだ。
重力に引かれて両手がたらりと力を失い、唇が半開きになって、頭ががくんと落ちた。
一瞬きのうちに眠りに落ちたように。
「ランタン?」
リリオンは咄嗟にランタンの身体を支え、前髪を撫で上げるように額に触れた。顔を持ち上げる。
焦茶の目が、驚いたようにリリオンの顔を見ていた。
「リリ――……」
口が何かを呟こうとした。
そこからが急だった。
言葉はない。だが目が口ほどに物を言った。
五秒か、十秒が、それぐらいの時間の間に点滅するようにランタンの目の雰囲気が変わった。
驚き、困惑、警戒、不審、敵意、不安、怯え、不安、恐怖、怯え、不安、怯え、怯え、怯え、混乱、怯え、怯え、怯え、怯え。
それがランタンの五年間だった。
「ランタン、わたしがわかる?」
リリオンは恐る恐るランタンに尋ねた。
困惑のあとの警戒。それは知らない人間に対する警戒心だった。
リリオンはその視線を知っていた。奴隷の首輪によってランタンと敵対した時、自身に向けられたものとまったく同じだったから。ぞわっと背中が寒くなった。
その警戒以後のランタンの目は、その時期のランタンが他人に対して抱く感情を表していたに違いない。
薬は効いている。ランタンの精神は過去に遡った。
ランタンは大きく一度、瞬きをする。その目は透き通るみたいに綺麗だった。
じっとリリオンの目を見つめている。ただリリオンの目を見ていた。
「ランタン?」
リリオンは囁き、呼びかけるように名前を呼ぶ。ランタンは瞬きをする。呼びかけに対する反応ではない。ただ瞬きをしただけだ。リリオンが手を振ると、黒目がその揺れを追いかけた。
ランタンの頬が少し緩む。
リリオンは少しだけほっとする。
赤ん坊のようだ、と一瞬思った。だが赤ん坊とは少し違う。つい先日抱き上げた赤ん坊は色んなものに興味を示していて、そこには喜びもあれば怯えもあった。
ランタンの目には負の感情はない。何一つない。不安も、恐れも、哀しみも、混乱も。
五年か、六年だけ、記憶が巻き戻るはずだった。だがこれでは戻りすぎだと思った。
いや、それとも、これがその当時のランタンなのか。
ランタンは五歳児だった。別にそれでもいい、とリリオンは思う。ランタンは年齢にこだわるが、リリオンはランタンが百歳だろうが五歳だろうが大好きだし、何度もキスしたいと思う。
「ランタン」
内心の不安を悟られぬようにリリオンはにこっと笑ってみせた。
するとランタンもにこっと笑う。
蕩けるような笑みだった。
今の自分はランタンにとっては他人だ。だがランタンは怖がっていない。あれほど神経質で、警戒心の強いランタンが。
「ランタン、わたしのことわからないの?」
問い掛けてもランタンはにこにこするばかりだ。
言葉を知らない。
リリオンはランタンの頭に触れた。髪を撫で、頬に滑り落とし、顔を近づけて唇を触れさせる。
笑顔は変わらない。
「――ランタン、大丈夫よ。わたしがずっと一緒にいるからね」
リリオンは額をくっつけて、強くしっかりした声で宣言した。
ランタンが自分のことを忘れてしまった、出会う前の記憶なのだから当然と言えば当然だが、というのはリリオンにとって哀しいことだったが、それ以上にあまりにも無防備なランタンが心配だった。
胸の中にめらめらと炎が燃えさかる。強烈な保護欲だった。今のランタンは飴玉一つどころか、手招き一つで悪い人に連れ去られてしまうだろう。
自分が守らなければならない。
部屋の外にも出せない。それぐらいランタンの警戒心はない。
それこそが、素の表情なのか微笑んでいる。
「ランタン、あなたの名前よ。ら、ん、た、ん。ほら、こう口を動かすのよ、ら、ん、た、ん」
リリオンは大きく口を動かして見せて、ランタンの唇を指で動かして、けれど結局ランタンは声を発しなかった。ぱくぱくと口を動かすだけだ。
耳が聞こえていないのかもしれない。リリオンは試しに、薬の空き瓶をこっそりと放り投げた。壁に当たって、ごん、と大きな音がする。ランタンはそちらを見た。けれどどうして音が鳴ったのかは理解していない様子だった。
「ランタン」
呼びかけると振り向いた。すでに向こう側で音が鳴ったことを忘れてしまったようだ。
「音は聞こえてるのね」
ベッドの周りをぐるぐると歩き回ると、ランタンはそんなリリオンを目で追う。風が吹いて窓ががたがたと音を立てるとそっちを向いて、次にリリオンが声を出すか、視線に入らない限りずっと、にこにこと窓を見ている。
