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カボチャ頭のランタン  作者: mm
07.Let Me Kiss You
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 もちろん探索者としての力を持ってしても、たかだか二日で落とし穴までの坑道を掘ることはできなかった。

 地上に戻り、再び迷宮の地を踏むのは同じく二日後のことだ。それまでにどれだけ坑夫たちが頑張ってくれるかに掛かっている。が、時間が同じだけに、望みは薄いだろうなと言うこともわかっていた。

 二人は真っ黒になって地上に戻ったが、もう二度目のことでミシャは驚かなかった。

 だが最終目標を討伐できなかったことには驚きを示し、また拗ねたままのリリオンを見て、何かあったの、とランタンに目だけで問い掛けてきた。

 ランタンは答えなかった。

 リリオンが不機嫌な理由を説明するのは難しい。僕とキスできないから、などとは自分の口で言う台詞ではないように思えたし、もしかしたらそれが理由でないのかもしれない。

「じゃあ、次の仮予約は確定と言うことっすね。――それまでに仲直りするのよ」

 口を噤んだランタンにミシャはこっそりと耳打ちして、去って行った。

 取り残されたランタンたちは、いつもは繋ぐ手を繋がず、ただ肩を並べるだけで、黙って屋敷に戻った。

 石炭採掘に使用された銀刀を研ぎに出さなければならなかったが、黒く薄汚れた格好で街を歩く気にはならなかった。

 迷宮特区から出ていく探索者の姿は、ランタンたちと似たり寄ったりだが、彼らはランタンと違い街へ繰り出している。

 公衆浴場へ行くのかもしれず、あるいは色街で垢を流すのかもしれず、そもそも汚れなど気にしないのかもしれない。

 ランタンとリリオンがネイリングの屋敷へ帰ると、侍女がはたきを持って待ち構えていた。

 外で粉塵を落とせ、と言うことらしい。前回の探索から帰ったランタンたちは、彼女たちの仕事を盛大に増やしたのだった。

 はたきは植物の繊維を解し、それを刷毛状に束ねたものだった。

 けっこうしっかりとした硬さで、顔も身体も関係なくそれで身体を撫でられるとちくちくする。子猫の爪に引っ掻かれているような気分だった。粉塵が落とされると、肌が薄く色づくほどだった。

 解いたリリオンの髪からは足元が真っ黒になるほどの炭粉が出てきた。

 それを見た侍女が慌ててどこかへ走り、そしてすぐに戻ってきた。手にまっ白な貫頭衣を持っていた。

 ここで脱いでいけ、と言うことらしい。風呂もすでに用意してあるとのことだった。

 ならばもう全てをしてもらうことにした。

 貴重品だけを抜いて背嚢も服も全て渡し、整理や洗濯を言いつけ、装備品も銀刀を始めとする整備の必要なものをグラン工房へ研ぎに出すように頼んだ。

「行くよ」

「うん」

 まっ白な貫頭衣だけで、それ以外なにも身に付けず風呂場へ向かった。

 拗ねているし、言葉も少ないが、一人で入るとは言わなかった。脱衣所で貫頭衣を脱ぐ。

 リリオンは相変わらず身体を隠そうとはしなかったし、ふて腐れたその態度も隠そうとはしなかった。

 ランタンが何も言わず浴室へ向かうと、ようやく視線をランタンに向け、柔らかそうな尻を追った。

 浴室の濡れた床に、黒い足跡が浮かんだ。濡れて炭が溶け出したのだ。あれほど丁寧に頭の先から足先までを掃いたのに、頭から湯を被るとその黒髪が溶け出したように、黒く濁った湯が身体を流れた。

