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カボチャ頭のランタン  作者: mm
06.On The Origin Of Species
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 孤児院でのことを思い出しているのだろう、その苛立ちを発散させるようにリリオンが暴れ狂っている。

「もーっ、もうっ! なんて乱暴なのかしらっ! 男の子って! 男の人って!」

「集中しろ。もうやめるか?」

「まだやる!」

 リリオンは新しい武器である銀の大刀と竜牙の大刀を猛烈な勢いで振り回している。だがそれを受けるエドガーは柳に風と受け流している。

 エドガーは魔道義手を慣らすために、金属製となった左手にのみ剣を持っている。そして義眼を嵌めているという右眼は眼帯に覆われていた。それでリリオンの猛攻を捌いているのだから舌を巻く。

 義手には魔精を介して、意志を伝えている。だが左腕の出が自分の意志よりも、エドガー曰く、欠伸が出るほど遅いらしい。

 ほぼ同じタイミングで左右から襲いかかるリリオンの大刀を左手一本で蹴散らして、まだ物足りない。その義手は魔道ギルドの最先端技術の結晶だった。

 それでも生まれ持った肉体には及ばない。エドガーは特にランタンの、自らの肉体を餌にするような戦い方を諫めた。

 一方でベリレも怒り狂っていた。

「騎士の風上にも置けんっ! 許せん! ――余所見をするな!」

 ランタンが孤児院での話を聞かせると、まるでランタンがその騎士であるかのように鼻息荒く襲いかかってくる。

 ベリレが竜骨槍を振り回しランタンの頭蓋を砕きに掛かる。初動が速過ぎて槍は竹のように(しな)った。先端が後ろに引っ張られたように出遅れて、遅れを取り戻そうとするように加速する。だが叩き付けられた時にランタンはそこにいない。

「技が荒れてるよ」

 槍は石畳を砕いた。先頃まで芝生で満たされていた中庭はその様相を変化させていた。

 ランタンたちが暮らすようになってからこの場で訓練をすることは日常となり、その結果、芝生は無惨にも踏み荒らされて庭師は涙し、今では石畳に張り替えられた。

 ランタンは槍の穂先を踏み付け、戦鎚を振るった。懐が深い。この程度の踏み付けで体勢は崩れず、ランタンの腕の長さが足りなかった。戦鎚自体は以前の物よりも長くなっているが、ベリレも大きくなったのかもしれない。

 新しい距離を身体に染みつけなければ。

「あ」

「――いでえ!」

「ごめーん」

 長くなった以上に重たくなっている。ランタンの手から戦鎚がすっぽ抜け、それは完全な失敗だった。

 ランタンの次の一手を予想していたベリレにとって、それはランタン以上に埒外のことだった。高重量の金属塊が直撃したベリレは顔を押さえて呻いている。

「大丈夫? 口開けて。よし歯は折れてないね。よかった、よかった」

 鼻血を盛大に垂らしているが、それほど問題はあるまい。

 ベリレは手鼻をかむように血を出し切り、自分で鼻の位置を直した。軟骨がずれただけのようだ。

「うわ、痛そう」

 適当なことを言うランタンを、涙目になって睨み付けている。

「これぐらい屁でもない。騎士はこんな事で弱音は吐かないんだ」

「いでえ、って言ってなかった?」

「空耳だ」

「騎士って嘘吐いていいの?」

「もう一勝負だ!」

 ランタンは戦鎚の重さを確かめるようにぐるぐると手首を回した。

 重心が安定していない。どうにも違和感がある。先端重量は以前の倍の六キロ前後なのだが、ふとした瞬間、これが一〇〇キロにも二〇〇キロにも感じることがある。

 槍を受けようとした時、戦鎚の重さに身体が引きずられる。先端を持ち上げるのに必要な力を入れたはずなのに思ったように持ち上がらず、背を押されたように体勢が崩れる。

 勝機を見出してベリレがランタンの頭部を砕くために、油断無く槍の持ち手をずらして間合いを狭めた。ランタンが身の内に入ることを見越して、先手を打ったのだ。もしランタンが退けば、遠心力に任せ柄を滑らせる用意もある。

