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「あたし、外で待ってるわ。匂いつくと嫌だし」
どこにでもいる手合いを蹴散らし、屋台飯で昼食を済ませ、それから大通りをぶらぶらと歩いた。
リリオンは普段通りの様子をすっかり取り戻し、何にでも興味を示した。ふらふらと誘われるようにあっちこっちを見て回り、思わず入店したのは香水屋だった。
店中に入ると喉が痒くなりそうなほどの濃い匂いが満ちている。
棚には様々な意匠の硝子瓶が飾られていた。中に香水が満たされているものもあれば、空のものもある。好みの瓶に好みの香水を詰める事もできるようだった。カウンターの奥では様々な草花から香りを抽出しているのを見ることができた。
お洒落な店だったが、客層は様々だった。もちろん女の客が多いが、男もいるし、まったく店の雰囲気似つかわしくない探索者もいる。
香水は化粧品であると同時に薬だった。
探索者が求めるものは魔物の誘引やその反対の忌避効果、あるいは極限状態下における精神安定剤的な役割としての香りだろう。
単独探索者だった頃のランタンには今一つぴんとこなかったが、匂いというものは人を安心させる役割がある。
リリオンがランタンの匂いを求めるように、ランタンもまたリリオンの匂いに対する欲求を感じることがあった。その匂いが側にあると、ほっとするのだ。
リリオンの匂いが日常を思い出させるものの一つになっている。
「ランタンさんって結構、気ぃつかいいっすよね」
「なに急に?」
「リリオンちゃんの側にいればいいのに」
ランタンが訝しげにすると、ミシャは肩を竦めた。そして今の言葉がなかったかのように香水棚に視線を向け、一つを手に取った。
「お土産になにか買っていこうかな。ねえ、ランタンさん、これ似合うと思いますか?」
「……アーニェさんに?」
「ええ」
ランタンは色っぽい蜘蛛人族の姿を思い浮かべて、小首を傾げた。
あの容姿に香水の匂いを振りまいてしまったら、それはもうとんでもないことになるのではないだろうか。
「なに考えてるんすか」
「いや、男が寄ってきそうだなと」
「その心配はないっすよ」
だがミシャはあっさりと否定した。
アーニェの複眼と多腕は、この世界にあっても異質なものだった。あれだけの美人であるが、確かに男の気配は感じられない。時折入れ違いになる顧客の探索者はランタンよりもずいぶんと年上の古参が多いようで、口説かれている姿は見たことがない。
「そっか」
「ええ、そうっすよ。あ、これなんかいいかも」
ランタンは何となく甘ったるい香水を思い浮かべたが、ミシャが手に取ったのは爽やかな香りの香水だった。やや辛みを感じさせ、すっきりとして後を引かない。
「なんか格好良い匂いだ」
「でしょう。これにしようっと」
ミシャは誇らしげに笑った。そしてランタンの肩を叩いて、リリオンの方に押し出した。
リリオンは店内をあっちへふらふら、こっちへふらふらと様々な匂いに誘われるように彷徨い歩いていた。腰に吊った二振りの大刀が振り返る度に棚の商品をなぎ倒しそうで危なっかしい、
リリオンは外套から覗く得物のおかげで一目見て探索者とわかるが、幼い足取りがなんだか匂いに酔っ払ったかのような危ない人の雰囲気を醸し出している。店員も近付くに近づけない。
「なにかいいのあった?」
「うん」
リリオンは頷いたが、どれか一つに決められないようだった。一つに決めなくても、と思うが一番のお気に入りを探すのが楽しいのだろう。リリオンはうんうん唸りながら、獲物を探す猟犬のように鼻をくんくんと鳴らした。ランタンはあえて口出しをせずに、リリオンについて回った。
「――これ、これにする!」
リリオンが選んだのは、ちょっとだけ甘い香りがする香水だった。主張は強くなく、控えめな香りを選んだのが少し意外だったが、少女が背伸びをしているような気がして微笑ましかった。
「じゃあ買ったげるよ」
「ううん、自分で払うの。買ってくるね!」
