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炎虎こと、猫を取り逃がしたことを孤児院の少女たちに伝えなければならない。元々の飼い主が見つかったのだから致し方ないことだが、若干気が重たかった。
猫はきっとあの少女たちの生活の、ちょっとした安らぎだったに違いない。きっと残念がるだろう。
「ねえ、ランタン。それ、本当に持っていくの?」
リリオンが微妙な顔をしてランタンが肩に担ぐ戦鎚、その先に括られたものを見た。
それは迷宮兎だった。もちろん絞めてある。内臓も抜いてある。魔精をたっぷり与えられて育ったのか、子豚ほどの体格をしている。それが二匹、足首に真っ逆さまに吊られている。
だらんと垂れた耳がランタンの尻を撫でていた。
「手ぶらよりはいいだろ」
「でも猫の代わりにそれってどうなのかしら……」
さすがのリリオンも首を捻った。ランタンは開きなおったように鼻を鳴らした。
「猫を持ってったって腹は膨れないだろ」
「猫は食べないわよ」
「猫は見て可愛いだけだが、兎はそれに加えて食べて美味しい。猫より優れてる」
「わたしランタンが何を言ってるのかわからないわ」
「奇遇だね、僕もだよ」
代わりの猫、魔物ではない安全な子猫を用意することもできたが、あの少女たちが可愛がっていたのはあの炎虎であり、やはり猫そのものでは代わりにはなり得ないとランタンは思う。
しかしだからといって、代わりになるものがランタンには思い浮かばなかった。
結局は肉を食わせておけば喜ぶだろうという浅はかな考えのもと、ランタンは屋敷の食料庫から見るからに食いでの有りそうな迷宮兎を持ち出したのだった。
「あの子、どうしてるのかなあ?」
リリオンは柔らかな陽射しに目を細め、胸に抱きしめた毛の塊のことを思い返した。騎士ロザリアへの懐きようを思えば、そう酷い扱いはされていないだろう。
「またどっかで逃げ回ってるんじゃない?」
ランタンがくつくつ笑いながら嘯くとリリオンは、まあ大変、とわざとらしく口に手を当てる。
「ならまた探しに行かないと」
「ジャックさんも誘わないと。あれ、ジャックさんに誘われないと、か?」
「でもその前に、ランタンと二人っきりで――」
「今がそうじゃん」
「えへへ」
リリオンはステップを踏んでランタンの手の空いてる方へ移動して、それから飛び付くみたいに手を握った。
ジャックを誘うも、ジャックに誘われるもなく、孤児院までの二人っきりを邪魔されることはなかった。
それまではリリオンの体温を楽しんでいたが孤児院に辿り着き、やはり少女たちに説明するとなると億劫だ。
あれから一週間以上も経つ。不安でいただろうか、それとも期待していただろうか。不安を的中させることも、期待を裏切ることも、それまでに待つ時間が長ければ長いほど痛みは大きい。
しかし。
「――ねこ? ねこはもういいの。だってほら!」
そんなランタンの憂鬱を盛大に踏み潰して、犬の少女は比較的清潔そうな毛布で作った寝台に寝かされた小さな生き物をランタンとリリオンに紹介した。その小さな生き物の周りを孤児院の少女たちが囲んでいる。
迷宮兎よりも、あるいはランタンよりもそれは少女たちに人気があった。
リリオンさえもが、わあ、と目を輝かせた。
「うわ、なにこれ。怖っ、うわー」
ただランタンだけが怯えを含んだ声を出した。
それは赤ん坊だった。なるほど猫の世話などしている暇はない。
生後まだ数ヶ月だろうか。白い布で蓑虫のようにぐるぐる巻きにされた身体は、持ち込んだ迷宮兎よりも二回りは小さい。あの炎虎と同じぐらいだろうか。
