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ランタンは自らが隠し事をしていることを、ある程度は勘づかれていると考えていた。
だがまさか、リリオンに勘づかれているとは露とも思っていなかった。
リリオンのことを侮っていたのではない。自分を過信していたのだ。
リリオンに最初から全部と言われ、ランタンは途端に後ろめたさと、どこまで勘づいているのかと不安にかられた。
そしてその不安のすべてを身の内に隠した。
ランタンはたっぷりと時間を掛けて自分を落ち着かせ、最初から、というリリオンの願いに従った。
自分の全部を語るわけにはいかない。言ってはいけない。
だからせめてそれだけでも誠実でありたいと思う。
「前に言ったっけ、僕の最初の記憶。奴隷小屋の一室で、目覚めたこと。それがこの世界での僕の最初の記憶」
暗くて、埃っぽくて、ごつごつとして冷たい石壁の一室。
夢に見ることはなくなった。だが不安をよく覚えている。全身にのし掛かり、氷の手で心臓を掴まれるようなあの不安を。
普通じゃない、とランタンは思った。こんな所、普通じゃない。
「僕には普通の基準があった」
ランタンは言いながら、心の中でその時に似た不安が大きくなっていくのを抑えられなかった。いけないことをしているような気がする。
何がこんなにも不安なのかわからない。混乱している。ランタンは魔物から正体不明の攻撃を受けたときのように、細く息を吐いた。
初めて口に出すからだ、と思う。ランタンはこれまで、一人きりの時だって、その世界のことを言葉にしてことはなかった。ただ頭の中で考えるだけで。
嘘を吐くわけではない。これから語ることは真実だ。
一瞬言葉に詰まったランタンに、レティシアがドレスを濡らすのも構わずに膝を突いて視線を合わせた。
「つまり、ランタンは以前暮らしていた場所を憶えていると言うことか。そこと比べて、普通ではない、と」
ランタンは頷いた。
ランタンに妙な知識があることはすでに知られている。だが場所について、ランタンはこれまで一切口にしてこなかった。
リリオンが目を丸くしてランタンの肩に掴みかかった。
「どこなのっ、ランタン?」
リリオンはその事実をずっと黙っていたことや、憶えていないと嘘を吐いてきたことを責めようとはしなかった。ただ単純な驚きと、好奇心だけがある。
混乱が少しだけ和らぐ。
リリオンの真っ直ぐな視線に射貫かれて、代わりに罪悪感と愛しさが増した。
ランタンは肩を掴んだリリオンの手を、そっと剥がした。
「ここではない、どこか」
ランタンは喉奥から吐き出すように、そう告げた。背筋がふいに冷たくなる。ランタンは表情を変えない。
誰もが拍子抜けしたような、困惑した表情を顔に浮かべた。リリオンですら例外ではなかった。
「記憶がないって言うのは嘘じゃないよ。その場所がどこにあるのか知らないし、行き方もわからないし、名前も知らない」
無理矢理に表情を動かして、ランタンは苦笑した。なかなかの演技だと思う。リリオンはどうして、自分が隠し事をしているのがわかったのだろうか。
「わかる限りでいい。その場所のことを教えてくれないか。世界の果てだろうと、きっと探し出してみせる」
レティシアがランタンに告げた。緑柱石の瞳には強い意志が宿っていた。帰る場所に帰ることができない少年への憐憫ではない。
ランタンが首を横に振ると、驚いたように目を細める。当たり前の常識を否定されたように。
「世界の果てまで探しても、きっと見つからないよ」
「何故だ。確かに世界は広い。だが――」
「世界が違う」
ランタンが言うと、レティシアは言葉の意味を探しあぐねて黙り込んだ。
「世界?」
話を聞くばかりだったミシャとリリララが鸚鵡返しに繰り返し、リリオンが、どういうこと、と尋ねる。
「こことは異なる世界。僕にはその世界の知識があった」
言ってから、今度はランタンが言葉に詰まった。
ランタンは異世界と聞いて、感覚としてその概念を頭に思い浮かべることができる。だが彼女たちには馴染みのない言葉だった。はたしてどのようにして説明しようか。
「異なる、と言うのは、どういうことだ」
「そのままの意味。違う土地だとか、国だとか、大陸だとか、そういうことじゃない。この世界とは距離とかそういうものじゃなく、完全に分離した、別の世界」
