017 迷宮
017
その瞬間、空間がずれる。
太く長い腕のその先には巨大な手があり、そこから鋭い鉤爪が五つ伸びている。それが綴じ、重ねられた。その先端はまるで剃刀のように鋭い。
遠く、距離があった。熊がどれだけ腕を伸ばそうとも絶対的に埋めることのできない距離だ。だがそれは決して安全な距離ではない、と産毛が総毛立った。
天井に高く響く遠吠えがまだ反響している。
極限まで反らされた熊の腕が、まるで自らを抱きしめるかのように振るわれた。巨大な三日月を描いた爪の軌跡から、空気の刃が波紋のように広がり大気を断ち切りながら疾走った。
「リリオンっ!」
空気の刃は声よりも速く疾走ったが、叫ばずにはいられなかった。ランタンは地面に飛び込むように刃を躱し、前転して立ち上がると加速しながら走り出した。首の後が涼しい。幾ばくかの後ろ髪と外套の頭巾が切り裂かれた。
舌打ちを漏らす暇もなければ、安堵に胸を撫で下ろす暇もない。
それはそこそこ高価な外套を台無しにされた苛立ちでも、首が繋がっていることへの安心でもない。視界の奥でリリオンがどうにか空気の刃を防いだのだ。それは偶然といってもいい、盾を前に突き出すリリオンの基本の構えに斬撃が散らされたのだ。
だが衝撃をモロに食らってしまっている。リリオンは盾を跳ね上げられて、体勢を崩した。リリオンまでの距離が遠い。再び熊が空気の刃を巻き起こしたらリリオンの身体が切断されてしまう。ここからではランタンが守ることもできない。
熊の身体に巻きついた腕が、時間が遡るように解かれた。
「らァっ!」
かと思われた瞬間、ランタンが尋常ならざる加速で飛びかかると熊の腕に戦鎚を叩きつけた。ランタンの瞳孔が揺らめく橙の光を灯し、それを取り囲む白目は毛細血管が破れて薄紅に染まっている。
熊の腕に纏わり付く風が霧散して、形を成さずに消えた。ランタンは打撃の反動で飛び、リリオンへの射線を遮るように立ちはだかった。足元で地面が焦げ付き、ランタンは深く腰を沈めて戦鎚を構える。
風の一筋も通しはしない。ランタンは戦鎚で地面を砕くと、それがまるで挑発行為と受け取ったのか熊が吠え腕を振るった。空気の刃が飛ぶ。
見える。
砂埃を裂いて、空気の刃はその姿がありありと浮かび上がらせた。
まず一つ。ランタンは戦鎚を振り上げて刃を砕く。初撃ほどの圧力は感じない。爆ぜた刃がまるで割れた硝子のように外套を撫でたが、ほぼ無傷だ。外套は直撃には耐えられなかったが、ようやく価格分の防刃退魔の性能を発揮してくれた。
ついで二つ。右の腕によって作り出された空気の刃は、ほんの僅か一つ目よりも更に弱い。脇腹の怪我のせいだろうか。ランタンは振り下ろした戦鎚に触れた衝撃の手応えに、一瞬だけ気を緩めた。
その気の緩みの間隙を縫って三つ目の刃が飛んできた。予想以上に回転率が速い。ランタンは手首を返して戦鎚を引き寄せるように立て、刃を受け止めた。割れた刃が戦闘服を浅く裂き、左の二の腕の皮膚が切れた。服に血が滲む。
探索者にとっては怪我のうちにも入らないような怪我だ。痛みは軽く無視できる。だがランタンは舌打ちを一つ吐き出して、四つ目の刃をどうにか潰し同時に駆けた。
固定砲台と化している熊相手にこのまま迎撃だけをしていても、いずれ破綻が来る。熊は左右の腕を振り回し、次々と空気の刃を飛ばしていた。遠距離攻撃能力のないランタンでは、この場所にいてもそれを打破するすべがない。
五つ目の刃をランタンは避けた。縦に放たれたそれは狙いが自分に向いていて、外れた刃の行き先はリリオンでは無く地面である。ばちん、と大地の裂ける音が響く。そしてもう一つ、熊が右腕を振った。砂埃の盾を抜けてしまった。ランタンは立ち止まり、爪の角度から予測をつけて戦鎚を振った。
「――なっ?」
