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カボチャ頭のランタン  作者: mm
06.On The Origin Of Species
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 ミシャがネイリング邸にやってきたのは、蜘蛛の糸を訪れてから二日後のことだった。

 財布と着替えだけを詰め込んだと言う膨らんだ鞄を肩から掛けていて、温かそうだけど何だか野暮ったい旅装に身を包んでいる。暗緑とも濃紺とも呼べぬ色に染められた革コートは男物で、オイルの馴染んだ独特の匂いがする。

 ミシャは緊張している。ミシャはランタンやリリオンに色んなことを教えてくれる。そんなミシャが鞄を広げて、足りないものはないかと二人に尋ねるのだ。

「初めてのことだから、これぐらいで大丈夫ですかね。忘れ物とか大丈夫でしょうか」

お人形(ヘルヴァ)も連れて行くのよ。うふふ、いいでしょー」

「お人形も要りますか? 人形持ってきてないっす……」

「いや要らないから。余計な荷物増やして、ったく」

「一人でお留守番は可哀想でしょ!」

「あーうるさいうるさい」

 耳を塞いだランタンに、リリオンはヘルヴァを押しつける。ランタンが鬱陶しがれば鬱陶しがるほどに、リリオンは押しを強くした。

 ミシャは役に立たない二人から、頼りがいのあるレティシアに助けを求めた。レティシアは軽く肩を竦める。

「私の荷物もそんなものだ」

「はあ……」

「足らなければ向こうで用意すればいいさ」

「そうですか……」

 貴族の娘も、一般的家庭の娘も、持ち物はそれほど変わるわけではなかった。ただ量と質、そして自分で用意するのか、使用人が用意するのかの違いがあるだけで。レティシアの支度はすっかりと済んでいて、旅の荷物はすでに飛行場へと運ばれている。

 ランタンたちは、それを追うように馬車に乗り込んだ。

「竜籠!」

「そんなに驚かなくても」

「いや驚くっすよ。旅って言ったら、普通は馬ですよ。竜籠……」

「これで長距離移動は尻が割れるよ」

 ランタンは冗談めかして言ったが馬車は旅の移動手段としては一般的かつ上等な部類であり、馬には荷を運ばせるだけで、自分の脚で超長距離を歩くことも珍しい話ではない。

 ミシャは馬車に揺られながら、飛行場までの景色を眺めていた。マフラーで鼻まで覆って、風が吹く度に首を竦める。寒そうだが、それでも景色を見る目が好奇心を抑えきれずにいる。

 ミシャは都市外に出たことがない。ミシャに限らず、少なからずの人が自らの生まれた土地から離れることなく人生を終える。

 長距離の移動手段は限られていた。例えば陸路であったら馬や牛であり、起重機(クレーン)の存在はあったが、どういう訳か乗用車などというものは存在しなかった。

 馬よりも運搬能力や移動能力に優れる生物となると牛馬に魔物を交配させた魔馬、魔牛や、これから向かう竜籠の動力である竜種などだ。だがそれらは一般的に軍用である。例えば一足先に都市を離れたネイリング騎士団が竜種をも恐れぬ魔馬を使用している。

