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カボチャ頭のランタン  作者: mm
07.Let Me Kiss You
171/518

171 迷宮

171


 中迷宮の攻略が決定し、探索者ギルドに寄る必要もなくなった。

 空いた時間を有効活用するためにランタンとリリオンは早速、引き上げ屋蜘蛛の糸に駆け込んだ。

 降下の予約は今日中ならばいつでもいい。だがじっとしてはいられなかった。

 起重機はすでに届いている。予想よりも一日だけ早く到着したのは僥倖だ。起重機には風船がくくりつくられていた。単なる飾り付けではない。浮揚ガスが込められた風船だった。

 浮揚ガス生成菌の培養はまだ成功してはいない。病気の竜種から抜いたガスを詰め直したものだ。起重機を浮かせるほどの浮力は生まないが、荷馬車の牽引速度をいくらも上げる程度は重量を軽減したそうだ

 だがティルナバンに到着したとき、風船は六割近くまで萎んでいた。飛行船が完成するまでにはまだまだ時間が掛かりそうだ。

「あら、いらっしゃい。ちょっと待ってね」

 アーニェは飛び込んできた二人に軽く微笑み、焦る二人などお構いなしに先客に向き直った。

 その探索者はそれなりに歳のいった探索者だった。

 外見的には四十代の半ばぐらい、魔精の保若効果を考えれば五十代に届くかもしれない。背筋は伸びているが、背は高くもなく低くもなく、身体付きは歴戦の戦士というよりは少しふっくらとしていて肉屋の親父のような風情があった。

 ちらりと二人を見て、見てはいけないものを見たかのように視線をアーニェに戻した。

 ランタンは、早く終われ早く終われ早く終われ、と中年探索者の背中を睨みつけており、リリオンはトイレを我慢するかのように足をばたばた動かしている。

「蜘蛛の糸も安泰だな、若くて太い客を捕まえて。俺もそろそろ引退かなあ」

 世間話なんかしてんなよ、と思うが、それは八つ当たりだった。

 アーニェの作業中に少し口を挟んでいるだけであるし、この程度の世間話程度で仕事の手が止まるアーニェではなかった。六本腕は伊達ではないのだ。

「リリオン、じたばたしない」

「うう、だってえ」

「……どうせ今日中は無理なんだから」

「ううう」

 リリオンはがっくりと肩を落として俯いた。服の裾を掴んで、ぎゅうと絞っている。そうでもしていないとまた暴れ出してしまうのかもしれない。

 ランタンはリリオンを宥めようと、腰をぽんぽんと叩く。

「ほらもう終わるから。もうすぐ済むから」

 リリオンを宥めながらも、その言葉は先客の背中に投げかけていることは明白だった。

 アーニェが書類に判子を押し、男に手渡した。

「じゃあ、よろしく頼むよ。アーニェちゃん」

「ええまた」

 ようやく終わった。ランタンがそう思って視線を上げると、中年探索者と目があった。アーニェちゃんと呼ぶからには、蜘蛛の糸の古馴染みなのだろう。そして引き上げ屋の古馴染みならば、やはりそれなりの探索者なのだ。

