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ネイリング家の一同への挨拶もそこそこにランタン、リリオン、ミシャの三人は離れに案内してもらった。
レティシアはこれから更に式典の続きをするそうだ。
帰還式の後には、祖霊たちに万物流転を取り戻したことを報告し、兄ヴィクトルの魂が無事に慰撫されたことを祈り教会へと赴き、そしてあらためて領民たちへの演説があり、そして更に万物流転を宝物庫に奉じ、領地の平安を祈願する奉納の儀を執り行わなければならない。
エドガーやベリレは、ランタンたちと同じく客分の身であるが、ネイリング家との関係性はもうずいぶんと長く、ヴィクトルと顔見知りである為にこれに参加する。
ランタンはと言うとレティシアとこそ懇意にしているが、ネイリング家との関係性はそれなりであり、またヴィクトルのことはよく知らない為にこれを辞退させてもらった。
と言うよりもミシャの体力が限界に近付いていたのだ。
ヴィクトルを悼む気持ちはあるが、それよりもミシャを心配する気持ちの方が強かった。
初めての旅行、見知らぬ土地、大勢の人々に取り囲まれ、大貴族との邂逅。そういったものはランタンにも精神的な負荷を与ええるほどでミシャはすっかり参ってしまった。
その中でも特にミシャを追い詰めたのは長時間の移動であり、騎竜に跨がっての最後の六時間は極めて強烈で、メリサンドに入ってからの高速遊覧飛行が止めになったようだった。
帰還式の迫力が一時的な気付けになったものの、ドゥアルテに自己紹介をして気が抜けたのか、ミシャはほどなくして体調を崩し、気分が優れなくなった。
式典に押し出されるような形で、歓迎の酒宴が翌日に予定されていることは救いだった。
ドゥアルテはこのような事態を半分予想していたようだ。
竜種による移動は鍛えていても相当な負荷になる。
竜騎士を志す若き騎士も、その中には高速機動の荷重に心を折られて空を舞うことを諦めてしまう者もいる。特に先輩騎士に相乗りさせてもらっての初飛行では失神、失禁、嘔吐は当たり前であり、食欲がある者は極めて稀である。
ランタンとリリオンは予想外にけろりとしており、一般人のミシャだけが負荷に呑まれ、そしてランタンは見知らぬ場所にミシャをほっぽり出して酒宴に参加するような気にはならない。
結果だけを見れば、ドゥアルテの予想による決定は間違いではなかった。
ランタンはメイドに先導されて離れにミシャを担いで運んだ。
おんぶでも抱っこでもなく、問答無用に肩に担いで。
ミシャはぐったりとして文句の一つも言わず、まさに捕らえられた獲物のような有様だった。肩に感じられる不規則な呼吸と、思い出したような身じろぎだけが意識を保っていることを伝えてくる。
「離れってもっとこぢんまりしたものだと思ってた」
「これ、お屋敷と同じくらいあるわ……」
離れはネイリング城と渡り廊下で接続されているが、独立した建造物でティルナバンの屋敷と同じぐらいの規模を誇っていた。
外観は古典様式の聖堂を思わせる典雅な造りで、内装も落ち着いていて優美だった。
だがその建築構造は無骨である。
太い柱にぶ厚い壁。巧妙に偽装してあるが、戦時を想定して建造された建物である。外見の印象よりも一回りは狭いだろうか。それでも玄関を入ってすぐの広間は、竜種を飼育できそうな程の面積を誇っていたが。
寝室として使える部屋は十以上あり、その全てが使用可能な状態に用意されていた。
もっとも風呂に近い部屋に案内してもらった。
ランタンはベッドにミシャを横たえると、メイドに飲み物と風呂の用意を頼んで下がらせる。
「……貴族さまみたい」
