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カボチャ頭のランタン  作者: mm
07.Let Me Kiss You
179/518

179 迷宮

179


「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!!」

 それは悪夢と言うほかない光景だった。

 鏡面のようだった水面は白波に覆われるほど荒立ち、四方八方に打ち寄せる奔流は少しでも気を抜けば足を持って行かれかねない。

 辺りには何本もの水柱が立ち上がって螺旋を巻き、その遠心力によって飛び散った水飛沫が礫と化して辺り一面を打ち据えた。

 何よりもランタンたちを苦しめたのは蛸女の詠唱だった。くびり殺される女の悲鳴のような詠唱は精神を摩耗させ、聴力を麻痺させ、平衡感覚を鈍らせる。

「くっ!」

 それどころか距離感もおかしい。

 水を蹴立てて蛸女の一匹に肉薄する。横振りの勢いに任せて柄を滑らせ距離を稼ぐ。貫通力を重視して戦鎚を翻し、鶴嘴を蛸女に向ける。

 障壁を貫くはずだった一撃はその表面を舐めるだけだった。

 指一本分だけ遠い。

 蛸女が動いたわけではない。ランタンが目測を誤ったのだ。

 蛸女は杖を回し、戦鎚を払い、打ち込んでくる。先端が薄く潰れて刃と化す。ランタンは大げさにそれを躱し、置き土産に爆発を放つ。蛸女の姿が歪んだ。

 魔道で造った身代わり。

 やはり八匹その全てが本物ではないようだ。それは硝子瓶に液体を満たした人形のように、魔道障壁で形作ったものだった。

 爆発の衝撃で中身が偏った。

 息を吐く。

 無視して当たりを探すか。いや、外れを潰していけばいずれ当たりに辿り着く。

 苦戦するランタンを余所に、リリオンは押している。ランタンの言葉通りに大暴れしていた。

 何かを怒鳴り散らしているが蛸女の声があまりにも五月蠅くて何を言っているのかはわからない。リリオンが独楽のように回転すると、襲いかかる水柱がずばずばと斬り飛ばされる。崩れる水柱はバケツをひっくり返したようにリリオンに降り注いだ。

 リリオンは止まらない。

 水を蹴立てて蛸女に斬りかかる。偶然か、それとも魔道の発生を察知したのか、荒波の中に浮かぶ不自然な波紋を踏み潰し、蛸女を自らの間合いにどっぷりと収める。

 受けの杖を竜牙刀で絡め取り、そのまま引き寄せ体勢を崩したところに銀刀の一撃を叩き付ける。刃物ではなく棍の使い方だった。

 叩き付けられた銀刀は一切の抵抗もなく、蛸頭から股ぐらまで一刀両断した。勢いと力に任せた結果だった。

 ランタンはそれを横目に、再び蛸女へ殴りかかった。ランタンは取り囲むように接近してくる水柱を爆発によって消し飛ばし、それと同時に跳び上がった。

 躍りかかるランタンに蛸女の触腕が待ち構えるように持ち上がり、狙いを定める。

 ランタンは炎の塊となって蛸女に飛び掛かる。炎の守りを抜かれることはすでにわかっている。抜き打った狩猟刀で触腕を切り裂き、頭上に掲げられた杖に戦鎚を叩き付けてへし折った。