しかし予想していた手応えがない。いや、それどころか、ならば何故、身体に叩きつけられる斬撃も無いのか。騙された。ランタンが戸惑い、槌頭の重みに泳いだ身体を切り返そうと身を固めたその瞬間、熊が本命の一撃を放っていた。
見えはしない。だが確かにそこにある。それは圧縮された空気か、それとも大気圧によって生まれた真空か。なんにせよランタンの肉を裂かんとする見えざる刃がそこにあるのだ。防御も回避も間に合わない。
腕一本で、止まるだろうか。残った腕で、殺せるだろうか。
ランタンが刹那の間に思考した結果を、行動として吐き出そうとした。
「――ランタンっ!!」
ランタンの頭上を通して、どがん、と地面に打ち込むようにして固定された盾の表面で空気の刃が弾けて砕けた。びりりと痺れる音が大気を揺らす。リリオンによってランタンは盾の内側に抱かれた。空気が抜けるように、息を吐きだす。
再び巻き起こった砂煙を裂いて空気の刃が続けて飛来したが、その全てが盾によって遮られた。ランタンが振り返るとリリオンは表情も硬く瞳を震わせた。
「ランタン、血が……!」
「へーき。リリオン助かったよ」
血が袖に染みとなって黒く変色しているが、その下の皮膚はもうすでに傷口の再生が始まっている。この程度の傷ならば問題ないが、さすがに腕を切断されたら厄介だった。この場では腕を繋げるすべはないし、魔道ギルドに依頼すれば切断された腕を繋げることや、あるいは失った腕を再生させることも可能らしいが、どれほどの金がかかるかは想像もできない。ただこの熊を倒し、血の一滴も残さず全てを売りさばいたとしても赤字になることだけは確かだった。
だが治療代にもならないからと言ってこの熊、――嵐熊の脅威が減じるわけではない。
恐るべき巨体とそれに見合った膂力と重さを感じさせない速度。急所を守る硬質な皮膚と、肉の鎧。それだけでも厄介であるのに、この風だ。
ランタンはそっと盾の脇から顔を出した。
「危ないわ、ランタン!」
「リリオンが守ってくれるんなら安心だよ」
空気の刃が盾に弾けて、ランタンの髪を揺らした。直撃しても骨までいかなそうだ。散った風の威力は無いに等しく、とりあえずの牽制というところだろうか。防がれると判っている攻撃に力を注ぐような低能ではないようだ。つい先程、嵐熊の騙しに引っかかったランタンは皮肉げに唇を歪めた。
空気の刃は爪の先から線を引くようにして放たれている。振り回した腕の速度だけで引き起こされた現象ではない。延髄を狙ったランタンを吹き飛ばしたあの激風も、首に風を排出する機構が備わっていたということはなかった。
「魔道だね……」
嵐熊は身体に宿る魔精を以って、空気を操っているのだ。
魔道を行使する魔物というものは珍しくなく、またそれを行使する最終目標ともランタンは今までに二度ほど戦ったことがある。だがその二度のどちらもが魔道を通常攻撃の手段とする魔物だった。このように出し惜しみを、いや策を弄する魔物は初めてだ。
ふん、とランタンは鼻を鳴らした。
空気の刃。それと全身から放出する激風。嵐熊の切った手札はこの二つ。鬼札をまだ見せていないかもしれないが、余計な想像をして攻め手を緩めるのはランタンの趣味ではない。
「リリオンはとりあえず防御優先。いいね」
「――ランタンは?」
連続して放たれた空気の刃が止んだ。疲労しているわけではなく、ただ盾の内側に隠れている限りは無意味だと気がついただけだろう。一歩盾の外に出れば、また攻撃が再開されるだろう。だがランタンは盾の外側へ飛び出した。
「攻めに決まってる!」
獣如きに騙される自分が嫌になる。だが騙される奴よりも、騙したほうが絶対に悪い。
ランタンの瞳が苛立ちを表すように焦茶から橙に、またその逆へ波に反射する光のように色を変えた。
