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間違いではなかった、という思いもある。
冠竜の突然の出現にも、高速の突進にも、それなりに対応することが出来たのは戦いの中に身を置いてきたからだ。
冠竜に対しての恐怖はほとんどない。迷宮で戦ったあの多頭竜に比べれば身体の大きさも、内包する強さも大きく見劣りする。鬣や鱗の美しさは、人の手によって保たれているものだ。
一方でリリオンの突飛な行動に、あらためて驚いている自分もいる。そう言えばこの子はこういう子だ。
寂しがりめ。
そうだと、知っていた。
知ってなお留守番をさせたのは、それがリリオンのためだとランタンが思ったからだ。リリオンを傷つけたくなかったのか、傷つくリリオンを見たくなかったのか。どちらにせよ、その結果がこれだ。
無茶をさせた。いや、そうでなくても同じ行動を取っただろう。
冠竜は上昇を続ける。
地上がみるみる遠ざかり、空気が薄くなり、肌寒くなる。皮膚の粟立ちは上空に流れる冷気と、人の身では到達することの出来ない高度が足元に広がっているためだった。
怖い、と思う。
落ちれば死を免れない。爆発を用いて減速を試みても、運に頼らなければならないだろう。
冠竜の角を指先に引っ掛けるように浅く掴む。
冠竜はランタンを振り落とそうとして首を振っている。ランタンの身体は大きく揺れるが、角に掛かる指先が柔らかく速度を殺し、暴れる冠竜を乗りこなしていた。
リリオンは冠竜の尻尾に掴まって、右へ左へと振り回されていた。尾は先端から根元に向かって太くなり、細かい鱗が重なっている。リリオンはその流れに逆らうようによじ登っている。
「置いてかないで、ランタンっ!」
その声に驚いたのはランタンばかりではなかった。それまで冠竜はリリオンの存在を気に留めていなかった。己の尾から不意に切実な叫び声が響き渡ったことで、冠竜はその発生源を確かめるべく独楽のように振り返った。
鞭のような加速だった。
「――あ」
太い尾の付け根が尻に巻き付くように弧を描いた瞬間、先端が強烈な破裂音を発して霞んだ。
きらきら光る。
それがリリオンの爪に見えた。違う、剥がれた竜鱗だ。けれどその事実は慰めにならない。
リリオンの身体が空に投げ出された。乱気流に巻き込まれたように錐もみ回転して、きっと上下左右のいずれも認識できてはいないだろう。悲鳴も発せず、まるで無力な人形のように。
大老多頭竜の尾に薙ぎ払われた姿がランタンの脳裏に思い出された。一瞬が永遠のように引き伸ばされる。
お出かけするからと綺麗に編んだ髪が、それを纏めるリボンが吹き飛んで銀が広がる。
冠竜の鬣がぞわぞわと逆立った。
生物の頂点たる竜種が震えた。
圧倒的な気配。遥か地上で竜種たちが騒ぎ出した。
身を守る鱗の全てが吹き飛んで、角も、爪も、牙も、翼も、尾までも、自らが誇る力の全てを失ったように冠竜は感じたのかもしれない。ランタンの気配に、己が背に乗せるものが何かをようやく理解したのかもしれない。
ランタンは角を深く握り直し、鬣を毟るような勢いで鷲掴みにした。
それは魂を握っているようなものだった。
ランタンの物腰は柔らかである。
そうと知らぬ人間からは、まず間違いなく戦いに身を置く探索者だとは思われない。
人見知りから素っ気ない態度を取る事もあるが、年下か、あるいは相手が著しく礼に欠ける人間でない限り、表面上は礼儀正しく、また不和を嫌い、居丈高に振る舞うことは少ない。
そもそもとしてそういった振る舞いは苦手であったし、それが当たり前のことだと思っている。覚えてもいない世界の常識に縛られていると言ってもよかった。
そしてそれに加えてこの世界で最初に教え込まれた言葉遣いも影響している。それに否定の言葉はない。教えられたのは奴隷が主に従うためものだった。
そんなランタンが鬣を指に巻き付け、腕力に物を言わせて冠竜の顔をリリオンへと向けさせた。
「行けっ!」
