016 迷宮
016
最下層へ踏み入る前に最終確認を行ったのだが、最終目標は丸まったまま微動だにしなかった。リリオンはその姿を見て、寝ているのかな病気なのかな、などと言っていたが睡眠はさておき病気ということはないだろう。
なにしろ相手は辺り一面の魔精をその身に宿す最終目標である。魔精は身体能力を強化し、その効果は免疫機能にも作用する。もし最終目標が病気ならばそのことに幸運を覚えるよりも、それが感染性の病気でないことを神に祈るばかりだ。
魔精鏡を背嚢にしまいながら、溜め息を一つ。
「それに寝ていてもね……」
ランタンは巨大な一枚の壁のようになっている魔精の霧を見上げた。
この魔精の霧は鳴子のようなものだ。もし睡眠状態であったとしても、この霧を通り抜けようとするものは、これを通じて最終目標に感知される。この魔精の霧が最終目標に吸収されない理由は、これ自体が最終目標の感覚器官である、と言うような考察もあるが真実のほどは定かではない。
なんにせよ霧を通ると言うのは視線を横切るどころか、体内を這いまわるに等しい。この警戒網を掻い潜ることのできる探索者は高位探索者でも一握りであり、その技術はランタンには到底真似の出来ないものである。
「ええっと、それって……」
「ま、入ったら即戦闘ってことだね」
にっこりと笑い朗らかに言ってのけたのはリリオンを安心させるためである。病気なのかな、などという台詞は本心からそう思っていると言うよりは、そうあって欲しいという願望なのだろう。要はリリオンはこの先に居るものを恐れているのだ。
ランタンは背中を丸めて俯いたリリオンの頬を両手でそっと挟み込んだ。
瞳に力はないが、頬が柔らかく、血色も良い。
昨晩はリリオンがせがんだので二人で一つの毛布に包まり夜を過ごしたのだが、なんとなく他人の体温やら柔らかさやらを意識してしまったランタンをよそにリリオンは充分に熟睡していた。寝起きも悪くなく、朝食も帰りの荷物になるとばかりに山ほど食べていたし、体調は良さそうだった。
掌の間に頬を挟んだままランタンは背伸びをした。俯こうともリリオンの顔は高いところにある。一晩寝て、また少し身体が大きくなったような気がした。
「……」
さて、どうしたものか。
ランタンは思わず掴まえてしまった頬を持て余していた。濃い睫毛に縁取られた瞳がランタンの瞳と向き合い、また逸らされる。ランタンはじっとリリオンの瞳を覗きこんだまま黙っていたが、このままでは埒が明かない。
「……」
もしもリリオンとの関係が恋人やそれに類するものであるのならば、そのまま顔を引き寄せて接吻の一つでも与え、君は僕が守る、などと言うような台詞を大まじめな顔で伝えれば、この後の戦闘も含めた探索全般が何だかんだで万事解決しそうなものだが、今この場でそんなことを行なうのならば脳の異常があることが間違いないので、いそいそと帰還の準備をはじめなければならない。
無論、ランタンは正常であったのでそんなことは行わないし、行わないのだから帰還もしない。
つまりリリオンが怖じけついていようとも、ランタンは最下層に入り、最終目標と戦う。これは決定事項だった。
「……このまま、ここで待っててもいいよ」
この場所ならば魔物の出現はなく、この迷宮が現れてからの日数的にも最終目標が最下層から出てくるということは考えられないのでおそらくは安全だろう。ランタンが最終目標に勝利できれば最善だが、負けて帰らなければ一人で出口を目指せばよい。ミシャに払う後払いの引き上げ代を今の内に持たせておけば揉めることもないだろうし、超過料金が必要になったとしてもリリオンの背嚢には魔精結晶がしまわれているのでそれで賄えば何の問題も起こらない。
「――いたいっ!?」
返答は頭突きだった。
「どうしてそういうこというの!」
怒鳴りつけるリリオンを、ランタンはじんじんと痛む額を押さえながら見上げた。
「あんまり、行きたそうじゃ、なかったからね」
