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カボチャ頭のランタン  作者: mm
08.In The Deep Haze
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 最下層の景色は戦闘の余波と青い血によって荒れ果て、彩られていた。

 地面は黒々と捲れ上がり、迷宮路から流れ込む小川は涸れ、壁をなす木々はあらかたなぎ倒されて、一部では落雷により発火していた。

 突入時の蒼天はやや陰り、黄昏が迫っていた。

 最終目標の死体は生物としての熱をまだ残している。

「姫さま、足元が汚れますよ」

「もう汚れている」

 レティシアが侍従のようにアシュレイに声を掛けたが、彼女は気も漫ろにこたえる。

 アシュレイは最終目標を怖々と覗き込んでいる。

 いかにも靴擦れをしそうな似合わぬ長靴(ブーツ)は確かに泥土に汚れている。血溜まりを踏み付け、さらに青い血汚れも追加された爪先で死体を小突いた。

 ごうんごうんと空洞の、けれど重い金属のような音がする。靴が跳ね返された。

「よくこんなものを振り回せるな」

「振り回せないと死にますので」

「一撃食らっていたな。大丈夫なのか?」

「まあ、内臓は多少損傷しましたけど、慣れてますので」

 アシュレイは感心したように、探索者だものな、と呟く。

 第十三王女のアシュレイはテス曰く暇つぶしに、探索者ギルドで司書のような仕事をしていた。フードを被っていたその時と同じく声は怜悧だが、表情が見えるだけで印象はずいぶんと違う。

 アシュレイは迷宮に興味を示していた。

 わくわくしていると表現してもいいかもしれない。

 王族に限らず、貴族の女子は普通こんなものを見る機会はない。レティシアだってネイリング家に生まれなければ、今頃は屋敷で刺繍でもして暮らしていただろう。

 興味を示すのも無理はない。わくわくするのはどうかと思うが。

「降りてすぐの所で待っていてくださればよかったのに。どうしてこちらまで?」

 リリオンがランタンの腕にしがみつきながら、うんうん、と何度も首を縦に振った。

 リリオンはアシュレイにどことなく余所余所しい。ししょさま、と呼んで微妙な顔をされたことが尾を引いているのだ。じゃれつこうにも出鼻を挫かれた。

 アシュレイと会うことは予定通りだが、もともとは迷宮口直下で会う予定だった。

 不帰の森でのことを話すために、内密の話をするのに迷宮は都合がよいのだ。けれど最奥までくる必要はない。

「三人が迷宮で戦っているところを見てみたかったんだとさ」

 一度、霧の外に出ていたテスが戻ってきて、笑いながら言った。

「おかげでわたしとルーは大変だった。わたしとルーだけなら大変ではなかったが、輿に担がれ慣れているのは駄目だな。これの足の遅さに合わせてやっているのに、早く早くと子供のようだった、おかげで――」

 アシュレイは黄金の髪を掻き上げながら振り返った。

「そのようなことは言っていない」

 しかし似たようなことは言ったのだろうな、と何となく思った。

「どうでしたか? 僕らの戦い振りは」

「壮観だった。次は魔精鏡を通さずに見てみたいものだ。あれは何もかもが青く見えてしまうからな。何やらよくわからんところも多い」

「解説しろとうるさくてな」

 アシュレイはテスを無視する。

 ランタンは背中にくっついているリリオンを振り返った。

「壮観だって」

「そうかんて?」

「派手で格好いいってことだよ」

 むふう、とリリオンが誇らしげに息を漏らす。表情が少し解れた。

 テスが呵々と笑いながら手を伸ばした。

 アシュレイは表情を変えず白くほっそりとした手で、黒い毛に覆われているテスの手に掴まり、抱き寄せられるように血溜まりから引き上げられた。体重のない、妖精か何かのようだ。

