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カボチャ頭のランタン  作者: mm
08.In The Deep Haze
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 数秒間、真っ白い霧に包まれて視界を失った。

 一歩、二歩、三歩、四歩。

 歩数を数える。

 手を伸ばしてもリリオンに届かない。靴底に跳ね返ってくる地面の感触。貧民街の臭気は失せ、馴染みのある冷ややかさが鼻腔を通り抜ける。

 反射的に戦鎚に手を伸ばし、引き抜く。

 霧がどれほどぶ厚いのかを知らない。だがもうすぐ抜けるだろうと不思議とわかった。

 短く勢いよく鼻から息を吸い、素早く鋭く口から吐き出す。

 抜ける。

 視界が広がる。

 薄暗さと、血の臭い。地面を踏み締めた靴の音が反響し、そこが室内であると理解する。気温は寒くもなければ暑くもない。

 貧民街ではない。霧を抜けて、別の場所に出る。その異常性に混乱することはなかった。

 霧を抜ける感覚は迷宮の数だけ知っている。その先に何があっても混乱はしない。いちいちしていたら探索者として生きていけない。

 リリオンが床に飛び込んでいた。するりと少女の手の中から炎虎が逃げる。

 リリオンは親虎のように四つん這いになって、しなやかに手を伸ばして炎虎を捕まえた。炎虎に身体を引きつけるように、そのまま胸の中に抱き込み、突き出された尻がふりふりと揺れている。少女の檻だ。

「捕まえたわっ!」

 元気な声。ランタンの視線がそちらに引き寄せられる。腰の二刀が羽ばたく直前の翼のように立ち上がって、背骨を覆い隠している。

「――っ」

 ランタンの背筋が突如、総毛立った。

 霧の中の冷ややかさよりも、遥かに冷徹な気配が肌に触れた。

 殺気だった。ほんの少し漏れ出たような。それでいて心臓が止まりそうな程の。

 音はない。靴音の反響が、リリオンの声に掻き消され、それにしたって無音だった。

 無い音がランタンには聞こえたのかもしれない。

 そこにある。

 狙っている。

 すでに動き出している。

 予知能力にも似た敏感さだった。頸動脈と、下肢動脈。膝より上。内股。股関節の継ぎ目を走る大腿回旋動脈。

 ちらりと銀の光が見えた。水底を泳ぐ魚の燦めきのような、一瞬の銀光。幻影のよう消えた。

 代わりに鋼の冷たさが首筋に滑り込む。

 すぐそこにある。

 首にある赤い痣は、炎を巻いたように熱を持っている。それがむしろ功を奏した。

 刃物の冷たさが神経を剥き出しにしたようにはっきりと感じられた。

 逆を言えば、刃物の冷たさしか感じられなかった。二振りの刃物だけがある。武器型の物質系魔物のように。だが使い手がいるはずだ、と理解している。

 脳を介在せず、細胞が反応する。幾度もの戦闘により蓄積した経験が、肉体を無意識に突き動かす。

 首刈りを嫌えば、股ぐらに突き入れられたもう一振りに右脚を付け根から落とされる。かといって脚を気にすれば首を狩られる。両方を失うのは論外で、結局ランタンは死の先で命を拾う。