 捌ききれなかった触腕が肌を裂いたが、この程度ならばさしたる問題にはならない。

 危険を冒さねば、命を取れない相手だった。

 どれほどの水量で造られていたのか、杖は折れると大量の水を放出し蛸女をぶ厚い水の膜で包み込む。

 だが同時に発生した爆発が、水の膜を引き剥がした。

 ランタンは手首を返し、鶴嘴を頭に叩き込んだ、西瓜のように頭部が爆ぜる。冒涜的な色合いの水が飛び散り、けれどそれはすぐに色を失った。

 ランタンは顔についたそれを反射的に袖で拭う。臭いも粘つきもない。

 外れ。

 作り出されたのが身代わりならば、どこかに当たりがいるはずだった。

 どこに。

 残り六匹。

 リリオンが二匹同時に攪拌し、ランタンはその勇猛さに誘われるように大胆に踏み込んだ。

 散弾のような水の塊を腕の交差に受け止める。

 避けるには足元が覚束ない。それに痛みが不思議と感じられなかった。

 戦鎚を振り絞ると腕に穿たれた傷穴から血が噴き出した。

 血は一瞬で紅炎(フレア)となった。赤熱した戦鎚が障壁越しに身代わりを気化させ、急激な体積の膨張に障壁が弾け飛んだ。

 また外れ。

 身体を動かしながら、ふと思う。

 運が悪いだけか。それとも。

 確率の計算式は、全体の数と当たりの数と外れの数をどうするんだったか。

 余計なことを考えるな。そう自分に言い聞かせるその考えこそが余分な考えに他ならない。

 いけない。どうしてか余計なことを考えすぎる。

 ランタンは更に一匹を焼き潰し、その間にリリオンはまた一匹を切り裂いて、間髪容れずにもう一匹に斬りかかった。

 リリオンは凄い。

 膝から下は水の中にある。荒波ののたうつこの水は、まるで溶けた鉛のように重たく、足にへばり付いてくる。だというのにリリオンは軽やかに駆けている。

 その身のこなしは獣のごとき。だが美しい。人であることにこだわった自分が馬鹿みたいに思えてくる。

 あれほど喧しかった八声詠唱が、ついに独唱へと戻った。戻ったはずなのに消えた七つの詠唱の残響がある。それは鼓膜にこびり付いているのか、それとも最下層の空間内に響いているのかもわからなかった。

 リリオンが何かを叫んでいる。気合いの声だと思うが、それも聞こえない。

 リリオンの動きははっきりと見えていた。逆袈裟。骨盤から鎖骨に抜け。それだけでは足らず、翻って頭部を切り裂いた。

「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」

 二つに分かれた蛸の頭部が悲鳴を上げる。

 それは色を失い、水に還った。

 これも外れだ。

 全てが外れだった。

 ならば本体はどこにいるのだろう。

 ランタンの足が止まった。

 リリオン。

 ランタンは声を掛ける。だが蛸女の悲鳴がしつこく残っていて、自分の喉が震えたかも定かではない。

 それでもリリオンが振り返った。

 花咲くような満面の笑みを浮かべた。

 まだ終わりじゃない、気をつけろ。

 そう言ったはずなのにリリオンは二刀を放り投げて、笑みを浮かべたまま、子犬のように駆け寄ってきた。

 ばか。

 怒鳴ろうとしたはずなのに舌が縺れた。囁いたのか、自分の声が聞こえない。

 頭の中で蛸女の悲鳴がまだ響いている。

 おかしい。

 何かがおかしい。

 けれど何がおかしいのかを考えることができない。頭の中に余計な思考が次々と浮かんでくる。

 リリオンの笑顔が眩しい。駆け寄ってくる。大した距離ではないのに、まだ自分に辿り着かないのはどうしてだろうか。あんなに足が長いのに。リリオンはズボンを穿いていなかった。靴も履いていなかった。水着を着て、浜辺を走るみたいだ。跳ねる飛沫がきらきらしている。脹ら脛がすっきりしていて、太股には張りがあって、銀に見えるほどまっ白ですべすべしている。

 触ったり、噛んだりしてやりたい。

 ズボンどころかリリオンは何も身に着けていなかった。

 もう何度も目にし、そして一向に飽くことのない裸身だった。

 それを見る時はいつも薄目だったり、焦点がずれていたりする。

 子供の裸身だと自分に言い聞かせて、なんでもないと素知らぬふりをしても、やはりまともに見ることはできない。

 少女の無邪気さは、己の欲望に罪悪感を灯す。自分がどんな気持ちで一緒に風呂に入っているのか、この子は知っているのだろうか。

 けれどもその苦しみは気持ちを伝えて薄らいだ。

 今、視線を逸らすのは単純な照れくささに他ならない。そしてその身体に触れる時、たくさんの愛と勇気を振り絞っている。理性と欲望の狭間にいる。

 やっぱり綺麗な身体だな、と思う。

 長い手脚はあくまでもしなやかで、肋骨に浮かぶ陰影さえもが柔らかく見える。

 反面、小振りな胸はどことなく真珠の硬質さを想像させる。つんとしていて気品か、あるいは生意気さを感じさせた。だがそれは見た目に反して、驚くほど素直に柔らかいことをランタンは知っていた。

