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カボチャ頭のランタン  作者: mm
06.On The Origin Of Species
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 ネイリング城に戻り、馬車を降りると雪がちらついていた。

 ぶ厚い雲が空を覆い、光の一筋も通さない。雪はまるで黒い雲が剥がれ落ちてきているようだった。

「明日は積もるかな」

「これぐらいなら、つもってもちょっとだけよ」

 ランタンが空を見上げながら呟く。リリオンはちらりとその視線を追っただけで預言者のように答えた。

「わかるの?」

「うん」

 リリオンは思い出したようにベールを外した。幼い仕草で口元を拭い、白い息を吐いた。

「わたし、ずっと曇りと雪しか知らなかったから」

 だからこんなに肌が白いのかもしれない。リリオンの肌は白む息よりも、雪よりも白く見える。

「雨はわかんないの? わかれば便利なのに」

「雨はわからない……」

「雪だけで充分っすよ」

「ほら、濡れないうちに入ろう」

 レティシアに急かされて、ランタンたちは城に入った。ネイリング城は夜でも灯りが落ちることはない。人の出入りはさすがになくなるが、騎士が不寝番に立っているし、使用人がレティシアの帰りを待っている。

「湯の用意ができておりますが、いかが致しましょう?」

 使用人はレティシアから外套を受け取ると言った。

 ランタンが欲しているものだったが、それはレティシアのために用意されたものだ。

 ミシャに急かされたせいで朝風呂には入れなかった。夏ではないから肌がべたつくようなことはないが、冬の冷気が膜となって身体を覆っている。

「一緒に入るか?」

 物欲しそうな顔をしたランタンにレティシアが言う。ランタンは首を横に振った。

「大人なんだから一人で入りな」

 ランタンはレティシアの誘いを軽く断った。

 ぶっきらぼうなものの言い方にレティシアは笑ったが、使用人は表情を変えない。それがむしろ秘めた苛立ちを感じさせた。敬愛する領主一族への口の利き方ではない、と言うことなのだろう。

 レティシアへの尊敬は、水面下での軋轢を生み出す。ティルナバンではほぼ常に一緒にいたリリララが、ここでは影に徹している。かつて刺客であったリリララへの風当たりは強い。表面化はしていないが、ふとした時の視線であったり、陰口であったりと、リリララへの暗い感情はそこかしこにあった。

 ランタンたちは恩人であるが、どこの馬の骨ともしれない存在である。

 ネイリングに取り入ろうとする輩の一人と思われるのも、致し方のないことだ。権力にはそう言った存在が常に付きまとう。忠誠心から、彼らは心配をしている。

 いちいち気にしていたらきりがない。

「女同士で入ってきたら? 僕、ベリレの顔見てくるから」

「わたしもランタンと行く。――だめ?」

「だめじゃないけど、どうだろ。弱ってる所ってあんまり見られたくないからな」

「それ、自分のことっすか?」

「うん。でも男ってそう言うもんじゃない?」

 それが本当に弱っている時ならば、尚更そうだった。

 ランタンにとって弱みを見せることは、命を奪って下さいと宣言するようなものだった。そしてまた弱みを見せて、同情されることや優しくされることは、自分の弱さの証明のように思える。

 一人で生きることは自らの強さを裏付けるものであり、他者に頼ることは自らの弱さを認めることである。

 そして弱い人間は生きていけない。

 かつて頑なだったその思想は、しかし柔らかくなった。だが深く根付いている。

 当たり前に頷いたのがその証明だった。

 リリオンが飛び付くようにランタンの手を取った。

「じゃあ、お部屋の前で待ってる。入っていいよって言われたら入るから、ランタンがベリレくんに聞いて」

「お風呂は?」

「それもランタンと入る」

 リリオンが言って、ランタンは肩を竦めた。レティシアは大人だが、リリオンは子供だ。

「ミシャはどうする?」

「わたしは先に休ませていだたきます。ランタンさんみたいに毎日、入ってたらふやけちゃうっすよ」

 毎日風呂には入らない。

 ミシャの考え方こそが普通だった。風呂には入らないが、まったく何もせず眠るわけではない。湯水で身体を流したり、濡らしたタオルで身体を拭く。特にミシャはあまり汗を掻かない体質のようで、それだけで充分だった。

