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カボチャ頭のランタン  作者: mm
07.Let Me Kiss You
174/518

174 迷宮

174


 絨毯は一晩中水に浸かって、一切の浸水を許さなかった。消波堤はやや崩れていたが十全にその目的を果たしてくれた。

 充分な休息を得た。座ることも許されない探索だったが、脚の疲労は無視できるほど回復している。

 ランタンはすっきりして戻ってくるやいなや、しがみついてそれからずっと穏やか寝息を立てるリリオンを起こし、引っ剥がした。

「あーん」

 変な声を上げ、伸びてくる手を引っぱたき絨毯の縁から顔を出す。水面に映る己の顔は水の流れに歪んでいる。

 一瞬の躊躇いの後、迷宮の水で顔を洗う。もう一度躊躇った後、口を濯ぎ、濡れた手を拭くついでに寝癖を直した。

 少し笑う。一向に髭の生えぬ顎を擦った。

 寝ぼけ眼のリリオンの顔を水に沈めて覚醒させ、少女が顔を洗っている間に手早く髪を纏めてやった。

 予定通りの早起きだった。

 ランタンは再び調理いらずの食事で朝を済ませようと思ったが、リリオンがスープを作ってくれた。飯盒に水、塩漬け肉、チーズを入れて少し煮込み、それからビスケットを砕いた物を投入して、攪拌する。

 チーズリゾットのような物だった。

「あー、うまい。動いてるときは気にならなかったけど、この迷宮少し冷えるな」

「おかわり、よそってあげるね」

 空腹が最大の調味料と言うが、迷宮の冷気もまたそれに等しかった。

 リリオンに抱きしめられて眠っているときは気にならなかったが、もしかしたら身体は冷えていたのかもしれない。朝食を口に運ぶと、腹の底からぽかぽかした温かさが全身に広がっていく。

「おいしかった。ごちそうさま」

 リリオンが料理を作ったので、ランタンが食器洗いを買って出た。水が豊富なのはいい。迷宮の水でざぶざぶと飯盒とスプーンを洗い、飯盒の中にスプーンと畳んだ火精結晶コンロを納めた。

 それから防水絨毯を水から引き上げ水滴を払い、筒状に丸めた。これは重たく、五キロ以上もある。リリオンは苦もなく、絨毯を括った背嚢を背負った。

 もう少し小さい物でもよかったかもしれない。リリオンが窮屈かと思って三メートル四方のものにしたが、迷宮では軽さを重視するべきだった。

 いやしかし、リリオンの身長はこれからまだまだ伸びるだろう。先を見据えた買い物だと思っておこう。

「疲れは?」

「ぜーんぜん、大丈夫よ」

「では出発」

 そして二日目の探索が開始された。

 迷宮の規模は探索者ギルドが予測をし、大中小の迷宮として探索者に示す。

 あくまでも予想であり、大体の規模でしかない。そして深度計の色の変移も感覚的な代物だ。その迷宮の正確な総延長は、その最下層を実際に目にするまで判明しない。

 だが数多の迷宮を攻略した探索者の感覚として、昨日のうちに半分に到達していないことをランタンは察していた。

 四日間の探索で攻略に二日、帰還に二日と考えれば遅延と言える。

 少し速度を上げようか、と思う。それぐらいの遅延だ。

 まだランタンはそれほど焦ってはいなかった。

 魔物の出現頻度は相変わらず高いことには高いのだが、減少傾向にある。

 さらに言えば群を構成する個体数も減少傾向にあった。かわりに個体の強さが増大しているが、数を一掃できる爆発が使えない以上、ランタンにとって一度の戦闘で出現する魔物の数そのものが減少することは、個の強さの増大を補って余りある幸運だった。

 一つの戦闘に奪われる時間が短縮し、歩く時間が増えた。歩く時間が増えれば移動距離が増える。

 昼前には半分を超えた。朝七時頃から歩き出し、三時を回った。おやつにチョコレートバーを食べる。八時間で魔物との遭遇は四回だった。初回探索で想定した距離に対する想定戦闘回数を下回った。