リリオンはいそいそとポーチから財布を取り出して、店員に向き合った。瞳に喜びと緊張を滲ませ、銀貨と香水を交換した。リリオンはそれを胸に抱きしめて、一目散に戻ってくる。
「買っちゃった」
「ちゃった、ってことはないだろ。いいの見つかって良かったね」
「うん。ランタンは買わないの?」
実はこっそりとランタンも香水を購入している。ランタンは隠すように、へへへ、と笑い、リリオンの背中を押して店を出た。
商業区の一つ隣の地区は娯楽区である。
二つの区画に明確な区切りがあるわけではないが、歩き続けていると街がそれまでとは別種の雰囲気に染まっていくのが肌に感じられる。
商業区には比較的健全な飲食店や生活雑貨などを扱う店も存在するが、娯楽区に近付くにつれてそういった店が淘汰され、やがて一掃される。
飲食店は酒も出すし女も置く、そして宿を兼ねているものが多くなった。生活雑貨などと言うような生温いものを扱っている店はなく、嗜好品の類いが棚にずらりと並んだ。屋台には栄養剤と酒をちゃんぽんしていたりする。
歩いている人の種類にも変化がある。どことなく堅気ではない雰囲気の人間が多くなり、貴族の子弟らしき富裕層の若者や、また探索者の姿も多く見られるようになってきた。
娯楽区には宿泊施設が多くあり、探索者はそこを根城にして活動しているようだ。探索者を封じ込めるための一種の措置なのだろう。
「あ、あれ王立劇場っすよ。うわあ、大きいっすねえ」
その劇場はもしかしたら巨人族の神殿だったのかもしれない。金や銀の蔦草が絡む大理石の柱が等間隔にずらりと並び、どことなく荘厳な雰囲気を醸し出している。
「こういうのって、ちょっと見たいなと思ったら見れるもの?」
「大ホールの舞台は無理。ネイリングは桟敷を通年で買い取ってるから、お嬢にねだれば見られるけど桟敷は目立つからな。舞台を見てんだか、桟敷の上客を見てるんだかわからん奴もいるし。小ホールは劇団と題目によりけりだな」
「迷宮王女だって。迷宮のお姫さまの話かな?」
「迷宮のお姫さまってなんだよ? そういう魔物でもいるんじゃないの?」
「二人とも知らないんっすか? 結構有名な話っすよ」
話の大筋は、お姫さまが城を抜け出し、とある探索者と出会ってともに迷宮を探索し、様々な困難の中で探索者に恋をする、と言うものである。
説明を聞いて、へえ、と興味深そうな声を上げた二人にミシャは苦笑した。
迷宮王女はそれなりの人気があり辻舞台などでも演じられるような、すっかり手垢にまみれた作品である。手垢のまみれようと言ったら原典が逸失しているのをいいことに、各劇団ごとに好き勝手に色を付けていることだった。
「今日は大入りだ。ちょっと無理めだな」
「ざんねん」
リリオンはがっかりと肩を落とした。ランタンはそれほど残念でもない。興味がないわけではないが、特に観劇したいとは思わなかった。いつの世も女性は詩やら劇やらが好きなのかもしれず、男はそれを理解できないのかもしれない。
「ま、見るもんは他にも色々あるぜ」
劇場は王立劇場だけではないし、賭博場に競売場、それに闘技場なども娯楽区には存在する。娯楽区の向こう側には迷宮特区が存在し、特区から運び出された迷宮資源が競売に出品されたり、魔物が闘技場に引き出されたりしているらしい。
「競売に闘技場か」
賭け事にはあまり興味はないが、残りの二つには少し興味がある。だが闘技場はミシャの好みではないだろう。先のネイリングの闘技会でミシャは気分を悪くしてしまった。
「闘技場行きます?」
だというのにミシャは言った。闘技場では人間同士だけが戦っているわけではない。魔物同士や、人対魔物、魔物対動物と様々なものがある。騎士の馬上試合が催されたり、軍事演習が公開されたり、貴族の決闘さえも見世物になることがあった。
ランタンが少し考えていると、ふとミシャの背後に近付く人影があった。少し慌てた様子で駆け寄り、ミシャの肩を掴もうとした手が空を切った。