 頭を掻き、身体を擦り、濁りが取れるまで何度も何度も湯を被った。

 隣に座ったリリオンも、せっせと手桶で湯を掬っては被っている。

 不思議だった。淡く色づく銀の髪。それはとても美しく見えるのに、湯を被るたびにまるで錆が流れ落ちるように湯が濁っていた。

 ランタンが身体を洗い終わっても、リリオンはまだ終わっていなかった。

 髪の長さと身体の大きさの分だけ、ランタンよりも多くの炭粉を身に纏っているのだろう。

 ランタンが立ちあがるとその姿を目で追い、湯船に浸かると仲間外れにされ、置いてけぼりにされたように不安と焦りの入り交じった目をした。

「うう……っ」

 小さく呻き、慌ただしく湯を被った。湯船を空にするような勢いだった。

 乱暴に髪を梳き通し、身体を擦る。細い指が忙しく、それでも丁寧に身体を這い回る。耳の裏、鎖骨の窪み、腋の下、肋骨のオウトツ、臍、その下へ。

 ぎゅっと目をつむり、頭から湯を被った。

 跳ねた水がランタンにかかった。

 ランタンは湯船の縁に腕を乗せ、顎を預けていたが、ふっと身体を起こした。

 リリオンが髪も絞らずに湯船に飛び込んできた。湯面に髪が広がった。リリオンがそれを掬い取って束ね、丸める。苛立ちをぶつけるようにぎゅっと絞った。

 見ていられない。

 ランタンは魚のように静かにリリオンの背後を取ると、少女の髪をするりと奪った。ごわごわになった髪を再び濡らし、程良く絞ってタオルでまとめる。

 色づいた項、細い首に指を掛けたくなった。

 首を絞めたいわけではない。ただ触れてみたいというだけで。

「……ありがとう」

 リリオンがふり返らずに言った。だが少女の肉体は素直だった。反射的に振り返ろうとしたが、自分が拗ねているのだということを思い出し、慌てて首に力を入れていた。

 拗ねている。

 いや、怒っているのかもしれない。

 なるほどこれは噂に聞く、だが今までのランタンにはまるで縁の無いもの。

 これは不甲斐ない指揮者への不満だろうか。

 迷宮探索において指揮者の責任は絶大だ。攻略の失敗、もちろんその要因は様々なところに及ぶが、最終的にその責任は指揮者に帰結する。

 ランタンはそれを理解していたが、だがけれどリリオンの機嫌を取ろうとは思わなかった。

 リリオンと出会ってからこれまでの探索は比較的上手くいっていたが、そもそも迷宮探索とはこういうものである。

 それに指揮者の判断が絶対といっても魚人の軍勢から退却することも、落とし穴を利用することも、爆発物を投げ込むこともリリオンは承知してのことだったはずだ。

 だから自分は謝らない、と言うわけでもない。

 指揮者の責任転嫁は探索班を崩壊させる最大の要因である。信頼関係が壊れ、人心が離れ、指揮するもののなくなった指揮者ほど哀れなものはない。

 しかし、かといって責任の重さに頭を垂れて、指揮下の機嫌ばかりを窺うのが優れた指揮者かといえばそんなこともない。

 必要なのは責任を受け入れた上での開き直りだった。

 例え仲間の命が失われようとも、開き直り、そして再び迷宮の地を踏むのだ。起こったことはしょうがない。じゃあ次を如何するか。全てはその繰り返しだ。

 それが指揮者たり得る探索者の資質だった。

 ランタンはそこまで開き直れるわけではなかった。

 ランタンの隠し持つ幼児性はもちろん、なんで僕が、と思っているし、ランタンが斯くあろうとする理想的な自分は、次の探索のためリリオンと相談をしようと思っている。

 その上でランタンは黙り、ただ怒っているリリオンを観察することにした。

 怒っているリリオンは珍しかった。もちろんリリオンはこれまで何度もランタンの前で怒っている。頬を膨らませたり、むすっとしたり、飛び掛かってきたこともある。

 だがそれほど長続きはしない。

 もしかしたら怒ることと甘えることが混在しているのかもしれないし、あるいは怒りの延長線上に甘えがあるのかもしれない。

 怒った顔をしてみせればランタンが相手をすることを本能的に知っているのだ。