 入浴は日常的な習慣ではないし、かといってせっかくだからとわざわざ入浴するほど珍しいものでもない。

 ミシャは起重機運転による精神的な充足感と、心地良い疲労を抱え、一足先に離れへと戻っていった。

「じゃあ私は一人寂しく温まってくるか」

 レティシアはベリレに与えられた部屋の場所を教えると、冗談めかして拗ねた振りをして背を向けた。その背中を影から現れたリリララが追いかける。

 ちらりと振り返って、律儀に申し訳なさそうな顔をしたリリオンに頷いて見せた。

 城は領主の住居であり、使用人寮も別に用意されているが、城内にも幾つか使用人のための居室が用意されていた。ベリレに与えられたのはその内の一室で、部屋の中にはベリレ以外にも人の気配が感じられた。

 ランタンがノックをすると、老いた声が返ってくる。

「お邪魔します」

 ベリレはベッドにいた。腰元に枕を宛がって身体を起こしている。ベッドの脇に卓が用意され、二人の老人が向かい合って座っていた。

「あれ? ベリレ、ずいぶん老けたね」

「くだらんことを言っておらんで入ってこい」

 老人の一人はエドガーだった。ランタンを手招きする。その向かいには二本角が立派な亜人族の老人がいた。ランタンが軽く会釈をすると、長い髭を揺らしながら軽く頷いた。穏やかな雰囲気がある。

 ベリレはランタンの顔を見ると、よう、と手を上げた。その腕は包帯でぐるぐる巻きにされている。思ったよりも元気そうだ。

「ずいぶん良くなったみたいだね」

「まあな。リリオンは?」

「扉の後ろ。痛くて泣いてるところなんて見られたくないだろうから待たせてる。入れてもいい?」

「泣くかよ。廊下は寒いだろ、入れてやれよ」

 リリオンはばっと姿を現すと、ランタンの背中に飛び付くようにして部屋の中に入った。

「ベリレくん、お怪我は平気?」

「おう」

 リリオンは笑って、それからエドガーともう一人の老人に気が付いた。

 リリオンはランタンの背中から離れて、スカートの皺を伸ばした。恥ずかしいところを見られたとでも言うように下唇を甘噛みして、顎を引く。

「こんばんは、おじいちゃん。はじめまして、おじいちゃん。リリオンです」

 リリオンと一緒にランタンも名乗り、腰を折った。亜人族の老人はわざわざ椅子から立ち上がった。

「これはこれは、丁寧な挨拶ありがとう」

 老人は目を細め、グラウスと名乗った。

 彼は鹿の亜人で、全身に棕櫚(しゅろ)皮を思わせる栗色の毛を有しており、眉間から鼻先に掛けては黒、眦には笑い皺のような白い斑がある。鳩尾近くにまで垂れる髭がエドガーよりも年寄りに見せたが、実際はエドガーよりも五つ若いらしい。

「どちらもおじいちゃんでは混乱してしまう。グラウスさんと呼びなさい」

「はい、グラウスさん」

 物腰は柔らかいが、有無を言わさないような緊張感を漂わせている。腰帯に鉄扇を挟んで、三日月のような曲刀を吊っている。

 堂々たる体躯の老人で、上背だけでもベリレに匹敵し、角を含めれば遥かに高い。無数に枝分かれしたし鹿角が、古木を編んだ冠のようにも見え、それが一種の権威を感じさせた。

 グラウスはエドガーの旧知であるが探索者ではなく先代ネイリング公、つまりドゥアルテの父の時代からネイリング家に仕える武官だった。現在はドゥアルテと騎士団の相談役、教導隊の教官を兼ねる、ネイリング家にも強い影響力を持つ重臣である。

「シド隊がずいぶんと世話になったようだな」

 シドはランタンたちとともに帰ったが、シド隊そのものはランタンたちよりも早くティルナバンを出て、まだメリサンドには辿り着いていない。使用する馬は魔物の血を引く屈強な軍馬であるが、今しばらくかかりそうだ。