ミシャがベッドの上で呟いた。気怠い感じの眼差しでランタンを見上げる。
「重たかったでしょう? せっかくの旅行なのに迷惑掛けて申し訳ないっす」
「いや式典なんて面倒なだけだもん。レティには悪いけど、いい言い訳になったよ。って言ったらミシャにも悪いか。空調はこれかな。ミシャ少し身体浮かして」
ランタンはミシャの防寒具を脱がしてから自分の防寒具を外し、ソファに投げだした。外套を椅子の背もたれに引っ掛ける。防寒具を取り払うと、拘束具を外したぐらいの解放感があった。
ランタンは大きく背伸びをする。ミシャは息を吐いて身体を萎める。
「ねえ、ランタン。はずして」
ベールは緩みにくく外れやすい縛法によって結ばれているが、リリオンは結び目を何度か引っ掻いて解くのを諦めてしまった。
「そんぐらい自分でやりなよ」
ランタンは口ではそう言うもののベールを解いてやる。リリオンは袖で口元をごしごしと擦り、満足気に深呼吸を繰り返した。
「温かいけどちょっとだけ苦しいの。あ、染みができてるわ。……ミシャさん大丈夫?」
リリオンは大切そうにベールを折りたたみ胸に抱き、さっとベッド脇に膝立ちになりミシャの顔を覗き込む。
「うん、大丈夫よ。ちょっと疲れちゃっただけ」
リリオンはミシャの額に手を当てて熱を測った。
「お熱はないわ。すこし冷たいくらいよ」
「二人は流石っすね。私はくたくたっすよ」
「ま、移動だけでへばってたら未帰還になっちゃうしね」
ランタンはベールのついでにリリオンの髪を解いてやり、指を通しながら髪を揺らした。
結び癖が付いた髪はきつく波打ち、その内部に上空の冷気を溜め込んでいた。髪はひんやりとして、指が切れそうな金属的な硬さを帯びている。
「それに流石って言えばレティでしょ。この状態で魔物と戦るのは平気だけど、式典なんてもう絶対に嫌だよ。立ってらんない。かったるくて死んじゃう。貴族なんかとても無理だな、――っと起きて平気?」
ミシャは下半身に力が入らないという感じで、腰を捻り、腕の力で重たそうに身体を起こした。リリオンが咄嗟に支える。
「ありがとう。――お風呂お願いね、下がっていいよ。って堂に入ってたっすよ。いつ貴族さまになっても平気っすよ」
「それ、僕の真似? そんなに偉そうだったかな」
ティルナバンの屋敷での生活に、使用人の存在はなくてはならないものだった。
屋敷ではあらゆる仕事が細分化されており、その一つ一つに担当者がいて、メイドはそれらに対する窓口のようなものだった。
例えばランタンの喉が渇いた時、水筒が空で水精結晶もない時、ランタンはメイドを通して水分を獲得しなければならない。メイドはランタンの望みに従って、単純に水が欲しいのならば給仕にそれを用意させ、結晶が欲しいのならばその担当者に用意をさせ、用意された物をメイドがランタンの下へと運んでくる。そうやって貴族は雇用を生み出しているのだ。
ランタンは些末なことで手を煩わせるのも申し訳ないので、自分の脚でそれを求めることも多かったが、もしそれが意地悪な上級メイドにでも見つかろうものならば、担当メイドは意地悪極まりない叱責を受けることになる。
メイドに対する遠慮はメイドの為にならないのである。
「ミシャも気を付けなよ。と言っても偉そうなのは良くないけど、あらためないとな」
ランタンは飲み物を運んできてくれたメイドに対して懇切丁寧に礼をし、頭を下げた。
メイドは、風呂の用意が済んだこと、他にも用事があればいつでも呼びつけてくれて構わないこと、至らぬ点があれば早急にあらためること、その三点を伝えると慌てて逃げ帰っていった。
「どうよ」
「……ランタンさんはやることが極端なんっすよ。びっくりしてたじゃないですか」