額から手を外すとそこが赤くなっているがランタンには見るすべがない。それでもまるでその赤みを消すかのように親指の腹でそこを擦った。その際にランタンが掌によってリリオンからの攻撃的な視線を遮ったのは偶然のことで、意図したものではない。
だがリリオンはランタンのその手を掴んで外した。指先がやや冷たいが、覗きこむ瞳には涙のように湛えられていた弱気の代わりに決意が満たされている。
「わたしも行くから!」
啖呵を切ったリリオンに、ランタンは意地悪に唇をにぃと歪めて掴まれた手をそのまま掴み返し、赤子でもあやすかのような手つきでリリオンの手の甲を撫で擦った。
「怖いのなら、無理しなくてもいいんだよ」
その言葉にリリオンは噴火寸前の火山のように顔を赤くして瞳が零れんばかりに瞼を見開き、胸を反らすように鼻から息を吸い込んで、きっちり一秒間、吸い込んだその息に感情を練り込むように黙ったかと思うと叩きつけるように吠えた。
「わたし、怖くないわ! ランタンの出番がないぐらい、わたしだってがんばるんだからっ!!」
じぃんと響く鼓膜の痺れが心地よかった。
ランタンは優しく撫でていたリリオンの手を両手でぎゅうっと力を込めて握りしめた。
「うん、がんばって、期待してるよ。――さて、僕もリリオンの出番がないぐらい頑張らないといけないね」
「……っ――うんっ、がんばるっ!」
ランタンはリリオンの手を離し、そのままぐっと身体を伸ばした。
ランタンの戦鎚も、リリオンの方盾や大剣も戦闘に支障が出るような傷や歪みはない。リリオンには昨晩の内に幾つかの魔道薬を渡しているし、作戦と呼べるほどではないが戦闘方針も伝えてある。
リリオンはまだ赤みの残る頬もそのままにランタンが握りしめていた手を胸に当てて、もう片方の手でそれを上から押さえつけていた。それは昂った精神を静めているようにも、手の中にあるランタンの体温を胸の中にしまっているようにも見える。表情は穏やかであり、力強い。
突入準備はもうほとんど済んだ。が、まだ一つ残っている事がある。
「リリオン、これ」
ランタンが円形缶を取り出しそれをリリオンに見せると、リリオンは気丈な表情を台無しにした。あからさまに嫌そうな、うんざりした表情である。ランタンが見せつけたそれは気付け薬の携行缶であり、その中に収められた物の味をリリオンはよく覚えていた。
「わたし、飲まなくても、だいじょうぶだと思う」
迷宮を探索することでリリオンの身体も幾ばくかの魔精を取り込み、身体能力の上昇にも馴染んでいる。もしかしたら本当に大丈夫なのかもしれないが、その泳いだ視線はただ気付け薬を服用したくないと声高に宣言しているようなものだった。
「必要なかったらぺって吐けばいいよ。噛んだり舐めたりしなきゃ、そうそう溶けないし」
そう言ってランタンは手本を示すように口の中に丸薬を二つ放り込み、舌先でそれを奥歯の隅に追いやった。
「うー、……んっ」
リリオンも渋々それに従い、嫌そうな表情丸出しで丸薬を口の中に入れた。
ランタンは携行缶をポーチへしまい、戦鎚を腰から抜き取るとくるんと手首を回す。リリオンも盾を肩から下ろした。だが剣は抜かない。
「さて、行こうか」
「――うん」
手を繋いで、霧の中を行く。
霧は一気に走り抜けてもいいし、ゆっくりと歩いて行ってもいい。霧に入った瞬間に最終目標はこちらに気がつくが、それは臨戦態勢ではない。もぐら叩きのように霧を抜けた瞬間に襲われることは、少なくともランタンは経験をしたことがない。大抵は霧からある程度の距離を保ち、何が出てくるかを伺っている。
手を引きながらゆっくりと歩く。
視界は白一色で、何も見えない。ただ肌にぴりりとした痺れがある。それは最終目標の視線なのかもしれないし、ただそれが発する気配なのかもしれない。どちらにせよ友好的なものではない。リリオンもそれを感じているのか、繋いだ手の力が強められた。
