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家をひっくり返して探すまでもなく、ミシャはどこにもいなかった。ベッドには寝ていた形跡があるが体温は失われている。争った形跡はない。玄人ならば証拠は残さないが、その道の技術に精通するリリララの目を誤魔化すことは難しい。
ミシャは自分の足で家を出た可能性が高い。
もう寝るだけだと言ったミシャは、一体どこへ行ったのだろうか。
「お嬢に応援頼んでくる。寝らんなくて散歩に出かけただけかもしれん。余計なことを考えすぎるなよ」
常に最悪のことを考えるのはランタンをこれまで生き延びさせてきた要因であり、同時に悪癖だった。
リリララがランタンの尻を蹴っ飛ばし、兎の跳躍力を使って屋根伝いに駆けていった。
ランタンは自分の頬を張った。
「ミシャを探しに行くよ」
ベッドの下から、枕の裏、竈の中から、トイレの底までも覗いて探したリリオンがランタンの言葉に振り返った。
「どこにいるかわかったの!?」
「わからない。でも見つける」
リリオンが頷く。
ティルナバンならまだしも、王都でミシャの行く先は思い至らない。
ランタンはミシャの様子を思い出す。フーゴと出会ってからのミシャは明らかにおかしかった。引っかかりはそこにしかない。ならばフーゴとの出会い、そして会話の中に答えがあるはずだった。
違和感は、去り際に。
「――昔と同じ場所に住んでるって、あいつ言ったよな」
「あいつって?」
「市で会った、フーゴ。ミシャはあいつのところだ。だからそんな面倒な言い方を」
「昔って、でも、どういうこと?」
「孤児院。貧民街の方の」
そんな回りくどい言い方をしたのはきっとなにかしらの理由でミシャを呼び出すためだったのだろう。
そしてミシャはその事に気が付いたのだ。
ランタンが扉を蹴り破るみたいな勢いで家を飛び出すと、すぐリリオンがそれを追いかけた。
乗合馬車はこの時間は営業していない。ミシャに許されるは徒歩での移動だけで、ベッドに横になった形跡があることを考えれば、ランタンたちと別れてすぐに家を出たわけではないだろう。急げば、間に合う可能性だってあるはずだ。
だが土地勘がない。
王都を訪れてまだ半日程しか経っていない。王都の地図をちらりと見せてはもらったが、はっきりとは覚えていない。
ミシャは毎日のように道が変化する迷宮特区を移動する引き上げ屋の仕事柄、短時間で道を覚えることを得意としていた。
「こっちよ、ランタンっ!」
取り敢えず貧民街の方角を目指して走り出したものの、ランタンは複数に分岐する辻で立ち止まった。そんなランタンの腕をリリオンが引っ張った。
戸惑いながら付いていくランタンに、リリオンは息を荒らげながら言う。
「甘い匂いがするの。ランタンがあげた香水の匂いだわ」
「匂い? そんな、え――」
予想外の発言に、ランタンは一瞬思考が停止してしまった。どうにか絞り出した言葉は、匂いを辿れるかどうかとは別の疑問だった。
「――知ってたの?」
「わたし、ずっとランタンのこと見てるもん」
リリオンはそう言って、少し恥ずかしそうに笑った。
「見られてたか」
「うん」
「嫌じゃなかった?」
「どうして?」
「――なんでもない。それより本当にこっちで合ってる?」
「もちろんよ!」
ランタンにはまったく香水の匂いは感じられない。居住区には生活臭が満ちているし、貧民街に近付くにつれてその臭気は悪臭を帯びてくる。
まさか犬じゃあるまいし、匂いを辿れるとは到底思えなかった。
だがリリオンは自信満々でランタンを先導して走り続け、ランタンはそれを信じる以外に頼るものがない。
リリオンが急に立ち止まった。
「ランタンっ!」
「どうした?」
「――ここどこ?」
ランタンはつい思わずリリオンの尻を引っぱたく。八つ当たりじみた行動だったが、リリオンは反省するようにしゅんとするだけだった。尻をさすさす撫でながら、乱雑に建ち並んだ古屋の辻に視線を彷徨わせる。