 リリオンが今度は、ほう、と息を漏らした。確かに絵になる二人だった。

 リリオンが背中から離れ、大股一歩で血溜まりを跳び越える。そして格好を付けてランタンに手を伸ばした。ランタンは渋々、その手に掴まった。

「よい、しょーっ!」

 予想通り一本釣りみたいに引き寄せられる。踏ん張ろうとした内臓が痛んで持ち堪えられなかった。

 ランタンはリリオンの胸に顔を打ち付けた。少しも格好は付かない。だがリリオンは満足気にランタンを目一杯抱きしめる。それは多少は、絵になったかもしれない。

「あらまあ」

 ルーが霧向こうからひょっこりと顔を出し、一塊になるランタンとリリオンを見て微笑む。

「――姫さま、ご用意がすみました」

「ああ、ご苦労」

 霧をくぐり最下層から出ると黄昏は一変して、変わらぬ蒼穹が空にあった。

 枝を切り落とし、陽光が燦々と降り注ぐ日溜まりに茶会の用意がされている。

 綺麗な刺繍のある厚手の絨毯は六人が寝転べそうなほど広々としており、薄手の天幕を掛けて淡い日陰を作っている。リリオンが拵えた人食い花の花束も飾られていて、野趣溢れる、それでいて瀟洒な趣を醸し出していた。

 だが反面、用意された茶器は探索者用の無骨なものだ。

 一足先に絨毯に上がったルーが、火精結晶コンロに掛けられぐらぐらと沸騰する打ち出しの鍋に、喰らえこの野郎とばかりに茶葉をぶち込んだ。火山の噴火みたいに吹きこぼれそうになるとコンロから外し、蓋を閉めて香りを封じる。

