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「――彼らは狂った理想を信じ勇敢な探索者を騙し討ちにした」
迷宮特区の内側で、王権代行官が演説を行っている。
迷宮連鎖崩壊事件から一週間が過ぎた日のことである。
事件によって失われた命は探索者だけでも三百名以上に上り、そのほとんどが探索中の探索者であった。怪我人は数えきれず、廃業を余儀なくされる探索者も少なくないだろう。
またその時は噂でしかなかった探索者ギルドの襲撃も事実だったようで、さすがの探索者ギルドも崩壊事件の混乱に乗じての襲撃に後手に回らざるをえず、無事に撃退できたものの一時的な機能不全に追い込まれたようだった。
探索者ギルドは一番の被害者であるのにもかかわらず、事件捜査の主導権を貴族に奪われてしまったのである。
事件はやはり迷宮解放同盟の仕業であると断定され、袂を分かったその母体である迷宮共存同盟にも捜査の手は及んだらしいが、詳しくは公になることはない。
迷宮解放同盟に探索者ギルドや教会関係者の一部が関与していたことはランタンの瞳に焼き付いているが、その事実は秘められたままである。探索者ギルドと教会は貴族に借りを作った形になった。そう言うことだ。
全てはただ迷宮解放同盟という大枠によって語られるのである。
色々と考えたところで意味はないのかもしれない。
だがランタンは迷宮の解放という言葉の意味をふと考えてしまう。相対した絶望と憎悪の化身とも呼べる蛆の、あるいは蝿の王。あの存在がランタンにはどうにも、あの身を投げた者たちの意志が顕現したように思えてならない。
人を駆逐することでしか、迷宮は解放されない。
そういった極まった思想に行き着く理由は、人を諦めてしまったからだろうか。どれだけ声を嗄らし語りかけようとも、人の意識は変わらない、と。
あの日から今日まで迷宮特区は封鎖され、一部の例外を除き、探索者含む一般人の立ち入りが禁止されていた。攻略に急を要する一部の迷宮以外の探索は許されなかった。
事件によって地上で亡くなった者たちの死体は早急に回収され、身寄りのある者は家族の下へ、そうでない者は無銘墓地へと埋葬された。
大量の魔物の死体はしばらくの間、回収する余裕もなく放置され、特区の空には烏や猛禽が黒山を作り、下街の野良犬、野良猫、野良鼠を肥えさせ、それでも食い切れず都市部にまで臭う腐臭を漂わせ、ランタンたちのせっかくの働きも虚しく、蝿を大発生させ、あやうく疫病が流行するところだったという有様だ。
一時的に迷宮特区の管理を、つまり後始末や捜査を、貴族が行ったためであると探索者は口々に言う。
不死系迷宮崩壊による汚染は甚大で、竜種によって焼き払った区画は焦げを剥がせば未だに呪い滴る沼地が広がっているそうだ。汚染の浄化は教会関係者が行っているのだが、それを主導するのはシドである。なんでも元教会騎士であるらしい。シドはレティシアの期待に応えようと浄化に尽力しているが、今なお続く浄化作業にさすがに疲れた顔をしていた。
迷宮特区を迷宮たらしめる迷路のような区画分けは被害の甚大さゆえに、一度更地に帰されることとなった。貴族の命を受け、探索者ギルドの魔道土木部隊が駆り出された。
また迷宮崩壊の残滓から、その手口についての解明が急がれている。崩壊促進剤の製法は、当たり前だが秘中の秘である。不死系迷宮の跡地では汚染の浄化とともに、焼け跡から魔道式の復元も試みられている。これは魔道ギルドが主導している。
事件そのものは一日たらずで収束している。だがそれが国の大事であったことは間違いなかった。
一週間、まだ謎は多く、何もかもが元通りになるにはあまりにも短い。
迷宮特区はまだありありと事件の痛みを内包している。
だがそれでも、他にも開けた場所があるのにもかかわらず、迷宮特区内で演説が行われているのは、ただ偏に迷宮特区を取り戻したと言うことを市民に向けてアピールするためだった。この都市は迷宮に寄りかかって成り立っている。