炎のような声だった。他者の意志など関係なく、触れたものを皆取り込み燃やしてしまう大炎。リリオンを拾い上げるための手段の中で、もっとも可能性の高い一つを当たり前に選んで実行することに迷いはない。
その傲慢さが不思議とよく似合う。
瞳の炎が最短の軌跡に像を残す。
命令は冠竜の意志を燃やす。ランタンの意思のみが冠竜を突き動かしていた。
飛行場で育てられた竜種である。もとより命令されることには慣れている。それゆえの事だったのかもしれない。
人語によって命令を理解したのか、あるいは魔精によってランタンを知ったのか。
「急げっ!」
言葉を待たずして冠竜は命令に従っていた。
リリオンへと釘付けにされている頭部を支点に身体を振って方向転換し、振れすぎる身体を尾を使って制御する。目一杯に広げ空を覆うような巨翼で周囲の大気を背後へと放り投げて矢のように加速した。
角が風を切り裂く。落下するリリオンへ最短距離で向かっていく。
「ら――」
リリオンが声を出した。溺れるようにじたばたと暴れだした。
「ああああああああ」
悲鳴ではない。
リリオンは自らの身体を操ろうとしていた。暴れているように見えるのは、失った空間認識を取り戻すためだ。広がる髪が銀の炎のように揺れる。四方八方に首を振り太陽の位置を探しているのだ。
「んんんんんんうううううう」
「こっち!」
リリオンは迷わず振り向いた。
「たあああああああああああああああああんっ!!」
太陽に向けて伸ばされた手をランタンは掴んだ。同速で、あるいは少しこちらが早く落ちているはずなのに重たく感じる。
「リリオン!」
太股で冠竜の首を挟み、両腕でリリオンを引き上げる。冠竜も首を反らして力を貸してくれていた。落下の軌道も次第に緩やかになっていく。ランタンはリリオンを引き上げて、リリオンは不思議と慣れた様子で冠竜の首に跨がり、ランタンの背中にしがみついた。
「あー、あはっ。びっくりしちゃった」
「こっちは肝が冷えたよ」
リリオンはあっけらかんと言う。死の落下から助かった直後だというのに、助かることを知っていたように平然としている。ランタンの方が疲れたように大きく溜め息を吐き出した。
ランタンは冠竜の頭をぽんと叩き、反省するような、怯えるような小さな鳴き声に苦笑を漏らした。上下関係がはっきりしたからか、冠竜は驚くほど大人しかった。
リリオンは片手でランタンに掴まったまま、ぼさぼさに広がった髪を直そうとしている。
「少し後ろ下がって。ここ凄い据わりが悪い。お尻ズタボロになりそう」
「待って、待って」
冠竜の首は力強く安定しているが、松の丸太に跨がっているようなごつごつとした不快感がある。ランタンが背中でリリオンを押すと、リリオンはよいしょいしょと小さく呟きながら後ろに下がっていく。
「あ、そうだ。リリオン、下に手を振って。心配させちゃったから。声は届くかな、まあいいか」
地上は大慌てだった。世話役たちが駆けずり回っている。人の姿は豆粒ほどだったが、レティシアたちの姿は一目見て判別できる。
「赤は目立つな」
「ランタンも目立つよ。わたし、すぐにわかったわ」
レティシアはカーリーの背に乗って、今まさに飛び立とうとしているようだ。手を振って無事を伝えると、表情も声も届かないが、たぶん安心してくれたと思う。
「ええっと、どうやって降りるんだろう。おい、降ろしてくれ。こいつ、言葉は通じるのか?」
「……――待って! ちょっとだけ、待って」
頭部の付け根から首の付け根辺りまで下がったが、羽ばたきによって肩や背の筋肉が波打ちどちらにしろ乗り心地はよくない。籠はそのためか、とランタンが考えていると、リリオンは強くランタンを抱きしめた。
「どうかした?」
「……二人っきりよ、ランタン」
静かにそう言って、冠竜の翼の付け根を撫でた。
「ねえ、お願い。もう少しだけ飛んでいて竜種さん」
ぐわあああ、と冠竜は鳴いた。
願いを受け入れた合図か、それとも飛行準備の済んだ地上のカーリーに、もう少し待ってろ、と伝えたのかもしれない。
