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二日酔いにもならず早起きすることができたので、朝からミシャに会いに行くことにした。
「今日はミシャさんいるかな?」
「んー、どうだろう。いてくれないと困るけど」
「ミシャさんも、一緒に行けたらきっと楽しいね」
「急なことで迷惑じゃないかな?」
「そんなことないわよ。きっとよろこぶわ!」
ランタンはあわよくばネイリグ領への旅行にミシャを連れて行こうと考えていた。
蝿の王へと突撃し、燃えさかる起重機を見下ろした時に漏れた悲痛な声が耳に残っている。
ミシャは気丈に振る舞っているが、もし気落ちしているのだったら旅行はいい気分転換になるだろうと思う。
「ランタンはミシャさんのこと好き?」
「え、ああ、うん、まあ」
「わたしもミシャさんのこと好きよ! だから一緒に旅行に行けたらいいね。ミシャさん優しくて、運転してる時、格好いいの。美味しい食べ物屋さんも知ってるのよ。向こうのお店も知ってるかしら?」
リリオンは無邪気に笑った。
「いや店は無理があるんじゃない? それに優しいだけじゃなくて、怒ると怖いし」
「そうなの? ――ランタンくん」
「だからやめろって、それ」
リリオンがミシャの声を真似て、ランタンは毎度のことでうんざりした。
向かい風が外套の内に滑り込み、体温を奪っていく。リリオンは髪を押さえ、風が止むとランタンの手を握った。
「ねえ、似てた?」
「似てない」
リリオンの声真似自体は似ていない。だがそこに含まれる、叱るような響きはよく似ている。そんなにリリオンの前で叱られただろうか。昔は確かに小言を言われたが。
そんな事を考えていたせいか、事務所内にミシャの姿があって驚いてしまった。扉の前で立ち止まったランタンの背中をリリオンが押す。
愛機を失って予備役に回されているのだろう。いつもはアーニェが座っている受付に、ミシャが座っていた。
勤務態度は意外なことに不真面目だった。机に頬杖を突いている。
早朝の忙しさが一段落付いたところだろう。ぼんやりしている眼差しは義母であるアーニェに似ていたが、アーニェのような妖艶さは微塵もなく、頬の潰れた表情は留守番に飽く少女そのものだ。
扉が開くと、見るよりも先に口を開く。
「いらっしゃ――、あ、なんだランタンさんっすか」
「なんだとはひどいな」
「わたしもいるよ!」
「いらっしゃいませ、リリオンちゃん」
リリオンがぱたぱたと足を鳴らしてミシャに駆け寄り、手を握った。
「外は寒そうね」
ミシャはその手を握り返して軽く笑う。
「店番してるところ見るの初めてかも。アーニェさんはどうしたの?」
「店番ぐらいはしますよ、私だって。店主はちょっと外の用事っす。たぶんもうすぐ帰ってきますよ」
「ふうん、そっか。てっきり店主の座を奪い取ったのかと思った」
ランタンは冗談めかして言ったが、ミシャは笑わなかった。少しだけ違和感がある。
――そんなことしたらランタンさんが迷宮に行けなくなるっすよ。
そんな言葉が返ってくるかと思っていたのに。
「ミシャ、何かあった?」
「何かって? お客さんが来なくて、やること何にもないっすよ。おかげで商売あがったり。まあ今は来られても、ごめんなさいするしかないっすけど」
ミシャはリリオンの手を離して、鷹揚に肩を竦める。仕草の何が違うわけではない。ランタンとミシャは探索の行き帰り以外では、数えるほどしか会ってはいない。リリオンと出会ってから探索回数は激減していている。
だがそれでも違和感があった。
「それで今日はどのようなご用っすか? 引き上げの予定は埋まってますけど、ランタンさんなら無理をしてもいいって言われてるっすよ。ランタンさんのことだから、そろそろ迷宮が恋しくなってるんじゃないっすか?」
明るい声で、からかうみたいにミシャは言った。
「うん、そうだね。迷宮には行きたい。ミシャの操縦で」
「あら嬉しいことを。じゃあ、まだしばらくは行けないっすよ」
ランタンはリリオンの隣まで進んで、受付に手を突いた。内緒話をするみたいに少し身を乗り出した。