 進むも地獄、戻るも地獄。

 ベリレの狙いは側頭から鎖骨。

 ランタンは肩をかち上げて、そこで槍を受けた。そして同時にベリレの槍を握る手を蹴った。

 ランタンは戦鎚を取り落とし、だがベリレは気合いで槍を握ったままだ。

 ランタンは両足を刈ろうと身を沈め、ベリレは槍を翻す。

「もらったあ!」

 鉄を拉ぐ一撃だった。ベリレが叫んで切り上げた石突きがランタンの顔面を狙う。だが動かぬ鉄塊ではないランタンによって受け止められた。突進と見せかけて、すぐさま身体を起こしたランタンは奪うように槍に手を掛ける。だが奪うには至らず、槍を挟んでベリレと睨み合いになった。

「素直でいいな」

 言いながら肝を冷やしていた。躱すつもりが間に合わず、防御させられた。ベリレの技の冴えは素晴らしい。力に加えて速さもあった。だが足りぬものがある。

「力比べでっ、勝てると思うなよおっ!」

「唾飛ばすな」

 体格差に任せて押し込んでくるベリレに、ランタンは折り畳まれるようにじりじりと沈んだ。ひゅっと息を吸って身体を膨らませるとベリレが警戒して身構えた。じっと見つめてくる視線はランタンが次に何をするかを必死で考えている。

 謎解きに熱中する子供みたいな眼差しに見つめられたランタンは、悪魔みたいに笑った。

 そして呼んだ。

「リリオン!」

「は? ――なあ!?」

 全くの無防備なベリレの背後からぬっと銀の刀身が現れる。それは首筋に添えられて、ベリレの表情を強張らせた。

「リリオン、動いたら斬っていいよ」

 ランタンは固まるベリレの手から借りるような気軽さで槍を奪い、いじわるそうな顔で、悔しがり身動きの取れないベリレを観察する。歯ぎしりをするベリレは顔を真っ赤にして怒鳴った。

「ずるいぞ!」

「僕を信用しすぎ。僕は騎士さまじゃないからね。探索者と戦う時は気をつけないと」

 ランタンはリリオンに目配せをする。褒めてやると、リリオンは喜んでランタンの胸に飛び込もうとした。だがその首筋に今度はエドガーが剣を添えた。弟子の敵を取るように。

「こら、勝手に抜けるな。訓練と言えども背中を見せるな」

「あう、……ごめんなさい」

「仕切り直しだ。あとランタン、頼ることはいいが、甘えるようになったら終いだぞ。ベリレはあれの話を聞きすぎだ。()る時は無視しろ。単純な力比べならお前に分がある」

 リリオンはエドガーと正対する。

 リリオンは左手に銀の大刀、右手に竜牙の大刀を構えている。

 銀の大刀はごく僅かに反った片刃の長刀で、刃渡りは以前の大剣と同程度。反りのために細身に見えるが、それなりの厚みがある。

 銀刀は迷宮で、多頭竜との戦いでまぜこぜとなった大剣を再利用して作った物だ。

 武器という物は使えば消耗し、劣化していく。だが戦いの最中に育っていく奇跡も存在する。それは血によって磨かれるとか、魔精によって鍛えられるとか言われており、妖刀魔剣と呼ばれる多くがそれである。

 銀刀は魔に魅入られており、魔精との親和性が高い。

 それは全てを混ぜ合わせたリリララの加護であるのかもしれない。

 リリオンは魔道を使えない。練習をしているようだが一向に上達の気配がなく、こればっかりは生まれ持っての資質によるものなのでどうしようもない。

 そんなリリオンのため柄に魔精結晶を仕込めるようになっており、この結晶を活性化することで魔道を発動させ、交換することによって様々な魔道の行使が可能になる。

 だがそれは切り札である。

 そんなものを毎度毎度使っていてはあっと言う間に破産であるし、いくら親和性が高いと言っても刀身の負荷も馬鹿にならない。

 竜牙の大刀は反りのない直刀で、峰は厚く刃には形を整えられた牙がずらりと並んでいる。(のこ)と鉈を掛け合わせたような獰猛な姿だが、牙刀の本質は守りにあった。牙は噛み付くためにある。竜牙のぎざぎざは、ソードブレイカーの役割を果たした。そのオウトツに襲いくる武器を絡め取るのである。