 だが男からはそんな雰囲気は、微塵も感じなかった。やはり肉屋の親父だ。腰に吊った肉厚の短剣が肉切り包丁に見える。

「待たせて悪かったな」

「いえこちらこそ、急かしたみたいで」

「ははは」

 みたいもなにも急かしたのだが、その自覚があって嘯くランタンに男は乾いた笑いを漏らした。

「まったくランタンくん。ランタンくんがそんな顔してたら、うちにお客さんこなくなっちゃうわ」

「すみません。でもあの人なら大丈夫でしょう?」

「あら、どうしてそう思うの?」

「アーニェさんが、ちゃん付けで呼ばせるような仲の人とは、そう簡単には切れないんじゃないですか?」

 なるほどね、とアーニェは腕を組んだ。それが制服というわけでもあるまい、いつもの通り胸元のざっくりと開いたアーニェの服は今のランタンには目に毒だった。

「じゃあ、二人にもちゃん付けで呼んでもらおうかしら」

「アーニェちゃん」

 リリオンに呼ばれて、アーニェは朗らかに微笑んだ。

 そんな前例があろうとも、ランタンは冗談でもそんな風に呼べない。男と女では気安さが違うのだろうか。凄い度胸だな、とランタンは思う。

 だがリリオンは自らの発した言葉がどうにもしっくりこないようで、首を傾げた。

「ふふ、ランタンくんは呼んでくれないのね。それなら、お母さんって呼んでくれてもいいのよ」

「……何言ってんですか」

 ランタンは思わず後退った。アーニェの唇が三日月を描き、危うい気配を醸し出していた。

 どこまでミシャは話したのだろう。

 リリオンを挟んで一緒に寝たことはまだいい。フーゴに連れ去られて助けられた話もいいだろう。だが一緒に風呂に入ったとか、裸のまま同衾したとかいう話は非常に気まずい。

「ミシャと何かあったんでしょう。なのにあの子ったら、お土産話はしてくれても肝心なことは教えてくれないんだもの」

 ランタンはほっとした。きっと裸の付き合いは肝心なことだ。アーニェにそれは知られていない。

 だが語らずとも親に異変は伝わるものなのだ。ランタンはその事に感心とともに怖じ気づいた。今の邪な自分としては、親がいなくてよかった、とさえ思う。

「あの子ったら帰ってくるなりその足で縁談をお断りに行ったのよ。あははは、わかりやすいったらないわね。ねえ、どうなの。リリオンちゃんは知ってる?」

 ランタンはリリオンの口を塞いだ。

 何かを言いたげに掌に、むにむにと唇が動く感触が伝わってきた。

「あら、私に聞かせられないようなこと、うちの娘にしたの?」

 ランタンはアーニェに愛想笑いを浮かべながら、それでも何かを語ろうとする少女を黙らせるべくそちらに視線を向けた。

 そこには口どころか鼻まで塞がれて顔を真っ赤にしているリリオンがいた。

 ぱっと手を離すとリリオンは、ひゅるるる、と大きく息を吸って何度も深呼吸をした。真っ赤になった顔が、ほんのりとした桃色に薄まる。

「失礼」

「失礼、――じゃないでしょ! もう、ランタンっ」

 ぽかぽか叩いてくる小さな拳をいなし、ランタンは強引に本題に入った。エーリカに渡された書類をアーニェに渡す。

「できるだけ早く、予約をお願いしたいのですけど」

 ミシャは新しい起重機での初仕事は、ランタンを客にしたいと言って譲らなかった。つまりランタンが探索をしなければ、せっかくの起重機が車庫で埃を被ってしまう。予約を急ぐのはランタンの都合ばかりではなく、ミシャのためでもあるのだ。

 そういう言い訳ができるのは、ランタンにとってありがたいことだ。

「あら、高難易度迷宮なのね。水棲系、珍しいわね――船は下ろさなくていいの?」

「浅瀬って言うか、干潟みたいになっているそうですから。深部はどうかわからないけど」

「ああ、そうなの。大変な迷宮ねえ。それで、できるだけ早くって言うのはどれぐらい早くがいいの?」

「一時間後でも、十二時間後でも、明日でも。早ければ早い方がいいです。最初は様子見なので日帰りで、一日空けてから本格的な――」

 リリオンは様子見の探索を嫌がった。その分だけランタンとキスをするのが遅れると。

 もちろんランタンも焦れているし、急いでいる。だがこの焦りに身を委ねては、そもそもの目的である攻略すら難しくなる。迷宮探索に焦りは禁物だ。遠回りこそ、攻略の近道である場合もある。

 なにせ相手は高難易度迷宮であり、ランタンも探索経験のない水棲系迷宮である。出現する魔物の雰囲気も押さえておきたいし、何日かも迷宮に籠もりっきりになるので迷宮の環境も知っておきたい。

 水域に挑むための用意はしていくが、実地でしかわからないこともきっと多いだろう。

「二回、三回、二回、三回……、うーん、三回分の予約をお願いします」

「はいはい、ランタンくんなら何回分の追加予約でも承るわよ」

 可能ならば二度目の探索で攻略してしまいたいが、ランタンは悩んだ挙げ句に三回分の予約を入れた。

 久し振りの二人での探索だ。今まで一緒に探索をした面子を考えれば、戦力的には半分かそれ以下である。荷物持ちも自分でしなければならないし、慎重を期すに越したことはない。

