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カボチャ頭のランタン  作者: mm
07.Let Me Kiss You
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178 迷宮

178


 荷車が線路を通過する時だけ迷宮路に退き、それ以外は足を止めることなくひたすら歩き続ける。

 半日ほど歩き続けると現時点での採掘現場に辿り着いた。

 落とし穴まではまだまだ距離がある。努力は必ずしも報われるわけではない。前回の採掘の手伝いはほとんど無駄だったが、それも仕方のないことだった。

 あの時、限られた手段の中で、もっとも結果に近付ける方法が探索者二人の手伝いだったのだから。

 坑夫たちも働き続ければ疲れもするし、道具だって摩耗する。作業効率の減少は、採掘機械でも導入できれば改善できるのだろうが、無い物ねだりをしてもしかたがない。

 それに金に糸目をつけない充分な休息や道具の補充は目的が金銭以外の所にあるからできることだ。

 探索者は迷宮の攻略こそが誇りだが、商工ギルドは金儲けが誇りであり、赤字こそ唾棄すべき恥である。

 ここから先は、落とし穴まで坑道はない。

 迷宮路を歩くと、少し水深が深くなっているのがわかる。

 前回は踝ほどの深さだったのが、今は脛の半ばまで水の中にあった。

 水嵩が増しているのではなく、落とし穴からここまでを平底船が何度も往復し水底が均され、押し固められ、沈下しているのだった。

 雇った運び屋三人とすれ違う。彼らの牽く平底船は石炭を山積しあわや浸水しかねないほど沈み、ずりずりと水底を擦っている。運び屋は雪原を歩くためのかんじきのような履物をしていた。

 靴底の接地面を増やさなければ、船を牽こうとしても、石炭の重みで足が埋まるばかりで前に進むことができないのだ。

 水嵩が増しているのはランタンたちにとって不都合だったが、地面が固まっているのは好都合だった。

 もっともこれから向かう落とし穴に比べたらこの程度の地形変化はないも同然なのだが。

「この水、どこから湧いているんだろうなあ」

 落とし穴によって迷宮は前後に分断されている。そして水は落とし穴に常に流れ込んでいるというのに、水位の減少はなく、波も寄せては返している。川のように一方向に流れ続けていてもおかしくないはずなのに。

 ランタンが首を捻ると、リリオンが素っ気なく言った。

「ここは迷宮よ」

 なるほど確かにそれ以外の答えはなかった。

「身も蓋もないな」

「お水はいっぱいあるわよ」

「なければ歩きやすいのに」

「ねー、ほんとに」

 迷宮に常識を求めてはいけない。だからこそ求めたくもあるのだが。

 きっとどこかで水は湧いているのだろうし、あるいは大気中の魔精が水に変質しているのかもしれないし、それとも砂の一粒一粒が水精結晶で、水を吐き出し続けているのかもしれない。