「起重機の、この前言った起重機の話を覚えてる?」
「さすがに忘れられないっすよ」
「実はレティ、シアさんが一回ご実家に帰るんだって。それで相談したら、あちらで起重機を融通してもらえることになったんだ。たぶんこっちの工房に注文出すよりも早く用意することができる」
「本気だったんすか。レティさまも巻き込んじゃって……」
「冗談なんて言わないよ」
「それは失礼」
「……それで僕らも一緒について行こうかと思ってるんだ。今年中、できれば早い内に。だからミシャも一緒に行かない?」
「ね、ミシャさん、一緒に行こ?」
ランタンの急な申し出にミシャは驚いた様子を見せなかった。リリオンが身を乗りだして誘うと、さすがに困ったように眉を寄せた。一日二日で帰って来られるわけではないので、簡単に返事ができることではないのだろう。
迷惑に思っているわけではなさそうだった。
「ねえミシャ、何かあったの?」
「ランタンさん、そればっかりっすね。そんなに何かあったように見えますか?」
「見えるよ。ねえ?」
「うん」
リリオンがあっさり頷くと、ミシャはがっくりと肩を落とした。それは何か隠し事をしていると自白しているも同然だったが、それでも言いたくはなさそうだった。
ミシャも言おうか言うまいか迷っているようだったし、ランタンもそれ以上聞こうか聞くまいかを迷っていた。
リリオンが突破口を開こうと、胸一杯に息を吸い込んで。
「――あら、ランタンくんにリリオンちゃん」
盛大に噎せた。
「お母さん」
アーニェが用事から戻ってきた。
「リリオンちゃん大丈夫? 乾燥しているから、風邪を引かないようにね」
大振りなコートを羽織って、鍔広の帽子を被っていた。コートには袖が二つしか無く、背側から生える四つの腕は隠してあった。眉間にある複眼も、帽子を脱がなければ目立たない。
六腕六眼を隠したアーニェは一見すると蜘蛛人族には見えなかった。見えないようにしていた。
「けほ、けほっ、だいじょうぶです。おかえりなさい」
リリオンが言うと、アーニェは優しく笑う。
「はい、ただいま。そして、いらっしゃいませ。陽はあるけど外は寒いわね。ミシャお茶を淹れてきて」
アーニェはコートを脱ぎながらミシャに頼んだが、ミシャは黙って座ったままだった。アーニェは隠していた腕の強張りを解すみたいに、大きくゆっくりと伸ばす。
コートの中にしまっていた手は暖かそうで、一つはミシャの頭を、もう一つは頬を撫でた。
「ミシャ、お茶を淹れてきて。私と、あなたの分も含めて四つ。ランタンくん、外看板をひっくり返してもらってもいい?」
「ひっくり返す?」
「蜘蛛の形の看板よ。頭が下だと開店中、逆だと閉店中」
「へえ、そうなんですか」
もう数えることもできぬほど通っているのに知らなかった。アーニェは苦笑して、知らない人の方が多いわ、とフォローしてくれる。
「お母さん」
「どうせ今日はもう来ないわよ。最近は追い返してばっかりだもの」
扉の脇に、先端に小さな鉤が突いた棒があった。背後でミシャが席を立つ。アーニェが帰ってきた瞬間から、ミシャは少し表情が硬くなった。いつもは店主呼びだが、お母さんと呼ぶのもおかしい。
ランタンは振り返らずに表に出て、看板の蜘蛛を突く。すると看板はくるりと回転した。
「ありがとう」
アーニェは店の奥から背の高い椅子を引っ張り出して二人に勧めた。アーニェは先程までミシャの座っていた定位置に腰を下ろす。年齢不詳のアーニェだが座る時にだけ少し年齢を感じさせた。いかにも寒さが堪えるというように背を丸める。
「二人は寒くない?」
「わたしはへっちゃらです」
「まあ、これぐらいは」
「そう、若いっていいわね。ミシャったら私に似ちゃって、実はこの下に火鉢が隠してあるのよ。知ってた?」
爪先でそれを蹴っているのだろう、重たそうな陶器の音が聞こえる。
「必要だったら言ってちょうだいね」
ランタンが、そうですね、と言いかけたところにリリオンが椅子を引きずって肩が触れるぐらいに近付いた。人間一人が持つ熱量は馬鹿にならない。ランタンは少し恥ずかしくなったが、アーニェは納得したように頷く。