 ランタンは手首を立てた。戦鎚を振る暇はない。柄の末端を相手に向け、それ以外は身体の形を変えず、真横に飛んだ。爆発の勢いを背に受けて。

 真っ黒な闇が見える。鋭い二刀のその先に。

 二刀の主と肉体が交差するまで、須臾ほどもない。

 胸骨を砕き、心臓を割り、背に抜ける一撃だった。躱されるなど露とも思わない。ランタンの身体が紅蓮に包まれる。過剰殺傷も甚だしい追撃だった。

 手応えはない。

 眼前に感じていた相手の気配が消失した。殺気だけは首に添えられている。

 ランタンは立てた手首を勢いよく戻し、戦鎚の重さで身体を捻った。首を落とされ掛けた。

 痣よりも鮮やかな血が赤い玉となって浮かび上がり、沸騰して黒い瘡蓋になった。そして瘡蓋を剥がすように、その下から再び血が染み出した。

 たぶんこっち。

 ランタンは勘を頼りに戦鎚を切り返した。紅蓮が風圧で散り散りになり、雑巾を絞ったみたいに傷口から血が滴った。

 手の中に戻ってくる感触は、毛の一筋を打った程度。

 睫毛に銀の鋒が触れている。

「――姉ちゃん!」

 ジャックが叫んだ。

 闇に浮かぶ銀の二刀が基点となって、じわじわ染み出すみたいに闇が人の形になったように思えた。

 ジャックの姉が、テス・マーカムがランタンに刀を突き付けていた。

 テスは半身になり、やや胸を反らすように上体を起こしている。

 ランタンの左目が潰されなかったのは、そしてそのまま突き入れて脳幹を切断されなかったのは、ジャックが姉に向かってナイフを投擲したからだった。

 他人かと見紛うような、恐ろしい気配を発しているテス・マーカムがそこにはいた。

 銀の二刀は血脂に曇っている。麗しいはずの漆黒の毛並みは脂っぽく乱れて、優美なはずの尾が使い古した箒のようになっていた。

 氷のような青い目が刃物のように細められ、いつもより口が大きく牙が鋭く見えるのは、彼女が少し痩せているからかもしれない。

 全身を包む黒革の軽鎧が、肉体を押し込める拘束具に見えた。

 強大な化け物を拘束して、人の姿に留めているような。

 狂犬テス。黒死のテス。彼女の呼び名が思い出される。

「――……ジャック?」

 テスがようやく呟いた。ほんの数秒の沈黙が、窒息するぐらい長く感じた。

「おお、ジャックじゃないか」

 ふっと目が優しくなった。冷酷さ以外を湛えていなかったテスの眼差しが、ふんわりと柔らかくなる。

 それでようやく目の前の彼女がテスであると確信できた。

 突き付けられた鋒が外される。水月を抜く直前だったもう一振りにランタンはそこで気付いた。

「それにリリオンと、――ランタンまで」

「なんで間があったんですか」

「ちょっと気配が違ったからな。ふむ、本物か? リリオンもいるし本物だな。なんでこんなところに。変な気配を発しながら急に現れるから、思わず首を刎ねるところだったじゃないか。どちらか一つにしろ、変な気配か、急に現れるかの」

 気配。ランタンは口の中で言葉を転がす。

 口中が粘着いていた。喉がからからに渇いている。これほど気圧されたのは久し振りのことだった。唾を呑む。

「ちょっとジャックさん、あなたのお姉さんが無茶言ってくるんですけど、なんとか言って下さい」

「自分で言え」

「言ったら首落とされるかもしれないじゃないですか」

「俺の首が落とされたらどうすんだよ」

「幼気な少年の首は落としても、弟の首にはしないでしょう」

「いや、そういうところに節操がないからな」

「おい、悪口なら聞こえないところでやれ。私だって相手は選ぶぞ、可愛い弟は斬らないし、幼気な少年の首も落とさない」

 つまり可愛くなければ弟も斬るし、幼気でなければ少年の首も落とすということだった。

 ランタンの首の傷を擦った。蓋としての機能を失った錆みたいな瘡蓋を剥がし、掌で出血を押さえた。唾を飲んで、呼吸を整える。掌をくすぐるような動脈の鼓動が緩やかに安定し、出血は徐々に弱まっていく。