「……それは神の国だとか、妖精の国だとか、そういうことか」
「位置の感覚としては、それに近いと思う」
「すごい」
レティシアは常識の観念からランタンの言葉を疑っている。ミシャとリリララは理解できず、疑うこともできない。リリオンはあっさりとそれを信じた。
「ランタンは天使さま?」
「さあてね。そんな上等なものではないこと確かだね」
リリオンは天使かもしれない。だが自分の心は醜い。
ランタンがごく自然に苦笑した。自嘲の混じった笑みに、リリオンがランタンの身体に触れた。なに、とランタンは目で尋ねたが、リリオンはただ心配気にその眼差しを覗き込むばかりだった。
「ランタンは、その異世界からやって来たということか?」
ランタンは肩を竦める。肯定も否定でもなかった。
「目覚めたら奴隷小屋だった。感覚として残ってるのは、抗いがたい理不尽な力に巻き込まれたような、そんな感覚」
リリオンは腕を放してくれない。
「神隠しにあった子供が幸運にも戻ってきたとき、そういう表現をする事がある。自分が行方不明の間、どのように過ごしていたのか知らず、どのように戻ってきたのかも知らず。迷宮からの帰還者にも、たしかそのような事を口にした者があったかもしれない。その探索者は、迷宮崩壊に巻き込まれて、だがどういう訳か別の迷宮から帰還した」
「じゃあそれかもね」
「ランタン」
レティシアが叱るような声を出して、ランタンはびっくりした。
「これはランタンの事だよ。どうしてそんな風に、どうでもいいみたいな態度を取るんだ」
レティシアは少し哀しそうに言った。
どうでもいい事はない、と思う。これは自分にとって重要な事だった。ただ向き合うのが恐ろしいだけで。
「無理にとは言わない。その世界について、詳しく教えてくれないか」
ランタンの知識は不安定である。教えてくれ、と言われて教えられるものではなかった。
ランタンは常にこの世界を対比してきた。そしてそうする事でしか、ランタンは異世界を語る事ができない。
普通じゃないと思った理由。問いかけがあって、ようやく解答を導く事ができる。
奴隷商という存在を野蛮な時代の産物であると考え、人間の尊厳をないがしろにする人々を、当たり前にある暴力を、自分には縁遠いものだと思い込む価値観を育む世界。
日常に用いられる剣や槍といった戦うための道具、主要な交通手段である馬車、探索者という職業、魔道と呼ばれる超常現象、迷宮と魔物、亜人族という姿の異なる人間を、非現実的な、幻想上のものものだと認識する常識に縛られた世界。
原始的とは言わないが前時代的な社会制度。
ことあるごとに剣を振り回し、簡単に命のやり取りに発展する倫理観。
魔道による恩恵と、悪影響としての未発達な科学技術。
肌の色だけではなく、姿形が異なるがゆえの迫害と差別。
身分と種族によって使い分けられ、往々にしてないがしろにされる法律と現場主義の刑罰。
似て非なる物理の法則と、森羅万象の理。
自分でも驚くほど詳しく語る事のできる話題もあれば、ただ異なる、とそれきりしか答えられない話題もある。
ランタンは血を吐くように語った。先程までの投げやりな態度を一変させ、答えられない事を恐れるように、身を削り、内臓を絞るように。
「それから、えっと、それから、それから――」
「もういい、もういいよ、ランタン」
思わずレティシアが止めに入った。
ランタンは異世界から引き戻されたようにはっとした。レティシアの顔を見上げて、回答が合っていたかどうかを確かめるみたいな目をした。だがその眼差しはすぐに色を変える。照れたように、恥じ入るようにランタンの口元が歪む。
「みんな褒めてくれたけど、僕がすごいわけじゃないよ。僕の発想なんて一つもないんだから。ただ知っていたと言うだけで」
結局、誰もランタンの言葉から、異世界を想像する事ができないようでいた。
当初は、すごい、といったリリオンも今はもどかしげにしていて、ミシャとリリララは難問を前にした学生のように表情を無くし、レティシアだけが僅かばかりの理解を示したが、それは制度面の事であって、世界の姿形ではなかった。
無理もないことだった。
ランタンが語った物理の法則を裏付ける実験結果はなく、開明的な思想が妄想の果ての狂論であると否定する要素はなく、科学技術によって発展した巨人族の都もかくやという高層建築物の大都市を証明する事は不可能だった。