「――冬の、引き上げ屋の仕事は大変ですね」
「待機時間は、そりゃもう大変よ。大変なのは冬ばかりじゃないけど」
アーニェは懐かしそうに笑った。
「起重機が出始めたばかりの頃に笑い話があってね。起重機の性能は今よりもずっと低くて、排ガスも酷くって。ほらあれって温かいでしょう。だからそれで暖を取ろうって、誰かが排気口から足元まで管を伸ばしたのよ。実際それで温かくってね。次は操縦席に風防をつけて。これでより温かくなるって、そう考えたら、ガス中毒で冷たくなっちゃったのよ」
アーニェは笑ったが、はたしてそれは笑い話なのだろうか。ランタンもリリオンも笑うに笑えなかった。
「だからねリリオンちゃん、起重機の後ろに立ってはダメなのよ。あれは毒だからね」
リリオンは真面目な表情をしてふんふんと頷く。笑えないが為になる話ではある。
「当初は原因がわからず、迷宮特区はてんやわんやだったらしいわ。この前の事件みたいに、疫病じゃないかって特区の封鎖も検討されたのよ」
知らないということは、それだけ恐ろしいという教訓話なのかもしれない。
「それでランタンくんたちは、今日はどのようなご用件かしら?」
「――ミシャを借りに」
「あら、借りるだけ?」
アーニェの言葉は本気とも冗談ともわからない。ランタンはたっぷりと沈黙し、それからアーニェに起重機の件やミシャを誘ったことを告げた。
「あの時から少し事情が変わったのよ。ありがたいお話だわ」
「ミシャさんに、何かあったんですか?」
リリオンが心配そうに尋ねると、アーニェは頷いた。
「あの子から話は?」
「聞いてないです」
「そう、実はね」
ミシャが黙っていることを知ってなお、アーニェは平然とミシャの隠し事を話し始めた。
「いくつかの引き上げ屋で合併が起こりそうなのよ。起重機や操縦者の喪失で、首が回らなくなってしまったお店が幾つもあってね。体力のあるところに身を寄せたり、まずいところ同士で手を組んだり。それでうちにも話が持ちかけられたのよ」
足音と水音。紅茶の香り。
蜘蛛の糸は起重機を三機所有する引き上げ屋だったが、現状所有しているのは二機だけである。
三機という数は多くはないが、少なくもない。だがその内の一つを失ったことは大きな痛手だった。通常請け負っている仕事の約三割を諦めなければならず、単純に考えて収入が三分の二に落ち込む。そればかりではなく起重機を買い直す出費だってある。
探索者として収支を管理するランタンだが、経営については明るくはない。だがそれでもその負債がアーニェの細肩に重くのし掛かっていることは理解できる。
「相手は結構大手なんだけどね。不運なことに事件で起重機を三機も失ったの。それも買い直したばかりの新品を。それにその起重機に乗っていたのが熟練の引き上げ屋で、むしろそっちの方が痛手みたいね。下はまだ育ってないどころか、新人君が怖がって逃げちゃったんですって……、踏んだり蹴ったりね」
そこで白羽の矢が立ったのが蜘蛛の糸であった。
相手方は元々が大手であるから、顧客数も多い。一定期間を持ち堪えることができれば立て直すことも不可能ではない。
蜘蛛の糸の引き上げ屋はミシャを含めた三人とも、そして現役を退いたとは言えアーニェも技術は確かである。
合併するかはさておき、腕利きの引き上げ屋であるミシャにお茶汲みをさせている現状では、一時的な同盟を結ぶ程度ならば蜘蛛の糸にとっても悪い話ではない。
手を温めるみたいに口元を隠し、アーニェは深々と溜め息を吐いた。
「相手方が、強い協力関係を求めていてね。あちらの跡取り息子とミシャの縁談も一緒に申し込まれたわ」
いわゆる政略結婚だった。
事務所の奥から紅茶を盆に載せたミシャが顔を出した。さすがに表情を強張らせているが、紅茶を溢すほどの動揺は見せなかった。それがミシャの強さだった。
「お母さん」
「隠すようなことではないでしょう?」
「でも」
むしろ動揺したのはランタンである。その話を聞いて猛烈な寂しさが込み上げてきた。同時にグランとカーリナを思い出した。彼らの結婚も、感情によるものではなく、個々人の目的のため、利害の一致による結婚だった。