「はい、ミシャさんの分。これはランタンので、これはわたしの分。これレモンの匂いがするわ」
「あ、ありがとう」
「本当だ、口の中がさっぱりするね」
メイドの運んできた水にはレモン果汁が搾ってあるようだった。
酸味はあるが刺々しくはなく、口当たりもまろやかで爽やかだ。ほのかに甘いが、すっきりしていた。
「きっとルビーレモンっすよ。ネイリング領の特産品の」
それは赤いレモンであるらしい。
秋の終わりから冬にかけて実を結び、雪の中で生育し、氷点下において甘みを蓄える品種である。木々が埋もれるほどの大雪の中で越冬した実は特に甘く、皮ごと食べることもでき、滴る果汁が血のように赤いのでブラッドレモンとも呼ばれる。
「造血作用があるとかで、女性の体調が悪い時なんかに好んで食べられるらしいっすよ」
「へえ、ミシャさんは物知りね」
リリオンが尊敬の眼差しを向けると、ミシャは空笑いをした。
何だかんだとミシャも旅行を楽しみにしていたのかもしれない。ネイリング領についての簡単な知識をどこからか仕入れているようだった。
ランタンが意地の悪い笑みを浮かべると、ミシャは恥ずかしそうにコップで口元を隠した。
「さっそくレモンの効果が発揮されてるね」
ランタンはミシャの顔を覗き込む。
「な、なにがっすか?」
「顔色、だいぶ良くなってるよ。もしかして式典をサボる為に血行を操作してたとか?」
「ミシャさんそんなこともできるの? すごい」
「……私、リリオンちゃんのこと心配になっちゃう。そんなことできるわけないでしょう。ランタンさん、いい加減なこと言わないで」
きっと睨みつけてきたミシャに、ランタンはどこ吹く風といった様子で笑う。
「よし、元気になってるね。せっかく風呂を用意してもらったんだから、しっかり温まって、疲れも旅の垢も落としておいでよ。リリオンも」
部屋数だけを見ればティルナバンの屋敷にも比肩するが、この離れには風呂は一つしか用意されていない。そして普通の男女は一緒に風呂には入らない。
「えー! ランタンも一緒に入りましょうよ。ねえ、いいでしょう?」
リリオンはまさか予想外の事実を突き付けられたというように驚きの声を上げた。慌ててランタンの腕を掴んで、ねえねえお願い、と甘えた声で何度も揺らし、ミシャの困惑にも気が付いていない。
甘い誘惑であるが、その誘惑に負けるわけにはいかなかった。
ミシャの手前、じゃあリリオンは僕と一緒に、などと言うことはできない。
「リリオン」
「一緒に入ってくれるの?」
「ミシャはまだ本調子じゃないから、リリオンがミシャの世話をするんだからね。ちゃんと綺麗にしてあげるんだよ。リリオンにできる?」
それが誘導であることに、リリオンは気が付いたようだった。
リリオンはむすっとし、だがこくんと力強く頷いた。
「まかせて。ミシャさんのことつるつるにするから」
「えーっと……」
リリオンは戸惑うばかりのミシャを、赤ん坊のようにひょいと抱き上げる。
「え、あの、もう歩けるって言うか、恥ずかしいっていうか」
「着替えはメイドさんに届けさせるよ」
「ランタンが届けてくれてもいいのよ。気が変わったら、いつでもいいからね」
「メイドに頼むよ」
ミシャはじたばたと暴れたが、リリオンは意に介さずのっしのっしと歩いて風呂に向かっていった。
ただもう一度振り返る。
「すぐ来てもいいからね」
大きな浴室の中には、白木で作られた小部屋があり、その中央には一抱えもある大きな塊のようなものが鎮座していた。それは丸く加工されており、溶岩石に似て真っ黒で、多孔質で、いかにも重たそうだった。
使われた痕跡はない。
ランタンは素っ裸でその周囲を一周巡り、すぐにぴんときた。