 それが大きな怒りでも、やはりリリオンはすぐに笑った。

 そんなリリオンがずっと拗ねている。

 もしかしたらランタンが観察することに決めてしまって、その幼くも魅力的な肉体に触れないから、怒りを解く機会を失しているだけかもしれない。

 拗ねていてもランタンの傍にずっといるし、してもらったことには礼を言う。

 それが妙に面白かった。

 ランタンはリリオンの髪を纏めてから、リリオンの背後で湯に浸かった。

 背後にいる自分の気配を探っている背中はそわそわとして落ちつかなげだ。背筋をぴんと伸ばしていて、せっかくの風呂だというのに気の緩みは見られなかった。

 まっ白な背中。

 触れたいな、と思う。それは機嫌を直してほしいからか。リリオンは触ってやると、すぐに機嫌を直した。

 いや、ただの男性的な欲求だ。

 白い背中をずっと見ていると、それは次第に桃色から赤へと色を濃くしていく。湯に耐えられないのならば出ればいいのに、リリオンはぺたんと座ったまま動かなかった。ランタンが立ち上がるのを待っているのだ。

 ランタンはどぼんと頭の先まで湯に沈め、それからようやく立ち上がった。

 リリオンが振り返っていた。湯面から上にある、腿の半ばから頭の先までをびっくりしたような目で見て、何かを言おうとして口を閉じた。ランタンはリリオンの脇を通り過ぎ様に、少女の頭からタオルを外した。

 一度洗い、固く絞って身体を拭きながら浴室を出た。

 背後で飛び込むみたいに、リリオンが湯に身体を沈めた。

 ランタンはリリオンを待たずに、用意された着替えを身に付けると脱衣所を後にした。

 ううう、と恨めしげな声がしたような気がする。

 あの子はどんな顔をして着替えをするのだろうか。

 透明人間になれたらいいのに、と少し思う。




 夕食は自室に運んで貰った。

 なにも注文をつけないと、当たり前のように二人分が部屋の中に運び込まれる。探索者の食欲を満たすために、通常の量を倍にしたというわけではない。

 探索者用の料理が二人分が用意されている。

 これがネイリング家での、ランタンとリリオンに対する認識だった。

 ランタンが席に着き、当たり前のようにリリオンを待っていると、食事の用意をしてくれている侍女がリリオンのことを尋ねた。

「女の子は身嗜みに時間が掛かるものなんでしょう」

 ランタンが答えると、ああ、と頷く。ランタンの黒髪は濡れ羽色と言うに相応しい水気を帯びていた。しっとりと濡れて、やや重たげにランタンの丸い頭部の形を浮かび上がらせている。

 リリオンの髪は、一人ではなかなか手入れが難しいほどの長さだった。

 出会った当初は足首まで伸び放題で、最初の探索で腰から下を失ってしまった銀の髪は、今は尻に掛かるほどの長さになっている。

 ネイリング家に世話になるようになってから、定期的に毛先を揃えてもらっている。ランタンはこの髪をいじるのが好きだった。

 撫でたり、梳ったりするのもそうだが、これを編んだり縛ったりするのは特別好きだ。

 リリオンが自分で髪を纏めるよりも、自分の方が上手にできるという自負もある。リリオンの髪を纏めてやることはランタンの日課と言ってもよかった。

 遅いな、と思う。

 もしかしたら着替えに手間取っているのかもしれない。もちろんリリオンは一人で着替えられないほど幼くはない。だがあの長い髪から水気を取るのは大変だし、水気の残る髪を纏めるのも大変だ。

 ランタンにとってはその大変さが楽しくもあるのだが。

「ちょっと様子見てきてくれる?」

「――はい、かしこまりました」

 侍女が出ていって、それからしばらくしてようやくリリオンがやってきた。

 髪を二つ結びにしてあり、食事を摂るに相応しい、そして食後はそのままベッドに行けるような簡素な服で身を包んでいた。髪はすっかりと乾かされている。

 淡褐色の瞳がランタンとまだ湯気を立てる料理を往復し、そしてもごもごと何かを言った。遅れてごめんなさいか、それとも待っててくれてありがとうか、たぶんそのどちらかだろう。