ミシャの気持ちはどうなのだろうか。
「そんな大変なこと、どうして隠してたの?」
「隠すようなことじゃないかもっすけど、わざわざお伝えするようなことでもないっすよ。私個人の問題ですし」
ミシャは口元を隠すようにカップを傾けた。
「ちょっと濃く淹れすぎたっすね」
「――ミシャさん結婚するの? それでいいの?」
ようやくアーニェの言葉が耳に届いたというように、リリオンが慌てた様子でミシャに飛び付いた。受付台がなかったらそのまま押し倒していたかもしれない。
リリオンは受付台に齧り付くように、鼻から上だけを覗かせて上目遣いにミシャを睨むように見つめている。ミシャはたじたじとして、けれどリリオンに顔を寄せた。
「まだお返事はしてないっすよ」
「どうして?」
「どうしてってすぐにお断りをしたら角が立つじゃないですか。同業者なんだから」
その答えにランタンは思わずほっと胸を撫で下ろした。
「あら、やきもきさせちゃったっすか? ランタンさん」
「そんなんじゃないよ。だって隠してたりしていたから、何かあるんじゃないかと思って」
「何かって?」
さっきからこんなやり取りばっかりだ、とランタンは思う。
「例えばアーニェさんには申し訳ないけど、実は蜘蛛の糸の台所事情が火の車で結婚せざるを得ないとか――」
「ご心配なく」
「――同業者同士のしがらみがあるとか、相手方が危ない人たちで脅されてるとか。もしそうだったらほら、こう見えても僕、乱暴なことって得意だし」
「助けてくれるんだ」
「もちろん」
「ありがと」
ランタンが頷くと、ミシャは嬉しそうに微笑んだ。
「じゃあ、じゃあミシャさんは結婚しないのね? お断りをするのね」
「保留中よ。まだ。だって初めてのことだから、それに滅多にないことだし」
ミシャは明言を避けた。ランタンは本当に、自分でも意識せずに言葉が出た。
「……やだなあ」
言ってから自分自身でびっくりしてしまった。ミシャも目を丸くしている。
「ランタンくん、今なんて。なんて言ったの?」
「何も」
「やだなあってランタンは言ったのよ。わたし聞いてたんだから」
「本当? リリオンちゃん、聞き間違いじゃない?」
「ほんとうよ」
余計なことを、とランタンは苦虫を噛み殺したような顔をした。
「ちょっとなんか想像したら寂しくなっただけだよ」
ランタンはしぶしぶそれだけ言うと、不機嫌そうに口を噤んだ。
むず痒そうにミシャの薄い唇が震えている。
「お母さん」
ただ二人のやり取りを聞いていたアーニェが、なにかしら、と涼しい声で応える。ミシャは頭を振って、おかっぱ髪を揺らした。ちらりと一瞬覗いた首筋が銀の粉が浮いたようにきらきらして見えた。
「今が忙しいのは知ってる。けど、ランタンくんと一緒に行ってもいい?」
「もちろん構わないわよ」
「ごめんなさい、ありがとう。と言うわけでお邪魔してもいいですか?」
アーニェの許可を得るとミシャはランタンに淡く笑いかけた。ランタンは頷く。
「レティさまに、お世話になりますって言っておいて、お願いね。それでいつまでに用意を済ませればいいの?」
「今月中ならいつでも、それこそ明日にでも。早いに越したことはないけど」
「そうなんだ、じゃあ急がないと」
「うん、――何も用意しなくても、レティシア、さんが全部用意してくれるけど」
「さすが貴族さまね。お母さん、用意してきていい? 明日、さすがに無理かな。でも、できるだけ早くお屋敷にお邪魔するね」
背を向けたミシャに、リリオンが声を掛けた。
「ミシャさん、待ってるからね」
「大丈夫よ、逃げたりしないから」
「ほんとうね。一緒にお買い物したり、お散歩したりしたいからね」
「うん、私もよ」
「ランタンも一緒にだからね」
「うん、そうね」
ミシャは振り返って頷き、思い出したように小首を傾げた。
「ランタンくん、レティシアさまってそんなに言い辛い?」
「……ちょっとね」
ミシャは見透かしたように笑う。
「向こうの天気はどうかしら。日差しが暖かければいいのだけど」
ミシャに縁談と聞いての動揺は思いがけず長引いた。もしかしたらリリオンもそうなのかもしれない。