 探索者作法の茶の入れ方だ。疲れている時はとにかく味が濃い方がいい。

 あらかじめ砂糖を練ったバターをスプーンに一掬いしてコップに落とし、茶葉を濾しながら紅茶を注ぐ。ほとんど黒茶と言えるほど色は濃い。

 焦げたような芳ばしさと、つんと濃厚な甘い香りが漂う。

 茶請けには歯が欠けそうなほど硬いビスケットの携行食。

 迷宮茶会に相応しい組み合わせだった。

 ランタンは脱いだ靴を絨毯の外に揃え、それに気が付いたテスが多少苦笑したりもしながら、六人は三対三で向かい合うような、やや楕円の車座となる。

 ランタンを挟んでリリオンとレティシア、アシュレイを挟んでテスとルーが並んだ。

「ジャックさんは呼ばなかったんですか?」

「面倒臭いと一蹴されたよ。反抗期だな」

 五対一か、と今さらながら思う。こういう状況は、幸か不幸か珍しいわけではないが、意識すると気持ちが萎んでいくのを感じる。

 疎外感というか、気恥ずかしさというか、面倒くささというか。自分が男であると言うことを強く意識する。

 ランタンは気を取り直して、背筋を伸ばした。

「あらためまして、その節はお世話になりました。ウィリアムさまへの働きかけがなければ、僕らは今頃まだ森で迷子だったかもしれません。姫さま――」

 何となく口馴染みが悪い。ランタンは口の中で舌を回す。

「――でいいのでしょうか? 何とお呼びすれば」

「好きにしろ」

「司書さまでもですか?」

 ランタンが言うと、アシュレイの眉間に皺が寄った。不愉快さの表れではない。困っているのかもしれない。

「あのっ、――おねえさまって、よんでも、いいですか?」

 リリオンが勇気を出して、アシュレイに言った。言葉だんだんと小さくなっていく。

 アシュレイの眉間の皺がなくなって、目が丸くなる。これはこれで困っている。

「おお、いいじゃないか」

 テスが無責任に囃し立てた。

「妹が欲しかったって言っていただろう。末っ子だから」

「おい、テス――」

「そうなんですか? 姫さま」

 レティシアが小さく微笑む。

「思い起こせば、私とお会いした当初は確かにそのような素振りがあったような気がしますが」

「レティシア嬢、あなたはしっかり者過ぎた。あなたとの思い出は楽しかったとよく聞かされましたが、姉ぶれないとこればかりは愚痴っていましたよ」

「おや、そうだったのですか姫さま。子供だったとは言え、気が付かずそれはそれは申し訳ないことをしました」

「ええい、うるさいぞ。――リリオン、好きにしろと私は言った。前言を撤回する気はない」

「それじゃあ、呼んでいいのね!」

 怖じ気付いていたリリオンがぱっと表情を花開かせた。にこにこして、口角が緩んでいる。

「おねえさま、んふふ、おねえさまだって。ランタン、おねえさま」

 何が嬉しいのかランタンの袖を引いて、おねえさま、おねえさま、と繰り返す。

「僕はお姉さまではありません」

 ランタンはリリオンの頬を掴んで、アシュレイに向ける。リリオンはうっとりした目をしている。

「おねえさま」

「連呼するな。それでランタンはどうするんだ。ルーを助けてもらった褒美のようなものだ。何とでも呼べ。それとも他のものがいいか?」

 王族の一人を好きに呼ぶことができるというのは確かに、とんでもない褒美だろう。

「他のもの、お小遣いでもくれるんですか?」

「それを望むのならばな」

「そうですか。じゃあどうしようかな。うーん、――今はまだいいです。いつか困った時に助けて下さい、アシュレイさま」

「くふふ、安く片付けようとしたのに失敗したな」

 アシュレイは肩を竦め、紅茶を口に含み、それからしっかりと頷いた。

「いつでも頼れ。どうせリリオン絡みのことだろう。姉の勤めを果たしてやろうじゃないか」

 ランタンに愛を囁かれるのと同じぐらい、リリオンが顔を赤くした。ランタンは少し悔しい。

「あ、――」

 浮かれすぎてリリオンの手からコップが落下し、紅茶が。

 雨粒のように丸まり、宙に浮いた。

 にこにことして事の成り行きを見守っていたルーが手を伸ばして空のコップを掴み取り、そっと浮かんだ紅茶を掬い取った。

「その節は、お世話になりました。ランタンさま、リリオンさま」




 座礼したルーは身体を起こすと、そっと襟元を緩め、そのまま前をはだけた。

 女探索者の肉体が露わになった。

 まったく違うわけではないが、彫られている刺青の模様に変化があった。

 もちろん上から塗り潰すようになっている箇所もあるが、それは極一部であり、全体的な密度は薄くなっている。皮膚ごと刺青を除去し、彫り直したわけではない。真っ新の皮膚にそれは彫ってある。

「……復元、ですか」

「察しがいいな。すけべ目線で見ているわけではないのか」

「この状況でそんなことはしません」

「女心としては少し哀しいものがありますわね」

「失礼」

 ランタンは内心の照れを隠して、素っ気なく応える。髪の下に隠されている耳の先は赤い。

「持ち帰った薬と資料を解析させた。探索者ギルド(うち)の連中もなかなか仕事が早い」

「この間まで囚われていたんですから、そんなすぐに解析したものを適用するのはどうなんですか?」

「よろしいのです、ランタンさま。お役に立てることが嬉しいのです。それにそうしなければわたくしの身が持ちませんでした。不帰の森には魔精が潤沢にありましたから平気でしたが」

「ああ、そういえばそうでしたね。集めるばっかりじゃなくて、抜けるようにもなっていたんでしたか」

「ええ、ランタンさまが式を破壊して下さらなければ危ういところでした。でも、新しく記してもらった魔道式のおかげで、もうすっかり万全ですわ」

 新たな魔道式は躍動感のある、柔らかく流麗な線で描かれている。美術品の趣は失われたが、自然の美しさがある。水の流れだろうか。淀みなく循環し、しかしその流れは心臓の所に集まり、絡まり合っている。