「どうする? 自分の部屋に用意してもらう?」

「ここで食べる」

 ランタンが頷くと、リリオンはとことこと近付いてきて、すとんと腰を下ろした。

「お酒は?」

「……ちょうだい」

 用意されたのはネイリング産の白ワインだった。室温よりも少し低めの温度に冷やされている。グラスに注ぐと、透き通った象牙のような色をしていた。香りには少し酸味がある。瓶をテーブルに置くとそれをリリオンがさらった。

「ランタンは?」

「じゃあ、今日は飲もうかな」

 上向けたグラスにリリオンが酌をする。グラスになみなみとそそいで、それから料理に手をつけず合図を待つようにじっとランタンを見た。

「いただきます」

「いただきますっ」

 リリオンはぶっきらぼうに、けれどランタンに続いて言った。そして空きっ腹にまずワインを流し込んだ。

 それから無言で料理を口に運んだ。暴食は苛立ち解消の常套手段だった。

 草魚の酒蒸しに豚の香草焼きを主菜とした料理だった。味はもちろんいい。香草の香りは食欲をそそったし、少し濃いめの味付けは探索で疲れた身体に染み込んだ。

 これで探索が成功していたら言うことはないのだが、それをぐちぐちと引きずっても仕方がない。今はせめて英気を養わなければならなかった。

 主食はランタンの好みに合わせて粥が用意されていて、それは比較的粘性の強い品種で作られていた。口にするとほんのりと甘みがありランタンにはそれが少し懐かしく感じられる。

 レティシアが探して取り寄せてくれたものだった。

 広大な大地を幾つにも分割した貴族の領地は、それぞれに独特の農法が根付いているらしい。そしてそのほとんどは地産地消される物であり、輸出するほどの食料を生産できる領地は極一部に限られている。

 探せばランタンが望む醤油や味噌といったものもあるのかもしれない。

 そんなことを考えていたら粥に醤油を垂らしたくなった。

 ランタンは細かく刻んだ豚や、魚の解し身を粥の上に乗せて口に運んだ。

 会話がない分だけ、料理はそうそうに平らげられつつあった。

 食器の擦れ合う音だけが響いており、それがむしろ静寂を際立たせている。魚は頭と背骨と尻尾だけになっており、豚は香付けの香草すら残っていない。

 ランタンは口の中の塩気をワインで洗い流した。

「次の探索は明明後日(しあさって)だからね」

「……わかってるわ」

 思い出したくない現実を突き付けられたかのように、リリオンが頷いた。

 迷宮探索が上手くいっていれば今ごろは唇を交えていたはずなのだが、その甘美な時間は少なくとも七十時間以上先の話になってしまった。

「明日の昼から買い出しで、明後日は完全休養。それでいい?」

「いい」

 あまりにも投げやりな言葉は、さすがにランタンも諫めざるを得なかった。

 このまま放っておいたらどうなるのだろうかという悪趣味な興味もないではなかったが、失敗に終わった探索も、そして明日の買い出しも、攻略に至るまでのすべては探索中の出来事である。

 まだランタンとリリオンの探索は終わってもなければ、中断もしていない。継続中である。

「リリオン」

 声に含まれる咎める響きに、リリオンはびくりと背を伸ばした。

 ばつの悪そうに目を伏せて、落ち着きなく、もう舐めるほどしか残っていないグラスを傾けて顔を隠した。

 あの素直な少女をこうまでさせるものが己の唇への執着だとしたら、もしかしたら自分はなかなかいい男なのではないかと思えてくる。

「おそらく、あの魚人の群れが最後の出現魔物だったと思う。が、迷宮では何があるかわからないのは今回の件で再認識した。今回の探索で足らなかったと思う物、次の探索を成功させるために、なにか必要だと思う物があったら明日までに書き出しておいて」

