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「あっ、し、しみるっ」
ランタンの悲鳴が浴室の天井にこだまする。戦闘中はどれほど血を流そうとも痛がる素振りを見せなかったのに、湯がそろりと肌を流れただけで身体を震わせた。
「ランタン大丈夫? 平気?」
「……平気」
やせ我慢だった。
怪我も痛みも慣れたもののはずだったが、肉体の反応は素直だった。
これほどの怪我をするのは久し振りだからかもしれない。
怪我の深さではない。範囲の広さがランタンに悲鳴を上げさせるのだった。
衣服とともに包帯を解いたランタンの肉体は斑になっている。
膝から上、手の甲から二の腕、首から背中に掛けて丸く肉を抉られていた。
新しい薄い皮膚の下で赤々と流れる血液が透け、赤い水玉模様が浮かび上がっている。前腕はさらに切り傷の縦縞が走っていた。
十指の全ては赤黒く腫れている。最も軽い親指で脱臼、一番酷い中指は左右とも折れ、左は爪が剥がれた。
身体を抱きしめて悶絶する。痺れるような痛みが全身を駆け巡った。
リリオンが心配そうに顔を覗き込む。
ランタンに湯をかけたのは少女だった。ランタンの指が使えないから、世話を買って出たのだ。
「ふう、はあ、はー」
痛みこそ、生きている証拠だ。
だが痛みだけが生きている証拠ではない。
肩越しの顔を覗き込むリリオンの胸が背中に押し当てられる。背中の傷を慰撫するように。
この柔らかさを感じられることも、また生きている証拠だった。
ランタンとリリオンは迷宮から帰ってきたのは昨日のことだ。
久々にギルド医に世話になった。
ギルド医は、足の遠のいた常連を迎え入れるような態度で、不機嫌さをよそおっていたがその実、上機嫌だった。
ランタンが人の怪我を喜ぶとはなんたることかと拗ねると、怪我してもらわないと飯が食えないと言い返された。業のある仕事だと思う。雑巾でも縫うみたいに脇腹を縫合された。
迷宮からは帰ってきたが、ご覧の有様なので無事にとは到底言えない。
事実ランタンは血を失いすぎた。
魔精薬をがぶ飲みして失った血液の代わりとし、迷宮の帰路を歩いた。
リリオンはランタンを背負おうとしたが、ランタンが断固としてそれを拒否した。だが落とし穴を越えると、ランタンは運び屋を捕まえて平底船に、そして線路が敷設されている箇所からは荷車に乗って迷宮口直下まで戻った。もちろん乗車賃は弾んだ。
ランタンほどではないが、リリオンも少なからずの怪我を負った。
ランタンがリリオンの偽物と対峙している時、リリオンもまたランタンの偽物と対峙をしていた。
ランタンのそれは本物が姿を変えた存在だったが、リリオンのそれは魔道で作り出された偽物。怪我はその差だった。
四肢にある傷は水玉ではなく、ただの切り傷だ。すでにかさぶたも取れている。
石炭迷宮ではそれが刺青になってしまう可能性もあったが、少女の身体は白いままだ。男の怪我は勲章だが、探索者とはいえリリオンの身体に傷が残らずにすんでランタンはほっとした。
リリオンは痛がるランタンを見て桶を置いた。湯船から桶へ、桶から自らの両手に湯を掬い取り、塗り付けるようにしてランタンの身体を温めた。
ランタンの血はまだ完全には戻っていなかった。
背中は青ざめていて、透ける静脈の緑が黒ずんで見えた。リリオンがせっせと手で湯をかけ、撫でると次第に肌が明るくなっていく。
「ああ、あったかくなってきた」
これだけでも気持ち良かったが、溢れるほどの湯を湛える湯船を前にしてこれだけでは我慢ができなかった。
「本当に大丈夫なの、ランタン?」
「大丈夫だって」
「でも痛そうよ」
「痛くても入るの。もう、耳にたこができるよ」
「まあ大変!」
ランタンが言うと、リリオンが大げさに驚いた。ランタンはうんざりして言う。
「その蛸じゃない」
「わかってるわよ」
「あんなのが耳に棲み着いたら五月蠅くてたまらないな」
「そしたらわたしがちゃんと串刺しにしてあげるからね」
鼻先どころか鼓膜を破れそうだな、と苦笑しながらランタンは立ち上がった。
それだけで少しふらりとする。
血を失ったことに加えて、幻を見せられた、つまり精神に干渉された。その後遺症がどうにも尾を引いている。
魔道のみによって精神に干渉することを人はできない。奴隷首輪のように対象者の肉体を特殊な道具で実際に拘束したり、あるいは薬物によって自我を奪うなどの準備がなければ、人の心は侵せない。ましてや戦闘中の高まった意識を奪うなど、まさに人知を超えている。
