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カボチャ頭のランタン  作者: mm
08.In The Deep Haze
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 肉は消え去り、骨が残った。

 白々とした巨大な眼窩に見つめられながら地の底から這い上がり、崩壊を免れたものの混乱に陥った残りの施設を制圧した。

 朝が来て、夜が来て、再び朝が来て、そして夜の訪れとともに迎えがやってきた。

 テスは自らの位置を特定させる道具を有していたし、ランタンたちの手首に揺れる探索者証もまたそれに類する効果がある。

 だが迎えに来たのは探索者ギルドではなかった。

 不帰の森は王領である。テスはギルド関係者だが、探索者ギルドはテスほど自由に行動することはできない。

 それは小型の飛行船で、乗っていたのはレティシアの兄であるファビアンだった。

 ファビアンは碌な説明もせずランタンたちを乗船させると、飛行船の高度を上げた。あっという間に雲の上に出る。

 飛行船は小さい竜籠を幾つか組み合わせ、それを回廊でぐるりと縛ったものを楕円の風船で吊り上げただけの簡単な造りをしていた。

 ランタンたちはがらんどうの個室に放り込まれ、携帯食料と毛布を渡された。テスは代表してファビアンと話をするため別室に案内された。

 テスは施設を制圧した後、施設内を見回っていた。おそらく一睡もしておらず、ランタンが心配すると、寝たら三日は起きられない、といまいち噛み合わない返事を返してきた。

 二人が話をしている間に疲労困憊のリリオンが眠り落ちた。ジャックもルーも眠っており、博士は眠らされている。

 部屋は幾つも余っていたので、男と女で別れた。だがランタンはリリオンが眠るまで女部屋にいた。

 回収されたのは博士を含めて六名だ。

 施設にはまだ黒い卵の生き残りがいる。制圧する際に手加減が利いた分だけ生け捕りにした。だが飛行船には乗せられなかった。あとで回収するのかもしれない。

 ランタンはリリオンが眠ると甲板に出た。

 その寒さに身を縮ませる。見下ろすと森が黒い。

 白い息がすっ飛ばされるように後ろに流れ、気温は氷点を遥かに下回っている。風に弄ばれる毛先が、針のように硬くなって頬を刺した。

 しばらく森を眺めていると温かそうな格好をしたファビアンに見送られ、テスが甲板に出てきた。テスはちらとランタンを見て、休んでくる、とそれだけ言って女部屋に向かった。

「風邪を引くぞ」

「風邪ぐらいなら。……凍死しそうです」

 ランタンは外套の前を合わせた。つんとルーの匂いがする。間違えて他人の服を着たような違和感があって落ち着かないが、寒いよりはましだ。

「実用化に成功したんですか?」

「まさか。試験飛行だ。生成菌は特定できていない。糞を水に溶いた液体を一定の温度に熱することで、それらしき気体の発生は確認できたが」

「おならで飛ぶ飛行船か、嫌だな」

「これは浮き袋から抜いたもの溜めて、詰め直したものだ。お前から飛行船について聞かされた時は半信半疑だったがなかなかよい。篭を牽かせるより飛竜の消耗がかなり少ない。速度も出る。横風には弱いが、魔道障壁でどうにでもなるだろうし」

「それはよかった。それで、――まさか飛行試験中にたまたま僕らを見つけて下さった、なんて偶然はないですよね」

「妹の頼みだ」

「レティの?」

「ああ」

 ランタンたちが帰らないことで、レティシアはずいぶんと心配をしたようだった。

 ファビアンの頬に浮かぶ苦笑にランタンは気まずげに視線を彷徨わせた。レティシアへの言い訳を考えるのを、すっかり忘れていた。

「うちの妹だけではない」

 ファビアンが懐から出して見せたのは、ウィリアム王子の署名がされた立ち入り許可証だった。飛行試験のために森の上空に立ち入ることを認めるというようなことが記してある。

 レティシアは探索者ギルドにランタンの居場所を探すように頼み、そして場所が不帰の森であるとわかるとアシュレイ王女にそれを相談した。

 だが権力に乏しい末姫は、王権代行官であるブリューズ王子とあまり仲がよくないために、レティシアの兄と仲のよいウィリアムを頼ることにした、とそう言うわけだ。

「十三人もご兄弟がおられれば派閥も生まれよう。うちは四人兄弟でよかった」

 しかしそれにしてもレティシアの行動は迅速だったらしい。

 ランタンとリリオンが夕飯に帰ってこないとなるやリリララを捜索に出し、そして貧民街に入ったことを知ると騎士団を貧民街に送り込み、日が落ちる前にそこで消息を断ったことを掴んだようだ。