 うん、とリリオンはグラスの縁を食みながら頷いた。

 ランタンは最後に少し残ったワインを、二つのグラスに均等に分けた。それを毒杯でも呷るように一息で飲み下す。

「どっちで寝る?」

 ランタンは自分のベッドと、リリオンの部屋がある方の壁を交互に指差した。

 リリオンは、えっと、と迷いを見せる。いつもならば迷うことのない問いかけだった。

「好きにしていいよ。僕はちょっと」

 ランタンは行く先を告げず部屋を出た。




 自分はどうしてこうも意地悪なのだろうか。

 夕焼けは消えさり、空は藍を敷き詰めたような夜に覆われていた。

 初めて口付けをしたあの時のように素直になれたのならば、と思う。これからいっそう冷たくなる冬の風に身を晒しながら、ランタンは腕組みをして唸った。

 もしかしたら自分もけっこうショックを受けているのかもしれない。

 ランタンはこれまで探索した迷宮は全て攻略している。その全てが順調だったわけではなく、今日のようなことも初めてではなかった。

 結果として迷宮を攻略できればそれでいい。

 第一、最初から引き上げ屋の予約は三回分取ってある。今回のようなことは織り込み済みで、そんなにショックを受けるようなことではないはずだ。

 ならばショックなのは、リリオンと同じ理由だろうか。

 あの柔らかい唇の感触を思い出す。吐いた息が白く、ふと唇に触れると乾燥し、かさついた感触が指に返ってきた。ちらと唇を舐めて湿らす。自慰のようだ、と思う。

「あーあ」

 ランタンは自分自身を抱きしめて震えた。

 つまらなそうに呟き、そして思いがけず迸った。

「ああああ、もうっ!」

 叫んでから左右を見回し、人がいないことを確認して地面を蹴った。

 面白くない。

 今頃はリリオンとキスしていたはずなのに。お風呂でだってただ見ているだけじゃなかったはずなのに。

 なんだよ、とランタンは戦鎚を抜いた。

 見えない敵を打ち据えるように戦鎚を振り回した。鎚頭がごうごうと獰猛な音を立てて唸る。重く、重く。そう意識を集中させると、三つの円環に囲まれた鎚頭を形成する球がみしみしと音を立てる。

 やはり重力の魔道は難しい。ランタンですら支えかねるほどの重さが戦鎚を支配していた。力任せに振り回すと、びきと肘がなった。筋が伸びる。右手の中指、その付け根が引きつるように痛んだ。