事件関係者、探索者だけではなく、一般の市民が大勢詰めかけている。
都市転覆を謀るならば、狙い目だな、とランタンはぼんやり思う。またジャックに、性格が悪い、と言われてしまうだろうか。だが警備は、さすがに厳重だ。ただの騎士ではなく近衛兵が隊列をなして群衆に睨みを利かせ、頭上はで竜騎士が鳶のようにぐるぐると警戒飛行をしている。
地上に落ちる大きな影に、日頃魔物とは縁のない市民たちは驚いている。幼い子供たちの中にはきゃっきゃと喜ぶ子供も居たが。
「――私たちが屈することはない! 諸君らに再びの穏やかな日々を約束しよう!」
迷宮特区をぐるりと囲む隔壁に背を預けるように作られた、急拵えの、だがいかにも堅牢そうで説得力のある壇上で王権代行官が熱弁を振るっている。レティシアの友人であるアシュレイ姫の兄である。
アシュレイとは腹違いで、歳も二十以上離れている。若々しい四十代にも、落ち着いた三十代にも見える。目元の笑い皺の深い男だった。
壇上には探索者ギルドの長である象人族、スルスの巨躯もある。石を掘り出したような顔からは表情が読み取れない。王権代行官を挟んで向こう側にいる教会の代表、教区長が悼ましげな表情をしているので、その対比が面白い。
どちらも食わせ者だ。スルスは面の皮が厚い種族的な特徴によって、教区長は悼ましげな表情によって心の内を隠している。
特にスルスはこの度の事件によって管理者責任を問われたり、迷宮管理権を巡って貴族と喧々囂々のやり合いをしているらしいのだが、まったくそんな素振りすら見せることがない。ギルド長の座から下るつもりも全くないようで、突き出した二本の牙がいつもより立派に見えるほど堂々としている。
「混乱の最中に立ち向かった者たちがいる! 彼らの尽力なくして――」
「――欠伸しない」
背後に立つ魔女がランタンを叱った。隣に寄り添うミシャが不安げな眼差しをランタンに向ける。ランタンは欠伸を噛み殺し、眠気の伴う溜め息を吐き出した。
ランタンの周囲には、事件時にランタンと行動を共にした探索者とミシャがいた。群衆とはまた別に、この場に参列を要請された者たちがいた。半裸女は未だ怪我が癒えず不参加であるが。
事件の解決に寄与した働きを見せた、いわゆる戦功を立てた者たちがそれだ。果たしてあの混沌とした状況下において、誰がどのようにそれを評価したのかは怪しいものであるのだが、王権代行官からの命では参列しないわけにはいかなかった。レティシアの顔を立てるという理由もある。
彼女は嫌ならば出なくても構わないと言ってくれたが、ランタンはそれほど恩知らずではない。
「あー、ねむい」
「ランタンさん、本当に大丈夫?」
「へーき、へーき。貰える物は貰ってくるよ。もう呼ばれた?」
「まだよ、ちょっと黙ってなさい。出番が来たら教えるわ」
群衆の目の前で戦功評定をするのは、この場で何が行われたかを広く一般に知らしめようと言うのが目的である。王権代行官は当たり前と言えば当たり前だが貴族寄りの立場であり、ランタンの存在は、政事の駒の一つでしかない。
ランタンはレティシアから戦功評定の内容を事前に聞かされていた。
ランタンの脇を固める面々も、もうすでに知っている。ジャックが舌打ちをした。魔道使いの面々も鼻息を鳴らす。群衆の一角で、戸惑うような響めきもあったが、また別の一角からの喝采に打ち消された。
戦功一位はノーマン・ダン・ヘイリーである。
貴族にしてトライフェイスの指揮者である彼は、烏合の衆と化した探索者をまとめ特区内の混乱を収束させ、また騎士団と協力して魔物の侵攻を防いだのである。配下の手柄は指揮者の手柄なので、それほど誇張されているわけではないのだろう。
実際にトライフェイスの活躍は目立つものだった。トライフェイスの元に集まった傷ついた探索者が決死隊を組んで先陣を務めたという話は、ランタンの耳にも届いている涙無くしては語れない英雄譚の一つだ。トライフェイスを、もしくはギデオンを頼り身を寄せた探索者の生き残りが、そっくりそのままトライフェイスに入団した。
