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雪の降る朝だった。日の出にはまだ時間があるはずなのに妙に明るい。灰銀のぶ厚い雲の表面が剥がれ落ちるような粉雪が、きらきらと光を反射していた。
ランタンは薄く目を開けて、視界の端にそれを捉える。見るだけで肌が粟立ちそうなほど寒々とした景色だったのに、ランタンは日溜まりの中にいるように暖かかった。
服を身につけず、ランタンはベッドの中にいた。リリオンに抱きしめられている。
風呂にいたはずなのにな、と今さらながら思う。みんなに抱きしめられた、あの後の記憶は明確ではなかった。だが自分が隠すべき秘密を告白してしまったことだけは、はっきりしていた。
妙な喪失感があった。空っぽの自分に今さら失うものがあるとは驚きだ。
そう自分は空っぽだ。ランタンはこれからそれと向き合って生きていく。
空っぽだからこそ、あらゆる可能性で満たすことができる。
リリオンと向かい合っているランタンは、ふと背中にもう一つの暖かさと柔らかさを感じた。つるつるとした硬質の感触と、水を切り出したような柔らかな冷気。ミシャの鱗の感触だった。
ランタンがびっくりして身じろぎすると、更にもう二つの気配が露わになった。それはベッドの外にあり、ゆったりとした足取りで近付いてくる。
「おや、こっそり抜け出したつもりだったのだが、起こしてしまったか?」
肩掛けで申し訳程度に裸身を隠したレティシアが、ランタンの顔を覗き込んだ。室温はさすがに低いのだろう、黒曜石のように滑らかな肌に鳥肌が立っているのがはっきり確認できて、ランタンは咄嗟に目を瞑った。
「寝たふりなんかしなくてもいいだろう」
「……いや、だって」
「リリオンやミシャの裸は見たのに、私の身体は見てくれないなんてずるいじゃないか――ああっ」
ランタンが恐る恐る薄目を開けると、レティシアはリリララに髪を引っ張られていた。
そしてバケツでも被せるみたいに肌着を頭から被せられ、拘束具をつけるみたいにコルセットを巻かれている。リリララは鳩目に通した紐を手綱を握るように引っ掴むと、主の背中を足蹴にしてそれを締めた。
「お嬢、馬鹿言ってるなよ」
「言葉は無力だが、言わなければ始まらない」
レティシアはからからと笑った。
「躊躇っている内に後悔は増えるからな」
「だがな、実家とは言え聞かれたらさすがに醜聞だぞ」
「メイドに足蹴にされているのは醜聞じゃないのか。おい、締めすぎだぞ。息が――」
背中の紐が結ばれると、レティシアはほっとして息を吸った。竜髭で骨格を作ったコルセットでくびれた腰を解すように撫でながら、ランタンの顔を再び覗き込む。
「ほら、これでもう大丈夫だろう。おはよう、ランタン」
「おはよう、レティ、リリララ」
レティシアはリリオンの髪を払い、ランタンを撫でた。その背中から顔を覗かせるリリララは、少しおっかなびっくりするような感じでランタンの顔を覗き、一体自分はどんな顔をしていたのだろうか、兎の少女は胸を撫で下ろした。
「よく寝れたか?」
「うん、……たぶん」
「そうか、ったくよう。この状況下で手出しもしないで寝てるなよな」
リリララがいつものような蓮っ葉な調子で言い放ち、ランタンはほっとした。
まさか、もしかしたら、まったく記憶のないうちに不埒なことをしたのではないかと思っていたが、そんなことはないようだった。
暖かさと、恥ずかしさばかりがあった。
今もリリオンとミシャに挟まれているが、不思議と欲情することもなく、我慢していることもなかった。
もしかしたら性的に不能になってしまったのかもしれない。もしそうなら、ランタンにとっての悩み事が一つ減ったことになるが、だが喜ばしいことだとは思えなかった。昨晩までなら、安堵していたかもしれないのに。
