155
155
「平民だろうが、貴族だろうが興味のあるものは知りたく、学びたくなるものだ。俺の場合はたまたま興味の対象が、家にかかわり合いが深いものだった。あるいは物心ついた時から身近にあったからかもしれん。……まあ兄のように人は集まらないが、こいつらは結構寄ってきてくれる」
竜種はネイリング家にとって最も密接で、複雑な存在である。
祖であり、象徴であり、産業である。
例えば、竜籠や竜車を牽引する竜種は全てがネイリング家で飼育されていたものである。他領や教会、あるいは王家ですら飼育繁殖のノウハウを所有していない。
「市場を独占しているんですか、それはすごいですね」
仕切りの中から取り出された丸い竜種は、囲いの中に放された。リリオンが寄ってきて、手を伸ばす。
丸い竜種は翼がはっきりと大きく、尾が長い。竜籠を牽引していた飛竜の幼生だった。
まだ鱗も柔らかそうなちびである。リリオンの指に顔を擦りつけて、しきりに匂いを嗅いでいる。リリオンは擽ったそうにしながら竜種の喉元を撫でる。
ファビアンはそんなリリオンに視線を向けて、何事もなく言う。
「巨人族から奪い返した――奪い取った、この大地は人には大きすぎると思わないか。例えばティルナバンからここまで、人の足では半年あっても足らない。馬を使おうとも二ヶ月はかかる」
「次第に狭く感じるんじゃないですか? 平地ですし、道が整備されて、それこそ竜種がもっと一般的になったり、新たな移動手段が生まれたり、燃料事情が一変すれば、もしかして」
「ふはは、父の言う通りだ。見てきたように物を言うな。言葉尻を曖昧にしようとも、君の言葉には確信がある。記憶がないと聞いたが、いったい何故かな?」
「……そう、ですか」
「そうだとも。ウィリアム王子が君と似たような考えをしておられ、工学によって世界を狭くしようとしていらっしゃる。機械工学への深い造形があってこその発想だ。――王都に行けば面白い物が見られるぞ。また今度、機会があればウィリアムさまに紹介させてもらおうか。君の意見はウィリアムさまのためになるだろう」
ランタンは曖昧に頷いた。冗談とも本気ともつかない。
「いずれ世界は狭くなる。俺も君やウィリアムさまと同じ考えだが、手段は別だ。こいつらがその鍵だと思っている」
ファビアンは愛しむような視線を幼竜に向けた。
「初めてこいつらに乗った時、自分はどこまでも行けると思ったものさ」
ただ単純に幼い生き物に向ける眼差しではなかった。
「ざらざらしているのね、あなたの舌」
リリオンの指を蛇のような舌で舐っている。それは乳のありかを探すかのようだった。
「病気ですか?」
「生まれつきのな。人には移りはしない、安心したまえ」
突けば破裂しそうなほどに胴体が丸く膨らんでおり、見えない糸で首を吊られているように爪先立ちになっている。この飛竜は羽ばたくこともなく、半分浮いているのだ。
「飛竜にはよく見られる病気だ。かつては蛙病、今では風船病と呼ばれる」
「あなた、お病気なの? 早く治るといいね」
リリオンは優しく飛竜を撫でた。首を滑り、膨らんだ身体に触れる。すると飛竜の身体は途端に制御を失ってぽよんぽよんと跳ね暴れた。自分の力では体勢を立て直せないのだ。リリオンがそれを押さえようとしても余計に跳ねてしまう。
ファビアンが横から手を出して、飛竜の体勢を安定させた。
「ごめんなさい」
リリオンはにいにいと鳴く竜種とファビアンに謝った。ファビアンは首を振る。
「この程度ではへこたれない、この病とは生まれた時からの付き合いだからな」
ほっと胸を撫で下ろすリリオンに飛竜は再び近付く。へこたれないし、懲りない飛竜である。