ミシャはランタンに引き寄せられていた。
「アーミーナ!」
ランタンは戸惑っているミシャをくるりと回転させ、男に向けさせる。
「……あ、――ああ、悪い。人違いだ」
背に剣を背負ったまだ若い探索者らしき男だった。人違いに気が付くと伸ばした手をいかにも落胆したというようにゆっくりと下ろした。
「人捜しですか?」
ミシャが尋ねる。男は頷いた。
「ああ、そうなんだ。君に後ろ姿がよく似ている。顔はもうちょっと、一目で蛇人族とわかる女なんだ」
「蛇人族、……ですか」
「迷子?」
ランタンが口を挟むと、男は首を横に振った。
「ただの迷子だったらどれだけいいか。いなくなってもう一週間も経つ」
男はもうずっとそのアーミーナなる仲間の女探索者を探しているらしい。ティルナバンと比較すると治安の良い王都であるが、それは安全という意味ではない。
「心当たりはないの? 届け出はした?」
「恨まれるような奴じゃない。届けは出したさ。だが探索者が一人消えたところであいつらは動かねえよ」
男は悔しそうに吐き捨てた。
地元の人間であってもわざわざ人気の少ない路地や、貧民街を歩こうとは思わない。もちろん下水に潜ろうなどとも考えもしない。
不慣れな観光客とわかれば舌舐めずりをして近付いてくる輩もいるし、もっと巧妙に近付いてくる輩もいる。
この探索者がその手合いではないという保証はなかった。
「後ろ姿が本当に似ているんだ。髪は黒で、もう少し長い。目の色は緑で、鼻は低くて唇も薄い。鱗は薄く灰色っぽくて、ちょっと陰気な感じの女だ。もし見つけたら教えてくれないか」
だが男は本当に心配している感じだった。男女の仲か、それとも兄と妹のような関係か。
「俺たちはこの先の迷宮特区の近くにある銀色の叢亭を根城にしている。それか――」
男は身につけた鎧に刻まれた意匠を指差した。
剣を咬む蜥蜴の意匠だ。
「――この紋章の探索者に声を掛けてくれ。俺の名前を出してくれれば話は通じるはずだ」
男はイグニスと名乗った。
「それは?」
「仲間の印だ。混沌の刃という探索班を組んでいる。見つけてくれたら礼もする。頼む」
男は一方的に頼みこむと、肩を落として去って行った。連日の捜索疲れがその両肩に乗っているようだった。
「人攫いはそこそこあるから気をつけろよ。人攫いじゃなくてうぜえのもいるしな」
リリララは真剣みを帯びた表情で三人に忠告し、皮肉げに口元を歪めた。
「それにしても今日は、よく絡まれるな。こういうのはランタンの役目だろ。厄日か?」
「かもしれないっすね」
ミシャは苦笑して、ちらりとランタンを見た、
ランタンは話を変えるように、男の消えた先に視線を向ける。
「しかし混沌の刃って、あれだね」
「あれって?」
「微妙な名前だね」
「言ってやるなよ」
例えばティルナバンでは探索班に固有の名称を付けることはあまりない。固有名称を有する探索班は通常の探索班と一線を画す大探索団ぐらいものだ。
ぽっと出の探索班がそれに憧れて命名をすることもあるが、有象無象の探索班の内の一つでしかない彼らを他の探索班は煩わしい名称では呼ばない。
そして得てして形から入った探索班は班の維持もままならず、未帰還、脱退、廃業、補充、移籍などの新陳代謝によって初期班員がいなくなり、気が付けばその名称も失われるのだった。
固有名称は一定以上の歴史と実績、つまりは伝統を有する探索班のみに許される特権のようなものだった。
だが王都では勝手が違うようだ。
そもそも探索班の員数からして違う。ティルナバンでは通常五、六名の探索者が集まり一つの探索班を作り上げる。だがこちらでは十名以上の探索班がざらにあるらしい。彼らは迷宮の特性を鑑みて班員を選定し、これを攻略する。残された班員は地上での支援、つまりは買い出しや情報収集、事務仕事をし、いざという時の予備役となる。
なるほど十五名前後の員数があれば、実働部隊と後方支援を交互に入れ替えることで、絶え間なく迷宮を攻略することができる。