 そこにランタンの小さな歯形はもうない。

 だがそこに漆黒の、小さな太陽があった。

 ランタンはびっくりして身を引いた。入れ替わりにリリオンが身を乗り出す。

「わ、格好いい」

「ランタンさまの戦い振りは、胸を熱くさせますわ。先程の戦闘、思わず飛び入りしたくて我慢するのが大変でしたわ」

「……――、あー、はい、そうですか。参加して下さればよかったのに」

 ランタンはあからさまに視線を逸らした。

 自意識過剰かもしれないがその太陽が、目も鼻も口もなく、ただの黒い丸なのに自分を意匠化したものであると直感的に想像できたからだ。

 いくら何でもさすがにちょっと、と思わなくはない。

 ルーは愛おしそうに胸の太陽を撫で、リリオンにそれがどのように作用するのかを説明し、ランタンが気持ちを落ち着ける頃にようやく服を元に戻した。

 ランタンは咳払いをし、紅茶を口に含んだ。甘さは人を落ち着かせる。

 魔精を集め、重力の魔道に好ましく作用し、欠乏症を抑え込み、ルーがそれに満足をしているのならば何も言うまい。

 かつてルーに彫られていた魔精式は、ルーのためのものではなく、迷宮を発生させるためだけのものだったのだ。それを思えば、ずいぶんと健全な魔精式である。

 不帰の森で行われた人造迷宮の実験は、ツァイリンガーが幾つか提唱した迷宮発生構造仮説の内の一つ、迷宮収斂仮説を基にして行われたものだった。

 迷宮収斂仮説とはこのようなものである。

 まず始原の迷宮は、基本となる形もなければ、魔物すらなく、ただ混沌としたものだった。それはまだ迷宮ではなく、魔精溜まりと呼ぶべきものだった。

 魔精溜まりは鉱脈のようにたまたまそこにあったもので、人類はたまたまそれを発見した。

 人は初めて魔精に触れ、また魔精は初めて人に触れた。

 これは一体何だろうか。初めて見るものだから人は混乱し、疑問を抱き、想像した。

 これにより第一の意思が魔精に溶けた。漠然とした思考が魔精に方向性を与える。

 曖昧な、混沌とした、何かよくわからないもの。

 それが始原の迷宮だ。

 それを始めとし、人々は次第に魔精溜まりに触れるようになる。

 人によって思考は違う。単一の思考はない。興味と困惑、恐怖と不安、勇気と希望。

 様々な意思が魔精に蓄積する。

 そして人にもまた情報が蓄積していく。

 魔精溜まりであのようなものを見た、このようなものを見た、と聞いた人は()()()()()()()であるかもしれないと想像するがゆえに迷宮でそれを見ることになる。

 情報の集積による知識の同質化、相似化と、現実に見ているものが同じであるという事実は、魔精溜まりをいつしか迷宮と呼称させ、迷宮とはこのようなものであるという固定概念を発生させた。

 今の迷宮は基本的に一本道で、魔物が出現し、最下層に最終目標と呼ばれる迷宮の守護者が出現し、これを打倒することで迷宮攻略となる。

 ありとあらゆる可能性を秘めていた迷宮は、そうやって一つの可能性へと収斂していく。

 これが迷宮収斂仮説であるが、これの最も重要な考えは、人が迷宮に影響を与えるという一点だ。

 もし人の意思を統一することができれば、思うがままの迷宮を創造することができる。

 ランタンが霧の前で行ったことは、あながち的外れな行いではない。

「この魔精溜まりというものを、探索者ギルドも確認してはいない。なぜかと言えば、ツァイリンガー曰く、魔精の源泉がすでに人の意思によって汚染されているからだ」

「そこ、よくわからないです」

「もともと魔精は何にも染まっていなかった。だから魔精のままそこにあり、人の思考を正確に反映し、それ故に混沌が生まれた。だが今は迷宮の色に染まっている」

「迷宮の色?」

 リリオンが淡褐色の瞳をあっちこっちに動かした。空の色、木々の色、土の色、水の色。

 アシュレイが苦笑する。

 迷宮の色とはそういった目に見える色ではない。

 迷宮と聞いた時、ぱっと心の思い浮かぶ印象だ。一本道や、魔物の存在や、最終目標、あるいは漠然とした困難さや、強さや、不思議さ。そういったものを一纏めにして迷宮の色と言う。