「飛竜の繁殖過程において、稀にこの病気が発症する。どうにか抑えたいのだが上手くいかない。先天的なものだけならまだしも、後天的に発症することもある。発症した個体は隔離、場合によっては殺処分しなければならない」
「竜種間で伝染しますか」
「ある特徴を持つ種に限りな。竜種がどうやって空を飛んでいるかわかるか?」
「ばたばたって、羽を動かして飛ぶのよ」
リリオンが飛竜の羽根の先を摘まんで飛行訓練の真似事をしている。レティシアやミシャも、リリオンと同じぐらいの認識であるようだった。
「それも要素の一つなんだろうけどね」
竜種とは力の塊である。力とはつまり筋肉の出力であり筋肉は重たい。竜種の筋出力は体重比で人のそれを遙かに上回るが、翼の羽ばたきだけで竜種を浮揚させるだけの浮力を得ることは難しく、可能だとしても非効率である。
そこで必要になるのが魔精だった。魔精による身体能力の強化。それは慣習で魔道と区別されるが、能力強化の魔道と言って差し支えなかった。例えば探索者であれば、探索に必要な能力。主に筋力や瞬発力、持久力などの戦闘能力が総合的に強化される。
生きていくために必要な能力である。
飛竜種は飛行能力が強化され、それは肉体のみならず、周辺大気にすら及ぶ。どこからか風を発生さることもあれば、大気成分を作り替えることもあるとランタンは考えている。
「羽ばたき、魔精、それと浮き袋」
飛竜は体内に浮き袋を有している。飛行時に浮揚ガスを体内で生成し、これを浮き袋に満たし浮力を得るのだ。
「迷宮に出現する竜種は飛行能力の大半を魔精に頼っている。今度探索した時、解体してみるとき、よく観察してみるといい。五頭中四頭は新品未使用の浮き袋が出るぞ」
「魔精の方が浮き袋よりも有用と言うことでしょうか? それとも迷宮では浮き袋を使用できない?」
「魔精のみでの飛行と浮き袋と併用しての飛行だと前者は機動力に優れ、後者は持久力に優れる。どちらが有用というわけではなく、浮き袋を使わない理由は環境のせいだと思われる。迷宮は魔精が濃いからな。なかには魔精で浮揚ガスを生成したと思われる個体もあるが、これは例外的な個体と言っていいだろう」
ランタンは矢継ぎ早に幾つも質問をした。ファビアンは面食らったものの、すらすらと返答する。
「伝染は浮き袋の有無によりますか」
「ああ、通常は飛行時にのみ充填される浮揚ガスが、そうでない時にも生成されてしまうんだ。対処療法で一時的に症状を緩和することはできるが、根本的な解決方法はない」
「対処療法?」
「穿刺による脱気。それから減食療法で再発を遅らせることはできる。だから餌に原因があるんじゃないかと考えているんだが、同じ餌でも発症しない竜種もいる」
「遺伝的な性質は?」
「人工繁殖は確率が低く、わざわざ病気の竜種に子を作らせることはない。少なくともこいつの親は健康だ。兄弟もな。野生化では生んだ子が病気であるとわかった時点で殺されてしまう。成体の発症個体は後天的なものなのだろうが、それも殺されるか、群から追い出される」
風船病は種を脅かすほどの病であると、竜種は本能的に知っているのだろう。
「何かわからないか」
「と、言われましても」
そもそもとしてランタンと、こちら側の人々では病気に対する認識に大きな隔たりがある。
例えば大昔、病気は呪いや祟り、災いと言った人知の及ばない現象であると信じられており、治療方法とは加持祈祷の類いであった。
やがて時代は進むと病気には原因があると考えるようになった。その原因とは瘴気である。穢れた空気、穢れた水、穢れた土、穢れた食べ物、穢れた動物、穢れた人。そういったものに触れることで病気に感染すると推測したのだ。
呪いや祟りよりはずいぶんと前進した考え方であり、現在の医療の根底にはこれがある。