「きゃっ!」

 魔道も武器破壊も、リリオンが扱いを習熟すればの話であるが。

 エドガーの剣を絡め折ろうと力を入れたリリオンは、その力を利用されて(たい)を崩され杖をつく老人のように大刀を地面に突き刺した。

 勝負有りだ。

「上手くやろう上手くやろうという意識が強すぎる。おっかなびっくり振り回す剣など怖くはない」

「……?」

「第一ランタンの声が聞こえる時点で集中力が足らんし、余計なことを思い出して力むなどもっての外。戦う時は今ある脅威にだけ意識を向けろ」

 エドガーにがみがみ叱られたリリオンはしょんぼりと身体を小さくして、責任転嫁するようにランタンを恨めしげに見つめた。

「集中してても、ランタンの声は聞こえちゃうんだもの」

 ランタンがあからさまに無視をするようにそっぽを向くと、そう不満気に呟いた。

 エドガーは仕方ないというように肩を竦める。

 ランタンは隣に腰を下ろした少女の汗の匂いを感じ、その肩に外套を掛けてやった。冬風は汗を冷やすには充分な冷たさだ。

 リリオンが座ると代わりにベリレが立ち上がる。

 横暴な騎士への怒りが収まらないらしい。拳を握り締めて、一体どうなっているんでしょうかとエドガーに詰め寄っている。エドガーは金属の左手でベリレの額を撫でた。凍えた金属の冷たさにベリレが黙り込んだ。

「どうにも風紀が乱れているようだな」

「どうにかならないんですか?」

「ここでは、ただの探索者だからな。王都で教導役をしたのは請われたからだ。請われてもいないのに、性根を叩き直すような真似はできん。それでは討ち入りと区別がつかないからな」

「王都はきちんとしてますか」

 ランタンが尋ねると、エドガーは頷いた。

「もちろんだ。そんなことはまったくない」

 ベリレが自分を侮辱されたというように拳を握った。暑苦しい奴だな、とランタンは思う。エドガーもベリレに隠れて苦笑している。不祥事は少ないが、まったくないわけではないのだろう。

「こっちと何が違いますか?」

「何もかも違う!」

「お前には聞いてない」

 冷や水を浴びせるように言うとベリレは寂しそうに肩を落とす。

「ベリレの言葉もあながち間違いではない。向こうは王陛下のお膝元であるから士気も意識も高い。騎士団の選抜法も違う。向こうは国王直属、こちらは各領地から出向の寄せ集め。指揮官も貴族だから、舐められているのか、やる気がないのか、それとも悪人か」

「悪人って、そんなことあります?」

「なくはない」

「仮におじいさまが取って代わるとしたら、どうやって規律を取り戻しますか?」

「騎士団長にでもなる気か? うーむ、そうだな。緩んだ規律を取り戻すことは大変だ。探索者ならば力である程度、言うことは聞くが、騎士には騎士の自負心があるからな。だがまあ、何人かは斬らねばならんだろうな」

「経験談ですか?」

「まあな。騎士ではなく探索者だったが……、死と言うのは最も判りやすい」

「参考までに、……今まで何人ほど?」

「子供には教えられん、寝れなくなるぞ。さて休憩も終わりだ。次はどっちだ?」

 一人二人では済まないのだろう。軽く言ったエドガーだが、その言葉の寒々しさにいつもならば率先するベリレが尻込みをした。ランタンは、よっこらっしょ、とベリレの尻尾を掴んで立ち上がる。

「じゃあ僕が」

「おう。気が緩んでいるようなら斬るからな」

「ああ怖い」

 ランタンはエドガーと、そしてリリオンはベリレと訓練を始めた。芝生も滑るが石畳もそれはそれで滑りやすい。特に細かな砂を噛むと踏ん張りが利かず、簡単な足運びすら気を抜けない。そのおかげでどうにかエドガーに斬られることは免れている。

 その後もリリオン、またベリレ、エドガーと相手を交換して身体を動かし続ける。

 いつまで経っても戦鎚はやはり重い。疲れてくるとより重い。

 そしてエドガーと相対すること三度、ついに空には星が出始めていた。

 ランタンが光に気を取られる。その瞬間を見逃すエドガーではなかった。

 どっと剣が肩口に打ち込まれる。刃引きの剣ではなく、真剣であった。だがエドガーの技術を持ってすれば肉を切らぬ事も可能である。ランタンは右肩を外されて、戦鎚を落とした。苦痛を口に出さないことだけが、せめてもの強がりである。