柄が木で、先端が金属の柄杓が立てかけられている。ランタンは柄杓を手に取ると、おもむろに塊を叩いた。
ぽこん、と間抜けな音がする。黒々とした塊が、叩いた部位から染みが広がるように赤く、そして透明化していく。炎を押し固めたかのように。
火精結晶である。
乾いた熱がランタンの肌を炙った。
それに柄杓で水を掛けるとじゅっと音を立て、迂闊に吸い込めば肺を焼きかねない高熱の水蒸気が発生した。室温が急上昇し、火精結晶は水を被った部分が暗く濁ったが、すぐに透明さを取り戻す。
蒸し風呂だった。
ランタンはもう一度水を掛け、それから白木のベンチに腰を下ろした。木々のいい匂いがするが、深呼吸は自殺行為である。室温はすでに百度に近い。
ミシャのことをとやかく言えないな、とランタンは苦笑する。あらためてレティシアを尊敬した。
汗と一緒に、身体の奥に隠していた疲労が表面化したようだった。
迷宮探索はある意味、知らぬ地への旅と似たようなものだったが、本物の旅はそれとはまったく別種の精神的な疲労を蓄積させる。
ランタンはエドガーにもベリレにも、それなりに心を許しているが、それでも籠の旅は窮屈だった。竜種の背に乗っての移動は、興味深くもあったがやはり疲れる。
「見栄っ張りめ」
ランタンはベンチにタオルを敷いて、寝転がっていた。
リリオンやミシャの前では平気そうにしていたが、ランタンもかなり疲れていた。
ランタンは仰向けになったまま、腕を前に突きだして肩甲骨を開いた。棒みたいに細い腕に、ふつふつと汗の珠が浮き上がってくる。それらは重力に引かれて腕を滑り落ち、背に敷いたタオルは不愉快なほど汗で湿っていた。
水中に叩き込まれ、這い上がってきたように全身が汗だくになる。
身体を起こし、髪を掻き上げるとぼたぼたと汗が滴り落ちた。蒸し風呂内の湿度はかなりのものだったが、唇は乾燥していて舐めると強く塩の味がした。
ランタンはゆっくりと立ち上がり、蒸し風呂から出た。
張られた湯の蒸気と熱気で外もずいぶんと暖かいはずなのに涼しく感じられる。
ランタンは熱っぽく重たい息を吐き出して、躊躇せず水風呂の中に飛び込んだ。
「――うううぅぅぅぅ、心臓止まる」
呻き、頭の先まで潜って、その中で髪を振り乱して汗を振り払う。息の続く限界まで沈む。鉄に焼き入れをするように。
水分補給をし、それから二度、蒸し風呂と水風呂を行き来して、さて風呂に入ろうかという時にリリオンが覗きにやってきた。
ランタンは裸で、リリオンは裸足で、髪もスカートもざっくりと結んで、腕まくりまでしていた。
「忘れ物でもした?」
リリオンはじいっとランタンの裸体を見ながら、首を横に振った。
「遅いから、おぼれてるのかと思って助けに来たのよ」
「まだお湯を浴びてすらいないよ」
「そうなの?」
リリオンは言いながらふらふらと近付いてきた。濡れた床がぺちゃぺちゃと間抜けな音を立てる。
ランタンは真っ赤に冷えた身体をたっぷりの湯の中に沈めた。
掌に湯を掬って顔を洗い、温まって指で髪を解した。湯船には表面張力いっぱいまで湯が張ってある。リリオンは縁までやって来て、尻が濡れるのも構わずに腰掛けた。
「もう三十分もたってるのよ。ミシャさん眠っちゃったの」
「そうなんだ。お疲れだね」
「そうみたい。ランタンはお風呂にも入らず、なにをしてたの?」
「蒸し風呂。リリオンは使わなかったみたいだね」
「うん。わたしもミシャさんもよくわからなかったから。今度一緒に入る時、むしぶろ、わたしにも教えてね」
ランタンが無言で肩を竦めると、リリオンは湯を掻き混ぜて波を起こし、ランタンに浴びせかけた。
「今度は一緒に入るんだからね」
「はいはい」
「約束よ」