そして彼らは一つの宿を根城にし、大っぴらに固有の名称を名乗って憚らない。
「ふうん、よくまとまってるなあ」
「ティルナバンの探索者さんって我が強い人が多いっすからね。でもこれが流行ったら囲い込みが大変そうっすね、お母さんに伝えないと」
ランタンは効率化された組織運営に感心し、ミシャは即座に商売に繋げて何やら考えている。
「なあ、リリオンだったらどんな名前にする?」
「わたし? わたしならね、ええっとね。ランタンの、ええっと、ええっとね、良い匂いがするランタンの、格好良い、強い、すごく強い、ランタンの、すごく爆発する太陽の――」
リリオンは何かに急き立てられるように辿々しく言葉を紡ぎ、ランタンは思わず顔が熱くなるのを感じた。何だかよくわからないが、物凄く褒めてくれているのだと思う。
そんなランタンを余所にリリララはお気楽に頷く。
「おお、いいじゃん。それにしようぜ」
「……本当にいいと思ったなら復唱してみて」
リリララはもちろん、リリオンも繰り返すことはできない。
だからかリリオンは恥ずかしそうに囁く。
「ランタンと、……わたし」
競売場の中の熱気は凄まじいもので、高級品、名品、珍品、中には生きたままの魔物なども競売に掛けられていた。
魔物の競りに参加するのには、少なくとも氏素性が明らかでなければならず、また購入後の責任を果たせなければならないので自ずと買手は限られてくる。
貴族、ギルド、教会、学院、闘技場の関係者、あるいは高位探索者の中でも特に優れた探索者である。購入目的は、愛玩、研究、素材、食用、闘技用だ。
ちょっと覗いてみたいな、とランタンは思ったが、競売それ自体を観賞するためだけの一般開放席はすでに売り切れていた。魔物競りは特に人気が高いようだし、位の高い競売もふらりと立ち寄って参加することはできない。
「なんだ残念」
たとえば腰の竜紋短刀を翳せばその威光で入場することはできる。だがこの短刀はそのためにもらったものではなかった。濫用は避けるべきだろう。
競売場はその外に市場を展開していた。蚤の市とでも言うような、ギルド関係者ではなくてとも露店を開くことができる自由参加の市場である。
どこにでもいそうなおじさんおばさんが古着や古食器を売っていたりもすれば、胡散臭そうな自称画商や自称古美術商が真贋の明らかではない美術品を売っていたりもする。
探索者が使い古しの装備や魔物の死体、迷宮の構成物質、つまりはただの土や石など売っていたり、それを買う人がいた。
「買い手がいるから売り手がいるのか。売り手がいるから買い手がいるのか」
「これに限っては売り手が先じゃないっすか?」
「冗談で売ったら買う阿呆がいた、と」
「ただの石ころみたい」
「ただの石なんじゃない?」
「証明は難しそうっすよね。証明したからどうだって気もしますし」
「……そう言う話はよそでやってくんねえかな、営業妨害だよ」
ランタンたちはあまりいい客ではないようだった。
ほとんど冷やかしが目的となっており、露店を覗いては買いもしないのに商品をじろじろ吟味している。どれだけ売り文句を重ねようとも値下げをしようとも要らない物は買わず、唯一の鴨と言っていいリリオンは、買う前に必ずランタンに尋ねるのでやはり財布の紐は固かった。
売り物のほとんどがどうってことのない商品で、掘り出し物を探している内に奥まった方へ来てしまった。一見すると普通の商品だが、先程までと違って押しつけるような売り言葉はとんでこない。
「新顔だし、雰囲気が違うから警戒しているのさ」
リリララは言って、誰も買い手が付かないようなぼろぼろの古着に手を掛けると店主が止めるより早くそれを広げた。折り畳まれた古着に挟んで、白い錠剤が隠されている。
「ほれ、こういう風に薬売ってたりするんだよ。これ最近、流行ってるやつだな」
薬物と砂糖を練り合わせて飴のようにした麻薬らしい。効き目は薄いが値段が安く、気軽に使用できるので若い貴族が遊びで使ったりするようだ。
「んだよ、テメエらっ!」