「ふうむ」

 けれどランタンは魔精結晶を回収しながら首を捻った。リリオンが反応する。

「どうしたの?」

「んー、これ蛙でしょ?」

「うん」

 今しがた遭遇して、倒したのは巨大な蛙だった。

 共生しているのか無力な蛍の魔物を引き連れていて、前脚が四本あり、目が三つもあり、溶解液を吐き出し、音波攻撃をするお化け蛙だった。だがそんな魔物の特徴はさしたる問題ではない。

 溶解液は邪魔くさいが、音波攻撃は爆音で無力化できた。その結果として蛙は屍を晒しているし、蛍は気が付けば音波攻撃の巻き添えを食らって墜落していた。光源以上の役割は有していなかった。

 問題は蛙が、どのような魔物として分類されるかだった。

「蛙って基本的には獣系に分類されるんだよ。まあ両生類を獣って言うのもあれだけど」

 人によっては昆虫系に分類することもあるが、少なくとも探索者ギルドは獣系と認定している。

 探索者ギルドの迷宮分類は、迷宮口直下近々の情報で決定される。実際に一番最初に遭遇した魔物の系統がその迷宮の魔物系統であることを否定はできない。

 この迷宮の分類は水棲系迷宮である。水棲系魔物が主体として出現する魔物であり、それ以外の魔物が出現することは珍しい話ではない。だがそれも程度によった。

「魚系、甲殻類、貝類は水棲系だけど、この蛍や昨日のフナムシ、人食い水草、蛙。これはそうじゃない。水棲系、昆虫系、植物系、獣系の四系統の魔物が出現している」

「それがなにか問題なの?」

「水棲系だと思って、急に違うのが出たらびっくりする」

「うん」

「びっくりしないように注意しましょうって話。それに――」

 水棲系迷宮は特殊だった。

 水棲系魔物は文字通り水中に棲み着き、水の中でしか生きられない。そして迷宮はその環境を、魔物に合わせない。なので多くの水棲系迷宮は探索者が攻略するまでもなく、魔物が一掃されて崩壊することが多かった。

 この迷宮はたまたま環境と発生した魔物が合致したに過ぎない。

 リリオンが水を蹴った。迷宮口直下からここまで、多少の差はあれど水溜まり程度の浅瀬だった。

「あの巨大な鞭魚程度かな、ちょっとずれたのは」

 戦闘するまでもなく息絶えている、あるいは虫の息の魔物がもう少しいてもいいはずだった。淘汰と再出現によって、ずれが少なくなっているだけかもしれないし、ランタンの思い過ごしかもしれないが、迷宮の環境と出現魔物が結びついているような気がした。

「水棲系以外の魔物がいっぱい出てくるかもしれないっていう話?」

「逆というか、むしろ予測が立てられるって話。水にまつわる魔物の出現を想定するべきかもしれない」

 出現する魔物の系統が増えれば増えるほど、魔物の多様性は加速度的に増加していく。これに探索者が対応することは大変だが、環境が魔物に影響を与えると考えるのならば道筋をつけることができる。

 まさかこの迷宮にこんな魔物が、とびっくりするだけならばいいが、気構えが追いつかずに、絶体絶命に追い詰められてからではもう遅い。

「わかった」

 リリオンがわかったようなわからないような気軽さで頷き、それからしばらく歩くと、早速リリオンがびっくりしてランタンの腕に縋った。

「わあっ!」

 はっとランタンから離れて慌てて口を押さえる。そして誤魔化すみたいに、押さえた手をそっと退かした。

「おどろいてないわ」

「嘘つきは泥棒の始まりだよ」

「――だって、これは魔物じゃないもの。ランタンは驚いてないのね。わかってたの? ならどうして言ってくれないの?」

 リリオンが驚いたのは突如、口を開いた落とし穴だった。迷宮の幅一杯に、底の見えない真っ黒な穴が鎮座している。跨ぐなんてもっての外、跳び越えることも困難な大きさの穴に音を立てて大量の水が流れ込んでいる。