爆発的加速によって熊との距離を一瞬で半分以上消し去る。向かってくるランタンに嵐熊の爪が空を薙ぎ、ランタンはその射線を沈むように躱した。騙しかもしれないし、そうでないかもしれない。だが無いものを受け止めようとするから戸惑うのであって、全てを避けてしまえば問題はない。続く二つ目を飛び越えれば、もうすぐそこだ。
ランタンは振り下ろされた鉤爪を戦鎚に滑らせるように受け流し、返す刀で傷になっている脇腹を打った。しかし嵐熊は怯むこともせず、ラリアットのように腕を薙いだ。
「ちっ」
傷口はもう治癒していた。だがこの距離ならば空気の刃は関係ない。髪を揺らしたのはただの風圧で、魔道の風ではない。ランタンはそう自分に言い聞かせ、振り下ろされる斧のような一撃を紙一重で避け嵐熊の肘に槌頭を叩きつけた。硬い。肉の薄い肘ならばと思ったが、骨がまるで鉄骨のようだ。関節を砕くどころか挫くこともかなわない。
嵐熊が再び腕を薙ぎ、しかしそれはランタンの頭上を越した。狙いはリリオンだ。
見えざる力によってランタンは自分の首が後ろにねじ曲げられる錯覚をした。だがそれを意志の力でねじ伏せ、がら空きになった胴へと狙いを定めた。リリオンならば、たぶん大丈夫だ。せっかくできた隙を逃す手はない。
踏み込み、地面が砕ける。足先から腿を這い上がる運動エネルギーが腰を回転させ、ランタンの腕を鞭のように撓らせた。槌頭が切り取られるように姿を消し、胴に激突した瞬間に嵐熊がくの字に折れ曲がり後退った。青い血に唾液が混ざり、粘着きながら口腔から滴り落ちる。
「はぁぁ!」
甲高いリリオンの気合が背後から響き、かと思うとランタンの頭上を大剣が風切り音を立てて横切った。どいつもこいつも人の頭上で、とランタンは鼻頭に皺を寄せた。防御優先と言ったのに攻めたがりめ。ランタンは牙を剥くように笑った。
どう、と大木の如き左の二の腕にリリオンの大剣が食い込む。皮を裂き、脂肪を貫き、筋肉を切断し、骨の半ばまでに埋まる。そこで止まった。ぎりり、と鋒が震えた。
「押せっ!」
それは声ではなく、ただの思念だったのかもしれない。だがリリオンはランタンの言う通りにした。
ランタンは滑りこむように位置を変えると、大剣に戦鎚を叩きつけた。リリオンの大剣は両刃なので歪に刃が潰れる。あとでグランに物凄く叱られるだろうが、嵐熊の腕と引き換えなのだからそれぐらいの面倒を対価として払うことは吝かではない。
生木の割れるような音を立てて、嵐熊の左腕が押し切られた。濃く青い血が溢れる。
「――――」
ランタンの瞳が見開かれ、血の流れを追った。
嵐熊の肩から連なる半ばまでの二の腕。そこから溢れ出した血の流れがまっすぐ地面に落ちずに、歪んでいる。
「――リリィっ!」
かっとランタンの瞳に火が入ると同時に、嵐熊は全身から激風を放射した。
どうやらこの激風は緊急避難的な物のようだ。肉体にダメージが入り危機的状況に陥ってからではないと発動しないのだ。技ではなくて本能。放射の直前に、一度周囲の空気を引き寄せる予備動作がある。背後でリリオンがずるずると後退して、靴底が地面を削る音が聞こえた。予備動作といっても一瞬のこと。リリオンは致命的な一撃を放つために攻撃に力を注いでいた。踏ん張れなくとも仕方ない。
ランタンは前後に足を大きく開き、鶴嘴を地面に突き刺してその風に耐えていた。しかし薄く開いて周囲を確かめる瞳に、嫌なものが映った。黒青く、太く、きっとまだ生暖かい。
狙ってやったわけではないだろうが、切断された嵐熊の腕が吹き飛んで向かってきていた。戦鎚は地面に縫い付けてある。引き抜けば風に煽られて吹き飛び、すでに加速している腕に追いつかれない保証もない。この風では横に避ける事も難しい。
タイミングは一瞬。
ランタンは砂埃が目に入るのも厭わず瞼を広げ、左腕を前に突き出した。指先に嵐熊の腕が触れるその刹那、ランタンは硬く目を閉じた。瞼を透かして閃光が瞳を灼き、嵐熊の腕を一瞬で灰に変えた。切断され魔精の抜けた腕など爆発を持ってすれば枯木も同然だ。熱風に乗って硫黄に似た臭いが顔に触れ、灰となって髪に付着する。吐きそうだ。