 飛行場への道を馬車が二台連なって進んでいた。

 前を行く馬車にはレティシアとリリララ、ベリレとエドガーが乗車していた。護衛兼先導役はシド他二名の騎士だった。

「この前、籠どころか本物の背中に乗ったじゃん」

「あれは特別。あの時は気にしてる余裕なんて無かったすよ。起重機も燃えてたし」

「今度は燃えない起重機を買おうか」

「都合よくそんなのありますかね」

「なかったら作ってもらおう」

「そんな、――ランタンさん、ありがと」

 ミシャは、さすがにまだ起重機を買ってもらうことに遠慮と抵抗があるようだった。起重機の値段は、探索者と引き上げ屋、ただそれだけの関係性に発生していい金額ではない。

 それでもランタンは頑固で、ミシャはこれ以上の遠慮が無意味なことを知っていたので、感謝だけを口にした。

 ミシャがふと景色から視線を外し、リリオンの方を向いた。

「な、なにっ?」

「リリオンちゃんが、この中で一番旅慣れているんだよね」

 リリオンはなぜか水を引っ掛けられたみたいに驚いた。そして慌てて胸をどんと叩いた。

「え、うん、そうよ。困ったことがあったら、わたしを頼ってね」

「あはは、頼もしいな」

「でも空の旅も、王都も、わたし初めてだから」

「えー、頼らしてよ。リリオンちゃん」

 リリオンははにかんで頷いた。まかせて、と恥ずかしそうに言う。

 ほどなく飛行場に辿り着くとすでに二つの竜籠が用意されており、最後の確認作業が進められていた。

 長方形の貨物箱(コンテナ)を思わせる二頭牽きの大籠である。

 内装は軽量化のためか簡素な造りをしていた。敷き詰められた絨毯、壁の三方に作り付けのベッド、天井のフックに魔道光源(ランプ)が吊されている。それだけだった。

「そっちの方はもうちょっと豪華だね」

 様々な理由により、籠は男女別で乗ることになっている。女性陣が乗る籠の方が豪華なのはレティシアが乗るからである。絨毯一つとっても毛足の長さが違った。魔道光源はさながらシャンデリアのようだ。

「嵐に呑まれたら別だが、目的地まで一週間は掛からないはずだ。上空は寒いから、温かくするんだぞ」

 レティシアが子供に言い聞かせるようにランタンとベリレに言った。

「中で暴れたりするんじゃないぞ」

「そんなことはしません。ランタンが喧嘩を売ってこない限りは」

「ベリレがいびきをかいたら、その保証はできないな」

「おい」

「なんだよ、五月蠅くしたら叩き落とすから走ってついて来いよ」

「その時は道連れにするからな」

「――まあ、仲良くな」

 レティシアは二人に笑いかける。

 照れるベリレを余所に、ランタンは一足先に籠に乗り込んだ。そして積み込まれた防寒具の一つを引きずり出した。

 それは炎虎の毛皮である。

 今や大探索団となったトライフェイスから届いた物だ。それは見事に仕上げられていた。

 毛の方は柔らかな炎のようにふわふわして手触りよく、裏地の皮はよく鞣されており薄いクリーム色をしている。裏地の端にはドレスウッド工房の刻印がされている。

 その工房はトライフェイス最大の支援者である、ボグウッド商会傘下の工房だった。

 ともあれ毛皮の品質は極めて良かった。刻印以外、変な細工もされていない。炎虎の炎を封じた毛皮はとても暖かい。ランタンは一抱えもあるそれを胸に抱くと、ミシャに押しつけた。

「貸してあげる」

「え、っと」

「寒いの、苦手なんでしょ?」

「ありがとうございます。でもいいんっすか? リリオンちゃんはこっちにいますよ」

 ミシャは嬉しそうにそれを受け取って、悪戯っぽくランタンに笑いかけた。

「まあ暑苦しい奴がいるから大丈夫」

 リリオンみたいにくっついてきたら、冗談ではなく籠から叩き落とすが。

「ベリレくん、ランタンさんをよろしくね」

「うん、はい」

「はいじゃないよ。よろしくするのは僕でしょ、年上だぞ」

「どっかから声が聞こえてくるけど見えないな」

「見えない目なんかいらないな」

「おっと下にいたのか」

 ランタンとベリレが軽口をたたき合っていると、ミシャは笑い声を溢した。

「こっちはこっちだし、あっちはあっちでなにかしてるし」

 リリオンがリリララを困らせている。

 上空がなぜ寒いのかと言うことを聞いている。リリオンの理論では空の方が太陽に近いので、高度が上がれば上がるほど気温も上昇するらしい。リリオンは二度も竜種に騎乗してその寒さを体感したはずなのに、その時のことを忘れてしまったみたいだった。