それほどに蛸女の魔道は恐ろしく、高度で、強力だった。
あれほど現実感のある幻など、正気である限りそうそう見られるものではない。一時的にランタンもリリオンも、完全に自我を失っていた。
その隙に蛸女がランタンたちの命を奪わなかったのは、いかに蛸女であろうともその魔道を行使している間は、物理的な干渉が難しいほど精神力を要したからだろう。
リリオンに支えられる。
「使えないのは指だけだよ」
本当は肩も痛い。
見透かしたようにリリオンはランタンの腰を抱いて湯船に導いた。自分が先に入り、立ち歩きし始めの幼子を導くように両手をとった。
「はい、気をつけてね」
そういうのは僕の役目なんだけどな、と思わなくもない。ランタンはよっこいしょと湯船の縁を跨いた。
膝から下は綺麗なものだった。竜鱗の戦闘靴は蛸の吸盤を防ぎきった。だが濡れた長靴は、いざ迷宮を帰るまでに乾ききらず極めて不愉快な履き心地になって最低だった。
「座るぞ」
「どうぞ」
「座るから」
「痛いなら、やめればいいのに」
「すわ……――あ゛あ゛あ゛あ゛」
ランタンはゆっくりと肩まで沈んだ。
特別に用意してもらった薬湯だった。熱と痛みの区別がつかなかった。だが、だからこそ、効いているという感じがする。
「いたくない、いたくない、ぜんぜん、すこしも」
「それはそれでおかしいわよ」
もっともである。
屋敷の使用人も、出入りの商人も、荒事になれている騎士たちでさえランタンの有様には顔を顰める。命にかかわる怪我ではなかったが、その痛みを容易に想像させる生々しさがあった。拷問でつけられた傷のようだと誰かが言った。
「もうランタンったら」
リリオンはランタンの悶える様を哀れっぽい、どぎまぎとした目で見つめる。怪我するランタンは珍しくないが、痛がるランタンは珍しい。それは見てはいけないものであるかのような、妙な雰囲気がある。
「わたしの前で我慢なんてしなくていいのに」
リリオンの前で強がらずに、いったいいつ強がるというのか。
ランタンはさらに顎先まで沈み込み、湯が身体に触れる面積を少しでも減らすべく膝を抱え、目を瞑った。
リリオンが背中に寄り添った。卵を抱えるようにランタンを包み込む。
痛みと熱が混ざり合い、痺れとなって溶け合っていく。ぴりぴりとした感覚が心地良くなってきて、ランタンはリリオンに体重を預けた。リリオンの殻を破って、ランタンは足を伸ばし、顔を洗った。
酷い日焼けをしたような灼熱感があった。唇が敏感になっていてひりひりしている。
薬湯は鮮やかな紫色で爽やかな香りがある。ランタンは大あくびをして目を擦る。指の痛さを忘れていた。
疲れる探索だった。
いつもの探索とはいろいろと勝手が違っていた。商工ギルドからの依頼に、リリオンとの約束。どういう理由であろうと探索は探索であるが、そられは余分なものだったと今となっては思う。
人のために探索するなんて柄ではないし、生きるため以外の理由も攻略には不要だった。
しがらみと呼べるかもしれない。
その結果としてか、探索費用が膨れあがってしまった。
現状は大赤字である。
「ねえ、ランタン。あの杖、やっぱり売っちゃっていいわよ」
「急にどうした?」
迷宮核を取り込んだ水の杖は、屋敷の宝物庫に置かせてもらっている。
強力な魔精を内包するこの魔杖は、魔精を外に向けることが苦手なリリオンでさえそれなりの魔道使いに早変わりさせるほど力を有していた。
迷宮核は天然の水精結晶であり、通常の迷宮核、魔精結晶とは違いすでに色がついており、また杖の一部と化しているので用途が限定されている。
迷宮核と杖を分離させることもできる。高濃度の魔精結晶と、それなりの魔杖として売りに出したほうが買い手はつきやすい。だがやはり強力な水精魔杖としてのほうが遥かに価値はあった。
乾いた水底でこの魔杖を拾ったリリオンが、ものの試しに杖を振り回したらその先端から巨大な水塊が飛び出した。
飲用の水精結晶を指で弾いたのとはものが違う、それは最下層の壁を陥没させた。
リリオンの魔道初体験だ。
ランタンの爆発はもう身体に馴染んでいる。そもそも魔道であるという意識も薄い。呼吸するのが当たり前なのと同様に、爆発を発生させることが出来る。
最初はあまり憶えていない。
だがそれができると自覚した時の高揚感は、今もはっきり覚えている。
強大な力を自在に行使することは気持ちがいい。
強くなること、そして強さを自覚することは快楽的だ。
リリオンはランタンを背負う代わりに、魔杖を背負って迷宮を歩いた。