リリオンが身じろぎした。獣のように肌をすり寄せ、覆い被さり、ランタンの黒髪に頬を寄せる。毛先が鼻を擽ったのか、むずむずと鼻を啜り、欠伸のような呻き声のような息を吐き出しながら、背を反らした。
「すきよ、ランタン」
おはようよりも、目を開けるよりも先にリリオンはそう言った。
まだ夢を見ているのかもしれない。ようやく開いた目蓋の隙間から覗く淡褐色の無垢な瞳に、ランタンの呆気に取られる顔を反射させている。
「ランタンは、赤ちゃんだったのね」
リリオンの見ている夢はきっと碌でもない夢に違いない、とランタンは思った。同時にまさか眠っている間に乳を吸っていたのではないだろうか、とも思って青ざめる。
眠っている肉体への刺激は、容易に夢に影響を及ぼす。例えばランタンと一緒に寝るリリオンが怖い夢を見なくなったり、リリオンと一緒に眠るランタンがうなされたり、悶々としたりするように。
「まだ足りないのね。ほら――」
リリオンがもぞと胸を寄せ、寝ぼけ眼に意識が宿った。あれ、と不思議がって自分の胸へと視線を落とす。
「しぼんじゃった……、ランタンがいっぱい飲んだから」
「それは夢だ」
夢と現実を綯い交ぜにして、リリオンは膨らみかけの胸を見て溜め息を吐いた。薄い胸の膨らみは重ねた肌に、脂肪の下にある骨の柔らかさと心臓の鼓動を伝える。
目蓋に泣き腫らした名残があり、何度も繰り返す瞬きが窮屈そうだったが、背中に伝わるミシャの心臓よりもよっぽど鼓動は穏やかだった。
「赤ん坊か、言えて妙だな」
「妙ではない」
「いや、しかし」
妙に納得した風のレティシアがくすくすと笑っている。
ランタンはむきになって反論する。
「こんな大きな赤ん坊はいない」
「ランタンは小っちゃいよ」
「うるさい」
しかしそれしか言い返すことができず、リリオンがようやく現実を認識して笑った。
「おや、赤ん坊ではなかったか」
「見てわかるでしょ」
「いやしかし、昨日の君の話が真実だとするのならば、ランタンはまだ生まれて二、三年と言うことだろう。これを赤ん坊と言わずしてなんと言う。どうなんだ、ランタン」
「……――違う」
「そうか」
ランタンはどきりとした。否定しようとして結局、否定しきることの出来なかった自分の由來を、その一部を完全に否定した。それがレティシアの誘導によるものだったにせよ。
「赤ん坊なら泣き喚いてくれるが、まったく我慢を知る赤ん坊とは厄介なものだな。だから目が離せないのかもしれない」
「赤ん坊ではない」
ランタンはもう一度、はっきりと繰り返した。
しかし今の状況は赤ん坊よりも甘やかされていることに代わりはない。
ランタンが情けなく思うと、リリオンがすぐに抱擁を強めてきた。
どう言うわけかこの少女はランタンの胸の内を、極めて敏く読み取ることができるようだった。きっとランタンの入浴を察知する能力は、この読心能力の一端なのだろう。
「おっぱいはでないけど、すってもいいのよ」
ランタンは首をうんと伸ばして、リリオンの鎖骨に噛み付いた。ミシャのそれと比べると乳歯のように小さな犬歯が華奢な鎖骨をがりりと噛んで、リリオンはベッドから転げ落ちるほどに驚いた。
「――いたた。もう、なにするのよ、ランタン」
「なんでもしていいんでしょ」
ランタンはどうしようもない男のよう開き直った。リリオンは言葉に詰まって、ベッドの縁に齧り付くようににじり寄る。
「それはそうだけど、でもする時はするねって言ってくれないと、わたしびっくりしちゃうから」
「わかった」
「約束よ」
ランタンがまったくその気もなく頷くと、リリオンは少し胡散臭そうにしながら、約束だからね、と繰り返した。