異世界の存在は、ランタンの中にしかない。
一体何を語ったのだろう、とランタンは思う。
自分の中に溜め込んできた異世界というものが、言葉にして吐き出してみたらなんと空虚で薄っぺらなものなのか。
眠れぬ夜を生み出すほどに、胃の腑に重みとなってのし掛かるほどに、その存在ははっきりしていたはずなのに。
「ファビアン兄さまが聞いたら泣いて喜びそうな話だ。私には、残念ながら半分も理解できないが、その世界はさぞ豊かなんだろうね」
それはレティシアの優しさに他ならなかった。レティシアは見果てぬ世界に思いを馳せるように続けた。
「国は栄え、争いは少なく、飢えと病から解放され、人々は秩序を尊び、子供らに等しく学びの機会が与えられる。まるで理想郷だ」
「すべてが、すべてではないだろうけど」
戦争もあれば、難病も不治の病も存在し、差別もある。様々な理由で権利を奪われる事もあるし、この世界の大差のない国々も多くある、はずだ。
どこかぼんやりするランタンに、リリララが緊張を隠さずに尋ねた。
「お前は、そこに帰りたいのか?」
「目覚めた当初は、そう思ってた。半年か、一年か、それぐらい。毎日ずっと」
リリララの顔が強張った。リリララばかりではなかった。みんながランタンの答えを恐れるように待っていた。
ランタンはほとんど間を挟まずに続けた。
「その世界に行きたいなんて、もうずっと考えてないよ」
嘘ではなかった。その世界を考える事を止めたことはなかったが、今いるこの世界からその世界に行きたいなんて、これっぽちも考えなくなった。確実に言える事は、リリオンと出会ってからはただの一度も。
「本当? ランタンくん」
「本当だよ。僕の言葉に、信用はないかもしれないけど」
ミシャは慌てた様子で首を横に振った。毛先で玉になった汗が、あっちこっちに飛び跳ねた。
それから少しの沈黙があった。誰も口を利かずにいて、変わらずにリリオンがランタンの腕を掴んだままだった。
それはランタンをこの世界に繋ぎ止める鎖のようなもので、ランタンは自然とその手を撫でる。
肉に食い込み、骨に絡まり、魂を縛る柔らかな鎖である。
リリオンはランタンの腕を引いた。抗えぬほど強引に、ランタンを湯の中に引きずり込んだ。あまりに急な事で三人が悲鳴を上げた。リリオンはランタンの瞳を覗き込む。睫毛が絡まりそうだった。
「ランタンは、さみしくないの?」
「寂しくないよ」
リリオンがいるから、とは言わなかった。
「でも、ママも、家族も、お友達も、みんな心配しているのかもしれないのよ。ランタンのこと、泣きながら探して、夜も眠れなくて、やせちゃってるかもしれないのよ」
「そういう人たちの記憶、ないもん」
そういう人たちだけではない。
ランタンは誰一人として、異世界の人間の記憶がない。家族も、友人も、知人も、歴史上の人物も、有名人も、悪人も、すれ違った人の顔一つ思い浮かばない。のっぺらぼうですらない。何も思い浮かべる事ができない。
ランタンの語った異世界は、人の住まぬ箱庭だった。
その空虚さにようやく気が付いた三人が裸で野外に放り出されたように表情を凍らせた。
ランタンは唇を結ぶ。
これ以上は言うべきではない。最後の一言は余計だった。
異世界はきっとあるし、自分は異邦人だ。
リリオンが目を閉じた。睫毛が震えて、目蓋の隙間から涙が染み出してきた。
「どうして、ぜんぶを言ってくれないの?」
ちくりと心臓が痛んだ。あるいは魂と言うべきか。
それが自分の内に存在しているのならば、であるが。
「言ったよ。ランタンは言うって言った。最初からぜんぶ、言ってくれるって言った」
駄々子のようにリリオンが顔を歪めた。閉じた瞼をはっと開いて、淡褐色の瞳を目一杯に大きくして、怒鳴るように唇を戦慄かせ、震える声で囁いた。
「どうして、どうしてなの?」
ランタンは唇を硬く引き絞った。
リリオンが身体全部を使ってランタンを抱きしめる。周りの三人が、凍り付いたように身動きも取れずにいて、リリオンはランタンの耳に噛み付くように懇願する。
「言って、ランタン。言っていいのよ」
ひっく、ひっくと呼吸が跳ねる。
「どうして、どうしてそんなに強くいられるの?」
ねえお願い、とリリオンは繰り返す。
「ランタンはいつも強くて、かっこうよくて、かわいくて、いい匂いがして、あったかくて、優しくて、ひとりでなんでもできちゃうのかもしれないけど、わたしだって、ランタンのこと、なんでもしてあげられるもん」