「魔精溜まりというのは、極めて濃く膨大な量の魔精のことだろう。それだけ集めると、自然と迷宮が発生する。なぜなら魔精が迷宮の色に染まっているから」

 神話の時代、巨人に支配された人類は迷宮を見つけてその支配に打ち勝った。それから今日に至るまで、どれほどの年月を掛け、どれほどの人の意思を迷宮は呑んだのだろうか。

 その当時、人々は希望を、打倒巨人の力を求めて迷宮に挑んだはずだ。

「なるほど汚染か」

「魔精は汚染されている。ゆえに意思を正確に反映しない。例えば力が欲しい、と考えた時、迷宮の色に影響を受ける」

 例えば魔精中毒による凶暴化は魔精にある迷宮の色に人が染まった結果か、それとも力への行き過ぎた渇望か、それとも人間が生得的に所有する凶暴性の拡大か。

 ツァイリンガーは汚染の結果だと考えているのだろうし、ランタンは力の渇望と凶暴性の拡大の混合だと考えている。

 案外あの老人は性善説を信じているのかと考えると面白い。だからこそ危ない発想を平気で他人に教えるのかもしれない。

「この色を失わせること。それがあの人造迷宮の目的だ」

 ルーによって魔精を集め、それによって迷宮を成す。迷宮は更なる魔精を集め、内部に魔精を溜める。

 その溜まった魔精を無垢に染め直す。

 それに用いられたのが、巨人の出現した最下層の壁を埋め尽くした円筒容器、その中にいた人々だった。

 無垢というものをどのように定義したのか。

 ランタンは赤ん坊は無垢だとついこの間まで思っていたが、実際に赤ん坊に触れてその考えをあらためた。

 あの小さく、か弱く、言葉も喋れないあの生き物は、あれはあれで目まぐるしく何かを考えていた。見るもの聞くもの全てが新鮮なのだからしかたがないかもしれない。

 円筒容器の、あの人々は精神を退行させた上で破壊され、知性を欠落させられ、自我を消し去られ、欲求を喪失させられ、五感を奪われ、魔精覚と呼ぶべきものだけを与えられていた。

「いや、おかしい」

 ランタンはふと疑問に思う。

 魔精とは意思の溶媒であり、意思なくては魔精に影響を与えられない。

「そう。だから、曖昧な意思に染め直した。複雑な思考をできないようにしたんだ。苦肉の策だろう」

「……博士はなんと言っていたんですか」

 ランタンは身を乗り出して聞く。

「何にも」

 ランタンは物凄く微妙な顔をした。真正面からまともにその顔を見たアシュレイが物凄く困った顔をした。どうにか応えてやりたいと思わせるような無垢な顔だった。

「そんな顔をするな。言語化できていたら、世界は奴らのものだったのかもしれんぞ」

 あるいはツァイリンガーさえも無垢というものを説明できなかったのかもしれない。無垢に染め直すという矛盾を解消できず、自縄自縛になっていたんかもしれない。

 ランタンは不満そうな顔をして、投身自殺するみたいにふらりと思考の海に。

「あまり深く考えるな。仮説自体が間違っている可能性もある。考えすぎるとツァイリンガーのようになるぞ」

 思考の海は凍り付いた、ランタンは頭を打ったように額を押さえながら顔を上げる。

「迷宮に挑む者よ。その過程において自ら迷宮の一部にならぬように心せよ」

 アシュレイが祈りのように呟く。

「あ、劇のせりふだわ、変な格好をした人の」

 それは王都で観劇した迷宮王女の一幕で語られる一節だった。迷宮探索に密かに心惹かれる王女に道化が投げかけた台詞だ。王女はそんなことは知ったこっちゃないと、迷宮へと飛び出すのだが。