目もほとんど開いておらず、男か女か、人族か亜人かもわからない。ランタン以上に毛も生えそろっていない。
皮膚は血管も透けるリリオンのそれとはまた別種の、脆そうな薄さをしていて、ぐるぐる巻きが緩んだ隙間から飛び出た足は何だかもう意味がわからないぐらいに小さい。
「可愛いじゃない。何が怖いのよ、ランタン」
「いや、だって。足なんだこれ、小さいぞ。親指ぐらいしかないじゃん、僕の。げー、爪、意味ないだろ。これ。足の指小さすぎない? なんだこれ、大丈夫なのか? 正解か?」
ランタンは思わず一歩距離を取った。
赤ん坊を見ることは初めてではない。だがこれほど近くで、まじまじと見るのは初めてのことだった。見つめるだけで死にそうなほど、か弱い生き物のように思った。
リリオンを赤ん坊のようだと思うこともあったが、もう二度とそう思うまい。これはまったく別の生き物だ。人間かどうかも怪しい。
リリオンがそっと腕を伸ばして、赤ん坊の赤い頬を突き、指の腹で撫でる。
「へへっ、かわいい。わあ、いい子いい子」
「そんなに触って大丈夫なのか? 死なないか?」
「……――縁起でもないこと言わないで下さい」
さすがに年長の少女がランタンを咎める。確かに縁起でもない言葉だった。孤児院に引き取られた子供が大人になれる確率はそれほど高くはない。
「悪い。でも、だけど」
だがやはり見ていてどうしても不安になる。ランタンはお手上げというように肩ぐらいの高さに半端に手を上げて、物凄く不器用そうに指をわきわきと動かした。本当に困っている様子だった。
少女たちがそんなランタンの様子にぷっと噴き出す。
「もう、ランタンったら」
そしてなぜだかリリオンが恥ずかしがった。ランタンは恥ずかしがる余裕もなかった。
少女の一人がおもむろに赤ん坊を抱き上げたのだ。ランタンは悲鳴を上げそうになる。思わずクレアや半裸女、大人の姿を探した。
「大丈夫ですよ。ほら、この子は生き残ったんです」
半裸女がどこからともなく浮浪児たちを攫ってきて、子供たちの数は一時的に激増し、孤児院の人手は足りなくなった。クレアと半裸女だけでは回らず男手として重装男が手伝いに入り、どうにか一段落が付いたのは最大時よりもいくらかも子供の数が減ったからだった。
孤児院に引き取られた子供が大人になれる確率はそれほど高くはない。
一段落付いたというのは、つまりそう言うことだった。
ランタンは押しつけられた赤ん坊を怖々抱いた。抱かされた。
「首を支えてください」
「うわ、むりむりむり、ちょっと、こわい!」
ランタンの顔は引き攣っている。
軽い。内臓を抜いた迷宮兎一匹よりも軽い。だがランタンの全身は強張っていた。巨人の一撃を受け止めろと言われても、こんなに力は込めまいというほど筋肉が緊張していた。
布越しに温かく、布越しにその貧弱さが伝わってくる。
魔物の胸骨をぶち破って引きずり出した心臓だって、もっと頑丈だった。落っことしただけで死にそうだ。
なんだこれ、これで生きてるのか。ランタンは呼吸もできなくなった。
剥き出しの命の塊が手の中にある。
「ふあっ、ふあっ、ふんぎゃっ、ふんぎゃあ、ふんぎゃあぅ!!」
突如、赤ん坊が火が付いたように泣き出した。前触れもなにもない。何か悪いことをしただろうか。体温が高くなり、なるほど赤ん坊と言うだけあって頬が真っ赤に染まる。歯も生えていない口を大きく開き、覗いた舌が作り物のように小さい。
全身を使って泣いた。布の中で四肢を蠢かしている。