 リリオンは少し不満気にしていたが。

 頭でわかっていても、納得がいかないのだろう。自分を求める気持ちがそれだけ大きいなのだと思うと嬉しくもある。

「あと探索中に商工ギルドが採掘に入りますので」

「そうみたいね。後援者がいるのはいいことだわ。ランタンくんならその心配はないけど、取りっぱぐれがないもの」

「ええ、こちらがその予定表です。僕らは勝手に探索をして、彼らは勝手に採掘をするという感じですが」

 だがランタンたちと、採掘者たちの降下、引き上げの時間が被っては不便である。

 基本的には探索者優先だが、迷宮口のある区画に二台も三台も起重機があっては邪魔である。

 無限軌道(キャタピラ)のおかげで小回りは利くが、そもそも車体が大きくてすれ違うのにも一苦労しているのを特区ではよく見かける。

「なるほどね、わかったわ。商工ギルドとの調整はこちらでやっておくわね」

 アーニェは書類に書き込みと判子を押してランタンに渡した。

「でも本当にいいの?」

「なにがですか?」

「お金のことよ。起重機をもらっておいて、その上、代金まで頂戴するのは何だか心苦しいわ」

 アーニェは頬に手を当てて困ったような顔をした。悩ましい顔は色っぽい。そんじょそこらの男ならば、思わずアーニェの言うことを聞いてしまうだろう。彼女が複眼であろうとも、六つの腕を持とうとも。

「――じゃあ親孝行だと思っておいてください」

「あら。あらあらあら」

 ちょっと恥ずかしげにランタンが言うと、アーニェは口元に手を当てて、目を丸くした。

 そしてランタンの気配を察知したのか、車庫から駆けてきた娘に言うのだった。

「ミシャ、遅かったじゃない。お婿さんが来てるわよ」

「ななななな、何言ってるのよお母さんっ! じゃないオーナー!」

 ミシャの顔が真っ赤に染まると、黒々とした油汚れが刺青のように浮き上がった。

「あ、ミシャだ。明日探索するから、よろしくね」

「へえ? あ、はい、ランタンくん、さん、え?」

 このまま整備に戻ったら、起重機を故障させそうだなと思う。




 すぐ地下に降りるので天気などこれっぽっちも関係ないが、なんにせよ家を出るときに晴れているのは気持ちがいい。

「探索日和だなあ」

「うん、お日さまが温かいね」

 時刻は朝の六時半。色の薄い空には雲一つない。空気が澄んでいた。

 冬なので太陽は温かいと言うほどではないとランタンは思うのだが、リリオンは頭一つ分以上太陽に近いためかそのようなことを言った。

 ランタンとリリオンは揃って背中の筋を伸ばした。欠伸が出る。

「二人とも体調は大丈夫っすか? 眠そうですけど」

「久し振りのまともな探索だからね。ちょっと寝付けなかった」

 寝付けなかったのは本当だが、その理由は悶々としたからだった。

 どうせ今日の探索では攻略には至らないのだ。キスはしばらくお預けで、そのくせランタンとリリオンは同じベッドを使って眠るのである。意識しない方が無理というものだった。

 ミシャと額をくっつけるみたいにして秒数まできっかりと時計を合わせるのだって、ちょっと意識をしてしまう。

「なんっすか、ランタンさん」

「その偽敬語、やっぱり止めないんだね」

「敬語使えって言ったのはランタンさんじゃないっすか」

 駆け出しの探索者だった頃のランタンは見窄らしく、その分だけ幼かった。その所為か、ミシャはランタンに対して子供に話しかけるみたいな口調で話しかけ、何だかんだで鼻っ柱の強いランタンはそれを嫌がったのだった。

 迷宮を攻略して帰ってきたら、他の探索者と同じように接して、と。

 今思えばそれは明確な攻略のモチベーションだった。あの時の自分は確かに子供だった。だからこそ子供扱いが我慢ならなかったのだろう。子供とは弱者であり、ランタンは弱者ではいられなかった。