「うぬぼれと余裕は別だぞ」

「……失礼しました」

 ランタンは右の拳を地面に押し当て、乗りかかるようにして肩を嵌める。ごり、と骨が擦る音が外に漏れて、リリオンもベリレも眉を顰めた。患部は重い痛みと、鈍い熱を持っている。

「レティシアも帰ったことだし、これぐらいでお開きにするか」

「はい!」

「はーい」

「ほら、整列。おじいさま、ご指導ありがとうございました」

「ああ、身体を冷やさないように」

 ぺこりと頭を下げて、屋敷に戻った。汗を流す前にレティシアに一言掛けておこうと思い玄関広間の方へと回る。ミシャは遠慮したが、起重機が早く手元に戻って困ることはないはずだ。

「あ、――レティシアさん?」

 ランタンは声を掛けることを一瞬、躊躇った。

 レティシアは、そしてリリララも、なんだか険しい顔をしている。ランタンの声に触れると二人揃って視線を寄越し、レティシアは柔らかく笑みを浮かべ、リリララはいっそう深く眉間に皺を寄せた。

「おかえりなさい」

「ただいま。どうかしたかい?」

「ちょっと話が、でも――あの、何かありましたか?」

 頼み事を飲み込んで尋ねる。答えたのはリリララだった。

「あった――」

 不機嫌さを隠そうともせずに噛み付くみたいに口を開く。だがレティシアがそれを制した。

「ランタン、これから予定は?」

「お風呂に」

 リリオンはすでに脱衣所で待っているだろう。あの子のことだから、もうすでに裸になっているかもしれない。

「そうか、私も汗を流してからにするか。一緒に、――でもいいが、どうする?」

「いや、それは」

 緑の瞳をすっと細めたレティシアに、ランタンはどきりとした。色の濃い裸体を想像し、ランタンは後ろめたさを隠すようにしどろもどろに視線を逸らす。そんなランタンを見て、小さく笑った。

「じゃあリリオンを借りてもいいか?」

「はい、大丈夫ですけど」

「では風呂のあと、私の部屋に来てくれ。私の方からも話がある」

 レティシアはランタンの額にぽんと触れて、返事を聞かず再び歩き出した。後を付き従うリリララがぼけっとその背を見送るランタンの尻を叩いた。

「一人がさみしいんなら、あたしが一緒に入ってやろうか?」

 ぎょっとするランタンに兎の少女は肩を竦める。

「冗談だよ。一人で行け」

「――何があったんですか?」

「レティが言うよ。でもまあ、くそむかつくことだ。あー、いらいらする」

 リリララは盛大に舌打ちを吐きだして、小走りでレティシアを追った。その背にランタンが声を掛ける。

「あの」

「んだよ」

「リリオン苛めないで下さいね」

「ふん、かわいがるだけさ」

 苛々する姉の、標的になるのはいつだって妹だった。




 レティシアやリリララの様子は気になったが、それでも湯の温かさはランタンを落ち着かせた。

 ランタンが身体の芯までしっかり温まると、それに付き合ったベリレがのぼせていた。エドガーは目を閉じて腕を組んで黙り込んでいる。湯の吹き出る、一番熱いところを陣取って譲ろうとしない。義手はどうやら防水加工のようだ。

「じゃあ僕はお先に上がらせてもらいます」

 声を掛けると左目だけ開いた。

「ああ、ついでにベリレを上げてやってくれ」

「はい、――よっと」

 ベリレは茹で蛸のように真っ赤になってぐったりしている。巨体を湯船から引きずり出して、面倒くさいのでそのまま床に寝かして冷や水をぶっ掛けた。

「裸のお前を担ぐなんて嫌だよ。肩ぐらいは貸すけど」

「……いらん。エドガーさま、先に、出ます」

 黒々とした痣の浮かんだランタンの肩を、焦点の定まらない瞳でベリレは一瞥し、精一杯の強がりと気力でエドガーに断りを入れ脱衣所へと戻った。

 だがそこで気力が尽きたようだった。

「しばらく休む」

「出来るだけ早く服を着るんだよ。風邪引くから」

 長椅子に横たわるベリレの目元に固く絞ったタオルを乗せると、ランタンは着替えを済ませて脱衣所を後にした。

 レティシアはもう風呂から上がっているだろうか。女性の湯浴みは長いが、ランタンはそれ以上に長風呂だった。リリオンと一緒の場合は、先に少女がのぼせてしまうのでそれなりの時間で上がるようにしているが。