「いえ、こちらこそよくしていただきました。その説は仲良くしていただきまして、大変お世話に――」

 ランタンは礼儀正しく頭を下げてから、もしかしたら嫌味を言われているのかもしれないと思った。

 シド隊の訓練に何度も参加させてもらった。訓練内容は一対一の乱取りで、ランタンはこれでただの一度も土が付かなかった。体格も年齢も半分ほどの子供にやっつけられてしまったのだ。勇猛果敢、一騎当千で知られるネイリング騎士団としてこれは恥ずべきことである。

 だがシドはこれを無頓着に報告するだろう。結果は結果だとして。そしてそれを聞いたものが無頓着でいられるとは限らない。

「――なりました」

 だがランタンはそのまま言い切った。

 

 変わり者のシドも、あの探索者上がりの粗野で下品な騎士たちも、ランタンはそれほど嫌いではない。訓練であろうと、大勢の中に受け入れて貰うという経験は得がたいものだったし、遠慮なく勝ち続けるランタンに対抗心こそ抱けど暗い嫉妬を持たぬ所は好ましい。

 もっとも度が過ぎた接触を求める傾向は許容できないが。

 グラウスは頭を上げたランタンを、静かな目で見下ろしていた。目は砂漠の色をしている。薄く白い膜が被さっているようで、もしかしたら白内障なのかもしれない。

騎士団(うち)の者たちよりも礼儀がしっかりしているな」

「いえそんな。迷宮生まれ、そこらへん育ちのしがない探索者ですから」

「それは困った。――ネイリングの恩人であるのならば、それ相応の人物でいてくれなくては」

「それおかしくないですか? 優しくしてくれる人は、誰であれありがたいですよ」

市井(しせい)ではそうでも、宮中ではそうはいかぬ。迷宮生まれか。どれ、私は目が悪い。近くで顔を見せてはくれんか」

 ランタンは半歩グラウスに近付いて、顎を上げた。

「昨晩の戦いを見させて貰った。見事だった。なるほど遠くで見れば女子おなごようだが、近くで見ると稚児(ややこ)のようだ。これは戦士の顔ではない」

 グラウスの視線が右に泳いだ。ランタンはふとそちらを向く。

 グラウスの左の腰に吊った曲刀が抜刀され、肘から先だけを撓らせるようにして振り抜かれる。手慣れていた。こうしてネイリングに仇なす者を幾人も屠ったのだろうと思う。

 死角から喉笛に刃が迫る。

 ランタンはグラウスから拝借した鉄扇で抜き打ちの一撃を防いだ。首元でばちりと火花が散った。

「ほら見ろ。言った通りだろう」

 エドガーが笑った。グラウスは曲刀を納め、エドガーを振り返る。

「避けるとは聞いたが、まさか受けるとは聞いてはいない」

 ランタンは鉄扇を開いて口元を隠し、溜め息を吐いた。平静を装ってはいるが、さすがに肝が冷えた。

 シドといい、ネイリングの関係者は不意打ちを好む傾向がある。ランタンは呼吸を整えると、鉄扇を閉じてグラウスに返した。

「もうしないで下さいね」

「試すような真似をして申し訳ない。レティシアさまに近付く男を量るのは、かねてからの夢だったのだ。ううむ、文句を付ける所までで一つの夢だったのだが」

 グラウスは幼いレティシアを竜の背に乗せたこともあれば、その髪を梳かしたこともあるらしい。レティシアに対して娘のような感情を抱いているのかもしれない。

「ふむ、中身は別だな」

「首が落ちたらどうするんですか」

「その時はせっかくだ。中身を検めさせてもらおうか」

 グラウスが平然と言った時、置いてけぼりにされていたリリオンが慌てた様子で悲鳴を上げる。ランタンを背中から抱き込んで叫んだ。

「もうっ、何するのよ! ランタンだから平気だけど、危ないでしょ!」

 頬を膨らませる余裕もなく、半ば本気でむっとした目で睨まれたグラウスがたじたじとなった。

 その時、扉が蹴破られたかのような勢いで開いた。

「何があった!」

 血相を変えて飛び込んできたのはシーロだった。柄に手を掛けて、細めた眼差しを油断無く巡らせる。

 もしかしたら扉の前で聞き耳を立てていたのかもしれず、飛び込んできた理由はリリオンの悲鳴を聞いたからに他ならない。リリオンに抱きしめられるランタンを見つけると、ただでさえ剣呑な目を吊り上がらせた。