 ランタンはちょっと帰りが遅れただけでそんな風に心配されると、嬉しさよりも情けないやら恥ずかしいやら、何とも言えない気持ちになる。

「しかしツァイリンガーまでいるとは驚きだった」

「なんか嫌そう顔をしましたね」

「功績は認めるし、尊敬もしている。が、迷惑な老人だ。無自覚に革新的な技術をばらまきすぎる。野良犬相手に結晶を暴走活性させるための方法論を喚くような男だぞ」

「犬ならいいじゃないですか」

「犬でもできるぐらいに簡単な方法だ。あれが生まれて七十年ぐらいか。世界はよく滅ばず続いているものだ」

「で、そんな迷惑な老人をどうするんですか」

「うちで囲う。――前々からその噂はあったんだ。黒い卵の繋がりは。もっともツァイリンガーは無自覚だろうが、さすがにもう見逃せん」

 ファビアンは微かに苦笑する。

「乱暴はしない。聞き手も好きなだけ歩き回れる場所も用意する。望むものは全て与え、蝶よ花よと甘やかすさ。それだけの価値がある」

「魔精の研究にですか」

「そればかりじゃないが、まあそうだな」

「魔精って何なんですか?」

「あの施設で何を見た」

「――テスさんから聞いたんでしょう?」

「ああ。だが、視点は多い方がいい」

「人間の欲望と残酷さの近似」

 ランタンは思いだし、吐き捨てるようにそう答えた。

「いつ哲学者に鞍替えした」

「してないです。魔精は人の本性を剥き出しにし過ぎる。出来なかったことが出来るようになる。成功体験は人の足を進めます。取り憑かれたみたいに」

「人の意思を汲む万物の源か」

「汲む? もっと乱暴な言葉が適当だと思います」

「かもな。――例えば飛行船(これ)を牽く竜種は迷宮産だ」

 ファビアンは甲板の先にランタンを連れて行った。闇に溶ける巨大な影に指を向ける。

 目を凝らすと三頭の竜種が微かに視認できる。

「遭遇した時は大鴉かと思ったが、捕らえてみれば羽毛に包まれた竜種だった。飛行能力に長け小回りも利く、高高度を高速飛行し、体力もある。羽ばたき音がないから、こういう時には重宝する」

 三頭の竜種は飛行船から伸びる鎖に繋がれてはいなかった。鎖を掴んでいる。そして一定時間ごとにその鎖をぱっと離し、三角編隊の先頭を交代している。

「時間は掛かったが手懐けることもできた。だが人工繁殖は上手くいかない。毎年、三つ四つの卵を産むが、どうにも孵化しない」

 なんでだろうな、と呟きが風に流される。

「人の意思によって魔物を発生させることができる。ならば全ての魔物は人の意思によって発生したのか」

 そうかもしれない。だがそうではないかもしれない。

「もしそうならもっと都合がよくてもいいのにな。年がら年中卵を産んで、生まれた子供はすくすく育って、鳴き声はうるさくなくて、病気もせず、餌の好き嫌いもなく小食で、人に慣れやすくて、自分の糞の始末を自分でする。そうは思わないか」

 ファビアンは風に流れてきた鴉竜の羽を空中で掴み取り、やろう、とランタンに渡してくれた。羽は軽く、真っ黒で脂っぽい。鴉の羽を何十倍にも大きくしたみたいだった。

「魔精は万物の源かもしれん。だが俺はまだ人類が用途を限定しきれていないだけなんだと思う。竜種を苦しめるだけのただの病気が、今は船を空に飛ばし、不帰の森から迷子を拾い上げた。我々はまだ何も知らん。魔精などそんなものだ」