瞬きをして、涙が頬に落ちた。
「なにを、こわがっているの?」
ランタンの喉がひゅると引き攣るように息を吸った。
身体が崩れる、と思った。
幾つもの迷宮を攻略して溜め込んだ膨大な魔精が、端から刻まれるように失せていくような気がした。涙を流す代わりに、魔精が流れる。意思の溶媒たる魔精が、ランタンのすべてを溶かし込んで。
竜籠の中でベリレに言われた。
一秒前だって過去だ、と。
まったくその通りだと思う。過去とは文字通りに、過ぎ去った時間の事を言う。
ならば自分の秘めていた、そして告白した秘密は一体何の話なのか。
少なくとも自分の過去の話ではない。
ここではないどこか。
ランタンは自分の事を異世界からやって来た異邦人だと認識していた。
記憶は欠損している。自分の名も知らず、だが妙なことを知っていて、曖昧で、それでも不完全なそれを過去の記憶だと考えていた。
これを紐解き、欠損を補完し、辿って行けばやがて過去の自分に辿り着けるのだと。
だが、先はなかった。記憶は一つ一つ、それだけで完結している。
自分が記憶だと呼んだそれは、ただの知識でしかない。一切の経験が付随しない、紙片に書き込まれた情報のような知識。
ここではないどこかで、生活を営んだ記憶はない。
リリオンたちに語って、なおさら実感した。自分の語ったものはなんなのか。ランタンにはそれが判らない。
彼女たちは精一杯、理解しようと努力をしてくれた。だが結局は理解する事ができなかった。
当たり前だ。
ランタンは異世界の存在を疑っている。その疑いを隠しながら、あるいは自らがそれを信じたいが為に、告白したのかもしれない。
もし異世界が存在しなかったら、自分という存在はなんなのか。
異世界への疑いは、自分の存在を疑う事だった。そしてそれには得も言われぬ恐怖が付き従った。決して切り離せない影のように。
リリオンに、その恐怖を悟られてしまった。
異世界が存在しないのならば、自分はどこからやってきたのか。
自分は何者であり。その根がどこにあるのか。
ランタンには自分がどこかの女性の腹から生まれたのだという確証がない。
自分が人間であるという確証がない。
ランタンには一切の由來が存在しない。
異邦人であるというのは、帰る事のできない絶望ではなく、人間であることへの希望だった。
もしかしたら大地に迷宮口が突如として口を開くように、そして迷宮に魔物が湧くように自分も湧いて出たのではないか。
知識は、魔物が人への攻撃性を抱くように、たまたま偶然有していただけの事ではないのか。あるいはもしも魔物が人語を介するのならば、同じような知識を持っているのではないか。
不安に駆られた妄想は、容易にランタンの心に住み着き、恐怖を糧に育っていった。
身に付いた所作は、無知ゆえに、知識に引っ張られた結果ではないのか。
知識がそうならば、感情はどうだ。胸に沸き立ったこの思いは。
「僕はリリオンの事が大切だよ。リリオンのためなら、なんでもしてあげたいって思う。でも、もしリリオンが僕以外の人を好きになったりしたら、嫌だなって思う」
シーロの存在は、ランタンに強い嫉妬心を与えた。
ランタンは自分の気持ちの矛盾と醜さに苛まれる。
「僕はこんなに嫌なのに。それでも僕はレティを拒絶できない」
レティシアだけではない。リリララが好意を示したときには嬉しく思い。ミシャに結婚の話が出たとき、自分ははっきりとミシャを奪われるように思った。
獣のような強欲さだ、と思う。そういった醜さを感じるとき、ランタンは一歩一歩確実に、人間から遠ざかるような気がしている。
自分は異邦人かもしれないし、そうではないのかもしれない。
人間かもしれないし、人間ではないのかもしれない。
異世界の知識が、この世界では否定される。
この世界では生命の自然発生を完全に否定する事はできない。
海底の泥から鰻が生まれる事はなく、草の靄から蛍が発生する事もない。親があって子がある。
だが迷宮の魔物は、親も子もなく迷宮から発生する。無機物にだって迷宮核という魂が宿る。
魔道だってそうだ。魔道は現象の発現だと、この世界の人は認識している。だがそうではない。水精結晶の味の違いは、つまりは魔精が水に溶け込んだあらゆる鉱物を生み出しているという事だ。