 レティシアの私室の前に、リリララが門番のようにと言うには少し気怠げに立っていた。扉に背を預けていたが、ランタンに気が付くとぱっと離れる。気を抜いていたのか、それとも考え事をしていたのか。リリララにしては珍しく、かなりの接近を許した。

「お待たせしましたか?」

「それなりに」

「リリオンは?」

「シュアに任せてきた。言っとくが苛めてないぞ。ちょっとのぼせたみたいだ」

「ベリレもですよ。大きいと熱に弱いんですかね」

「さあな。――レティ、来たぞ」

 リリララは中に一声掛けると扉を開く。

「ランタン、レティをよろしく。――はよ行け」

 そしてランタンを部屋の中に蹴り入れた。なんだよ、と振り返ると扉が閉まった。

「――私のメイドが済まないな」

「いいえ。こちらこそお待たせしました」

 レティシアは髪を下ろしており、脛まである黒絹の肌着を身に付け、複雑な刺繍の羽織を肩に掛けていた。絹の肌着は、女の肢体を覆い隠すには薄いように思えた。張りのある胸の膨らみや、引き締まった腰のくびれ。身体の線がはっきりと浮かび上がっている。

 癖のある髪が首筋に巻き付くみたいに波打っていて、レティシアはそれを軽く払い、ランタンに着席を促した。

 ランタンはレティシアの対面に座ろうとしたが、隣を勧められたのでそちらに腰を下ろした。風呂上がりの匂いだ。体温に皮膚が炙られて、全てを洗い流した後に残る、その人のそのものの匂いが僅かに香る。

 甘ったるいリリオンとは違う、大人の女の匂いだった。

 ランタンは視線だけ動かしてレティシアを見る。いつもと雰囲気が違った。

 二人の間には拳一つの隙間がある。それはランタンが作りだした隙間だった。

 レティシアはやや半身になってランタンの方へ身体を向けている。

「今日はどちらに行っていたんですか? またお姫さまの所ですか?」

「いいや、今日は議会だよ。呼び出されてね」

「呼び出し?」

「お叱りを貰いに行ったんだよ、今日は」

 レティシアは何でもないことのように言った。ランタンはレティシアの言葉の意味がわからなかった。レティシアが議会に叱られるようなことをしたとは思えなかった。

「騎士団の、議会の命令を無視した独断専行を咎められた。無許可での軍事行動、竜種の飛行制限区域の侵犯、その他諸々」

「それって」

 ランタンは目を剥いて驚きを表し、言葉が続かなかった。

 レティシアは事件の時、竜種に乗って迷宮特区のランタンの下へと駆けつけてくれた。

 その行いが議会でやり玉に挙げられたのだという。

 騎士団は迷宮特区を封鎖しギルドの戦力を閉め出した。自分たちの力だけで全てを終わらせようと画策した。

 レティシアがネイリング騎士団を連れて現場へと駆けつけると、議会はレティシアもろともネイリング騎士団を指揮下に組み込もうとした。ネイリング騎士団は、事実上ネイリング家の私兵である。だから議会に本来はそんな権限はない。

 だがネイリング家は他の貴族の規範となるべき大貴族でもある。緊急時に兵力を貸し出すのは当然のことだったし、私兵だからと言って命令に従わなくて良いわけではない。戦時下であるならば、現場責任者の命令は絶対だ。

 だがレティシアは貴族の責務よりも、私情を優先した。

 ランタンの下へと飛んでやって来た。

蟄居(ちっきょ)を申しつけられた。」

 年内、レティシアは屋敷から出ることを禁じられ、門にも閂がかけられることになった。そして年内中にネイリング騎士団は都市からの退去を命じられた。レティシアの警護のため、最低限の兵力を残すことだけが許された。

 騎士団と共に王都へと帰還するのならば、蟄居は解除されるそうだが、それでは退去命令と代わりがない。手酷い侮辱である。

 ネイリング家は探索者ギルドと結びつきが強く、またレティシア個人もランタンとの結びつきが問題視された。

 ネイリングの力ならば、あるいは処分を取り消させることも可能だろう。だが大きな権力を有する貴族であるがゆえに、規則は守らなければならない。一度それを破ったのだから、今度は議会の下した処分を粛々と受け入れなければならない。