 変化は二十分ほど前からあった。水の流れが早くなり、水深が下がった。何かがあるのかもしれないとは思ったが、それが落とし穴だとは思わなかった。

「わわわ、引っ張られるよ」

 恐る恐る近付いていくと、足が持って行かれる感覚があった。足を乗せている砂地が吸い込まれているのだ。流砂に飲み込まれるように。

 跳び越えにしても踏み切る場所も着地する場所も気をつけなければならない。

 落とし穴は迷宮内でよく見られる迷宮罠の一つだったが、環境が単純な落とし穴の効果を増大させていた。

「どうするの? 壁を掘る?」

「いや、時間が掛かりすぎる。――僕が跳ぶ、着地を任せていいか?」

「もちろん、まかせて!」

 落とし穴を怖々覗き込んでいた視線を引っ込めて、リリオンが鼻を膨らませて頷いた。

 ランタンは背嚢を背負い直し、二人の身体を紐で繋ぎ、その上でリリオンを抱き上げた。

 装備を含めて八十キロ以上あるだろうか。先に荷物だけ向こう側に投げてしまおうかと思ったが、リリオンのみの重さが六十キロ前後だと考えると、さしたる違いはないように思えた。

「さあ、行くぞ。着地後は全力疾走ね」

「うん」

「――ふ!」

 息を吐き、ランタンは水を蹴って駆け出した。平たい石が水面を跳ねるようにランタンが加速し、リリオンの重さをまったく感じさせず鋭く跳躍した。

「ふえ」

 リリオンが変な声を出したのは、得体の知れない浮遊感に襲われたからだろう。重力の魔道を使い。さらに爆発を使って距離を補う。身体を三分の一回転させて、ランタンは横に倒れ、リリオンが真っ直ぐに着地した。

 ランタンを抱っこしたリリオンは右足で着地し、ずるりと砂中に沈み込んだ足を引き抜くように左足を踏み出した。後ろに砂を掛けるように、リリオンは馬のように走った。

 落とし穴から遠ざかる。水の流れの影響範囲から外れたところでようやく立ち止まった。

「はあ――ちょっとだけ、疲れた」

 リリオンから降ろしてもらったランタンは、肩で息をする少女を撫で回して労った。弱気を呟くのは珍しいことだった。

「帰ったら坑夫さんに伝えておかないと」

「……落っこちたらどうなるの?」

「さあ、死ぬんじゃない? 別の迷宮で見つかったって話も聞いたことはあるけど、まあ人ではなかったらしいからやっぱり死ぬな」

 ランタンがしれっと言うと、リリオンは身体を震わせた。そしてランタンの肩を掴んだ。

「はやく」

「はやく?」

「はやく行きましょ」

 ランタンの肩を押して歩き出した。背後に聞こえる水の落ちる音が、近付いてくるのではないかと恐れるように。

「嫌な思い出でもあるの?」

「ああいう音、昔、聞いたことあるのよ。夜、眠ってると、急に聞こえてくるの。どどどどって。ママがいないときは怖くて、ねられなかったわ」

 それは巨人の国で過ごしていたときの話である。巨人の居住地は海沿いにある。波の音は常に聞こえていたが、時折聞こえる荒れた海面のうねりとも違う音が、幼いリリオンには怖かったようだ。

「たぶん、海底に迷宮が発生した音かな」

 海の底が抜けたように、迷宮口に海水が流れ込む。同時に内部の空気が海中に放出され、海面に弾ける。その時の音がリリオンにまで聞こえてきたのだろう。

「泳いだりできる?」

「海に落ちたら溺れて凍って死んじゃうのよ」

 海は巨人族を幽閉するための堀である。極寒の海原は鯨をも絞め殺す巨人族さえ凍らせる。

「ふうん、でもそのわりには風呂場で泳いでなかったっけ?」

「お風呂は海じゃないもの」

「迷宮も海じゃないよ。怖がらない怖がらない。どうせ少なくとももう一度、あれを跳び越えないといけないんだから」

「帰る時ね」

 リリオンは首だけで、その音も聞こえなくなった落とし穴を振り返った。

「その時の状況は二つ」

「二つ?」

「余裕があるか、それともないか」

 無事、最終目標を討伐することができた時は余裕がある。

 対して、例えばとてつもなく強力な魔物が出現して、慌ててこれから逃げ出した時には余裕がない。

 リリオンが首を傾げた。

「ランタンよりも強い魔物?」

「買いかぶってくれてありがとう。じゃあ倒すのが面倒な魔物でもいいや。物理攻撃無効、僕の爆発も無効。そんなのが出現した時は、(けつ)捲って逃げないといけない。後ろに魔物が迫ってる時はさっきみたいにのんびり準備はできない」