握り返してやりたいところだが、そろそろ手を離さなければならない。
「抜けるよ」
リリオンもそれを理解している。ランタンが指先から力を抜くよりも早く、リリオンの手が自らの意志によって剥がれ落ちていった。霧の中で抜刀音が響く。
そして視界は白一色から、光の下へ。
最下層は広く開けている。壁は迷宮のような灰白色ではなく、もう少し暗い色をしていて、しかしやはり発光しているので視界を取るには充分な光量があった。
中央に臥す巨大な最終目標の威容が照らされている。光に浮かび上がるそれは盛り上がった影のようでもあり、積み上がる泥の山のようでもあった。顔をこちらに向けて、視線がランタンたちを捉えるとひどく緩慢な動作で身を起こした。微睡みを邪魔されて苛立っているのか、低く地鳴りのように喉を震わせた。
それは熊だ。
黒青色の毛皮に身を包み二本の足で立ち上がったその姿は、暴力的なまでに巨大だった。体長はおそらく五メートルを超えている。左右に開いた腕が短く見えるのは、それが太いための錯覚でしかない。その先端には湾曲刀を思わせる長く鋭い鉤爪が五つ剥き出しになっていて、人の肉など容易に斬り裂くであろうことを想像させた。
口を開くと杭のような牙に囲まれた赤い口腔が覗いた。
その瞬間に、ランタンは意識を失いかけた。
「――っ!?」
それは熊の咆哮だった。音の振動が叩きつけられて、まるで全身の骨が背中から弾け出たかのような衝撃があった。煽られた外套が音を立てて翻る。
ランタンは揺さぶられた脳で素早く状況を確認していた。
手足に力は入る。熊は向かってくる。リリオンは大丈夫だろうか。
振り向くと同時に、ランタンの足が跳ね上がった。視界に入ったリリオンは放心状態でどうにか盾を持ち上げているだけだ。自力で熊を避ける事はかなわないだろう、と判断した瞬間にはランタンはリリオンを蹴り飛ばしていた。
「しぃっ!」
全力の回し蹴りが盾の中心を捉えて、リリオンが真横に吹き飛ぶ。ランタンはそのままリリオンから視線を切り、蹴りの勢いに任せて回転して戦鎚を横に薙いだ。熊はもう目の前にいる。
衝撃。
「ひぅ!」
ランタンの頭がもげそうな程後ろに反った。それでもランタンは柄と槌頭の根本に手を添えて突進を受け止めた。足を踏ん張ることができたのは、奥歯に挟んだ気付け薬が衝撃により砕けたからだ。涙がでる。
「ぎぃぃっ!!」
体重差は楽観的に見積もっても二十倍以上になるだろう。それでもランタンはどうにか持ち堪えていた。奥歯が砕けそうで、涙を拭く暇どころか口腔を焼く気付け薬を飲み込む暇もない。足元の地面がじりじりと陥没してゆき、ゆっくりと身体が押し込まれる。
柄を噛む口がでかい。このまま飲み込まれそうだ。
だが飲み込むより先に、切り裂かれる恐れがあった。熊が身体を前に推し進めるように踏ん張っている脚の、前肢の一つを持ち上げたのだ。鉤爪が横から回りこむようにして背中を引っ掻こうとしている。
触れた瞬間に外套も戦闘服も紙のように破られ、肉も骨も関係なくバターのように切り裂かれるだろう。熊を押し返すには、突進を受け止めた時の衝撃が邪魔をしている。
気付け薬のせいで口の中に唾液が溢れている。
「――ぷッ」
ランタンがそれを噴き、鮮やかな緑の霧が舞う。唾液で溶いた気付け薬は柄に噛み付く熊の鼻先に噴き付けられて、熊の鼻腔粘膜を劇物とも称される刺激が焼いた。熊は、ぎゃう、と存外可愛く鳴いたがランタンの耳はまだ最初の咆哮によって馬鹿になっているので聞こえない。
「――ぁぁあ!」
その声は遠くから聞こえるようだったが、実際はすぐ傍にあった。
怯んだ熊の隙を見逃さずリリオンが盾を構えて突進してきたのだ。直撃の瞬間に身体が沈んだかと思うと、リリオンは盾で熊の身体をかち上げた。ランタンに伸し掛かる圧力が軽くなった。
手が痺れている。ランタンは熊の腹部へと潜り込み強烈な蹴りを放った。爪先が爆発によって押し出され、加速した踵が熊の脇腹にめり込む。手応えは分厚いゴムを蹴ったようだ。