「うう、でもこっちであってると思うの。ただ匂いが……」
あえて嗅ごうとしなくとも、すでに饐えた臭いが鼻腔に触れていた。
からん、と酒瓶が転がる。
視線の先に人が倒れている。散乱するゴミと、壁際に澱む影に混じって気が付かなかった。遠目には死んでいるかと思われたが、近付くとただ酔い潰れているだけだと見て取れた。ランタンは酔っ払いの胸ぐらを掴む。
ランタンは二、三度、酔っ払いの頬を張ったが意識を取り戻すことはなかった。
「くそ、これだから酔っ払いは」
ランタンは酔っ払いをその場に捨てる、外套を脱いだ。
「ランタン、なにするの?」
「変態をおびき出す」
そして戦鎚もリリオンへ渡し、身を潜めるようにと告げた。
走って乱れた髪を掻き回して更にぼさぼさにして、空の瓶を蹴っ飛ばした。
闇夜に鳴子のように音が転がり広がる。
ランタンはその場に蹲った。左腕を胸に抱き込み、探索者証を隠した。息を全て吐ききって、肩を震わせる。
視線は貧民街を走る間ずっと感じていた。住人たちは隠れて二人のことを観察しているのだ。それが自分たちに害をなすものか、無視していいものか、歓待すべきか、それとも獲物か。
人気のない路地で身体を丸めるランタンの姿は、いかにも哀れな迷子の子供のようだった。
それは声を掛けるなどと言う面倒なことはしなかった。古道の闇から突如現れた男は背後からランタンに覆い被さろうとした。
だが突如振り返ったランタンに喉を掴まれそのまま壁に叩き付けられた。何が起こっているのかわからず、男の目が激しく瞬かれた。
ベルトはすでに外されていて、下着ごとズボンがずり下がって興奮したそれが露わになった。
「僕と同じぐらいの背の、おかっぱの女の子を見なかったか。虎の毛皮をしている」
男の目が、知らないというように震えた。
「なら、この辺に孤児院はあるか」
赤い瞳に睨まれて、見る見るうちに縮こまっていく。
「三秒以内に答えろ、いち、に」
「……な、い!」
気道を潰された掠れた声で男は応えた。
「ほんとうか?」
「ほん――」
「じゃあお前は用無しだ。別の人間に聞く」
「あ、……は、ほ、……もう、……な、――」
「もう?」
ランタンは手を外した。喉に、くっきりと指の跡が浮かび上がっている。男はひゅうと息を吸い、身体を折り曲げて激しく咳き込む。ランタンはお構いなしに告げた。
「なら、あった場所に案内しろ。下着を穿け」
男が茂みの中に埋もれるほど小さくなったそれを下着で隠すのを確認して、ランタンはリリオンを呼んだ。外套を身に付け、戦鎚を帯びる。
男の視線がランタンとリリオンを往復し、リリオンの腰の二振りの大刀に身体を震わせる。
ランタンはポーチから金貨を一枚取り出す。
「全速力で走れ。止まったら、もう二度と走ることも、歩くこともできないと思え。だがちゃんと連れて行くならこれをやる。行け」
男は追いつかれたら死ぬとばかりに走り出した。
手足がしっちゃかめっちゃかに動き、まるで溺れているみたいな動きだった。転びそうになるとランタンが襟首を引っ掴んでそれを許さなかった。
男は悲鳴を上げて加速する。死神から逃げるように。
リリオンの鼻は、確かに匂いを辿っていたのかもしれない。その廃孤児院に辿り着くまで、五分もかからなかった。だが案内がなければ、辿り着けないほど入り組んだところにあった。
ランタンは男に金貨を投げ渡し、さっさと消えろと言わんばかりに顎を動かした。男は呼吸もままならないほどに息を荒げ、顔を真っ青にし、脂汗を滴らせるほど疲労していたが、金貨を握り締めると脱兎のごとく逃げ出した。行きと同じぐらいの速度だった。
ランタンはその姿を見送ることなく孤児院に踏み込んだ。
「ミシャの匂いは?」
「するわ」
ランタンは鼻を動かしたが、まったくわからなかった。
孤児院は幾つもの個室を有する独房のような造りになっていて、はたして真っ当な孤児院だったかどうかも疑わしい。だが子供たちの気配は既に失われて久しく、その疑問を明かすことはできそうになかった。