嵐熊の腕は、それだけで百キロ以上はあった。魔精が抜けようとも軽くなるわけではない。重さというのはそれだけで暴力だ。ランタンは折れた中指と薬指の痛みに顔をしかめた。骨接ぎをしている余裕は無い。
嵐熊の全身は怒気と呼応するような激しい風に覆われて、腕の切り口からの血も止まっている。
激風が止み、一瞬の空白がある。激風は強力だがその分だけ燃費が悪そうだ。しかしあの巨躯には、まだどれほどの燃料が残っているだろうか。
嵐熊が三肢で地面を蹴った。速い。風の鎧によって空気抵抗を減らしているのか。ランタンが無理やり手を握りこんで戦鎚を構え、突進を受け止めた。はずだった。
「なっ!?」
踏ん張っていた足が浮いた。嵐熊の身体に纏わり付く荒れ狂う風がランタンを持ち上げたのだ。浮いた所に右の腕が叩きこまれる。鉤爪は近すぎて当たらない。前腕が胴を吹き飛ばすように薙ぎ払われた。
防御も回避も間に合わない。
その瞬間、ランタンの腹筋が反応装甲のように爆発した。直撃した衝撃を緩和し、ランタンの胴を繋いだ。だが内臓は圧迫され、肋骨が幾つか割れた。迫り上がった横隔膜が肺腑の空気入を残らず押し出し、血も吐き出された。
「ひぎぃっ――ぐ――う゛ぇっ」
吹き飛びながら、呼吸を引き攣らせる。手から戦鎚が零れ落ちた。追い打ちに空気の刃が放たれ迫ってくる。単発なのがせめてもの救いか。震える手がそちらに伸び、受け止めようとした。
「ランタンっ!」
一瞬の意識の空白は、地面に叩きつけられた衝撃でも、空気の刃に切断された痛みのせいでもなく、リリオンに抱きかかえられた安堵によるものだ。ランタンは空中で受け止められ、そのまま赤ん坊のようにリリオンの胸に抱かれている。
みっともない、とそう思ったが今放り出されたらそれこそ赤ん坊のように無力だ。ランタンは涎の垂れる口を母乳を求める赤ん坊のようにぎこちなく動かして息を整えた。
汗の臭い。リリオンの甘酸っぱく湿った汗の匂いがする。直前に硫黄臭を嗅いでいたせいか、それをいい匂いだと思った。ランタンはその甘美な匂いを胸にいっぱいに詰め込むと、ついでに酸素が肺に取り込まれて、暗転しかけていた視界が開けた。
「リィ……」
リリオンはランタンを抱きかかえたまま逃げ回っていた。左の腕に盾を嵌めて、右手でランタンを抱いている。大剣が盾に収納されておらず、ランタンを抱くためにどこかに放り出されていた。
「あぁ、よかった」
「リリオン……?」
呟いた言葉がリリオンの胸に押し付けられた。リリオンが急反転する際に強くランタンを抱いたのだ。ランタンは頬でふにふに小振りな胸を押し分けて、リリオンの顔を仰ぎ見た。
解けた白い髪が舞い散る。光に透けて紫銀に光った。
リリオンの髪が、ランタンが結い三つ編みにして腰まで垂らしていた髪が背中の中ほどで断ち切られている。
「リリオン」
「わたしなら平気よ、怪我一つないわ」
「リリオン」
リリオンは応えず、その場で立ち止まるとランタンを下ろして両手で盾を支えた。嵐熊が突っ込んでくる。強烈な衝撃が盾に弾け、腕を伝い、リリオンの髪が逆立った。両足の下で地面に放射状の罅が入る。だがそれだけで、ランタンは少し鼓膜が痺れただけで完全に守られていた。
「――さっさと終わらせる。少し頼むよ」
「まかせて、――でもムチャはやぁよ」
それは無理な相談だった。ランタンは折れた指を無理やり引き伸ばして繋ぎ直し、喉の奥に張り付いた血液を吐き捨てた。
ランタンは火の付いた石炭のように煌々と燃える瞳を彷徨わせて戦鎚を探した。それを見つけるとリリオンの髪を愛おしそうに一つ撫で、盾の内側から飛び出した。嵐熊の視線がランタンの尻を追いかけたが、リリオンは乱気流をものともせずに嵐熊を押さえ込んでいる。