それは強烈に生命力を感じさせた。心臓がどきどきする。
「泣いた、泣いたぞっ、え、ちょっと、どうしたら!?」
ランタンは本当に困って左右を見回す。
ランタンが悲鳴を上げると、リリオンがひょいと赤ん坊を抱き上げた。
「ほーら、大丈夫よ」
妙に慣れた手つきで抱っこして、大きな身体を小刻みに揺らしている。安心させるように微笑んだ顔が、慌てふためいたランタンを見惚れさせた。心臓のどきどきが驚きのそれから、愛情のそれへと一瞬にして変わってしまった。
「いい子ね。ほーら、怖くないのよ」
まるで自分に言われたようにランタンは感じた。
赤ん坊はあっという間に泣き止んだ。
ランタンは尊敬の眼差しでリリオンを見上げる。
「リリオンさまは赤ん坊をお育てになったご経験がおありなのでございましょうか?」
「なあに、その言い方。あるわけないじゃない。でもできるのよ」
「じゃあなんで。女の子だから?」
「そうかもね」
「……女の子ってすげえな」
ランタンは感嘆の吐息を漏らす。自分には絶対に無理だと思う。こんなに無理だと思ったことはこれまでないかもしれない。もう一度赤ん坊抱き上げるか、素手で迷宮に挑むかと言われたら後者を選ぶだろう。
「ランタン、もう一度抱いてみる?」
リリオンは赤ん坊に微笑みかけながら言った。あれ、とランタンは思う。今、少しだけ赤ん坊に嫉妬したかもしれない。まさかそんなことはないと思うけど、リリオンが自分ではなく赤ん坊を見続けたから。
「絶対に嫌だ。動物には懐かれない質なんだ。どうせまた泣く」
「動物じゃないわ。赤ちゃんよ」
「言葉が通じて、下の世話が自分で出来るようになるまでは動物です。今、決めた。お金積んでそういう法律を作ってもらう。赤ん坊は動物だから僕に近づけないっていう法律。そうすれば赤ん坊は泣かなくてすむ。僕は困らない。とてもいい」
「――ランタンの言ってることがわからないわ」
「奇遇だね、僕もだよ」
赤ん坊を抱いている以上ランタンが近付いてこないことを悟ったリリオンは、たっぷり笑いかけてから赤ん坊を少女に預けた。
受け渡しを見ているだけでも冷や冷やする。落っことしたら絶対に死ぬ。それぐらい脆い。はち切れんばかりの命が詰まった薄硝子の容器だ。
「ったく、どこで拾ってきたんだよ。おっかない」
「貧民街からですよ。あの子たちと一緒に」
少女が振り返った先を視線で追うと、坊主頭の集団が室内に戻ってきた。どうやら重装男に扱かれていたらしく、頭から湯気が出ていた。体力作りと言うよりも精神鍛錬を兼ねているらしく、かなり厳しく扱かれていたようだ。上下関係を教え込む目的もあったのだろう。
坊主頭は新入りの証だった。入ってきたばかりの子供たちは、蚤や虱の巣窟と化しているため髪の毛を剃られる。
どこかで見たことがあるような顔だ。ランタンと目が合うと、気まずげに視線を逸らす。
一人足を引きずっていて、転びそうになったところをランタンから視線を逸らした隣の少年が支える。
理知的な顔と勝ち気そうな顔。
やはりどこかで。
「あっ、あれだ。貧民街の子供集団の、何とかと何とか!」
名前がまったく出てこないが、貧民街で出会った少年たちだった。
「マルコとトーリよ。知ってるの?」
「ああそうだ、そんな名前だった」
自分たちの力で貧民街を生き抜くんだ、というような感じだったのに二人だけではなく集団全員が孤児院の世話になっているようだった。ランタンは小首を傾げる。
「なんで?」
「お前のせいだろうが!」
トーリの怒鳴り声で赤ん坊が再び泣き出した。