「さて、どうなってるかな」

 ほどなく聞こえてきた鶴嘴の音色に足を速め、ごうごうと唸るような水音が体感温度を二度も三度も下げ、出現した落とし穴に背筋が震えた。

 もはやこれは穴ではなく、裂け目だ。

 迷宮の裂け目。

 そしてその縁を削り取るように、幾人もの坑夫が壁際に張り付いて作業をしていた。

 商工ギルドを経由して雇ったので彼らはランタンやリリオンの顔を知らない。雇い主とは得てしてそういうものだった。

 だが迷宮のこんな所まで来るのは探索者しかおらず、探索者は坑夫たちの雇い主だった。

「作業やめええええっ!!」

 二人に気が付いた坑夫が声を張り上げると、彼らは作業を中断して逃げ出すように坑道から降りる。

「お早いお着きで、ささ、どうぞ。端を歩くと崩れることがあるんで、ご注意くだせえ」

 やたらに気を使われながら、彼らの掘った迂回路を使わせてもらった。

 安全性よりも、距離を稼ぐことを重視しているので、普通の坑道よりも道幅は狭い。よくこれで二人並んで鶴嘴を振るえるものだ、と思う。

 ランタンとリリオンは縦に並んで迂回路を進んだ。足元はでこぼこしている。

 探索者だから落ちるような間抜けはしない。だがそれでも股ぐらが寒くなるような道のりだった。

 ランタンのベルトを掴んだリリオンが呟く。

「深いね」

「落ちたら死ぬな」

「あの魚人たちはどうなったのかしら?」

「もしかしたら今も落下中だったりして」

「死んでないの?」

「死んだも同然」

 壁に張り付くように歩きながら、首を巡らして底を見下ろす。

 この迷宮には光がない。採掘用に光源が設けられてはいるが、それだけではどれほどの深さかはまるでわからなかった。

 だが絶対に落下してはならないと言うことだけはわかる。

 万に一つ、産卵する鮭のように、竜に変じる鯉のように滝を登らない限り。

 魔物の身体能力ならばそれを可能にするかもしれないと考えていたのだが、真っ黒な闇を見ているとそれがあり得ないことだと感覚的に理解できる。

 けれどもランタンは迂回路の真ん中ほどで立ち止まり、ポーチを探って魔道光源を取り出した。それは鶏卵ほどの大きさのもので、新しく購入した光源だった。

 ランタンもリリオンも太股に、金属片を縫い付けた、鱗鎧の親戚のような帯を巻き付けている。

 卵でも割るように魔道光源を叩き付けると、光源は一際眩しい光を放った。

 光量が多い代わりに、持続時間の短い魔道光源だった。ランタンはそれを落とし穴に放り投げる。

 光は闇を払いながら、落下していく。

 あり得なかろうと、確認をしなければ気が済まない。それだけこの迷宮には苦汁を飲まされている。

 きらきらした光の反射を鱗の燦めきに空目する。けれどそれは水面のうねりである。

 光が尾を牽いて落ちていく。

 三分、四分。

 誰もが黙って光を見ていた。

 目を眩ますほどの光はやがて豆粒のように小さくなり、持続時間が終了したのか、見えぬほどの距離に達したのか、闇に飲まれたのか、ふっつりと消えてしまった。

 最後まで着水音はしなかった。これからもしないだろう。

「……気をつけよう」

「……うん」

 ぞっとしながら二人は迂回路を渡りきった。坑夫たちに改めて注意を促し、先を急ぐ。

 一先ずの関門は突破できた。この先、可能ならば今日中に最下層まで到達したかった。

 ランタンとリリオンは疲労回復を薬に任せて、用を足す以外で足を止めることなく歩き続ける。

 歩きながら飲んで、食べながら歩く。

 そうこうしている内に前回待ち伏せをした壁穴に到達する。

 ここから先は未踏破だった。あの魚人の数と、ランタンがこれまで攻略した迷宮の魔物の出現数を比較すると、この先の魔物の出現確率は低いと考えられた。

 だがこの迷宮には翻弄されっぱなしなのである。

 ランタンはリリオンに魔道光源を預けて、戦鎚を抜いた。

 見つけたら瞬殺する。

 そういう気概で、さらに速度を上げて進み始める。