「幼気じゃなかったですか」

「――わわわ、あばれないで! え、あっ、テスさんだ! わあっ、ランタン怪我してる! あー、あああっ、こらっ、大人しくてっ!」

 リリオンは四つん這いのまま首だけで振り返る。テスを見つけてまず一度驚き、怪我するランタンを見てもう一度驚いた。

 そんなリリオンにランタンの頬が緩む。

「くふふ、さっきまではね。今は可愛いよ。斬ってしまった詫びに血を止めてやろう。なに、ジャックが小さい頃はよくしたものさ」

 テスはそう言ってぺろりと舌舐めずりをする。するとリリオンが声を上げた。

「だめー! わたしがするの! ああん、もう、あばれないでったら! あっ」

 熱い、とリリオンが小さく叫び身体を浮かせた。わずかに空いた隙間から炎虎が飛び出す。

「逃げちゃう!」

「ふむ、――生け捕りか」

 呟きが聞こえた時、すでに炎虎は二刀に絡め取られていた。

 串刺しにはされていない。二刀は交差して地面に突き刺さっている。半端に閉じた鋏のようで、鋏との違いは刃が外向きになっていることだった。二刀の背で、炎虎の首が左右から押さえつけられている。

 ランタンとジャックは顔を見合わせる。初動が速過ぎて目で追えない。首が繋がっていることは奇跡かもしれない。

 炎虎はふぎゃふぎゃと子豚のように鳴いた。

「黙れ」

 一声で黙った。尻尾を後肢に挟んで丸くなる。本当に魔物か、と疑いたくなる姿だった。

「ランタン大丈夫? 誰にやられたの? わたしがぺろぺろしてあげるね」

 リリオンはランタンの傍に駆け寄ると、言うが早いか傷を押さえる手をそっと外し、躊躇うことなく舌を這わせた。ぬるりとした生暖かい感触が傷口をなぞる。鼻息がくすぐったい。

 リリオンはそれが軽い切り傷や火傷に対する最も素晴らしい治療方法だと信じている。母親から、文字通り口伝された治療法だからだ。

 出血はすでに止まっている。傷口も塞がっていた。ただちょと敏感になっている。

「んっ……もう塞がってるから、いいよ。気付いたら斬れてただけだし」

 ランタンは掌を汚した血を焼き払い、暖かな掌でリリオンの顔を押し退けた。紅を塗ったような唇を親指の腹で乱暴に拭ってやった。血と涎に濡れた指を、ズボンで拭う。

 内股がひんやりした。ランタンはぎくりとして、恐る恐るそこを見る。漏らしたかと思ったが、そんなことはなかった。ただズボンの右内股が切れて、白い肌が覗いていた。冬用の厚手のズボンのおかげで肌は切れていない。だがランタンのそれが右曲がりで、もう少し大きかったら危うく女になっていたかも知れなかった。

 ランタンはぞくりと震える。

 リリオンが何か勘違いをしたのか、ランタンを後ろから抱きしめた。

 ランタンの頭に頬を押しつけて、胸が膨らむぐらいに息を吸って、それから夢から覚めたように、あれ、と呟く。

「ここどこ?」

「遅っせ」

 ランタンが思わず乱暴な口調で呟くほど暢気な気付きだった。

 しかしそんなランタンも、ちゃんと場所を把握しているわけではない。ただ何もない広い部屋で、なんの建物内かもわからない。

 テスの奇襲が衝撃的すぎで、貧民街ではないどこかにいるという異常性に驚いたり慌てたりする暇がなかった。

「姉ちゃん」

「ああ、状況確認をしようか。ここにはも(・)う(・)誰もいないし、気を抜いて構わないよ」

「その結果がこれだろ」

 ジャックはランタンを指差す。気を抜いたところに急に現れれば、確かに斬られてもしかたがない。

 テスは床から二刀を抜いて、鞘に収めた。炎虎の首根っこを引っ掴み、ぬいぐるみでも放るみたいにランタンに渡した。

「ランタンなら火傷せずに済むだろう」

「ええ、まあ」

 重さはあるが、頼りない手応えだった。関節の可動域が広く、肋骨がぐにゃぐにゃしていてる。温かかく、獣臭い。ぐるるるる、と怯えるような警戒するような声をランタンの胸で上げていた。