「なんか、もういいかなって」

「もうよくないっすよ。仕事中にランタンくんなんて言ってたら、私はダメになっちゃう。そう思わない、リリオンちゃん?」

「んー、そうかも」

「……よくわかんないんだけど、悪口? 僕がダメ男とかそう言うこと?」

 ランタンが首を傾げると、二人揃って首を振った。

「それだけ頼りになるってことっすよ。よし、じゃあお迎えは十二時間後に」

 くっつけるみたいなだけでくっついていなかった額を、ミシャはこつんと触れさせて一歩退いた。

 新品の起重機はぴかぴかしている。原動機(エンジン)の唸りは、少し高めの音だ。

「前と音が違うな」

「大丈夫っすよ。昨日はあれから触ってませんから」

「そりゃ安心だ」

「お母――、オーナーが変なこと言うから。ランタンさんにも変なこと言ったんですか?」

「言ってない、と思うけど。ちなみに変なことってなに?」

「ランタンさんが思ってるのと同じっすよ」

 降下開始は七時丁度で、それまでランタンとリリオンは柔軟体操をし、ミシャは動き回る二人をワイヤーで籠に結びつけた。

「大人しくしてください。初仕事っすよ、ああ緊張するな」

「僕らはもう二回も乗ったよ。花摘んできたでしょ」

「あれは勘定に入りません。お金ももらってないっすから」

 ひらりと起重機に飛び乗ったミシャはぐるりと首を回して、指を絡めた両手を、掌を外に向け前に伸ばした。そしてそのまま頭上へとゆっくりと持ち上げる。肩が柔らかい。そのままぐるんと背中に回ってしまうのではないかと思われた。

 やっぱり着やせして見えるな、とランタンはミシャの胸を見て思う。

 ミシャは指を解き、頬を張った。

「うわ、本当に緊張している」

 珍しいものを見たな、とランタンがこそこそとリリオンに耳打ちをする。すると、リリオンはその言葉を正確に拡大した。

「ミシャさんなら大丈夫、信じてるわ!」

 操縦席のミシャが頷いた。

「では行きます。降下開始!」

 いつも通りの滑らかな滑り出し。起重機が新しい分だけ、雑音が少ない。

 一体何の緊張をしていたのやら、とランタンは白い霧の中で笑った。

「ねえ、水の音が聞こえるわ」

「波打ってるっぽいな」

 魔精の霧の中にまで、迷宮の水気が上がってきていた。陽光の届かぬ、迷宮特有の冷たさだ。

 ほどなく迷宮口直下に辿り着いた。ランタンたちの乗る籠の、その裏側には下駄が履かせてある。ミシャは水底ぴったりで巻き上げ機を停止させた。

 あらかじめ用意しておいた光源に光を入れると、まるで自分が水面に立っているかのようだった。

 ランタンは光源を水面に(ほう)った。光源は浮かび、漂い、辺りを照らしている。

「さすがミシャ」

 足場の鉄板と水面の高さがほとんど同じだった。二人は腰を下ろし気付け薬を飲み、ぼんやりと水の音を聞いていた。迷宮は濡れている。しばらくは座ることもできない。

「わ、浅いよ。これなら大丈夫ね」

「透明度が高いからそう感じるだけかもよ」

 とは言え聞いた話では浅瀬である。リリオンが水面を撫でるように、指先を沈めた。

「冷たい。けどお外の風の方が冷たいわ」

「ふうん、そんなものか。さて、だらだらしてミシャの心配をさせるのもなんだし、行きますか」

 ベルトに引っ掛けられたフックを外し、ランタンは籠から足を踏み出した。

 完全防水の戦闘靴は水も、その冷気も染みさせなかった。ただ水の抵抗だけはありありと感じさせる。

 これは予想よりも大変かもしれない、と思う。

 水深は掌一枚分ほどの深さしかない。だが砂に足が埋まって、足首程までを水につけることになった。砂の下にあるのは砂礫層だろうか。不安定な足場だ。

「転ばないでよ、リリオン」

「大丈夫よ」

 歩き出すとすぐに水を蹴る重さと、砂から足を抜く重さが、筋肉に絡みつく呪いのように感じられた。波は一定間隔で寄せては返し穏やかだったが。ふとした瞬間に足をすくわれそうな気がする。

 蹴り立てた波が浮かべた光源を前に押し進め、迷宮の先を照らした。

「あ、手が黒くなっちゃった」

 リリオンが壁に手を突いて、うんざりしたように言った。

 石炭が採掘できる迷宮である。それは石炭が埋蔵していると言うことではなかった。迷宮は石炭によって作られているのだ。

 壁一面が光を反射して黒光りしており、高原が波に揺れるのに合わせて、壁も波打っているかのように輝いた。黒いダイヤ、という言葉が頭の奥底から浮かび上がった。

 これほどの規模なら相当量の石炭を採掘できるだろう。だが迷宮での採掘は、地上でのそれとは勝手が違う。

 一つは時間制限があるということ。迷宮を攻略するにしろ、しないにしろ迷宮は時間によってやがて崩壊するため採掘は時間との勝負となる。

 一つは一定量以上の採掘ができないこと。あまりにも迷宮に手を加えると、時間の経過と関係なく迷宮は崩壊する。

 この崩壊にも規則があり、例えば魔物の出現しない迷宮口直下などの一カ所で大量の石炭を採掘するよりも、迷宮全体から少しずつ集め同量の石炭を採掘した方が、迷宮崩壊の危険性は大幅に少なくなることが確認されている。