店主は堅気ではないようだったが、それに怖じ気づくランタンたちではない。
「けっこう大っぴらにやってるもんなんだね」
「末端しばいてもどうにもなんねえからな。たまに手入れがあるけど」
恫喝されても犬に吠えられた程度の反応しか見せないので、むしろ戸惑ったのは店主である。リリララの手から古着を取り返すと、絨毯を風呂敷のように使い商品を回収して逃げ去っていった。
その一部始終を見ていた他の店主たちは警戒心に満ちた視線をランタンたちに向けた。
「あ、これ格好良いな」
ランタンはそんな警戒の先を無視して、売り物の一つを手に取った。それは古びた時計で、竜頭が太く、蓋に彫られた細かな彫刻は半ば潰れてしまっていて、留め金を外しても蓋は半分ぐらいしか開かず、時計の針は止まっていた。振ると部品が外れている音がする。
リリオンはランタンの手の中を覗き込んで小首を傾げる。
「かっこういい、かな?」
「格好いいじゃん、なんか無骨な感じがして。この古い感じとかさ」
ランタンの手には少し大きい。
「これ――」
店主に値段を聞こうと思った時、市の向こうの方からずかずかとした足取りの一団が近付いてきた。剣呑な雰囲気を発しており、明らかに堅気の人間ではない。全員が帯剣しており、足取りは自らの存在を告げるように荒い。
「一体何の用だ」
男はすでに柄に手を掛けていた。青白い顔につるりとした禿頭。だがその頭は、毛の代わりに生え際の辺りにまで鱗が生えていた。蛇人族である。
だがイグニスの探すアーミーナとは姿形どころか性別も違っている。後ろ姿であってもミシャと見間違えることはないだろう。
ランタンは時計を絨毯の上に戻し、すくりと立ち上がった。
しかし蛇男の視線はランタンを捉えず、その背後へと向けられる。眉のない眉間が寄せられ、切れ上がった目が訝しげに細められ、丸く見開かれる。
背後で息を飲んだのはミシャだった。
「なんで、……どうして」
「ああ、やっぱり、ミシャかお前!」
絞り出すような声を上げたミシャとは対照的に、蛇男はにっと笑った。意外にも快活そうな笑顔だった。
丸くなった目が、笑うことでまた糸のように細められた。表情の変化が豊かな男である。
「マジかよ! 懐かしいなあ、おい。十年ぶり位か? うわ、でかくなってるな! お前もこっちに出てきたのか? こんな所でどうしたんだよ」
ランタンが振り返ってミシャを見つめると、ミシャは薄い唇を真っ直ぐに引き絞った。目線を一度伏せランタンの視線を潜るように躱し、蛇男を睨んだ。
睨まれた男は気にした様子もなく一歩前に出た。反面、視線は一歩退いたように思う。
肌にひやりとした気配があった。観察されている。
「あなたこそ、どうしてここに?」
ミシャが問うた。男は肩を竦めて答える。
「俺ぁは今は剣闘士をやってるんだ。とは言え、まだ下位の試合にしか出してもらえねえから、これは副業だよ。ま、用心棒だな」
蛇男は誇らしげに腰に吊った剣を示し、剣を抜く素振りを見せた。
「――冗談だよ。怖い顔すんなよ。ミシャのお友達か? 俺はフーゴ、ミシャの昔なじみさ」
「幼なじみ?」
ランタンは真偽を確かめるように呟いたがミシャは反応せず、フーゴが、そうさ、と念を押した。
「ミシャから聞いてねえか。孤児院時代の先輩さ、飯の食い方から、友達の作り方まで全部俺が教えてやったんだ。なあミシャ、そうだろ? ははは、昔話なんかしねえか。ガキの頃からお前は秘密主義者だからな」
フーゴはちらりと舌舐めずりをした。舌の先端が割れているが、先天的なものではなかく、外科的に割ったものだった。二股の付け根の所に青い宝石のピアスがあった。
「それで、お前らはここで何をしてるんだよ。客じゃねえやつを追っ払うのが俺の仕事でね。ミシャのダチなら見逃してやりたいとこだが、仕事はしなきゃ金がもらえないんでね。ま、このまま消えてくれるんなら――」
「客だよ」
答えると、フーゴはランタンの頭の先から爪先までを視線で舐った。