「はいよ、っと。あーあ、僕ってさ、実は結構わかりやすい?」
思わずそう尋ねると、背中側で眠ったふりをしていたミシャが、大して肉のついていないランタンの脇腹を抓った。
「ランタンくんのこと、知れてよかったよ。あんなこと考えてるなんて、少しもわからなかったもの。内容はちんぷんかんぷんだったけどね、――ちょっと、こっち見ないで」
裸なんだから、とミシャは言ってベッドから下りたようだった。リリララが用意したのだろう服を着る音が聞こえ、リリオンも自分が裸であることにようやく気が付いたのか、手を伸ばした。すると背中側から服が投げ寄越される。
リリオンもミシャもベッドから降りて、取り残されたランタンは温もりを長持ちさせるように身体にシーツを巻き付けて目を瞑った。
手が触れる。
べたべた触ってくるのはリリオンだろうし、耳を抓ったのはリリララだろう。積極的な言葉や態度とは裏腹におっかなびっくり触れたのはレティシアで、思いがけず不器用に頭を撫でたのはミシャの手だった。
「ずっと、あんな事考えてたの?」
「ずっとじゃないよ。ずっと考えてたらおかしくなりそうだから、たまに、暇なときとか」
「……下水道の、変な人たちに、変なことを言われたからじゃなくて?」
「関係ないよ。好き勝手に呼ばれるのは慣れてるもん」
例えばカボチャ頭だとか、端的に化け物だとか、ミシャの言う下水道の変な人たち、黒い卵の面々はランタンのことを迷宮の落とし子だとか魔性の子だとか呼んでいた。
秘密結社がありがちに用いる暗号名や秘匿名以上の意味を持たないのかもしれない。
だがカボチャ頭も、迷宮の落とし子も、突き詰めて言えばランタンを迷宮から発生したものに例えているのは不思議な相似だった。
目を開くとリリオンの顔が目の前にあった。
「ランタンは、ランタンよ」
「うん」
人間か否か。その問いかけをランタンは永遠に抱え続ける。
「大丈夫だよ。もうあんなみっともないところは見せないから」
ランタンが格好つけて片目を閉じると、盛大に溜め息を吐かれた。四人全員が物理的な圧力を感じさせるほど、じとっとした視線を向けてくる。
「なに?」
「なに、じゃないわ。もう、ランタン。いつでも私に甘えていいからね。いつでも、どこでも、どんなことでもしていいのよ」
「しないよ」
していいから、するのではない。
「しないから、何度でも言うのよ」
「誘惑が多くて困るな」
ランタンはゆっくりと身体を起こした。
リリオンに、レティシア、ミシャに、リリララがランタンを囲んでいる。
昨晩からずっと一緒にいてくれた。
「僕、そう言うのに弱いから、あんまり誘惑されると堕落しちゃうかも」
「弱い?」
リリオン以外の三人が、声を揃えた。
「まったく、どの口がそんなことを言うのか。私が誘惑しても、ぜんぜん靡いてくれなかったじゃないか」
レティシアはベッドに腰を下ろして、ランタンに寄り添った。
「ランタンだけが特別じゃない。誰もが心に欲望を持っているんだよ」
そろりと腕を肩に回す。
「ランタンの気持ちは昨日充分に聞いたし、聞かずとも知っていた。見ていればすぐに、何が一番大切かわかる。もちろん私も嫉妬する。羨ましいなって思う。君の気持ちを独り占めにできたらこれに勝る喜びはないかもしれない。これでも私は貴族の娘だからね、男の欲望はそれなりに知っている。だから仕方ないとも思うし、だからこそ一途な男は素晴らしいと思う」
レティシアはランタンを抱き寄せる。彼女はいつだって、ランタンを導こうとしてくれる。
「だがもしランタンがそうなら、私は尼寺に駆け込んで頭を丸め、生涯を泣いて暮らすことになるだろう。だから私としては君に堕落して貰った方がありがたい。ふふふ、なかなか嫌な女だろう」
レティシアは冗談めかして笑った。