 そのためランタンたち探索者が駆り出されるのである。

「見てる分には綺麗だけど、どう、落ちそう?」

「石鹸がないと……だめかも」

 腰を屈めて手を洗うリリオンは髪をまとめている。細い三つ編みを二本作り、毛先をくるりと巻いて耳元で丸め、まるで捻りパンをイヤリングにしているみたいだった。

 濡れないようにする工夫は幾つもしていた。ズボンはぴったりとしたものを穿き、背嚢は背中に密着させ、外套は着てこなかった。

「あーあ」

「ほら、気をつけな。お尻濡れるよ」

「お尻はぬれてもかわくもん」

「お漏らしみたいで格好悪いよ。それにどうせ探索すれば汚れるんだから」

 少し歩くだけで身体が熱を持つので水域特有の冷たさはむしろ心地良かった。

 迷宮の奥から風が吹くためだろうか、じめっとした感じもない。腰を屈めたリリオンに手を伸ばす。

 手を掴んできた指先が冷たく湿っている。水には溶けぬ黒い汚れが、容易にランタンの手の甲に跡を残した。

「ほらね」

「あ、ごめんなさい」

「いいよ。もしリリオンの偽物が現れたら、指とこれを合わせれば本物かわかるし」

 リリオンは頬を膨らませたかと思うと、ランタンの手の甲、黒い指跡に唇を合わせた。貴婦人に礼をする騎士のように。かと思えばじゃれる子猫のように、舌先が汚れを舐め取った。

 そんなことしなくてもわかってよ、と言われたようだった。




 光の届くぎりぎりの所で、白波が立った。歩き詰めで二時間ぐらい経ったところだ。探索者ギルドの先遣偵察隊が後退を決めたか場所よりも、かなり手前だった。

 偵察隊は魔物を発見すると交戦せずに退却する。

「リリ、後退。抜刀」

 きっと魔物は偵察隊を追って前進したのだろう。

 ランタンは戦鎚を手にリリオンと一緒に後退した。水面に光源を置き去りにして、十歩も下がる。白波が、形を崩さず前進してくる。

「進行速度が違う、二種類」

 白波が二つに分かれた。遅いのと速いの。

 遅い方は大きく泡立っている。一つの大きな生き物か、何匹かの魔物が一塊になっているように思える。

 早い方は細かく泡立っている。波形は菱形に近く、崩壊と復元を繰り返している。波の中で魔物が抜きつ抜かれつと泳いでいるのだ。

剣頭魚(ダガーフィッシュ)

 短剣ほどの大きさの銀色の魚が、身体をくねらせ水面を白く染めながら突っ込んでくる。水深が足らないので腹を砂に擦っており、水音の中にきりきりと妙な音が混じっている。

 剣頭の名が示すように頭部は左右から潰されたように平べったい。口は腹際にあり真っ正面から見ると片刃の剣にしか見えず、その切れ味は生半な剣よりも鋭い。

 獲物を見つけると群で襲いかかり、小さな口でも食べられるように獲物を細切れにする。

 元々の名前はスローイングダガーフィッシュと呼ぶ。だが長すぎて誰もそう呼ばなくなり、ダガーフィッシュと呼ばれるようになった。

 つまり剣頭魚は飛ぶのである。

 水面を跳ねた。水底に潜む怪人が短剣を投擲したかのように鋭く、真っ直ぐに襲いかかってくる。光源を追い越し、逆光に水の粒がきらきらしていた。

 剣頭魚の鱗に黒光りする壁が反射している。

 ランタンは一歩大股に踏み込み、身体を低くした。飛び掛かる剣頭魚の群の腹下に潜り、水を逆巻いて戦鎚を振り上げる。巨大魚の内臓を抜くかのように群中に戦鎚を差し込み、そしてその先端がかっと光を放った。