ミシャの古い知り合いである事実は真実だろう。だが信用はならない。フーゴから発せられる陽気な雰囲気よりも、ミシャの反応の方が比べるべくもなく信じられる。
「買った商品が見当たらないみたいだが」
「こんな所に来るまで良いものがなかったからな。それにようやくめぼしいものを見つけたら邪魔が入った」
「なるほど、そりゃ悪かったな。俺に気にせずに買い物を楽しんでくれや」
フーゴは腕組みをした。買い物を楽しませるつもりはなさそうだったし、少なくともこの奥へ通そうという気はないようだった。ランタンは先程まで見ていた懐中時計を拾い上げた。
「これ、いくら?」
「……金貨一枚だ」
「ずいぶんと高いな」
壊れた時計の代金としては法外である。懐中時計の中に何かを隠しているわけでもなさそうなので、嫌がらせなのだろう。
「まあ、いいか」
ランタンはポーチから金貨を一枚抜き取った。辺りの露店中、そしてフーゴや用心棒の一味の視線が黄金の輝きに吸い寄せられた。店主は呆然と金貨を見つめている。
「ほら、いらないのか?」
ランタンが言うと店主は慌てて手を出した。ランタンはその上に金貨を乗せる。店主は慌ててそれが本物かどうかを確かめて、周囲の視線から隠すように懐へとしまった。そして広げた商品を片付け始める。
ランタンは懐中時計の鎖を指に掛けて、金貨一枚分の値段がするそれを雑な手つきでくるくると回した。
フーゴの視線がそれを一回転分だけ追いかけた。
「この奥は、これよりも良いものはあるか?」
「ねえよ」
「でも、客だからそれを自分で確かめても良いんだろ? 観光客なんだ、王都の隅から隅までを見たいと思うのはおかしいことかな?」
「観光?」
フーゴは素っ頓狂な声で驚きを露わにした。素の反応だろうと思う。これが演技ならばランタンは自分の感覚を信用できなくなる。
「観光ってマジかよ。なあ、おい、ミシャ。あはははは、お前が王都くんだりに観光できる身分に? すげえな、おい。なんなんだよ、マジで。こいつはどっかの御曹司か? おい、どうやって捕まえたんだよ」
フーゴはランタンの肩越しにミシャの顔を覗き込んだ。
「もう毒牙にはかけたのか? 女ってのは良いねえ」
「やめて!」
ミシャはきんと尖った声で怒鳴った。フーゴはにやにやと嫌らしい笑みを浮かべたままだ。
「彼は、そんなのじゃないわ」
「――ふうん、彼ね。あっそ。いつまで観光してんのか知らねえけど。明後日の昼興業に出るんだ、良かったら見に来いよ。タダで入れるようにしといてやるからさ。ぼんには要らねえ世話かもだけどよ」
フーゴはランタンの肩を些か乱暴に叩いて背を向け歩き出し、思い出したように振り返った。親しみを込めた眼差しがミシャを見た。
「昔と同じ所に住んでるからよ、よかったら昔話でもしようぜ。こんな所で出会えるなんて、奇跡みたいなもんだからな。じゃあな!」
ランタンはフーゴたちの姿が角に消えるまで気を抜かず、振り返ってミシャの顔を覗き込んだ。
「ミシャ、大丈夫?」
「――ええ、はい。すみません、急なことでびっくりしてしまって、彼とは本当に、なんでもなくて」
「びっくりって顔じゃないと思うな」
ミシャの顔色が少し青いような気がした。頬に触れずとも、薄く冷たい汗を掻いているのがわかった。そしてミシャがあまり多くを語りたくないと言うことも。
フーゴはミシャの孤児院時代の知り合いだと言った。その当時の記憶は、あまり思い出したくないものなのだろう。
リリオンが背後からミシャに覆い被さった。ランタンにそうするように、旋毛に顎を乗せる。
「ちょっと、重いよリリオンちゃん」
いわれてもリリオンは退かなかった。
リリララは何事か思案し、ランタンの手を差し出した。
「ランタン、金出せ。金貨じゃなくていい。銀貨三枚」
ランタンは言われた通り三枚の銀貨を渡す。
リリララはそれをちゃらちゃら鳴らしたかと思うと銀貨を頭上に掲げて、辺りの露天商たちに目配せをした。
「さて、あいつらの情報を売る奴はいねーか?」
商人たちの目の色が変わった。