「なんでだろ?」

「一緒に乗っていたからでしょう、ランタンさんと」

 リリララが困っているさまを鑑賞していると、急にリリララが振り返ってランタンを指差した。

「ほら、あいつに聞け。どうにかしろランタン」

「どうして?」

「――地面の反射熱とか、気圧とかの影響により」

 リリオンばかりではなく、聞いていた全員が首を傾げる。

「太陽は色んな物を温めてくれるでしょ? で温まり方は色々違って、空気より地面の方が温まりやすい。地上付近の空気は、太陽と地面、両方の熱で温められるから、空の空気よりも温かくなる」

「じゃあ、きあつって何?」

「知らない」

「うそよ、うそついてる時の顔だわ」

「……面倒臭いな、気圧の方の説明は、――あー、上空の方が気圧は低いんだけど」

「どうして?」

「説明が難しいな。誰か代わりに教えてあげてよ」

「いや無理。お前変なこと知ってるな。探索者の前は天文学者、ってことはなくてもその弟子とかだったんじゃねえの?」

「天文かな、気象学じゃないの? いや、物理か」

「どっちも似たようなもんだろ」

「似てるかなあ」

 天体の動きは、森羅万象に影響を及ぼすと考えられている。

 例えば災害、台風や日照りなどの気象災害はもちろん、地震や噴火といったもの、あるいは戦争や大事故などの人為的災害に崩御などの凶兆に至るまで。

 天体を観測することは、過去、現在、未来を観測することと同意であった。天体観測による吉兆、凶兆の予測は大真面目な研究対象である。

「それで、きあつって何なの?」

「気圧って言うのは空気の密度、つまりは濃さだよ。ベリレしゃがんで」

「なんで」

「いいから、しゃがめって。痛くしないから、背中丸めろ――よっこらしょ」

 ランタンは三角座りをするベリレの背中に腰掛けた。

「空気って言うのは、地表から空のもっと上の方まで積み重なってる。で下の方にある空気は、上にのっかてる空気に押し固められてる。つまり気圧が高い。反面、上の方の空気は、乗っかる空気が少ないから気圧が低くて、伸び伸びと広がってる。気圧は気体の圧力のこと」

 ランタンは大人しく座っているベリレを撫でたり、耳を引っ張ったりして、それからわざとらしく大きく伸びをしてた。

「で、寒い時は、こう手を擦ったりするでしょ? 摩擦で熱は生まれるんだけど、空気内でも同じことが行われてる。空気中には色んな物質が無数にあってそれらが摩擦を起こして――うわ、急に立つなよ」

「いつまで座ってるんだ」

「もう少し説明が終わるとこだったのに。まあいいや、気圧が高いって言うのはさっきみたいな状態のことを言う。物質同士の距離が近い。だから摩擦が起こりやすい。気圧が低いって言うのは今みたいな状態、離ればなれになっていて摩擦が起り辛い。つまり温まりづらい」