 これぐらいの生き物を胸に抱きしめるのは、初めてのことだった。動物には嫌われるから。だが炎虎は暴れなかった。唸っているが、大人しくしている。リリオンが首の辺りを掻くように撫でると、くるるるる、と唸る。

「向こうに座れる場所がある」

 テスが道案内をする。

 そして血の臭いの正体をようやく知った。

 部屋から出ると、廊下は明るく、テスは返り血に汚れているのだった。

 死屍累々。

 建物は死の沈黙に満たされている。




 机と椅子のある部屋だった。逆を言えばそれしかなかった。

 昔のランタンの部屋に似ている。その所為か、妙な懐かしさがあった。リリオンに会うより前の、寝て起きるだけの部屋に。だからここは座って立つだけの部屋なのだろう。

 状況確認の前に、さすがに見ていられなかったのでテスに身体を清めて貰うことにした。テスは血汚れなどまったく気にしてはいなかったが、ランタンが譲らなかった。

 座って、立って、身体を洗うための部屋にする。

 背嚢を下ろし、中身を全部外に出して、水精結晶を一つ割って水で満たした。完全防水の背嚢は大容量のバケツにもなるのだ。ジャックにお願いして、熱したナイフで水を温めて貰った。鉄を融断する熱量はあっという間に水を熱湯に変える。

 これではテスが火傷してしまう。

「わざとじゃないぞ!」

 ジャックはナイフを引き上げ、慌てて言い訳をする。

「わざとするぐらいの度胸が付いてもいい歳だろう」

「もう分別の付く歳なんだよ」

 姉弟が言い合っている間、リリオンが湯面をふうふうと吹いている。無駄な努力だった。

「大丈夫ですよ」

 ランタンは腕まくりした手を突っ込んで、底に滞留する冷たい水を引き上げる。水温は程良くなった。

「手慣れてるな」

「さすが風呂好き」

「……なんで知ってるの?」

「有名だぞ」

 ジャックがナイフを鞘に戻しながら言った。

 風呂が好きだけならいいが、リリオンと一緒に入ってると知られたら嫌だなと思う。ランタンはそれ以上は聞かなかった。

 取り敢えず男二人は部屋を出た。リリオンにテスの世話を任せ、ずっと抱いているも落ち着かないので炎虎も置いてきた。

 二人して扉の左右に、やる気のない門番みたいにもたれ掛かりながら、しばし口を噤む。

 扉の向こうから聞き取れない程度の話し声が聞こえる。その声につられるようにランタンが口を開いた。

「ここ、どこなんでしょう?」

「さあなあ」

 ジャックは姉が見つかって満足したのか、ぼんやりとした声で答えた。

「見たところ病院みたいな感じだな」

「僕、ネイリング領に行ってたじゃないですか」

「ああ」

「そこで竜種の研究施設みたいな所を見させて貰いましたけど、それに似てます」

「ふうん、じゃああれだ。魔道ギルドの隠し研究所」

「なんで隠すんですか」

「そりゃ見られちゃまずい研究してるからだろ。で、姉ちゃんに見つかって皆殺し」

 ここに来るまでに見かけた死体を思い出す。どれも眠るように死んでいた。出血はほとんど無く、テスはどこで返り血を浴びたのだろうと思うが、建物全体を見たわけではないのでどこかで激闘を繰り広げたのだろうと納得する。

「本人の口から聞いた方が早いぞ」

「まあ、そうですね」

 ランタンはちょっと苛々するみたいに腕を組み、中指で肘を叩いた。

「僕」

「ん?」

「僕、変な気配してましたか」

「そうだなあ、――生肉喰いと会ってから、苛々はしてたな。ガキどものところで一度持ち直して、出る直前ぐらいにもっかいダメになった。変な気配はわからん。苛々は今もしてるな」