フーゴはここに寝泊まりしていたのだろう。院長室だろうか、他の部屋とは違う大きな部屋があった。家具の一式が揃っていて、そこにだけ生活感があった。
食料、酒、武具、脱ぎ散らかされた衣服。
衣服の中に女物の服もあったが、ミシャの服はなかった。一纏めにされた武具は、誰か一人だけのものではない。様々な紋章が刻まれていた。
複数人で暮らしていたと考えるよりも、色んな人間から奪った品であると考える方が適当だと思われた。
もしかしたら混沌の刃の紋章が刻まれた武具があるかもしれない。だがランタンはそれを探そうとは思わなかった。
用心棒稼業の役得としてか、それとも誘い込んで殺して奪ったのか。
多くのことを考えることもできたが、ランタンはそれをしなかった。
ミシャのことだけを考えればいいだけだった。
孤児院には中庭があった。月の光も届かないような中庭は闇が堆積するかのように暗く、だがほのかに発光する何かがある。
駆け寄って拾い上げたそれは炎虎の毛皮だった。そして護身用の短刀があった。
毛皮からミシャの体温は失われている。香水とミシャの体臭だけがそこに残っていた。短刀は使われた形跡がなかった。抜いて、なにかしらの理由で落としたのだろう。辺りに血の臭いはない。
土の地面に足跡がある。戦いによって踏み荒らされているのとは違う。それが向かう先は井戸であり、折り返しの足跡がない。
ランタンは毛皮を腰に巻き、抜き身の短刀を布で包んで腰に差した。
井戸を覗き込む。かなり近いところまで水位があった。
「この下よ」
同じように覗き込んだリリオンは、しきりに鼻をひくつかせたかと思うと断言した。
ランタンはその言葉を信じ、井戸を降りた。
「浅い」
井戸自体が浅く二メートルほどしかなかったし、底に溜まる水も掌の厚みほどの深さしかなかった。しかし広さはランタンとリリオンが二人揃っても問題ないほどで、水は戦闘靴越しに伝わるほど冷たかった。
井戸の側面に扉がある。リリオンがそれを開けようとしたが、眉を寄せて振り返る。
「鍵が――」
ランタンは蹴りの一発で扉を粉砕した。
「行くよ」
リリオンの返事を待たず、ランタンは扉の先にある階段を下った。
戦鎚に包帯を巻き、油を染み込ませる。リリオンを背後に隠して、ランタンは火を灯して即席の松明を作った。
階段を下った先は下水道に繋がっていた。思ったよりも汚くはないが、それでも悪臭が満ちている。万に一つのことを考えてリリオンを下がらせたが、毒ガスや可燃性ガスは発生していないようだった。
リリオンはベールを装着し、ランタンはハンカチで口元を隠した。無いよりはまし程度である。
もう匂いを辿ることはできない。
炎が揺れ、辺りを照らした。
巨人族の時代からあるほど古くなさそうだったが、かといって新しいわけでもなかった。
中央を濁った汚水が緩やかに流れており、左右に足場が作られてずっと向こうまで伸びている。水面には泡が不気味なほど白く浮かび、汚らわしい虹色の油膜が張っていた。確認したくない固形物が、幾つも流れている。
そして通路にくっきりと浮かび上がった濡れた足跡が、さほど遠くない過去に人が通ったことを教えていた。
「走るよ。滑って落ちないように」
「わかってるわ」
二人は足跡を辿って走り出した。苔や黴、謎のぬめりが足を滑らせようとしている。あるいはそれは害獣どもの糞なのかもしれない。
壁に張り付く多脚の虫に、汚水の泡が弾けた飛沫から生まれたような気味の悪い羽虫が、光を恐れて逃げていく。
だが全てが逃げていくわけではなかった。
鼠だった。犬ほどの大きさもある鼠の一団が、通路の横幅目一杯に広がって問答無用の速度で突っ込んでくる。
何かに追われているのかもしれない。
目の前に突如現れた松明の炎にも、二人の人間にもお構いなしで鼠は駆ける。
「跳べっ!」
ランタンに続いてリリオンが跳躍した。天井に頭を擦るような大跳躍は、殿の鼠の尻尾の先を危うく踏み掛けてリリオンの着地を乱した。