「うん」

「だからその時どうやって逃げるか考えて、意識を統一しておく。リリオンならどうやって逃げる?」

「わたしがランタンを抱っこしてあげるよ。一生懸命走るし、一生懸命跳ぶよ」

「そしてそのまま、穴の底へ真っ逆さま?」

「その時はランタンがばあんって爆発してくれるもの。ランタンならさっきと順番が逆でも大丈夫よ」

「大丈夫かなあ。できることならやっぱり僕がリリオンを抱いて跳びたいな。成功した実績があるし」

 意思を統一すると言うよりは、相手が何を考えているのかを知ることが大切なのかもしれない。その時、最善の行動を取れるように。

「ねえ、ランタンって、この探索のどこまで考えてるの?」

「――そんなの決まってる」

 ランタンはそれだけ言って、明言を避ける。

 リリオンが少し考えて頬を染めた。

 呟く。

「わたしも一緒よ」




 ランタンの予想通り魔物は数の強さから、個の強さへと移り変わっていった。

 その筈だった。

「リリ、逃がすなっ!」

 ランタンが鋭く声を上げるより先に、遭遇した魔物は逃走しようとしていた。三匹の内一匹が背を向け、残りの二匹が二人を迎え撃ち逃走を手助けする。

 それは魚人(マーマン)だった。亜人ではない。だがその形態はよく似ている。魚人に限らず、こういった魔物は亜人差別の元凶とも呼べる魔物であり、亜人族の探索者にとっては因縁深い魔物である。

 首から上は完全に魚で、耳に当たる部分に(ひれ)があり、頸動脈沿いに(えら)らしき切れ込みがあり、どこを見ているともしれぬ魚の目には不思議と知性が宿っていた。

 ランタンは小鎌を魚人に放る。鋭く回転した小鎌が三つ叉槍に弾かれ、だがそれに半瞬遅れて飛んできた銀刀に魚人は胸を貫かれて地面に縫い止められる。

 もう一匹、ランタンは突き出された槍を弾き、魚人を蹴倒して逃走個体を追った。止めを刺すよりも戦域から離脱させないことが重要だった。

 もしもこれが水中で、泳力の勝負ならば追うことすらしなかっただろう。だが水掻きを有する扁平足な魚人の足は走ることには不向きだった。ぱしゃんぱしゃんと一歩ごとに水が跳ねる。

 容易く追いついたランタンは、細かな鱗に覆われたつるりとした後頭部を一撃で陥没させた。断末魔の叫びすらない。振り返れば蹴倒した魚人もリリオンによって切り伏せられていた。いや、竜牙刀の刃に掛かれば、まさに噛み切られたと言うに相応しい。

 魚人は左右の耳のどちらかが、魔精結晶に変じた。頭部からそれを取り、ランタンは足首を掴んで死骸を一所にまとめた。

 鱗の皮膚は、不愉快にぬるりとしている。砂で擦り落とすように、水の中に手を入れた。

「ランタン」

 リリオンの声に顔を上げる。

「恐らく斥候だ」

「せっこう?」

「リリララみたいな役目、敵がいるかを調べて、主力部隊にそれを伝達する」

 人型の魔物は時折、人間顔負けの知能を有し、それなりの作戦を展開することがある。この三匹の魚人の行動は、紛れもなく統一された一つの意思に基づいて行われていた。

「じゃあ、この奥にもっといっぱいいるって事?」

「おそらくは」

 ランタンは頷いた。数の強さから、個の強さへと移り変わっていた魔物であるが、この三匹は少なくともお化け蛙よりもかなり格下である。つまりここに来て迷宮は数を恃んだと想像することができた。

 気まぐれな迷宮だ。いや全ての迷宮がそうだ。人知を越えている。

 さて、どうするか。

 選択肢は進むか、留まるかの二つだった。

 斥候に情報は持ち帰らせなかったが、斥候が帰らぬこともまた情報である。斥候を使うという知能があれば、自分たちの存在は知られたと言って良い。そしてその情報をどのように活用するか、だ。

 奴らもまた、進むか留まるかの選択をするだろう。肉体に染みついた人間への攻撃性は撤退という選択を赦しはしないし、そもそも迷宮内に発生する魔物は最下層に入り込みはしない。奴らに逃げる場所などないのだ。