 平底船に固められた地面は落とし穴手前までで、ここから先は緩い地面を歩かなければならないかと思っていたが、靴底に伝わる感覚は先程と大差ない。

 どうやら魚人の大群によって踏み固められているようだった。あの数に、あの平べったい水掻きのある足を思えば納得ができる。

 前回、野営をはじめた時間になっても二人は足を止めなかった。

 迷宮最下層前、白い霧を確認するまで進行をやめる気はない。

 もともと探索中の口数は多い方ではない。二人はもう二時間近く一言も発していなかったが、心は同じだった。

 ランタンは掌を拭い、戦鎚を握りなおす。リリオンは魔道光源を下げる手を、先程から右左何度も交代させていた。

 探索開始が朝の七時。すでに日付は変わっている。眠気覚まし代わりに二瓶目の活力剤を服用したのは、もう四時間ほど前のことになる。

 一瓶目ほど効きはしなかった。少しおしっこが近くなるだけで。

 探索の単調さが疲労と眠気を強く結びつけている。肉体的な疲労よりも、精神的な疲労が大きい。

 欠伸を噛み殺す。

「らんたん」

 甘い声で呼びかけられた。

 ランタンは戦鎚を強く握った。リリオンが夢でも見るかのように、光源を高い位置に掲げる。歩きながら眠っていたのかもしれない、そう思った。

「あれ」

「――霧だ」

「夢じゃないのね!」

 ランタンの純粋な喜びに満ちた声に、半ば眠りかけていたリリオンが目を覚ました、

 黒い石炭壁で構成される迷宮にあって、眩しいほどに白い濃密な魔精の霧が視線の先で渦巻いていた。

 ランタンの集中がふつりと切れた。

 ランタンを嘲笑うかのように、魔物の出現はまったくなかった。ここまでどれだけ神経を使ってきたと思っているのか。

 なんだよ、と心の隅で毒づきながら、ランタンはリリオンの手を引いて霧に駆け寄る。

 背嚢を地面に降ろした。これも新しく購入したもので完全防水になっており、水に浸けても浸水しない。中をぱんぱんに満たせば、簡易的な椅子としても使える。

 二人は腰が砕けたように十八時間以上ぶりに腰を下ろした。

 たっぷりと深呼吸をしてから、魔精鏡を構えた。

 霧を透かして黒々としたほどの青さを持つ最終目標の姿形が目に飛び込んできた。

 魔精が濃い、これは強敵だ。

 しっかりと観察して、明日の戦いに備えなければいけない。

 それを言い訳にして、二人はしばらくの間座り込んでいた。野営の準備さえ、面倒臭い。

 さすがの二人も魔精鏡を持ち上げるのさえ億劫そうだった。

「疲れた……」

 リリオンの言葉に、ランタンは声もなく同意する。





 たっぷりの睡眠をとった。

 それでもお世辞にも目覚めが良いとは言えなかった。

 二瓶飲んだ活力剤の影響か、少しだけ胸焼けがする。

 リリオンはまだぐっすりと眠っていた。昨晩、健啖家の少女は夕食も程ほどに眠りについた。それほどに疲れていた。

 思わずお休みのキスをしそうになり、慌てて離れたほどだ。約束が妙に深く根付いている。ここまでくると意地だった。

 さて目覚めた少女の食欲はどうだろうか。

 どうであろうと朝食はしっかりと摂取しなければならない。腹が減っては何とやら、これから迷宮の主にして、ランタンとリリオンの唇の間に立ち塞がる最終目標を打倒しなければならないのだ。

 そう、これを倒せば。

 そう考えると胸焼けがすっと収まり、腹がぐるぐると鳴いた。

 ランタンはリリオンを叩き起こし、朝の用意を済ませる。リリオンが髪を結っている間に大盛りの粥を作った。

 付け合わせに塩漬けした菜物と干し鱈。青菜を水にさらして塩抜きし、しっかりと絞ってから刻む。干し鱈は軽く炙った。こうばしい香りが立つと、リリオンの腹もくるくると鳴いた。手で骨を外して、ほぐし身にする。

 魚臭くなった手を洗い、食事を始めた。

「小骨に気をつけて」

「うん」

 二人して大盛り五杯の粥を食べる。菜物には柑橘類の皮が入れられて香りがよかった。干し鱈は旨味がぎゅっと濃縮されて味が濃い。リリオンは外した背骨を未練がましくしゃぶっている。熱く淹れたお茶を飲む。