「身も蓋もないですね」

「世の中、自分の思い通りになることは少ない。考えすぎるとツァイリンガーのようになるぞ」

「それはやだなあ」

 ランタンは欄干に身体を預けた。金属製の欄干は服越しにでさえ、皮膚が張り付きそうなほど冷えていた。だがランタンは身を乗り出して、森を見下ろす。

「飛行船は森の呪いを受けないんですか?」

 ランタンの指差した先は樹木が無く、地面が剥き出しになっていた。ランタンたちが拾われた施設周辺のように。

「魔精は万能じゃないって言ったろ。呪いは上空まで届かない。迷子を探しに来て、自らも迷子になっては世話がないだろう」

 飛行船で上空から見下ろすと森は開発の進む浅い部分だけではなく、深部にも幾つか施設が建てられているのを確認できる。それは黒い卵のものかもしれないし、そうではないかもしれない。遺跡かもしれないし、王家が秘密裏にしているものかもしれない。上空から区別はつかない。

「研究に失敗して吹っ飛ばしたのか、それとも迷宮でも発生して飲み込まれたのか。――もしかしたらお前のような奴が他にもいたのかもしれないな」

 ランタンはそれをじっと見つめる。

「気になるのか?」

 月の光だけでは、はっきりと確認することはできない。ファビアンが騎手に光で合図を出した。飛行船は螺旋を描くように高度を下げると、進路を僅かに逸らしてその上空を飛行する。

 飛行船の腹が梢に擦りそうだった。森がざわめいた。

 そこは跡形もなく破壊されている。残った瓦礫の量を見るに、それほど大きな施設ではなかったようだ。地面は大きく窪み、一部が硝子化していて、周囲の樹木は押し広げられるように傾いている。

 そこで大きな爆発があったことは確かだった。

 だが煙草の先程の火種も、焦げた匂いも、魔精の残滓も残されてはいなかった。破壊の痕跡は古くはない。だが新しくもない。

 飛行船はそこを通り過ぎ、再び高度を上げた。

「は――っしゅん! あー、くしゃみ出た。出そうで出なかったけど、出た。寒い」

「だから言っただろう、風邪を引くと。温かくしてもう寝ろ。速度を上げさせる。今度こそ本当に風邪ではすまんぞ」

 ランタンは鼻を啜り、感謝を伝えてファビアンと別れた。

 温かくか。

 ランタンはどうしようか迷い、女部屋の扉を開けた。みんなよく眠っている。一番大きな毛布の塊がリリオンだ。ランタンが出た時は壁にもたれていたのに、今はもう床に転がっている。

 不意に入り込んできた冷気に敏感に反応して、膝を抱えていっそう丸くなった。

 ランタンは、おやすみ、と囁き扉を閉めた。

 身体は氷のように冷たくなっていた。こんな身体をリリオンに抱かせるわけにはいかなかった。

 ランタンは男部屋に入ると、寝言を喚く博士に毛布を被せ、神経質そうに耳をぴくぴく痙攣させるジャックを起こさぬよう、部屋の隅に腰を下ろした。

 戦鎚を外し、靴を脱ぎ、余った毛布に包まった。

 疲れていたが身体が一向に温まらず結局、寝付くことはできなかった。




「レティには会っていかないんですか?」

「ぐるりと回って戻るだけの飛行試験だからな」

 ファビアンはそう言って、ランタンに手紙を押しつけた。

「父からレティに、こちらはウィリアムさまからアシュレイさまに。レティに渡しておいてくれ」

「わかりました。ありがとうございました」

「頼んだ。レティのこともな」

 夜のうちに不帰の森を抜け、朝日に紛れてランタンたちは飛行船から迎えに来た飛竜に乗り換えた。

 途中、テスたちはティルナバン近辺に降ろす。彼女たちは探索者ギルドの馬車でティルナバン入りする。

「さすがに疲れた。二人とも助かったよ。戻ったら充分にお休み」

「テスさんも、結局三時間ぐらいで起きたでしょう?」

「夜這いをかける奴がいたからな」

「寝不足のせいで変な夢でも見たんじゃないですか」

 テスは気怠げに笑った。中途半端に眠ったことで、余計に眠気が増しているようだった。ふわ、と大きく欠伸をする。

「ランタンさま、リリオンさまありがとうございました」

 ルーが二人に感謝を伝えた。

 ルーは一時的に昏睡状態に陥っていたが、今はもう精神的に落ち着いていた。だが肉体の方は過剰な魔精の流入と、それを消費するために極大の重力魔道を纏って身体を動かしたことの反動で傷ついていた。