 ランタンはベリレから距離を取った。ああ寒い、とわざとらしく言うとリリオンが飛び掛かってきて、ランタンはそれを躱した。リリオンはむくれる。

「なんで、よけるの」

 物理的な摩擦は起きないが、人間関係に摩擦が起きたかもしれない。

「とまあ、こんな感じ。でたらめかもしれないけど」

「いや納得できるっすよ。それっぽい」

「たしかに、もっともらしい説明ではあるな」

「背中に座らなくてよかっただろ」

 三人は半信半疑だったが、リリオンは真剣な眼差しでランタンを見上げた。

「大きく膨らむと冷たくなるの? ランタンは小さいから温かいの?」

「空気と人は違います。空気は膨張だけど、人は成長だよ。密度が薄くなるわけじゃない。――ほら、リリオンのお母さんだって、温かかったでしょ?」

「うん、とっても」

 ランタンはリリオンを手招きした。リリオンは抱きしめてもらえるのだと信じ込んで、無防備に、嬉しそうに近付いてくる。ランタンは満面の笑顔を、その両頬を抓った。

「小さいは余計。まったくもう。確かに大きくなると、それだけ温めるのも大変だけど」

 リリオンは涙目になった目を丸くした。

「温め甲斐はあるし、一度温めれば大きい方が長く温かいし」

 ランタンは抓んでいた頬を放した。リリオンは赤くなった頬を押さえる。

「そうなの?」

「……正確には表面積とか、熱伝導率か色々ある。でもまあ人間は自分で熱を生むからね。特にここ」

 ランタンはとんとリリオンの胸に指を突き付けた。

「太陽みたいなのがある」

「ここに」

 指先からリリオンのどきどきが伝わってきた。

「――ランタンさん、良いこと言ってる風ですけど、ちょっと」

「どさくさに紛れておっぱい触ってんじゃねえよ!」

「……さわってないです」

「触ってるじゃねえか!」

 リリオンの身体は、ランタンと違い成長している。

 だけれどもまだ胸骨の所は、脂肪の厚みが薄かった。指先には柔らかさよりも骨の硬さと、鼓動の方がはっきりと触れている。

「うん、ランタンはさわってないわ」

 リリオンはランタンの手首を握った。

 まずい、と思う。手を振りほどくことはできない。

「おっぱいは、ここよ」

 リリオンは強引にランタンの手を導いた。

 ランタンは慌てて、手を開いた。人差し指だけで触っていたら、言い訳など効かないことになっていただろう。

 ランタンは掌全体に伝わる柔らかさと脈打つ心音にほっとして、リリララに腰を蹴り飛ばされた。

「赤ん坊じゃねえんだから、おっぱい触って落ちついてんな!」

 怒鳴り声に呼応するように竜種が嘶き、ついに旅の準備が整ったのである。




 竜籠の乗り心地はお世辞にも良いものだとは言えない。

 まるで竜に丸呑みにされたようだとランタンは思う。

 籠を腹下に吊る二頭の竜種は、籠の中にランタンたちを迎え入れるとゆっくりと離陸を開始する。それは滑り出すような離陸ではなく、重たい荷物を抱え上げるようなものだった。

 大きな大きな羽ばたきはそのまま籠内への大きな振動と、頭を押さえつけるような重力をもたらした。ミシャの引き上げが恋しくなる。これとは比べるべくもなく快適だ。

「あー気持ち悪い。腰が痛い」

 ランタンは呟く。

 竜種はある高度まで達すると、大きく翼を広げ風を受け、更に高度を取った。小さな丸窓から外を覗く。竜種は前方やや斜め上を飛んでおり、見上げると空にひっかき傷をつけたように白線が伸びている。

 馬車の時と同じくシドと二名の騎士が竜籠を先導しており、彼らは翼爪を触れるか触れないかぐらいまで近接し三角に編隊を組んでいる。竜籠はその後ろを前後に並んでついて行くのだ。

 レティシアの愛竜である赤毛のカーリーは、そんな竜籠編隊の周りを、背に誰も乗せることなく、腹に何も吊ることなく身軽な姿で飛んでいる。

 自由気ままに遊んでいるようにも見えるが斥候や遊撃の役割を与えられていた。

「唾飲むと良いぞ」

 項垂れるように窓に額を押しつけているランタンにベリレが言った。窓は急速に冷たさを増して、振り返ったランタンの額が赤く染まっている。同じ頃、リリオンも同じようになっていることなど知らず、ランタンはごくんと喉を上下させる。

「……んっ、――かわらないな」

「じゃあ、こっちは」

 ベリレはランタンの小さな鼻を親指と人差し指で抓んだ。掌の皮が厚い。繊細に長槍を操るには、指先の支持力が肝である。鼻骨軟骨をぺしゃんこにされそうだった。ランタンは唇を真っ直ぐに結んで、耳抜きをする。