「あわわっ!」
ランタンは咄嗟に反転して腕を伸ばし、リリオンを抱き寄せた。リリオンはほっと息を吐く。ランタンは今まで後ろを振り向かず走ってきた自分にようやく気が付いた。
深呼吸はしたくなかったので、ただ大きく息を吐いた。急ぐべきだ。だが焦るべきではない。
ランタンは意地悪に呟く。
「あわわ」
「もうっ、ちょっとびっくりしたの!」
「落ちなくてよかった」
リリオンは汚水の水面に目を向けて、さすがに不快そうに眉を寄せた。そしてベール越しにランタンの首筋に、あるいは襟の内側にまで鼻を押しつけて胸一杯に匂いをかいだ。
「すう、はあ、すう、はあ。――もうおちついたから、へいき」
「ああそう」
「ランタンもおちつく?」
リリオンはランタンの顔を胸元に引き寄せる。ランタンは無抵抗に顔を埋めるどころか、膨らみに顔を押しつけた。背に回した腕でいっそう強くリリオンを抱きしめて向こう側の通路まで跳躍した。
冷静になることはできても、落ち着くことはできない。
汚水の中から、水柱を上げて巨大な生き物が飛び出てきた。それは先程までランタンたちが立っていた場所を狙っており、虚しく空を噛んだ牙ががちんと硬質な音を奏でた。
「とかげっ?」
「鰐かも」
「なんでそんなのがこんな所にいるのよっ?」
「知らないよ」
あるいは魔物だったかもしれない。一瞬のことだったが、なかなかの大きさだった。
正体不明の鰐蜥蜴は汚水の中に身を沈めた。足場の悪さもあってのことだが避けるだけで精一杯だった。
汚水に潜って仕留めようと言う気には到底ならない。だが無視するには脅威であるし、かといって足を止めて再び出てくるのを待つ気にもならない。
水面は鰐蜥蜴の姿が幻だったかのように穏やかに流れている。水中の影を捉えることもできない。汚水の濁りは姿どころか気配を完全に隠した。
「リリオン、僕は向こうの通路に戻る。この道の狭さじゃ二人同時には戦えないし。水面に警戒しながら進む。何かあったらすぐ報告」
「わかったわ」
「水面だけじゃなくて、前も後ろもね」
リリオンははっとして顔を上げて、それから二人は早足で歩き出した。
「ねえランタン」
「ん?」
「ミシャさんは、どうして一人で行ったのかな」
「……わからない」
もし自分なら、と考えた。
もし自分がリリオンを置いて、あるいは迷宮に向かうとしたらどういう状況だろうか。そんな風に考えると下水道が久しく攻略していない迷宮のように感じられた。
リリオンを置いていく必要がある時、それは決死の戦いの時だろう。だが死の定められた戦いは、きっと存在しないはずだ。どんなに分が悪かろうと、生の道はある。
ミシャはどうして一人で行ってしまったのだろうか。
思考は、突如として逆巻いた水面に寄って中断させられた。ランタンとリリオンが同時に足を止めて臨戦態勢を取った。ランタンは戦鎚を構え、リリオンは足場の狭さから銀の大刀のみを構えている。油断無く水面を見つめる。
鰐蜥蜴では、なさそうだった。だがあのような生き物が住んでいるのだから怪魚の類いも生息しているかもしれない。水底から大きな気泡が浮かび上がった。
一瞬クラゲかと思ったが、それはただの泡でしかなかった。粘性の膜によって作られた泡は、水面で一秒も形を保って、ぼこんと音を立てて弾けた。それから十秒ほど水面を見つめていたが、なにも現れはしなかった。
リリオンがほっとして息を吐いた時、ランタンはまだ神経を尖らせていた。
「ランタン?」
「しっ、……――人の声だ」
それはミシャの声ではなかったし、二人分の声だった。談笑しているのかもしれない、笑い声さえ聞こえてきた。フーゴの声などはっきりとは覚えていない。
だがきっとそうなのだと思った。
ランタンは声のする方へと走り出した。
一人はフーゴで、もう一人は知らない男だった。フードを目深に被っており、その顔を確かめることはできない。左手にカンテラを提げている。
「ミシャ!」