原因を瘴気であると考えた結果として、患者の隔離が行われたり、火や熱、あるいは聖水や酒を使って瘴気を祓い清めたりする。
それにより消毒の概念が生まれた。瘴気とは毒であり、有毒の植物や動物、亜人を穢れと見做すこともある。また死体や腐肉に集る蛆や蝿なども、穢れの使者のよう考えられている。
現状、瘴気説はもっとも有力な説であり、広く一般に信じられている大部分の病気の原因であると考えられている。だがあくまでも大部分であり、未だに呪いの類いであると信じられている病気もある。
なぜならこの世界には迷宮があり、魔物がおり、魔精があるからだった。
不死系迷宮に出現する魔物の中には、呪いとしか言えない魔道を使用するものがおり、ランタンが討伐した疫病の大司祭はまさにその筆頭とも呼べる存在だった。それに冒された患者を救い出すのは聖職者の祈りが有効であることは紛れもない事実である。その祈りの正体は治癒魔道の一種であるが、教会はあくまでも神の加護であると言い張っている。
ランタンの知る知識はこの世界で一部では役に立つが、一部ではまったく役に立たない。
例えばランタンは病気は細菌やウイルスによって引き起こされると思っているが、その瞬間をこの世界で目視したことはない。もしかしたら病原菌はまったく存在せず、まさしく瘴気のみがその原因である可能性も否定はできない。麦酒の発泡や、パン種が膨らむのは神の御業でないと言い切るためには、まず酵母菌の存在を示さなければならない。
「ねえ、ランタン助けてあげられないの?」
リリオンは怖々と、けれど期待するような視線をランタンに向ける。
ランタンは細く息を漏らす。
探索者は使えるものは全て使う。そうやって戦ってきた。
まったく身に馴染まない、借り物のような知識だが、使えるものは使うべきだ。あるいはそれがペテンの可能性があろうとも。
「あー……、ちょっと待って。まとめる」
「うん」
浮き袋の病気。地上では生成され、迷宮では生成されない浮揚ガス。減食療法による症状の軽減。集団生活による感染。
「竜種は体内に、浮揚ガスの代謝生成する菌を保有しているのかもしれない」
「菌」
ファビアンが繰り返した。リリオンが小首を傾げる。
「きんってなあに?」
「目に見えないぐらい小さな生き物。そこら中にいる。空気中にも、土の中にも、皮膚表面にも、身体の中にも、食べ物の中にも。例えば人は幾つもの菌を腸内に飼っていて、その菌の代謝系の一つが、食べたものからガスを発生させる。人間で言えばおならがそう。竜種も同じように餌の成分のなにかしらから、浮揚ガスを生成する細菌を腹の中に飼っているのだと思う」
ファビアンの眼差しに、ランタンは覚えがある。
それは得体の知れぬものを見るような目付きである。気味悪がるような眼差しでもあり、好奇心の強い面白がっているような眼差しでもある。
「そう考えた理由は?」
「迷宮の竜種が浮き袋を使わないのは魔精で生命活動を維持しているからだと思う。菌が浮揚ガスを生成するのに必要な物質を取り込めていないか、もしくは生成菌そのものを獲得していないから。風船病を発症させる生成菌は通常の菌とは何かが異なる。ガスを多く発生させるのか、繁殖力が強いのか。それかこいつの腸内が他のと違う構造なのか、あるいは生成菌の活動を活発にさせる誘引物質の分泌系の問題かもしれない」
「菌の獲得方法は?」
「空気感染、飛沫感染、接触感染。竜種の子育ては、口移しで餌を与えますか?」
「ああ」
「ならそこから、かな。もっとも菌は目に見えないし、至る所にあるから他の経路もあるでしょうけど。排泄物とか」
ファビアンははっとした。
「食糞か。飛竜の一部に見られる行動だ。菌の獲得を目的としていたのか」
「それは知らないです」