冠竜は大きく旋回を始め、螺旋を描きながら緩やかに高度を上げていく。
「ランタンは最近いそがしいね」
冠竜はやがて上昇を止めた。向かい風を選んで翼を広げる。風を受けて減速し、だが高度を落とす事もない。実際は低速で進んでいる、だがその場にふわりと浮かんでいるだけみたいだった。
「まあ、ほどほどには」
「うそ、うそよ。いつも疲れているわ」
リリオンが腕を伸ばし、ランタンの腹を擦った。
「身体だって薄くなっちゃったし、お風呂は一人で入っちゃうし、すぐに寝ちゃうし。……でもね、それが嬉しい気持ちもあるのよ」
急に話が飛んだ気がする。ランタンは振り返ろうとしたが、リリオンがランタンの後頭部に額を寄せて顔を隠した。大きな深呼吸。リリオンの息が項を撫でた。
「ランタンが頑張っているのは、わたしのためなんでしょう?」
吐息から、音なく笑ったのが感じられた。黒髪を掻き分けて、自らの吐息を追った唇が項に触れる。
「だから嬉しい。でも、……お留守番はさびしいよ」
延髄が痺れるような声だった。寂しさを言葉にすることに、隠しきれない躊躇いが透けて見えた。
ランタンとリリオンは、根っこの所でよく似ている。相手を思い、口を噤む。
リリオンはランタンの身体を深く抱き寄せた。二人の背と胸の間に隙間は少しもなく、互いの心音が溶け合うほどだった。リリオンはそれでも足らぬと言うほどに、もっと強くランタンを抱きしめる。
「ランタンは疲れているから、わたしの胸でおねんねしましょうね。いい子いい子してあげますからね」
「――やめろ。なんだよ、急に」
話が飛ぶどころではない。
ただ甘えてきただけかと思ったら馬鹿みたいに甘やかされて、けれど逃げ場のない上空、竜の背でランタンは露骨に顔を顰めた。あまりにも突拍子がなさ過ぎて、もっと別に言うことがあったような気がするのに、その言葉はどこかに消えてしまった。
「どうして?」
リリオンが面白がるように聞いてくる。
「どうしてもこうしてもないよ。赤ん坊じゃないんだから。……今日はずっとそうだよ。なんなの?」
「うん、ランタンは赤ちゃんじゃないわ。わたしも、赤ちゃんじゃないのよ。……ランタンは優しい、優しいからわたしはどんどん甘えちゃうけど」
リリオンはランタンを抱きしめる腕を少し緩めた。ランタンは腰の据わりを直して背筋を伸ばした。
「怖いことを言われるのも、嫌なことを言われるのもわたしは平気。ランタンはよく言うよね。慣れてるから平気だって。わたしもそうよ。おそろいね」
リリオンは小さく笑った。それはランタンの大人びた苦笑に少し似ている。諦めとも違う、どうしようもない事を受け入れる笑みだった。
「できないこともあるけど、一人で何もできないわけじゃないのよ。お留守番だって慣れてるんだから。……でも、でもでも、でもね。わたし、お留守番は怖くて、さみしい。……ママは帰ってこなかったから」
ランタンはリリオンに背を預けた。
リリオンは全てを吐きだしたかのようにほっと息を漏らし、ランタンにもたれ掛かった。
互いに体重を預けて、支え合った。
リリオンはランタンの肩に顎を乗せ、耳をくっつけて顔を寄せる。
「わたし、いま幸せよ」
「あれはなに?」
「うーん、闘技場かなあ」
「じゃああれは?」
「工場群」
「なにつくってるの?」
「知らない」
遮る物のない世界を眺めると、その広大さと地域ごとの文明の差に驚く。
都市の大きさとその密度、発展の様子。馬車に揺られてきた街道の太さ、車上からはほとんど見つけられなかったのに都市周辺に無数に散らばっている農村に農場、荘園、領主が住んでいるのだろう立派な屋敷や軍事砦。
円形闘技場らしき建造物と周辺に出店の群れ。霞む距離にある工場群はおそらく工業都市で黒、灰、白の煙をもくもくと吐き出している。遺跡みたいな謎の建造物もぽつんぽつんと点在している。
放牧されている家畜の群れに、俊敏そうな鹿に似た動物とそれを追う狼の群れ。