 ランタンからの噛み傷が可愛く見えるほど、身体の内側は重傷だった。

「ランタンさま、リリオンさま。……また戦場にお誘いして頂けますか?」

「んー、どうかな」

 ランタンが意地悪そうに小首を傾げると、ルーは傷ついたような表情を見せた。

「戦力になるようなら、ぜひ」

 けれどランタンがそう続けると、ぱっと表情を明るくする。

 彼女の徒手格闘術は一級品だし、重力魔道は戦闘にかかわらず色々と応用が利きそうだった。例えばあの迷宮が裂けるほどの大穴が空いた水棲系迷宮にルーがいたら、ずいぶんと楽をすることができただろう。

「必ず、必ず戻って参ります」

 ルーは決意を込めて宣言した。遠からず彼女は探索者として迷宮に復帰するだろう。そう確信できる表情だった。

 傷を受けて血が滲むように、彼女の意識は魔精に溶け出した。

 そしてランタンはその魔精を身の内に取り込んだのかもしれない。ルー・ルゥに妙な親近感が湧いていた。

 彼女の孤独や、それに伴う苦悩、肉に歯を立てられ滲んだ血の味に混じった幸福な感情は、一体何だったのだろうか。

「また余計なこと考えてるだろ。疲れてんのによくやる。じゃあ、またな」

 ジャックは呆れた様子でランタンに言うと姉と同じような欠伸をする。

 三人は飛竜の背中から飛び降りた。ルーの重力魔道が二人を巻き込んで落下速度を減衰させる。探索復帰は本当に早そうだった。

 ランタンとリリオンはそのまま飛竜の背に乗って、ネイリング邸の中庭に降り立った。

 羽音が響く。

 冬と春の混じる下草が揺れる中庭にレティシアとリリララが飛び出してきた。

 ランタンたちが降りると、飛竜は風のように飛び立っていった。礼を言う暇もない。

「ただいま」

「……ただいま」

 ランタンは平然として、リリオンは少しばつが悪そうにレティシアに向かい合った。

 レティシアもリリララも目が充血していたし、目蓋は少し腫れぼったかった。二人が帰ってこないことを心配して、寝ていないのだろう。

 レティシアは飛竜の羽ばたきに乱れたスカートを直し、ほっとしたように息を吐いた。

「おかえり。怪我は?」

「ないよ。これ、ファビアンさんから預かってきた。レティによろしくって。もう一枚はお姫さまに。こっちはウィリアムさまからだって」

「そうか、渡しておく」

 レティシアは手紙を受け取るとそれを懐に収めた。

 ランタンは痒くもない頬を指で擦った。レティシアと向かい合うと妙に落ち着かなかった。

「あー、レティ。その、心配した?」

「しないわけがないだろう」

 罪悪感はあるが、謝るのも違うような気がする。リリオンも同じ気持ちでいるのかもしれない。結局、夜通し考えてもレティシアへの言い訳は思い浮かばなかった。

 言い訳をするようなことでもないのだから、当たり前と言えば当たり前なのだが。

 ランタンはふとリリオンをレティシアに押しつけた。

 するとレティシアは当たり前にリリオンを抱きしめる。リリオンは豊かな胸の中で安心したような顔になり、ただいま、とまた呟いた。

「おかえり」

 母親ってこんな感じなのかも、とランタンは思う。すると自然と言葉が出た。

「ありがと、レティ」

 レティシアは答える代わりにリリオンを強く抱きしめる。

「血の臭いがするな。本当に怪我はないんだな」

「大きいのはね」

「ならいい。ちゃんと話は聞かせてもらえるんだろうな」

「うん。でも、その前にお風呂入りたい」

「――だと思ったよ。ちゃんと用意してある」

 リリララが肩を竦めながら言い、そしてにやりと笑った。

「身体、流してやろうか」

「お願い」

 赤錆の目が丸くなった。垂れた耳が一度起き上がり、再び垂れた。

 ランタンはちらりとレティシアに視線を向ける。

「レティも一緒に入る? リリオンは」

「はいる、はいるよっ!」

「知ってる」

 リリオンはレティシアの身体を押し退けるようにしてランタンの背中に飛び付いた。そして身体全体でランタンの背中を押して風呂場へと急かす。遅れた二人は慌てて背中を追った。