「ちょっと大きな声出さないでよ! 赤ちゃんがびっくりするじゃない!」
女の子がトーリを叱りつけ、赤ん坊はさらに泣き喚く。リリオンが探索者の反射神経で抱き上げて、踊るように身体を揺らしてあやす。
「……僕のせいじゃなからね」
ランタンは誰にともなく言い訳をする。赤ん坊相手では兎肉も意味をなさないから厄介だった。
赤ん坊が泣いたのは、たぶんランタンのせいではない。
マルコたちが孤児院の世話になったのは、もちろんランタンのせいではない。
赤ん坊が泣くのは自然の摂理であり、マルコたちが孤児院の世話になることになったのは、何を隠そうレティシアのせいだった。
レティシアは夕飯に帰ってこないランタンとリリオンを心配して、精強名高いネイリング騎士団を動員し、彼らに暗黙の了解で不可侵とされている貧民街に突入させたのだ。
騎士団は主の意思を正確に汲んで貧民街の一区画をあっという間に制圧し、そこを橋頭堡に不可侵の中枢、貧民街中央にまで攻め込んだ。
捜索をしやすくするためだけに。
これにより貧民街の生態系が崩れた。
一部貴族たちと密約を交わしており、貧民街壊滅作戦などの危機を硬軟織り交ぜてこれまで回避してきた顔役たちの尻に火が付いた。自分たちが犯罪者であることを思い出したのだ。
停滞、安定していた中央部に主導権争いが勃発したのは言うまでもない。ネイリング騎士団の圧倒的な制圧能力は、それぞれの組織が独立していては対抗できないだけのものだ。しかしだからといって誰かの下につくことは出来ないのである。貧民街で信用できるのは己だけだ。
その制圧行動がただの家出少年少女捜しのためだけのものだとは露知らず、騎士団が引き上げたのは戦力を整えるためだと信じて疑わない貧民街が混乱に陥っているのは言うまでもない。
もう子供の意地だとかそういったもので生き残れる場所ではなくなってしまったのだった。貧民街は群雄割拠の戦国時代に突入した。
「んっふっふ」
そしてそんな状況を作ったレティシアはご機嫌だった。
「迷宮はいいな。なあ、ランタン」
「なんで僕に同意を求めるのさ」
「嫌いじゃないだろ?」
「……まあね、余計な人いないし」
人間の煩わしさは、それから解放された時ほど如実に実感できる。清々しさとして。
「リリオン、あんまり遠く行くと迷子になるよ」
「はーい」
久々に貴族の仕事から解放され、迷宮探索に同行しているレティシアは伸び伸びと腕を伸ばす。彼女は身体を動かすのが楽しそうだった。
散歩するにはもってこいののどかな迷宮だった。
木漏れ日の並木道。緑の淡い枝葉の隙間から、抜けるような蒼天が覗いている。道の脇には並走するように透明な小川が流れていて、せせらぎは耳に心地良い。何だか綺麗な花も咲いている。
リリオンが赤い花に近付くと、それは突如牙を剥いて襲いかかってくる。人食い花だった。
頭上からは角のある甲虫が目を狙って突撃を仕掛けてきて、木々の隙間からは四つ足の狼を直立させたような獣人がおっかない鉈を片手に襲いかかってくる。
小川からはあの水深にどうやって潜んでいたのか目を疑うような大魚が飛び出してきた。八つ足が生えている。魚類ではなく両生類や爬虫類かもしれない。
のどかな迷宮だった。
ランタンは爆炎に包まれ、レティシアは五指から雷をばらまき、リリオンは花を摘み取る。女二人が抜き打ちに刃を走らせた。ランタンはもうやることがない。
虫は爆発四散し、狼は感電して小川で溺れ、大魚は三枚に下ろされた。
迷宮は獣系迷宮に分類されていたが、複数種類の魔物が出現した。ここ数週間で五つの迷宮を攻略したが、単一種族系迷宮が三、環境系迷宮が二だったので、これで同数になった。