一大探索団と化したトライフェイスの面々が割れんばかりの拍手を送り、それに感化された群衆が熱狂的な喝采を叫んだ。その大歓声を背に受けてノーマンは代行官の前に身を進める。
王権代行官は、ほぼ王に等しい。一介の貴族ごときでは目も見られない相手である。だがノーマンは堂々とした立ち振る舞いをみせた。胸を張って対峙し、それから一礼をする。代行官の手ずから宝石を散りばめられた指揮剣を授かり、胸に勲章を与えられ、大きな金塊はごく自然に配下へ持たせた。
再びの拍手喝采。それらを当たり前に受け取り、一つの恥じも、一つの照れもなにもない。このような振る舞いが出来るのも一種の才能である。
戦功二位は騎士団の隊長で、その次はギデオンだった。獣系亜人族の探索者を率いて最終目標を三体も討伐するなど獅子奮迅の活躍をしたらしい。一週間前にあった時よりも、ぴりりとした空気を醸し出していて何やら渋くて格好がよい。
うむむ、とジャックが唸っている。獣系亜人族の探索者にとっては憧れの一人であるようだ。
ギデオンが代行官から褒美を受け取ると遠吠えのような歓喜がそこかしこで轟いた。厳めしい顔で褒美を受け取っていたギデオンもさすがに頬を緩めている。壇上から戻る際に照れるような仕草で肩を竦めると、遠吠えが止んで代わりに拍手が巻き起こった。
その後も概ね盛り上がっている。だが一部の、と言うには少なからずの探索者は戸惑いに眉を顰めている。
ランタンの名前がいの一番に呼ばれると確信していたのだろう。それが裏切られ五位、六位、七位と続いていく。まだランタンの名前は呼ばれず、不満げな雰囲気が洩れ出し、だがランタンの方を向けばそも雰囲気が霧散してしまった。
当人はまったく素知らぬ顔で、生あくびをする始末である。
ランタンの名前は十番目、最後の最後に読み上げられた。
「呼ばれたわよ」
「ランタンさん、もう少しですからね。しっかりしてください」
「俺じゃお前の代わりにはなれん。ほら、さっさと行け、猫背を正せ」
「もう、うるさい。心配しすぎだよ」
「ちょっとお待ち」
魔女がランタンの額を撫でた。ひやりとした冷気が張り付き、気怠げだったランタンの眼差しが僅かに冴える。
ランタンの頬が赤みを帯びている。頬紅を塗ったような桜色はランタンの甘い容貌をことさら甘く見せた。黒髪と同じ色の睫毛が僅かに汗で湿り、烏の濡れ羽色のそれは艶やかだった。ミシャが耳の辺りで跳ねた黒髪をそっと正す。
「行ってきます」
ランタンは緊張なく歩き出した。
肩の位置が変わらず、滑るようにゆらりと歩を進める姿はランタンの存在を非現実的なものに見せた。
群衆も得も言われぬ気配に、しんと水を打ったように静まりかえっている。
あの日あの時、迷宮から響いた力強い音色を誰もが聞いた。ともすれば迷宮解放同盟の攻撃と混同してしまうような大きな爆発音は、けれど何故だか心奮わせる音色であったと誰もが噂する。
今、目の前にいるのはその音色の主である。参列する探索者の中で最も小さく、最前列にいるのにも掛からず埋もれてしまうような、少年とも少女とも思える子供である。
呆気に取られたようなぽかんとした表情。
侮られることはいつものことだ。ランタンは表情に出さずに笑う。
だがそれはランタンの勘違いでしかなかった。
戦功評定は政治的な意志が色濃く働いていた。この場はノーマンのお披露目会のようなものである。ノーマンは探索者ギルドに見出されたのではなく、貴族の意向によってあてがわれた英雄候補であったのだろう。一位と十位の比較は、市民ばかりではなく、貴族が探索者ギルドに力関係を見せつける意図もあったのかもしれない。
だがそれならば、ランタンを舞台に上げてはいけなかった。
ランタンは突如、響いた音にびっくりして振り返る。
この少年を静寂の中、歩ませることは出来ないとばかりに太陽の音色に誘われた探索者がランタンの名を叫び、足を踏み鳴らし、鎧を叩いた。彼らはまだ身体に包帯を巻き付け、身に付ける装備もぼろぼろだった。それでも闇雲に鐘を鳴らすように騒ぎ立てている。