まるで正解を求めるようなファビアンに、ランタンは素気なく肩を竦める。
「――そうか、そうだったな。失礼、少し興奮した。治療法は何か思い浮かぶか?」
「器質的なものだったら僕にはわからない。菌の問題なら、正常な菌を移植する、とか」
腸内細菌の種類を調べ、生成菌を同定し、これを培養し腸内へと移植する。はたしてそんなことは可能だろうか。そもそもランタンの話は想像で組み上げた仮定に過ぎない。
「そんな顔をするな」
ファビアンがランタンの肩に手を置いた。
「君の意見は我々が持たない視点からのものだ。根本的な考え方そのものが違う。学院には様々な研究者がいる。微細生物の研究をしている人間もいるだろう、おそらく」
おそらく、という言葉の曖昧さがランタンの言葉の異質さを物語っていた。菌というものは、今まで日に当たることのなかった日陰の研究対象なのだろう。その研究者は世間からいるかどうかの関心すら持たれていない。
「もしかしたら治療法が見つかるかもしれない」
「けれど見つからないかもしれない」
「ああ、そうだな」
ランタンは言葉をひり出す。
「でも生成菌さえ見つかれば、それが治療に繋がらずとも培養することができれば、人工的に浮揚ガスを生成、いや製造することができれば、あなたは飛翔ぶことができる」
「どういうことだ?」
ファビアンは竜種が交通の要になると考えている。例えば地竜による竜車、飛竜による竜籠がそれだ。竜車は大重量の移送に向くが公路を通行することはできない。竜種が他の利用者の邪魔になるからだ。竜籠はその心配はないが重量物の運搬には向かない。
だがもし大重量の竜種を浮かすほどの浮力を有する浮揚ガスを大量に生産することができるのならば、これを利用して一つの概念が実現する。
それは名を飛行船という。
ファビアンは目を見開いた。
それは病気が治らなくても、この竜種を生かす理由になるだろうか。
ファビアンは確かにはっきりと頷いた。
「この子はきっと進化の道程なんだと思う。より効率的な浮揚ガスを生成や、それに上手に対応する肉体の獲得の」
レティシアもミシャも、疾うに話についていくことはできなくなっている。もちろんリリオンもちんぷんかんぷんで、けれどファビアンの頷きだけは理解できたようだった。
「ランタン、すごい!」
満面の笑みを浮かべて、少女は飛竜を小脇に抱えてランタンに飛び付く。
「なんで逃げるの?」
「手が涎でべたべただから」
リリオンはじっと手を見下ろした。
「大丈夫よ」
「大丈夫ではないです。だってうんち食べるんだよ、そいつ。その事実で興奮するのなんてファビアンさんぐらいのものだよ」
「おい、語弊がある物言いをするな」
「その手で僕に触ったら本当に怒る。すごく怒るからね」
突き放すように言われたリリオンは、責任を押しつけるように飛竜を睨みつけ、頬を膨らませた。
ランタンはその様子に苦笑した。
「人間に感染してますよ、風船病が」
「知らん。その治療法は君だけで探せ」
あやふやな知識を、知識人の前で口にすることほど恥ずかしいことはない。けれどそれをしたのは偏にリリオンが哀しそうな顔をしたからだったはずだ。
できることはなんでもしたい。
リリオンのしょぼんとした顔を見て、こんなはずじゃなかったんだけどな、とランタンは思う。
ファビアンはランタンの話を理解し、より色々なことをランタンに尋ねた。ランタンは答えられることは全て答え、ファビアンはそれを噛み砕いて飲み込み、自分の知識にしようとしていた。もっともランタンの知識などたかが知れているが。
より深く理解しようとしているが、しかしランタンの言葉を鵜呑みにしているわけではない。
当たり前の話だった。
知識を証明するものは何もないのだ。それは狂人の妄言と変わらないものである。