「かわらない。もういい」

「不機嫌になるなよ。これって耳の中の空気が膨らんで起きるのか?」

「たぶんね」

「ふうん、……なあランタン、弁当食べないか?」

 籠に乗る別れ際に、リリオンが手製の弁当を持たせてくれたのだ。ランタンだけの分ではなく、ベリレやエドガーの分もあった。

「乗ったばっかりなのに? 昼と晩にって言ってただろ」

「いや、でも」

「ダメ。我慢しなさい」

「ちぇ」

 ベリレは舌打ちを一つして、ベッドにどっかりと腰を下ろした。ランタンとベリレは対面している。ランタンの体重にはびくともしないベッドが、ベリレの体重に若干沈み込んでいるように見える。

 ベリレは鞄をごそごと漁って、球を取り出した。ベリレの手ではお手玉ぐらいに小さく見える。それをぽんぽんとついたかと思うと、おもむろにランタンに投げつけてきた。ランタンはそれを受け止める。

「弁当食べたらベッド壊れるんじゃない? 太って」

「そんなわけあるか」

「体重幾つ?」

「百、と二十ぐらい?」

「僕二人と半身(はんみ)ぐらいあるな。でぶ」

「筋肉、だっ」

 座った状態のままベリレは物凄い球を投げてきた。ランタンはそれを弾き上げ、天井に跳ね返ったところを捕まえる。そして鋭い横回転を掛けて投げ返した。

「おお、曲がった」

「縫い目があるから、空気抵抗に差ができるんだよ」

「へえ、こう、かっ!」

「これも密度の差だね」

「とりゃっ!」

「聞いちゃいないな」

 ランタンとベリレの距離は二メートルあるかないかと言ったところだった。それほどの近距離にもかかわらず全力で球を投げつけあい、だが二人とも受け損なわなかった。

 ベリレは球に回転を掛けることに執心しており、縫い目に指を掛けたり、手首を捻ったり、肩を開いたり試行錯誤している。

「――あ」

 そんなことをしているから投げ損じてしまった。床に叩きつけられた球は捻れるような回転によって、ベッドで書類を読んでいるエドガーの方へとすっ飛んでいった。エドガーは書類から視線を逸らさぬまま邪魔くさそうに弾いた。

「おまえらうるさいぞ。遊ぶならカードかサイコロでもしてろ」

 エドガーから跳ね返ってきた球をランタンは受け取り、性懲りもなくベリレに投げつけた。だがベリレはいそいそとそれを鞄にしまいこんだ。

 竜籠の旅は結構暇なものだ。

 小さな窓から眺める空の景色も物珍しいのは最初だけですぐ飽きてしまって、カードやサイコロ遊びも二人ではあっという間に遊び倒してしまう。探索漬けのランタンと鍛錬漬けのベリレは遊び方の種類を知らず、また遊びの楽しみ方も知らなかった。ベリレもそうだが、ランタンもどちらかと言えば身体を動かす方が好みなのである。

 だからと言って外に遊びに行くわけには行かなかったが。

 食事は喜びと言えば喜びだが一日目にリリオンの作ってくれたお弁当を食べ尽くしてしまうと、翌日からは味気ないものになってしまう。

 火精結晶の携行コンロはあるが、それは大鍋に作り置かれた煮込み料理を温め直すだけのものであり、料理をするためのものではない。エドガーは飛行場で買った蛙の干物で酒を嗜んだりしているが、子供二人はやることもなくなってしまったのである。

「ふっ、――ふっ――、ふっ――」

 結局ベリレはベッドに足を掛け、片腕で腕立て伏せをしている。

 沈むのに三秒、持ち上げるのに三秒、自分の身体を苛めるようにじっくりと負荷を掛けている。だがそれでも物足りないらしく、ランタンはその背中に乗せられていた。

「この前は途中で降ろしたくせに」

「ふっ――、なんか言ったか?」

 鍛えた分だけ、ベリレの身体は大きく成長するのかもしれない。ランタンは日に日にぶ厚くなる背中の隆起を撫で、座り位置を肩甲骨に寄せた。この辺りまで上がってくると跨ぐことができないほど幅がある。ランタンは横座りになって、汗の浮く項にタオルをかけてやった。