「すみません」

 ランタンが目を伏せると、ジャックが腕を伸ばしてぽんと頭を叩いた。

「十五だろ。そんなもんさ」

 天から降るような言葉だと、ランタンは思う。

「大人になりたいな」

 呟きと同時だった。

「じゃあ、私が大人にしてやろうか」

 扉が開き、するりと伸びた手がランタンの顎をつつと撫でた。少し湿っている。血の臭いはまだ少しある。

「遠慮します。もう入っても大丈夫ですか?」

「ああ、待たせたね。さっぱりさせてもらったよ。ほら、ジャックもおいで」

 そう言って部屋に戻ると、湯を溜めていた背嚢は逆さにして水切りしてあり、常にランタンの背嚢に入っている複数枚のタオルはどれも赤く染まっており、それに炎虎がじゃれついている。

 テスは綺麗になっている。

 髪も尻尾もさっぱりして、まだ濡れていたがそれにしても艶やかだった。革鎧を外して簡素な下着一枚に、タオルを肩に掛けているだけだった。

 テスは堂々としており、慣れっこなのだろうジャックは無反応で、ランタンも不思議と気まずさを感じなかった。

 女性的な膨らみはあるが、肉体は研ぎ澄まされている。格好いい、とランタンは思った。

「こんな格好で悪いな。これ、濡れたまま鎧を着ると最悪なんだ」

 テスは己の身を包む毛を抓んで笑った。

 ランタンが着席すると、リリオンがすぐ隣に椅子を持ってきて座る。そっと耳元に口を寄せた。

「格好いいね」

「うん」

「わたしもあんな風な身体になれるかなあ?」

「なれるよ、きっと」

 耳と尻尾と毛皮は無理だろうけれど。

 リリオンは無邪気に笑った。むふ、と息が耳をくすぐる。

「さて、さっぱりしたし状況を確認しようか」

「さっさと場所を教えてくれよ」

「せっかちな男は嫌われるぞ、まったく。ここはティルナバン東部、不帰の森の深部にある、黒い卵の研究施設だ」

 リリオンがぱちぱちと瞬きをし、首を捻ってランタンの顔を見た。ランタンもぱちぱち瞬きをして、首を捻らずジャックを見た。ジャックは眉間を揉む。テスは笑う。

「不帰の森」

「そうだ」

 それは迷宮都市の遙か東にある。濃い魔精の渦巻く大森林は、植物も動物も魔性を帯びて魔物と化し、足を踏み入れた者を帰さないことから不帰の森と呼ばれている。

 迷宮以外で最も魔精の濃い土地の一つであるので、森の浅いところには魔道ギルドや探索者ギルドの研究所がある。

 貧民街から、ティルナバンからでは竜種の背に乗っても一日近く掛かるような距離にあるはずだった。

 それだけでも驚くべき事実なのに、さらには黒い卵の名前まで出ると驚く気も起きない。

「黒い卵」

「そうだ」

 王都の地下下水道で相見えた不死の研究をする犯罪結社、黒い卵。

 眠るように死んでいる彼らはその研究員で、そして殺されても仕方のないような研究に勤しんでいた。そういうことだった。

「ここで行われていたのは復元、再生、融合、強化、成長とまあそんなところだ。それほど大きな規模の施設ではなかったね。そういう施設が、この森には幾つもあるんだ」

 テスはなんでもないように言う。

「幾つ目?」

 ジャックが尋ねる。

「ここで四つ」

「寝てないのか。姉ちゃん」