なのにファビアンはリリオンが不機嫌になり、レティシアが無理矢理に引き剥がすまでランタンを独占して放さなかった。昨晩のドゥアルテもそうだった。彼らはランタンの意見をまず受け入れる。それが荒唐無稽なものであろうと、まずそれをするのだった。
竜種が取り敢えず牙に掛け、それが何であるかを推し量るように。
「兄さまはランタンをずいぶんと気に入ったみたいだな」
気に入ったから、それだけではない。未知のものへの興味と、それの有用性を信じることの下地があるように思えた。様々な美味しい話を持ちかけられる貴族であるからか、彼が貴族でありながら研究者であるからか。
兄弟揃って厄介だ、とランタンは思う。シーロとはまったく別種の厄介さだった。
レティシアへの対応もシーロとは違う。ファビアンはドゥアルテと同じく、貴族的に妹を愛している。道具とまでは言い切らないが、どこかの優れた家に嫁ぐこと、血を繋ぐことが妹の幸せであると考えている節があるようだった。
「……つかれた」
「ほら、ランタン、ここにいいのよ――わ」
「あら素直。よっぽど疲れたんっすね」
リリオンは自分の腿をぽんぽんと叩いた。ランタンは素直に膝枕をしてもらった。不機嫌さを残しているリリオンは、珍しく素直に頭を預けたランタンに驚きと喜びを露わにした。ベールで隠していてもわかる。
仰向けで目を瞑るランタンの顔を覗き込んで、鼻の頭を触ったり、頬を突いたり、毛先を抓んだりする。
「あー、もう、つかれた」
「夜はこれからっすよ。ランタンさん」
「ミシャは、起重機に乗って元気になったね。逃げやがって」
「人聞きの悪い。だってランタンさんのお話、私には理解できないっすから」
ミシャはランタンがファビアンに捕まっている間、再び起重機に乗せてもらっていた。融通してもらうお礼に手伝うと嘯いていたが、きっと起重機に乗りたかっただけだろう。疲れ果てたランタンとは裏腹にミシャはつやつやとしていた。
「やっぱり働かないと、食事も美味しくないですし」
「勤労少女だね、ミシャは」
もう夜だった。馬車に揺られ森を出て、これからレティシアに街を案内してもらうのだった。時間が遅くなったことをレティシアはファビアンに抗議したが、ファビアンからは一笑に伏されている。
陽の下を歩いて無事で済むと思っているのか、と。
物騒な意味ではない。
レティシアはもちろん、闘技会に出たランタンもそれなりに目立つ可能性があった。それにリリオンも。レティシアは、リリオンのベールと同様の品をどこからか取り寄せたらしくいそいそとそれを結んでいる。
ランタンはリリオンの頬へ手を伸ばし、突然ベールを引っ張った。
「なにするの」
ふいと視線を逸らす。
「……ランタンさんってたまにそう言うところありますよね。いじわるなんだから」
抗議を無視したランタンにミシャは、叱るような視線を向けた。リリオンはベールの位置を直して、やり返すようにランタンの前髪をちょっと引っ張った。痛くもへったくれもない。ランタンは少し笑って身体を起こした、
車窓の景色は夜にあって人の姿が多い。
メリサンドの街には活気が溢れている。闘技場は再び地中に没し、戦いの果てに命を失った戦士たちを悼むために花と蝋燭が飾られている。だがそこに哀しみは感じられなかった。
戦闘行為が普遍的なこの世界にあって、意味ある死に場所はそれほど多くはない。命を失った戦士たちは、引き取り手が現れなければ共同墓地へと埋葬される。実際にほとんどの戦士が望んでそこへ行く。ここで戦わなければ、彼らはいずれ野山にその屍を晒しただろう。彼らは自らの人生に意味を与えるために舞台へ上がったのかもしれない。
戦いの舞台を失って広々とした広場には、しかし再び舞台が作られていた。それも幾つも。