「あのような老人にはなりませんよ」

 ランタンはビスケットをばりばり食べて、紅茶をぐびぐび飲んだ。

 空になったコップにルーが紅茶を注ぐ。

 ランタンは甘ったるい唇をぐいと拭った。




「魔精は不可逆だ」

 アシュレイは掌に氷を発生させて、ランタンたちを驚かせた。この氷は溶けても魔精にはならない。水になるだけだ。

「魔精の無垢化、純化は難しいかもしれんが現実問題、迷宮に変化が見られることは確かだ」

 迷宮の有り様は変わってきている。

 単一系統の魔物の出現する種族系迷宮から、環境に合わせて複数種類の魔物が出現する環境系迷宮へと。

 探索者の意識の変化が、魔精にある迷宮の色を上書きした。

 迷宮収斂仮説に基づけばそう言うことになるのだろう。

「これの検証は探索者ギルドが昔から続けている」

 探索者ギルドの目的は探索者の管理でも、迷宮の管理でもなく、迷宮の攻略にある。探索者の親玉なのだからそれも当然だろう。

 そして迷宮の攻略とは何かと言えば、迷宮の支配だ。

 ランタンの試した最終目標の出現操作は失敗に終わったが、自由自在に迷宮の発生とその内部構造を操作することを探索者ギルドは命題としている。

 探索者証という発信器を取り付け、ありとあらゆる迷宮に探索者を送り込むのは迷宮を知るためだ。

「ブリューズ王子が、これに興味を示している」

 アシュレイは憂鬱そうに言った。これというのは迷宮の操作、支配のことだ。

「単純に迷宮利権にだけ興味があるのかと思ったが、どうにもよくない影がちらついている。先の魔精を染め直すために捕らえられた人々は、ティルナバン周辺領で行方不明になった領民が多い。特にブリューズ王子派、サラス伯爵派貴族の領民が」

 とは言え半数以上の身元は不明であるし、ブリューズ王子、サラス伯爵の両名の影響下にある貴族領地はティルナバン周辺領の過半数を占める。それが単純に数字に表れているだけかもしれない。

「お兄さまが黒い卵と関係があると?」

「正確に言えば、深い関係がある、だな。黒い卵の枝葉は広い。たとえばそこら辺の薬売りが、その末端であることもある。ランタンもリリオンも、誰も彼もが知らぬ内に関係しているよ。だが知ってそれと関係しているというのは、あまり褒められたことではない。綺麗事だけで世界は回らないのも事実だが、それでも」

「お兄さまは、どのような人なんですか? 一度お目に掛かった時は、気が強そうで、頭が良さそうでしたが」

「そう、じゃない。頭がよくて、気が強い。自信家だが、多少自分を過信しすぎる嫌いがある。もっとも大きな失敗はしていないから、あながち過信とも言えないが。あとはまあ利己的というか、自己中心的というか」

「あんまり好きじゃないですか」

 アシュレイはブリューズ王子を極めて高く評価していたが、兄を誇るような所はまったくなかった。他人を評価するような口調だ。

 アシュレイは苦笑し、肯定した。

「簡単に言えば支配欲求が強いんだ。気に喰わんな」

 例えば商工ギルドの設立はブリューズ王子の提言である。巨大な利権集団と化した商人ギルド職人ギルドの、二大ギルドは為政者にとっては目の上のたんこぶだった。

 ゆえに設立したのが商工ギルドだった。国としてこれを後押しする。二大ギルドの利権を分割、ないし完全譲渡させ二大ギルドを解体すると匂わせた。

 その結果として何が起きたかと言えば二大ギルドとブリューズの蜜月関係だった。

 商工ギルドは当て馬にされたのだ。

 もちろん蜜月関係を築くまでには、様々なやり取りがあった。だが現状の関係を見ればブリューズはこれに勝利したことは間違いない。

 何しろ二大ギルドとの蜜月関係と同時に商工ギルドは現存し、二大ギルドの利権を僅かに崩しているからだ。たいした影響ではない。だが楔は打ち込まれたままだ。

「本来ならばそのまま二大ギルドを崩壊させ、もう少し緩やかな計画経済というか、多少締め付けのある自由経済というか、まあそのような方向性に導いた方が民の生活は楽になるのだが」

「支配欲の欲求を満たすことを選んだ、と」

「私にはそう見えた。政治的な主義としてそれをしているのならば、文句は言わないが。この支配欲を探索者ギルドにも向けているのが問題なんだ」

 アシュレイは本当に苦い顔をしている。姫さま、とレティシアが気遣わしげに声を掛ける。

「探索者ギルドというか、探索者と迷宮。これは正直、私たちにはどうにもならん。ノウハウがない。これを支配しようとすれば必ず反発がある。ティルナバンだけでも数千の探索者がいる。これの上位層数百だけでも蜂起したらもう滅茶苦茶だ」