正直なところうるさい。
ノーマンやギデオン、騎士たちの歓声に比べるとひどく野蛮で、無骨だった。
だがランタンは眉を顰めるどころか笑ってしまった。
警備兵の制止の声さえ掻き消され、探索者たちは未だに騒ぎ続けている。ランタンは代行官の前に立ち、頭も重たげに一礼し、一度振り返った。
唇に人差し指を当てると、ぴたりと音が止んだ。
「失礼しました。代行官さま」
笑い皺に囲まれた瞳の奥に心の底を覗き込むような冷徹な光があり。口元にはあくまでも尊大な、それでいて大らかな笑み。美しい言葉の抑揚、労いと期待の言葉。ペンだこのある指がランタンの胸に勲章をつけた。功労勲章の中でも下級のものだ。
ノーマンが授章した勲章に比べていかにも安っぽい。だがランタンはこんなものが欲しくて戦ったわけではないのでどうでもよかった。大きな勲章をつけられたら服が伸びてしまうかもしれないのでちょうどいいとも思う。
代行官に一礼して、回れ右。
こうやって上から見下ろすと本当に多くの人がいるのだと改めて理解できる。騒ぎたくて仕方がないのに我慢している探索者たち、そんな探索者たちを黙らせた少年を興味深く見つめる市民たち。
ランタンはそんな中でよく目立つ、ひょっこりと頭一つ突き出た銀色を見つけた。
淡褐色の瞳が何だかはらはらしている。一向に階段を降りないので、立ちくらみでも起こして落ちてしまうのではないかと思っているのかもしれない。
それを安心させるようにランタンは、ただ一人の少女のために微笑んだ。
重なり合う幾千の溜め息とざわめきの中、ランタンは階段を降りる。
微笑み一つでノーマンを前座に追いやった事にランタンは気が付かない。
「あー緊張した」
皆の下へと戻りランタンが空々しく呟くとその横顔をミシャが頬を赤らめて見つめる。
「風邪でもひいた?」
「いいえ、ランタンくんが格好良かったので」
「まあね」
冗談を受け流すみたいにランタンは肩を竦める。ミシャは、本当よ、と念を押した。
代行官は邪魔なざわめきが収まるまで鋼の忍耐力で待ち続けた。こういったものは声を荒げようとも無駄なのだと理解しているようだ。人々の呼吸がふいに一致した、刹那の静寂に代行官が口を開く。
死者の追悼が始まった。
空の棺が未帰還になった探索者の数だけ用意され、集まった探索者がそれらを担いだ。教区長の一声に司祭たちが祈りが輪唱のように続き、葬送行列がゆっくりと歩き出した。迷宮特区をぐるりと一周して、彷徨える魂を棺に収めるのだという。
ランタンはミシャの手を握った。
眼差しを伏せ、黙って葬列を見送る。
自分が定まらない。
長風呂にのぼせたみたいに頭がフラフラするが、風呂に浸かっているような快楽は絶無だった。汗が肌に張り付いている。いや、覆われていると言った方が正しいのかも知れない。ねばねばぶよぶよした不定型魔物みたいなものに包まれているような気がした。
つまり身体が重たいと言うことだ。
口に突っ込まれた水銀体温計が、ぬるりと抜き取られ目の前で糸を引く唾液をランタンは舌で切った。
「なかなか下がらんな」
ベッドでは赤い顔をしたランタンが埋もれるように身体を横たえている。
迷宮崩壊事件の当日、ランタンを筆頭に不死系迷宮に挑んだ探索者はその後しばらく拘束された。
ありとあらゆる手段を用いて徹底的に身を清められた、魔道による浄化と、薬湯による洗浄、聖水による消毒を喰らった挙げ句、抹香臭い司祭たちに取り囲まれて精神汚染を排除するためとかで聖句を聞かせられ続け、あやうく宗教的に洗脳されるところだった。
ランタンもジャックも、他の皆もうんざりしていた。
風邪を引いたのはその所為だとランタンは思っている。戦いの後、ゆっくりと風呂に入って、食事を摂って、ぐっすりと眠らせてくれたならば、こんな事にはなっていないはずだ。
ランタンが熱を出してからがまた大変だった。探索者は身体の丈夫さが何よりの取り柄だ。病に冒されることは滅多にない。その上あれほど徹底的に身を清めたのだ。