 いつもならば背嚢に野営具をしまい、これを背負ったまま最終目標に挑むのだが今回はあまりにも荷物が多すぎた。念には念をとは言え、調子に乗って買い込みすぎた。

 二人は戦鎚や大刀はもちろん、魔精薬に攻撃用の魔精結晶をポーチに詰め込んだり、ベルトに差したりして必要な物を厳選していく。

「っと、そうだ」

 結晶発動用の金属帯を太股に巻かなければならない。結晶は衝撃を与えるだけで発動できるのでなければないでもいいのだが、せっかく買ったのだから装備しないと損である。

 ランタンはリリオンの太股に、リリオンはランタンの太股にそれぞれしっかりと結びつけた。

「これでよし、と。忘れ物はないよね」

「うん」

 最後に魔精薬を飲む。身体能力の強化よりも、毒物への耐性を高める種類のものだ。

 二人はそれから魔精鏡を覗き込み、最終目標が昨晩と変わりないことを確認すると、それを絨毯に放り投げて霧の中に足を進めた。

 ランタンは戦鎚を握り、リリオンは火精結晶を握っている。

 発動すれば炎を巻き散らかす代物だった。万に一つランタンを巻き込むように使用しても、炎ならば危険は少なかった。

 さて坑夫たちの予想では最終目標の本命は蛸らしいが、魔精鏡で確認できた姿は人型だ。

 ランタンとリリオンの間ほどの大きさで、輪郭は丸みを帯びて女性的だった。もしかしたら魚人の女王かもしれない。

 人型の最終目標を相手にする際に留意すべき点は、それが多くの場合優れた魔道使いであることだった。

 出現した魚人の魔道使いを思い出せば、使用魔道の本命は水と氷、大穴で火だが、後者ならば魔道に注意を払わなくていいのでランタンにとっては鴨である。

 もっともそう上手く行くとは思えないが。

 いろいろと考えを巡らせながら霧の中を進み、だがそれを抜ける瞬間にはランタンの思考は、あらゆる出来事に反応できるように色を失っている。

 白一色を抜け、最下層が広がる。

 五感からの情報が、ランタンの思考を眼前に広がる戦場に合わせて染め上げる。

 天には白光、地には青水。

 水深は足首ほどだが、水面の所々に黒々とした影が透けている。むやみやたらに駆ければ、落とし穴に落ちるかもしれない。

 壁は恐らく石灰質で、明るい灰色をしている。石炭ではない。それに最下層には広さがあり、天井も抜けているので爆発を使っても崩落の危険性は少なそうだった。

 そして最終目標は。

 魚人と言えば魚人だったし、蛸と言えば蛸だった。

 首から下は銀の鱗に包まれた、少女と大人の女の中間ほどの曲線を描く魚人の身体がある。それは溶かした硝子を伸ばしたようにほっそりとしている。

 親指と小指の区別がない、太さも長さも均一な五本指が杖を握っていた。

 これは魔精鏡に反応しなかった。肉の一部ではなく、魔道によって作った物でもなく、純粋な装備品だ。

 杖は水を編んだような造作をしている。

 魚人と違うのは水掻きや鰭がないことだろうか。

 少なくとも首から下では、それぐらいの差異しかない。

 だが首から上、その頭部は蛸そのものだった。

 魚人の頭部を蛸にすげ替えたというか、見ようによっては蛸に補食されている最中のようにも見える。

 薄紅色の皮膚はぬらぬらと濡れており、毛束のような触腕は大きさのちぐはぐな吸盤が二列に並んでいる。触腕は八本以上あった。

 目も鼻も口もなくのっぺらぼうで、肌の下に血管にも似た縦線が幾つも走り、脈動に合わせて激しく色を変えていた。

 表情はないが、この上なく顔色は豊かである。薄紅から黒紫まで、毒々しい色合いに変化していく。

 一種の狂気を帯びた姿だった。見ているだけで精神的に参ってしまいそうになる。蛸の頭部はひっくり返した内臓を容易に想像させた。滴る粘液が美しくもある銀の鱗を汚すのが冒涜的だった。

 色を変える。

 目の痛くなるような警戒色。血の赤に肌が色を変えた。

 触腕が持ち上がったかと思うと、ランタンたちを指し示しながら、その先端が唐突に強張った。

 かち、と背後で音がした。リリオンが結晶を金属帯に打ち付けた音だった。やや赤みを帯びた結晶はその部分から色を濃くする。

 リリオンがそれを蛸女へと投げつけた。

 蛸女の杖が逆巻く。

「いやああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」

 鼓膜を(つんざ)く、三半規管を掻き乱すような女の悲鳴が最下層に響く。

 それが蛸女の詠唱だった。

 結晶に秘められた魔精が極致に達し、結晶そのものを打ち破って内から炎が吹き荒れる。

 蛸女を中心とした水が戦慄くように波紋を立てたかと思うと、海竜のような水柱が隆起して炎を飲み込んだ。水柱の内側で炎が押し潰され、柱そのものが白く沸騰し、そのままリリオンへと襲いかかった。