フーゴの肩にミシャが担がれていた。拘束はされていないが、ぐったりとして意識を失っている。
距離を詰めるのに一秒もかかるまい。だがフーゴの反応はそれよりも早かった。振り落とすみたいにミシャを肩から降ろすと、乱暴に襟首を引っ掴んで意識のないミシャを汚水に落とす素振りを見せた。
「一歩でも動いたら糞だめに落っことして、糞どもの餌だ」
ランタンとリリオンは、影鬼に影を踏まれたように立ち止まった。
ミシャは眠るかのように意識を失っていたが、それゆえに赤く腫れた頬が目立った。唇を切ったのだろうか、口角に血が滲み黒く固まっている。
「ミシャさんになにしたのよ!」
リリオンが激昂して怒鳴った。フーゴは肩を竦める。
「昔話でもしようと思ったのに、ぎゃあぎゃあとうるせえから少し黙らせただけだよ。なあに、初めてのことじゃない。なんたって昔なじみだからな。はははっ」
座らぬ首ががくんと落ち、流れた黒髪が顔に影を落とした。
その様にリリオンはますます激しく怒りを募らせる。だが動くことはできない。リリオンの歯ぎしりが聞こえてくる。
「もしその手を離したら、殺してくれと祈らせてやる」
ランタンが低い声で告げる。例えば、幼なじみなのに何故そんなことをするんだ、とかそう言った情に訴える行為は試す気にもならなかった。そんな言葉が通じるのなら、このような状況に陥ってはいない。
フーゴは驚いたように目を丸くして、からかうみたいに口笛を吹いた。
「やっぱただのぼんじゃないな。こんな所にまでこいつを探しに来たのか? ご苦労なこった」
フーゴはまるで悪びれることなく、市場の時と同じ快活な笑みを浮かべていた。この上なく不愉快な笑みだった。笑ったまま、鱗に覆われた頭をつるりと撫でる。
「ったく、予想外だな。呼ぼうとは思ってたんだが、招待状もまだなんだよな。予定が狂ったぜ。なあお前ら、お前ら二人とも人族か?」
「それがなんだ」
ランタンが答えると、フーゴはやはりまた笑った。だがその表情の中には隠しきれない悪意があって、ほんの些細なきっかけで本当にミシャを汚水に落としかねない気配があった、
「人族は部品が余ってるんだよ。ぶっ殺したところで儲けにならねえ。奴隷にすりゃそれなりの値が付きそうだが、生け捕りにするにはちょっと面倒そうだしな。あーあ、やだやだ」
どうするかな、とフーゴは大きな独り言みたいに呟いた。カンテラの男はフーゴの背後に佇み、一言も発さない。フーゴよりも身体付きは一回り大きい。なのにミシャを担ぐのはフーゴである。
つまり関係性はフーゴが下で、カンテラ男が上か。
世の中の序列は探索者のように腕力だけで決しはしないが、腕力が重要な位置を占めるのも確かである。そう考えると、ランタンは迂闊に動くことはできない。
彼我の距離、爆発ですっ飛んでミシャを取り戻し、そのまま後ろに抜け、二人を無力化する。あるいはフーゴを無力化し、ミシャを助け、カンテラ男の相手をする。リリオンはきっと一も二もなくランタンに追従するだろう。
だが。
ランタンは頭の中で行動の種類と順番を入れ替えるが、やはりどうしても実力の未知数なカンテラ男が邪魔だった。フードの中、カンテラに下から照らされてなお払えぬ影は、そこに肉体が存在するのかを疑問視させた。得体が知れないとはこのことだ。
この状況下にあって、二人とも武器を構える気配すら見せない。侮りではなく、ある種の確信に裏打ちされているように思う。あるいはそれすら擬態か。
「……孤児院にあった装備品、探索者をさらってるのか」
「ひとん家を勝手に見るんじゃねえよ」
「さらってどうしてる。部品ってことは、臓器売買でもしてるのか」
「……」
「黒い卵に獅子の闘士を紹介したのはお前か?」
思考する時間を稼ぐために、手持ちの情報を闇雲に繋げただけであった。
だがそれは真実だったのかもしれない。
「面倒くせえな、ああ、面倒くせえ。こいつはほんとずりいよなあ、女ってだけで面倒見てもらえてよ。俺だって金ぐらい楽に稼がせてくれよ。ったくよう、殺すのは面倒くせえし、後始末も面倒だ」