「ねえベリレ」

「ふっ――、なんだ?」

「頭のおかしいこと聞いていい?」

「?」

 ランタンは何でもないような声で言いながらも、落ち着かないのを誤魔化しきれぬようにベリレの耳を弄んでいた。ベリレは一瞬戸惑いを見せたものの、なんだ、と変わらぬ声で問い返す。

「おちんちんに毛が生えたのっていつ頃? ――うわあ、大丈夫?」

 鉄骨のように強固だったベリレの身体がぐしゃりと潰れた。

 ランタンが恐る恐る心配すると、時間が巻き戻るみたいに身体を持ち上げ、そのまま片腕で巨体を持ち上げてしまった。ランタンは片手倒立するベリレの背から投げ出され、不満気に、物言わぬ後頭部を睨みつけた。

 恥を忍んで聞いたのに、と思っているとベリレは無言の圧力に耐えかねたのか、ぐるんと身体を回転させベッドに腰掛けた。

 教えを請う側のランタンは殊勝にも床に座ったままで、だがベリレは何とも居心地悪そうに、顔を顰めた。

「覚えてない」

「覚えてないぐらい昔なの?」

「いや、そういうことじゃない。ええっと、ちょっと待て、思い出すから」

 ランタンが真面目に聞き返すと、ベリレは目を閉じ眉間に皺を寄せ、うんうん唸った。

「九つの時だ」

 エドガーが助け船を出した。

「そうなんですか?」

「これの歩法が乱れてな。せっかく様になってきたというのに、股ずれでも起こしたかと思って問い質したら、ちくちくするとぬかすものだから、くくくっ」

 エドガーは思い出し笑いを堪えられぬというように口元を隠した。ベリレが恥ずかしがっている。

「お前は髭も何にも生え取らんから、そういう体質なんだろう」

「そういうものなんですか?」

 全く以て純真無垢にランタンが尋ねる。娼館の女主人イライザもそのようなことを言っていたが、ランタンにはそれを確かめる術はない。

「そういうものだ。――そうか、お前は風呂好きだが公衆浴場は好かんのだったな」

「今は大きい風呂に困ってないですからね。わざわざ変態の巣窟に行く気にはならないですよ」

「お前なら女風呂でも許されそうだが」

「馬鹿を言わないでください。それに女の人にも変態はいるでしょう」

「許されることを否定はせんのか。女の裸を見るのに面倒な真似をせんでもいい立場だな。公衆浴場へ行けば、色んな人間を見ることができる。人族も亜人族も。獣系は毛深いのが多いが、爬虫類系の亜人などは鱗が邪魔で毛も生えぬ奴らがおるよ。そもそも人間、姿形は違うものだろ」

 エドガーはベリレの頭上にある耳を抓んでみせた。たしかにこの世界は人族と亜人族がおり、毛の有る無し程度の差異はそれほど気にすることではないのかもしれない。

 それでもランタンは考え込む。

「何を気にすることがある」

 背が大きくなる、体重が増える、声が低くなる、毛が生えてくる。それらは最もわかりやすい成長の証であると、ランタンは思う。

 単純な劣等感が、疑問に変わったのは、いや目を逸らせなくなったのは竜系迷宮で炎に包まれたあの時か、目覚めた時か。

 極度のストレス、あるいは栄養不足、それとも魔精による保若効果。

 成長が遅いのか、それともしていないのか。

 自分は一体、何であるのか。

 自己への問いかけは、ランタンに常に付きまとうものである。

「――ランタンってさ」

「なに?」

「肝心なことを言わないよな」

 黙りこんで俯き、ランタンが思案に耽っていると、ベリレが頭を引っ掻くようにして顔を上向かせた。ベリレはいつの間にかベッドから下りている。のそのそと四つん這いになると、本当に熊のようだ。