 心臓が跳ねる。血管を流れた針が、一突きしたような痛みがあった。

 柔らかさを知っていても、淡く色づくその先端は触れたことも、焦点があったこともない。

 ランタン。

 リリオンがそう口を動かした。

 ランタンの眼前で立ち止まり、何かを語りかけてくる。

 唇は紅を引いたわけでもないのにしっかりと桜色で、気が付けば髪も解けている。濡れた髪が波打ち身体に張り付いていた。

 ねえ、ランタン。

 声は聞こえなくても、その声音は容易に想像できた。

 リリオンがランタンの手を取った。そして自分の身体に導いた。

 ランタンは反射的に身体ごと腕を引いた。小首を傾げるリリオンの顔をまじまじと見つめる。

 どうして。

 唇が動く。一歩前に出て、前屈みになった。潮の匂いがする。最下層に満ちる水は海水だっただろうか。

 ランタンは自らの唇をちらりと舐めた。味はしない。淡褐色の瞳が、赤い舌先を追いかける。再び手が伸びて腕を掴む。

 その手は濡れていて冷たい。

 ランタンの手を自らの胸と下腹部に導こうとする。

 ねえ、ランタン、さわって。

 ランタンは拳を握った。

 なぜだろうか。心の中に欲望はあったのに指を解こうとは思わなかった。

 リリオンが手を離した。がっくりと膝を突いたかと思うと、縋るようにベルトに手が伸びた。もどかしく、慌ててそれを外そうとする。

 似合わない。無邪気に求める様とは違った。

 更に一歩退いた。リリオンは這うように追いかけ、両足を抱擁する。

 ランタンは後ろに倒れ込んだ。

 身体が重い。乗られているからではない。ただ身体が重たかった。

 身体の上を裸身のリリオンが這いずっている。冷たい。氷風呂に何時間も浸かっていたみたいに。温めなければ、と思う。抱きしめてやらなければ、と思う。

 思うだけで身体は動かない。

 リリオンが覆い被さって、見下ろしてくる。

 ねえ、ランタン。

 ねえ、ランタン、キスしましょ。

 顔が近付いてくる。淡褐色の瞳に、形の良い鼻に、突き出された柔らかそうな唇が近付いてくる。

 潮の香り。

 ランタンは顔を背けた。

 ねえ、どうして。

 鼻先が触れる。ランタンの小鼻が痙攣するように蠢いた。

「ねえ、どうして、だと」

 ぞっとするような声だった。あるいは音となればそのように響く声だった。

「臭いからだよ」

 ランタンは大きく口を開けたかと思うと、目一杯に首を伸ばして、真っ白く細い肩に歯を立てた。

 途端にその柔らかく白い肌は、砂利を噛んだような不快な触感を口全体に伝え、鼻腔に腐臭にも似た生臭さを広めた。

 リリオンはいい匂いがする。それにもっと可愛い。

「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!」

 悲鳴とも嬌声とも区別のできぬ女の声が、ランタンの鼓膜を破りかねないほど痺れさせる。

 ランタンはそのまま蛸女を蹴り剥がし、その肩肉を噛み千切った。




 いつからだ。

 いつから僕は水の中に引きずり込まれた。いつから幻を見せられていた。

 最下層に入った時には膝にも至らぬ水深が、今や手を伸ばしても水面に届くことはない。

 深い。

 ランタンは水の中にいた。

 強烈な焦りが冷たさとなって背筋を駆け巡った。

 蛸女の血肉を吐き出すと、同時に口腔から白い空気の塊が洩れ出し、引き替えに大量の水が気道に入り込んできた。咳を無理矢理押さえ込む。ただの水だ。塩水ですらない。なのに喉が焼けただれるようで、鼻の奥にも痛みがある。ランタンは口を押さえる。