彷徨く獣系魔物の姿もあるし、魔精の枯渇により活動を停止した鉱物系魔物らしき残骸もある。
街道を駆ける騎士団一行と、その先にある黒子みたいな穴は都市外に発生したギルド管理外の迷宮だ。農園の近くに発生していて、あってもなくてもいいような柵で囲われている。
濃い霧に白む森、帯のような大河、赤い砂漠、黄金ではない湖、切り立った山々、積もる雪。
「あっちは、あれはたぶんおじいさまが黒竜を倒したっていう山脈だね。あんなの壁じゃん。竜種の巣があるって言うけどよくわかんないな」
巨人族ですら削ることの出来なかった竜種の山脈。それは大陸を横断し、その頂は竜種の背に乗ってなお見上げなければならない。冠竜が遠慮がちに鳴いた。もしかしたら故郷なのかもしれない。
「地面は丸いのね。あっちの方、坂になってる」
「太陽とか月もそうでしょ、まん丸。北は向こうか、リリオンの故郷は、――さすがに見えないね」
北方へと目を凝らしたが、氷の大地は見えなかった。リリオンは眩しそうに太陽を見上げた。
一体どれ程の距離を旅してきたのだろうか。地図でその最短距離に線を引いたことはある。だがその距離を実際に目にすると何だかくらくらしてしまう。真っ直ぐ進めたわけではないし、障害が何もなかったわけでもない。
その距離はリリオンがただの、何も知らない子供のままでいることを許しはしなかったのだろう。リリオンの無邪気さが失われなかったことが奇跡に思えるような。
「僕さあ、夢を見たんだよね」
「どんな夢?」
「こうして、竜種の背中に乗って、リリオンと空を飛ぶ夢。あはは、現実になっちゃったよ。正夢だ」
雲と同じ高さ、青空の中、太陽の下。
リリオンの体温を感じると、上空の冷たい風すらもが心地良い。
高さの恐怖が、そのまま身の軽さに置き換わったような。
このままどこまででも行けそうな、自由な気分だった。
「わあ、うれしい! ほかには、ほかにはわたしは出てこなかったの?」
「出てこないね。あんまり夢って見ないし、そもそも覚えてないし」
「ええー、わたしはね、いっぱいいっぱいランタンの夢を見るのよ」
「それは、聞いてもいい夢?」
「うん! えっとねえっとね、ランタンをぱくって食べちゃう夢とか」
「……それは夢だけにしておいて」
リリオンはぱくっとランタンの耳を甘噛みした。
「食べる所なんてないよ」
のんびりと冠竜の背に揺られていたら、冠竜とは別の竜種の羽ばたきが聞こえた。
カーリーに鞍がつけられレティシアとリリララが騎乗している。手綱を取っているのはレティシアで、リリララは主の腰に掴まっている。そしてカーリーよりも遅れてベリレがやって来た。
馬の騎乗ほど、竜種の騎乗には慣れていないのだろう顔が強張っている。
「降りてこねえから心配してんのに、落ちついてんじゃねえよ」
「無事で何より、冠竜も落ち着いたようだな」
ランタンは首元を撫でてやった。
冠竜は雌で卵を産んだばかりらしい。けれどそれが孵ることはなく、それでも温め続けた卵を世話役が取り除いたのは冠竜があまりにも哀れだったからだ。精神的に不安になっていたことは、襲いかかってきた理由の一因だろう。
竜種の知能の高さゆえ、いや、どんな生物でも子を失えば哀しむのだろう。たぶん、そういうものなのだ。
それはそうあって欲しいというランタンの願いだったのかもしれない。
「この子、お母さんだったのね。今度はきっと大丈夫よ、ランタンにはご利益があるんだから」
「ないよ」
「わたし、知ってるのよ。ランタンに踏んづけてもらうと運気が上がるのよ。お尻に敷いてもらったら、きっともっといいことがあるわ」
「ないです」
「今度、一緒にお仕事行く時は、その前にわたしのこと踏んでね」
「いやだ」
「どうしてよ、リリララさんからちゃんと聞いたんだからね。色んな人を叩いたり踏んだりしてるんでしょ」
「してない。――どういうことです?」
ランタンがじっとりとした視線をリリララの方へと向けると、リリララは視線を逸らして舌打ちをした。
レティシアはからからと笑っている。