 横振りを無理矢理に縦に変え、手放して戦鎚を放り投げた。その間にぷらぷらと手を揺らした。手放した戦鎚を爆破させるには、それなりに集中力が必要だった。

 そして離れた状態での重力変化は、今のランタンにはまだ使いこなすことができない。

 元の重さになった戦鎚を受け止め今度は、軽く、軽くと意識を集中させる。

「あー、ダメだ。気持ち悪い」

 魔精酔いに似た感覚があった。胸焼けするような、のぼせるような。不愉快な感覚だった。重くするよりも、軽くする方が難しい。実戦ほど、訓練では意識が集中できなかった。

 あるいはもしこの重力魔道を使いこなすことができたのならば、風船のように浮かんであの大落とし穴を飛び越えることもできただろうか。

 坑道が落とし穴を通過していなかったらどうしようか。

 ランタンは戦鎚を手の中で弄び、ひっそりと溜め息を吐いた。

「――いようっ、なーにしてんだよ」

 尻を引っぱたかれた。

 振り返るとそこにはリリララがいた。メイド服に身を包んでおり、挨拶するみたいに手を上げたかと思うと抱きつくように肩を組んできた。

「なんですか」

「邪険にすんなよ。叫び声が聞こえたから心配して見に来てやったのに」

「離して」

「なんで」

「汗かいちゃったし、おっぱいあたってるし」

「そりゃお嬢みたいにでかくはないけどさ。離してってのはないだろう。なんだよ。嬉しがれよ」

「それはむつかしい」

 リリララは舌打ち一つしてランタンを解放した。

「じゃあ尻か。今度は尻に敷いてやるからな」

「なにそれ?」

「リリオンが言ってたぞ。足とか尻が好きなんだろ。盗み見はよくないぜ。いやらしいなあ、おい」

 ランタンは肩を竦めた。

 図星と言えば図星だが、もうそんなことで恥ずかしがるような可愛げは失われてしまっていた。

「それはリリオンが好きなだけだよ。どこでも、全部」

「あー、はいはい、知ってるよ。うるせえな。ごちそうさま。んで、こんなろころで叫んで暴れてどうしたんだよ」

「ちょっとした憂さ晴らし。それに、そんなに叫んでないけど」

 何で憂さが溜まったのかは言わなかった。

「晴れてない顔しているぞ。ここじゃ寒い、中に行こう。お嬢に顔見せてやってくれ」

「晴れてない顔を?」

「そうだよ」

 リリララに背を押されるようにしてランタンは屋敷へ戻った

 屋敷へ入るとリリララは所作を侍女らしいものへと改める。ランタンを先導するように前を歩いた。

 レティシアが正式に屋敷を受け継いでから、屋敷の使用人は大増員された。

 それでもレティシアに最も近しいのはリリララであり、リリララは主に恥をかかせぬ為に以前よりもいっそう自分の見られ方に気をつけるようになった。

 リリララが素を見せるのは自室か、レティシアの部屋や、ランタンたちといる時ぐらいだった。息抜きに迷宮にでも誘ってやろうか、と思うが、主であるレティシアが息を抜いている暇がないので、リリララは誘ってもこないだろう。

「おお、ランタン、よく来た」

 レティシアの私室に入ると、彼女は立ち上がってランタンを迎え入れた。

 三日ぶりに見る顔には大輪の笑みがある。手招きをしたかと思うとむしろ自分から近付いてきて、少年の身体をたっぷりの親愛を込めて抱きしめる。

「なにか疲れてる?」

「疲れは今なくなったよ。ああ、たまらん。リリオンが元気な理由がわかる。――石鹸の匂いがするな」

「戻ってすぐに風呂に入ったから」

 レティシアからは冷ややかな香水の匂いがした。

「探索は残念だったな」

「別に、次、攻略すればいいだけだし」

 ランタンの小さな肉体を存分に感じたレティシアは満足気に、それでいて惜しそうに抱擁を解いた。

「リリララ、ご苦労。よく連れて来てくれた」

「僕に何か用でもあったの?」

「二人はまたすぐに迷宮だろ。だからさ」

 なにが、だから、なのかはよくわからなかったが、ランタンは曖昧に頷いておいた。

 リリララが引いた椅子に当たり前に腰掛ける。テーブルに香草茶が用意された。

「リリオンと何かあったのか。帰ってくるなり侍女たちが囀っていたぞ」

「何かって別に」

「そうか? それならいいんだが、喧嘩はほどほどにな」

「喧嘩は……」

 レティシアに言われて、ランタンは反射的に否定しようとしたが、言葉に詰まった。

 拗ねてふて腐れたリリオンの態度と、それを客観視している風を装ってその実、鬱屈と苛立っている自分。

 その二人の間にある違和感。

「あれ? 僕とリリオンって喧嘩をしてるの、か?」

 思わず首を捻ったランタンにレティシアが堪えきれずに笑った。

「してないのか? ぎくしゃくして、目も合わせないって噂だぞ。原因は攻略失敗か? ううん、しかし責任を押しつける絵が浮かばないな。で、本当の原因はなんなんだ」

 言葉を詰まらせたランタンに、部屋の中に三人しかいないのをいいことにリリララが後ろから首を絞める。

「ほら、言えよ。どんな原因でも引かないから」

 例えば喧嘩をしているとして、その解決方法はなんだろうか。そんなふとした疑問がランタンに口を滑らせ、そして後悔させた。

 リリララが喋らせるため緩めた腕をずるりと引き抜いた。蛇が力尽きるように。

 レティシアがぼんやりとした眼差しになった。

「引いてるじゃん」

「引いてるわけじゃない。私たちのことはほったらかしにして、二人だけそんな楽しげな約束を交わしているのが悔しいだけだ。まったく裸の付き合いをした仲だというのに、あまりにもいけずなんじゃないか? それとも私の魅力が足りないか?」