それでもランタンの身体に変調をきたした病は、もしかしたら爆発的に広まり、文明を滅ぼす可能性を秘めている。心配性な誰かがそう考えるのも仕方がないことかも知れない。
ランタンの発病した病気は、伝染性熱紅斑と呼ばれる感染症だった。
主に十歳以下の子供が発症する小児病である。俗称をさくらんぼ風邪というそれは、可愛らしい呼び名とは裏腹に感染力が高く、子供の栄養状況次第ではあっさりと命を奪っていく病である。
一度感染してしまえば免疫が作られ、二度目の発病はほとんどない。この病を乗り越えることを、死神の手を払い除ける、と表現する。子供から大人になるための試練のような物だった。
ともあれ文明が滅ぶような大げさな病ではない。
ランタンはネイリング邸でひたすらに眠っている。
一度熱が下がりかけたのだが、ちっぽけな勲章を貰うために何時間も冬空の下にいたためにぶり返してしまったのだ。
行かなきゃよかった、とランタンはぼんやりと嘯いた。
だが行かなければならなかった。迷宮に未だ残る、未帰還者たちに別れを告げなければならない、とそう思ったからだ。
「眠れなくても目だけでも閉じておきなさい」
シュアがきつく絞ったタオルで額の汗を拭き、氷嚢を乗せた。ランタンが大人しく瞼を閉じるのを見届けてから、一度頬に触れ、部屋を出て行った。
「……」
ランタンはしばらく、そのまま大人しくしている。扉の向こうで足音が遠ざかっていくのを確かめて、ランタンはゆったりと身体を起こした。
外は暗い。まだ三時過ぎだが、ぶ厚い雲が空を覆っている。冷たそうな風が吹いている。
風鳴りが遠い。窓の向こうとこちらが、丸っきり別の世界のようだと思った。この部屋の中だけが世界から切り離されているような、妙な孤独感がランタンを襲う。
「……」
時間の感覚があやふやになったのかも知れない。リリオンと出会ってから久しく感じなかった孤独感だ。
この世界を疑い、自分を疑い、人を疑う。
探索に傷つき一人で身体を横たえた日々は数え切れない。
孤独感は、疎外感と同一だった。
ランタンはベッド脇のテーブルに飾ってある花束を手に取った。それは全てが美しく枯れている。ランタンは鼻を近づけた。いい香りがする。薔薇に似ている香りだが、花の形は薔薇ではない。
これは魔女からの見舞いの品だった。
そう言った見舞いの品が他にも沢山あった。ジャックを筆頭にした亜人族からはからは度数の弱い酒と果物の詰め合わせが届き、半裸女と助けた孤児からは汚い字の手紙が届き、どこからか聞きつけた探索者からは食べ物であったり、武器防具であったり、宝石であったり、いかがわしい物であったりと色んな見舞いの品がランタンの下へと集まった。
「ランタン」
急に呼ばれてランタンはそちらに目を向けた。
「ノックは?」
「したよ」
リリオンがワゴンを押して部屋の中に入ってきた。
「もう、寝てなきゃダメよ。ランタン」
「ずっと寝てるともっと体調悪くなりそう」
「しかたのないランタンね。シーツ替えちゃうから、じゃあ座っていて」
リリオンはこうして何度もランタンの看病に訪れている。発病当日は慌てに慌ててランタンが死んじゃうと泣きじゃくり、徹夜で看病をしようとしたのだが、どんな病気かも判っていなかったので追い出され、それでも諦めきれずにドアの前で眠れぬ一夜を過ごした。
あんな風に泣くリリオンをランタンは初めて見た。
リリオンはてきぱきとシーツを交換する。向こう端にシーツを織り込もうと前屈みになると、自然と尻を突き出すような形になった。丸く形のいい尻は相変わらず小さい。背が少し高くなったから、比率として小さいままなのかも知れない。
「ありがとう」
「いいのよ、好きでやってるんだもの」
頭を撫でるみたいに、ランタンは手を伸ばしてリリオンの尻を撫でた。絹のスカートがすべすべしていて、尻は柔らかいのに張りがある。