ランタンは戦鎚の柄を引っ掴むと、頬の裂けるような凄みのある笑みを浮かべて疾走った。
燃える瞳が流星のように尾を引いて最短距離を駆けた。
ランタンのことをカボチャ頭と誰かが呼んだ。それは橙色に燃える瞳のせいなのかもしれないし、炎のような赤い舌が覗く笑みのせいなのかもしれない。あるいは頭が空っぽのように後先考え無いその振る舞いのせいなのかもしれないが、どう呼ばれていようとランタンには関係のないことだった。
ランタンはぞっとするような速度で嵐熊に近づくと、鶴嘴を盾にしがみ付く腕に叩きつけた。乱気流にねじ込んだランタンの腕に無数の切り傷が生まれたが、しかし骨までには届かない。筋繊維が繋がっていれば充分だと言わんばかりに一瞬で赤く染まった袖を無視して、ランタンは浅く刺さった先端を力任せに押し込み、そして押し込んだ鶴嘴が爆ぜて肉を抉った。風が止む。
その好機を見逃さずリリオンが盾をかち上げて嵐熊の身体を開いた。激風は来ない。魔精が尽きたとは思えないが、来ないのならば攻めればよい。ランタンは自身の爆発で後ろに押し飛ばされる自分の身体を、無理やり前傾姿勢に持ち直した。無理な挙動に罅ですんでいた肋骨は完全に折れたが、仕方がない。
戦鎚が地面を舐める。
リリオンの髪を切り取った礼に顔面に一撃をぶち込みたいが、腕を伸ばしても背伸びしても届かない。
「そぅらっ!!」
ランタンの掬いあげるようにした鶴嘴の一撃は爆発により加速して、伸び上がった嵐熊の胴、脇のすぐ下に突き刺さった。皮と脂肪をまとめて貫き、分厚い筋肉を押し分け、しかし肋骨によって肺には届かなかった。
嵐熊が激痛に身体を振り回した。鶴嘴が筋肉によって絡め取られていて抜けない。振り回されるランタンの、柄にしがみついた掌の皮膚が丸ごと剥けそうだった。再び風が吹く。
放出されたそれは激風ではなく、強風程度だっただがランタンの握力を引き剥がすには充分だった。ランタンは皮膚のズレる既の所で自ら手を開いて、風に乗るようにして距離を取った。胴からズルリと抜けた戦鎚が嵐熊の足元に転がる。
嵐熊は弱っていたが、さすがに迷宮の主というだけあって気を抜けば膝が折れそうな重圧を放っている。迂闊に飛び込めば踏み潰されて挽き肉にされそうだ。
「わたしがっ!」
リリオンが盾を構えて走ったが、嵐熊が居合い抜きのように鋭く腕を振り上げた。空気の刃だ。地面を紙のように裂きながら、猛烈な速さでリリオンに向かって疾走る。衝突まで一秒もかからなかった。だがリリオンが垂直に立てていた盾をほんの僅か、柔らかく寝かせた。刃がその上を滑り、脇に反れた。
素晴らしい集中力だ。ランタンは一瞬だけ怒りを忘れて、その技に見惚れた。
だが腕を振り抜き、そのまま腕が振り上がった嵐熊の、その間合いにリリオンは踏み込んでいた。ランタンが地面を蹴った。地面に隕石が落ちたような深い窪みが生まれるほどの踏み込みによる飛び蹴りが熊の腕に突き刺さり、足の裏が小さく爆ぜた。
「くっ」
しかしランタンはあまりに軽い。魔精によって身体能力を強化されようとも体重ばかりはどうにもならない。ランタンの爆発は魔道ではないので魔精を必要とはしないが、対価を必要としないわけではなかった。その対価をランタンはよく理解していないが、少なくとも肝心なときに思うような爆発が起きないのは初めてだ。
嵐熊は意にも介さないようにランタンごと、そのまま腕を薙ぎ払った。鉤爪が盾に激しく打ち付けられる。その音を聞いてランタンの心臓は高なった。ランタンの稼いだ須臾にも満たない間隙に、リリオンは体勢を立て直していたのだ。しかし大きく後退した盾から覗いた表情が強張っている。ランタンも同じような顔をしているだろう。それほどギリギリだった。
ランタンはくるりと身体を切って着地すると、その表情を悟られまいと熊に向き直り、また立ち向かった。