「七十時間ぐらいだな。おっと、そうだ。ランタン、一本貰ったよ」

 テスは背嚢から出された荷物を指差す。空になった活性薬の空き瓶が一本あった。

「どうぞ。ほんとは三十分でも寝た方がいいですけどね」

「なかなかそうもいかん。まだ仕事の途中だ」

 この建物内だけでも、どれだけの死をもたらしたのだろう。

「姉ちゃんは仕事で、黒い卵を壊滅させるためにここにいるのか? 一人でなんか、姉ちゃんでも無理だぞ。たぶん」

 ジャックが心配そうな声で言う。テスはひらひらと手を振った。

「さすがにそんな無理はしない。ちょっと今は迷子なんだ。さすがに不帰の森と言うだけある。どうにも空間が捻れているらしい。気が付けば空間が回廊化(ループ)してたり、方向を化かされたりな。ジャックたちもそれに巻き込まれたんじゃないか? リリオンにちょっと聞いた。貧民街にいたそうじゃないか」

 リリオンは炎虎を追いかけるのに夢中で、霧を抜けたことを知らなかった。ジャックが説明すると、そうなの、と驚いた声でランタンの肩を揺すった。

 テスが、あれか、と呟く。

「その霧を奴らは門と呼んでいるようだ。私もここで初めて見た」

「実用化しているんですか?」

「完全な制御下に置いているわけではないようだがね。この森の性質を上手く落とし込んでいるのかもしれん。私も使わせてもらった。二つ目から三つ目の施設に移る時、奴らの尻を追いかけた甲斐があった。距離の概念が無くなる、移動手段としては便利だな、迷う時もあるらしいが」

 黒い卵が門と呼ぶ霧の通り道は、ランタンの既視感通り迷宮に発生する白霧と似た性質を持っているようだった。

 迷宮口は地上に開くが、迷宮は地下に広がるわけではない。

 霧の向こうは、ここではないどこかだ。

「迷宮は異界」

 ランタンがぽつりと呟いた。それはかつてテスの友人から聞かされた概念だった。

「司書さまが言ってました。迷宮は異界だって」

「なるほど、あいつの言いそうなことだ」

 テスはにやりと笑う。

「テスさんは、ここで何をしているんですか? 司書さまは誰なんですか? ここにいるんですか?」

 ランタンが矢継ぎ早に聞くと、テスは笑みを深めた。鋭い牙が溢れる。

「知りたいことがいっぱいだな。ランタンは」

「わたしも知りたいです!」

 リリオンが挙手して、椅子を蹴った。派手に倒れた椅子が音を立てリリオンと炎虎がびくっと身を震わせる。ランタンは椅子を戻してやった。リリオンが座り、太股の上に手をやると少女はそこに掌を被せる。

「俺も知りたいかな。司書さまってのは、まあどうでもいいけど。姉ちゃんが何してるかは知りたい」

 どうせ危ないことなんだろうけど、とジャックは付け加えた。

「よくわかってるじゃないか」

 テスは褒めるように手を叩く。

「まず第一に、司書さまはここにはいない。今頃はティルナバンで私の帰りを待っているだろう。帰りが遅いから寂しがっているかもしれないな。あれの正体は、――ううん、一応口止めされているんだが」

 司書はふらりとランタンやリリオンの前に現れても、己の正体を隠し続けている。それはきっと正体を知られてはならない何か理由があるからに他ならず、だからこそテスにも口止めをしているのだ。