 人の上に立つと言うことは、規範となるべき振る舞いをするということだった。

 レティシアは淡々と言葉を重ねる。ランタンは少し呆然としながら、それを聞いていた。

 思わず、言葉が溢れる。

「僕のせいで――」

 その溢れた言葉をレティシアがそっと押し止めた。唇に指が触れた。

「そう言わないでほしい」

 レティシアは言いながらランタンの唇をなぞった。

「規則を破っていたことは事実、ならば罰は必要だ。でなければ人の世は回らない。やったことを反省はしている。だが」

 少し強く指が押しつけられて、唇が押し潰されて歪んだ。唇の上から歯の表面を確かめるみたいに。

「後悔はしていない。ランタン、君のためには私は何かをしたい。都市中(まちじゅう)に響き渡った君の音色に、居ても立ってもいられなくなったのはリリオンだけじゃない」

 レティシアはじっとランタンを見つめて、指は唇から頬へと流れた。掌が熱を持っていて、頬から首へ、肩へ。

「嬉しいんだ。受けた罰が、私の行いを確かなものにしてくれた」

 レティシアは、緊張しているようだった、緑の眼差しが濡れたように潤んで、言葉に熱が込められる。

「私は、ランタン、君に尽くしたい」

 迷宮で受けた恩を返す。そう言う意味の言葉ではないことは明白だった。

 そしてランタンを引き寄せようとした。だがランタンはそれに抵抗する。驚いたように身体を強張らせて、知らないものと出会った子供みたいな顔でレティシアを見つめた。

 レティシアはふっと口元を緩めた。

「……いけずだな、君は」

「だって、恥ずかしいよ。わからない」

「リリオンに袖を引かれたら、抵抗なんてしないじゃないか」

「あの子は、まだ子供だから」

 ランタンは言い訳するように言って視線を逸らし、レティシアはランタンを追求した。

「子供だからなんだ」

「レティシアさんは大人だから、恥ずかしい」

 心臓の音を聞かれるのではないかと不安になった。

「まあ、いいさ」

 ランタンは近付かない。だからレティシアがランタンに近付いた。ランタンは逃げようとして、ソファの上に押し倒された。覆い被さるように額を合わせて、視線を逸らすことを許さなかった。

 くらくらするような香り。滑らかな硝子の肌。宝石みたいな緑の瞳。すぐ近くにあった。

「いやか?」

「……いいえ」

 通った鼻筋。その先端が触れた。

 顔が近い。唇の動きは見えず、囁くような問いかけは、けれど息遣いがはっきりと感じ取れる。

 ランタンはふとリリオンの顔を思い出す。頬と唇の境に触れた柔らかさや、その直前の吐息を。

 罪悪感だと思う。

「こういうの、よくわからない」

 リリオンに抱いている感情。

 それは愛と呼ぶものか。

 不幸の中にあったリリオンに手を差し出したのは同情と、自らが正しくあるためではなかったか。保護欲。手を差し出した者の責任を、自分の胸から沸き立つ感情だと思い込んでいないとなぜ言えるのか。

 尽くしたいと言ったレティシアの言葉。ランタンもリリオンのために何かをしてやりたいと思う。それはリリオンが問題を抱えているから、そう思うのか。もし問題が解決されたら、この気持ちはなくなってしまうのか。

 大切にしたいという気持ちに嘘があるとは思わない。

 だが、その気持ちを愛と呼んでいいのか。

 ランタンは知らない。

 例えばそれがリリオンへの愛だとして、レティシアに告げられた言葉を、恥ずかしく、そして嬉しく思う自分は何なのか。それは裏切りではないのか。

 ランタンの記憶は曖昧だった。自分の真の名前も知らない。行動規範、生活習慣、そういったところに知らない過去の気配が強く浮かび上がる。自分はどこか別の世界からやってきたのだと思っている。当たり前のことを知らなければ、妙な知識が残っている。