 閉じた唇の隙間からぴゅと口腔内の水抜きをし、足をばたつかせた。

 息。

 白い光を追いかけて懸命に水を蹴って上昇する。

 苦しいが、まだ少し持つ。だが生臭い血の味をゆすぎたい。

 そしてはっとする。自分がこれほど苦しいのならば、ならばリリオンの方がもっと苦しいのではないか。

 ランタンは溺れる魚のように身をくねらせて、懸命に辺りを見回した。

 どこだ。どこだ。どこだ。リリオンはどこだ。

 吐き出した肉片。こちらに猛然と向かってくる蛸女。水底に漂う、銀の海藻。

 いや、それこそがリリオンだった。解けた髪がゆらゆらと揺れている。

 意識はない。

 ランタンは爆発を発生させ、肉体を射出する。水が極大の抵抗となって鼻骨を折った。溢れ出した鼻血が赤い尾となって流れる。血が出ているのは鼻だけではなかった。錯覚のリリオンが触れた箇所、腕と足からも血が流れ出ていた。服ごと円形に皮膚が抉れている。

 一度の爆発で進める距離などたかが知れていた。ランタンは手を合わせ、真っ直ぐ頭上に突き出して、抵抗を減らす。水を切って進む。

 三度目の爆発で水底に辿り着く、その時にランタンの指はあらぬ方へと曲がっていた。

 リリオンの襟首を掴む。自分もリリオンも状態を確認する余裕はない。蛸女に頭上を取られている。

「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!!」

 水中にあってその声は聞こえてきた。鼓膜どころか身体に叩き付けるような声だった。

 それは怒声か。男に袖にされた女の怒りを音にするのならば、あるいはこういうものかもしれない。

 さて、どうするか。

 泳いで逃げることは無理だ。爆発でも、頭上を押さえられている限り、抜けることはできない。

 ランタンは目を凝らす。酸欠で視界の端が黒ずんでいる。だからだろうか。蛸女の背後に光の屈折が見える。錯覚ではない。光の屈折は網目状になっている。

 それは張り巡らされた罠だ。触れれば絡め取られ捕らえられるだけか、それとも細切れにされるのか。

 水の杖は溶けて見えないだけか、それとも本当に無手なのか、

 細い十指が裂けるように開かれる。鋭い指先が水を掻いた。

 白糸のような断層が恐ろしい速度で迫ってくる。ランタンはリリオンを後ろに隠して、腕を交差させた。

 爆発。

 ランタンの周囲に水が弾け飛び、空気の膜に包まれる。その膜の中に剃刀のように薄い水刃が飛び込んできてランタンの両腕をずたずたにした。

 じり貧だ。

 せっかく出来た空気の膜も、その内部に酸素はなく、一瞬のうちに押し潰される。

 視界が暗い。戦鎚はどこだ。気が付けば失っていた。

 息が保たない。

 ぼこん、とランタンの口腔から最後の息が大きな気泡となって漏れた。それは水面を目指して上昇し、その最中に細かく分裂する。

 ランタンは蛸女に背を向け、リリオンを強く抱きしめた。藁に縋るように、ではない。

 卵の殻のように、無防備な存在を守るように。

 水底のどこかに沈んでいる戦鎚が強烈な爆発を発生させた。

 天地をひっくり返したように水が逆立った。鯨さえ溺れるような激しい水流にランタンどころか、蛸女さえもがそれに抗うことが出来なかった。蛸女が張り巡らせた魔道の網も崩壊する。