「何をしている!」

 怒鳴り、詰め寄ろうにもランタンとリリオンが一塊になっているので足が出ない。

 ランタンは、へっ、とやさぐれたと笑いを漏らした。

「盗み聞きしているような人に言われたくはないな」

「なんだと!」

 言い争いが始まろうかと言う時に、グラウスが割って入った。

「シーロさま、ご心配をお掛けして申し訳ありません。騒がしくし過ぎました」

「グラウス」

 シーロは舌打ち混じりに呟き、口をへの字に曲げた。

「それでどのようなご用でございましょう。ベリレの見舞いですかな?」

 シーロはふて腐れたような眼差しで、ベリレをじろりと見やった。ベリレは居室だというのに居心地が悪そうに背筋を伸ばす。

「……そうだ」

 ベリレの見舞いの筈がなかったが、シーロは頷いた。そして興味なさそうにベリレに尋ねる。

「調子はどうだ?」

「もうすっかり大丈夫です。ご心配お掛けしました」

「敵を前に得物を手放すからそうなるんだ」

 ベリレは乾いた笑いを漏らして頭を掻いた。シーロは鼻を鳴らし、ぎこちなくランタンごとリリオンを視界に入れる。

「お前たちこそ、何をしていたんだ。悲鳴など上げて」

「わたしたちもお見舞いです」

「――そうか」

「お見舞いと言ったら悲鳴は付きものだよね」

 リリオンの声を聞いて緩んだ頬が途端に引き攣った。

「それとお見舞い品」

 ランタンはリリオンの抱擁から自然と抜け出して、外套の内側をごそごそと漁った。

「まずこれね」

「ありが、――これは?」

「幼竜の黒焼きだって」

 それはどこからどう見てもイモリの黒焼きだった。竜種の都メリサンドでは、この手の商品があちこちで売られている。本気で客に高額な紛い物を掴ませてやろうという商人もいれば、一種の冗談としてこのようなものを扱っている商人もいる。これは後者だった。

「罰当たりな!」

 だがシーロは本当に幼竜だと思ったようだ。

「ご禁制の蛇竜酒ってのも買ってきたよ」

 もちろん中身はただの蛇である。透明な瓶の中で、蛇は香木に巻き付いている。

 ベリレが慌てた様子でランタンの手から黒焼きを奪い取って口に放り込んだ。

「どう見たってイモリだし、それはただの蛇だろう。変な物買ってくるなよ」

 イモリをばりぼり噛み砕きながら、ベリレは言った。シーロは、そうなのか、とグラウスに小声で尋ね、老亜人は頷いた。

「病み上がりの身体にこれは毒だ。どれ俺たちが貰っておこう」

 蛇竜酒はエドガーに取り上げられてしまった。二人はベリレを肴に酒を呑んでいたのか、卓に空の酒瓶と陶器の椀があった。嫌がらせで一番辛くて臭いのを買ってきたが、二人は水を飲むみたいに呑んでしまう。