 主力の規模はどれほどだろうか。三匹を斥候に出すのだから十以下ということは、まさかないだろう。最低でも三十前後、あるいはその倍と言うこともある。

 進むに任せて予想された遭遇戦を演じてもいいが、事前に魔物の出現がわかっているのならば待ち伏せをするのも手だった。数で負けているときは特にそうだ。

 ランタンは一つ、ある手段を思いついていた。だがどうしようかという迷いもあった。

 上手くいく、いかないの逡巡ではなかった。

 リリオンの情操教育に良くない手段であるからだ。

 それは魚人の死骸を用いる。

 例えばこの迷宮攻略のための買い出しで、魚人の素材を使用した装備を見つけた。それは魚人の生皮を剥いで作った、完全防水のズボンや上着だった。ランタンはそれに多少の嫌悪感を憶えた。

 これは人間ではない。だが人型であると言うだけで、その死骸に手を掛けることに抵抗があった。

 作戦は砂地に戦鎚を埋め、魚人の死骸を被せる。それに近寄ってきた集団を、爆発によって攪拌するというものだった。上手く事が運べば戦闘を有利に進めることができる。数を奪うだけではなく、恐怖と混乱をばらまけるはずだ。

 ランタンは手早くリリオンに作戦を説明した。主力部隊と斥候の距離がどれほど離れているとも思えなかった。妙に硬い顔のランタンを見下ろして、リリオンは不思議そうに首を傾げた。

「待ち伏せした方が、こうりつてき、なんでしょ」

「効率的、まあ、そうだね。真っ正面から殴り合うよりはたぶん効率的だと思う」

「ならランタンはそれをするんでしょう?」

 むしろしない理由を教えてほしい、と言うようにリリオンがランタンに告げた。

「それもそうか、なら僕ら二人が隠れられる横壁を掘って」

 ランタンは戦鎚を埋め、魚人の装備である槍を砕いた鉄片を被せ、魚人の死体でそれに蓋をした。そして背嚢から予備の光源を取り出し、目印のようにそこに置いた。それからリリオンを手伝い、手持ちの光源を消して息を潜めた。

 予備の光源は小さく、光は半径一メートルを照らすのがやっとだった。

 まさに血抜きをしている最中のように、青い血に染まった水面の中で魚人の死骸が光にぼんやりと照らされている。だがやがて血が薄まり、冷えた死骸ははやくも硬直し、身動ぎ一つしないそれは鱗の硬さも相まってどこか彫像のような印象を与えた。

 待ち伏せといっても一時間も二時間も待てるわけではなかった。

 探索時間は有限だ。三十分が限度だった。それ以上の時間の浪費は、殺戮の効率性よりも、探索の効率性を下げるのに充分だった。

 壁の穴に身を潜めていると光はほとんど届かない。リリオンが背後からランタンを抱きしめように身を寄せ合い、耳を澄まして、目を凝らしていた。

「来た……」

 ランタンが言うとリリオンが目をつむった。斥候と遭遇してから二十六分が経過したところだった。

 魚人が光源を有しているか否か。それは作戦を決行するに当たって重要な事柄だった。そして魚人はそれを有していなかった。

 数はよくわからないが予想よりも多いように思えた。百に満たない。だが五十を上回る。

 手には各々長物を装備していた。鱗の色は正確に確認することはできないが銀、青、黒が主流で、一匹だけ赤系統の魚人がいる。他の魚人が耳や手首や肘などの関節にのみ鰭を有するのだが、それだけは頭部に鶏冠のような鰭が生えていた。

 指揮個体だろう。体格も一回り大きい。

 魚人は会話をしている。鳴き声はどことなくげっぷを思わせる濁音に塗れており、一声は痰を切るように短く跳ねている。

 予備光源に照らされた死骸を見つけ、その声が高音に変わった。怒りだろうか、短いやり取りが集団に伝播して、汚らわしい合唱のように響いた。

 指揮個体が何かをわめき立てている。少なくともランタンには喚いているように聞こえた。

 ランタンも目をつむった。そして後ろ手にリリオンに触れた。少女の手が、ランタンの心臓を押さえた。

 魚人の聴力は水中でこそ真価を発揮する。内耳を水で満たし、水を伝播したあらゆる震動を捉えるのだという。だがランタンたちは万全を期した。

 三十の拍動を数え、それを合図とする。

 耳を澄ませた。魚人の行動を真っ暗な目蓋の裏に思い描く。

 死者を弔うような行動はしない。それに触れ、死んでいることを確かめはした。怒りにまかせて駆け出そうとする者はいなかった。指揮個体の統率力は中々のものだ。だが感情が荒ぶる。