ランタンは縁に頭を預け、身体から力を抜いた。湯船は階段状になっており、腰掛けることができるようになっていた。ランタンは老人のような思い息を吐き出して目を瞑る。
それをリリオンは飽くことなくじっと見ている。目を瞑っていても見られていることがわかるぐらい、熱心に見つめている。
ランタンがそれに耐えきれずに目を開くと、リリオンは期待に目を輝かせた。
「もう出る?」
「さっき入ったところだよ」
「まだ出ないの?」
「もうちょっと身体が温まったら」
「もう温まった?」
「まだ」
リリオンはしゅんと肩を落とした。ミシャが眠ってしまって暇になったのだろうか。
考えてランタンは唐突に立ち上がった。身体中から湯気を立ち上らせており、立ち上がった勢いでリリオンに幾つも飛沫が掛かった。リリオンは瞬きもせず、充分に熱を溜め込んだランタンの身体を眺める。
「もう出る?」
リリオンも立ち上がった。やはり尻のところがぐっしょり濡れてしまっていて、生地の色が濃くなり、また尻の形がわかるほどに張り付いている。そんなことをリリオンはまるで気にしていない様子だった。
「まだ、――でもリリオンが背中を流してくれたら、もう出ようかな」
ミシャが眠ってしまって、寂しく、心細かったのだろうと思う。
リリオンは褒美が与えられたように目を輝かせる。
「まかせて! ミシャさんもつるつるになったんだから」
リリオンはさっそく石鹸を手にし、ランタンにかつて教えられた通りにもこもこに泡立てた。だが教えを守ったのはそこまでだった。
リリオンはランタンの背中に叩き付けるように泡を塗り、背を洗い、脇を攻め、そのまま胸や腹部にまで進み、内股に触れようとしたところで捕らえられた。
十本の細い指が、褒美を取り上げられたとでも言うように動いている。
「お湯を汲んできなさい。それで許してやろう」
「はあい」
リリオンは手桶にたっぷりの湯を汲み、勢いよく振り返り、帰りの一歩目で石鹸水に濡れた床に足を取られた。
その手から桶がすっ飛び、湯が盛大にぶちまけられ、ランタンは悲鳴に振り返った驚きの顔にそれを真面に浴びることになった。
鼻に湯が入って眉間の辺りにしばらくは取れそうにない不愉快な痛みがある。追撃の桶をどうにか受け止め、ランタンは無様に寝転がるリリオンを跨いで、手桶に湯を汲んだ。
リリオンは仰向けに倒れており、背中全体にもみるみる染みを広げた。
ランタンはリリオンがずぶ濡れになるのも構わず、三度も頭から湯を浴びて泡を洗い流した。リリオンは全身がすっかり濡れてしまって、染みがどうのと言う話ではなくなった。
リリオンは無言で、救いの手を求めて腕を伸ばしている。
ランタンはリリオンを助け起こした。水分を吸った衣服が重たく、スカートの結び目も解けてしまっている。
「びたびたになっちゃった。――ねえ、ぬがして」
張り付く衣服を自分で脱ぐのは至難だった。ランタンは慣れた手つきでリリオンをひん剥いて、濡れた下着も剥ぎ取って、尻餅をついて赤くなる尾てい骨の辺りを撫でてやった。
そしてせっかくなので二人もう一度湯船に浸かり、温まり直した。リリオンはずっと笑っている。
ランタンがメイドにリリオンの着替えを頼むと、メイドは何やら意味深に微笑んでそれを用意した。
リリオンはランタンの足を枕にしている。
ランタンはベッドに腰掛けて少女の髪を弄んだり、初めて目にするミシャの寝顔を観察していたはずなのだが、いつの間にか少女たちの寝息に誘われていたらしい。
びりりとした震動が身体を打って、まずランタンがはっと目を覚ました。