好奇心の塊であるが、知性はない。ないように見える。
自分と風の音は同じなのだ、と思うと少し悔しい。色んな事を試して、そう思えるぐらいの余裕が生まれた。
「ランタン、こっちよ」
手を叩いて、ベッドの周りで踊る。そうするとランタンはにこにこするばかりか、身体を揺すった。リリオンが身体を揺するのと同じように。自分の真似をしているのだと思うとリリオンは楽しい。楽しくなってぴょんと跳ねる。するとランタンがベッドの上で、ぴょんと跳ねた。
「わあっ、ランタンっ!」
どたん、と酷い音を立ててベッドの向こう側に転がり落ちた。リリオンは慌ててベッドを跳び越える。ランタンは足萎えのように、受け身もとることなく転がっていた。
痛みはランタンに初めて与えられた感覚だった。
「大丈夫、ランタン?」
だが泣いてはいなかった。笑っている。
リリオンが慌てて抱き上げベッドに戻そうとすると、ランタンはしがみついてはなれない。
「ランタン、どこか痛いの?」
ランタンはにこにこしているが、先程とは少し違った。抱きしめていると少し嬉しそうな雰囲気があり、リリオンが離れるとにこにこしているのにどこか不安そうな雰囲気がある。追いかけては来ない。床を怖がっているのかもしれない。
痛みと床に関連性を見つけたのだ。そしてその痛みからリリオンは助け出した存在であり、ベッドの上が安全だと知ったのだ。
まだまだ薬の持続時間内だった。ランタンは急速に成長している。そしてリリオンが庇護者であると悟った時から、リリオンを手本としてその成長は更なる加速を見せた。
「ら、ん、た、ん」
「あ、ぅん、あ、ん」
「ランタン」
「あう、あん」
ランタンが言葉を話した。だがそれが自身の名であることは理解していない。リリオンを見つめて、憶えたばかりの言葉を繰り返す。
「わたしはリリオンよ。り、り、お、ん、り、り、お、ん」
自分を指差して何度も自己紹介を繰り返す。ランタンはそれを真似しようとする。
「り、り、い、り」
「リリ」
「りりぃ」
「オン」
「あ、ん」
辿々しかったが充分に名前を呼んでもらえた幸福があった。ベッドの上に座り、リリオンはランタンの髪をくしゃくしゃに撫でた。ランタンはやっぱりにこにこしている。
「そうだ」
手紙のことを思い出した。しかしリリオンは受け取ったはずの手紙がないことに気が付き、ベッドから身を乗り出してそれを探した。ランタンを抱き上げた時に落としたのだろう、絨毯の上にそれはあった。
拾おうとするとランタンが身体にしがみついた。
「どうしたの?」
尋ねても、それに応えるだけの語彙はない。だがにこにことしている目から、心配しているのだと理解できた。
床は痛いところだから。リリオンはランタンを安心させるように、微笑んだ。
「大丈夫よ。わたしは強いからね」
頬にキスをして、リリオンはベッドから下りる。
「ほら、平気」
リリオンは手紙を拾い、開いて、中身を見ずにランタンに渡した。ランタンは受け取らない。紙に書かれている文字を見ているが、理解はしていなかった。それもそうだろう。ランタンは全てを忘れている。
「たまに抜けてるのよね、ランタンは――」
リリオンはそれを折りたたむ時、一瞬中を覗いてしまった。そして茹で蛸のように真っ赤になった。慌てて四折にする。読もうと思ったわけではない、だが探索者として鍛えられた動体視力は、見ただけで内容を理解させた。
ランタンは抜けているけど用意周到だった。
薬を飲んだらどのような状態になるか、今よりはだいぶましだが、それでもきっと怯え恐怖するだろうと自分に伝えていた。
そして服薬に立ち会うはずだった人たちの名前が書かれており、リリオンの名前の横には、銀の髪、背が高い、綺麗な顔、綺麗な脚、と身体的特徴と、いかに自分がその少女を愛しているかという事が記されていた。
だから怖がるな、と。それが愛した少女を傷つけることになるから絶対にやめろと。
ランタンは用意周到で、たまに抜けていて、たまにロマンティックで、いつも優しい。
「ランタン大好き、大好き、大好き。――わたしはリリオン。ランタンはわたしが大好きなのよ」
リリオンはうっとり微笑んで、誇らしげに言う。
そしてズボンを脱いだ。膝まである上着を着ているが、冷気が這い上がってきて肌が粟立つ。リリオンはベッドに上った。