 死体を取り囲み、地団駄を踏むように、足を踏み鳴らした。違和感を抱いているのかもしれない。気勢を、あるいは奇声を上げた。死骸を持ち上げようと手を掛ける。

 心臓が三十回、拍動した。ランタンもリリオンも、同時に閉ざした目蓋の上に掌を被せた。

 光は、その時は死骸の下で淀み、闇のように濃く固まった存在でしかなかった。

 衝撃が光を押し固めていた何もかもを吹き飛ばした。巧妙に、関節に切れ込みを入れておいた魚人の死体が千切れ飛び一種の質量兵器と化し、巻き上げられた砂に混じった金属片が鱗を砕き、肉に突き刺さり、混乱を拡大させた。

 光はそれからだった。大轟音と一緒に群の隅々にまで染み渡って、生き残った魚人の視力を焼き尽くした。悲鳴は驚きと痛みとを混ぜ合わせたものだった。

 思ったよりも殺せてないな、とランタンは思う。

 爆発の発生源近くにあった魚人たちは血霞みと化している。その肉の壁があったおかげで、迷宮の崩落は防げた。そして魚人の多くを生きながらえさせた。

 これだけお膳立てして十名も殺せていない。だが重傷軽傷合わせれば半数近くに負傷させることには成功したし、最も離れたところにいる一団はほとんど無傷だったが、それでも閃光によって一時的に視力を消失している。

 視力と仲間を失ったことで、正気を失い闇雲に振り回した獲物が同士討ちを発生させていた。

 闇に慣らした目は、混乱の一切を確認していた。

 事前にリリオンへ命じた事柄は二つ。

 一つは声を上げぬこと。

 一つは闇雲に突っ込まないこと。

 その二つだけであり、それで充分だった。

 前者は混乱を長引かせるためだった。何をされたのかがわからないという恐怖はきっと魔物にもあるだろう。その知能が高度であればあるほど。

 後者は混乱が移るのを避けてのことだった。混乱や狂気は往々にして伝染する。

 敵味方の区別なく閃光によってもたらされた闇を打ち払うように長物を振るう魚人の中に身を投じれば、その混乱に飲み込まれてしまう恐れがあった。

 それほどの恐慌だ。

 常に一歩引き、刀の先端で首を刎ねていくことがリリオンの役目である。爆心地から離れれば離れるほど肉体と精神の受けた傷は少ない。そういった魚人どもが正気に戻るよりもはやく、効率的に命を刈り取ることが少年から与えられた少女の使命だった。

 そしてランタンはむしろ渦中に突っ込んだ。闇に目を慣らしたとは言え、さすがに暗闇の中で黒い戦鎚を探すことは不可能だった。小鎌と狩猟刀を構え、時に死を、そうでなければせめて痛みを、そして恐怖を思い出させる轟音を撒き散らして、混乱の中を抜けて背後を取った。

 そして後は前後から挟み込み、鏖殺するだけだった。

 その筈だった。

 ランタンは背中に氷水を落とされたように背を伸ばした。

 屍山血河と化した迷宮は、吐き気を催すような生臭さに満ちている。水は血に染まり粘性すら帯び、リリオンが光源に光を入れると、あたりに地獄が広がっていた。辛うじて生きている魚人に止めを刺す。

「リリオン下がれ」

 戦いの後いつでもそうするように駆け寄ってくるリリオンを追い払い、ランタンは意識を集中させて戦鎚に爆発を発生させた。水底が盛り上がり、死肉を撒き散らした。ランタンは手を突っ込んで戦鎚を拾い上げる。

「どうしたの? ランタン」

「増援だ」

 ランタンが言うと、リリオンがようやく気が付いたように耳を澄ませた。

 水面を震わせるそれは戦闘の残滓ではない。

 迷宮の奥からやって来る魚人族の増援の足音に他ならなかった。

 反響の所為だけではない、大凡の数がわからぬほどの、それはやがて地響きに変わるほどの大増援だった。

 戦うか、退くか。


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