ずっとリリオンの頭を支えていた右足に擽ったい痺れがあり、旅の疲れも身体の芯にこびり付いている。だが行動を阻害するほどのものではない。ベッドの脇に戦鎚が立てかけてあり、手を伸ばせば一秒以内に掴み取ることができる。そして知覚範囲を広げ、部屋の中に違和感がないことを素早く確かめる。
その眼差しには、すでに一欠片の眠気も存在しなかった。
「声、か」
震動が大きな音の結果であり、音が声であることに気が付くまで三秒ほども掛かってしまった。鼠のように神経質だが、蛙のように鈍重である。もしも有事ならば首を落とされていた。
まさかネイリング城に、つまりは竜種の巣にのこのこ乗り込んでくる悪党もいないだろう。だがもし居るとするのならば余程の馬鹿か、腕利きである。
ランタンはほっとしながらも反省し、リリオンの髪や寝顔に触れた。
リリオンがうっすらと目を開いた。まだ眠たげな瞳が薄く開かれた目蓋の隙間からランタンを仰ぎ見て、寝返りを打って少年の腹に顔を埋める。腸を食い破るかのように顔を押しつけて、けれど牙も柔らかな子猫であるかのようにうんうんと唸っている。
「うー、なあーにー……」
本当に猫のように唸り、猫のように身体を丸めた。
そしてミシャはそれよりももっと遅く目を覚ました。
鬱陶しげな寝返りを二度打ち、枕に顔を押しつけて、二度寝に入ったかと思いきやふらりと身体を起こした。焦点の合わない目をしたまま首を振り、それから驚きに目を丸くして、ランタンの顔を見てまた驚いてようやく覚醒した。
「っ、びっくりした。ランタンくん、……あ、そうか。レティさまの……」
ミシャは独り言のようにぶつくさ呟き状況を思い出したようだが、ランタンの腰にへばり付く少女の服が、一緒に着替えした時とは別の物に変わっていることには気が付いていないようだった。
「これ、何の音っすか?」
ミシャは不安そうな顔をしてランタンに尋ねた。
震動は声であるが、声はぶ厚い石の壁によって減衰し、嵌められた窓硝子に振動を乱され、言葉として認識することが難しくなっていた。
一休みと思っていたがかなり眠ってしまったらしく、もうすっかり日は落ちている。ヴィクトルの鎮魂は既に済み、レティシアは教会から再び城へと戻ってきているだろう。
「声だよ。たぶんドゥアルテさんの」
「ネイリング公さまの? はあ、お偉い貴族さまともなると、こんな大きな声が出せるんですね」
ミシャは至極真面目に感心したように呟く。
確かに竜種の咆哮は聴覚のみならず、感覚器官の全てを一時的に麻痺させるほどの音圧となって探索者に襲いかかることもある。竜種の血を継ぐドゥアルテならばこれほどの声を出せるかもしれない。
だがそうではないとランタンは思う。
ランタンが何とも言えぬ顔でミシャを見ていると、ミシャは少し不愉快そうに眉を寄せる。
「なんっすか」
「いや、ドゥアルテさんががんばって声を張り上げてるのかと思ったら面白くて」
「……現に聞こえてるじゃないっすか。ネイリング公さまのお声だって言ったのはランタンさんっすよ」
「まあ、そうなんだけどさ」
そもそもミシャは声を拡声する道具を使用している可能性に行き当たらない。そのような道具はティルナバンでは目にしたことがなかった。目にしたことがない物は存在しないも同然である。
口で説明するのは難しい。
「たぶん見た方が早いよ。確か塔があったよね。あそこから見れるかな」
ランンタンはミシャを宥めるように呟き、リリオンの肩を叩き、それでも起きないので頭を鷲掴みにしてぐらぐらと揺らしてやった。
「あうううう……」
「このまま寝てる? 僕、ちょっと出るけど」
「おきる。いっしょに行く。どこへ行くの?」
「外の、高いところ」
リリオンはもう一度、一緒に行く、と呟きランタンの腹部で深呼吸をしてようやく身体を起こした。
「ミシャはどうする?」