「誰もが心に獣や魔を飼っているのさ。そしてどうにか折り合いをつけて生きている。ほら、ランタンおいで」
レティシアはランタンを無理矢理に膝の上において、背後から目一杯に抱きしめた。
「レティ、そんなにしなくても」
「私は君を抱く理由がほしいんだ。君があまりにも魅力的だから」
まるでリリオンに見せつけるように、ランタンの首筋に唇を押し当てて言った。
色劇の一幕のような光景にミシャが頬を赤くし、リリララは妹分の痴態に目を覆った。
そしてリリオンはただ口を丸くして、ちょっと驚いただけだった。見ないでほしい、と願った自分が馬鹿に思えてくるように。
レティシアの手がこれ幸いにとランタンの身体を弄った。ランタンは反射手にその手を叩く。
「……嫌じゃないの? リリオン」
「わたし、ランタンとみんなが仲良くしているの好きよ」
この子には敵わないかもしれない、とランタンは思う。
「でも僕は、例えばリリオンとシ――他の男の人がこういうことしてたら、想像するのも嫌なぐらい嫌だよ。それって公平じゃないとは思わない?」
「公平さなんていらないわ」
リリオンはレティシアに抱かれるランタンの頬に啄むようなキスをする。
「だってわたし、ランタンの一番でとってもうれしいんだもの」
頬に触れた唇が紡いだ言葉が眩しいほどきらきらしていた。
あらゆる矛盾が、リリオンの前では無意味なものになってしまう。
この子には敵わない、とランタンは思う。
レティシアが呵々と笑って、敗戦の将よろしくリリオンにランタンを差し出した。
リリオンはレティシアの背にまで腕を回し、挟むようにしてランタンを抱きしめた。
望むことだけをするのではない。
許されるからするのではない。
したいから、するのだ。
一昼夜掛けて行われた下水道の探索は、当初はネイリング騎士団が行っていたが、魔物は出る、死体は出る、娼窟がある、麻薬窟がある、盗品市がある、奴隷市がある、黒い卵の実験施設がある、挙げ句の果てに国家転覆を狙う反王国組織のアジトまで見つかり、今や貧民区をひっくり返すような大捜索が国を挙げて行われることになった。
年の瀬であるのに不潔な下水に駆り出された騎士はもちろん、どこかの向こう見ずが地下閉鎖空間で爆発を発生させたせいで駆り出された工兵も、貧民街など崩壊するに任せてしまえばいいのにと不満を口にして、また貧民街の住人たちも工事のために住処を追われてある種の難民と化し、己の身の上に降りかかった不幸を嘆いている。
結果として不満を言うこともできずに奔走するのがドゥアルテである。
王国騎士団の首領として鶴の一声で騎士や工兵たちの尻を蹴っ飛ばし、国費から炊き出しの予算を捻出させ、施しの専門家である教会に難民たちを押しつけ、彼らが罪を犯さないように、犯罪に巻き込まれないように警邏の人員を増やし、出るわ出るわの下水の膿をこの機会に全て出し切ってしまおうと不眠不休で指揮を執っている。
そんな中で頭角を現したのはシーロだった。
猫の手も借りたい状況で、まだなんの役職にも就いていないシーロが勝手に下水道探索に加わることを咎める人間はいなかった。彼はネイリング騎士団の一隊を率い、名のある騎士たちの誰もが嫌がった下水道探索の陣頭に率先して立った。
彼は相変わらず不器用で、他者を顧みることはなかったという。誰とも肩を並べず、ただ先頭に立ってあらゆる敵を切り払った。そしてその結果として手に入れた自らの功をひけらかすこともなく、黙々と戦う姿は現場の人間に何だかいじましさすら感じさせたようだ。
先頭に立つ大将は支えたくなる。
結果としてシーロは誰よりも多くの魔物を倒し、誰よりも多く違法増築された下水迷宮を踏破し、兄であるファビアンが平行して行った黒い卵の関係者への尋問も相まって、ついに黒い卵の実験の全容を掴むまでに至った。