「いや、そんなことはないよ。二人のことも好きだし、たぶん僕、年上の人が好みだよ」

「ふん、それは嬉しい知らせだな」

「あ、その目は信じてないな」

 しかしランタンは最近、自分の視線が魅力的な曲線に吸い寄せられることを自覚していた。そして吸い寄せられる先の多くが、自分よりも年上の女性であることも。

「だってぜんぜん私を求めてくれないじゃないか」

「不思議だね」

 理性を上回るような強烈な衝動は、今のところリリオンにしか抱かないものだった。

 他の女性を見て、綺麗だな、柔らかそうだな、とは思っても、触りたいな、とは思わなかった。

 まったくもって無垢な顔をして不思議がるランタンに、レティシアはがっくりと肩を落とした。

「女としての自信がなくなってくるな。男という生き物は見境ないと書物には書いてあったのに」

「レティは魅力的だよ。もちろんリリララも。でもなんだろう、なんなんだろうね。うーん、別に我慢してるわけではないんだけど。最近よくレティとか触ってくるから、それで僕の欲求が昇華しているのかも」

「リリオンの方が触ってるだろ」

「あ、そうか」

「というか触って()()って、もっと別の言い方はないのか。やはりいけずだ」

 レティシアはがっくりと肩を落とし、唇を歪める。上唇と下唇が互い違いになっていて、しかしこういう表情をしても美人はやはり美人である。

 ランタンはふと手を伸ばして、リリオンにそうするように、レティシアの唇を摘まんだ。

 人差し指と親指の間で、唇がふにふにと押し潰される。

 レティシアは驚いて目をぱちぱちさせた。

「やらかい」

「――人の唇を弄んで、それだけか?」

「うん、もう満足」

「はあ、――おい、リリララ、捕まえていろ」

 背後に立ったリリララが、ランタンの肩をがしりと掴んだ。レティシアは立ち上がってランタンの膝の上に跨がった。鮮やかな緑の瞳が、立ち枯れを起こした蔓草のように灰色がかって冷たい光を帯びた。

「さすがにちょっと怒れてきた」

 膝の上にレティシアの体重があった。リリオンよりも少し重たく、女としての密度を感じさせた。

「きっとリリオンの怒りの原因はここだな」

 怒っていても、レティシアはそう言うことを教えてくれる。

「どういうこと?」

「つまり、不公平さだ。私はこんなに求めているのに、ランタンは平気な顔をしている。それが小憎らしく、また愛おしいのも腹立たしい。なんで私ばっかり、とな」

「なるほど」

 女の子って面倒くさいな、とは口に出さなかった。リリララの指先が襟元をはだけさせるようにして、ランタンの白い肩に食い込んだ。

「それでレティはこれからどうするの? とても目が怖いのだけど」

「そうだな。もうこうなったら唇を奪ってやろうかと思ったが、約束の最中にそれをしてはリリオンに申し訳ない。だから」

「だから?」

「噛む」

 レティシアは大きく口を開けたかと思うと、本当にランタンの肩に噛み付こうとした。

 ランタンは、ちょっと待って、と彼女を制する。肌に生温い吐息が触れていた。

「なんだ? 命乞いなら聞かんぞ」

「いや、せっかく忠告して貰ったから、実戦してみようと思って」

 ランタンは白々とした首を傾けて、氷のように滑らかな肩をレティシアに差し出した。

「僕のこと、噛んで。お願い、レティ」

 求めに応じ、レティシアがその肩に歯を立てた。

 姑息な手段が裏目に出て甘噛みどころか、くっきり歯形が付くほど噛み付かれた。

「痛い」

 自業自得だった。


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