ランタンは一瞬で追撃を諦めて素早く熊の元から離れる。リリオンの襟首を引っ掴むと射出されるように跳躍した。
「ぐぅ――」
リリオンが呻いているが、気にしている余裕はない。先程まで居た場所に熊の爪痕が深く刻みつけられていた。気付け薬からの復帰が早い。蹴りは全く問題にもなっていないようだ。
ランタンはリリオンを一瞥して放り出した。涙目になっているのは恐怖か、気付け薬を噛んだからか。きっと後者だろう、とランタンは笑い、自身の涙を拭いた。口の中にこびり付く刺激を舌でこそげ取るとぺっと吐き捨てて、熊に向かって駆けた。
熊は立ち上がり、ランタンを待ち構えた。
腕が長い。ランタンは予想よりもだいぶ遠くで身体を沈めて振り回されたその爪の一撃を避けて、鋭角に曲がり熊の横を取ろうとした。だが熊はその場で独楽のように回ってみせ、大鎌のように再び腕が振るわれた。
ぎいんっ、と硬質な音が響く。聴覚も回復している。
ランタンは戦鎚で鉤爪を受け止め、衝撃に逆らわず鍔迫り合いを避けるために自ら後ろに跳んだ。再装填するように鋭く息を吐いて、再び駆けた。距離をとってまた突進されても面倒だ。首の後ろはまだじんじんと痛む。
股下まで潜ってしまえば、今よりはマシになるだろう。だがそこまで到達することが難しい。振り回される左右の腕が、もしかしたら熊としては羽虫を追い払うような牽制なのかもしれないが、ランタンからしてみれば必殺の一撃に等しい。躱した際に巻き起こる風さえもが厄介だった。
ランタンは瞳を叩いた風に目を細める。そして足元から振り上げられた鉤爪を飛び越えて、跳ね上がるその掌に足を掛けて、跳躍した。
「げっ」
熊の振り上げられた腕の勢いを利用した跳躍は背後を取るには滞空時間が長すぎる。勢い余って飛びすぎた。ランタンは人形のように跳ね上がり、頂点に達して一瞬静止すると重力に任せて落下を始めた。内臓が浮くような感覚が気持ち悪い。
妙に冷静になったのは俯瞰して戦場を見ているからだろうか。獲物が落下するのを待ち構えている熊さえもが他人ごとのようだ。そこから視線を外す余裕もある。
熊の背後からリリオンが駆けていた。風の様に速い。白い三つ編みが龍の尾のようにうねり棚引いている。足音に熊が反応したが、リリオンの腕と大剣を合わせた間合いは熊に匹敵する。
「やぁっ!」
高く甘い声が響き、剣風に乗ってランタンの鼓膜を揺らす。
爪が扇のように開き、熊も迎撃に腕を振り回した。
大気を断ち切る金属音を鳴らし、リリオンの放った横薙ぎが鋭く弧を描く。だが踏み込みが浅く、やや遠いか。鋒が鉤爪の先端を舐めてすり抜けた。リリオンが熊に背中を晒した。熊が笑ったようにも見えたが、それはランタンが見た錯覚でしかない。熊は牙を剥いてリリオンに躍り掛った。
「おぉ」
ランタンは落下しながら目を見開いた。
リリオンは向かってくる熊に対し、その場所から迎撃の意志を見せた。どん、と杭を打つようにリリオンの足が地面を踏みつけて固定された。腰が回る。背筋が服の上からでも一回りも厚みを増したのが判った。大剣が引き戻される。
「はぁぁっ!!」
ゆっくりと流れる時間の中で、リリオンだけが加速しているようだった。
高速の切り返しが熊の脇腹を捉えた。足を固定したリリオンがずるりと後退するほどの衝撃がその場で弾ける。斬撃は刀身の根元近くで行われたせいもあって、熊の身体を斬り裂くには至らず、毛皮に浅く埋まりそこで止まった。だが驚くべきことにリリオンはそのまま刃を押し付け、熊のその巨体が浮き上がった。それは拳一つが入るような僅かな浮身であったが、ランタンはぞわぞわと鳥肌が立つのを感じた。
こんな遠くで見るには勿体無いとばかりに、落下速度を加速させた。
背中が爆ぜる。爆発的加速に血液が頭部に押し上げられランタンの視界が赤く染まった。しかし一直線に、引き寄せられるように熊へと向かうその顔には攻撃的な笑みが浮かんでいる。身体を捻り、戦鎚を引き絞るように振りかぶった。