リリオンは過去に死神の手を払い除けている。さくらんぼ病のランタンを看病するのに支障はなく、死神の手と違ってランタンの手を払い除けることはない。
リリオンはことさら丁寧にベッドメイキングをして、それからゆっくりと振り返った。
「これでよし。次はお着替えよ。でもその前にお水を飲みましょうか?」
水とは言っても湯冷ましだった。熱くなければ、ぬるくもない。蜂蜜を溶かしてあるのだろう、甘い味がしてランタンは染みこませるようにそれを飲む。リリオンはその間にほかほかと湯気の立つ蒸しタオルや、新しい下着や寝衣を用意する。
ランタンがすっかりと飲み干すと、リリオンがカップを下げ、指の腹で少年の唇を拭った。
「わたしが」
指が顎の輪郭を滑り、瘡蓋を無理に剥がしたような未だ怪我の治りきらない首筋を撫で、鎖骨の間を滑り前合わせを臍まで割り開いた。
「全部してあげるからね」
「半分お願い。ああ、さすがに寒い。さっさと済ませるか」
ランタンは立ち上がり汗を吸って重たい寝衣を脱ぐとリリオンの手から蒸しタオルを奪った。下着から足を抜こうと片足立ちになるとさすがにふらつく。リリオンがそれを支え、ランタンは一糸纏わぬ姿になった。
風呂と一緒だ。抵抗する方が恥ずかしい。
リリオンに背中を拭かせ、ランタンは自分の手で腹側を拭いた。まず顔を、首を、胸をと次第に下へと下っていく。
リリオンは宝石を磨くようにせっせとランタンの背中を拭き、尻を撫でたり揉んだり、内股を撫でさすったりする。真面目に身体を拭こうと思うと、もう片方の手で身体を掴まないといけないからそうなってしまう。
「下着とって」
「はい」
「パジャマも」
「はーい」
リリオンが振り向いた隙にランタンは替えの下着に足を通した。肩にそっと羽織らされた寝衣にも袖を通し、前をぴったりと合わせるとリリオンが抱きつくみたいにして、臍の下で帯を結んだ。
「変な匂いする?」
「ううん、ランタンのいつもの匂いよ」
腕が長いからそんなことはしなくても良いのに、リリオンはランタンの背に顔を押しつけて、腕を前に回す。帯は確りと結ばれているが、リリオンはしばらくそうしている。布地を通してリリオンの息が背中に当たる。
看病のご褒美みたいな物だった。
「汗の匂い? やだなあ、早く風呂入りたい」
「お風呂に入っても、ランタンはランタンの匂いがするよ」
「ふうん。はい、もうお終い」
「……はあい」
リリオンは渋々といった感じで離れた。
「ランタン」
「どうした?」
「ベッドまでいける?」
「行けるよ。でも、運――」
言いきるよりも早くリリオンはランタンの身体を持ち上げた。赤ん坊をあやすように揺さぶり、それからベッドへと降ろし、ランタンの腰元に枕を山積みにして背もたれを作った。色々な物を運んできたワゴンを引き寄せて、鍋の蓋を開いた。リリオンが来てからそれなりに時間が経っているが、真っ白な湯気が立ち上る。中身は粥だった。
「わたしが味付けしたのよ。ふう、ふう、はい、あーん」
「あー、ん。うん、美味しい」
リリオンはランタンの世話を出来ることを、幸せに思っているようだった。せっせとランタンの口に粥を運び、口をもごもごさせているのが愛おしくてしょうがないというようにうっとりとしている。
ゆっくりと時間を掛けて鍋を空にすると、リリオンはランタンの口元を拭き、解熱剤を飲ませる。
腰元の枕から一番良さそうなのを選んでランタンを寝かしつけ、肩の所まで布団を掛けた。
額に手を当て熱を測り、リリオンはランタンの顔を覗き込む。
「ちゃんと寝るのよ」
「わかってる」
「よく眠れるおまじない、してあげるね」
リリオンはランタンに覆い被さる。鼻の頭が触れた。ランタンが視線を逸らした。
「……風邪、うつるよ」
「わたしは、もうしたもの」
リリオンは睫毛を伏せ、ランタンは瞼を閉じた。
「ランタン」
吐息。
「もっと自分を大切にして」
体温。
頬の、唇の近くにリリオンは口付けを落とした。
「おやすみなさい、ランタン」
「おやすみ、リリオン」
ランタンはそのまま目蓋を閉ざし、やがて安らかな寝息を立てる。