そのような奇跡が可能な世界なのだ。
考えれば考えるほどに、思考は混沌へと引きずり込まれていく。
この世界の人たちを野蛮で下品だと、探索者たちを魔物のようだと蔑んだ自分が呪わしい。
自分こそがそうだったんじゃないかと、ランタンは思う。
周りのすべてが正常であり、自分だけが異常なのだと。
不安に絡め取られて、狂気に冒されて、泣き喚きたくなる。
だがそれを見せる事は決してしなかった。いつだって側に、優しい少女がいたから。
その少女は人の痛みに、不安に、孤独に敏く、その気持ちを自分のもののように思える子だった。苦しみの半分を肩代わりしてくれて、人を癒すような。
ランタンはせめて、正しくありたいと思う。人として正しく。
法を守る。他人に迷惑を掛けない。礼儀正しく振る舞う。人に優しくする。
多くの事を意識せずに行っている。ランタンはその事にほっとする。
けれど逸脱してしまうこともある。
ランタンの有する価値観において最悪の禁忌の一つが殺人であり、それは今も変わらなかった。
しかしランタンの手はすでに洗い流せぬほどの血に染まっている。例えば爆発能力が顕現した時のように突発的なものもあるが、意識的に敵を死に至らしめた事の方が多い。
あるいはそれが意識的に破った禁忌であるから、強く憶えているだけかもしれないが。
恐怖、嫌悪、罪悪感。
そういったものをランタンは意思の力で無視して、戦鎚を振り下ろしている。
殺人は正しい行いではなかった。だが意識的な禁忌の逸脱は、獣には不可能な事のように思える。
自己正当化の開き直りかもしれない。ならば自分は外道である。
正しい行いと、それを破る事が同一の意味を持つのか。
矛盾だった。
自らの人間性を確かめるために殺人を犯した事はただの一度もない。そのことに安心する自分がいる。
どんどんと自分がわからなくなってくる。
誰かを大切に思う気持ちは禁忌ではない。
もしかしたら迷宮からもたらされた感情かもしれないが、自分の心である。
リリオンはあまりにも幼く、無垢である。
けれど何よりも大切だ。
レティシアの愛情が嬉しい。ミシャの、リリララの気持ちが嬉しい。
大切な感情を、容易に情欲に結びつける自分に強い嫌悪と、罪悪を感じている。
自分は卑しい獣のような存在だと思う。
意思の力で禁忌を破る事が人間の証明ならば、躊躇う必要はないはずだった。
ランタンは愛を知らない。だからいつも考えている。それがなんであるかを。きっと素晴らしいものだと思う。
それは自らの人間性を確かめるためのものではない。
意思の力で禁忌を破る。
意思の力で人を愛する。
はたしてそれは愛であるのか。
しかし本能に従えば、自分は人間ではなくなってしまうのではないか。
そしてひとでなしの自分は、本能の赴くままに、欲望に突き動かされるままに、あらゆることをしてしまうのではないか。
ランタンは自分の心の中にある、我が儘で、利己的で、嫉妬深く、淫らで、容赦のない、どうしようもない欲望を認めている。ランタンは常にこれと向き合ってきた。
疑いようがなく、それは自分の一部だ。
だから愛してしまっては、一番大切な人を傷つけてしまうかもしれない。
自分が人間かどうかよりも、ランタンはそれだけが何よりも恐ろしい。
それがランタンの抱える孤独だった。
ミシャがたまたま毒牙を有するように、孤独はランタンが生まれながらに身に宿した決して逃れられぬ業である。
単独探索者ランタンは、まさに孤独に探す者だった。
歴史からも、土地からも、人からも、ランタンは切り離されている。
何一つ、誰一人、ランタンと結びつくものはない。
ランタンの身体は一回りも萎んだように思われた。
自分の口で語ったのか、それとも本当に魔精によって心が暴かれたのか、ランタンも、彼女たちもわからなかった。
だが炎が熱を感じさせるように、彼女たちは間違いなくランタンの孤独を感じていた。
リリオンが耐えられなくなり、わんわんと泣き出した。
かつてこれほど泣いたリリオンを、ランタンは見た事がなかった。
「どうして、どうして、どうしてよっ、ランタン!」
淡褐色の瞳を揺らめかせて、自分を見る少女は美しい。呻き声を上げて、歪む表情ですらそう思った。
「ランタンは、ランタンだもんっ。わたし、ランタンのこと大好きだもんっ」
ランタンは唇に笑みさえ湛えて、愛おしくリリオンの涙を払った。