「ランタン、こっちにきて。ほら、ランタンはわたしの脚が大好きなのよ」
リリオンはベッドに脚を投げだして座り、裾を捲って、そこにランタンを導いた。膝枕をするみたいに。
「ランタンはいつもわたしの脚を見ているのよ。たまに触ってくれるの。こんな風に。ほら、憶えてる? ランタンはわたしのお尻も好きなのよ」
リリオンはランタンの手を取って、自らの尻を撫でさせた。くすぐったい。
「ランタンはわたしの髪の毛も好きなのよ。撫でてくれたり、ひっぱったり、結んでくれたりするの。ランタンが洗ってくれるからさらさらよ。あんっ、こら、あばれないの」
銀の髪の毛先でランタンの頬をくすぐる。少年はけたけた笑って身を捩った。リリオンはぎゅっとその身体を掴まえる。
「まったく、ランタンったら」
リリオンは再びランタンを抱え直す。自分の腰を跨がせて、抱っこした。心臓の音がどきどきと聞こえる。自分のものか、ランタンのものか。
自分の鼓動だ。
「ランタンは、……ランタンはわたしとキスするのが大好きなのよ」
リリオンは顔を近付ける。
「ほら、こんな風に」
無防備な唇を啄んだ。目は閉じない。ランタンも閉じなかった。ランタンはにこにこしている。何度も唇を重ねて、深く舌を差し込む。ランタンはそれを受け入れた。
薬の味がする。ほろ苦い。
幸せと空しさが同時にあった。人形に口付けをしているようだ。ランタンは受け入れるが、応えない。
歯列をなぞり、その奥に引っ込んだままの舌先に触れる。
「ランタン、もっと、口を開けて」
簡単な言葉も理解しない。リリオンはもどかしくて、押し入るような口付けをした。
「ランタン」
唇を重ねたまま名を呼ぶと、ランタンの舌先に反応があった。
「ランタン、ランタン、ランタン」
薬の味はもうしない。
ぎこちないその動きは、リリオンの舌に応えていた。リリオンの真似であるその舌の動きが、ふいに変わった。ランタンの舌の癖を見つけるとリリオンは嬉しくなった。
「――んっ、あ、ランタンは、いつも上手ね」
自分のそれよりも先に、涎でべとべとになったランタンの唇を拭い、リリオンは真っ赤な顔で少年を見つめた。唇を拭う間、その指にランタンがキスをしたのだ。
ランタンは自分に応えてくれる。
ランタンはにこにこして、心音を聞くみたいに胸に顔を押しつけた。体重を全部、預けてくれていた。汗ばんだ胸の香りに酔うように、穏やかな呼吸を繰り返す。
リリオンは真っ赤な顔をさらに赤く、耳も首筋も赤くして、自分の内に沸き起こった考えに動揺した。
動揺したことに、さらに動揺する。
それはいつも考えていることの一つで、それを想像している時は幸せでいっぱいになる。
いけないことではない、と思う。どこの家庭だって、きっとしてる。だがランタンは、決してそれをしない。だからリリオンはいつも、想像の中でそれをして幸せになっていた。
今のランタンならばリリオンの求めに応えてくれるだろう。実現するとわかったら、途端にそれがいけないことのように思えてきたのはなぜだろう。
だがリリオンはする。
強烈な、抗いがたい衝動があった。
それが母性であることに、少女は気が付いていない。ただ与えることが喜びであると、リリオンは無自覚に知っている。
「はぁ、ふぅ-」
リリオンは深く息を吐いて、ベッドから下りた。カーテンを閉め、扉に鍵を掛ける。誰にも見られてはいけない。
リリオンはベッドに上った。
「ランタンはわたしのことが大好きなのよ。最近は、わたしのお胸も気になるみたい」
カーテンが開けられる。
気が付けば雨は上がって、雲もなくなり、薄い霧だけが残っていた。
ランタンが興味深そうに窓の外を眺める。もう夕方だった。色んなものが赤く染まっている。霧さえも。
「どうして待てなかったんだ」
そう聞いたのはレティシアだった。戻ってきたのはつい先程で、急にノックをされた時リリオンはびっくりしてベッドから落ちた。心臓はまだどきどきしている。
リリオンが首を横に振ると、困ったと言うように溜め息を吐いた。
「その辺は、元に戻ったら聞きゃいいだろ」
リリララがランタンの頬を突いた。
ランタンはにこにこしていて、リリララもレティシアもふっと頬を緩めた。だがレティシアは表情を引き締める。しかしなあ、と嘆息する。
「こういうところを見られたくなかったんじゃないですか?」