「おい、つまみはないのか?」

「これはベリレに買ってきたんです」

「いいから出しなさい」

「……おじいさま方に喝上げされるとは思わなかった」

 本当の見舞い品は竜種の腎臓(リュウマメ)と呼ばれる、大粒の空豆である。イモリの黒焼きを売っていた店で買った物で、枝付きの空豆をそのまま火にくべて焼いたものだ。

 枝だから黒焦げのさやを外し、指で押すと薄く赤みがかった豆がつるんと出てくる。

 さやの中で蒸かされた豆は、焼きたてだとほくほくとして美味しい。時間が経つとねっとりとした歯ごたえになり、これはこれで美味しい。

「半分だけですよ。ほら、怪我人の近くで酒盛りしないで下さい」

 ランタンは卓をずらして老人たちを部屋の隅に追いやった。二人が文句を言わず、椀を片手に、椅子を片手に持って移動するのが妙に面白かった。

「物凄い失礼なことしてるはずなのに、ランタンはなんかあれだな、すげえな」

「偉かろうが時と場所は選ぶべきだよ。あーあ、半分取られた。今度は取られないの買ってくる」

「今度って、明日にはもう動けるようになってるよ」

「あと二時間後ぐらい? ……シーロさんもどうぞ」

 ランタンが勧めてもシーロは手をつけようとしなかった。

「こうやって、食べるの」

 ランタンとシーロの微妙な関係を勘づいているのか、それとも会話に混ざりきれないシーロを気遣っているのか、リリオンはその食べ方をわざわざ実演してみせる。

 細く白い指が真っ黒になったさやを摘まんだ。リリオンはそれを口元に持っていき、笛を吹くように唇に添えた。そして力を入れて、つるんと豆を押し出した。

 シーロがぎこちなく、それを真似して見せた。

「……うまい」

「よかった」

 リリオンが笑い、シーロが見惚れた。

 ランタンは手伸ばして、少女の唇に付いた黒い燃え滓を拭った。リリオンの顔がこちらを向いた。

 いつもやっていることなのに後ろめたさがあるのは、リリオンのためではなく、シーロに見せつける意図があるからかもしれない。リリオンがいつも通りに頬を緩ませて、ランタンの心臓がきりきりした。

「ベリレくんの怪我は、本当にもう平気なの?」

「ああ、治癒魔道で毒抜いて、傷も塞いでもらったんだ」

 治癒魔道、と聞いてリリオンが驚いたように瞬きした。そんなリリオンに気付いて、ベリレは少し笑う。

「見てみるか?」

 ベリレはそう言って、おもむろに包帯を解き始めた。リリオンは片目で盗み見るように、傷跡の様子を窺って、それがほとんど塞がれているのを確認してようやく両目を使った。

「わ、ランタンもこんな怪我したよね」

「熊にやられてね」

「俺に言うなよ」

 ベリレの腕には獅子の爪跡の名残がはっきりとある。

 ぱっくりと開いた傷口は閉じたのではなく、薄く膜が張ったようになっている。新しい皮膚は半透明で、血肉の赤が透けていた。ベリレが手を握ったり開いたりしても、突っ張るような感じはしない。

「けど昨日の今日でここまで治るのか。やっぱり便利だな」

「でもかなり気持ち悪いぞ。血が逆流したみたいに出血が止まって、傷口の縁が溶けて広がるみたいに皮膚が再生して、小さい虫が大量に這ってるみたいにむずむずして」

 リリオンが想像して、身体を抱きしめて震えた。そうするとリリオンの身体の細さが否応なく目立った。

「治療後は虚脱感がすごい。どうにも眠くって、身体の芯が重くなる」

「便利だけど、実戦向きじゃないのか」

「まあ怪我しないことだな」

「そうだね」

 男二人が頷き合うと、リリオンは自分の身体を抱きしめたまま下唇を突き出して、不満げな顔つきになった。

「ほんとよ、ランタン。ランタンはすぐ怪我しちゃうんだから」

「していい怪我しかしてないよ」

 リリオンはベリレの包帯を巻き直して、ぎゅっと結んだ。

「していい怪我なんてないのよ」

 言われたランタンは面倒臭そうに顔を背けた。そんな反応がいっそうリリオンを不機嫌にさせる。

「ははは、いつの時代も探索者は変わらない。懐かしいな、エドガー」

 グラウスが笑いながら若者たちを振り返った。すでに蛇竜酒は半分ほどに減っている。エドガーは苦笑を頬に浮かべる。グラウスは生涯探索者だったことはない。エドガーのことを言っているのだ。

「遂には片目に片腕まで失ってしまって」

「この歳まで残っていたのだから上等だろう」

「確かに。当時ならば怒り狂ったダニエラに、残りの手足も奪われていただろう」

 グラウスは笑ったが、エドガーは苦いものを呑むように酒を口に含んだ。

「お二人は、昔から仲がよかったんですか?」

 まさか、と二人一緒に首を振った。

「エドガーは当時から、一目置かれる探索者だった。先代のお誘いを素直に受けていたら今頃、私は名もない兵の一人だっただろう」

「よく言う。これがただの兵士だったことなど一度もない。入隊と同時に一隊を任され、そのままあっというまに総隊長だ。当時は権力意識が強くていけ好かない男だった。なあグラウス」