小さく、容易く砕けてしまいそうな華奢な輪郭が手の中にある。ランタンが世界で一番大切なものだ。
初めて出会ったときから、リリオンは見上げなければならないほど背が高い。今はもっと背が高くなった。骨と皮と不幸だけだった少女は、柔らかな肉を身に纏い、緩やかに、だが確実に、美しく女らしく育つ道中にある。
だがやはり出会ったときから、そして今もまだランタンにとってリリオンは小さな少女のままだ。
「ランタン、君の言うことはまったく理解できない」
レティシアは厳しい表情でランタンに告げた。怒りさえ感じさせる眼差しは、そうしなければ泣き出してしまうからかもしれなかった。
「先程の話にも増して意味不明だ」
それは妄想と狂気と混沌の塊だ。ランタンは頷く。冷静さを失うことは、ランタンにとって人間性を喪失することも同然だった。ランタンは泣き喚くことが許されていない。
理解してほしくない、と思っていた。後悔もすでにある。
ランタンの疑問に答えはない。あるいは神さまみたいな存在が、自分を人や魔物に規定したとして、自分はそれを信じないのだと思う。
これは自分の孤独だ。
誰かに委ねるものではなく、自分一人で抱えるべきものだったのだ。
大切な人に、この不安の一欠片さえ感じさせるべきではなかったのだ。
その証拠にリリオンを泣かせてしまった。どれほど拭っても、涙が後から後から流れ出す。
レティシアは溜め息を吐いて、身体の硬さを抜こうとした。左の眦に真珠のような滴が浮いて、頬を伝う。
「私は君の孤独をわかってやることができない。私は人か、それとも竜種か。我々の一族も、そういう悩みを常に抱えるが、君ほど深刻ではない。ありがたいことに先祖がある。父も健在だ。兄弟も、まだ二人も残っている」
レティシアは髪を纏めていた黄金の髪留めを外した。苛立たしげに頭を振り。紅の髪が血飛沫のように舞った。
「私には、君がとびっきりの男の子に見える。だがそれは、君の慰めにはならないんだろう。どれだけ言葉を重ねようとも」
レティシアは髪留めを湯の中に放り捨てると、次々に宝石を外し始めた。首飾りを、指輪を、腕輪を外して、己の無力さにうちひしがれるように湯の中に投げ込んだ。
主に倣うようにリリララも同じようにし始めた。装飾品ばかりではない、二人はついに身に付けているものすべてを脱ぎ去った。
ミシャが湯を蹴って近付いてくる。
レティシアと、リリララも、真っ直ぐに。
ランタンは息をすることができない。
そしてしがみつくリリオンごと、三人はランタンの小躯を抱きしめた。
まるで声もなく泣き喚く赤子を抱くように。それ以外に為す術がないというように。
彼女たちの柔らかな肉体に抱かれ、リリオンの額がランタンの額に押しつけられる。
淡褐色の瞳からぽろぽろとこぼれる涙が火傷するほど熱くて、ランタンは涙を拭ってやりたかったのに、腕を動かすこともできなかった。
「泣かないで」
リリオンはぎゅっと目を瞑って涙を切り、大きく目蓋を開いた。
「ランタン、わたしね。ランタンになら何をされてもいいの。ランタンがわたしのことぶってもね、他の人のこと好きになって、わたしのことなんかどうでもよくなっちゃっても、わたしのことが大嫌いになってもね、いいの」
リリオンは震える声で捲し立てた。いいの、と言った声は濡れそぼっている。リリオンは鼻を啜って、痙攣するような息を吐いた。
「ううん、わたしに、なにもしてくれなくてもいい。ランタンの好きにしていいの。わたし、ずっとランタンのことだけが好きだもん。ランタンに、わたしがランタンじゃない人のこと、好きだなんて思ってほしくない。ランタンが苦しいの、わたし、やだよ」
リリオンはそう言って、ランタンを抱きしめた。かつてランタンが自分を抱きしめてくれたように。
ただひたすらに柔らかく、暖かかった。
ランタンはそれでも泣きたくなるのを堪えていた。これはもう性分のようなものなのだろうと思う。
こんな自分を抱きしめてくれる彼女たちから感じられるものが、そうだとするのならば、ランタンは今までもずっと身近にあって、もしかしたら自分も持っていたのかもしれなくて、けれど名を呼ぶこともできずに持て余していた感情を、ついに知ったのかもしれない。
自分はやはりひとでなしだ、とランタンは思う。
大切な少女を大泣きさせて、大いに悲しませた。
それでも愛することが止められない。