一度得た力を手放すことは難しい。
リリオンは口に出さなかったが、杖に対する執着があるようにランタンは思えた。
だから探索者ギルドでそれを売らなかった。
取引に文句をつけないことで有名なランタンが、鑑定させるだけさせて杖を引き上げたことに査定担当は目を白黒させた。
買い手はつきにくい品であるが、探索者ギルドならば、用途の限定された超高額商品にぽんと金を出せる顧客がごまんといる。
提示された金額は現状の大赤字を黒字にするほどの額だったから、まさか断られるとは思わなかったのだろう。
「んー、だって、ねえ」
リリオンはランタンの胸の前で手を組んで、鉄砲の形を作った。手の中に溜めた水をぴゅっと発射する。杖の放出した水量に比べれば天と地の差がある。
「わたし欲しくないよ」
「そうなの?」
血が足らないのは、知が足らないのと同じことかもしれない。リリオンの心を読み間違えたのかもしれない。昨晩よりもましだが、今もまだ血が足らない。
「うん。魔道は使えるようになりたいけど、ちょっと違うの」
「違いますか」
「うん、違う。わたしはね、もっとこう、わーってしたいの」
「なるほどね」
「わかったの?」
「いや、わからん。わからないことがわかった」
水鉄砲が暴発してランタンの顔を濡らす。
「ちょっと」
「わざとじゃないもん。でも、つまりこういうことよ」
「なるほどね」
「……」
「ちょっと繰り返すところでしょ、今の」
「ランタン、わたしの話聞く気あるの?」
「あるよ」
リリオンが水鉄砲を解き、ランタンを掻き抱いた。胸と背中が一つになるみたいにぎゅっとしがみついて、耳朶を甘噛みする。
「もう、ランタンってたまに変になるから困るわ。いい? ランタン、わたしは自分の力で魔道を使いたいの。あれは杖の力がすごいだけで、わたしのじゃないわ」
「それと暴発した水鉄砲の関連性は?」
「わたしのじゃない力は、わたしのじゃないから、わたしが自由には操れないの」
「わたし、わたし言い過ぎ――、痛たた、ちょっと変なところつねらないでよ」
「杖は水をわっと出すことはできても、わーって出すことはできないし、びゅーって出すこともできないでしょ。杖の使い方は上手くなるかもしれないけど、水鉄砲は下手なままよ」
「なるほどね」
「……わかったの?」
「わかったよ」
ランタンが頷くと、リリオンは妙な呻き声を上げる。
「繰り返すんじゃないの?」
「繰り返さないですけど」
「ランタンってよくわかんないわ。変な人」
「じゃあ売り払うか。もうちょっと値段釣り上げて」
「うん、それでいいよ。いつか自分の力でわーってできるようになるから」
「いつになることやら」
「もう」
ランタンは身体の向きを入れ替えて、リリオンに向かい合った。
纏めた髪、色づく肌、長い睫毛。
滅多に見られるものではないが無表情なリリオンは、少女が少女であることを忘れさせるような顔立ちをしていることを気付かせる。太陽のような笑顔を失えば、たちまち怜悧とも呼べる大人びた美貌が顔を出した。
だがそんな表情を見せたのも一瞬のことでリリオンはすぐにぱっと笑顔を浮かべる。
ランタンが意地悪にリリオンの頬を抓っても、その笑顔が曇ることはない。
「爪がないと変な感じね。くすぐったいわ」
ランタンはリリオンの顔の造作を確かめるように両手で頬を挟んで撫で繰り回した。リリオンは無防備でされるがままにしている。
「なに、どうしたの?」
「きれいな顔してるなって思って」
途端に顔が赤くなった。額に滲んだ汗が目に入りそうになり、ランタンはそれを拭ってやる。
「んー、なるほど」
「何がなるほど?」
「いや、今度はもっとはやく偽物だって気付けるように、しっかり確認しておこうと思って」
腫れている手に伝わる感触は手袋越しに触れているような曖昧で、もどかしいものだった。でも愛おしさは変わらない。
「わたしはすぐにはわかったわよ」
「息止まってたのはどこの誰だっけ」
「さあ? わたしおぼえてないもーん」
いったいどれほど心配したと、と言えればよかったのだがリリオンの呼吸が停止しているとわかった時、ランタンは不思議と落ち着いていて、それほど心配はしなかった。
しかし蛸女の精神干渉は、結局どのタイミングで行われたのか今でもまったくわからない。
「どこまで覚えてる?」
「んーとね」
リリオンもランタンと同じように蛸女と戦った記憶を有していた。
自分が何体の蛸女を切り伏せたかを覚えてはいなかったが、八体の蛸女が出現したこと、そして最後の一匹を自分が仕留めたことは覚えていた。おそらくそこまでの記憶は共有している。だが同じ経験を共有しているからといって、現実を共有しているとは限らない。