 だがそれだけだった。

 生みの親すら思い出すことができない。人間を思い出すことができない。

 三年に満たない人間との生活、その始まりを底辺とも呼べる場所で、そしてその大半を迷宮で過ごした。

 未知の物への恐怖と興味。

「私もさ。だからみんな知りたがるんだろう」

 ランタンの不安げな呟きにレティシアは笑った。ランタンはレティシアの胸元に掌を当て、ゆっくりと押し返そうとした。

 だがレティシアはそのランタンの腕を、今度は先程よりも強引に引いた。そしてエドガーに打たれた肩の痛みが、言い訳になった。

「……」

 自らの胸の中にランタンを引き寄せたレティシアは、黒髪に顔を埋めた。

「ふふっ、リリオンの言う通りだ。ランタンは良い匂いがする。くらくらする。肌もすべすべだし、これは癖になりそうだ」

 レティシアは熱に浮かされたように囁く。

 レティシアの胸は柔らかいのに、押し返してくるような弾力がある。膨らみの下から、心臓の音が聞こえる。くらくらするのはこっちの方だ、とランタンは思う。

 だがランタンはレティシアの胸の中でふっと息を吸い、官能的な誘惑を振り払い、少し乱暴にその柔らかさを押し返す。

 だが。

「だめだ」

「ちょっとっ、レティシアさん」

 苦しげな声を上げるが、レティシアは抱擁を緩めない。ランタンの心で興味よりも、恐怖が僅かに優った。こういう抱きしめられ方をしたのは初めてだった。リリオンの無邪気さとは違う。

 逃がさぬように、髪に押しつけたまま顔を滑らせて耳元に唇を寄せる。

「レティと呼んでおくれ。ランタン、迷宮で、多頭竜ヒュドラと戦っていた時、そう呼んでくれたことを覚えているか?」

 覚えてない。ランタンが一瞬そう思うと、レティシアは更に抱擁を強めた。強い呼吸音が、吐息の熱さを耳朶に触れさせる。

「レティ、さん」

「違う」

「――レティ、やめて。これ以上は冗談じゃなくなる」

「冗談じゃなくなってもいい――」

 レティシアは本気だった。一秒か、一分か、一時間か。レティシアは黙って、痛いほど強くランタンの身体を抱きしめ続けた。受け入れることもできなければ、拒絶することもランタンにはできなかった。レティシアを好ましく思っていることは事実だった。美しい肉体に触れて、心臓が早鐘のように打っていることも、血が巡ることも。

 レティシアは魅力的な女性(ひと)だった。そして女はランタンよりも大人で、聡明だった。

 失った兄を求めて迷宮へ剥かう行動力は、喪失の恐怖と混乱によるだけのものではなく、レティシアが本来持つ情熱的な性質によるものだ。

 普段のランタンが纏う大人びた雰囲気は、まるでそれが頼りない薄布だったかのように剥ぎ取られた。情熱を持って押し倒し、そのまま肉体を交わらせることもできただろう。少年が戦いの中で見せる、誰もを惹きつける鮮烈な魅力が、蹂躙するのも思いのままの蠱惑的な誘引力に置き換わっている。

「――が、これぐらいにしておこうか。君にお願いされたら、私は何も断れない」

 レティシアはその魔性を、赤子を産むような、一種の苦痛を伴って手放した。

「強引すぎる」

 ランタンは贅沢なことにぶすっと唇を突き出し、不満気に呟く。そうやって自らが意識して表情を作っていないと不安だった。

「どうして、急にこんな事を」

「これが私の心だ。それを知ってほしかった。乱暴にしたのは、悪かった。嫌いにならないでくれ」

 それはランタンの聞きたかった答えとは違った。どうして自分なのか、とランタンは思う。だが再び尋ねることはできなかった。

「嫌いになんか、なりません」

「そうか、嬉しい」

 レティシアはランタンを抱擁から逃がしたが、未だにその手は触れたままだった。

「一度実家へ帰ろうと思う」

 レティシアは言う。

「一緒に来ないか? もちろんここに残ってくれても構わないし、その時は屋敷を好きに使ってくれていい」

 レティシアは今度は優しく引き寄せた。だがやはりランタンが引き寄せられることはなく、レティシアはただ小さく笑う。

「ランタンが答えを出してから日付は決める。それで私に用事があるんだろう。何でも頼みたい放題だぞ」

「そう言われると頼み事をし辛いです」

 ランタンはまずどれから話し始めようかと、混乱した思考を整理する。


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