熊の腕をすり抜け、脇腹を押し上げる大剣を横目に通り過ぎる。地面が近づき、ランタンは腹筋を固めた。
顔を見上げる。
地面に触れる寸前で、ランタンは身体の捻りを解き放った。撚った絹束が解けるように、なめらかに動き出した戦鎚が熊と地面の僅かな隙間に吸い込まれる。槌頭が上を向き、花火のように跳ね上がった。
「ふっ!」
握りしめた柄が両の掌に食い込み、槌頭が熊の身体を捉えた瞬間、みしりと手の甲が軋んだ。空に浮いた無防備状態を打ったというのに嫌になるほどに重たい。軋みが甲から前腕、二の腕から背中を這い上がる。
リリオンの戦闘靴が視界に入った。ここからでは膝頭までしか見えない。
ランタンは歯を食いしばってそのまま戦鎚を振り抜いた。勢い余って身体が回る。視線が膝頭から滑り、ベルトに囲まれた腰を、少し膨らむ胸を上ってゆく。首が細く、一筋の汗が流れている。
「はっはー」
リリオンは呆けたように口を開き瞳をまん丸にして、錐揉み回転して吹き飛ぶ熊の姿を眺めていた。ランタンはその表情を見てどこか誇るような笑い声を漏らし、猫のように身体を丸めて着地した。しかし、それでも殺せなかった落下の勢いにランタンは地面に鶴嘴を突き立てた。ぎゃりぃ、と大きく弧を描き引っ掻き痕を地面に残してようやく止まった。
手応えは上々だった。
吹き飛んだ熊は地面に激突すると一度大きく跳ねて、山肌高くから崩れた岩石のように地響きを鳴らしながら硬質な地盤を削り砂煙を立ち上らせながら転がり滑った。ランタンはそれを視界の端に捉えながら、リリオンに向かって歩いた。
戦鎚で、ごん、と盾を叩く。
リリオンは白日夢でも見ていたかのようにはっとして、ランタンの小躯をまじまじと見つめた。その視線が熱く、ランタンはそれを追い払うように手を振った。指先に痺れが残っているが、直に消えるだろう。
「ランタン……、やっつけた、の?」
リリオンがまさに、恐る恐るといった様子でこっそりと尋ねた。そこにある感情はあの巨躯を吹き飛ばしたランタンへと向けられたものでもあり、またあれほどの勢いで吹き飛んだにも拘らず死への確証を抱かせない熊への恐れでもある。
「まさか」
リリオンの恐れは正しい感情だ。上々の手応えも致命傷には程遠いだろうという予感があった。手に伝わったのは押し返されるような鈍い反動だった。
硬質な毛皮。分厚い皮下脂肪。高密度の筋肉と、それを支える堅牢な骨格。
巨大で、硬く、速い。
「まったく、嫌になるね」
「……ランタン」
不安そうに名を呼んだリリオンにランタンは微笑みをくれてやり、腕の感覚を確かめるように戦鎚を回した。
「さーこっからが本番だ。気合入れてくよ!」
途端に男らしい顔つきになったランタンに、リリオンは生唾を飲み込んだ。いつかランタンの手を握りしめたように盾と剣を強く握りしめて、走り出すその背中を追った。
朦々と立ち込める砂煙の奥から熊が爪も牙も顕わにして飛び出した。熊の右の脇腹からは血が染み出している。リリオンの斬撃は皮下脂肪によって命へとは届かなかったが、剛毛によって覆われた皮膚だけはどうにか裂いたようだ。それがランタンの打撃の衝撃によって内部から押し広げられている。黒青色の毛が青い血に濡れて、てらりと光った。
怒りに染まった視線はリリオンではなく、ランタンに向けられている。その瞳に見つめられたランタンは小馬鹿にするように口角を歪める。
熊にとって脇腹の傷は取るに足らない物のようだ。それよりも自らよりも何倍も小さい生き物に吹き飛ばされた事実が、よほど癇に障ったのだろう。巨大な図体をしてなんともみみっちい矜持であることだ。
青く濡れる唾液が糸を引いて熊が口を開き、再び咆哮が吐き出された。
「うっさ」
咆哮も来ると分かっていれば耐えられる。鼓膜が痺れ、一時的な無音状態となるが意識ははっきりしている。熊の挙動一つ一つがよく見えた。