 だと言うのにテスは、まあいいか、と言った。

「王位継承権第十三位、アシュレイ姫さまその人だよ」

「ほら、やっぱり! わたしの言った通りよ!」

 リリオンがランタンの手を掴んできゃっきゃと喜ぶ。ランタンは驚きよりも、なんで、という気持ちが強かった。

「なんで司書なんてやってたんですか。探索者ギルドに潜入捜査でもしてたんですか、それこそなんで」

「いや、さすがに上層部には許可済みだ。ま、ちょっと興味があった程度のことさ。末姫は立場が悪いそうだからね。責任は大きく、権力は小さく。息抜きだよ」

 探索者ギルドに興味。アシュレイの友人である、探索貴族であるレティシアの影響だろうか。

「なんで姉ちゃんがお姫さまと知り合いなんだよ」

「私は目付だ。最初の役割はね。世間知らずのお姫さまに、あまり深入りさせないように。それが今や顎で使われる立場だ。可愛げは失われてしまったなあ」

 テスはしみじみと呟いた。

 言葉は本当だが、言い回しによってどこか欺かれている気がした。

 ランタンがじっと見つめて会話を吟味しているとテスは楽しそうに、くふふ、と喉奥から息が漏れたみたいな笑い声を出した。

「そして最後の、いや最初の答えかな。私がここにいる理由は、ある女を助けるためだ」

「ししょさま?」

「アシュレイはティルナバンだ」

「あ、そっか」

「でも勘がいい。リリオンも知っている女だ。ルー・ルゥと言う名をおぼえているか?」

「聞き覚えはあります」

 ランタンは眉間に皺を寄せて、本当に思い出せないでいる。

 ルー・ルゥはランタンとリリオンとテスが初めて出会うきっかけとなった女だった。魔精欠乏症で我を忘れ、弓を使う男に利用され、ランタンたちに襲いかかってきた蛙人族の女。そこまで言われてようやくランタンは顔を思い出す。

「あー、緑の髪の、重力魔道の使い手」

「うん、正解だ。しかしランタンはひどい男だな。ルーは君のことをよく覚えているというのに」

「だって、あれから色々ありましたもん。それに人の名前ってちょっと」

「彼女はあれから探索者ギルドと魔道ギルドの共同研究施設に入り、魔精欠乏症治療法の研究に尽くしてくれた。おかげで症状は改善し、それなりに動けるようになった。そこで手伝いをして貰うことにした」

「手伝い」

「そう、魔道ギルドの研究所の一つに黒い卵との繋がりをアシュレイは疑っていた。だがアシュレイには駒がない。代行官殿は頼れない」

「なぜ」

「繋がりがあるかもしれないから」

 どこと、とは誰も尋ねなかった。リリオンさえも理解していた。

「だからルーに元の研究施設から魔道ギルドのその施設に移ってもらった。そこで内偵をするように頼んだ。そしてある日、消えた。ふつりと」

「内偵がばれたってことですか」

「かもしれん。だがルーの重力魔道は貴重だ。その身に施された魔精欠乏症の改善術式も、十全に効果を発揮するのは彼女ぐらいのものだ。黒い卵にしてみれば、魅力的な素材にうつったのかもしれない。私はルーを探している。彼女は私の仲間だ」

 しかし当初予測をつけていた施設は外れで、探し求める内に黒い卵の研究施設を四つ壊滅させたということらしい。

「私の話はこれで全てだ。では次に私から質問しよう。貧民街で何をしてた。遊ぶにはちょっと下品なところだな。羽目を外したいなら花街へ行け花街へ。金がないならお姉ちゃんが花代を出してやってもいいぞ」

 テスはからかうような、叱るような口調でジャックに言った。ジャックは視線を逸らしながら呟く。

「姉ちゃん」

「ん?」

「姉ちゃんを探してた。どこにもいなかったから。でもいたから、俺はもう今は暇だ」

 ジャックが投げやりな感じで言うとテスはにんまり頷いた。

「僕も自分探しするつもりだったのに、変なところ来ちゃったし。あとは帰るぐらいしかやることないです。帰り道わからないけど」

 テス探しを打ち切った途端テスに会い、自分探しを始めた途端見知らぬ地に飛ばされる。

 人生とはそういうものだった。

「はいはいはい! わたし、テスさんのお手伝いしたいです!」

 リリオンがぴんと手を伸ばして宣言する。

 ランタンはレティシアが心配するだろうなあと思いながら、早くも言い訳を考え始める。


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[一言] > ルー・ルゥはランタンとリリオンとテスが初めて出会うきっかけとなった女だった。魔精欠乏症で我を忘れ、弓を使う男に利用され、ランタンたちに襲いかかってきた蛙人族の女。そこまで言われてようやく…
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