「踏むんじゃなくて蹴ってもらうといいんだよな。私も蹴ってもらおうかな」
「おーおー、そうしてもらえ。そんで不敬罪で首切りにしちまえ。ったくよう、もう――」
リリララは顔を顰めて、リリオンと目配せを交わした。顔は怒っているが、赤錆の瞳が穏やかで優しい。
「言いたいことは言えたか?」
「うん!」
「そうか、そりゃよかった。言わなくていいことも言ったみたいだけど」
「ううう、だってえ」
リリオンを助けてくれる人は多くいる。下手に声を出せば、声が震えてしまう予感があった。
レティシアやリリララに、そして屋敷に訪れるエーリカにもリリオンはランタンのことを相談していたようだった。そしてミシャにも。
ミシャとの間を取り持ったのはリリララだった。
「まあ、なんだ。あんまり心配してるから、お前のこと見に行ったら、なんかいたからよ。あいつ、お前のことよく知ってるみたいだったし、心配してるみたいだったし」
「それは、その、お手間を――」
「手間ではないよ、ランタン」
レティシアが手綱を操りカーリーを寄せた。広げた翼の端が重なり合うほどに。
「相談に乗ったり、頼ってもらったり、心配したりすることは手間じゃない。リリオンよりもちょっとだけ素直じゃない分、もどかしくはあるけどね。ふふふ、まあ女は女同士、男は男同士の方が言いやすいこともあるのだろうが」
ベリレと思春期みたいな会話をしたことを知られているのかもしれない。ランタンは斜め後ろを飛んでいるベリレを振り返った。ベリレの騎乗する竜種はカーリーの尻を追いかけて、尾の先で鼻を打たれていた。
「言ったのか?」
「おあっ、なにが!? ちが、どうどう! はあ、今、話しかけるな!」
「なんで来たんだよ。っていうか、そいつシドさんのか?」
「なんで知ってるんだっ? ああ、やめろ!」
ベリレは竜種を乗りこなす事にのみ集中している。ともあれベリレが微妙に恥ずかしい話を自ら口にしたわけではないようだった。
だとするとやはり、よく聞こえる長い耳を持つリリララが盗みを聞きして、告げ口したのだろう。
「つーかランタンてめえ、こいつに寂しい思いをさせてまで戦ってんのに、くそダセえ真似してんじゃねえよ!」
リリララが大声で怒鳴った。一つ文句を言ってやろうと思っていたランタンは先制されて、面食らい言葉を失った。体勢を立て直す間もなく、リリララは続ける。
「ギルドに何言われたか知らねえけど、戦うお前はもっと自由なはすだろ」
横目でランタンを睨み、もどかしく、拗ねるように吐き捨てた。
リリララはレティシアの髪を指に巻いた。レティシアはされるがままにしている。
「ギルドの事は」
「エドガーさまから少し聞いた。エドガーさまもエドガーさまだよ。こいつが相談してんのにお前のことは放っておけって。あいつはどうせ言うことを聞かんって」
「エドガーさまには、エドガーさまなりの考えがあるんだ」
「うるせっ!」
エドガーを庇ったベリレが一言で潰されてしょげている。ランタンへの怒りがいつしかエドガーへの苛立ちに変わり、リリララは憤然としている。
指に巻かれる髪の量がどんどんと増えていた。
ここしばらくのランタンの戦いは色々なしがらみがあり、ランタンはそれに絡め取られていた。他の探索者とそれなりにうまくやろうと思ったのは、不和を嫌う自らの性格以上に、彼らに好ましく思われたい気持ちが強かったからだ。
探索者に認められ、いざという時に、自らの言葉を聞いてもらうために。
その試みがうまくいかなかったのは、その打算と下心が悟られていたからかもしれない。
リリオンを留守番させてよかった、と心の底の方で思う。きっと戦場では気が付かぬうちに、みっともない姿を見せてしまっていたのだ。侮られる原因の一つだ。
「リリララさん、ありがと」
「……なにがよ?」
「リリオンのこと心配してくれて」
「――姉貴分みたいなもんだからな同じリリ同士」
「おねえちゃん!」
「あー、うるせえ、うるせえ」
「おい、髪を引っ張るなよ。お姉ちゃん」