「肝心な事って?」

「それを言わないから、わからないんだろ」

 凜々しい精悍な顔立ちをどこか悔しそうに歪めて、もどかしげに、苛立たしげに言う。

 そう言えばミシャにも似たようなことを言われた。ランタンは戸惑い、何かを言いかけて結局やめた。

 ベリレが不満気に睨みつける。

「そんな目で見られても」

 すっかり困っているランタンに、エドガーが苦笑を漏らす。

「まだ弱みを晒すのは苦手か? これはお前の弱さを知ったからといって、寝首を掻こうなどとは考えんぞ」

「そんな風には思ってないですよ、もう今はね」

 ランタンが言うと、ほら、とベリレが咎める。

「どんな風に思ってるかを言えよ」

「まあそう言ってやるな」

 エドガーは猛獣使いのようにベリレをかいぐりと撫でる。

「だがな、そうやっていると自分のことがわからなくなる」

 もうすでにわからない。

「ご自身の体験談ですか?」

「ああ、そうだ」

 自分の話から、エドガーの話へとすり替える。

 エドガーはそれをわかっていたようだったが、穏やかな声で話し始めた。

「俺は昔、人よりも優れた探索者になりたかった。ジョージ、……ギルド長のな、あれの誘いに乗ったのもそのためだ。用意された道筋を辿るだけだったが、それでも苦労はあった。全てが思い通りに行くわけもなし、喜びはもちろん、仲間との衝突も、不意の事態も不慮の事故もあった。だが概ね上手くいっていた。ただの探索者が英雄となり、俺の言葉は俺だけのものではなくなった。こう見えてなかなか凄かったんだぞ」

「どう見えても凄いことは知ってますよ」

「俺が白いと言えば、黒い烏だろうと白くなった。俺が死ねと言えば皆、喜んで死んでいった。何気ない言葉に、誰も彼もが意味を見出してくれた。あるいは粗を探し出そうと躍起になった。敵も味方も多く、言葉を選ぶようになったのは、――それこそ初めからだったかもしれん。台本が用意される事もあったしな」

 喉を鳴らし皮肉げに笑う。後悔ではない。それをすでに飲み込んで、自分の一部と認めている。

「立場が変わり、責任が重くなると、取り繕い方も変わってくる。偽るのが癖になると、どれが自分の本心かわからなくなる。お前はまだ毛も生えない子供だ。もう少し素直になったらどうだ。手遅れになる前に」

「手遅れって何ですか」

「直にわかる、――ようになった時が、その時だな」

 エドガーは無責任に笑った。エドガーの話をありがたく拝聴していたベリレは、正座していた脚が痺れたのかもたもたと足を崩し、一転して偉そうに腕組みをする。

「よし、素直になる訓練をしよう」

「いやだ」

 名案だとばかりに胸を張るベリレをランタンは一蹴した。そもそも素直になるとはどういうことかまるでわからないし、素直になる訓練というものも理解しがたいし、なぜベリレの前で素直にならなければならないのかとも思う。

「ふむ、互いに秘密を共有することによって結束を強めるというのは伝統的な方法だな」

「……適当なこと言ってます?」

「適当なものか。騎士も探索者も、似たようなことはしとるぞ」

「にしても秘密ね」

「――秘密じゃなくてもいい。どういう風に過ごしてきたとか、そういうの教えろ」

「だから覚えて――」

「一秒前だって過去だぞ。覚えてないことだけじゃないだろ」

 ベリレは強い口調でランタンに言った。

「ほう、我が弟子ながら良いことを言う」

 師弟はまったく同じように腕を組んで、閉口するランタンを見下ろした。


次回は10日に更新するかもしれない

次々回は15日に更新するかもしれない

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