 アシュレイは真っ直ぐにランタンを見る。

「滅茶苦茶だ」

「繰り返さないで下さい。滅茶苦茶なことはしませんよ。僕は極めて平和主義者ですよ。非暴力の化身ですよ」

「あのような化け物を猫の子のように振り回して何を言う。テスが言っていたぞ。お前を王城に放り込めば、それでもう国は終わると。城が消し飛ぶと」

「前提条件がおかしいです。王城に放り込まないで下さい。放り込まれたとしても爆発しませんよ。すごく怒っていなければ」

「――前提条件に追加だ。怒らせた上で放り込む」

 テスが脇から口を挟んだ。ランタンが睨むと視線を逸らす。

 怒ったランタンはそれはそれで格好いいのよ、とリリオンが意味不明にランタンを慰めた。身長のことを言うと怒るのよ、とルーにいらない耳打ちをする。ランタンは目でルーを牽制する。ルーは頬を赤らめる。

「ブリューズ王子は迷宮の支配を見据えて、探索者ギルドを支配しようとしている。と言うことですか」

 埒があかないので、レティシアが助け船を出した。

「そうだ。すでにトライフェイスを使って探索者の意識を誘導しようとしている。迷宮とはこのようなものであると、都合のいいことをすでに吹聴させ始めている。探索者ギルドの後追いだが、探索者ギルドが作った土台に被せるような話だ。効率はいい」

「巧遅は拙速に如かずといいますが、気が早いですね」

「相談もしないし、失敗するとも思っていないんだ。もちろん迷宮の支配がなるのは悪いことではないんだろう。探索者の未帰還率も、様々な資源不足も一挙に解消されるだろう。だが民のためではなく、自分のためにそれをするというのは(まつりごと)(わたくし)にしすぎる」

「――耳が痛い話ですね」

 ランタンとリリオンのために議会の席を買ったレティシアは、しかしむしろ誇らしげだった。

 テスはつまらなそうにしている。

「もし迷宮の支配がなったら、探索もママゴトをするのと変わらなくなるな。探索者はいなくなり、猟師と坑夫と樵になる。――もっとも私が生きているうちに、そうなることはないだろうがな」

「そうなんですか? それは残念というか、ほっとしたというか」

「探索中毒め。私のことをとやかく言えないじゃないか」

「とやかく言ってないですよ」

「……それもそうか。まあ、せいぜい探索者に事前に渡される情報精度が向上するぐらいだろうな」

「あら、テスさま。それはわたくしたちにとっては、とってもありがたいことですわ。ギルドの探索難易度の設定はどうなっておりますの」

「そうそうそう、今はちょっと調査班によって査定にばらつきがありすぎますよ。下位の迷宮ならいいけど上位の迷宮でそれやられると予定が狂ってしょうがないです。命にかかわりますよ」

「ほんとに、全体的に難易度は高く設定した方が失われる命が」

「苦情は所定の職員に言え。私の管轄じゃない」

 テスは耳を折り畳んで塞いだ。

 ランタンとルーは不満が残っているのか、まったくもう、と完全にそっぽを向いたテスを睨む。

「ちなみに言えば私の管轄でもないぞ」

「司書さまですもんね」

 アシュレイは怜悧な微笑を浮かべて頷いた。司書の笑みだった。

「そうだ、姫さま。どうして姫さまが探索者ギルドに?」

 不帰の森の施設でランタンが尋ねた時のようにレティシアが尋ねた。

 不帰の森で応えた時のように、アシュレイではなくテスが応えた。

「迷宮王女に憧れて、探索者になりたかったんだよな。まあ危ないことはさせられないから、探索者の実体を学ぶとか適当に言いくるめられてあの部屋に軟禁されたわけだが。お守りの私はいい迷惑だった」

 ランタンもレティシアもルーも目を丸くした。

 リリオンがアシュレイの顔を覗き込んだ。

「そうなの、ししょさま、おねえさま? おねえさまは探索者になりたかったの?」

「おい、妹が聞いてるぞ。お姉さま」

 アシュレイは黙して語らず、怪しげな微笑を浮かべるだけだった。

 意思は魔精に溶けたかもしれないが、それを読み取ることはできなかった。

「ねえねえ、ほんとう?」

 ねえねえ、ねえねえ、と新手の魔物の鳴き声のように、リリオンの声が迷宮に響くばかりだ。


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