やはり迷宮はそのあり方を変化させているようで間違いがない。
何本もの花を摘み取って戻ってきたリリオンは、小川の水に切り口を晒し、水中で程良く切り詰めた。それを人とハンカチを使って花束にする。
「いい匂い」
「何か粘液垂れてるけど大丈夫か、それ? 涎じゃないのか、人食い花だし」
「蜜よ。だって甘い香りがするんだもの」
「私は消化液だと思うな。人食い花だし」
「いいの、きれいだから」
「っていうか帰りでよかったじゃん、摘むの」
リリオンは拗ねた様子で魔精の霧の前にそれを飾った。ランタンの下へ戻ってきて、どうだと言わんばかりに指差す。
「はいはい、きれいきれい。きっと喜んでくれるよ」
ランタンはリリオンの指を掴んで、それを花束から霧の方に向けた。
「今回も思考を統一するよ。三人いるからいけるかもしれないし」
「しかし変なことを考えるよな。なんて言うんだったか」
「不確定性原理。たぶんそんな感じ。量子論かもしれない。量子って何かわからないけど」
魔精を万物の源とし、巨人の魔物は現れた。霧の向こう側は観測されるまであらゆる可能性が混在しているのかもしれず、探索者の祈りと観測によって固定されるのかもしれない。
「大きさは普通。レティぐらい。人型で、大型武器を使う。武器は剣にしよう。盾はなし。どっしり構えて一撃が大振り。魔道は使わない。あ、鎧はどうしようかな」
「ちょっと待て、行動とかは想像しづらい。もっと単純にした方が想像しやすい」
「――じゃあ人型で剣を持ってる。あんまり強くない。それだけ。それでいい?」
「うん、それならわかりやすいわ」
三人は目を閉じて人型で剣を持ったあまり強くない魔物を想像する。口に出して人型、剣、弱いと合唱するように繰り返す。意思を霧に溶け込ませるように、しっかりと。
「せーの」
三人は一斉に魔精鏡を覗いた。
最終目標の姿は。
「人型、……か? 二足歩行ではあるけど」
「腕が四本あるわ。尻尾もある。角もある」
「剣はないな。三メートルぐらいか。うろちょろして、落ち着きがないな。これ、猿じゃないか?」
猿は人に入らない。なぜなら人は猿から進化していないからだ。
五つの迷宮を探索し、その度に同じ事を繰り返してきたが結局、想像した魔物が出現したことはただの一度もない。出現する魔物を自由自在に選べるのならばこれほど楽なことはないのだが、ファビアンの言ったとおり何事も思い通りにはいかないものだ。
しかし成功したとしてもそれを喜ぶよりも、探索する意欲を失う探索者は多そうな気もする。もしかしたら自分もその一人かもしれないと、ランタンは密かに思う。
「レティは遠距離から牽制と足止め。僕とリリオンが前衛。レティは誤射に注意、僕らは位置取りね」
「わかってる。きょうげきでしょ」
「そう、挟撃。前後、左右で挟む」
携帯食を食べながら簡単な作戦会議を済ませると、三人は霧の中に飛び込んだ。
最終目標はすぐさま三人に反応する。霧の中は最終目標の感知範囲内だ。霧を飛び出す三人の目に映るのは、拳を振りかざして飛び掛かってくる、猿とは似ても似つかない異形の姿だった。
魔精鏡では青く染まった姿しかわからない。背を反らし、尻を突き出したような立ち姿は大型の猿の姿そのものだった。だが直接それを目にすると、まずその色の違いに驚く。
体毛はなく、全身が鮮やかに赤かった。全身に巻き付くような黒い線が走っている。
目は四つ、角は捻れ、口は大きいが牙はない。人間と同じ四角い白い歯をしていて、だが口中は舌まで真っ黒だった。