熊が上体を僅かに捻る。身体を前に押し勧めるのは慣性による力であり、低空を飛んでいるかのようだ。左の腕が持ち上がり、怒りがそこに溜まっているかのように肩が盛り上がった。そう思った瞬間、大木のような腕がまるで細竹のように撓る。肩に溜まった力が、鉤爪のその先端に収束した。
ランタンは減速せずに、それどころか体勢を低くして爪に向かって加速した。間近で見る鉤爪は黒耀に似た輝きを放っている。五連装の死神の鎌だ。だがそれがランタンの命を刈り取ることはなかった。
ランタンはその渾身の怒りから一目見ただけで呆気無く視線を外し、するりと爪の下をくぐり抜けると熊の股下に滑りこんで背後に飛び出た。まるで水面を掻き分けるように、熊の鉤爪が地面に沈んだ。
予備動作が丸見えの大振りな一撃など、初速がどれほど早かろうと避けれないことはない。靴底が地面を削り、ランタンは即座に反転して戦鎚を担いだ。
熊の巨大な背中が、全力攻撃を躱されたことによって体勢を崩した。その奥からリリオンが走りこんでくる。巻き上がった石礫から身体を守るように盾を構えて、そのまま熊に激突した。
「やっ!」
裂帛の気合とともにリリオンが一歩二歩と熊を押し返して進んだ。だがさすが巨躯もあってそこからは先へは進めない。しかし均衡した力の押し合いによって、熊の動きは押さえ込まれている。
ランタンは戦鎚を担いだまま飛び上がった。狙いは延髄。首のやや斜め後ろに浮かび上がると、ランタンは戦鎚の柄を両手で握りこみ、これを振り下ろした。
筆で払ったように鶴嘴が黒銀の尾を引いた。直撃より先に破裂音がしたのは初速が音よりも速いせいだった。槌頭が白い傘を突き抜けると、そこには陽炎が揺らめいている。それは大気との摩擦のせいではない。
熊の剛毛が焼けて縮れた。酷い臭いに顔を歪める。爆炎を纏った戦鎚が熊の剥き出しの延髄に吸い込まれ、無防備なそこへ直撃した。
だが聞こえたのは熊の悲鳴ではない。
それは極硬く高重量の金属同士が打つかるような鈍い音だった。手首に鋭い痛みがあって、肉に衝撃を吸収されるような反動も骨を砕く感覚もなかった。ランタンの頬が引きつった。
「ズリぃ……」
毛を失い剥き出しになった皮膚が小さく細かな黒鋼の鱗を張付けたように硬質化していた。おそらく後頭部から首、背骨まで連なっているのかもしれないが、そちらはまだ毛に覆われている。
「――な」
んだ、と口にする暇はなかった。寒いと感じたのは風に撫でられたからだ。それは熊の方へと引き寄せられる、そよ風程度の空気の流れだった。全身の肌が一気に粟立つ。そよ風なんて、生易しいものじゃあない。魔精が渦巻いている。
ランタンは咄嗟に腕を交差させて身体を小さくした。その瞬間に、熊から激風が放出され、ランタンの身体を吹き飛ばした。上下左右にめまぐるしく回転する視界に一瞬だけリリオンが映った。
リリオンは地に足がついていただけあって、ただ後ろに押し返されただけで済んだようだ。だが壁の近くまで後退を余儀なくされている。高重量の盾、熊を押さえ付けるための前傾姿勢、踏ん張った足。それらを以ってしても、壁際まで。
ランタンは壁に叩きつけられる瞬間にその身に爆発を纏った。
「――ひぎっ! ――おふっ、ごほっ」
急制動による反動で内臓が掻き回され肋骨に罅が入ったが、生きているだけマシだ。ランタンは血の滲む咳を漏らし鉄味の唾を吐き捨てる。
遠くで風を身に纏う熊を見た。足元から旋風のようなものが立ち上っている。
熊が天を向くようにして、一つ吠えた。叩きつけるような咆哮ではなく、歌うように高く長く吠える。すると風の勢いが増した。まさか空でも飛ぶんじゃないだろうな、とランタンは身を固くしたが、熊は重心低く地面を踏みしめている。
熊の鉤爪が鈴のように鳴った。そして今まさに目の前の獲物を切りさかんとするように筋肉が膨らむ。
ランタンが息を呑んだ。
その瞬間、熊が回転するように鋭く大気を薙いだ。