 細かな真っ白い泡が全身を包み込む。柔らかさはない。全身に釘を打ち込まれたような痛みがある。身体が滅茶苦茶に弄ばれる。

 自分の欲望そのものだ。己の魔道が己を吹き飛ばした。

「かはっ――!」

 内臓が押し上げられ、ランタンは水を吐いた。呼吸すると一緒に巻き上げられた水が再び口の中に入ってきた。酸素とともに。

 空気がある。

 ランタンは爆発を発生させる。周囲を取り囲む水を弾き飛ばし、空間を確保する。大きく二度呼吸をし、リリオンをさらに強く抱いて、再びの爆発で天に届くほど跳び上がった。

 視界が狭い。酸欠ではなく、魔精を消費した結果だった。

 足元に真っ白く濁った水の塊。蛸女の姿は見えない。

 再び水の中に落ちたら全てお終いだ。あの中で蛸女に勝つことは難しい。

 ランタンはリリオンのポーチを探って雷精結晶を取りだした。それを少女の腰に装備された狩猟刀の鞘に叩き付け足元に放った。

「いあああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」

 声の場所はあそこか。

 ランタンは自分のポーチから二つ、リリオンのポーチからさらに二つの火精結晶を声の発生源に投げ付けた。かっと橙色の炎が広がる。

 そして大半の水が重力に導かれてあるべき場所に戻り、蛸女が沈んだことを確認すると、最後の一つの雷精結晶を投げ込み、そしてもう二つの結晶を放り投げた。

 それは氷の魔女にねだった氷精結晶だった。

 水中で発動した雷精結晶が蛸女を打ち据え、雷によって活性化した氷精結晶が一気に水面を凍り付かせた。魔女のお手製だけあって、素晴らしい威力だ。

 ランタンはそこに着地する。氷の厚みは充分、一メートル以上もあった。真っ青な氷の上にリリオンを寝かせる。

 顔色は血の気を失って白い。心音はあるが、呼吸はなかった。

 ランタンの動きは早かった。鼻を押さえ気道を確保すると、躊躇いなく唇をあわせて息を送り込んだ。肺が膨らむのが右手に伝わってくる。その手は胸の上から、肋骨の上から肺を強く圧迫した。

「はうっ――……」

 リリオンの喉奥から大量の水が吐き出される。だが呼吸は戻らなかった。ランタンは口腔に残った水を吸い出して、さらに何度も息を送り込む。

「……――ひゅう」

 よかった。

 一呼吸を呼び水に、リリオンの呼吸が戻った。ランタンは唇を拭い、ほっと息を吐く。

 だが安心している暇はなかった。リリオンの意識は戻らない。このままずっと氷の上に寝かしていたら凍傷になることは間違いないし、何より蛸女はまだ死んではいなかった。

 その証拠に先程から氷の下からとんでもない衝撃が襲ってくる。青く透明だった氷に罅が入り白んでいた。

 戦鎚は再び水底に、銀刀も竜牙刀も同じ場所にある。雷精結晶と火精結晶は使い切り、氷精結晶はあと一つ。武器は狩猟刀と小鎌、そしてこの肉体と爆発。

 それに。

 これで充分。

 ついに氷が割れ、蛸女が飛び出してきた。その手に杖はない。

 ランタンはとっておきの魔精薬を口に含み、リリオンに口移しでそれを飲ませた。舌を入れてやると、こくりと喉が動き、はっと頬に赤みが戻った。

「はあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!?」

 その悲鳴はふいに不貞を目撃した女の悲鳴だった。蛸女は触腕を振り乱し、痙攣するみたいに身体を戦慄かせる。

 ランタンは蛸女が飛び出た氷の隙間に氷精結晶を投げ入れた。補強するように再びぶ厚い氷が張った。

 これでこの豊富な水量を使った魔道は行使できないし、水の中に逃げられることも、落ちてしまうこともない。

 ランタンは右手に小鎌、左手に狩猟刀を構え、そして真っ向から蛸女に向かった。

 頭に血が上ったような真っ赤な色をしている。攻撃色。指が水の膜で補強される。それは尖り鋭い爪になった。

 ヒステリックに振り回される腕をかいくぐり、狩猟刀を胸に突き入れる。心臓には通らなかった。銀の鱗に傷跡を残して滑った。障壁は健在、だが弱まっている。ランタンはそのまま脇を抜け、小鎌で首を薙ぐ。