握った拳はランタンの顔よりも大きい。
それは猿ではなく悪魔や鬼のような姿をしている。誰一人として、こんな魔物は想像していなかったはずだ。
リリオンとレティシアは横っ飛びに転がった。ランタンは猿鬼へ突っ込み、股下を潜り抜ける。
拳を叩き付けられた地面が砕ける。三人はすぐさま反転して、その背中に攻め込もうかと踏み出して、しかし一瞬の逡巡があった。
背を向けたまま三本の腕が異様にねじ曲がって三人に掌を向ける。
空間が歪む。陽炎を押し固めたような透明な魔弾がばらまかれる。
レティシアが帯のような雷条を発生させ、それを尽く相殺した。
その光に紛れて二人は攻め込む。
リリオンが銀刀を薙いだ。大猿はすでに体勢を立て直している。三本の腕に身体を引き寄せるように反転し、拳を解いて掌で受ける。紙一枚分、皮膚に届いていない。障壁だ。猿鬼は刃を握り締めた。
リリオンは後ろに体重を掛け、刀を引いた。猿鬼の体勢が崩れ、しかし尻尾で支える。
その尻尾を払うように竜牙刀を内股に差し込んだ。切り上げ。牙が股関節に食い込む。銀刀をするりと手放し、竜牙刀を両手で握る。竜牙刀の背を蹴り込み、牙をより深く食い込ませる。
リリオンは背負い投げするように猿鬼ごと竜牙刀を切り上げた。
「こうたいっ!」
交代であり、後退だった。
リリオンがばっと猿鬼から離れ、ランタンが飛び込んだ。
猿鬼はランタンに向かって銀刀を投げつける。躱し、振り上げた戦鎚を叩き付けた。
軽い抵抗がある。魔道障壁。ランタンはそれを力任せに打ち砕く。
戦鎚が顔面にめり込んだ。鼻骨を陥没させ、噴き出した血にぬるりと滑って口腔に突き刺さった。がちがちがち、と柄を噛む。ランタンは体重を乗せて喉奥に突っ込む。四本腕が暴れる。
ランタンは戦鎚を爆発させた。猿鬼の顔が西瓜のように砕け、ランタンは距離を取った。着地ぎわを狙って、魔弾が襲いかかる。爆発で相殺し、相殺しきれなかった一撃が腹に突き刺さる。
ぶん殴られたような鈍痛に血を吐き、ランタンは尻餅をついてぐるぐると後転し、そのまま立ち上がってさらに距離を取る。
レティシアが雷を放ち、むやみやたらにぶちまけられる魔弾を撃墜する。
ランタンは血の味がする唾液を吐き出し、唇を拭う。ちらとリリオンに視線を向け、無事だと伝える。
猿鬼は頭部を失ってなお立ち上がった。レティシアの雷撃は魔弾の隙間を縫って鬼に襲いかかったが、障壁に減衰させられて致命傷にはならない。
猿鬼は涎のように青い血で胸元から腹部まで汚している。鬼は雷撃をものともせずレティシアに突撃した。
遠距離から牽制だとランタンに言われているのにレティシアは堂々と猿鬼を迎え撃つ。
剣の一撃をやはり掌で受けようとした。レティシアの手首が僅かに返る。刃は広げられた指の股に滑り込んだ。
中指と人差し指をすとんと落とし、レティシアは膝と肘を一気に伸ばして鋒を心臓に向かって突き上げる。
胸板を貫き、肋骨で止まる。筋肉に刃が絡め取られる。刀身が竹のように撓った。
レティシアが身体ごと下がって剣を引き抜こうとするが、鬼がそれに合わせて前進する。広げた四本腕を閉ざしてレティシアを捕らえようとする。
その隙間にランタンが割り込んだ。
レティシアにもたれ掛かるように重心を後ろに置く。脇を締めて、腰を鋭く回転させる。鶴嘴を鬼の脇腹に突き立てると、その衝撃で鋒が押し出されるように抜けた。
ランタンは後頭部でレティシアの胸を押し、後ろに下がれと伝えた。レティシアは置き土産に鬼を感電させ、ランタンから身体を離した。