 リリオンが二刀を構える。

 ランタンは水柱を目隠しに蛸女へと接近した。身を低くして相手の足の位置を確認する。動きはない。固定砲台型の魔道使いなのだろうか。

「ふっ――!」

 水面に広がった波紋を撫で切りにするように、戦鎚が足元から走った。

 直撃、そこに至るまでの半瞬にランタンの掌に僅かな違和感が伝わる。重ねた薄氷を割るような、抵抗とも呼べぬ抵抗。

 戦鎚が無防備な銀の腹部に吸い込まれ、だがほっそりとしたそれはびくともせず、銀の鱗の一枚を砕くこともない。

 魔道障壁が張られている。

 魔道によって作り出された不可視の鎧は、紙一枚ほどの厚さしかなく、けれど鋼よりも強固だった。

 戦鎚を受け止めた腹部から、全身に波紋が広がり、それが液体のように衝撃を受け流したのが目に見えた。

 これを割らないことには本体に攻撃を与えられない。

 ならば。

 ランタンの右腕が金属のように強張る。戦鎚が爆炎を放った。炎が障壁表面を舐め、ぐらりと煮立ったように歪みを見せた。

「ランタンっ!」

 声に反応して、ランタンは真横にすっ飛んだ。

 ランタンの背後から迫った水柱を躱すと、それはそのまま蛸女の身体を飲み込んで炎を鎮火させた。

「きえええええええええええええええええええええええええええええええええええ!」

 保有しきれない熱量が水柱を高熱の水蒸気に変化させ、蛸女が湯煙に巻かれた。

 その内側で再び強烈な声が響いた。

 蒸気に身体を焼かれているのではない。水柱が一度に六本も立ち上がり、それは猛烈な勢いで螺旋を巻いた。

「うるさああああああああああああああああああああああいっ!」

 リリオンが負けじと叫びながら二刀を振り回した。

 水柱と打ち合うとまさか金属音が鳴り響いた。高圧縮された水は金属のごとき硬度を帯び、その螺旋は竜巻のそれだ。

 二刀を巧みに使い水柱を引きつける。足運びが水に絡め取られ、けれど体軸が乱れない。横振った刀の重さに身を任せたかと思うと、竜牙刀を軛として、鞭のように銀刀を走らせる。

 どぱ、と水柱が三つまとめて両断された。螺旋を失い、解けるように形が崩れる。

 ランタンは沈黙を保ったまま蛸女の背後に忍び寄る。

 水蒸気の中に浮かぶ銀影を目がけ、渾身の力で戦鎚を振り落とした。爆発が水蒸気を吹き飛ばし、袈裟懸けに振るわれた戦鎚は鎖骨を砕くどころか、肩口から骨盤までを一気に拉げ潰した。

 銀の鱗が水滴のように弾け、身体が内側から破裂するように吹き飛んだ。

 殺ってはいない。

 リリオンは残りの水柱と斬り合っており、弾け飛んだのは水で造られた身代わりだった。

 どこだ、とランタンは視線を巡らせる。

 背後から水弾が雨あられと襲いかかってくるが、蛸女の姿はそこにはない。ランタンは水弾を可能な限り引きつけ、爆発一発でその殆どを吹き飛ばし、残りを回避する。

 少なくとも目に見える場所にはいない。

 水の中か。

「リリオン、三秒後に跳べ!」

 ポーチから結晶を取り出す、二秒数えてから金属帯に打ち付けて、そして水中に放り投げると同時に跳躍した。

 それはレティシアにねだって用意してもらった雷精結晶である。

 残念ながらレティシアの魔道が封じられているわけではなく、騎士団の備品を融通してもらったものだ。水精結晶、火精結晶よりも希少度が高く、値段もそれに比例する。

 三秒。

 水中で崩壊した結晶から、雷が溢れた。

 その一瞬の燦めきが、金貨の輝きに見えてしまう。この後に及んでそんなことを考える小市民振りが嫌になる。だがあれを一つ手に入れるのに金貨が五枚も必要になる。せっかくレティシアを経由したというのに、騎士団長であるシドは少しも割り引いてはくれなかった。

 けれど払った価値はあった。大電流が一瞬で水中の(あまね)くを蹂躙した。

「いいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい!」

 いちいち耳に響く悲鳴を上げて蛸女が姿を現した。

 蛸女の張る障壁は、純粋な魔精の障壁ではなく水を模したものであるらしい。物理攻撃や炎は防ぐが、雷は防ぎきれない。

 ランタンは空中で爆発を蹴り、放り出されたように蛸女に飛び掛かった。迎え撃つ水柱を戦鎚で消し去り、ランタンは隕石のような勢いで体重全てを乗せた大上段を振り下ろした。