「エドガーこそ、上昇志向の塊のようだったではないか」

 言い争いと言うよりは、昔を懐かしむように二人は言い合った。

「じゃあ仲が悪かったんですか?」

「……仲が悪いというほどでもなかったが」

「女の取り合いで剣を交えたことがあるぐらいだな」

 余計なことを言わなくていい、とエドガーは目で制したが、グラウスは笑って受け流した。

「今、思えば無謀なことをしたものだ。だが当時は我慢ならなかった」

 グラウスは髭を撫でながらランタンと、そしてシーロに白濁する眼差しを向けた。

「自分ではない男が好いた女の横にいることを。いや若かった」

 グラウスはリリオンを挟んだランタンとシーロの関係性を知っている。その上で嗾けようとしているように思えた。

 ランタンは立ち上がった。

「ベリレ、僕もう部屋に戻るよ。二人会わせて百五十年分の昔話なんて聞いたら夜が明けちゃうし」

「ああ。ありがとうな、わざわざ」

「おじいさま方も、お酒は程ほどに」

 ランタンが立ち上がると、糸で繋がれているようにリリオンも立ち上がった。すると同じようにシーロも立ち上がる。

「ベリレくんまたね」

「おう。――シーロさまも、わざわざありがとうございました」

 シーロは答えなかった。ベリレは苦笑している。

「ほら、リリオン行くよ」

「うん。うふふ、いっしょにお風呂だからね」

「どうしようかな」

「えーっ」

 ランタンがなんとなしに呟くと、リリオンは声を上げた。

「どうして、一緒って言ったでしょ」

 そしてがっかりと肩を落として落ち込んだ。こうしたランタンの意地悪は、いつものことなのだがリリオンはいつも同じように落ち込み、そして冗談だとわかると喜ぶ。

 だが今日は、ひゃ、と声を上げて驚いた。

 落ち込んだリリオンの尻を、シーロが叩いたのだ。

 リリオンはあまりのことに目を見開いてシーロの顔を見つめ、シーロはシーロでその顔を見つめ返した。

「……」

 そして()()()とリリオンの眼に涙が浮かんだ。そしてそのまま涙は溢れ、はらはらと頬に流れ落ちた。

 その涙にシーロは狼狽え、戸惑った。

 ランタンも身体を強張らせる。心臓が鷲掴みにされたみたいで、押し出された血液が血管を膨らませて、筋肉が引き攣った。思考はなく、反射的に身体が動く。強張った筋肉がぶちぶちと音を立てる。

 ランタンは戦鎚を抜くこともせず、拳を固めてシーロに躍りかかった。

 なぜ急にリリオンが泣いたのか理由がわからない。だが泣かせたのはシーロである。

 それだけでランタンが激発するには充分だった。

 床板がへし折れ、拳に高熱が宿っている。火花のような速度だった。

 それを止めたのはエドガーだった。拳を義手で受け止め、小さな身体を抑え込んだ。ランタンは尊敬する老人を睨む。

 ベリレが慌ててベッドから降りようとして、転げ落ちた。ランタンの視線はシーロに固定されている。

 シーロは表情を凍り付かせていた。

 グラウスがリリオンとシーロの間に割って入った。

「シーロさま、ご婦人に対してそれはあまりにも不躾でございます」

 シーロは喘ぐように何かを呟く。リリオンは手の甲で眼差しを覆うだけで、答えなかった。

「シーロさま」

「わるかった。……泣かせるつもりはなかった」

 リリオンは首を振った。許すとも、許さないとも違う。もういい、と言う感じだった。シーロは項垂れ、ランタンの視線にようやく気が付き、追い立てられるように部屋から出ていった。