 ここも通らない。

 大抵の生物の弱点である目や口腔はない。

 蛸女は振り返りもせず、触腕がランタンを絡め取ろうとした。その場に踏み留まる

 下手に距離を取ればリリオンに向かいかねない。蛸女はそういう気配を発している。

 体勢を低く爪の袈裟懸けを避け、前転して蛸女の股に踏み込む。

 そのまま秘部を薙いだが、穴も裂け目もない。

 だがどこかからどろりと溢れた粘液に刀身が犯され切れ味を失った。折れた指が腫れて痺れる。狩猟刀を危うく取り落としそうになる。

 肌にへばりつく濡れ衣が動きを阻害する。氷の冷たさが筋肉を強張らせる。それに何より血を失いすぎていた。血が固まらない。ランタンの顔は真っ青で、唇は紫色をしている。

「ふうううう」

 吐いた息が白い。

 槍のように突き出された触腕を辛うじて避ける。狩猟刀の刺突が体表を滑り、手の中からすっぽ抜けた。上体が流れる。ランタンは額を蛸女の胸に叩き付けて身体を起こし、小鎌を噛み千切った傷口に突き立てる。

 (とお)った。

 だが魔精が通らない。さすがに戦鎚のようにはいかない。冷たく頑なな感触が手に戻ってくるばかりで、爆発を肉に埋まった刀身に発生させることが出来ない。

 腕が重い。だがいける。狩猟刀は手から離れた。無手に熱を握り込め。

「う」

 脇腹に爪が突き立つ。肩が下がり、顔を目がけた掌打の角度がずれる。ランタンの指が蛸女の首を掴まえる。触腕が伸び、顔を包み込む。

 耳の穴から、鼻から、口から触腕と粘液が入り込んでくる。眼球の裏側を舐められる。

 握り込んだそれは驚くほど小さな紅蓮だった。だがそれでも蛸女の頭部を身体から焼き切るには充分な威力を有している。

 真っ青な血が断面から溢れて、炎を消す。触腕が力強くランタンを締め付ける。

 断面。ぐずぐずの肉と血管と空洞。

 黒い(くちばし)

 それが迫ってくる。

 これこそが蛸女の本体だった。最終目標は魚人と蛸の二体で間違いがなかった。まさに蛸に補食されつつある魚人だった。頭部ごと脳を食われ、寄生されていたのだろう。そして依り代から切り離された蛸は次の獲物をランタンに定めたのだ。

 ちくり、と鼻先に痛み。

 それは蛸を貫通し突き出た、狩猟刀の鋒だった。

「ランタンの唇は、わたしのものよ」

 傲慢さすら感じさせる少女の声。

「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」

 断末魔。

 触腕が激しくのたうち回り、ランタンの顔からずるりと剥がれ、リリオンの腕に絡みつく。リリオンは冷静にランタンから距離を取った。

「はあああっ!」

 そして蛸ごと拳を氷の地面に叩き付けた、

 蛸が赤、紫、青と色を変えたかと思うと、途端に色を失い白くなった。

 絡みついていた触腕が弛緩して解け広がる。それだけだった。水には還らなかった。

 本体だ。魔道で造り出した身代わりではなかった。

 その証拠に迷宮核の顕現があった。

 津波のような魔精の奔流が二人に襲いかかる。膝が折れる。吐き気がする。傷口が痛む。

 だが清々しい。

 そして氷下の水が消失し、内圧の急激な減少によってぶ厚い氷が押し潰されるように崩壊した。

 落下。

 水底に戦鎚や銀刀に竜牙刀が転がっている。

 その中に海よりも青い迷宮核があった。それは水の杖の一部だった。その先端に巻き起こる波頭に抱かれ、妖しい光を放っている。

 着地はどうしようか。身体は動かない。

 まあこの距離なら死なないだろう、と十メートル以上もの高さから落ちながらランタンは思う。

 リリオンが砕けた氷を蹴って、こちらに向かってくる。

「はははは」

 思わず笑い声が漏れた。

 あの唇はもうすぐそこだ。

 それなのに死ぬなんて、男のすることじゃない。


人工呼吸はノーカウント

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