そう言ったのはミシャだった。いつもならばまだ起重機を乗り回している時間帯だが、さすがに今日の雨ではどうにもならなかった。
大雨は都市の排水能力を大幅に上回った。年に何回もあることではないが、迷宮特区は完全に閉鎖された。雨水の排水に迷宮を使うからだ。雨水の流入はたいした問題にならない。攻略中の迷宮であっても、水没はしない。せいぜい引き上げを待つ探索者が、迎えの代わりに雨水が落ちてきて、全てを納得するぐらいだ。
「こういうところって?」
「こういうところは、こういうところよ。ランタンくん、ミシャですよ」
ミシャはランタンの顔を覗き込んで、柔らかそうな頬を両手で包み込んだ。むにっと変な顔になる。ランタンはきょとんとして、それでもにこにこしている。
「あはは、かわいい顔。こんなこと素面の時にしたらきっと嫌な顔するに決まってるわ」
レティシアが眉間に指を当てる。
「ミシャ、何を暢気な。もし戻らなかったらどうするんだ。結局、過去の糸口も掴めなかったようだし」
「大丈夫ですよ。ランタンくんがそれをしたなら、それは大丈夫な時です。たぶん。それにこのままでもランタンくんはランタンくんですよ」
「とは言ってもな」
レティの心配もわかるが、ミシャはいいことを言う。リリオンは何度も頷いた。
ランタンはぱちぱち瞬きをする。人が急に増えて、少しだけ落ち着かない様子だった。
レティシアもそれを理解したのか、大きく息を吐いて雰囲気を和らげた。
――つい先程まで、あんなに大人しくしていたのに。
リリオンは密かに頬を赤らめる。
「きゃっ――、もう、ランタンくん」
ミシャが急に悲鳴を上げた。うっとりと陶酔していたリリオンが現実に引き戻される。どうやらランタンがミシャの胸を触ったようだった。ミシャのいつもより大きく見えるのは、雨に濡れて着替えをしたからだ。働く時は邪魔になるから押さえ込んでいるらしい。
たしかに邪魔になるぐらいの大きさだ。
やっぱり大きい方がいいのだろうか。
「めっ、ダメよ。そんなことをしたら」
あどけないランタンにミシャはすっかりと甘ったるい言葉遣いになっていた。リリララが、余ってるんだからいいだろうよ、と茶化すが気にもとめない。持てる者は余裕があるのだった。
甘やかし放題のミシャにあてられたのか、レティシアもリリララもランタンを甘やかし始めた。
そうなのだ。ランタンにはどうしようもなく、女にそうさせる雰囲気がある。いつもは甘やかしたくてもそれを拒絶するのだが、今はそれがない。
甘やかしたぶんだけ、甘えてくれる。
だから自分もしかたがなかった、とリリオンは自分に言い訳をする。
次第にランタンの瞬きが多くなった。
瞬き、瞬き、瞬き。
怯え、困惑、不安。
「――ミシャ、子供扱いしないで」
ランタンと一番始めに出会ったのはミシャだ。薬が切れ始めただけか、それともミシャが引き金となったのか、ランタンの記憶が加速し始めた。撫で回すミシャの手を不意に払いのけた。
元通りになるには、十秒も掛からなかった。焦茶の瞳も、夕陽に赤く色づいている。
「――ちょっと待って、状況を整理、する」
ランタンは三人の顔を見渡すとすぐにそう言った。
「なにも憶えてない、か。いや、なんか。ん? ……あー、うー、なんか口が変だ。疲れてる。僕は何か喋った?」
ランタンは顔を動かす。リリオンはどきりとした。
「私たちは今、ほんの二、三十分前に来たところだ。ミシャは雨宿りがてら連れて来た。心配したんだぞ。どうして待てなかったんだ」
「ごめん。言い訳はあとでする。リリオン」
「ランタンは、――赤ちゃんみたいになった。昔のことは何も言わなかったよ。……ずっとにこにこしてたから、だから、ほっぺたが痛いのかも」
「赤ちゃん? にこにこ? げえ、詳しく聞きたいような聞きたくないような。でもなんでそんな風に」
ランタンは顔を顰め、頬を揉んだ。
ほら、言ったとおりでしょ、とミシャがリリララに耳打ちする。
「まあ、いいか。僕、リリオンに変なことしなかった? 暴れたり」
「ううん、しなかったよ」
ランタンはほっとした様子だった。視線が彷徨い、ふと止まった。
「――ん? リリオン、ボタン掛け違えてるよ。あれ、朝からそうだったけ?」
互い違いに止められたボタンにランタンが手を伸ばし、リリオンは赤くなった。
リリオンちゃんが何をしたかは想像にお任せします。