そこで行われていたのは外道の手術である。魔と魔、人と人、そして人魔の融合であった。
人と同じように、魔物には特性と弱点がある。それの異なる二体の魔物を結合させることにより弱点を補い、特性を増やした魔物を創造する。そういった手術によって創り出された魔物の一部は飼育観察され、一部は下水に放されて、一部は闘技場に引き出されて実際に剣闘士と戦うことがあったようだった。
そう闘技場に黒い卵の手が及んでいるのである。闘技場の観客は、より苛烈で、より残酷で、より興奮できる戦いを求めている。そして黒い卵は観客の求めるものを提供できた。
異形の強力な魔物。
剣闘士の力を向上させる薬物に強化手術。
強くなりたい、という願望はリリオンが探索者を目指す切っ掛けとなった願いであり、ランタンが生きるためにしがみついた祈りであり、そして誰もが持っている欲望だった。
黒い卵はフーゴを利用し、手術を受ける剣闘士を勧誘していた。そして有毒種の亜人たちを。
亜人たちは言葉巧みにフーゴに誘い込まれた。自らの人生について回った忌まわしい毒牙を、毒腺を、除去する手術があると。自分たちをあれほど苦しめたそれが、ほんの二、三時間の手術によって除去することができる。隠すことしかできず、決して失うことのない苦しみであったはずのそれを。
かつて有毒種である亜人を、あるいは出会えばきっと迫害していたに違いない人々が、毒を求めたことは皮肉であるとしか言えない。
多くの亜人は毒の生産臓器ごと命を奪われて、装備や探索者証しか残っていない。だが生き残っている者も数名いた。移植手術は生体間で行われるため、手術の間まで死なないように丁重に保管されていたのだ。
その中には探索団混沌の刃のイグニスが探していたアーミーナという女の蛇人族もいた。ちらと顔を見たが、ミシャの方が可愛いとランタンは思った。後ろ姿もそんなに似ていない。
魔と魔、人と人の手術の成功率はそれなりに高い。
「だが人と魔の結合手術は、今のところ成功はしていないようだ。まあ一安心と言うところかな」
少し疲れた顔のファビアンがランタンに向かっていった。
「下水の底から山ほど手術の成れ果てが見つかってね。奇しくも汚泥の中で保存されていたようで、丸ごと残っている個体も多かったんだ。検体しているのだが、さすがにきつい。やつらは実践主義だと聞いていたが、それにしたって酷い。総当たりで答えを見つけるように、ままごとみたいな術式を施しやがる」
ドゥアルテやシーロに比べて、竜種の血が薄そうなファビアンの顔が獰猛に歪んだ。
「……鶏まで届きそうですか?」
「鶏? はっはっはっ、なかなか面白い例えだ。黒い卵というのは、なかなか面倒な組織でね。奴らはまさに卵だ。生みの親から切り離された、独立した存在だ。殻の中に閉じこもって研究して、殻が割れるまで中に何が潜んでいるかわからない。そこから生まれた存在が別の卵を産むこともある」
「つまり、同じ名前を名乗っていても、別の組織?」
「そんな感じだな。もっともまったく繋がりがないわけでもないが、下から上にと言う話は滅多に聞かない。奴らの主命に迫る結果を出した卵に、より上位の卵が一方的に接触を取ることがほとんどだ。今回の奴はなかなか大物で、上から声が掛かっていたようだし、下の情報もある。ただ記憶の封印処理が入念だ。もうしばらく時間は掛かるだろう」
それに、とファビアンは溜め息を吐いた。
「卵の中身を料理すると、なかなか美味い料理になったりもする。臓器の生体間移植手術は、生き汚い老いぼれどもが目の色を変えた。王立学院にたっぷり予算が出て、研究開始だ。黒い卵を割ると、こういうことがままある」
「貴族は、黒い卵を捕らえることに及び腰ですか?」