 グラウスがリリオンに謝罪をし、シーロの背中を追いかける。

 ランタンのすべきことはエドガーを振り払いシーロを抹殺することではなかった。拳を解き、熱を棄てるとエドガーはランタンを解放した。

 ランタンはリリオンの涙を拭う。

「お風呂入りに行こ」

 いつもなら一も二もなく飛び付いてくるリリオンが、ランタンに手を引かれてようやく歩き出した。




 リリオンはなぜ泣いたのだろう、とランタンは考える。

 そもそもリリオンはあまり泣かない。

 リリオンは甘ったれで寂しがり屋の少女だが、その生い立ちゆえにリリオンは極めて辛抱強い少女でもあった。

 そして強くなるために探索者を望んだリリオンは、泣くことを悪しとしている節があった。

 本人の口から聞いたわけではないが、弱いから涙が出てしまうのだと、泣いてしまっては自らの望みである強くなることから遠ざかってしまうのではないかと、もしかしたらそう考えているのかもしれない。

 理屈ではなく、胸に湧き上がった決意として、それを遵守しようと努めている。

 戦いで骨の折れるような怪我をした時も、地面に叩き付けられた時も、大勢の男に剣を向け凄まれた時も、恐ろしい魔物と向かい合った時も泣かなかった。

 それでもどうしても涙が浮かぶ時がある。

 ふとした気の緩み、たとえば熱い食べ物を口に含んだ時や、転んだ時、ランタンに下らない悪戯をされた時。

 それはリリオンがどれほど辛抱強くとも、やはりまだ子供であることを確信させる。感情の制御を四六時中続けろという方が無理なのだ。

 だから自分が泣いてしまうとわかっている時、例えば母親を思い出す時。

 瞳に涙が溜まり、どうしようもなく溢れてしまう時。

 その時のリリオンは、はっと目を見開く。淡褐色の瞳をことさら大きく見開いて、それが頬へと流れ落ちないように、瞬きしないように、溜まった涙を睨みつける。

 健気だと思う。

 わんわんと泣いてしまえばすっきりするはずだ。けれどリリオンはそれを良しとしない。抗いがたい感情の奔流に、抗おうとする。

 そんなリリオンが泣いた理由が、ランタンには判らなかった。

 きっかけはわかる。シーロにぽんと尻を叩かれたからだ。

 だが、それはランタンもしていることだった。シーロのように軽くではなく、もっと強く叩くこともあるし、撫でることもあれば、抓ることもある。

 そして、それをしてリリオンは泣いたことがない。

 ちょっと拗ねた様子を見せることはあるが、その目の奥は笑っている。リリオンにとって尻に触れる行為は、部位が違うだけで、頭を撫でたり、手を繋いだりするのと同じなのだ。少なくともランタンはそう思ってそれをしている。

 それをしたのがランタンではないから、リリオンは泣いたのだろうか。

 ランタンはその思いを否定する。

 リリオンはランタンの与り知らぬ所で尻を蹴っ飛ばされたことがある。ベリレを締め上げて聞き出したことだ。巨人族の血から発せられる僅かな気配に反応したどこかの男に蹴られ、転んだ。その時リリオンは泣かなかったらしい。

 リリオンはなぜ泣いたのだろうか。

 まさか尻を触られたことが嫌だったのだろうか。

 しかし、だとすると。

 リリオンは十歳で、子供だ。頭の先から、爪先まで、肉体の優劣はない。

 子供だからランタンはリリオンの尻を引っぱたいて叱ったり、急かしたりする。子供だからリリオンはランタンの前で裸になるし、風呂に入るし、肌を寄せる。抱きしめ合って、眠ったり、目覚めた時に気軽に頬に唇を触れさせたりする。

 リリオンは子供のはずだ、とランタンは思う。

 幾つもの、なぜ、が頭の中をぐるぐると回っている。

 リリオンはシーロに尻を叩かれて泣いた。

 ランタンはリリオンが泣いて、怒りを感じた。

 それともリリオンの尻が叩かれたことに、怒りを感じたのか。

 リリオンの肉体は、リリオンのものだ。

 リリオンそのものは、誰ものものでもなく、やはりリリオンのものだ。

 泣いたリリオンのために怒ることは正しくても、尻を叩かれたことにランタンが怒るのは筋が違う。

 リリオンはなぜ泣いたのだろう。

 自分は何故これほどに怒れているのだろう。

 ランタンは引きずり込まれるように、理性と感情の渦に沈んでいく。


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