「……お供します」
ランタンはリリオンに外套を被せ、ミシャの肩に毛皮を羽織らせ、それから自分の用意を済ませた。室内を移動するのにもかかわらず腰に戦鎚を吊した。
ミシャはまだ本調子には戻っていないようでリリオンが肩を支えてやり、ランタンは未踏破の廊下を我が物顔で突き進んだ。
「迷子になりそうね」
「敵の侵攻を遅延させる為だろうね。回廊構造だし、廊下は写し取ったみたいにそっくりだし、おっと階段発見」
「上がらないんですか」
「二階には行けるけど、塔は独立してるはず」
ランタンの予想通り塔を登る階段は別にあった。
塔は縦横五メートル四方の角柱であり、内側には螺旋階段と狭間窓と六つの階層がへばり付いていた。掃除はされているが、積極的に使用した様子はない。
七層目は外であり、六層目の梯子を使わなければ出ることができない。リリオンはスカートで、ミシャはズボンを穿いている。
まずランタンが登り、続いたミシャを引き上げ、リリオンがミシャの尻を押し上げた。
梯子を登り切ったミシャの顔が赤いのは、梯子がそれなりに長いからだと思っておこう。
夕焼けは残らず失せ、空は黒と星と月に支配されている。リリオンは冷たい風に髪とスカートを押さえた。
塔の最上部は四方を胸壁に囲まれており、外部から見ると王冠を被せたように見える。
ランタンは南側の胸壁によじ登り、無謀にも爪先立ちになって背を伸ばした。ミシャが咄嗟に叫んだ。ズボンの裾を縋るように掴む。
「あぶないよ!」
「大丈夫だって、この高さなら落ちても死にはしないよ」
塔の高さは城壁の倍はありそうで、胸壁に登らずとも演説するドゥアルテを目視することは可能だった。普通の人は落下死するが、探索者ならばたぶん大丈夫だろう。
巨大な魔道光源によって煌々と灯りが焚かれている。城門の上にドゥアルテは立ち、翼を広げる竜種のような優雅な身振りで領民に語りかけている。
「ほらあれ」
ドゥアルテの両側に巨大な球体を乗せた柱がある。ドゥアルテの声はそこから四方へと広がっていた。
スピーカーだった。機械的な物ではなく、魔道によって震動を拡大している。指向性はなく、球体から音が放射する為に、集まった領民とは真反対の離れにまで音が聞こえてきたのだ。
「ランタンさん知ってたんっすか、あの道具」
「いや、あるとは知らなかった」
「あれ、なあに?」
「声を大きくして、遠くに伝える道具。ほら」
ランタンは胸壁から下り、リリオンの手を取って自分の喉に触れさせた。
「この振動を拡大する」
声は肌を打つほどの大音量だったが明瞭であり、ドゥアルテの堂々たる演説は目を見張るものがあった。
「諸君らに愛されたヴィクトルが迷宮から帰らず、もう二年が過ぎようとしている」
死の身近な世界であってもヴィクトルの死は多大なる衝撃と哀しみをもたらし、今日まで多くの領民が哀しみから抜け出せずにいた。死を仕事の一部とする騎士たちですら、あるいはヴィクトルと近しい分だけ悲しみも深い。
もっとも身近な家族は、それにより混乱の淵に追い詰められたほどに。
「どれほど哀しもうと死は覆せぬ」
ゆえにヴィクトルは絶対的な存在になってしまった。
「だが哀しみは癒える。乗り越えることができる! ヴィクトルとともに失われた宝剣はここに還った。これ以上の哀しみを彼奴は望みはせんだろう。さあヴィクトルの愛した皆よ、彼奴が羨むほどの生の喜びを叫ぶがいい! 弔いはこれで終いだ、――先へ進むぞ!」
都市の全ての人々が狂ったように叫んだ。さながら竜種の咆哮のように。
それは天の先へ、地の底へ。
あるいはヴィクトルに、その快哉は届いたのかもしれない。
三人は闇の中、手を取り合って祈りを捧げる。