 発生した衝撃に足元に寄る波が打ち消され、引き千切れた剣頭魚が天井近くまで撥ね上げられた。

「――ふっ」

 銀刀が忙しない剣頭魚とは正反対に、大魚のように悠然と翻った。爆風を生き延び、だが爆風に煽られて勢いを失った残りを空中で切り裂いた。

 むわりと生臭さが鼻を突く。ぼとぼとと切り身が水面に飛沫を上げて、あたりは色水のように青く染まり、砕けながらも結晶化した魔精結晶の青い光が水底を照らしていた。

「ふんっ!」

 ランタンは肩幅以上に足を開いたまま腰を落とし、体重を足元に伝えた。

 震脚。

 砂地に衝撃を掠め取られたが、それでも震動が水中を伝って飛び掛かる寸前の頭魚数匹を失神させた。

 ぷかりと横様になって浮かぶ剣頭魚は見れば見るほど薄い魚だった。食べられる部分はほとんどないだろう。骨と鱗だけでできているかのような、魚と言うよりは昆虫を思わせる。

 止めをリリオンに任せて、ランタンは水を蹴り、狩猟刀を抜いた。

 剣頭魚の群さえ乗りこなした光源が、遅れて打ち寄せる波に弄ばれていた。白波の上に光源が担がれている。そして刻一刻と確実に接近してきていた。

 耳を突く波の音。そして足音。

 ランタンは駆け、壁を蹴って波を飛び越えた。光源を背に乗せているのは蟹の群だ。

 通り過ぎ様に光源を鶴嘴に引っ掛け、壁に突き刺した狩猟刀の柄にぶら下げた。

 白波を作り出している蟹は不思議な形をしていた。定規で線を引いたように角張っている。四角、五角、六角、七角。様々な多角形の甲羅をした蟹が、鋏を打ち鳴らしながら横歩きしているのだ。

 十六匹。

 四角四面に整列しているのが何だかおかしい。だがその鋏の威力は笑い事ではないだろう。

 片腕に備えているのは鉈を合わせたような四角い鋏だ。斬ると言うよりは、押し潰すという感じだろう。

 甲羅は洗濯桶ほどの大きさであり、茶と紫の中間色をして頑強そうだ。素材は盾や鎧になるだろう。

「ランタン、お願い――っ!」

 銀刀と竜牙刀の二本を構えたリリオンは、雨乞いする蛮族のように両の剣を振り上げ、身体を弓形に反らした。頭部が危うく水面に付きそうな程に。

 つまり視線は天井にある。ランタンは着水し、挟撃のために歩を進めながら怒鳴る。

「さん、に、いち、――今!」

 合図によってリリオンは絡繰り人形のように二刀を振り下ろした。

 銀刀は水面を切り裂き、竜牙刀は水面を叩き割った。どばん、と音を立てて水柱が上がり水底が露わになって、角蟹が両断される。

「払えっ!」

 普通の蟹でも手脚が取れるぐらいなら動き回る。魔物の蟹は両断されてなお、リリオンの足首を狙った。

 二刀は刀身の半ばまで砂に埋まっている。水の重さ、濡れた砂の重さ。それは払えと命じられて払える重さではあるまい。

「ええい、やあっ!」

 だがリリオンは引き抜くところか、砂を掘り返すようにして切り払った。二刀を腕の延長のように使い、砂と水と十五匹の蟹を攪拌した。生が失われ、魔精が結晶化する。だが結晶は砂礫よりも細かくなって、拾い集めることはできない。

「まあ、……迷宮核狙いって探索班もあるけどね」

 ランタンが呟くとリリオンが、あれ、と声を上げた。

「ランタン、それ」

 竜牙刀を納めて、指をさす。角蟹が一匹生き延びていた。

「蟹って結構好きなんだよね」

「ペットにするの?」

「まさか。昼飯にするの」

 一匹の角蟹がひっくり返されてランタンに踏み付けられていた。無力にも藻掻いている。鋏がじゃきんじゃきんと音を立てているが、戦鎚に押さえつけられランタンには届かなかった。

「鋏だけでもずいぶん食いでがありそうだよ。ねえ、締め方知らない?」

 リリオンはこれで結構料理が得意だ。獣も捌けるし、魚も捌ける。きっと蟹だって捌けるだろう。

 リリオンは、えっとね、と自信なさげに呟き、躊躇いなくぶくぶくと泡を吐く角蟹の口に銀刀の鋒を突き入れた。

「で、こう」

 ぐり、と捻った。調子の悪い鍵を開けるみたいにぐりぐりと。

「うわ残酷――て、ああっ!」

 リリオンの締め方は正解だった。

 ランタンの一番食べたかった大きな蟹の鋏が結晶化した。


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