ランタンにとっても、リリオンにとってもミシャは姉のようなものだった。
眠るリリオンは無邪気で、本能的だ。いつにも増してランタンにくっついて眠っている。寝息が首筋を擽って眠れない。ランタンは寝返りを打って、リリオンに向き合い、まず上半身を押し返した。それから絡みつく脚を外す。
眠れないのでしばらくリリオンの顔を見つめていると、自らリリオンを押し返したのにランタンは少女の身体に触れた。柔らかい頬を抓み、寝息の漏れる唇を突いた。
その指先をリリオンが咥えた。唇で挟んで、爪の先を小さな歯が甘噛みする。
「――」
ランタンは何か言いそうになって、はっと目を覚ました。気付かぬ内に微睡んでいたのかもしれない。言いかけた言葉が心の底深くに沈んでいき、思い出そうとしても思い出せなかった。眠気も、思い出せない言葉と一緒に遠ざかっていった。
ランタンはベッドを抜け出して、静まりかえった屋敷の廊下を歩いた。向かうのはレティシアの部屋だった、
いつでも来ていいとレティシアからは言われていたが、こんなに早く訪れるとは思いもよらなかった。
レティシアは最近ずっと夜更かしをしている。ランタンには想像することもできない、貴族としての仕事をしているようだった。レティシアの部屋は幾つもあり、ランタンが目指したのは執務室だ。
扉をノックし、声を掛けた。
「ランタンです。……お邪魔してもいいですか?」
返事の代わりに扉が開かれた。羽織を肩にかけて、髪を低い位置で結んでいるレティシアが押さえきれぬ笑みに表情を緩めて迎え入れてくれた。
「邪魔なものか。さあどうぞ」
レティシアはランタンを部屋に招き入れて、ソファを勧めた。だが視線は一瞬、内扉の方へと滑った。レティシアの寝室へ繋がる扉だ。
「来てくれるとは思わなかったな。ちょっと無防備なんじゃないか? そんな薄着でのこのこやってきて」
レティシアは隣に腰掛けると、ランタンの羽織りをそっとはだけさせる。寝衣に包まれた細い肩に腕を回し、ランタンはその腕を抓った。
「餌を取り上げられた野良犬の気分だ」
「ずいぶん血筋のいい野良犬ですね」
「まったくそういうことじゃないなら、いったい何の用だ?」
「仕事の邪魔をしに。大丈夫ですか?」
威圧感のある執務机の上には、書類や算盤が広げられて、暖色系の魔道光源によって照らされている。
「ここを離れる前にやり残しがないかの確認だよ。シドからの報告書もある。仕事が早くて助かるよ」
孤児院に押し入った騎士二人は、ティルナバン騎士団からの追放及び都市退去処分の罰を議会から下された。ティルナバン騎士団は各領地の騎士たちによって構成された騎士団であり、二人は領地へと送り返され、送り返された先の領主によって更なる罰が下されるだろうと予想された。
また騎士団そのものにも規律を引き締めるようにとの達しが、代行官直々に発せられた。
「今のところはこれぐらいだな。教会の方も各孤児院との連絡を強化や、統合も考えているようだ。子供は戦力にはならんが、それでも数が増えるだけで抑止力にはなるからな。ランタンほどの殲滅力があれば別だが」
「……統合」
「ああ、ミシャの業界もそうだったな。いや、引き上げ屋ばかりではないか。探索者同士も固まりつつある。昔から何か起こると人は数を恃む、不思議なことはないさ」
ランタンは曖昧な表情で肩を竦めた。レティシアはめげることなくランタンの肩に腕を回し、自らを小さな身体に引きつけた。
「今更な質問なんだけど、レティは」
「うん?」
「何をしに実家に戻るの?」
「家族に会いに行くことがそれほど不思議なことかな?」
「気まずくない?」
「まあ、それは否定しない。でもだからと言ってずっと避けるわけにはいかないだろう。どうせ新年には王陛下にご挨拶をしなければならないから、帰参するにはちょうどいい機会だ。嫌っているわけじゃないからな」
レティシアは兄弟を思い出すように、淡く瞼を閉じた。
「驚いたんだろうな。十何年も一緒にいた兄弟の、知らない姿を目にして。知らない自分にも気付いたしな」
「知らない自分って?」
「こういう自分だよ」
レティシアは乱暴にランタンを押し倒した。