それらは芝居の舞台であり、荷車を二、三連結させたような粗雑な造りをしている。その舞台上で早速昨晩の闘技会の再現を演じているのだ。
ある舞台ではやや老けた付け耳のベリレが獅子を担いでいるし、ある舞台ではいかにも邪悪そうな隈取りをした役者を、顔を黒塗りにしたシーロが踏み付けている。
「あれ、ランタンさんじゃないっすか?」
「どれどれどれ?」
「ほら、あれ」
手足が細い。
それはどこからどう見ても男装した少女だった。リリオンが、わあ、と声を上げ、ランタンを押し潰すように窓から顔を出した。
どのような仕掛けがあるのかわからないが膨らむように燃え上がった炎の中に少女が突っ込んでいく。魔道は使っていないが少女は無事で、髪色が黒から赤に一瞬のうちに変化していた。見栄えを重視したのだろう。本物とは似ても似つかない大柄な銃使いを軽々担いで投げ飛ばす。
観客はやんやと喝采を上げて舞台に小銭を投げ入れた。
これは演劇というよりも奇術に近い出し物だった。銃という武器は銃声こそ派手であるが、見た目はそれほどでもないし認知度も低い。劇にはし辛かったのだろう。
「あんな可愛くはないよ、僕は」
少女はにこにこして客に愛嬌を振りまいている。
「負けてないと思うけどな、私は」
馬車は人目を避けて停車し、馬車を降りた。人気の少ない路地を振り返り、ふとシーロの言葉が蘇る。ランタンはリリオンの手を取った。指を絡めるようにしてしっかりと手を握った。
さてどこへ行こうか、とレティシアは言ったものの立ち竦んだ。
このお姫さまはメリサンドの街を自分の足で歩いたことなどほとんどないのである。ティルナバンでもそうだった。移動は基本的には馬車で、いつでもどこでもリリララに連れられていた。
「適当に歩こうか」
「……面目ない」
リリオンとレティシアはベールのおかげで目立たない。ランタンは戦鎚を外套の下に、マフラーで口元を隠す。ミシャが肩に羽織る炎虎の毛皮は派手だが、悪目立ちするほどではなかった。
メリサンドには多くの街灯があって、だが明るすぎるほどではなく、情緒ある街並みを浮かび上がらせていた。古く歴史のある建物も、そうでない建物も統一感がある。
その源は竜種の彫刻だった。屋根や柱の上に像が掲げられていたり、壁に意匠が彫り込んであったりとこの街では竜種が奉られている。力強さや勇敢さの象徴であるし、災いを払う守り神とされてもいる。
通りは賑わっているがティルナバンのような猥雑な雰囲気は少ない。
だがそれでも掏摸やかっぱらいには気をつけなくてはならないし、探索者らしき姿もちらほら見られる。
「あ、これ買いましょう」
ミシャが立ち止まり、屋台で甘辛く煮た鶏肉を薄焼きパンで包んだ料理を買ってきた。四人で二つを分けると、レティシアは驚きに目を見開いた。
「リリララさんから聞いたんです。ヴィクトルさまがよく買ってたって」
「……出来たてだとこんな味なんだな」
鶏肉に絡んだソースは煮詰められており、どろりとして味が濃い。パンはとうもろこし粉で錬ったものらしくパリパリとした歯ごたえで素朴な風味がする。個人的にはもう少し辛い方が食が進む。さしたる特徴のある味ではないが、レティシアは感慨深そうにした。
「兄さまはよく城を抜け出していた。生きてた頃はそう言う人だと思ってそれで納得していたけど、なにかしらの理由はきっとあるんだろうな」
「レティだって城を出たでしょ。同じような理由だよ、知らないけど」
「――なるほど。ランタンは人の事になると強いな」
「他人事だもん」
「ふふふ、悪ぶらなくてもいいだろう。踏み出した先には得難い出会いがあった。楽しみを一度知れば、欲求を抑えることは難しい」
レティシアは意味深な流し目をランタンに寄越したかと思うと、すぐに物珍しそうに屋台の視線を向けた。