「ええっと」

 リリオンは慣れたものだったが、レティシアとリリララの二人は、ランタンの方から誘われた現実をいまいち理解できないように浮ついていた。

 あっという間に裸になって寒さに肌を粟立てるリリオンに、ランタンも躊躇うことなく服を脱いでいく。

 返り血で服ががちがちに固まっていたり、袖や襟ぐりが垢じみていたりして、ランタンは二人にじろじろと見られるよりも、その汚れの方が余程に気になるようだった。

 乱暴に髪を揉むと、凍った青い血が砂鉄のように掌を汚した。

「そのまま風呂に入るつもり?」

 靴下一つ脱いでいない二人を待つ気はさらさらなかったし、自分が脱衣所からいなくなる方が、彼女たちも脱ぎやすいだろうと思った。リリオンでさえ、脱ぐところをじっと見られるのは恥ずかしがる。

「先に行ってるから。早く来ないと洗い終わっちゃうよ」

 ランタンは寒さに一つ震えると、リリオンを連れて浴室に入った。

 互いに掛け湯をし合うと、血汚れが溶け出して肌を青ざめさせた。だが骨の芯に染み込んだ上空の冷気が追い出される頃には、肌にうっすらと赤みが戻ってくる。

「洗い終わってないだろうな」

「ぐずぐずしてるから。でもまだ少し残ってるよ」

 リリオンの髪の洗い終わりにようやく二人が浴室に入ってきた。リリオンと違いタオルで肌を隠しているが、きっちり巻いているわけではなく、胸元に押さえているだけだった。

 誘ったくせにランタンは目を逸らした。

 非現実から、現実にようやく戻ってきたような感じがした。

 だが外道の研究と人工の迷宮、そこに生み出された魔物としての巨人の残滓が、まだ肌にこびり付いている。

「よおし、じゃあリリはあたしが洗ってやろうな」

「じゃあランタンは私が。いいのか?」

「もちろん」

 ランタンとリリオンが並んで座り、白い背中を二人が流した。

「すごく贅沢なことをしてもらってる気がする」

 リリララは慣れた手つきでリリオンを泡まみれにしていく。

 だがされることに慣れているが、することに慣れていないレティシアの手つきは、時折見せる情熱的な振る舞いとは打って変わって、もどかしいほどに弱々しかった。

「もっと強くしていいよ」

「ん、そうか」

「もっと」

「本当に? ああ、わかった」

 レティシアは泡立てたタオルを湯に晒し、きつく絞って爪を研ぐみたいにランタンの肌を擦った。

「真ん中の所も」

「真ん中?」

「背骨沿い」

「注文の多い子だな」

 ごしごし擦るとランタンの肌に赤みが強くなった。う、うう、と呻き声が妙に悩ましい。

 それを横目に見ていたリリオンが目に泡が入ったと悲鳴を上げた。

「あたしのせいじゃないぞ」

 そうして綺麗になってから四人で湯船に浸かる。

 ランタンは左右をレティシアとリリララに挟まれ、向かい合うようにリリオンを膝の上に乗せていた。

 リリオンの身体を撫でながら、ランタンはふとルーを思い出した。入れ墨彫られた肉体がずっしりと重たかったのは重力の所為か、それとも単純に肉付きの所為か。

 前触れもなくリリオンがランタンの鎖骨を噛んだ。痛くはない。ランタンは怪訝な顔をする。

「お腹空いたの? でも僕は食べないでね」

「んーん、急に噛みたくなったの」

「歯が抜けそうとか。むずむずする?」

 ランタンはリリオンの犬歯の辺りを親指の腹で撫でる。顔が小さいからか、小さな歯だった。乳歯なのか永久歯なのかわからない。歯並びはいい。

「ひにゃい」

 リリオンは首を振り、指を引き抜かれると、唇を舐めた。

「食事の用意もあるぞ」

「ほんと? やったー!」

 リリオンが喜び、くるんと身体を入れ替えた。今度はランタンを膝の上に抱き、胸にもたれさせ、身体を撫でた。

「でもその前に話を聞かせてくれるか? 一体どうやって不帰の森まで行ったんだ? 馬に乗っても一週間はかかるだろう」

 ランタンは猫を探すことになったところから全てを話した。テスと会い、霧を潜り、伯爵の騎士二人と会ったことも、研究施設で何が行われていたのかも、飛行船から見下ろした爆発跡も。