「男どもが娼館遊びをする理由が理解できる。人の温かさは癖になるな。それが好きな人なら尚更だ。――わかってる、向こうではこんな風にはしない。そんな目で見ないでおくれよ。疲れてるとどうしてもな」
二人はソファに寝転がって見つめ合った。レティシアは興奮よりは、むしろ穏やかな眼差しをランタンに向けていた。心音に合わせて、女の本能なのか、ランタンの背をぽんぽんと叩いている。
「ご兄弟はどんな人たちですか? ヴィクトルさんのことはよく話してくれるけど、他の二人は? 言い辛いならいいけど」
「気を使わないでいい。次兄のファビアンは私の五つ上今は二十五だ。槍と魔道の使い手で、頭もよくて王立学院を卒業していて、教授資格も持ってるんだ、竜種について詳しくてね、騎竜技術はヴィクトル兄さまに勝るほどだったよ。少し神経質なところはあったが、その分、視野が広くて私や弟、時にはヴィクトル兄さまも叱られたものだ。弟はシーロ、今は十七かな。これは甘ったれでな」
「リリオンとどっちが?」
「うーん、難しい質問だな。私にもよく懐いていてくれたが、いつでもヴィクトル兄さまの行くところについて行きたがってな。兄を喪って一番変わったのはシーロだったかもしれん。剣の腕は私から見てもずば抜けていた。兄さまに勝てたことは一度もなかったが、今思えば、ヴィクトル兄さまに敵わないと思っていたからこその結果だったかもしれないな」
今はどうなっているかな、とレティシアは領地にいる家族に思いを馳せる。
「会えばすぐ、兄弟だってわかりますか?」
「おや、おかしな質問をするな。ランタンは」
「だって毎日顔を合わせていても、変わり様にびっくりしたんでしょう? 半年以上も会わずにいても、会えばわかるものですか?」
「もちろん、わかるよ。びっくりしたのだって、違う人間になったからじゃない。同じ人が変化したからだよ」
「もし、会った時、角とか翼が生えててもわかる?」
「まるっきり竜種になっててもわかるよ」
「ふうん、すごいね」
「ふふふ」
「僕は、僕がわからない」
「なにを、……眠たいのか?」
胸の中で眠たげに目を瞬かせるランタンに気が付いたレティシアは黒髪を指で弄ぶ。ランタンは答えず、レティシアはしばらくランタンを胸に抱いたままでいた。
するとリリオンがノックもなしに部屋に入ってくる。目はほとんど閉じていて、布団を肩にかけて、まさかランタンの匂いを辿ってきたのか、それともランタンが居ない寂しさにしゃくりあげているのか、鼻をすんすんと鳴らしている。
夢遊病みたいな足取りで二人に近付き、重たげな目蓋の下で焦点の合わぬ視線がゆらゆらと二人を見下ろす。
「わたしも、いっしょにねる」
ふらりと身体が傾ぐと、レティシアは慌てた。さすがに三人で寝るにはソファは狭い。その狭さも二人と一緒ならば楽しいのかもしれないが、リリララにでも見られたらどうなるかは判ったことではなかった。
「よし、一緒に寝よう。だから大きなベッドで寝ような。ほら、ランタン」
「あれ、リリオンだ。……ベッドで寝ないとダメだよ。身体痛くなるし」
「うん」
半覚醒したランタンがぼんやりと言うと、リリオンもぼんやりと頷く。
レティシアは片腕でランタンを軽々と抱きかかえると、もう片腕でリリオンの手を握り二人を寝室に案内した。
一人で寝るには勿体ないほど大きなベッドにランタンの身体を横たえると、ランタンの身体はことさら小さく見えた。
リリオンが寝ぼけているとは思えないほどの的確さでランタンの隣に潜り込み、両手両足を使って抱きついた。リリオンの表情が溶けるようにやわらぎ、ランタンは寝苦しそうに顔を動かした。
「おやすみ、二人とも」
レティシアはそう言って、二人の頬に唇を触れさせる。
「これぐらいは許してくれよ。さてと、もう少しだ」
書類仕事を終わらせて、あの幸せのベッドで眠りにつこう。
レティシアは二つの寝息に後ろ髪を引かれながら、執務室へ戻り算盤を弾いた。
「うん、小遣いの範囲内だな」
旅行のおやつ代の話だろうか。
扉の隙間、ランタンはいつまでも消えぬ灯りと共に差し込む声を夢の中で聞いた。