「恩恵にあずかっている人間も多くいる。貴族だけではなく、市民も、探索者も、知らない内にな。予算を掛けず自費で結果を出してくれると嘯く貴族もいるのは確かだが、及び腰というのは我が父に対する侮辱だ」
「――申し訳ありませんでした」
「なに、ちょっとした冗談だ」
ファビアンは笑ったが、失言したことに変わりのないランタンは笑うことができなかった。その笑い声に誘われるように、シーロが姿を現した。
ランタンが笑う代わりのように、こんにちは、と言うと鼻を鳴らして応えた。
相変わらずだ。
ファビアンが笑う。
「おう、シーロ、どうかしたか? 今日は下水ではないのか、なんでも不定型生物殺しの名をほしいままにしていると聞いたが」
「――止めてください、兄さま。そんな間抜けな呼び方」
シーロは本当に嫌そうに、顔を歪めた。ファビアンは膝を叩いて笑う。シーロは何か用事があってやってきたはずなのにむっつりと黙り込んだ。
「いや、しかし、奴らが作った不定型生物はなかなか侮れない。ランタンにはさっきも言ったが、人魔の結合手術は成功しなかった。そこで奴らが考えたのは融合と同化。不定型生物を使って、血を、骨を、肉を真似る。捕食対象に取って代わろうというのが当面の目標だったようだ」
フーゴは不定型生物に寄生され、支配されていた。
ミシャに噛み付かれた、断末魔にも似た悲鳴は今も耳の奥に聞こえるようだ。それはきっとミシャもそうだろう。ランタンよりも強く記憶しているだろう。
恐怖と苦痛が確かにあった。
それは毒の所為か、それとも不定型生物に支配される自分に気付いたからか。
なんにせよフーゴはあの噛み付きで、人として己を取り戻し、そして死んだのだと思う。
「あの不定型生物の完成形は記憶の複製だ。奴らは記憶の連続を、命の連続と考えたわけだな。なあ、二人とも」
ファビアンは哲学者のように笑った。
「例えば一人の聖職者が死んだとする。その死体を不定型生物が補食し、まったく同一の存在になった。姿形も、記憶も。その不定型生物は何食わぬ顔をして教会で祈りを捧げ、恵まれぬものに施しをし、死んだ男の家に帰り眠りにつき、また聖職者としての一日を過ごす。そして誰にも気付かれることなく、自分がかつて不定型生物であったことに気付くこともなく聖職者としての一生を終える。さて聖職者はいつ死んだ?」
「例えば、のあと」
ランタンは答えた。
「どうしてそう思う?」
「聖職者の人生はそこで終わり。その後のことは変身した不定型生物が経験したことに過ぎない。もともとが別の存在なんだから分岐してるって言い方は変かもしれないけど、変身した後の経験は不定型生物のもので聖職者のものじゃない。結局は誰にも気付かれなかったとしても、聖職者に変身した不定型生物であることにかわりはない。どれだけ真似をしようと結局、誰かになれるわけなんかないよ」
そう誰かになれるわけではない。自分は自分でしかない。納得できなくても、疑問が尽きなくても、他者になんと言われようとも。
「――ランタン」
シーロがランタンの名を呼んだ。緑の瞳をランタンに向けて、すらりと腰の刀を抜いた。
そして鋒をランタンの鼻先に突き付ける。
「お前に決闘を申し込む」
急なことだったが、ランタンは少しも驚かなかった。
「決闘ね。なにか掛けようっての?」
「いいや、なにも」
シーロは首を横に振った。ランタンは、ふうん、と顎を上げてシーロを睨みあげる。
リリオンを掛けて、などとシーロが言おうものなら取り合わなかっただろう。
「その喧嘩、買った」
まるで熟れた果実が爆ぜるように、ランタンの笑みが冬の風に赤くなる頬を裂いた。
シーロも歯を剥いて笑った。
シーロと戦う。
理屈ではない。
したいから、するのだ。