レティシアは一目でまがい物とわかる宝石の髪飾りや、軍放流出品と謳って憚らない刀剣類を手に取ってみたりする。店主はまさか領主の娘だとは思っておらず、それは本物であると念を押した。後日、摘発されるかもしれないが自業自得だろう。
他にも色々な物に興味を示した。
さすがにゲテモノには手を出さないが、気になる食べ物を端から買って一口味見をして、ランタンたちに押しつけたりもする。お姫さまらしい我が儘さだった。兄の足跡を辿っているからかもしれない。
ランタンは棒刺しの焼きチーズを一口囓る。表面に焦げ目が付けられており、歯を立てるとぱりっと小気味よい音を立てた。中から湯気の立つとろとろに溶けたチーズが糸を引き、ランタンが慌てるとリリオンが笑った。
「思ったほどしょっぱくない。デザートっぽいね」
「わたしも食べたい」
リリオンはスカートを捲るみたいにベールの端を摘まんでちらりと持ち上げる。すでに口が開けられていた。ランタンはもう一口囓った。リリオンはそれでもずっと待っていた。絶対に食べさせてくれると信じているのだ。ランタンはリリオンの口にチーズを運ぶ。残っていた半分を全て食べられてしまった。
「おいしい!」
「そりゃよかった」
ランタンは手元に残された木串を三つ折りにして焼き払った。灰を風に流し、掌をズボンで擦る。
「これなに?」
様々な店が並び商売を行う中で、それだけは静かに佇んでいる。まわりと毛色の違う、大きな建物をランタンは指差した。
「博物館。もう時間は過ぎてるが、入れてもらおうか」
レティシアは夜警に立つ衛兵に近づき、ベールを外した。この地でその顔を見間違える者は居らず、行動を咎める者もまたいない。レティシアに連れられて三人は博物館の中に入れてもらった。
「魔物や魔道の研究所も兼任しているんだ。竜種に限らず、持ち込まれた魔物や魔道具を買い取りしている。もともとは記念館だったんだよ。竜種が主体となったのは数年前、ファビアン兄さまの発案でね」
記念館というのは、ネイリング家の記念館だったのだろう。そこには当主となるための試練において、歴代のネイリング公の前に立ちはだかった竜種の剥製や、骨格標本が飾られていた。もちろん全身ではなく、ほとんどが首級である。台座には全身図や説明が記されている。
「僕らが討伐したのも大きかったけど、これは……」
大老多頭竜に比肩する、あるいはそれ以上の大物がずらりと並んでいる。小さいことが弱いことには繋がらないが、大きいものは基本的に強い。
「ランタンなら勝てる?」
「努力はする。出現しないことを祈りはするけど」
探索者二人は標本を前にどのように戦うかに頭を巡らせるが、ミシャはその更に奥の展示物を順に巡っていた。博物館には巡回ルートが定められていて、これの指示に従うと竜種がネイリング領でどのような産業にかかわっているのかが理解できるようになっていた。
知らなければ恐れ敬い、高みに置いて見上げるだけのものと、人々はどのように関係しているのか。
牙、角、爪といった狩猟器官や骨、鱗は武具や装飾品として、肉や内蔵は食料や薬として、脂肪や火を吹くための分泌物は燃料として、排泄物は肥料として、竜種それ自体は運搬、農耕機具の動力として、敵や魔物から人々を戦力として。
竜種は産業的に極めて有用な生き物である。
「ふうん――……」
竜騎士の中には、これを友のように接することもあれば、子のように愛でることもある。
ルートの最後には一頭の竜種と男の肖像画と碑文が飾られている。
初代ネイリングは愛する相手として竜種を選んだ。
あなたはどのように、と文章は結ばれていた、
ランタンはその一文を指でなぞる。
金属に彫り込まれた文字はひんやりと冷たい。