レティシアにまでからかわれてリリララはがっくりと俯く。そして馬鹿馬鹿しくなったみたいに鼻で笑った。
「お姉ちゃんがいっぱい居ていいね、リリオンは」
「なら、わたしのことおね――」
「呼ばない。そういや司書さまは最近見かけないなあ、テスさんもあの日以来……」
「あの日って? わたしも会いたい、ランタン、ギルドに連れて行ってくれないし」
「それはごめんって。でも部屋を覗いてもいないんだよね、怨み買って闇討ちとかされてないといいんだけど」
「――あっ!」
リリララが急と顔を上げ、レティシアが淑女らしからぬ悲鳴を上げた。リリララの指から紅い髪が解ける。
「そうだ、どっかで見たと思ったらテス・マーカムだ。たぶん。姫さんの所にいた二本差し。……まあ、だからどうしたって話だけど、あの腕なら近衛に引き抜かれてもおかしくねえし」
胸のつかえが取れたとでも言うようにリリララは独り言みたいに呟いて、レティシアの背を慣れ慣れしく叩く。髪を引っ張った事を誤魔化している。
そしてランタンの腹の虫が鳴り、それを合図にするように竜種たちはゆっくりと高度を降ろしていく。
「お弁当の中身は何?」
「えっとね、えっとね。ローストビーフでしょ。コロッケでしょ、お芋のと、蟹クリームの。それに卵とチーズのバゲットに、ターキーサンドでしょ。あと温かいスープも、玉葱とベーコンの。他にもね、ランタンが好きなもの、いっぱい作ってきたよ!」
「本当? でもリリオンの作ったのならなんでも好きだよ」
「んー、もうっ、ダメよ、甘やかさないで! えへへ」
黄金の湖の畔に料理を広げて腹を満たし、竜種に餌付けをして、竜種の正式な騎乗方を教えてもらい、皆で竜籠にのって遊覧飛行をして、また鞍をつけた冠竜の背にも乗った。
ネイリング騎士団の隊長になるためには騎竜術も要求されるようで、ベリレはこれがまだまだ未熟であるようだ。ランタンもリリオンも、乗りこなすと言うよりは冠竜に乗せてもらっているという感じだった。それでもベリレよりもましに見えたのは、ベリレの騎乗するシドの竜種が曲者だからだった。
リリララ曰く発情竜らしい。
そしてお土産に名物であるらしい牙蛙の黒焼きと姿干しを買った。人が食べてもいいが、竜種を含む肉食の愛玩動物への土産らしい。
帰りはカーリーの竜籠に乗り、けれど帰りの景色は見られなかった。
遊び疲れて眠ってしまったのだ。
ランタンの頭を膝の上に乗せ、リリオンはその重みに微笑みを抑えられない。
都市上空の、特に迷宮特区上空の飛行や都市内への着陸は事前申請が必要になり、それこそドゥアルテほどの大物でなければなかなか許可は下りない。カーリーは都市郊外に着陸すると、レティシアに手綱を引かれて徒歩で都市へと入った。
なるほどそれならば上空飛行でも、着陸でもない。とは言ってもそれは貴族限定の裏技の様なものだったし、そもそも竜籠を使えるような身分は限られている。
中庭でカーリーの囀りを聞きながら、昨日の弁当の残りを朝食代わりに摘まんだ。
パンが少し乾燥してしまっていたので、たっぷりのバターで焼き直した。しっとりとしたローストビーフを何枚も重ね、新鮮なレタスとトマト、ホワイトチーズを足し、甘みと酸味の強いマスタードでアクセントをつけたホットサンドだ。スープは昨日の具がない代わりに大きめのロールキャベツが真ん中に鎮座していた。
「……うううう」
竜種は身体が大きいので囀りが低音で、それが遠雷のように小さく響く。どことなく心を落ち着かせる音色だ。だがそれに混じっていかにも不満そうな、ぐずぐずとして、甘ったれた唸り声も聞こえてくる。
リリオンがテーブルの向かい側で、椅子を使わずしゃがみ込み、顔の鼻から上半分だけを覗かせて睨みつけてくる。淡褐色の瞳は隠そうともしない不満で塗り潰されており、嫌がらせのつもりかがたがたとテーブルを揺すってくる。
邪魔くさい。
「うそつき」
ランタンはそれを無視しながら、料理を腹に詰め込んでいく。腹も減っては何とやらだ。何せこれから戦場に赴かなければならない。最近の習慣であると同時に、寝耳に水でもあった。