「わたしそれ知らない」

「寝てたからね」

 今度は首筋を噛んだ。噛んでから舐めて、鬱血するまで吸い、また舐めた。

「――大冒険だったんだな」

 全てを語り尽くす頃には、四人とも湯船の縁に腰掛けていた。

「んだよ。困ったらあたしを呼べって言ってあっただろ。ちゃんと呼んだか?」

「呼んでない。っていうか無理でしょ。不帰の森からじゃ」

「無理じゃねえよ。なあレティ」

 リリララは不満たっぷりに唇を歪める。レティシアは微笑んで髪を掻き上げた。

「ランタンの話を聞いていたら、無理なことはないような気がするな。巨人の魔物に迷宮化、人間そのものが空間を転移するのなら、声ぐらいはどうってことないだろう」

 レティシアは指先に紫電を弾けさせた。

「魔精か。あまり考えたことはなかったが、様々な可能性があるんだな。浮かない顔をしているな」

「ちょっとね。さすがに、ちょっと人間を嫌いになったよ。元からあんまり好きじゃないけど」

 人間と自分を区別するような言い方をするランタンに、レティシアは顔を困らせた。

 魔精には様々な可能性がある。だがそれを扱う人間は信用ならない。

「空間を転移できるのなら、きっと世界も渡れるのだろうな」

「そうかな」

「そうだとも。私はね、ランタンが帰ってこなかった時、もしかしたら君は君の言う、ここではないどこかに去ってしまったんじゃないかと思ったんだよ。私たちを置いて」

「そんなことは」

「望んでこの世界に来たのかい?」

 言われ、ランタンはお手上げというように両腕をあげた。腋にひやりとした空気が滑り込み、慌てて腕を下げた。

「だからすごく心配したし、慌てたんだ」

「――もしも帰されても、また戻ってくるよ。絶対」

「この世界の人間は嫌いなんだろう?」

 レティシアは汗ばんだ肌をランタンに寄せ、意地悪そうに囁く。

「戻ってくるよ。好きな人がいるし」

 ランタンが視線を下げると、リリオンが湯に飛び込んで視界に割り込んできた。

「誰のこと? ねえねえ、誰のことが好きなの。ねえねえねえ」

 満面の笑みを浮かべて、ランタンの股を割って近付いてくる。

「リリオン。――それにレティ、リリララ、ミシャも。ジャックさんとテスさん、ベリレにエドガーさま、ダニエラさん、グランさんとエーリカさん、それから」

 指折り人の名前を挙げ、それが十本指で足らなくなったことあらためて実感する。一昔前は片手で余るぐらいだったはずなのに。

 孤独。ルーの心に触れて無意識的に影響されていた孤独感が、名前を挙げるごとに薄らいでいった。

 求められ、いつも上手く応えることができず、だから思わず求めたのだろうか。

 行き着いた先が風呂場というのは、なんとも言えないが。

 リリオンは子守歌でも聴くみたいに、うっとりとランタンの内股に頬を寄せた。

「あ、あとそれとアシュレイさま」

「姫さま?」

 ランタン捜索に手を貸してはもらったが、ランタン本人とはあまり接点はない。そう思っているレティシアが意外そうな声を上げた。

「そう、アシュレイさま。やっぱりアシュレイさまは司書さまだったみたい」

「そう、そうなの! ねー、ランタン。ほら、わたしの言ったとおりだったでしょ」

 分かり合う二人に、置いてけぼりにされる二人が首を傾げる。

「続きはご飯食べながらね」

 ランタンはリリオンの頭上を飛び越えて、湯に身を躍らせた。高く水柱が上がる。背後からリリオンを抱きすくめ、肩まで沈めた。

「ご飯食べ終わったら寝る。一緒に寝る人は肩まで浸かって百秒ね、いーち」

「に、さん、し、ご、ろく!」

「ちょっと待て!」

「早えよ!」

 リリオンが早口で数え、二人は慌てて湯船に飛び込んだ。そして真剣な顔をして、一二三四五六七、と一息に数えリリオンの早口に追いついた。

 百秒は余計だったかもしれない。

 身体は芯まで温まっていた。

 ようやくぐっすりと眠れそうだった。

 それともベッドの上でのぼせてしまうだろうか。


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