「剣をっ!」
ランタンが叫び、リリオンが答えた。とりあえず必要な物は武器だ。無手ではどうしようもない。ランタンは艶かしく自分の身体を撫で、使えそうなものを探った。視線を嵐熊の足元に走らせる。
「僕の――」
戦鎚を踏みつけにしている。
歩き、早足になり、走った。爆発も先程はきちんと巻き起こせなかったが、きっと連発しすぎたせいだ。ランタンは自分に言い聞かせる。爆発による加速は必要ない。嵐熊の攻撃手段は突進、鉤爪、空気の刃ぐらいのものだ。身体は十全ではないが、避けられなくはないはずだ。ランタンは怒っていたが、頭の中は空洞のように冷えていた。
ランタンは嵐熊の横薙ぎを跨ぐように避けて、そして何かに引き寄せられた。空気の刃ではなく、爪の軌跡には真空が生まれていた。空間に空いた穴を埋めるように空気が流れ込み、その流れにランタンは吸い込まれたのだ。
「はっ」
ランタンは自らの首を裂くかのような動作で外套の結びを解いた。そして切り離された外套によって真空が塞がれ、呆気無く自由になったランタンは吐き捨てるように笑った。鬼札にしてはお粗末だ。ただの悪あがきでしかない。
そして巨躯に飛びかかった。もし激風がきても耐えられるように嵐熊の毛を指に巻きつけるように握りしめ、腰から狩猟刀を抜き放ち逆手に構えた。
嵐熊は己に張り付いた針虫の如きランタンを振り払おうと暴れたがランタンは吸い付くように離れなかった。毛を掴む右の腕では振り払われまいと力を入れた瞬間に傷口が開き血が溢れた。狩猟刀を握る手は折れた骨が痺れるように痛く、熱い。
すべてこいつのせいだ。
ランタンは硬く握りこんだ狩猟刀を、鶴嘴によって穿たれた傷口に叩き込んだ。一気に刀身の半ばまで埋まり、肋骨に当たったので角度を変えてその根本までねじ入れる。
嵐熊はさらに三肢をばたつかせたが、ランタンは祈るような澄んだ瞳をして平然としていた。
この狩猟刀は大振りな割に使い勝手がよく気に入っていた。魔物の解体も、塩漬け肉を薄切りにするのにも、パンにバターを塗るのにも使用したものだ。戦鎚と同じく相棒であった。
さようなら、と供養を一つ捧げてランタンはその刃を爆発させた。
砕けて無数の破片と化した狩猟刀が、嵐熊の肺腑を撹拌した。ランタンは嵐熊から飛び降り狩猟刀の柄をベルトに押し込み、足元から戦鎚を拾うと吐き出された血を被らないように跳ねるように後退した。
嵐熊はもうランタンもリリオンも認識していなかった。大量の血を口から溢れさせながら狂乱している。振り回した腕から、辺り構わず空気の刃を放っていた。
さっさと死ねば苦痛から開放されるというのに、嫌になるほどにしぶとい。
ランタンは焦茶色の冷めた視線で嵐熊を眺めた。痛みによって無秩序に暴れまわる嵐熊は、まさしくその身で嵐を体現しているようなものだった。
どうしたものか。
あの狂乱に飛び込むほどの激情はすでにランタンの中から失われていた。
そんなランタンの意中を察したわけではないだろうが、リリオンが剣を構えて走った。大剣を弓を引くように構え、引き絞られた背筋から繰り出される平突きは大気に穴を穿ち空気の刃を霧散させ、歪むこと無く一直線に嵐熊の胸に突き刺ささった。
ランタンによって一つの肺を潰されて、そして残った肺をリリオンに穿たれた嵐熊が声なき声で高く吠え、しかし重たげに腕を振りかぶった。リリオンの表情が驚愕に歪み、深く刺し込んだ大剣は抜けず、焦ったがゆえに柄から手を剥がせなかった。
「ランタンっ!」
「はいよっと」
助けを求める切迫したリリオンの叫びに、ランタンは大剣の鎬にふわりと飛び乗ると朗らかに答えた。
「そのまま支えてね」
同じ目線に嵐熊の顔がある。腕を伸ばしても、背伸びをしても届かない顔が。
「おらぁー!」
ランタンはその眉間に目掛けて、骨が軋むのも楽しげに戦鎚を振り抜いたのだった。