経験の分岐は、やはり八匹目を倒した後だ。
「それでね、わたしはランタンに褒めて欲しくってね」
「おーよしよし」
頭を撫でてやると、リリオンは満更でもない顔をする。その顔のまま言う。
「わたしの話、聞く気あるの?」
「あるって。どうぞ」
「それでランタンを振り返ったの。そしたら!」
「そうしたら?」
「なんとランタンがわたしに駆け寄ってきて、いっぱい褒めてくれたのよ!」
「それはよかった。で、いつ気が付きましたか?」
「それからすぐよ。だってランタンの肩にわたしの歯形がなかったんだもん」
ぴたりとリリオンを撫でていた手が止まり、ランタンは後退った。
「ああん、なによ。どうしたのよ」
「つまり僕のこと、脱がせた?」
「あら、失礼しちゃうわ」
リリオンはおしゃまな口調で、いかにも不本意だというように肩を竦めた。そして豹のような四つ足でランタンににじり寄ってくる。ランタンは大きな湯船の隅に追い詰められた。
「ランタンが自分で脱いだのよ。ランタンったらもうすっごく大胆で、とってもあれで、あれをあんな風にあれするんだから、困っちゃったわ。もう、ランタンの見せたがり屋さん」
「あれとは――……いや、いい、聞かない。偽物だし、嫌な予感がするし」
「あらそうなの?」
「そうだよ。……でも一つだけ聞かせて。まさかそれとあれしてないよね」
「んー、んふふ」
逃げ場をなくしたランタンにリリオンは飛び付いた。額をくっつけて視線を合わせたかと思うと猫のように目を細めて笑った。
「やいてくれるのね。うれしい」
「妬いてません。念のために聞いただけだよ。離れろ離れろ、あっちいけ」
「うふふ、本物のランタンだわ。言ったでしょ、肩の歯形を見たって。こーんなにくっついたら、肩なんて見られないわ」
ランタンが照れ隠しに素っ気なくなるとリリオンは冗談めかしてそう言った。なんだか負けた気分になったランタンはふんと鼻を鳴らす。
「どうだか。歯形がなかったら、わからなかったんじゃない?」
「わかるわよ。わたしはランタンの身体をいつも見ているんだからね。どれだけ一緒にお風呂に入ったと思っているのよ」
「さあ、知らない。二、三回ぐらいじゃない?」
ランタンはぷいと顔を背ける。リリオンは歯車をかみ合わせるみたいに額を擦りあわせて、背けた顔を再び正面に向けた。
「じゃないわよ。二、三回ぐらいなのはあれよ」
「あれか」
「そう、あれ」
迷宮を攻略し、約束は果たされ、二人を妨げるものは何もない。
あれほど互いに求め合っていたというのに、そのために頑張ったというのに、二人はまだ唇を交わしていなかった。
忘れていたわけではない。
戦闘直後はもちろん、地上に戻ってからも、探索者ギルドへの報告、怪我の治療、昨晩は疲労のあまり泥のように眠り、そして今。
二人の間に妙な沈黙が流れる。
そう、忘れていたわけではない。
ただいつでもできるから、だから。
「リリオン」
「――は、はいっ」
先に口を開いたのはランタンだった。
リリオンが慌てた様子で返事をし、叱られたように背筋を伸ばした。
ランタンは驚きに目を瞬かせる。急に湧き上がった恥ずかしさも、欲求も白くなって、思わず笑ってしまった。
これでは約束のきっかけとなった、あの性急なやり取りの二の舞だ。
「もうっ、なんで笑うのよっ!」
リリオンが今度こそ顔を真っ赤にして、ばしゃばしゃとランタンに湯を浴びせた。上手く腕を使えないランタンは顔を守ることもできない。
ランタンはどぼんと湯の中に潜り、リリオンの猛攻撃をやり過ごした。そのまま潜って近付く。まっ白な腹の、下の方についている臍を目指し、そのまま腰に抱きついた。
リリオンが尻餅をつく。
「――はあっ、ははは、馬鹿みたいだ」
攻撃が止んだのを見計らって、ランタンは顔を出した。リリオンはすぐそこだった。
「髪、直して」
張り付いた前髪が眉を通り越して目を覆っている、リリオンがその前髪を掻き上げた。
目蓋を開き、息を止めて荒くなった呼吸を整える。
そんな風に落ち着いた様子のランタンをリリオンはじっと待っていたが、ついに耐えきれず、もどかしそうに瞼を閉じた。
――キスして。
あと少し遅かったら、そんな言葉が少女の唇から聞こえたかもしれない。
もう溺れはしなかった。
息を止め、あの水底よりも深く潜った。
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