 真上から打ち据えるランタンの一撃を、蛸女は杖を掲げて受け止めた。

 みしい、と水の杖が軋みを上げる。

 障壁が戦鎚の威力を受け入れずに薄皮一枚が溶け出したようにぐずぐずと崩れる。薄紅の頭部は茹でられたように真っ赤に染まったかと思うと、どす黒く変色し、涎にも似た粘液が染み出した。

 ぞわりと触腕が持ち上がる。吸盤がぱくぱくと蠢いている。

 ランタンの項が総毛立つ。

 触腕は指三本分ほどの太さであり、吸盤の一つ一つが蛸女の口であるのだ。色を抜いたように白いそれは、よくよく見れば釣り針状の細かな牙の集積である。肩口程の長さの触腕が、不意に伸びてランタンに襲いかかった。

 巻き取られれば蝕まれる。

 だがランンタンは避けようとはせず、むしろ重力の魔道を駆使し蛸女をその場に釘付けにした。

 触腕は爆発で対処できる。そしてすでにリリオンが駆けている。

 リリオンは左脇に二刀を構え、大きく踏み込んで腰を切った。

 蛸女の水柱が竜巻ならば、リリオンのそれは台風だった。

 一見するとゆらりとした大振りだが、内に秘めた力は広範囲を蹂躙してあまりある。

 竜牙刀が障壁を引っ掻いて罅を入れ、間を置かず迫った銀刀が剃刀一枚入らぬような隙間に滑り込んだ。

 同時にランタンが爆発を起こして頭部を焼く。炎の中を突き抜けて、それでもしぶとい触腕が首に巻き付き、だが力無く弛緩した。

 生臭い。

 それに肌が焼けるような感覚がある。

 蛸女は胴を抜かれ、銀を撒き散らしながら傾いた。

 ランタンの全身を爆炎が包む。触腕が蒸発した。

 リリオンは振り抜いた勢いで自らの身体を回転させ、背後を振り返る。その目に映ったのは鳩尾から上を失い、中身を零しながら水面へ崩れる蛸女の下半身だった。

「や――」

「――ってない!」

 リリオンの気を引き締める。

 溢れた中身は、内臓ではなくただの水だ。これもまた身代わりだった。

 しかし首に巻き付いたあれは本体だった。だがどうやって抜け出したのかわからない。

 ランタンは首を撫でる。

 べたりとした不快なそれは粘液だけではなくランタンの血も混じっていた。じくじくとした痛みがあるが、毒はないか、あるいは無視できる程度。一秒に満たぬ間に、吸盤の形に皮膚が抉られた。

 魔道使いだが、接近戦もかなりやる。

 これだから魔物はずるい。ランタンは己を棚に上げて思う。

 残りの雷精結晶はランタンとリリオンで一つずつ。障壁は抜けるが致命傷を与えられるほどではない。水中から引きずり出すにしても、二個しかないのならば安易に消耗すべきではなかった。

 沸騰させるか。

 ランタンの力ならばそれが可能だ。だがそれでは蛸女よりもリリオンに影響がある。炎に炙られて平然とする障壁に、たかだか百度の熱水がいかほどの効果があるのか。

 ランタンが思考を巡らせていると、水面に波紋が浮かんだ。

 反射的にリリオンが駆け出そうとして、足を止めた。

「ラ、ランタン……!?」

 波紋は一つではなかった。そのどれもが隆起し、八匹の蛸女が姿を現す。

「増えた……」

「リリ、難しく考えなくていい」

 きょどきょどと視線を巡らせるリリオンに、ランタンが力強く声を掛けた。

「全部倒せばそれで済む」

 蛸女の全ては水の杖を装備し、傍目にはどれが本物でどれが偽かわからない。触腕の本数に違いがあるかもしれないが、数える暇もなければ、本体の数も憶えていない。

「狙いは頭部、魔道への警戒は怠らないように」

 ランタンの言葉にはっとしたリリオンは、ちらりと唇を舐め、小さく呟く。

「そうね。そうだわ。わたしとランタンの邪魔をするんだから、全部やっつければいいんだわ」

 リリオンは虎の笑みを浮かべる。

「好きに暴れろ」

 背中は守ってやる、とは口にしなかった。

「――行くわっ!」

 蛸女の八声詠唱を切り裂くように、リリオンの二刀が閃いた。


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