ランタンは戦鎚に爆発を発生させる。内部破壊ではない。鶴嘴をさらに押し込むみたいに、鎚頭が火を吹いた。鬼の巨体が横にずれ、浮き上がり、そして再び爆発させる。
ランタンの身体が回転し、戦鎚で繋がれて鬼が振り回されて円軌道を描く。
加速、加速、加速。
鬼は強烈な加速重力に身動き一つ取れず、ランタンは振り切れそうになる遠心力を腕力で押さえ込む。
それは星の動きに似ている。鬼は問答無用にランタンの重力とその自転に囚われた。
そしてリリオンとレティシアも。
引き寄せられた二人は、刹那の一瞬、ここにしかないという隙間に刃を突っ込む。
二人が連なって刃を払った。
ランタンの回転と逆方向に振り抜かれた刃は、鬼を問答無用に切り刻む。四本の腕は一瞬のうちの二十近い部位に切り分けられ、胴体に刻まれた傷口から大量の血液が撒き散らされる。
質量とともに慣性を失い、振り回してるんだか振り回されているんだかわからなくなったランタンはへろへろと減衰し、ようやく止まった。
引き千切れかけた脇腹から鶴嘴を抜く。
「――目が回った」
「なら、とどめは私が」
頭部と腕と血液を失ってなお、命を失わなかった猿鬼にレティシアが歩み寄る。逆手に剣を握り直すと、乱暴に心臓へ突き立てた。
「よくもランタンをやってくれたな」
魔弾の一撃を言っているのだろう。怒りの込められた声だった。
剣を伝って大電流が鬼の内側を蹂躙する。剣に縫い止められた悪魔はびくんと跳ねて、より深く自らの心臓を突き刺した。レティシアは刃を捻った。
最も暴れたのは尻尾だった。
ランタンはふらふらしながらそれを踏み付ける。ぶちん、と腰の付け根から尾が切断された。自切だった。尾は蛇のようにのたうつ。
いや、それはまさしく蛇だった。腰の肉を食い破り、腰椎を咥えていたのだ。
ランタンは膝を抜いて頭のふらつきごと重心を踏み付けた右脚に沈める。
震脚。
ランタンは蛇を踏み潰す。二つに分かれた頭部と尻尾はそれぞれうねうねと動いたが、レティシアが微妙な顔をして電撃を喰らわせると動かなくなった。
最終目標の本体は尻尾だったのかもしれない。
「せっかくの決め台詞が」
「あー、……うれしかった、よ?」
「慰めなどいらん」
拗ねたレティシアなどお構いなしに、蛇を仕留めたことをきっかけにして迷宮核が顕現する。
蛇の頭部が脱皮するみたいに破れ、捲れ上がり、頭部そのものよりも二回りは大きい濃紺の結晶が現れる。
レティシアがそれを拾い、リリオンが広げた袋の中に放り込む。
ランタンは水筒の水で口を濯ぎ、それから喉を潤した。リリオンがねだるように手を伸ばしてきたので、ランタンはレティシアに水筒を投げ渡す。
リリオンはぷうと頬を膨らませる。
「あとは戻って待つだけか」
引き上げまでは帰路を急がなくても充分な時間があった。だが待つのはミシャのことではない。
リリオンの視線に急かされるようにレティシアは水筒に口を付ける。喉が上下する。
「――その必要はないみたい。来たんなら手伝ってくれればいいのに」
ランタンは霧の向こうからやって来た人影に声を掛けた。
レティシアからようやく水筒を受け取ったリリオンが、けれどそれに吸い付くことを忘れて声を上げた。
「テスさんに、ルーさんも! それに」
二人に続いて霧の向こうから姿を現した人物は片手にリリオンの作った花束を提げ、物珍しげに最下層を見回していた。
「ししょさま!」
リリオンにそう呼ばれて、やや頬を引きつらせたのは第十三王女のアシュレイである。
明けました。
今年もよろしくお願いいたします。