ギルドからの招請があったのだ。それはほとんど招請とは名ばかりの強制徴用に近いものだったが。
リリオンがテーブルの下を潜って、ランタンの傍までやって来た。
「食事中にそういうことしない」
注意をしてもお構いなしで大型犬みたいにランタンの太股に顎を乗せて、待てをされたように恨めしげに見上げてくる。ランタンが食べかけのホットサンドを差し出してやると、リリオンは反射なのだろうそれを受け入れた。
もぐもぐと口を動かしながら恨み言を漏らす。
「一緒って、言ったのに。グランさんの所行くって言ったのに」
「厳しくして欲しいんでしょ?」
「そういうことじゃないでしょ! もー! もうっ!」
犬じゃなくて牛だな、と思う。リリオンはもうもうと鳴いている。
ランタンは指先のパン屑を払うと、少女の頭を優しく撫でた。角が生えていない事を確認するように。
「ごめんね。ま、すぐ終わらせるからさ。それまでカーリーと遊ぶか、先にグランさんの所行って待っててよ」
ランタンはリリオンを宥めるが、リリオンの機嫌は直らなかった。
「朝からいじめてるなよ。そんな一方的な呼び出し無視すりゃいいじゃねえか」
メイドの装いをしたリリララが温かな紅茶をカップに注いだ。そっと注ぎ口の滴を拭い、琺瑯のポットをランタンの頬に押しつけてきた。
「熱い、熱い! 苛めてないですよ、仕事なんだから仕方ないでしょう」
「仕事、仕事、仕事。ったく、これだから男って奴は」
ポットをどんとテーブルに置いて、カップに角砂糖を二個放り込み、ランタンの前に滑らせた。そして他人が居ないのをいい事にランタンの隣に深く腰掛ける。メイドに似つかわしくないごつごつとした軍靴を膝に乗せ、頬杖を突いた。
「で、本音は?」
リリララはランタンの食べさしを横取りして、赤錆の視線を細める。
「どんなものか見てみたいってのが一つ。わざわざ僕を呼び出すんだし」
ランタンは招請状をぺらぺらと揺らした。
それは未攻略高難易度獣系大迷宮の迷宮崩壊戦への呼び出しだ。魔物の大量出現と、最終目標の出現が予想されている。大規模戦闘となる確率が高い。戦場となる区画も広げられて、動員される探索者の数も五十を超えて、甲種探索者も複数含まれるようだ。
戦力としては充分だろう。
そこにランタン一人を足す理由が知りたかった。
「もう一つは、何事も初めが肝心だから」
ランタンは悪戯に口角を持ち上げる。逃げ出したと思われても癪だ。
「最後の一つは、ほら、僕って極めて素直じゃないですか。おじいさまが人の言う事を聞かないとか言ってましたけど、そんなことはないってところを見せつけてやろうかと」
ランタンが悪魔みたいに甘く微笑むと、リリララは呆れた。言う通りじゃねえか、とぶつくさ呟いている。
「……じゃあわたしの言う事も聞いてよ」
「聞いてあげてるじゃん。だから厳しくしてるって――」
「もーっ!」
「うわあ!」
リリオンが怒って突進して、ランタンは椅子ごと後ろにひっくり返った。ランタンは背中を打ちつけて顔を顰め、けれど腹に顔を埋めるリリオンをあやすように叩く。
「いてて、――寂しくはないでしょ? お姉ちゃんがいるんだし、ねえ――?」
ランタンは寝転がったままリリララに視線を向けて、咄嗟に目を逸らした。足を組んでいるせいでスカートの中が丸見えだ。柔らかそうな膝の裏と透ける血管。椅子の縁に押し潰されて形を変える不健康なほど色の白い、健康的に引き締まった太股。
朝っぱらから目に毒だ。
自分の動体視力が恨めしかった。
リリララは立ち上がり、むしろ見せつけるようにランタンの頭上に仁王立ちになり、固く目を瞑る少年の顔を見下ろす。その顔は悪戯に笑っている。
「許してやるよ。お前は特別だ。その代わり、みっともない真似はするんじゃねえぞ」
「――了解」
ランタンは身体を起こし、しがみつく腕から脚を引き抜き、寝転がるリリオンの背を尻に敷いてやった。
機嫌は直らなかった。