動いたのはカンテラ男だった。ごく自然な動作でカンテラを汚水の中に放り投げる。
ランタンは足元に爆発を発生させて身体を押し出した。フーゴは反応できていない。カンテラ男は闇に紛れたが、知ったことか。
まずミシャを身の内に抱き込む。そしてあたり構わず爆発で薙ぎ払う。殺せたら良し、そうでなくとも体勢を立て直す時間は稼げる。
だがミスがあった。松明と化した戦鎚。火は消えかかっていたが、カンテラの明かりが消えた今、それはランタンの位置をありありと浮かび上がらせていた。
水音。カンテラが水没した音ではない。巨大な生き物が水の中から現れる音だ。
ランタンは身の千切れそうなほどの速度の中で戦鎚を振りかぶった。手応えは鈍く、だが追撃の爆発によって喉を裂いたような悲鳴が上がった。爆炎に照らされたのは鰐蜥蜴。
汚水の中に隠れていた胴体は、それが普通の生物ではないことを告げていた。手足の数が普通の鰐や蜥蜴を倍にして足らない。
半秒遅れた。フーゴが背を向け、ミシャの姿が隠れた。
喉笛を炭化させたそれは大きく痙攣しながら汚水に没した。盛大な水柱が上がる。
そしてその水柱は意思を有していた。粘性を帯び蠢き、体積を増大させ、腹を見せて浮かぶ鰐蜥蜴の死体を封じ込め、通路上へと這い出てくる。
それは壁に天井にと張り付き、ぶ厚い膜となってランタンとフーゴを隔てた。
「不定型生物!」
リリララの話はリリオンを怖がらせるための方便ではなかったのだ。
ランタンは戦鎚を振り下ろしたが打撃の衝撃は吸収されてしまった。爆発を発生させるが、一瞬だけ穴が空くもののそれはすぐに塞がってしまう。それに臭い。
下水に魔精は乏しいが、食料は豊富にある。廃棄された食料、売り物にならなかった魔物の素材、人の死体、汚物、そういったものを喰らって迷宮でもお目にかかれないほどの大きさに成長したようだった。鰐蜥蜴の肉体も、恐るべき速度で分解されて、すでに白々とした骨が見え隠れしていた。
核はどこだ、とランタンの目が闇の中でそれを探す。だが見当たらない。
膜の向こうでフーゴが笑ったような気がした。何かランタンに語りかけているが、液体に音を吸われてなにも聞こえない。フーゴはミシャを担ぎ直しランタンに背を向けた。
悠々と歩き、離れていく。
「ランタンっ!」
リリオンが背後で叫んでいる。振り返ると、背後にも不定型生物の膜壁が出来上がっていた。二体目の出現か、あるいは中央を流れる汚水を含む全てが一体の不定型生物の肉体なのだろうか。
不定型生物の肉体を構築、維持する核が見つからない今、ランタンが全身で膜壁に飛び込み、同時に爆発を駆使することがフーゴを追う最速の手段である。だがそれは同時にリリオンをこの場に残していくことを意味した。
リリオンのためならばなんでもする。
それは心の内から自然に湧き出た想いだった。願いのような、祈りのような、生命の意味のような。
ランタンはその気持ちを大切にしていたし、揺るぎのない絶対的な誓いだと思っていた。
ミシャ。
ランタンは自らの肉体が、真っ二つに引き千切れるような痛みを感じた。
「ランタンっ!」
リリオンの声。
光。
「――行くのよっ、ランタンっ!」
リリオンは二刀を構え、効果は薄くともお構いなしに不定型生物に斬りかかった。
そして膜の向こう側から、一筋の雷光が弩砲のような勢いで不定型生物を貫いた。わずかに空いた穴に、汚水で構成されたそれに、躊躇うことなく頭から突っ込んでくる人影があった。
不定型生物の溶解液が肌に触れたのか僅かに呻き声を上げる。
だがそれは着地をすると同時に、再び恐るべき威力の雷を発生させた。
それは駆け出しているランタンを追い越して、鰐蜥蜴の死体ごと膜壁に穴を空けた。ランタンは爆発を纏って飛び込み、閉じつつある穴を無理矢理こじ開けて突破した。
そして振り返ることなく、その勢いそのままにフーゴの背中を追う。
雷光に照らされたその顔は、シーロのもので見間違いなかった。